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2025年3月7日金曜日

ニューオーリンズ・トライアル

『ニューオーリンズ・トライアル』(2003年)

Netflixで『ニューオーリンズ・トライアル』を観た。
 
元々は2003年の上映でもう随分前の映画だ。いわゆる法廷もの。 法廷で争われる争点は銃乱射事件における銃の製造会社の責任についてだ。いわゆる米国社会の銃規制問題がテーマだ。ただし、物語は、銃器メーカーに雇われた陪審コンサルタントであるフィッチと陪審員に潜り込んで陪審員をうまくコントロールしていくイースターの陪審員を巡る駆け引きが描かれている。要は「陪審員を売ります」と取引をもちかけるイースターと自分たちの力で陪審員を取り込んでいけるとするフィッチの争いだ。そして、最後にイースターの動機が明らかになって物語は結末を迎える。

米国の銃問題は今も続いている。銃を規制したい人たちと銃を所有したい人たちの争いが今も続いている。なぜ米国人は銃を所有したいのかは、かつて日本の侍が刀を武士の魂と言ったのと似ている。武器を所有することで自由を侵害する敵に武力で立ち向かえるようにするという米国憲法修正第2条もそれを後押ししている。だから米国人にとって銃は米国人の魂なんだろう。しかし、その銃の所為で銃乱射事件などあまりにも多くの人が命を落としている。代償があまりにも大き過ぎると私には思える。

この映画は米国の銃規制問題を考える上で欠かせない作品だと思う。米国の銃問題が解決しない限り、思い出したように何度も観たい映画だ。



2025年3月5日水曜日

新幹線大爆破

『新幹線大爆破』(1975年)
 
Netflixで『新幹線大爆破』を観た。最初は全部見るつもりはなくて何気に見始めたのだが、見始めると面白くなって最後まで見てしまった。後で知ったのだが、キアヌ・リーブス主演の映画『スピード』(1994年)の設定のモチーフにもなったらしい。
 
高倉健が主演で、倒産した零細工場の元社長で主犯を演じている。共犯には過激派くずれの男、沖縄出身の青年があてられていた。また、新幹線の運転士を千葉真一、運転指令長を宇津井健が演じていた。
 
緊迫する運転指令長を宇津井健がなかなか良い味を出していた。高倉健が演じる犯人が金を奪った後、妙に垢抜けた感じに変わっていたのは不思議だった。金を奪うまでは倒産した町工場の社長でつなぎの作業服なんか着ていたのが、金を奪った後はゴルゴ13風のちょっとだけ小洒落た雰囲気に変わっていた。でも、最後の場面などは、当時高倉健は人気があったんだろうなというのが分かった気がした。
  
ともかく、新幹線は近代日本の象徴のひとつなんだろうなあ。


2025年2月15日土曜日

阿修羅のごとく

『阿修羅のごとく』(2025年)
 
Netflixでドラマ『阿修羅のごとく』を観た。全7話だった。
 
原作は向田邦子で、NHKで1979年と1980年にパート1、パート2としてそれぞれ放映されたらしい。今回は是枝裕和監督で再びドラマ化されたものだ。
 
内容的には竹沢家の四姉妹の物語だ。四姉妹の父・恒太郎の浮気を知った四姉妹がスッタモンダする話が前半で、後半は母・ふじが亡くなった後の話で、次女・巻子の夫への疑心暗鬼や長女・綱子の不倫騒動や、三女・滝子の恋愛や四女・咲子の夫の浮き沈みの話で、最後は四姉妹がなんやかんやで団結する話だった。ストーリー的には他愛のない話に私には感じられた。NHKで公開された当時は現代ドラマだったのかもしれないが、今、再ドラマ化された本作を見ると1979年頃の歴史ドラマのように感じられる。そう、今、このドラマを見る意味は、歴史ドラマとして、当時の日本を垣間見るという意味で意義があるように思う。
 
ちなみに、日本では歴史ドラマというものはあまり存在しないかもしれない。NHKの大河ドラマが歴史ドラマに相当するかもしれない。しかし、昨今の大河ドラマは歴史ドラマというにはあまり当時を反映しているとは思えない。まあ、その代わり『映像の世紀』のような素晴らしい歴史ドキュメンタリーがあると言えるのかもしれない。ちなみに、私が好きな歴史ドラマは英国貴族の物語『ダウントン・アビー』だ。他にもデヴィッド・スーシェ主演の『名探偵ポワロ』なんかも歴史ドラマとして見られる一面があると思っている。ポワロ自身はいつの時代も60代で歴史に沿ってはいないのだが。また、ジェレミー・ブレット主演の『シャーロック・ホームズの冒険』も歴史ドラマの一面が垣間見られる場面も少しあると思っている。そう、私が良いなと思うのは、近代から現代へ移り変わる時代の風景を垣間見られるのが大変良いと思うのだ。そして、このドラマで昭和54年頃の日本の風情が感じられるのだ。
 
 さて、本作は是枝裕和監督が撮った作品なので、家族をテーマにした作品でもある。四姉妹のそれぞれの生き方、家族としての生き方が描かれている。親子や夫婦の生き方が描かれている。また、是枝監督作品の『海街diary』と似ていて、白菜を漬ける場面や障子を貼る場面など日本の風情が描かれている場面があったりする。家の中が物でごちゃごちゃしていて生活感があったりもする。そういったものも見どころかもしれない。
 
ただ、一番の見どころとしては、女優さんたちの演技かもしれない。宮沢りえ、尾野真千子、蒼井優、広瀬すずの演技が大変素晴らしい。私などは、宮沢りえは写真集『Santa Fe』の頃の初々しかったイメージがあったので、内野聖陽との不倫の演技や着物姿での振る舞いなどは演技派女優になったものだと驚きで目を見張った。他の三人も大変すごい演技で、日本の女優の演技力は凄いと改めて思った次第だった。
 
余談になるが、ちょっと気になったのは、この作品に仏壇って出てただろうか? 私が子どもだったこの頃はどの家にも仏壇があったように思う。他所の家に遊びに行くと、仏壇があってその家のお婆さんが手を合わせてお祈りして、線香を上げたり、チーンと輪を鳴らすのが常だった。お供え物のお菓子をその家の子どもが食べたりしてたりしてそれが普通だったらしい。私は仏壇に馴染みが無かったので、他所の家の仏壇はとても不思議に感じたものだった。
 
さて、原作の向田邦子は名前だけはよく聞いていたけれど、どのような人物かはあまり気にかけたことはなかった。ざっとネットで調べた感じでは、元は出版業界にいたようで、世事に長けていたのかもしれない。あるいは集めた陶磁器を前にした写真もあったりで趣味人の一面もあったり、シックな黒い洋装やモダンなスーツを着ている感じからもモダニストだったのかもしれない。このドラマからは、当時の女性の自立を描こうとしていたのかもしれないし、大家族から核家族へ向かう家族のあり方を描こうとしていたのかもしれない。もちろん、女性の情念も描こうとしていたのだろう。向田邦子はエッセイも書いていたようで、日本の女性エッセイストの草分けは清少納言だから、清少納言の系譜のようでもあるし、女性趣味人というと白洲正子を連想するし、商社マンの男性の描き方を見ると、中年男性を描かせたら右に出る者がない観察力の鋭い高村薫を連想する。彼女は51歳で飛行機事故で亡くなってしまったらしく、その後の成熟が見られなかったのは残念だった。
 
 
 

2025年1月18日土曜日

THE FIRST SLAM DUNK

『THE FIRST SLAM DUNK』 (2022年)
 
遅ればせながら『THE FIRST SLAM DUNK』をNetflixで観た。
 
まず、本作について語る前に、 『スラムダンク』と私の出会いだが、1993、4年頃だろうか、TVアニメで見始めたのが始まりだった。そして、TVアニメが面白くて、TVアニメが終わった後も週刊ジャンプの連載をできる限り読んだような気がするが、忙しくなって途中で読めなくなったような気がする。でも、最終話あたりは読んだ気がする。あるいは、連載が終わった後で単行本で読んだのかもしれない。なので、完読したわけではないが、おおまかなストーリーは知っている。この『スラムダンク』があまりに面白かったので、井上雄彦氏の作品はできるだけ読まねばという考えになっていた。そのため、『リアル』や『バガボンド』などを読み始めたりしたが、いずれも忙しさなど様々な理由で途中で読めなくなったように思う。とにかく、氏の作品は通常の娯楽として楽しむ漫画とは別格の面白さがあった。
 
さて、本作についてだが、山王戦がメインストーリーである。その一方で、サブストーリーとして宮城リョータの物語にもなっている。メインストーリーの山王戦が進む中でサブストーリーの宮城リョータの物語が織り込まれている。いや、織り込まれているだけでなく、山王戦後の後日譚まで宮城リョータの物語が描かれているので、どちらがメインストーリーか分からないほどになっている。
 
なお、『スラムダンク』といえば、湘北vs海南戦、湘北vs陵南戦、湘北vs山王戦が大きな柱だと思うが、なぜ山王戦かというと、山王戦はまだアニメ化されていなかったので、2022年になってようやくアニメ化したのだと思う。
 
また、登場人物たちの声優さんが一新されていたので、TVアニメのファンたちからはいろいろと物議をかもしたかもしれない。また、絵柄もTVアニメの頃の2次元ではなく、3Dが加わったものになったのでリアリティが違ったものになっていたと思う。結果、TVアニメと本作ではずいぶん雰囲気が違ったものになっていた。

感想としては、3Dになったために、バスケットボールの臨場感が増していたと思う。一瞬の瞬発力や緊迫した瞬間の場面など3Dによって表現力が抜群に増していたと思う。アクションの場面は立体化されることで深みが増して、リアリティの迫力が増すということなのだと思う。

そして、サブストーリーである宮城リョータの物語については、個人的にはあまり興味が沸かなかった。兄ソータを失った家族の物語。残された家族たちのそれぞれの想い。それなりに感動できる話ではあるけれど、個人的にはそれほど好きというわけではなかった。メインストーリーである山王戦に殊更必要な話だろうかという気もしている。映画化したので、単なる試合だけ見せたのでは物語として深みが出ないから、そこに深みを与えるためにあえて設えたような物語なような気もしている。ただし、宮城リョータをサブストーリーの主人公として描く理由が一つだけあったと思う。それは「どんなに辛かったり、どんなに怖かったりしても、平気なフリを装う」という教訓を作者は伝えたかったからだと思う。

『スラムダンク』はさまざまな教訓を生み出してきたと思う。そのひとつに、安西先生の「諦めたらそこで試合終了だよ」というのがある。三井寿が安西先生から受け取ったこの教訓は多くの人たちの心に響いたと思う。私も仕事で何度も挫けそうになったとき、安西先生のこの言葉を思い出して、諦めずに最後まで力を振り絞ってきた。もちろん、上手く行かなかったこともあるが、諦めずに最後まで力を振り絞ることで仕事を成功に導いたこともあった。この言葉に何度も救われたのだ。心が折れそうになったとき、安西先生が現れて「諦めたらそこで試合終了だよ」と語りかけてくるのだった。このように『スラムダンク』は単なる漫画を超えた、教訓をもたらす物語でもあったのだ。そして、本作では、そのような教訓として「平気なフリをする」というのが作者が本作で最も伝えたかった教訓だと思う。だから、山王戦後の後日譚で、沢北と対戦する前に宮城がトイレで緊張で吐きそうになりながらも、コートに出てきたら余裕の笑みを見せつつ闘志を燃やして沢北に立ち向かっていくところで作品が終わったのだと思う。作者はどのような人生を歩んできたのかは知らないけれど、彼の紡ぎ出す教訓はなにかしら戦いの経験から生み出された、貴重なリアルな実戦から生み出された、血の教訓、頭で考えただけとは違う、心と身体を通した得た、リアリティのある教訓だと思う。だからこそ、多くの人びとの心を捉えるのだと思う。
 
山王戦を終えた後、母と再会したリョータに対して母は「背伸びた?」と問う場面がある。インターハイの間だけで背が伸びるなんて「そんなわけねえだろ」と答えるリョータだが、この場合、身長が伸びて大きく感じたわけではなく、山王戦という戦いを経た後で人間的に成長したのを母は感じたのだと思う。人間として”器”が大きくなったように感じたのだと思う。大昔から男は死と直面するような冒険を経験することで大人の男に成長するものだ。例えば、狩猟採集時代の加入礼がそれに相当する。加入礼に参加した若者は死に直面するし、実際に加入礼で死ぬ者もいた。加入礼を終えた若者はそこで生まれ変わって大人の男として社会に認められるようになる。(そのため新しい名前を与えられたりもする。日本の元服もそれに相当する。)リョータも山王戦という怖気づいてしまうような強敵との戦いを通して大きく成長したのだと思う。そして、その恐怖と直面したときにも、内心どんなに恐怖で震え上がっていても「平気なフリをする」というのは戦いから逃げずに立ち向かっていく上で大事なことなのだと思う。そして、それを乗り越えたとき、ひとは成長するのだと思う。もちろん、成長したからといって恐怖心が去るわけではない。やはり、NBAのリョータのように成長してもトイレで吐きそうになるような恐怖心が襲ってくるだろう。しかし、大人になったリョータは逃げずに立ち向かっていくだろう。大人の男とはそういうものだ。
 
ただ、本作は原作を読んでいないと楽しめない部分もあると思う。初めて『スラムダンク』を見るひとは面白さが半分しか伝わらないように思う。そこはテイストを大人っぽくした分、損なわれたものになってしまったと思う。ただ、映画という限られた時間の中では、元々、それは仕方ないかもしれない。原作を忠実に描くには時間が短すぎる。
 
ともかく、これで『スラムダンク』は完結した。海南戦、陵南戦、そして、この山王戦がようやくアニメ化された。私の好みとしては海南戦が一番好きなのだが。桜木花道が怪我をする山王戦はあまり好きじゃない。というのも、花道には最後まで元気でいて欲しかったからだ。けど、怪我というリスクを描くことも教訓として大事かもしれない。そして、この『スラムダンク』が日本人だけじゃなく、韓国人や中国人、台湾人など多くのひとの心を捉えたことに感動した。この作品の面白さは世界的な面白さだったんだと気づかされた。日本が生み出した漫画の素晴らしさよ!
 

2013年11月12日火曜日

SF映画ベストテン

こちらに影響を受けて私もSF映画ベストテンを選んでみました。

ただ、SF映画の基本を選ぼうと考えたために、どうしても古典的な作品となってしまい、どうも古臭いものになってしまったかもしれません。それから、既に既存ではあると思いますが、以前からSF映画に限らずSF小説も含めたSFジャンルの分類というのをもう少し明確にできるのではと思っているので、そのうち自分なりのSF分類表みたいなのを作ってみたいと思っていますが、とりあえず、今回はそれぞれの作品がどのジャンルに該当するかを私なりに考えてみて書いておきました。

下記が私の選んだSF映画ベストテンです。

1.『マトリックス』
2.『スターウォーズ』
3.『ブレードランナー』
4.『タイムマシン』
5.『A.I.』
6.『2001年宇宙の旅』
7.『ソラリス』
8.『時計じかけのオレンジ』
9.『ガタカ』
10.『CODE46』

1.『マトリックス』

ジャンルはサイバーパンクに分類されますね。SF小説でいえばウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』に相当するでしょうか。この作品が優れている点はバーチャル世界とリアル世界の2つを分けたこととコンピュータの世界もマトリックスというソフトの世界とマシンシティなどのハードの世界の2つに分けたことだと思います。IT革命によって現代の私たちはコンピュータを身近なテクノロジーとして肌身を通して感じることができるようになりましたが、それをさらに拡張して想像させてくれたのが、この『マトリックス』だと思います。人類にとって21世紀の幕開けはコンピュータ時代の幕開けでしたが、その最も象徴的な作品だと思います。それから、映像がクールであることも優れた点でありますが、それ以上に作品に込められたラナ・ウォシャウスキー監督の特異な思想も優れた点として上げることができます。彼(女)の特異な思想とは、60年代のカウンターカルチャーの最良の部分が込められた思想だと思います。考えてみれば、コンピュータは、元々、ヒッピー文化が生み出したテクノロジーでもありますから、コンピュータとカウンターカルチャーが結びつくのは自然なことではあるんですけどね。シリーズ第3作の『レボリューションズ』が分からないという人もいるかもしれませんが、すぐには分からず後になって分かる、あるいは一生分からないかもしれませんが、それでも、とりあえずは「見ておけ!」という作品です。それだけ、この作品は奥が深い作品なのです。

2.『スターウォーズ』

ジャンルはいわゆるスペースオペラ(冒険活劇)で、この『スターウォーズ』はその決定版といえる作品です。ライトセイバーというレーザーの剣を振り回して戦う姿はとてもカッコイイです。そして、フォースという超能力が純真な少年の心にはとても魅力的に映りました。私は1978年に初めて『スターウォーズ』を見たとき、劇場でのけぞりました。ハン・ソロ船長のミレニアム号が光速で発進したとき、星々の光点がワッと伸びて本当に驚いて座席でのけぞったのです。とても衝撃的で今でもよく覚えています。さて、子供だった私はこの『スターウォーズ』ほど「SFとは何ぞや?」というのを意識させられた作品はありませんでした。冒頭に未来ではなく昔の話というテロップが流れたり、太陽が2つあったり、宇宙人がヒト型以外の様々なタイプがあったりとSFの可能性をこれでもかと思い知らされました。それまでの日本の作品にはそういうのはありませんでした。私にとって『スターウォーズ』はSFの洗礼を受けた作品ですね。それから、この『スターウォーズ』にも先程の『マトリックス』と同様にカウンターカルチャーの要素が込められています。それはヨーダに代表されるジェダイの騎士の思想です。ジェダイというのは時代劇の“時代”に由来する命名だそうですが、ルーク・スカイウォーカーの着ている服も柔道着のような合わせ着を着ているように東洋思想が大きな影響を与えています。つまり、カウンターカルチャー経由の東洋思想がこの『スターウォーズ』には込められているわけです。例えば米国のコンピュータの本などを読むと本の片隅に格言などが書かれていたりするのですが、それがヨーダの言葉だったりするときがあります(笑)。コンピュータのエンジニアにとってヨーダの言葉はほとんど東洋思想と同じ意味に捉えられているのかもしれませんね。スペースオペラの決定版としてこの『スターウォーズ』は外せない作品だと思います。

3.『ブレードランナー』

 
 
ジャンルはアンドロイドものになると思います。原作はかの有名なフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』ですが、作品自体はリドリー・スコット監督によってとてもスタイリッシュなSF映画に仕上がっています。原作では本物の生物か人工物かや憂鬱な夫婦関係で主人公は悲喜こもごもがあるのですが、映画ではアンドロイドと駆け落ちするというロマンティックな終わり方になっています。レプリカントか人間かを判断するフォークト=カンプフ感情移入度測定法なる手法がとてもユニークでした。いわゆるチューリング・テストです。ディックの作品は数多く映画化されていますが、ディックの小説自体、パルプマガジンという安っぽい三文小説雑誌に掲載されていたものが大半ですので、まあ、チープなストーリーが多いです。その中でこの『ブレードランナー』は異色でとてもスタイリッシュな作品に仕上がっていると思います。なお、ディック自体は決してチープな作家ではなくて、『聖なる侵入』や『パーマー・エルドリッチの3つの聖痕』など優れた作品を残しています。この『ブレードランナー』を入り口としてディック作品を読むことをお薦めします。なお、ディックのエッセイ集『ラスト・テスタメント P・K・ディックの最後の聖訓』もお薦めです。これを読むとディックもけっこうカウンターカルチャーの影響を受けているのがよく分かると思います。まあ、LSDもちょっぴりやったりしていますからね。

4.『タイムマシン』

ジャンルは時間旅行ものになりますが、本作は単なる時間旅行ものというだけでなく、SFの父H.G.ウェルズの代表作にあたります。SFにとって記念碑的な作品ですし、人類社会の未来に想像を広げるというSFの基本といってよい作品だと思います。さて、映画のストーリーは最初は事故死した恋人を救うために時間を遡行しますが、どうしても彼女の死の運命を変えることができません。そこで今度は未来に行くことで運命を変えられるのではないかと模索し始めます。しかし、未来でも運命を変える答えは見つからず、むしろ人類が文明によって滅び行く姿を目撃します。滅びの惨事に巻き込まれて、さらに遠い未来へとたどり着いた主人公はそこで2つの種族に分化した人類に出会います。2つの種族とは食人種と被食人種です。主人公は被食人種に味方して食人種をやっつけます。そして、主人公は彼らと共に新しい人類の未来を作る生活を始めて物語は終わります。この作品には人類の行く末や文明批判、科学の限界などが込められていてSF作品の基本中の基本だと言っていいと思います。古いからといってダメではなくて、古くても優れた古典的名作だと思います。

5.『A.I.』

ジャンルは人工知能あるいはロボットものです。SF版ピノキオ物語のような作品です。人間に酷使され迫害されたロボットの悲劇のようですが、時間が経ち、遥か未来ではロボットがすべての能力において人間を上回っているという皮肉な結末が極めて秀逸で辛辣でした。公開当時、前評判のわりには人気が無かったのですが、私は見て大変気に入った作品です。多くの観客は人工知能に人間が超えられたということに気づかなかったのだと思います。さて、物語は人間のために一生懸命に尽くして働いたロボットたちが理不尽な迫害にさらされるという話が詰まっています。子供を難病で失った母親を癒やすために使わされたこども型ロボット、セックスの相手を務めさせられるセクサロイド、その他、人間のために働くロボットたち。しかし、人間からは仕事をロボットに奪われたと逆恨みされて鬱憤を晴らすためにロボット狩りという理不尽な迫害で次々と壊されていったりします。ロボットよりも人間の方が野蛮で危険です。人間の母親の愛を求めたロボットはいつしか海底でエネルギー切れで眠りにつきます。そして、遥かな時が流れ、彼を発見する者が現れます。それは見たこともない高性能なロボットでした。彼らはこども型ロボットに触れるだけで経験(=記憶)をロードすることができます。しかも仲間たちも手をつなぐだけで記憶を共有することができます。人間とは違って正確に経験を追体験できます。彼らはこども型ロボットを彼らの基地に連れ帰ります。ところで、地球はすでに間氷期を過ぎ、氷河期になっています。どうやら人類たちは滅亡してしまったようで地球は高性能ロボットたちによって管理されているようです。基地に帰った高性能ロボットはこども型ロボットの幸せを検討します。しかし、彼ら高性能ロボットの技術をもってしても人間の再生は一日しか達せられません。そこで一日だけこども型ロボットと再生させた母親に楽しい一日を過ごさせて、夜、眠りにつくときにこども型ロボットを永遠の眠りにつかせるようにします。つまり、高性能ロボットは単に能力が優れているだけでなく、人間性という面でも人間を上回った優れた存在になっているのです。かつてアニメ『伝説巨神イデオン』の中で主人公コスモが「俺たち、出来損ないの人類」という言い方をしていましたが、まさに優れたロボットによって人類は凌駕されてしまう日が来るのかもしれません。今のままの人間、進化しないままの人間では、今以上に優れた存在にはなれないのかもしれません。

6.『2001年宇宙の旅』

 

ジャンルは人類進化ものですかね。ただ、映画自体は宇宙空間をリアルに描いた作品として有名になったのではないかと思います。それとモノリスという謎の物体が大きかったと思います。ストーリーとしては猿がモノリスに触れて知恵をつけて人類へと進化し、さらに木星探査でモノリスに触れて人類からスターチャイルドへと進化を遂げるという物語です。モノリスが生物の進化に極めて重要な役割を果たしています。モノリスは生物に知性を与えるものなのか、それともモノリスが生命を生み出したのか。生命の起源の話であり、生命の行き着く果ての話です。それから、モノリス以外にも話題になったものがあります。それはコンピュータです。IBMを一文字ずらしたHALがそうです。コンピュータが人間に逆らう話です。もっとも真実はプログラムされた命令に原因があったのですけどね。ともかく、ロボット三原則に少し触れた感じです。それとラストシーンでボーマン船長が体験する超常体験も有名です。あの映像体験は一体何なのか、今もってよく分からないかもしれませんが、60年代に流行したサイケデリックカルチャーにおけるLSD体験に近いのではないかと言われています。この映画に深みを与えているものがあるとすれば、それはこの謎の映像体験があるからだと思います。SF映画ファンは必見の作品です。

7.『ソラリス』

 

ジャンルは異生物ものです。また、異知性ものでもあります。これらのジャンルは地球生物と異なる生物と出会い、人間の知性とは異なる知性とどうコミュニケーションをとるかという問題を持っています。この『ソラリス』は惑星という巨大な形を取りながら、底知れない超知性と超物理的な能力を持った知性体なのです。似たような異知性の異生物を描いたものとしてSF小説の『ブラッド・ミュージック』のバイオロジックスやアニメ『交響詩篇エウレカセブン』のコーラリアンがあります。『戦闘妖精雪風』のジャムも同様だと思います。私たちは生物や知性というものを地球生物や人間の知性を基準にして考えがちです。しかし、そうではない、それとはまったく異なる生物や知性を想像してみることによって、それらの可能性が大きく広がるのを感じることができると思います。私たちが知り得たことなど、宇宙と生命の神秘から見ればほんの僅かな細やかなものに過ぎません。「人間よ、奢るなかれ」と戒められているようで身が引き締まります。あるいは、改めて広大な宇宙や自然の神秘に触れて畏怖と憧憬の眼差しを再び取り戻すかもしれません。人知を遥かに超えるものとして私たちはついつい神を想像しがちですが、神へ辿り着くもっと手前に、人間よりも遥かに優れた知性を持つ異生物というものがあるかもしれません。私たちは神にお目見えする前にまず異知性の賢者にまず会ってコミュニケーションをとってみなければなりません。


8.『時計じかけのオレンジ』

ジャンルはディストピアです。テーマは暴力と性ですね。ただ、ディストピアものでよくある全体主義国家の管理者社会とは少し違いますね。例えば典型的なディストピアのSF小説と言えば、『われら』や『すばらしい新世界』や『1984』がありますね。ですが、この『時計じかけのオレンジ』は暴力と性がテーマで、原作とは違って映画ではあまり管理者社会というのは前面には打ち出されていないように感じられます。とはいえ、ルドヴィコ療法というような矯正がなされるところは管理社会的ではありますが・・・。ともかく、この映画は主人公アレックスの凶暴さにひたすら嫌悪感を感じる物語になっています。観客の方が主人公アレックスがルドヴィコ療法で瞼を剥いて無理やり映像を見させられるのように、この映画の目を背けたくなる映像を無理やり見せられているような気分になってきます。「一体、スタンリー・キューブリック監督は何を言いたくてこの映画を撮ったのか?」と首を傾げてしまいます。しかし、そこは鬼才スタンリー・キューブリック監督ですからちゃんとした意図があると思います。そこで補助線として『カッコーの巣の上で』という映画を引き合いに出します。管理主義の婦長に反抗した主人公マクマーフィーはついにロボトミー治療によって生気のない廃人のようになってしまい、憐れに思ったネイティブアメリカンのチーフは彼を窒息死させて彼自身は精神病院から脱走します。反逆児マクマーフィーも管理社会によって牙を抜かれてしまうというのが、ディストピアの1つの結末と言えると思います。一方、西欧社会とは違う育ち方をした、いわば自然児のチーフは脱走することでこの管理社会から脱出します。管理社会によって精神的に殺されないようにするためには文明社会からドロップアウトするしかないのかもしれません。ともかく、マクマーフィーとチーフの2つの選択肢があるわけです。ここで『時計じかけのオレンジ』に話を戻すと、主人公アレックスはこのいずれにも属しません。彼は管理社会によって牙を抜かれるどころか、逆にますます悪くなっています。ディストピアにおいては悪しき者はより悪しくなる、ということかもしれません。ディストピアは悪を矯正するどころか悪を助長するのかもしれません。ある意味、人間性を喪失してロボットのようになるよりも、もっと悪いかもしれませんね。

9.『ガタカ』

 

ジャンルは遺伝子ものでしょうか。テーマはチャレンジ精神や青年の思想ですね。遺伝子で出生が決まる近未来社会。両親の予定外の情交によって生まれたヴィンセントは先天的な弱点を抱えている。彼の夢は宇宙飛行士になることだが、不適正な遺伝子のために宇宙飛行士への道はあえなく潰えてしまう。しかし、ヴィンセントは諦めずに違法行為の別人のなりすましによって、まんまと宇宙局に入社する。そして、様々な血のにじむような努力を重ねた結果、ついには宇宙飛行士になる。映画の中でヴィンセントが弟のアントンと遠泳競争をしますが、危険を顧みずチャレンジしたヴィンセントが弟アントンを打ち負かしてしまいます。遺伝子を人間の意志の力が超えた瞬間でした。この危険を顧みずに新しいことにチャレンジする精神は青年の思想なのだと思います。宇宙開発にはこの向こう見ずな青年の思想が根底にあると思います。遺伝子ものに話を戻すと私が面白いなと思ったのはアニメ『機動戦士ガンダムSeed』です。遺伝子操作で生まれたコーディネーターと遺伝子操作を加えずに自然に生まれたナチュラルとの間の戦いが描かれています。人間は自らに手を加えることで今以上に優れた存在になろうとするかもしれませんね。少なくとも寿命を延ばすことで学ぶ時間を増やせるかもしれません。ただ、頭が良くなるかどうかは分かりません。例えば遺伝子操作でいくら脳というハードウェアの性能をアップしても、所詮、コンピュータの計算能力には敵わないでしょう。むしろ、脳というハードウェアをコンピュータに代えた方がより性能がアップするかもしれません。いえ、いっそ人格もプログラムでもっと良くなるように書き換えた方が良いかもしれません。ということは遺伝子操作で人間の性能をアップするよりは最初から人工知能で優れたものを作った方が良いものができるかもしれません、上記の『A.I.』のように。まあ、でも、ともかく、遺伝子によるSFはまだまだ開拓の余地はありそうです。

10.『CODE46』

 

ジャンルはナノマシンです。いえ、正確にはナノマシンは重要な要素ではあるのですが、ナノマシンそのものがこの作品の主要テーマになっているわけではありません。ですが、ナノマシンも今後のSFにおいては欠かせない重要な要素だと思いますので、あえてこの作品をトップ10に入れてみました。ナノワールドという意味では『ミクロの決死圏』を入れても良かったのですが、『ミクロの決死圏』だと単なるミクロの世界での現実であって、ナノマシンのように人工的に作られたマシンという意味合いが薄くなってしまいます。やはり、ナノの世界にまで人間の手が及んできたというのを意識するためには、単に極小の世界というだけでなく、ナノマシンに触れないわけにはいかないと思います。それと、近未来社会の世界像としては、ここで描かれたような世界がわりと典型的になるのではないかと思えます。『ブレードランナー』のような繁華で猥雑な都市の世界像というのもあるでしょうが、むしろ、この映画で描かれたような都市と見捨てられた郊外という関係が今後の文明社会では最もありそうな気がします。まあ、『トゥモロー・ワールド』まで行くともう少し終末観がありますが。ともかく、ディストピアでもユートピアでもない、あるいはディックのような猥雑な世界でもない。描かれている世界は管理社会というほどではないにしろ、とはいえ、様々な背後には完成されたシステムが人々を捕らえているような世界です。そこにはロマンの入る余地はないのです。しかし、私たちは自ら望んでそのような世界を作ったのです。自ら望んで作った世界に私たち自身が縛られているというジレンマ、抜け出せなさがあります。SFではディストピアとして未来社会に警鐘を鳴らしてきましたが、現代社会から敷衍したとき、自分たちが作ったシステムからの抜け出せ無さが今後の課題になるかもしれません。さて、ナノマシンに話を戻すと、SFにおけるナノマシンはどのくらい可能性があるかは分かりません。もしかしたら、そんなに大して可能性はないのかもしれません。しかし、予断は禁物です。科学は今まで私たちの予想を大きく上回ってきました。ナノマシンだってどんなに大きな可能性があるか分かりません。今後、ナノマシンでどのくらい大きなセンス・オブ・ワンダーを巻き起こせるか、大いに期待することにしましょう。

以上が私が選んだSF映画トップテンでした。

それから、トップ10から外した作品の中にもなかなか捨てがたい作品があります。例えば、『スタートレック』などは『スターウォーズ』と対をなすスペースオペラのもう1つの決定版と言えると思います。それなのになぜトップ10に加えなかったのかというと、私の不勉強で私が『スタートレック』についてあまり詳しく知らないからです(爆)。それとスペースオペラは1つあれば十分かもと考えたのも理由の1つです。それから『猿の惑星』も外しました。10位くらいにランクインさせようかと随分迷ったのですが、今回は外しました。『トゥモロー・ワールド』も終末観がこれまでにない斬新さがありましたのでランクインさせようかと迷ったのですが、『CODE46』に似たような要素もあるかと思い、これまた今回は外しました。ええと、それから、日本のアニメもあえて外しました。SFアニメというジャンルで言えばSF映画にも勝るとも劣らない優秀な作品が日本のアニメ作品にはあると思っています。『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』が『マトリックス』に多大な影響を与えたことを考えてみても分かると思います。しかし、あくまでSF映画という範囲に限定することにして、今回はあえてアニメは外しました。『伝説巨神イデオン』や『交響詩篇エウレカセブン』や『戦闘妖精雪風』などはSFとしてもなかなか面白い作品だと思っています。いずれSFアニメ・ベストテンがあれば、そのときに検討したいと思います。そのほか『マニトゥ』や『吸血鬼ゴケミドロ』とかも面白いので、ちょっと考えたのですが、やっぱり外すことにしました。


今回、SF映画ベストテンを選んでみて、ジャンルとしては、けっこうオーソドックスなジャンルをバランス良く選べたんじゃないかと思っています。取り上げたのはサイバーパンク、スペースオペラ、アンドロイド、時間旅行、人工知能、人類進化、異生物・異知性、ディストピア、遺伝子、ナノマシンです。あ、でも、入れ忘れたジャンルもあるかもしれませんが。それとSFというのは神話と似ていて、神話が過去のことを扱うのだとしたら、SFは未来のことを扱っているという違いかもしれません。神話がこの世界の成り立ちや物事の起源を説明するのに対して、SFは神の正体や人類の行く末を描いたりすることが多いと思います。ベクトルが過去に向かうか、未来に向かうかの違いだけで、探求していることは神話もSFも同じなのかもしれません。はるか昔は子どもたちにこの世界のことを教えるのに神話を使って説明していたと思います。しかし、現代ではそのような神話で子どもたちにこの世界の成り立ちを説明する大人は少なくなったと思います。これからは真面目に科学的な諸説を用いて説明することになるかもしれませんが、聴いている子どもたちはそれでは味も素っ気もなく退屈してしまうかもしれません。そういう意味ではこれからは物語の形式を用いてSFで子どもたちにこの世界について教えることになるかもしれませんね。

それから、SFはジャンルによってそれぞれのジャンルの問題系というのはおおよそ定番になっているものがあると思います。ですから、しっかりとジャンルによる分類を行い、そのジャンル毎に定番的な問題系をリストアップしておけば、おおよそSFの全体像というかSFの地図が掴めるかと思います。また、SFの新作が出ても、SF的にはその作品の新しいところ、あるいは、逆にすでに提示されている問題の1つのパターンに過ぎないなど明確に分類分けできるのではないかと思います。もちろん、すでに既存の問題系だとしても作品としての面白さはまた別の話でよくあるSFであとうとも、面白い作品というのは出てくる可能性はあるので、必ずしもSFジャンルがSFの面白さのすべてだというわけではありません。しかし、やはり、そういったジャンル分け、マップがあれば便利だと思いますので、そういうジャンルとマップがあれば良いのになあと思う次第です。ちなみに意外と自由国民社の総解説シリーズから出ている『世界のSF文学』が私的には良かったですね。



2013年11月10日日曜日

新房昭之『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』

 
新房昭之監督・虚淵玄脚本の『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』の感想を書きます。

以下、ネタバレになります。


あらすじは、まず、ほむらが故意に心を閉ざして心的空間に仮想世界を構築します。その仮想世界はまどかが存在する世界でその中でほむらはまどかたちと暮らしています。ひと言で言えば、いわゆる夢を見ている状態です。物語はこの夢の中で夢とは知らずに暮らしているほむらの視点で始まります。ほむらはいつものように魔女を退治して暮らしていましたが、次第にその世界の不自然さに気づいてゆき、その世界が現実の世界でないことに気付いてゆきます。そして、巴マミと闘ったりするなど葛藤を経た後、ほむらはその世界が夢の世界であり、その夢は自分の夢であることに気づきます。その結果、ほむらは本当はまどかがいないことを再認識して絶望して、いわゆる魔女になってしまいます。本来ならまどかが神になった後の世界では魔法少女が魔女になることはありませんが、ここはかつての世界に擬した仮想世界なので魔女になることも可能です(*1)。そのとき、神まどかがほむらの救済に降臨してきます(*2)。ところが、実はこの瞬間をこそほむらは待っていたのでした!夢の中のほむらは絶望して魔女になりますが、この世界を作った現実のほむらはそれすら予想してこのことを計画していたのです。では、現実のほむらの真の狙いは何でしょうか?ほむらの真の狙いは神まどかと接触することで神まどかから人間まどかの情報を抜き出すことだったのです。そうやって抜き出した人間まどかの情報を、今度は人間ほむらの存在の上に上書きすることで人間まどかを復活させることが真の狙いだったのです。その結果、時間遡行により世界はほむらの狙い通りに書き換えられました。書き換えられた世界では、本来なら転校してくるのはほむらのはずだったのですが、まどかの人間情報が存在ほむらに上書きされたので、転校してきたのは人間まどかでした。つまり、ほむらの願い通り、人間まどかは復活したのです。しかし、それではほむらはどうなったのでしょうか?ほむらはまどかが存在することと引き換えに、もはや人間としては存在できなくなりました。では、今、目の前にいるほむらは何者なのでしょうか?実は目の前にいるほむは人間ではなく、悪魔なのです。つまり、ほむらは悪魔となってしまい、現実世界では悪魔の化身としてしか現れることができなくなりました。さらにまどかは神の断片であるために、ともすれば天に還ろうとしてしまいます。ほむらは人間まどかをこの現実世界にとどめるためには物質世界への執着をまどかに促さなければならなくなりました。それはまるで執着心を誘う悪魔の囁きに似ています。こうして神と悪魔は完全に隔たってしまいました。しかも神と悪魔はいずれ対決せざるをえない日が来ることの予感を残します・・・。

以上のように、ほむらはまどかを愛するがゆえにまどかを人間として復活させ、その代償としてほむらはまどかとは再び一緒に暮らせない、神と悪魔として完全に隔てられてしまうという、ほむらにとっては最大の不幸を背負うことになったのです。自分は最大級の不幸になっても愛する者の幸せのために犠牲になる、それがこの物語に描かれたほむらの愛の形です。

さて、ここからは少し余談の話をします。

この物語を見ると悪魔、すなわち堕天使サタンについて思い起こしてしまいます。堕天使サタンは元々は天使長ルシファーでした。しかもただの天使ではなく、天使の中で最も位階の高い天使であり、最も神に近い天使でした。天使の中でも知恵と力が最大の最強天使であり、神の最も良き理解者でした。しかし、そのルシファーがなぜか天界を追われ、堕天使サタンになってしまうのです。ルシファーが堕天使となってしまう理由は諸説あるようですが、特にこれといって定まった説があるわけではないようです。そういう意味では、この『叛逆の物語』はほむらがまどかを愛するがゆえに人間まどかの復活の代償に堕天使となってしまうという、ルシファー堕天使説の1つとして面白く見ることができると思います。アダムとイブに仕えるのを不満としたためにルシファーは堕天使となってしまったという説よりは、神を愛するがゆえに神の断片を人間として復活させるために悪魔に身を貶めるというほむら堕天使説の方が情緒があってなかなか味わい深いものがあると言えるかもしれません。

それから遮蔽されたソウルジェムという構造が私には興味深かったです。というのも私は旧約聖書の次のような一節を想起したからです。
神は闇をもて己れの隠処となし給う。
まわりを取り巻くは、深き水の暗さと大空の密雲のみ
しかし、その闇の中は内的光に満ち溢れているという構造です。つまり、一見、暗黒の黒雲に閉ざされたように見えても、その黒雲の中は光に溢れているというものです。まあ、この節は存在の原初の神の姿を描いたものですが、ほむらが悪魔となったその姿も表面は暗黒雲に覆われてはいるものの、その核にはまどかへの愛という光が溢れていると考えれば、堕天使論としてはなかなか面白いなあと思います。

それと似たような表現に漫画で岡野玲子の『陰陽師』があります。おそらく、ここでは魔王サタンに相当する物質の王(=大物主?)のことを言っているのだと思いますが、以下に引用します。

真の闇に光はない
真の闇を進むのに手に光を持つ必要はない
自らの光を覆い隠し鎮々と降りる
私の内なる光はいかなる闇にも溶け込むことはない
私の内なる光は罔両を焼き尽くす
嵐のように横暴な太古の闇 生命を生み出す豊潤な花開く闇
闇の闇・・・ 根の根・・・ 底の底
結晶体のごとき純粋な闇に我が根を結び
私は闇に君臨する
私の姿は堅く覆い隠されている
私は闇を行軍する戦車
私は大地の底深く結合する隠者
闇の世界で私の顔を見る者は焼滅する
覆いの中は晴明そのものだからだ
ゆえに私は堅く瞑し、肌のすべてを覆い隠す
私は夜行する新月
あらゆる死が私の前に
あらゆるはじまりが私の後に
闇に棲まう罔両は私の降下夜行する様に凛然とし震えあがる
私は根の根 底の底・・・ 星の種に着床する
すべての種子は闇の中で発芽する
闇が物質を生み出すのだ
闇の中でおれの存在が父として必要ならば
身を解き放ってすべての父になろう
存在が必要でないなら、おれは堅く押し黙って小さな種のままでいよう

それぞれ岡野玲子『陰陽師』第11巻から部分的に抜粋しました。とても詩的であり、地の底の魔王や物質の王など悪魔や魔というものについて考えるのにとても良い豊かなイメージを喚起してくれると思います。昨今、とかく悪を単純に悪いものとして徹底的に攻撃して叩き潰してしまう風潮が強いですが、悪というものを深く考えるとなかなかそう単純には割り切れないものがあると思います。悪の哲学なんていうのもありますし、悪と美はけっこう深い所で結びついていたりもします。ちなみに岡野玲子は作品の中ではそれを粋美と言っています。いろいろな意味で悪を単純化せずに少し掘り下げて探ってみるのはけっこう有意義なことだと思います。

さて、それから、今作におけるキュウべぇですが、TV版では『ファウスト』におけるメフィストフェレスのような役割でしたが、今作ではやや趣きが変わって、メフィストというよりは、科学(=サイエンス)といった面が強くなったと思います。まあ、TV版でも科学であったと言えばそうなのですが・・・。ただ、今回はキュウべぇはハッキリと敗北を認めていると私には思えました。というのも、愛というものに対する無理解を露呈しましたし、人間の不合理な情愛からは手を引くとまで言っているからです。これは科学の敗北だと私には思えました。それと神とキュウべぇの力関係はアーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』のオーバーマインドとオーバーロードのような差に思えました。超科学のキュウべぇも超越神のまどかには到底およばないのではないかと。「観測さえできれば神をも捕捉できる」とキュウべぇは言っていましたが、果たして実際のところそうだったのかどうか私には疑問です。いや、まあ、こんなところで物語に反抗しても仕方ないのですが(笑)。不確定性原理では運動量と位置は同時には観測できませんので、果たしてキュウべぇに神まどかを正確に観測できたかどうか疑問です。とはいえ、キュウべぇ自体は科学よりも、より進んだ超科学であるとするなら、もしかしたら可能だったのかもしれませんが。しかし、もしキュウべぇがまどかにとって代わって神となってしまえば、エネルギーを収集するという欲望も必要性も無くなってしまうと思うのですがね。神は何も望まなくてもすべての存在が神のもの、いや神そのものなのだから。

随分、突拍子もない話に脱線してしまいました。ところで、物語とは直接関係のない、アニメの表現としても、この作品はとても面白い作品だと思います。抽象的・前衛的な表現で闇に落ちた魔女などよく象徴的に表現していたと思いますし、素早いアクションシーンなども迫力良く、よく描いていたと思います。私は素人なので正確には分かりませんが、もしかしたら、けっこうコストがかからずに描けたのではないかと思ったりもします。アニメ製作的に製作コストはどうだったのかちょっと気になるところです。もし、この推測が当たっていたならば、低コストでも良質な表現が可能だという良い事例になるのではないかと思います。

さて、ともかくも、この作品はほむらの愛がとても切ない愛だというのが最大の見せ場なのだと思います。自分を犠牲にしてでも人間まどかを復活させるという愛。まどかへの愛が最も強いにも関わらず神と悪魔として二人は永遠に引き裂かれ、さらに深く愛しているにも関わらず神と悪魔として戦わねばならない運命に陥るというのがとても切ないラブストーリーなのだと思います。TV版では善悪二元論だった世界がまどかが神になることで善一元論になる世界でした。この新作『叛逆の物語』では善一元論の世界になぜ悪魔が存在するようになったかを描いた物語だと言えると思います。そして、この世界が終わるとき、すべてが終わるとき、まどかとほむらはやっと出会えるのでしょうね、きっと・・・。


(*1)実際にはソウルジェム内の暗黒物質を外部に漏らさないように閉じ込めた為らしいですが、魔法的な理屈の辻褄合わせはあまり気にしなくて良いと思います。

(*2)実際には閉じられた内部からもまどかは使者を使って救済の手を差し伸べています。本来なら何者も閉ざされた内部に侵入することは不可能なはずですが、外壁を飛び越えて閉じられた内部に侵入できるのは神だからなせる技なのでしょう。

2013年7月29日月曜日

宮崎駿『風立ちぬ』

 

宮崎駿監督の『風立ちぬ』の感想を書きます。


この物語を2つのパートに分けて考えます。1つは堀越二郎と菜穂子との愛の物語というパートです。もう1つは堀越二郎と戦争との関わりというパートです。なお、いつものことですがネタバレ全開で書きますので映画をまだご覧になっていない方はご注意下さい。また、今回は物語を忠実に追って作品分析するというよりは物語の周辺を埋めることで物語に託された意味を浮かび上がらせるといった分析になるかと思います。この映画を見た人たちの反応や映画には描かれていない当時の時代背景を引き合いに出すことによって映画の内容を浮き彫りにできればと思っています。そういう意味では、あまりネタバレにならないかもしれません。なお、こういった映画に描かれていない背景を引き合いに出すやり方は主観的な捉え方になってしまうかもしれません。そう言われても仕方のない面があります。なぜなら歴史的な史実に基づいた作品の場合、純粋に物語そのものを捉えるというのは難しい場合があるからです。どうしても作品を見る者が記憶している歴史認識に作品の印象が無意識に左右される恐れがあるからです。もちろん、史実に基づいた作品であっても純粋に物語分析できる作品もあるとは思いますが・・・。いずれにせよ、その辺りの主観的か客観的かの判断は読者の個々の判断にお任せします。

では、まず、二郎と菜穂子の愛の物語について解説します。二人の出会いは汽車の中で関東大震災に遭遇したことがきっかけでした。付き人の女性がケガしたのを手助けした二郎に菜穂子は恋します。そして、偶然再会して二人はたちまち恋に落ちて結婚します。しかし、菜穂子は病気に侵されていました。結核でした。当時、結核は死の病でしたので菜穂子が助かる見込みはほとんどありませんでした。二郎は設計の仕事があり、菜穂子を看病するだけの十分な時間はありませんでした。結局、菜穂子は療養所暮らしで二郎は設計の仕事に従事する毎日でした。しかし、二郎への想いが積もった菜穂子は療養所を抜け出して二郎の下宿に押しかけます。二郎は菜穂子の想いを汲んで一緒に暮らします。一緒に暮らすといっても二郎は大半の時間を仕事に費やし、菜穂子も多くは病のために寝て暮らします。二人一緒の時間はごく僅かでした。しかし、二人にとって菜穂子の生きている時間は限られているので、ありふれた日常生活とはいえ二人はできるだけ充実して生きようとします。二人はこのごくありふれた日常の瞬間を実はかなり真剣に生きたのでした。

さて、この愛の物語の捉え方ですが、現代の日本人には2つの見方があるようです。1つは人道的見地から見た二郎に対する批判です。その批判とは「二郎はなぜもっと菜穂子のために時間を費やさなかったのか?」というものです。もっと菜穂子の病気の看病をしたり、菜穂子のために何かしてあげたりしなかったのかというものです。これに対しては菜穂子の気持ちになって考えると二郎のとった行動が理解できると思います。菜穂子は二郎に看病してもらいたかったでしょうか?あるいは、二郎に菜穂子のために何かしてもらいたかったでしょうか?おそらく、菜穂子はそのようなことは望まなかったでしょう。菜穂子の望みは少しでも夫の二郎に尽くしたいというものではなかったでしょうか?夫のために何か役立ちたいというのが菜穂子の願いだったのではないでしょうか?では、なぜ菜穂子は夫にとって病身の自分が邪魔になると分かっていながら二郎の下宿におしかけたのでしょうか?それは二郎に会いたい、二郎と一緒に暮らしたいという強い想いがあったからです。二郎への愛と言っていいでしょう。二郎を愛するがゆえに二郎と一緒に暮らしたいと強く願ったから迷惑をかけると分かっていながら、どうしてもその気持ちを抑えきれずに二郎の下宿におしかけたのです。読者によっては、なぜそれを我慢できなかったのかと問われるかもしれません。しかし、菜穂子の病気のことを考えれば菜穂子の気持ちが分かると思います。菜穂子の結核は助からない病気です。もし、このまま療養所にいれば二度と二郎と一緒に暮らせないまま自分は死んでしまうかもしれない。そう考えると一緒に暮らせるチャンスは二度とないかもしれない。その焦りから彼女は二郎の下宿に押しかけることを決意したのだと思います。そして、ある程度、二郎と一緒に暮らして満足したため彼女は療養所に帰って行きます。これ以上一緒にいては迷惑だろうし、病身の醜い自分を愛する二郎に曝け出すのも憚られたのかもしれません。そして、何よりも、いわゆる「もう思い残すことはない」という心境に達したからだと思います。菜穂子も二郎もこの想いは共有していたでしょう。二人は愛し合った夫婦だからです。二郎は技術者であるために感情があまり表に出て来ませんが、おそらく、二人ともそういった想いを十分に心の裡に秘めていたと思います。なぜなら妹の加代と下宿の黒川夫人が菜穂子が療養所に帰ったときに二人で大いに悲しみますが、そのときの二郎と菜穂子の心境が描かれなかったことでかえって二人の想いが加代と黒川夫人以上に深かったのだと分かると思います。二人は心の深い深いところで想いを共有して強い絆で結ばれていたのだと思います。以上のように考えれば、現代人が二郎のとった行動に対して非人道的だという批判は当たらないと思います。ただし、見方を変えれば、現代の日本人というものは、昔と比べれば、随分、人道的になったと私などは思います。というのも、二郎を批判する現代日本人は二郎の仕事よりも菜穂子の人命の方を重視するという思想がその奥底にはあるからです。古いタイプの日本人なら妻の生命よりも仕事を重視する人はけっこう多くいたのではないでしょうか?また、そういった夫を理解する妻も多かったのではないでしょうか?かつて企業戦士と言われた頃の日本の家庭は仕事至上主義があったのではないかと思います。それが今では二郎が仕事ばかりすることを批判するようになったのですから、日本人のヒューマニズムも随分と進歩したと思います。

さて、話を戻しましょう。今度はもう1つの見方について考えましょう。もう1つの見方とは死に対する捉え方です。現代日本人は死を出来るだけ遠ざけようと努力していると思います。ところが、すでに上で解説しましたが、二郎と菜穂子はそうではなくて、ほとんど死は避けられないものとして死を覚悟していたと思います。療養所を抜け出した場合、菜穂子の寿命は短くなるかもしれません。しかし、それも覚悟の上で彼女は二郎に会いたい一心で療養所を抜け出してきます。菜穂子と二郎にとって死は避けられないもので、避けられないのなら、せめて生きている時間をできるだけ充実したものにしたいというのが彼らの願いだったと思います。ところが、現代日本人はそうは考えないようです。寿命延長を何よりも最重要と考えて、できるだけ菜穂子が長く生きられるように対処すべきだと考えているようです。二郎が菜穂子の寝床のそばでタバコを吸うシーンがありますが、多くの現代日本人は二郎に対して批判的です。菜穂子にタバコの煙で不快な思いをさせているだけでなく、さらに言えば、菜穂子の身体に悪いのは明らかであり、もし菜穂子の溶体が悪くなったり、寿命が縮まったりしたらどうするんだ、という批判があるわけです。ここにはごくありふれた日常生活を充実させるという二人の想い、しかも、その裏には日常生活を充実したものにさせるために生命を賭けているという覚悟があるのですが、そういった想いに現代日本人は思い至ることなく、単に何よりも優先する寿命延長至上主義的な考えから現代日本人は二郎を批判するのです。そう、現代日本人はかつての日本人が持っていた死は避けられないという死生観が決定的に欠けているのです。おそらく、現代日本人は日常生活の中から死というものを遠ざけてしまったために死に対する考えが劣化してしまったのだと思います。現代日本人は生き物を殺すという場面に接することが極端に減ってしまいました。肉は切り身の状態でパッケージされてスーパーマーケットの商品棚に並んでいるだけで、実際に家畜が屠殺される場面を見ることはありません。また、家族の死も自宅で見とることはなく、多くは病院や介護施設で死んで行きます。死というものに接する機会が昔に比べて限りなく少なくなってしまったのです。そのために、現代日本人は死に対する考えが決定的に劣化してしまったのだと思います。死を覚悟している二郎と菜穂子の生き様がいまひとつ理解できないのもそういった死に対する考えの浅さに由来しています。ところで、私は古いタイプの人間なのだと思います。なぜなら、この結核を患った妻との愛の物語は私には昔からよくある物語に感じられたからです。言い換えれば、わりとオーソドックスな物語に感じられました。ですので、この愛の物語自体に対して特に高くも評価しませんし、逆に低くも評価しません。かつてはよくあった物語だなあというのが私の正直な感想です。むしろ、この物語を理解できない現代日本人に私は時代の変化を感じて感慨深く思ったくらいです。

以上が二郎と菜穂子の愛の物語に対する私の感想です。

さて、今度はもう1つのパートについて言及します。堀越二郎と戦争との関わりです。これについては作品はややボンヤリと描いています。明確に戦争に賛成・反対の立場では描かれていません。時代に翻弄される個人という観点で描かれているわけでもありません。一生懸命飛行機作りに励む二郎の背景から戦争との関わりが薄っすらと感じ取れるといった程度です。そこでここでは堀越二郎の立っていた立場と彼とはまったく違う立場の人たちを対比することでもう少し明確に二郎と戦争との関わりを浮かび上がらせるようにしたいと思います。まず、最初に堀越二郎についてです。堀越二郎は航空機の設計技師という、今で言うエリートエンジニアに相当します。東京大学の航空学科の超エリート校出身で、これまた超一流企業の三菱重工に就職します。そこで零戦などの戦闘機の設計に携わります。映画では、裕福な家庭で育ち、ただただ飛行機に憧れて、飛行機を作らんがために勉強して大学に入り、卒業して会社に就職したら、時代は戦争で戦闘機を作らざるを得なかったという経緯のようです。私が気になるのは果たして彼に戦争責任があったのか、あるいは、彼自身が戦闘機を作ったことに対する罪の意識が戦後になってあったのかという点です。この問いを問う前に言っておきますが、私は「単純に彼に戦争責任があり罪の意識があって然るべきだ」と考えているわけではありません。しかし、逆に「彼には戦争責任はまったく無く、罪の意識など感じる必要はない」と考えているわけでもありません。彼の置かれた立場から考えると、ちょっと微妙な判断をせざるを得ないと思っています。その判断をするためには彼とは異なる立場の人たちと比較してみる必要があると思います。

まず、手近なところから考えてみます。堀越二郎は戦闘機を作っていましたが、戦争において飛行機が果たした役割について考えてみます。飛行機における戦闘には大きく2つのタイプがあったと思います。それは戦闘機による戦闘と爆撃機による戦闘です。戦闘機は制海権や制空権を得るために戦闘機同士で戦ったり、戦艦や空母などを攻撃したりする戦い方が多かったと思います。

一方、爆撃機は爆弾をどんどん落っことしてゆくことで都市を破壊するという戦い方が普通だと思います。都市を破壊することで純粋に戦闘力を破壊するだけでなく、戦争に必要な後方支援を遮断するためです。最も恐れられたのはやはり爆撃機による空爆でした。空爆は非戦闘員である市民も関係なく平気で無差別に殺戮するので非人道的な戦闘方法であると当時でさえも国際的に非難されていました。そういった非人道的な空爆に最初に踏み切ったのは日本でした。中国で渡洋爆撃重慶爆撃を行いました。重慶爆撃のとき、爆撃機を護衛したのが二郎たちが設計した戦闘機でした。また、空爆で有名なものとしてはドイツのドレスデン空爆東京大空襲があります。また、広島・長崎の原爆投下も空爆のひとつと考えることもできると思います。ともかく、空爆は無差別に非戦闘員も含めて大量殺戮するという非人道的な恐るべき戦闘行為でした。映画の中では、冒頭の二郎の夢の中で爆撃機が出てくるのとラストのB29らしき残骸と空襲を受けた焼け野原らしきシーンの二箇所が出てきますが、飛行機による戦闘で最も恐るべきものは空爆だというのはこれら2つのシーンが暗示していると思います。宮崎駿は『ハウルの動く城』でも空爆のシーンを描いていますね。私たち日本人にとっては空爆は太平洋戦争末期における戦争の象徴だったと思います。ただ、空爆が非人道的だという抗議は日本人はあまり持たなかったのではないでしょうか?

というのは、日本人は戦争は国民が一丸となって国全体で戦っていたのだという意識が強くあったからだと思います。空爆を受けている私たちも最前線で戦っている兵士ではないものの後方支援として工場で弾薬を作ったり、兵器を作ったりしているわけで、攻撃を受けても当然だと考えていたのではないでしょうか。近代国家の戦争というのは国民が総動員して行うもので非戦闘員が攻撃されたからといって非人道的だなどと抗議するのは筋違いだと思っていたのではないでしょうか。非戦闘員なのに随分と勇ましい考え方のように聞こえるかもしれません。しかし、その一方でこの考え方は危険な部分も孕んでいると思います。読者の皆さんはバンザイ岬をご存知でしょうか?太平洋戦争時、サイパン島で追い詰められた日本兵と民間人は米兵から投降を勧められたにも関わらず、投降を拒否して岬から身投げして死んでいったのです。兵士はもちろんのこと非戦闘員である民間人も後方支援として戦争に加担したという意識があったのではないでしょうか?もちろん、投降した後にどのような扱いを受けるのか、どんなに酷い辱めを受けるのか、それを恐ろしく思って、いっそ死んだ方がマシだと考えての自決だったかもしれません。しかし、この考え方も裏を返せば、勝った側は負けた側に対して何をしても良いという考えに転換してしまう危険があります。例えば、南京大虐殺では日本兵は大量に中国人を殺戮しています。最初は墓穴に向かった走らせて背後から銃で撃って墓穴に落とすというやり方をやっていたそうですが、そのうち銃弾を節約するために一箇所に中国人をぎゅうぎゅう詰めにして上からガソリンをかけて焼き殺したりしたそうです。ガソリンの量が足りなくて半焼で死ねずに唸っている中国人もいたそうです。これらの大半は軍命令によって行われた殺戮であったでしょうが、中には面白半分に陵辱して殺害するなんてこともあったようです。中国人女性を集団でレイプして最後に面白半分に一升瓶を膣に突っ込んで銃床で叩いてどれくらい奥に入るものかと無理に突っ込んだら中を突き破って死んでしまったといった証言もありました。非常に残酷な話ですが、日本人に限らず戦場ではしばしばこのような残虐な行為が起こっていたのだろうと思います。ロシア兵などもドイツでレイプしまくったと聞きます。なぜ、ここでロシアを持ち出してきたかというとロシア兵も元はと言えば貧しい貧困層が多かったのではないかと思うからです。先の南京大虐殺における日本兵も多くは貧しい下層階級の出身者を含んでいたものと思います。教育レベルが低く、貧しい階層の者ほど戦場における残虐行為は酷くなるという気が私はしています。社会において下層階級で虐げられてきた者たちがいったん無法状態の戦場に置かれたとき彼らはこれまでにない残虐行為を行う者になるのではないでしょうか?日本兵も士官学校出の将校などのエリートは別にして、下級兵士になると、例えば東北の貧農の出身であれば、故郷には親兄弟は残っているが、姉妹などは製糸工場などに奉公に出るなど、ほとんど人身売買と言っていいような態で家を出て行っていたのではないでしょうか。中には女郎として売られた者も少なくなったでしょう。都会においては貧富の差が激しく、奉公に入った女中がそこの主人にレイプされて子供を孕んで僅かなお金を渡されて追い出されたという話は相当数あったそうです。かえって士農工商で住居を住み分けていた江戸時代にはこのような無秩序な行為は少なかったのではないでしょうか?それが明治以降の近代に入って一挙に崩れた。曲がりなりにも秩序があった農村社会が破壊されて、工場での働き手として農村から人手が引き剥がされていった。日本は近代化の中で激しい貧富の差が生じ、その中で貧しい者は相当に虐げられてきた。富国強兵政策の背後には疲弊する貧困層と兵隊に取られた働き手たちという暗い裏面がありました。下級兵士はそんな下層階級出身者が多かった。そういった不満が表れたものとして2.26事件があった。2.26事件は下層階級を虐げる富裕層に対する青年将校たちの反乱でした。しかし、2.26事件は封じ込められ、富裕層への不満の道も閉ざされました。その結果、はけ口として今度は外国に矛先が向けられたというわけです。石原莞爾の満州事変も元はと言えば、満州建国によって外から日本を変えるという革命でした。しかし、だからといって南京大虐殺が許されるわけではありません。しかし、南京大虐殺を単に彼らを日本鬼子といって残酷な人間といったのでは正しく理解できないと思います。南京大虐殺で残虐行為に及んだ兵士たちにもそういった背景があるのだというのは知っておいてしかるべきだと思います。さて、それに比べれば、この映画の主人公堀越二郎はなんと恵まれた人間だったことでしょう。頭脳明晰・成績優秀で裕福な家庭で育ち、一流企業に就職して外国にも何度か行っている。二郎と下級兵士ではまるで住む世界が違うとまで言えそうです。確かに二郎は戦場で直接人を殺しませんでした。しかし、だからといって罪はないんだと胸を張って言えるでしょうか?例えば、原爆を開発したオッペンハイマー博士は広島・長崎の惨状を知ったあと、いかに原爆が非人道的な兵器かということを心底思い知らされたそうです。その後、彼は反核運動に向かうようになります。オッペンハイマー博士は直接殺害したわけではありません。しかし、彼には罪の意識がかなりあったのです。

近代国家の戦争において戦闘員も非戦闘員も少なからず戦争に加担しています。では、すべての戦争は悪なのでしょうか?ナチスドイツを倒したアメリカも悪なのでしょうか?それは違うと思います。ユダヤ人を強制収容所で大量に殺戮してきたナチスドイツと戦うことは正義の戦争だったと思います。戦争にも戦う理由があるのです。つまり、「その戦争に正義はあるか?」という問いです。日本の戦争に正義はあったのでしょうか?日本は日露戦争で朝鮮半島を支配下におき、満州事変で満州を侵略し、日中戦争で中国を蹂躙しました。さらに日独伊三国同盟を結んであのナチスドイツと結託して領土の拡大を図りました。そして、真珠湾攻撃によって太平洋戦争を始めて東南アジア各国を侵略してゆきます。どこをどう探しても日本の侵略戦争に正義はありません。しかも南京大虐殺など非人道的な殺戮が堂々と行われていました。ところが、今の日本人はそのことを忘れてしまっています。例えば、あのナチスドイツと日本が手を組んでいたことをすっかり忘れてしまっているくらいです。ただ、ナチスドイツにしてみれば、日本が真珠湾を攻撃したおかげでアメリカの参戦を招いてしまい、引いてはナチスドイツの敗北に繋がったのですから、「日本はなんてことをしてくれたんだ!」と思っているかもしれません。ナチスドイツの欧州大陸支配を阻んだものの遠因に日本の真珠湾攻撃があるのですから、現在の世界を築くのに日本が貢献した唯一の足跡と言えるかもしれません。(←もちろん、皮肉ですが。)さて、話を元に戻しましょう。大局的に見て、日本の戦争に正義はありませんでした。ただ、そのことを末端の二郎たちはどの程度知っていたのかという問題があります。大本営の発表がウソだらけだったというのは今では周知の事実ですが、日本の戦争に正義がないことを国民はどの程度認識していたのでしょうか。あるいは、当時は奪ったもの勝ちが当たり前だったのかもしれません。ヒューマニズムも当時と今では随分と違うでしょうからね。それにそもそも戦争に対してこれだけ深く拒絶反応を持つようになった日本人は第二次世界大戦の反省に由来しています。それまでの日本人はそれほど戦争に対して否定的ではなかったと思います。むしろ、好戦的だったとさえ言えるでしょう。私は戦争というものは愚かな行為だと思っているので戦争の反省を踏まえるようになった現代の日本の国民性はとても良いものだと考えています。ただし、単に条件反射的に戦争に拒絶反応を示すのではなくて、自分の頭で道理を考えて戦争に対して是か非かを判断しなければならないとも思っています。随分、話がそれました。堀越二郎の戦争責任について話を戻しましょう。近代国家の戦争においては戦闘員だけでなく非戦闘員も総動員されて戦争に加担します。さらに後方拠点を叩くという意味でも非戦闘員が住む都市も攻撃の対象になります。そういった意味では戦争の責任は戦闘員のみならず非戦闘員にもあるでしょう。確かに兵役を拒否すれば軍法会議で即銃殺されたり、強制的に工場労働させられたりと個人の意思に反して戦争に組み込まれたとする言い訳もあると思います。しかし、たとえそうであったとしても殺された側からすれば、やはり戦争の加担者であったことに違いはないでしょう。そして、戦争をしている国家に正義はあるかという問題があります。仮に非道なナチス・ドイツと戦うための戦争なら正義の戦争と言えるかもしれません。(ただし、悪の帝国ナチスドイツという印象も戦勝国側のイメージ操作の部分もあります。)しかし、単なる侵略戦争には正義はありません。(実は経済合理性から見ても日本の侵略戦争はあまり合理的ではなかったりするので、日本を戦争に向かわせた原動力は何かの勘違いか狂気の沙汰に近い面もあります。)したがって、日本の戦争はまったくの侵略戦争であり、そこに正義はありません。そう考えれば、二郎に戦争責任がまったく無かったとは言えないと思います。別にこれは二郎に限った話ではなく、当時の日本国民全員が戦争責任があったのだと思います。ただし、だからといって当時の為政者たちの罪が軽くなるわけではありません。戦争に導いた彼らが一番悪いことに変わりはありません。以上、堀越二郎と戦争に関わるパートについての私の感想を終わります。


さて、以上がこの物語の2つのパート、二郎と菜穂子の愛の物語と二郎の戦争との関わりに関する解説でした。ところで、この『風立ちぬ』ではこれまでの宮崎駿作品には見られない視点の変化があります。それは何かというと文明批判的な視点です。今までの宮崎駿は『風の谷のナウシカ』にしろ『もののけ姫』にしろ文明批判的な視点が非常に強かったのです。『天空の城ラピュタ』などはラピュタ人の超文明を否定的に扱っていますし、『千と千尋の神隠し』では河川の汚染など文明による環境破壊を強く批判していました。年長の人であれば『未来少年コナン』を知っていると思いますが、インダストリアに象徴されるように戦争批判と文明批判の塊でした。ところが、今作ではそれが少し違ってきています。以下にそれについて解説します。

「ピラミッドのある世界とない世界のどちらが好きか」という問いがカプローニ氏から二郎に投げかけられます。これは宮崎駿の多くの作品にある文明批判に通じる問いでもあります。宮崎駿のこれまでの作品を振り返ってみると『未来少年コナン』や『天空の城ラピュタ』が良い例だと思います。『未来少年コナン』では文明都市インダストリアと農村社会ハイハーバーが出てきます。『天空の城ラピュタ』では超文明としてラピュタが出てきます。文化人類学では文明社会と対照的なものとして未開社会があります。宮崎駿が作品の中で言ったピラミッドのある世界とピラミッドのない世界とはまさにこの文明社会と未開社会を指しています。以下にこれらについて考察してみます。

まず、ヨーロッパ人がアメリカ大陸を発見したときの状況を考えると分かりやすいと思います。西欧はすでに西欧文明を築いていました。一方、アメリカ先住民は北米では文明社会を拒んで部族社会を形成して暮らしていました。ただし、アメリカ大陸にも文明社会はありました。中央アメリカに築かれたアステカ文明やマヤ文明、あるいは南米はペルーのインカ文明などです。彼らは鉄を発見しなかったので石器文明ですが品種改良など植物栽培においては優れており、ジャガイモやトマトやトウガラシなどがあり、アメリカ大陸発券後は世界の食生活を一変させてしまいました。ジャーマンポテトやフレンチポテト、イタリアのパスタやピザに使われるトマト、キムチに使われるトウガラシなど今となっては無くてはならない食材がアメリカ大陸からもたらされました。そういったアメリカの石器文明とは裏腹に、北米のアメリカ先住民は文明社会を善しとせずに文明を拒んで部族社会を形成して生きることを選びました。文化人類学者のレヴィ=ストロースがフィールドワークした南米先住民もそういった部族社会の人たちでしょう。彼らの暮らしは狩猟採集か原始的な農業でした。彼らと行動を共にして調査した結果分かったことのひとつに豊かな自然の恵みがあるため彼らの一日の平均労働時間は4時間くらいと大変短かったそうです。『悲しき熱帯』の中でレヴィ=ストロースは文明社会に戻るとき自分たち文明人を忙しく立ち働くミツバチに喩えて忙しい文明社会に戻ることを残念がっている言葉を残しています。労働時間が短いのなら、彼らの残りの時間は何をやって過ごしていたのかというと、いわば遊んでいたようでした。といっても物質的には貧しい生活ですから、精神世界に生きていたというべきかもしれません。紋様を描いたり、宗教的な儀礼のために花を集めたり、首飾りを作ったりという感じでしょうか。それはそれで充実した生活だったかもしれません。しかし、数多くいた先住民たちもヨーロッパ人が入ってきたときにもたらされた病気で原因で多くの人が生命を落として人口が激減してしまい、今では100分の1以下に減ってしまったそうです。いや、千分の1以下かもしれません。

さて、話を元に戻しましょう。文明社会と未開社会。人類には生き方として2つの選択肢があったわけです。宮崎駿は彼の作品を通して文明批判を続けてきました。そして、宮崎駿の文明批判の行き着く先は文明社会でも未開社会でもなく、第三の道である中世的な農村社会にその理想を見出します。『未来少年コナン』で言えばハイハーバーでの暮らしを理想郷とします。『ラピュタ』では超文明のラピュタを滅ぼしてしまいます。『もののけ姫』ではついに未開社会に生きるサンと北方先住民であるアシタカは交わることなく別れます。しかし、次第に大和文明が彼らのテリトリーを侵食してゆくことでしょう。ともかく、文明批判を続けてきた宮崎駿は「では文明社会がダメだというのなら、代わりにどのような世界を理想とするのか?」という問いに対して、文明でも未開でもない、中世的な農村社会、里山的な自然と人間社会が調和した社会を理想郷としてきました。里山は都市と山の中間に位置します。里山の後ろは山という自然が控えています。また、里山は都市からは離れたところにあります。ただし、里山の自然界は通常の自然界とは違った世界です。というのも、普通の自然界ではありえないほど特定の生き物が異常に繁殖したりします。稲という特定の植物を繁殖させる稲作による影響と見ることができます。里山の自然は普通のありのままの自然とはちょっと違っているのです。里山の世界では自然と人間が一種の協定を結んでいる世界と言えるかもしれません。(それを善しとするか悪しきとするかはまた別問題ですが。)しかし、現在、里山的世界は成功しているとは決して言えません。里山の生産性は現在の経済活動から見れば見劣りがするからです。中世的な世界の経済活動なら里山的な生産性でも十分だったかもしれません。しかし、現代社会では里山的世界の生産性では文明社会を養うにはまったく足りません。結局、農業はどんどん機械化されて行き、環境もそれに合うような形に変えられて行きました。もはや近代農業における農場は工場であって里山ではありません。確かに宮崎駿が理想とした里山的世界は一種の理想郷だったとは思いますが、その理想郷が成立するためには一定の条件下でないと成り立たないものでした。つまり、現代文明との両立は不可能です。現代文明を支える農業としては、やはり工場としての農業を必要とします。そして、現代文明がなければ、飛行機など作れるはずもないのです。さらに言うと文明社会は戦争をも生み出してきました。歴史がそれを証明しています。農業の労働者として多くの奴隷を必要としたため文明社会は近隣諸国に領土を拡大して侵略した国の国民を奴隷としてきました。一方、部族社会では戦争は回避されてきました。ピエール・クラストルの『国家に抗する社会』で描かれているように戦争という愚かしい行為は部族社会では回避されるのが普通でした。

さて、話を少し整理しましょう。人類のライフスタイルの選択肢としては、文明社会と未開社会、そして、その中間である里山的社会の3つがあります。そのいずれも人類は選択可能だと私は思います。アマゾンの奥地では今も未開人が野生の暮らしをしていると聞きます。また、アーミッシュの人々のようにあえて現代文明を否定して中世的な世界に暮らす選択をする人たちもいます。日本でも武者小路実篤が立ち上げた新しき村というのはそういった思想に依ったものだったのではないでしょうか。(里山的社会は生産性が低くともそれに甘んじる覚悟であるなら別にやっていけないわけでありません。)そして、私たちのように現代文明の中で暮らす人たちも大勢います。したがって、それらの社会は両立は不可能であっても、それぞれが独立して暮らすということは決して不可能ではないと思います。ただし、何度も言いますが、それぞれにメリットとデメリットはあります。文明人は物質的に豊かな暮らしがある一方で忙しく働かなければなりません。一方、未開人はのんびりした暮らしかもしれませんが、ひと度病気が猛威を振るえば部族がたちまち死に絶えてしまうなんてこともしばしばありました。近世の日本の農村社会は里山的世界でしたが、そこの暮らしが果たして人間的だったかどうか疑問に思う面も多々あります。里山的な生産性を保つために彼らの性生活もどこか統制的でしたし、村社会特有の縛りがあって決して自由からは程遠かったように思います。また、食い扶持の配分を考えて間引きという嬰児殺しも頻繁に行われていました。結局、いずれもメリット・デメリットがあると思います。いえ、進歩史観的に見れば、人類の歩みは自然の脅威との戦いであり、数々の悲劇を生み出してきた自然の脅威を文明の進歩は一歩一歩克服してきたという進歩の歩みなんだという、文明社会だけを唯一の人類の理想的な社会だと見なす見方もあると思います。しかし、21世紀になってかつては恐れていた自然を文明が再生不可能なまでに破壊して取り返しがつかないことになってしまいそうだという状況になってしまい、そういった進歩史観に疑問が投げかけられるようになりました。また、レヴィ=ストロースの仕事などは文明社会より下位に見られていた未開社会が実は豊かな精神世界を持っており、文明社会とは別の方向に質・量ともに同等かそれ以上の価値ある社会を見出したことでした。それによってレヴィ=ストロースは文明社会を相対化することに成功しています。したがって、人類は必ずしも文明社会という生き方しかないわけではないと思います。ピラミッドのある世界か、それともピラミッドのない世界か。私たちにはいくつかの選択肢があるのだと思います。

さて、宮崎駿は長い間文明批判を行ってきました。彼の最高傑作の漫画『風の谷のナウシカ』も墓所のピュアな未来人を否定して清濁両方を兼ね備えた人類を是とする思想を披露していますが、そこでも文明社会は拒絶されています。ところが、今作では「ピラミッドのある世界かない世界か」という問いの中でカプローニや二郎たちには飛行機のある文明社会を選択させています。その結果、戦争という悲劇にも見舞われてしまうのですが・・・。ともかく、これまでは明確に文明批判を続けてきた宮崎駿が今回はそうではない一面を表しているわけです。そして、二郎には戦争責任が突きつけられるわけです。ただし、二郎の戦争責任については明確に描かれてはいません。宮崎駿は「堀越二郎が全面的に正しかったとは思ってはない」としつつも、逆に否定的にも描いてもいません。その代わり宮崎駿は二郎に対して「生きねば」という想いを託しています。後方支援として彼は戦争に加担して多くの死に関わったと言えるでしょう。彼はそれに対して自らを断罪すべきだったのでしょうか?いえ、むしろ失われた生命のためにも、今度は失われた世界を再興するために努力する道を彼は選んだのではないでしょうか?戦後の日本経済を支えたのは紛れもなく技術立国日本と言われた技術力です。戦時中の技術者たちが戦後において日本の復興に果たした役割は極めて大きかったと思います。現在の日本の繁栄を支えたのは彼ら技術者たちの技術力だったのではないでしょうか。宮崎駿が今までの文明批判的な態度を改めてまで描きたかったのは堀越二郎にあったような日本人の高い技術力に基づいた日本の未来への希望だったのではないでしょうか。

明治から現代に至るまでの日本の産業を歩みをざっと振り返ってみましょう。戦前の日本は江戸時代とガラリと変わって産業革命が起こります。しかし、グローバル経済から見ると、英国たち欧米先進国が重工業にシフトしていったのに対して、日本はそれら欧米先進国に代わって軽工業を担うというものでした。いわば後進国として先進国が最早やらなくなった産業を担ったのです。日本は安い労働力で安かろう悪かろうの製品を作っていました。今では信じられないかもしれませんが、それは後進国の当たり前のプロセスだったと思います。この頃の日本は欧米先進国の後塵を拝していたのです。しかし、日本は次第に戦争直前から戦時中にかけて工業国へと進化してゆきます。そして、戦争によって日本は随分工業国に進化していったと言っていいでしょう。とはいえ、それでも欧米先進国に比べれば総合力として日本の技術力は劣っていたといわざるをえないでしょう。確かに零戦や戦艦大和は日本の優れた技術力を結集した工業製品だったと思います。しかし、全体としてみれば、それはごく一部であってレーダーや暗号解読など多くの分野で日本の科学技術力は欧米と比べて劣っていたと言わざるを得ないでしょう。もちろん、戦争に負けたのは単なる科学技術力が劣っていたからだけではありません。国力の差が極めて大きかったと思います。ところが、戦後の日本はこの欧米先進国優位という立場を逆転するのです。それまでと違って日本の工業製品が単に安いから売れたというのではなくて、高品質ゆえに欧米の工業製品を押しのけるときがやってくるのです。それは家電と自動車の分野に象徴されます。日本の自動車が世界市場に進出できた要因は単に安いだけでなくその品質の高さにありました。アメリカの自動車市場に日本車が割って入れたのはその品質の高さゆえでした。そして、ついにビッグスリーを押しのけてアメリカの自動車市場に確固たる地位を築き、日本の高い技術力が欧米先進国を逆転したのです。振り返ってみれば、それらの基礎を築いたのは戦時中の日本の技術者たちでした。堀越二郎もその一人なのでしょう。戦後の日本経済の繁栄を支えた者は「生きねば」と言って焼け野原の中から立ち上がってきた彼ら技術者たちだったのです。近年、『プロジェクトX』で技術者の評価が上がりましたが、その源流は同じくNHKの『電子立国日本』であり、そのおおもとをどんどん辿れば戦時中に活躍した若い技術者たちに辿り着きます。まさに堀越二郎たちです。ここに二郎に「生きねば」と言わしめた宮崎駿の意図があったのではないかと思えてきます。まるで司馬遼太郎が敗戦によって失われた日本人の自信を取り戻すために『坂の上の雲』を書いたように、90年代から始まった「失われた20年」で失われた日本人の自信を取り戻すために宮崎駿は天才技術者・堀越二郎の生涯を描いたのではないでしょうか。

(ただし、現在もこれが当てはまるとは必ずしも限りません。例えば、液晶テレビで日本が中国に負けたのは安かったからであって、いくら高画質・高品質でも高価であっては消費者には受け入れられませんでした。戦後、高品質で日本の家電と自動車が伸びたように同じ手法が通じるというわけではありません。私たちは時代の変化に合わせて自らを変えていかねばならないのだと思います。)

とまれ、右傾化甚だしい昨今の日本にあって、彼ら右翼を単に批判するのではなく、右翼も含めて日本人全員に未来への希望を与えるという意味では、この堀越二郎の物語は深い意味を有していると思います。この物語は多くの日本人に過去への反省と未来への希望を与えるという、極めて希有な作品だからです。この物語は、一見、宮崎駿の平和主義者であると同時に兵器好きのミリタリーオタクという相矛盾する性格が一人の人間に同居しているという自己矛盾を描いた作品に捉えられがちです。確かにそういった面もないわけではありません。しかし、そんな小さい個人的な事柄のために彼は作品を作ったりしないと思います。この宮崎駿という物語作者はこの物語を通して日本人に過去への反省と未来への希望を与えるという深慮遠謀な意図を自分でも気づかず無意識に持って、この作品を作ったのではないかと私には思えます。

年間約3万人の人たちが絶望して自殺してゆく昨今の日本・・・。この作品はそんな絶望した彼らに単純に希望だけを与えるのではなく、もっと苦しかった過去を教え、そしてその過去への反省を踏まえた上で希望を与えようとしていると思います。かつてはがむしゃらに前進することしか知らなかった戦後の高度成長期の日本とは違った、成熟した大人の思想をこの作品からは感じます。そして「生きねば」という宮崎駿のラストメッセージは現在の状況に絶望して自殺してゆく人たちに「死ぬな、生きよ!」という強い願いが込められた祈りの言葉であり、さらに単に祈りだけでなく「かつては技術力で焼け野原から再興したではないか」という歴史的裏付けのある未来への希望を込めた言葉なのだと思います。この言葉は単に自殺しようとしている人だけでなく、東日本大震災の被災者も含めた、現在、苦境に立つ日本社会の日本人全員に向けられた宮崎駿からの最後のメッセージなのだと思います。

2013年7月25日木曜日

新海誠『言の葉の庭』

 
新海誠監督の『言の葉の庭』を観ましたので感想を書きます。


久しぶりに素晴らしいアニメを観ました。見終わった後の清々しさは久しぶりでした。まず、あらすじを書いておきます。物語は16歳の高校生の男子と学校に通えなくなった高校の女教師との葛藤と恋の物語です。主人公の秋月孝雄は16歳にしては非常に大人びた少年です。すでに将来は靴職人になることを決めて黙々と靴職人目指して頑張っています。一方、もう一人の主人公雪野由香里は仕事によるストレスでトラウマを抱えてしまい仕事に行けずに朝から公園でビールを飲んでいるという生きることに行き詰った大人の女性です。彼女は自分と孝雄を比較して自分のことを成長していないと嘆き卑下している節があります。ただ、ひとの心は傷つきやすく脆いものだとしたら、そんなに卑下することもないだろうと私は思ったりします。日本社会は一人ひとりが経済活動に従って動いており、社会全体もそれに伴って全体運動していますので、いったんそこからはみ出してしまうととても居心地の悪いところなのでしょう。しかし、果たしてそれが正しいことなのかどうなのか。かつては企業戦士となって働くことで自己実現を行うというのがサラリーマンの既定の路線でした。しかし、企業の競争は激しくなり生存競争だけになりつつあって他を蹴落として自己の生存のみを優先するような経済活動で、果たして自己実現などが可能かどうかとても疑問に思います。

さて、孝雄は靴職人を目指しているので学校教育を煩わしく感じており、雨の日の午前中は休んで公園で靴の絵を描いています。学校に行きつつも勉強を半ば無意味と捉えており、いわば片足はドロップアウトしている感じです。一方、雪野は休職しており、味覚障害まで起こして現時点では完全にドロップアウトしています。そんな二人が出会って心を通わせます。心を通わせるといっても最初は恋ではなかったと思います。ドロップアウトした者同士が分かり合える共感が彼らの心を通わせたのでしょう。アウトサイダーである者同士の共感と言っていいかもしれません。そして、アウトサイダーであることは社会からのはみ出し者であり、どこか痛みを持っており、それは互いを繊細にします。そして、互いの心の繊細さに触れたとき、二人は次第に近しい気持ちになります。

ところが、ふとしたきっかけで雪野の正体を孝雄が知ってしまいます。孝雄は雪野の繊細な心を知っていたため、そして、既に彼女に恋し始めていたため、彼女をここまで追い詰めた先輩に手を上げて彼女の仇を討ちます。雪野は孝雄の仇討ちを知りませんが、どこかで何かを感じたのでしょう、そのあと二人はより一層近い関係になります。そして、雪野の自宅に訪れたときこれまでにない幸せを感じ、孝雄は恋愛にまで想いが高まります。それに対して雪野は恋愛なのかどうかは分かりません。二人でいることがこれまでになく幸せであることは確かです。そして、孝雄によって傷ついた心が癒されたのも確かです。二人は最後に互いの心を吐露して抱き合います。そして、雪野は実家に帰って教師として再出発し、孝雄は大人に成長することで今度は雪野を迎えに行こうと決意を固めて物語は終わります。

物語自体はさほど珍しくないと思います。確かに主人公の孝雄がとても大人であることに驚きますが、それ以外は特に珍しくないと思います。また、雪野のような心を病んだ教師は現在多くいると聞きます。多くの教師が学校生活で精神的に傷ついて休職しているというニュースを聞いたことがあります。おそらく雪野のようなケースは決して珍しくないのでしょう。ちょっと社会の暗いところを描いてあって新海誠にしては珍しいような気もします。

さて、ここからが本題です。この作品で特筆すべき点について言及します。それは自然の情景を描いた映像です。この作品は物語も確かに魅力的なのですが、それ以上に自然の描写がとても素晴らしいものになっています。雨に濡れた自然の描き方がこれまでのアニメにない素晴らしさでした。普段は動きのない情景が天気を雨にすることによって大きく変わります。自然や事物が雨に濡れることで色彩が際立って見えたり、風に揺れる木々や雨粒が心象風景として見事に浮かび上がってきます。雨に打たれて蒸気を発した空気が最早いつもとは違っています。

かつて日本文学は自然の情景を取り入れるのがたいへん優れていたと思います。しかし、それを映像化するのは非常に困難でした。なぜなら、実際の映像を撮ってもそれは日常的な情景であって、文脈に沿った印象を乗せた情景にはならないからです。ところが、それをこの作品は見事に描くことに成功しています。アニメ化することによって描きたい情景を見事にイメージどおりに描いているのです。いわば撮影では不可能なベストショットをアニメで見事に描いているのです。新海誠は元は文学部の国文学専攻だったはずです。日本の文学は伝統的に自然を描くことが多く、そして上手です。俳句にも必ず季語を入れて自然の移り変わりを表現するように日本独特の自然観があるからです。ただし、西洋だって自然観はあります。私は西洋の博物学が描く博物誌などに挿入されている動植物画は素晴らしいと思いますし、西洋の庭園のその自然のままにしようとする姿勢は良いと思います。それに対して日本の庭園は刈りこんで人工的にしてしまいがちです。おそらく、日本の場合、自然のままに任せると荒れ放題に自然が成長してしまうからだと思います。ところが、欧州は違います。例えば、ドイツなどは森を残しています。いったん森を伐採してしまうと二度と生えない気候になってしまったからです。また、英国ではナショナルトラストとして湖北地方など自然を残す運動があります。そうまでしないと自然を残せないからです。一方、日本は国立公園として自然を残そうとしていますが、山を削って自然を破壊すること甚だしいと思います。今回のウナギにしても絶滅を心配するよりもウナギの高騰を心配している始末です。日本人の感覚として自然は放っておけば勝手に再生するものと思っているようです。しかし、例えばオーストラリアでは山火事がいったん起これば二度と森は再生しない地域だってあります。それだけ日本の自然環境は恵まれているとも言えるのかもしれません。しかし、日本は戦後の経済成長の中で自然をとことん破壊してきました。今後、どこまで再生できるのかは分かりません。以前、吉本隆明が若い歌人が自然を詠んだ短歌が減ったと言っていたことがありました。それだけ日本人の中から自然に対する感性が失われたのだと思います。なぜかといえば都市化が進んで自然に触れる機会が減少したからだと思います。ながながと書いてきましたが、このアニメではそういった日本の自然に対する感覚がかつては文学であったのが、このアニメでは映像として見事に描かれていると思います。

風に揺れる枝、雲の中を走る稲妻、雨水のはね具合や波紋の広がり具合、とても素晴らしい表現でした。これはどのようなアニメ技法で描かれたのか素人の私には分かりません。CGなのかセル画風に手描きで描かれたものなのか、それともまったく別の技法なのか。いずれにしてもとても素晴らしい動く自然描写でした。実写では出せないアニメならではの表現でアニメにした甲斐があるというものです。実は、私は以前にこのような自然を描いたアニメ作品を期待したことがありました。それはディズニーアニメの『ポカホンタス』です。『ポカホンタス』の頃、CGが出始めた頃で水面の波紋や風に揺れる枝などコンピュータを使った自然な表現ができるのではないかと期待したことがありました。今回、そのときの期待以上の映像、自然な表現にさらにひとの感性を上乗せした素晴らしい映像を見ることができて本当に嬉しかったです!大げさな言い方かもしれませんが、アニメという表現ではあるものの、新海誠監督は自然を愛でるという日本文学の伝統の良き継承者なのかもしれません。

ありがとう、新海誠監督!

追記
自然には穏やかな自然もあれば、荒々しい自然もあります。アンドレ・ジッドが小説『田園交響楽』の中で自然とはベートーベンの田園交響曲のように美しいものだと言った反面、世界にはそうでないものもあると言いました。天国の楽園のような穏やかな自然だけでなく、石を裏返したときにムカデやダンゴムシがうじゃうじゃと這い出してきたり、動物の腹を切り裂いたら内臓がドバっとそのグロテスクな姿を見せたりします。表面は美しい曲面であっても、その中身はグロテスクな内臓だったりします。今回、この作品ではどちらかといえば、自然の美しい面ばかりを表現していたと思います。しかし、それは自然の一面に過ぎません。今度は是非もう1つの自然の面、荒々しかったり、グロテスクだったりする、魑魅魍魎が蠢くような自然の陰の部分を是非表現してほしいものだと思います。今作がとても素晴らしかったので、これは次回作への期待です。

2013年7月1日月曜日

アンドリュー・ニコル『ガタカ』

 

今回はアンドリュー・ニコル監督の『ガタカ』を取り上げます。なお、ネタバレで書きますので未見の方はご注意下さい。


物語は近未来SFです。未来では遺伝子操作で優れた才能を持ったものだけが生まれてくるようになっています。ところが、主人公ヴィンセントは父と母が車の中でそのときの気分でセックスしてしまったために生まれてきた自然な子供でした。調べてみるとヴィンセントは心臓に問題があってあまり長生きできそうになかったり近眼になったりなど様々な問題を抱えた人間であることが分かりました。彼は育てられますが、メガネをかけ身長もあまり伸びないのでした。その後、彼には遺伝子操作で生まれた優秀な弟が出来ますが、弟の方が身長が高かったり運動神経が優れていたりします。ヴィンセントは勉強やスポーツなど弟と何を競っても敵いませんでした。しかし、そんなヴィンセントには夢がありました。それは宇宙飛行士になるという夢でした。彼は夢中で宇宙飛行士になる勉強をします。しかし、試験のとき遺伝子検査が行われ、ヴィンセントはあえなく失格になってしまいます。ショックを受けた彼は家を飛び出して姿をくらませてしまいます。しかし、実はヴィンセントは宇宙飛行士になる夢を諦めたわけではなくて、別人になりすますことによって宇宙飛行士になろうと決意したのでした。そして、闇医者と契約を結び、さらに優秀な遺伝子を持つものの事故で障害者になってしまったジェロームという青年とも契約を結んで、彼から遺伝子を提供してもらうことでヴィンセントはジェロームになりすますのでした。そして、航空宇宙局に局員としてまんまと潜り込むことに成功します。しばらくするとヴィンセントは成績優秀で宇宙飛行士としてタイタンの探査船の宇宙飛行士に選ばれます。大喜びしたヴィンセントですが、喜んだのも束の間、宇宙局内で殺人事件が起こります。ヴィンセントたちの上司が殺されたのです。そこでヴィンセントのまつ毛が見つかり、彼は正体がバレそうになります。さらに驚いたことに殺人事件を捜査しにきた刑事はなんとヴィンセントの弟だったのです。ヴィンセントはなんとか正体がバレないように苦心します。そして、ジェロームの協力もあってヴィンセントはなんとか正体を隠しおおせます。一方、殺人事件は真犯人が捕まり、ヴィンセントの正体がバレる恐れも完全に無くなります。しかし、ヴィンセントの正体を見抜いた弟が彼を待ちかまえます。ついにヴィンセントは弟と対決します。それも命を賭けて。夜の海で彼らは競泳をします。その結果、何をやっても敵うはずのなかった弟にヴィンセントは勝利します。ヴィンセントは喜びを胸に秘めて宇宙船に乗り込み、ついに地球を後にします。(他にも物語の中で恋人のアイリーンとのロマンスやジェロームとの友情が描かれています。)

さて、この作品で言いたかったことは遺伝子がすべてを決定するわけではなく、挑戦や努力で人は乗り越えられるのだということを表面的には表していると思います。遺伝子がすべてを決めるというような優生学のいい加減さや予定調和的な決定論的世界観に対して強烈な批判を浴びせているのだと思います。確かにそれはそうで、私も異論はないのですが、しかし、私が面白いと思うのはそこではなく、ただ一点、ヴィンセントと弟との対決がとても面白いと思うのです。

ヴィンセントと弟との対決、それは遠泳です。どちらが遠くまで泳げるかを競い合うのです。子供の頃に二人はやはり同じ遠泳で競い合ってヴィンセントは弟に負けています。遺伝的に身体能力が勝る弟が勝ったのは当たり前でした。しかし、ヴィンセントは宇宙飛行士になりたいという一心でずっとトレーニングを続けてきました。今もなりすますことによって宇宙局に潜り込んでいるくらい思いが強いわけですから。さて、二人は一斉に海に飛び込んで遠くへ遠くへと泳いで行きます。大人になった二人ですから、子供の頃とは違って、岸から遠く離れてはるかに遠くへと泳いで行きます。海は夜の闇に包まれて真っ暗です。岸の明かりがどんどん遠ざかります。弟は次第に息が上がってゆき不安にかられ始めます。こんなに遠くまで泳いでしまったら岸に戻れないのではないかとどんどん不安に駆られます。しかし、それでもヴィンセントは泳ぐことを止めません。どんどん前へと泳いでゆきます。弟はヴィンセントに戻ろうと声を掛けますが、ヴィンセントには届きません。弟は不安ながらも泳ぎますが、ついに力尽きて溺れてしまいます。そのとき、前を泳いでいたヴィンセントは弟に気づき、弟を助けて岸に戻ります。岸で息を吹き返した弟はヴィンセントにあんなに遠くまで泳いだら戻れなくなると思ったといいます。それに対してヴィンセントは戻ることなんてこれっぽっちも考えていなかったと答えます。

読者の皆さんは「一体これのどこが面白いの?」と不思議に思うかもしれません。なぜ、私がこれが面白いかというとここには青年の思想や、ひいては宇宙開発にチャレンジする思想が表れていると思うからです。青年の思想は失うもののない思想です。もし、家族を支える夫なら、危険な真似はできません。妻や子供のことを考えると死ぬわけにはいかないからです。しかし、青年は違います。失うものはありません。一途に突っ走ることができるのです。それは革命の思想でもあるのです。革命は既存の権力体制を転覆して新しい権力を打ち立てることですが、青年は既存の権力を転覆する起爆剤の役割を果たします。どんなに綿密な計画を練っても無謀な青年たちがいなければ実行力に欠け、革命は成り立たないのです。青年がいてこその革命なのです。

また、宇宙開発の思想にも青年の思想は流れています。宇宙開発はNASAを代表として今でこそ華やかな科学技術のスター的存在です。しかし、宇宙開発の初期は試行錯誤の中で多くのひとが死んでゆきました。実験と挑戦の中で死んでいったのです。ソ連がガガーリン少佐をボストーク1号で宇宙空間に打ち上げることに成功しますが、それまでに無数の挑戦者たちが死んでいます。表には出てきていませんが、無数の犠牲者が宇宙開発の歴史には捧げられています。(ガガーリン少佐自体、帰還後、訓練中に事故で亡くなっています。)しかし、どうしてそこまでして人類は宇宙開発に向かうのでしょうか?その理由としては人工衛星からの情報で天気予報や衛星通信など生活を便利にするためという理由もあるとは思います。しかし、私が一番の理由として考えているのは生存圏の拡大です。人類の生存圏を地球という一惑星から、さらに宇宙空間へ、別の惑星へと拡大するためだと考えています。生物の戦いは生存圏の拡大の戦いでもあったのではないでしょうか?水中から陸へ、陸から空へと生命は生存圏を拡大してきたと思います。そして、ついに宇宙空間へと拡大して地球以外の惑星でも、あるいは、人工衛星の中でも人間が生きていけるように生存圏を拡大しようとしているのだと思います。しかし、それを実現するためにはどうしても犠牲を必要とするのです。犠牲を恐れず、前だけを見て突き進んでゆく、そういう青年の思想に私は深く感動するのです。生命は自己保存の本能を持っているはずですが、それすら捨てて、ただひたすら宇宙を目指すのです。そこに生物を超えたものを私は感じて感動するのです。


竹宮恵子の漫画に『エデン2185』というSFマンガがあります。このマンガはエデン2185という別の惑星へ移民するために地球を遠く離れて航行している宇宙船の物語です。主人公シド・ヨーハンは父母を持たず、試験管を母体として生まれ、コンピュータを養父として育った青年です。彼の宇宙船の中での生涯の物語です。そのエピソードの中で最も印象深いのがシドが反乱者を鎮圧する事件です。宇宙船の中で少人数による反乱が起こります。彼らの目的は地球へ帰ること。長い宇宙船での生活に嫌気が指し、望郷の念にかられて地球に帰りたくなったのでした。彼らの犯行声明を聞いた市民たちも動揺しはじめます。市民たちも口にこそ出しませんでしたが、望郷の念をずっと抱き続けてきたからです。市民たちは反乱グループをどうするかで喧々諤々の意見を戦わせます。しかし、いずれも決定力に欠けています。なぜなら、自分たちの意見を主張する者も百パーセントの自信を持っていなかったからです。結論が出ないまま時間だけが過ぎてゆきます。しかし、そのときです。シドは反乱グループに会いたいと申し出ます。しかもたった一人で。反乱グループはたった一人であることに油断すると同時に仲間が増えると考えてシドを迎え入れます。しかし、シドは反乱グループに加わるために来たのではありませんでした。シドは単身で乗り込むと反乱グループを撃ち殺し、生き残ったものもハッチを開けて宇宙空間へ放り出してしまいます。たった一人で反乱グループを皆殺しにしてしまったのです。しかも少しも躊躇することなく冷酷に殺します。このシドの無謀で冷酷な行為に市民は驚きますが、次第に落ち着きを取り戻し、再びエデン2185へ向かう旅に出ます。シドはなぜこのような行為に及んだかというと許せなかったのです。一度地球を捨てて、すべてを断ち切って飛び出したのに、今さら後ろ髪を引かれるように、後戻りすることをシドは許せなかったのです。いったん飛び出したなら、たとえ死んでしまおうとも自分の意志を貫かねばならない。自分たちはイカロスかもしれない。しかし、それでも勇気ひとつを友にして飛び出さなけれならない。シドにはそういう覚悟があったのです。そのため、彼は反乱グループを許せなかったし、自分たちの意志を鈍らせる市民たちを許せなかったので、反乱グループをひとりで皆殺しにするという暴挙に出たのです。このようにシドにも青年の思想を見て取ることができると思います。

青年の思想にはいろいろなものを読み取ることができると思います。『ガタカ』のように遺伝子に対する挑戦であったり、宇宙開発のように地球圏の生物であるという限界に対する挑戦であったりもします。イカロスのように空を飛ぶことへの挑戦でもあったりもしますし、革命のように旧権力に対する挑戦でもあったりもします。様々なものへの挑戦が青年の思想には込められているとは思いますが、私が青年の思想に最も思うのは人間という限界づけられたものへの挑戦だと思います。例えば、マルクス主義も社会主義を経て共産主義に飛躍するとき人間は今ある人間の限界を超えて新しいタイプの人間に進歩するのだと考えました。レーニンの『国家と革命』でも人間は共産主義の最終的な段階で進化すると書かれています。つまり、人間という枠組みに限界づけられたものから、より優れた存在へと進化するのだと考えたわけです。そういった考えに対する賛否はともかく、彼らの根本に流れているのも青年の思想だと思います。確かに、今さら共産主義だのと笑っちゃうかもしれません。しかし、科学技術の思想も、今あるものを越えてゆこうとする意味においては青年の思想だといえなくもないと思います。人は今よりもより良くなれるのだと考えるのはすべて青年の思想だと言えるかもしれません。歴史を振り返ったとき、確かに文明は進歩してきた側面は否定できないと思います。進歩史観を無批判に称揚することはできませんが、しかし、進歩してきた事実もまた否めないと思います。これからも人間が進歩してゆくつもりなら、私たちはイカロスを笑えないのではないでしょうか。いえ、もっと言えば、私たちは第二、第三のイカロスとして犠牲を厭わず、前に進む強い意志を持たねばならないのではないでしょうか。いつの時代でも時代を切り拓いてきたのは、限界づけられたものを乗り越えようとする、この青年の思想なのではないでしょうか。そんなことを考えると『ガタカ』のヴィンセントが後を振り返らずに宇宙船の窓からただまっすぐに宇宙の彼方を見つめる気持ちが分かるような気がするのでした。

2013年4月25日木曜日

細田守監督『おおかみこどもの雨と雪』

 
 
遅ればせながら、細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』をようやく見たので感想を書いておきます。以下に感想を断片的に列挙してゆきます。



1.メタモルフォーゼ
まず、アニメの基本的な表現でメタモルフォーゼというのがありますが、この作品では人間から狼へ変身するというメタモルフォーゼがスマートに描かれていて「さすがアニメならでは表現だなあ」と感心しました。実写では不自然だったり、気味悪かったりするメタモルフォーゼがアニメでは微笑ましく楽しく見ることができました。

2.CG技術
山とか雨水とか霧とかのCG技術が私には不思議とリアルに感じられました。作品を観ていたときに「これはCGだ」と分かるのですが、だからといって「CGだってバレてるからダメ」というわけではありませんでした。CGだと分かるのですが、その描写が私には妙にリアルに感じられたのです。観ていたとき「これは実写を混ぜているんだろうか?」と思ったくらいです。おそらく、効果として使っている部分のCGだと思うのですが、それがなぜか現実に感じたものと同じようにリアルに感じさせました。たぶん、今までも使われてきたCG技術で特に変わった技術を用いていないのではないかと思うのですが、コンピュータの処理能力の向上でしょうか、なぜかリアルに感じました。

3.シングルマザーの子育ての大変さ
シングルマザーの子育てと言っても花の子育ては狼人間の子育てなので普通の人間の子育てとはちょっと違いますが、それでもそういった特殊な設定にすることでかえってシングルマザーの子育ての大変さが浮き彫りになったように思います。特にシングルマザーが社会から孤立してしまう環境というのが見えるのですが、ただ、この作品の主人公・花はそれを眉間にシワを寄せて苦労するというのではなく、苦労しながらも楽しく子育てしているので孤立することによる陰鬱なイメージを和らげていました。(それから、子供たちが部屋をおもいっきり散らかしたり、あるいは、雪が冷蔵庫と家具の隙間に座ったりと子供らしさが微笑ましかった。いや、子育てしている親としては大変だと思うけど(笑)。)

4.学校
学校という場が同調圧力などヒトを一定の枠にはめ込んでしまうのが見えました。雨が学校に馴染めなかったり、上級生にいじめられたりする場面は狼人間に限らず、普通の人間にもあることです。また、雪が他の女の子と趣味嗜好が違うのも同調圧力の一種だと思います。帰国子女にそういった趣味嗜好の違いがあるケースがあると思います。このように学校教育は規範ができる反面、自由な精神が阻害されてしまいます。果たして学校教育というのは本当に良い教育なのでしょうか?

5.農家
この作品は数あるアニメ作品の中では比較的リアルな農家を描いた作品だったのではないでしょうか。多くの作品は牧歌的に、あるいはエコロジカルに描いたりする作品が多いと思います。宮崎駿などはそういったイメージが強いです。しかし、それに比べて本作は比較的リアルな農家を描いていたと思います。

6.物語の分析
さて、いよいよ作品分析です。この物語の主軸について考えます。先に答えを言うと、この物語は異類婚姻譚を混じえた魔法昔話の一種で、魔法昔話の現代的な変形だと思います。

まず、異類婚姻譚とは何でしょうか?異類婚姻譚とは人間と人間以外との生き物が結婚するお話で、例えば日本の昔話で言えば人間と鶴が結婚する『鶴の恩返し』などがそうです。異類婚姻譚は人間にはない異類の特殊なパワーが話のポイントになります。おそらく、動物が持つ特殊能力がそういったお話を発想させるのだと思います。例えば、犬は人間には聞こえない犬笛を聞くこともできるし、人間には分からない微かな臭いも犬は嗅ぎ分けられます。動物と深く関わって生きていた昔の人たちは動物には人間にない特殊な力を持っているとたびたび感じたことでしょう。

次に魔法昔話ですが、魔法昔話の典型的なパターンは人間社会で生きてゆくのに行き詰まった者が絶望の果てに森に迷い込んで死にそうになるのですが、そこで魔女や魔法使いから魔法の不思議なパワーを授かり、再び人間社会に戻ってその不思議なパワーを使って成功するという話が多いです。実は異類婚姻譚も動物のパワーという不思議なパワーを授かって、その不思議なパワーで成功するという場合もありますので、異類婚姻譚も一種の魔法昔話に分類されるかもしれません。

さて、本作『おおかみこどもの雨と雪』ですが、これら魔法昔話に当てはめて考えるとどうなるでしょうか?魔法昔話の典型例で考えれば、普通なら

絶望して死にかける→魔法を手に入れる→魔法によって成功する

というのが典型パターンのはずですが、この『雨と雪』の場合はちょっと違います。魔法のパワーを手に入れるのですが、それが実生活に役立つことはほとんどありません。この物語を異類婚姻譚と考えても同じです。狼の特殊能力は人間の生活にはほとんど役立ちません。せいぜい裏の畑が野生動物に荒らされなくなるくらいです。近所の農家がイノシシに畑が荒らされているのに花の畑だけがイノシシに荒らされないで済むのはイノシシが狼人間がいるのを恐れて花たちの畑に近づかないからだと思います。しかし、実生活で役立つのせいぜいそれくらいで、それ以外は特殊能力はほとんど役立ちません。かえって正体がバレる原因になりかねません。つまり、現代社会においては魔法や動物の特殊能力は昔話の主人公たちを成功させたようには役立たなくなっているのです。かつて魔法は富や名声をもたらしましたが、現代では無意味な代物になっているのです。

さて、雪と雨は狼人間のままでは社会に受け入れられません。彼らには人間として生きるか、狼として山に住むかのどちらかしかありません。結局、雪と雨はそれぞれ違った選択をします。どちらが良い悪いではありません。彼らにとって生きやすい世界、生きたい世界を選んだだけです。この辺りは人間社会と動物世界のどちらにも軍配を上げておらず、ある意味でフェアな見方かもしれません。例えば宮崎駿を考えてみると、近代文明を捨てて中世社会に逆戻りするような選択をする作品が多いです。『天空の城ラピュタ』とか『未来少年コナン』とかです。まあ、文明に対して批判的であるのは良いのですが、現代文明をまるごと否定して、時代に逆行して中世社会に果たして戻れるのかという疑問はあります。しかし、本作では現代文明を真っ向から否定はしません。文明も自然もどちらにも進むべき可能性が残されています。

ただもし、あえて良し悪しがあるとすれば、それは異類を受け入れられない現代社会が悪いと私は思います。シングルマザーが孤立する社会、あるいはシングルマザーを同じ規格に同調させようとする社会、あるいは同調圧力のある学校やよそ者をすんなりとは受け入れられない農村社会とか、これらは多様性を認めない了見の狭い社会、狭量な社会です。もちろん、狭量な社会の側にも言い分はあります。異分子は社会の規範を守らず、社会に迷惑など神経を逆なでする負担をかけるからです。確かに同質の者同士が規範を守る社会は同質の者たちにとっては住みやすい社会かもしれません。しかし、そうではない自由な精神をもった自由な生き方をする者にとっては規範に縛られた社会は非常に住みにくい社会です。この作品に対して批判的である人たちには、規範に縛られた不自由さのためにストレスを抱えており、逆に花のように自由に生きている人たちに対してヤッカミにも似たような否定的な意識が働いているように私には感じられます。「花のような自由な生き方は現実にはありえない。日本社会では花のような自由な思想や振る舞いは許されるわけがないのだ」というような考えが無意識に働いているように感じられます。ある意味、思考の手足を縛られた自由にものを考えられない不幸な人たちなのかもしれません。

さて、話をまとめると、この『おおかみこどもの雨と雪』という作品は魔法昔話の一種かもしれないが、かつての魔法昔話が魔法によって成功する話だったのが、現代社会では魔法はもはや成功の足しにはならず、逆に社会に居場所がなくなってしまう原因にもなりかねない、役立たずでやっかいな代物というように捉えることができると思います。人間社会が高度にシステマティックに組み上げられているのとは対照的に、狼人間のプリミティブなパワーは実生活に役立つことは何ひとつないのです。しかし、狼人間たちは狼に変身して大地をおもいっきり駆けまわったり、スリリングな狩りを楽しんだりと生き物に本来備わった能力を全開で発揮することができます。狼人間の特殊能力は生きている実感とでもいうようなプリミティブな悦び、原初的な悦びを彼らにもたらしてくれます。人間は文明を築いて生きやすい環境を作ってきましたが、そういった悦びをなくして果たして本当に生きる意味があるのかと狼人間は私たち人間に問いかけているように私には感じられます。狼人間には人間社会で生きるという道以外に生きる実感を得るために山に還るという選択肢がありました。しかし、私たち人間には狼に変身して山に還るという選択肢はありません。生きる実感を取り戻すためにはどうすれば良いのか、私たちはよく考えなければならないと思います。

7.駆けまわることの楽しさ
さて、最後にこの作品で印象的なものがあります。それは駆けまわることの楽しさです。私の個人的な体験ですが、私は田舎育ちで犬も飼っていましたのでこの感覚はよく分かります。冬に犬を連れて近くの田んぼに行って一緒に駆け回ったことが何度もあるからです。駆けまわるときの犬の楽しそうなことといったらありません。犬が本当に活き活きとしているのです。目がキラキラと輝き、ハアハアという息から充実感が滲み出ています。全力で地面を蹴って駆けること、肉体を躍動させることがどんなに楽しいか犬もよく分かっています。雨と雪、そして花も雪の中を駆けまわって最後に笑って地面に寝っ転がりますが、本当に笑いがこみ上げ来るくらい駆けることが楽しいのです。この作品では、他にも狩りをすることの楽しさを描いた場面もあります。狩りをすることも駆けることと同様に、いえ、もしかしたら、それ以上に楽しいかもしれません。ここではこれ以上説明しませんが、狩り、狩猟の楽しさを知るためには動物文学を読むことをお勧めします。バイコフやシートン、あるいはトルストイにそういった狩猟の楽しさを伝える作品があります。



追記
文章全体を書き終わって改めて考え直してみたら、オーソドックスに見れば、この物語は魔法昔話というよりは異類婚姻譚の一種といった方が正確だと思う(爆)。もう面倒だから文章を書き換えないけど(苦笑)。

2010年8月22日日曜日

クリストファー・ノーラン監督『インセプション』

 









 
 
1.はじめに
クリストファー・ノーラン監督、レオナルド・ディカプリオ主演の映画『インセプション』の解釈・感想を以下に書きます。なお、完全ネタバレで書きますので、未見の方はご注意下さい。また、例によって思いついたままに書き流しているのでまとまった文章になっていません。『インセプション』についてはちゃんとした文章をいつか書きたいと思いますが、とりあえず、物語の核心部分だけ先にこのブログに書いておきます。



2.2つの物語タイプ ~「現実と幻想の区別ができる物語」と「現実と幻想の区別ができない物語」~
 

最近、現実とバーチャルの区別がつかない人がますます増えている。その原因はテクノロジーの進歩によって本物とニセモノの区別がつかないほどに、ニセモノが本物に似せて作られ始めたからだ。私たちの身の周りにもニセモノがあふれかえっている。花に見せかけた造花や木製の壁に見せかけてプリントされた木目柄の壁紙などだ。私たちの周りはニセモノであふれている。映画では、それをもっと発展させたものがある。例えば、映画『ブレードランナー』だ。『ブレードランナー』に出てくる人工の蛇は普通に見ただけでは本物かニセモノかは判別できない。蛇から剥がれた一枚のウロコを顕微鏡で拡大して見たとき、そのウロコに製造番号が記されているのを発見して初めて、その蛇がニセモノだと分かるのだ。それがアンドロイドになると判別はもっと厄介だ。フォークト=カンプフ感情移入度測定法でも100%間違いなく完璧に人間かアンドロイドかを判別できるわけではない。本物かニセモノかの区別が非常に難しくなってきている。


 
『ブレードランナー』では物が本物かニセモノかの判別が難しかった。だが、物ではなく、この世界そのものが本物かニセモノかの判別が難しいという作品がある。それは『マトリックス』だ。『マトリックス』ではここが現実世界なのか電脳世界なのか普通の人には分からない。電脳世界が本物の世界と寸分違わぬように作られているため、電脳世界に繋がれている人々には、そこが現実世界なのか、電脳世界なのかが分からなくなっているのだ。人々は電脳世界を唯一の現実世界と信じて暮らしている。


 
このような現実と幻想の区別がつきにくいという設定は『荘周胡蝶の夢』で見られる典型的な世界設定だ。『荘周胡蝶の夢』とは、自分が蝶になって野原を愉快に飛びまわる夢を見ていたら、次の瞬間、「ハッ」と目が覚めたときには人間の荘周になっていたというものだ。荘周はそれを顧みて、自分が蝶になった夢を見ていたんだと最初は思ったのだが、実は今こそが夢を見ている状態であって、蝶が荘周になっている夢を見ているのではないかと考えることもできると気づく。「果たして自分は荘周なのか、それとも蝶なのか、真実の姿はどちらなのか?」という疑問に頭を悩ませる。結局、どちらが真実の自分の姿なのかをハッキリと区別することはできないという結論に至る。以上、「どちらが夢でどちらが現実かを明確に区別することはできない」というのが、一般によく使われる『荘周胡蝶の夢』の喩え話の意味だ。(*1)

ここで注意しなければならないのは、『荘周胡蝶の夢』では自分が人間なのか蝶なのかはどんなに深く考えても最終的に判別できないのだが、『マトリックス』や『ブレードランナー』では本物とニセモノは極めてよく似ているものの、それでも最終的には本物かニセモノかはギリギリ判別できるという設定になっている点だ。例えば、『マトリックス』ではネオやモーフィアスのように覚醒したわずかの人々が現実世界か電脳世界かを判別できるし、『ブレードランナー』ではデッカードやエンジニアたちは本物か人工物かをギリギリ判別できる。つまり、『荘周胡蝶の夢』と『マトリックス』では現実と幻想の区別が最終的には判別できるか判別できないかで大きく異なる。すなわち、『荘周胡蝶の夢』と『マトリックス』では、2つの異なる物語タイプとして区別される。さて、では、この『インセプション』はどちらのタイプの物語だろうか?この『インセプション』も実は『マトリックス』や『ブレードランナー』と同じで現実か夢かは非常に判別が難しいけれども、最終的にはギリギリ判別できるというタイプの物語に当てはまる。そして、どうやって現実か夢かを判別できるかがこの映画の鍵になっている。(*2)

3.『インセプション』のあらすじ
さて、前置きはこの位にして、まず『インセプション』のあらすじついて簡単に説明しておこう。主人公のコブは他人の夢に侵入して情報を盗み出す産業スパイである。他人の夢から情報を抜き取ることをエクストラクト(抜き取り)というが、コブの通常の仕事はこのエクストラクトばかりだ。だが、コブは大企業の社長サイトーから、エクストラクトではなく、インセプションの依頼を受ける。インセプションとは、エクストラクトとは逆に、アイディアを他人の潜在意識に植え付けることをいう。特定のアイディアを潜在意識に植え付けることによって、その人が他人から与えられたアイディアとは気づかずに、そのアイディア通りに行動してしまうというものだ。例えば、「タバコが嫌いになる」というアイディアを植え付けられれば、タバコを吸うのを止めるというように。ただし、注意しなければならないのは、潜在意識に植え付けられたアイディアは植物のように成長してゆくので、「タバコが嫌いになる」というアイディアを植え付けられた人はタバコを止めるだけでなく、タバコを吸っている人も嫌いになって、仕舞いにはタバコを吸っている人に殴りかかるようになってしまうかもしれない。植え付けられたアイディアがどのように成長して、その人を変えてしまうかまったく分からないのだ。このようにインセプションは危険な任務であって普通は引き受けない。ところが、コブはサイトーからライバル会社の社長に「自ら会社を潰す」というアイディアを植え付けるインセプションを依頼される。最初、コブはこの依頼を断ろうとするが、サイトーの示した条件に釣られて依頼を引き受けてしまう。その条件とはコブが米国に帰れるというものだった。実はコブは妻殺しの嫌疑をかけられて、国外逃亡を余儀なくされていたのだ。米国にはコブの子供たちが暮らしており、コブはどうしても子供たちの元に帰りたかったのだ。そこでサイトーは巨大な権力を行使してコブの罪を帳消しにして、コブを米国に帰すという。コブは危険と知りつつも、この任務に取り組むことにする。

4.夢の構造
さて、『インセプション』の設定で重要なものに夢の構造がある。『インセプション』で描かれている夢の世界は階層構造になっている。どういうことかというと、『インセプション』では、現実と夢の世界の2つしか世界が存在しないというわけではなくて、夢の世界は階層的に幾つもの世界が折り重なって存在しているという設定になっている。どうしてそうなるかというと、夢の中で再び眠りについて、さらに夢を見ることによってもう一つ別の夢の世界に入ってゆくというのだ。夢の中で夢を見ることによって、階下を下るようにドンドンと潜在意識の奥深くへと潜っていけるという設定になっている。

さらに気をつけなければならないのは現実と夢の世界では時間の流れるスピードが違う点だ。現実での1分間は夢の世界での20分に相当する。そして、夢の中の夢、最初の夢を第1階層とすると、夢の中の夢は第2階層になるが、第2階層ではさらに時間のスピードが遅くなる。現実では1分間のはずが、第1階層では20分間になり、第2階層では400分間になる。このように階層を下れば下るほど輪をかけて時間の流れるスピードが遅くなる。このように、まるでゲームのような特殊な設定を生かして、この物語は観客を楽しませるスリリングな展開が繰り広げられる。設定はこの他にも、キックや虚無、潜在意識の防疫反応や心の武装化などたくさんあるが、ここでは省く。



5.コブの抱える3つの問題
次に、主人公であるコブについて説明する。コブは機知によって危機を脱出する、いわゆるオデュッセウス型の英雄だ。情報を抜き取るときに機知を働かせてターゲットをうまく欺くのだ。ただし、ヘマも多い(笑)。例えば、ここが夢だとバラして相手の信用を得る作戦『チャールズ』はサイトー相手に一度失敗している(笑)。とはいえ、推測だが、数々の産業スパイで成功しているのだから、コブはなかなかの腕前なのだろう。

だが、そんな彼にも問題(弱点)が3つある。1つは、どうしても騙せない相手がいる。それは自分自身の潜在意識の投影である妻モルだ。相手は妻モルの姿を取っているが、その中身は実は自分自身だ。コブがいかにターゲットを欺くのが上手だといっても、自分自身を欺くことはできない。モルにはコブの知っている情報がすべて筒抜けでお見通しなのだ。だから、コブの機知もモル相手には通用しない。この映画はそんなコブがどうやって自分自身である妻と戦うかも物語の見所になっている。ところで、なぜ、妻であるモルがコブの邪魔をするのかはコブのモルへの罪悪感に原因がある。モルへの罪悪感が潜在意識となってモルの姿形をとって現れるのだ。では、その罪悪感の原因は何か?コブがモルに罪悪感を抱く理由は妻の死に深く関わっており、映画の終盤で明かされる。ともかく、潜在意識である妻モルはコブの仕事の邪魔をする最大の敵、最大の弱点になっている。

さて、2つめの弱点は夢の世界に長く居すぎたために、コブにとって現実と夢の境界が曖昧になっていることだ。「夢を見ているときは、ここが夢の中だと気づかない」というように、長らく現実と夢の間を行ったり来たりしていると、どちらが現実でどちらが夢なのか分からなくなってくるというのだ。コブはこれを避けるためにトーテムという自分だけが知っている掌サイズの小さな物体を用意している。この物体の微妙な感触を覚えておくことでここが現実か夢かを見分けるというのだ。映画の中でコブは小さな独楽を使って、その独楽が回り続けるか否かで、ここが現実か夢かを判別する。だが、それでもコブはここが現実か夢かで悩み続けて、しばしば独楽を回して自分が居る場所が現実であることを確認している。

そして、3つめの弱点、それは「もう一度、妻と一緒に暮らしたい」という願望だ。端的に言えば、死んでしまった妻への未練だ。コブは死んでしまった妻への罪悪感があると同時に、本当はもう死んでしまっているが、それでも愛している妻ともう一度一緒に暮らしたいと秘かな願望をいだいている。普通ならそんなことは不可能だ。死んだ人は甦らない。だが、夢の中でなら、それが可能だ。夢の中でなら妻を克明に再現することで、もう一度一緒に暮らすことができる。コブは現実と夢が混同するリスクを知りながらも、秘かに夢の中で妻を再現していた。だから、その所為もあって、仕事中の夢の中なのに、妻が、突然、現れたりする混乱を起こしていたのだ。だが、コブには愛する妻との間で生まれた子供たちを現実の世界に残してもいる。そのため、コブは子供たちと一緒に暮らしたいという願望がある一方で、夢の世界であっても、もう一度妻と一緒に暮らしたいという互いに相反する願望を抱えているのだ。子供たちのいる現実の世界で暮らすか、妻のいる夢の世界で暮らすか?実は、この映画は「この2つの願望のどちらを選択するか?」という葛藤の物語でもある。そして、その選択は心の最も深い深層部である虚無でコブに突きつけられる・・・。

6.『インセプション』の読解で最重要問題は何か?
さて、いよいよ、この映画で最も重要な問題について考えるが、最も重要な問題とは何か?まず、それを画定する。まず、作戦である次期社長のロバートに会社を潰す意志を芽生えさせるというインセプションには成功している。つまり、作戦自体は成功なので、これは最重要問題ではない。では、最重要の問題は何か?映画を見終わったなら、それが何かすぐに分かると思う。映画を見終わったとき、観客が一番に考えたのは、あの独楽は止まったのかどうか、すなわち、コブは現実の世界に戻れたのかどうかだ。したがって、「コブがサイトーを虚無から救い出して、現実の世界に戻れたか戻れなかったのか?」が最重要問題である。そして、「もし、戻れたのだったら、その証拠なり、そう確信させるものは何か?」というのが最重要問題から導かれる解答になる。(もちろん、その逆の「戻れなかったのなら、その証拠は何か?」というのもありえるが、戻れたか戻れなかったかのどちらか一方の論証にあればいい。)

7.『インセプション』のクライマックスはどこか?
さて、では、最重要問題の解答は何か?コブは現実に戻れたのか?戻れたのなら、それはどこで分かるのか?ここで、問題を考えるために映画を振り返ってみる。映画の冒頭シーンにもあったように、虚無の世界でコブが年老いたサイトーと再会したところまでは間違いない。そして、コブが自分自身にも言い聞かせるようにサイトーを説得して、サイトーが拳銃を握ろうとした瞬間にこの場面の映像は途絶える。次の瞬間、突然、コブが飛行機の座席で目を覚まして現実らしき世界に戻る。その後の映像はややスローモーションでどこか現実感がない。コブは空港で入国手続きを済ませて、あれよあれよという間に自宅に戻って子供たちと再会を喜ぶ。コブが現実か夢かを確かめようとテーブルの上で回した独楽が回り続ける中、映画は終わる。独楽は、若干、揺らいだ音を立てるが、独楽の回転が止まったかどうかは分からない・・・。

コブが機内で目を覚ました後の場面からはコブが現実に戻れたかどうかは分からない。なぜなら、独楽が確実に止まったわけではないし、子供たちの顔が映画の中ではじめて登場するが、それが戻れた証拠とは言えないだろう。単に、夢の中と知らずにコブの自らの意志で子供たちの顔を見ただけかもしれないからだ。つまり、機内で目を覚ました以降の場面から、コブが現実に戻れたかどうかを確信できる証拠はない。

では、ノーラン監督はコブが戻れたかどうかは観客の自由な判断に委ねたのか?戻れたかどうか、どちらの判断も可能で観客は宙ぶらりんな状態に投げ出されたのか?もし、そう考える観客がいたとしたら、その観客はこの映画を単なるアクションが連続するアクション映画としてしか見ていない。この映画が心に訴えかけてくる心情的な核心を見逃していることになる。もっと具体的に言えば、この映画のクライマックスの意味を分かっていない。そもそも、この映画のクライマックスはどこか?それが分かると自ずとこの最重要問題の答えも導かれる。(*4)

この映画のクライマックスはどこか?それは虚無の世界でのコブとモルの対峙だ。ヒーローとヒロインの最後の対峙だ。この対峙の後、虚無でサイトーと再会して映画が終わるまでの場面は問題の投げかけであって、その問題を解く鍵はこのクライマックスで示されている。このクライマックスが理解できていれば、この後の問題の答えも自ずと分かってくるのだ。

8.クライマックスの意味
第3階層でロバートを殺されたコブたちは再びロバートを生き返らせるために虚無へ行くことにする。このとき、アリアドネはモルのことでコブを心配するが、コブは即座に「モルはロバートと一緒にいる」と答える。驚くアリアドネをよそにコブは続けて「なぜなら、モルは一緒にいたいから」と答える。コブはなぜそこまでモルの気持ちが分かるのか?考えてみれば、簡単なことだ。このモルは妻といっても実際にはコブの潜在意識の投影だ。モルはコブ自身でもあるのだから、モルの考えていることも分かるというものだ。しかも、第3階層まで潜っているので、いわば深層意識の奥深くにいるのだ。つまり、心の奥深くにいるのだから、いわゆる本心、表層意識に邪魔されずに、プリミティブな自分自身の願望をコブ自身が自覚しやすいのだ。意識も無意識も分け隔てるものはなく、より一体となった覚醒した意識に近づいてもおかしくない。

さて、虚無へ潜ったコブとアドリアネはビルの高層でモルと対峙する。コブの言った通りの場所にモルはいたのだ!これも先述の通りでモルは自分自身なのだから、コブにも分かるというものだ。このとき、コブはもう一人の自分であるモルとぶつかり合う。モルはコブを誘う。「この世界で一緒に暮らしましょう」と。そう、コブは今までも自分の夢の中にモルを再現して、モルに罪悪感を抱きながらも、一緒に暮らすことを夢見ていたではないか。その潜在的な願望が潜在意識の化身であるモルから誘われたからといって不思議ではない。むしろ、必然といえる。このような形でコブは自分自身の願望を真正面から突き詰められる。果たして、コブの出した結論は?

9.幻想のモルと本物のモルのどちらを選ぶか?

 コブは自分が残るかわりにロバートの居場所を教えろとモルに要求する。モルは喜んでロバートの居場所を教える。だが、コブはまんまとモルを欺くことに成功する。確かにコブは虚無に残るが、それはモルと一緒に暮らすためではなくて、落ちてくるサイトーを救うためだった。コブは自分の潜在意識であるモルを欺くことに成功する。オデュッセウス型英雄のコブが相手を欺く中でも最も困難な自分自身を欺くことに成功したわけだ。コブはモルをしげしげと見つめながら、モルの誘いを断った理由を語り始める。コブは言う。「君は完全で美しい。だが、本物のモルとは違う。本物のモルは完全だけど欠点もあるひとだったんだ。自分の潜在意識は君を本物に似せてはいるけれど、やはり、本物とは違う。自分が愛しているのは完全だけど欠点もある本物のモルなんだ。君にはすまないけれど、自分が愛しているモルではない」と。ここには人間の複雑な感情がある。見た目の美しさなら、夢のモルの方が本物のモルよりも上かもしれない。なぜなら、夢は現実を美化してしまうからだ。しかし、コブは見た目の美しさだけでモルを愛しているわけではない。コブは欠点もある本物のモルを愛していた。これはどういうことか?これは若い頃の恋愛と熟年の夫婦愛に置き換えて考えてみれば分り易い。若い頃の恋愛は恋人の外見的な美しさに惹かれたりするが、夫婦愛になれば見た目の美しさではなく、相手の人間性や二人で共有してきた時間の中で経験を共にしてきた相手に愛着がある。夫婦愛は表面上の見た目の美しさを超えて、相手の本質や共有した経験があることにこそ惹かれるのだ。夫婦愛は見た目に左右される薄っぺらい愛ではなく、もっと深くて強い愛に支えられている。したがって、コブを現実に引き戻す原動力は見た目の美しさで惑わす幻想ではなく、本質的な夫婦愛なのだ。コブはそのことを自覚したとき、幻想の世界に浸るのではなく、子供たちのいる現実に戻ることを強く意識したのだと思う。(*5)

10.見た目では現実と夢の違いが分からなくなっている!
さて、クライマックスで「夢の中でモルと一緒に暮らしたい」という幻想を克服したコブは、今度は見る陰もなく年老いたサイトーに再会する。コブは年老いたサイトーに昔の約束を思い出させるように説き聞かせる。そして、元の世界に戻るために勇気を出して飛ぶんだと説得する。そして、次の瞬間、突如、機内の中で目を覚ます。目覚めたコブが見た周囲の世界はどこか非現実的だ。そう感じられる原因は映像にある。というのも、音声がなく、映像も少しスローモーションになっているからだ。また、年老いたサイトーと再会した場面からいきなり機内の場面に変わったことも原因のひとつに挙げられる。物語が強引に断ち切られたように、あまりにも突然なのだ。私たちが夢からハッと目覚める体験そのままだ。そのため、観客は目覚めたコブがいる世界が現実の世界なのか夢の世界なのか分からない。観客は「ここは現実なのか?」と戸惑う。今までコブがトーテムの独楽を必死になって回して現実か夢かを確認していたが、今度は観客が同じ目に会う。この文章の冒頭で『ブレードランナー』や『マトリックス』を例に出して、本物とニセモノの区別がつかない程似ているという話をした。今まさに観客は夢と現実の区別がつかない状態に置かれている。観客はどうすれば夢と現実を区別することができるのか?

11.試される観客
夢と現実を区別する証拠を探すためにラストシーンについて検証してみよう。ここが現実ではないかと思えそうな点がラストシーンには2つある。1つはコブが子供たちと再会して、この映画で初めて子供たちの顔が写る場面だ。この点からここが現実だと主張する意見があるかもしれない。だが、虚無においてモルがコブに子供たちの顔を見るように促した場面があったことを思い出してもらいたい。これはどういうことかというと、夢の中であってもコブは子供たちの顔を見ようと思えば見られるのだ。つまり、このラストシーンで子供たちの顔が写ったからといって、必ずしも現実とは限らないということだ。ここはまだ夢の中かもしれない。もう1つはトーテムの独楽だ。独楽の動きから現実か夢か分かるだろうか?ラストシーンで独楽は揺らいだ音を出すものの、独楽が止まるところまでは写されていない。独楽が揺らいだ音をたてただけではここが現実だと確証するわけにはいかない。以上のように、子供の顔や独楽だけではここが現実だと確信するわけにはいかない。つまり、ラストシーンからは現実か夢かは判別できない。では、ここが現実か夢の中かどうすれば、判別することができるだろうか?

だが、物語を少しさかのぼって考えてみれば、そんなに迷うことはない。よく考えてみれば、コブは幻想のモルを克服しているのだ。「夢の中でモルと一緒に暮らしたい」という執着心をコブは克服している。少なくともコブ自身は現実に戻ろうと強く願っていたのだ。そして、現実に戻って子供たちと暮らすことを切に願っていたのだ。そういったコブの強い意志がある限り、コブが自らの意志で夢の中にとどまることはありえない。確かにコブがいくら努力しても現実に戻ることに失敗する可能性はあるだろう。だが、コブの意志自体は現実に戻ることを目指しているのだ。つまり、推測ではあるけれど、コブは現実に戻ろうと精一杯努力したであろうと考えられる。だから、ラストシーンはおそらく現実だと私たち観客は確信できるのだと思う。

さて、話をまとめよう。現代は本物かニセモノか、現実かバーチャルかが判別しにくい時代になっている。特に映像はコンピュータグラフィックスの発達で本物かCGか分からなくなっている。見た目では本物かニセモノか分からなくなっており、人々の中には現実と虚構を区別できない者も出始めている。そして、テクノロジーは本物とニセモノの区別をますます分かりにくいものにしている。この映画でもコブが機内で目覚めた後の世界は現実か夢なのか映像からは判別できないようになっている。だが、物語の意味を考えれば、コブが現実に帰れたであろうことは明白である。いや、よしんば帰れなかったのだとしても、コブが幻想を打破して現実に戻ろうとしたことだけは間違いないだろう。そして、コブが幻想を打破できた中心にあるのは、見た目の美しさに惑わされない、妻への本当の愛なのだ。本当の愛というと語弊があるかもしれない。深い愛というべきかもしれない。恋愛から始まって夫婦愛へと熟成されたような、深められた愛といえるかもしれない。彼が愛しているのは外見がただ若くて美しいだけのモルではなく、モルの心、モルの本質を愛しているのだ。あるいは、二人で積み重ねて共有した経験を伴なっているという固有性、その固有性を持つ妻モルを愛しているのだ。簡単にいえば、長年連れ添うことによって愛着を持つ妻を愛しているのだ。現代は目に見えるものだけが信じられる時代と言われている。逆に言えば、目に見えないものは信じられない時代である。物事の本質や愛は目に見えるものではない。だが、目に見えないものであっても、それらを強く感じとることによってその存在を強く確信することができる。そして、この映画では現実と夢を区別するものとして、それら目に見えない本質や愛が現実と夢を分かつモノとなっている。この映画でノーラン監督はコブが機内で目覚めてから以降の映像で観客がここが現実か夢かを判別できるかどうかを試している。観客が映像に惑わされることなく、ここが現実だと確信することができるかどうか、そして、確信できる理由が見た目ではない強い愛であるということに気づくかどうかを試している。


見た目、視覚効果から考えれば、ここは現実というよりは夢の世界に近いのではないかと類推させられます。しかし、視覚効果だけでは判断できません。一般的に、映画では、たとえそこが現実であってもこのような視覚効果はよく使われることなので、映画の最後のシーンまで追ってみなければ最終的な判断はできないでしょう。では、最後のシーンはどうなっているでしょうか?コブは子供たちと再会を喜びます。子供たちを抱き上げる前にコブがテーブルの上で回した独楽が回り続けています。そして、最後に少しだけ揺らいだ音をたてたところで映画は終ります。結局、このラストシーンだけではここが現実か夢なのかはハッキリと断定することはできません。では、この映画は、結局、ここが現実なのか夢なのか、コブは現実世界に戻れたのか、それとも、夢の中の虚無の世界に落ちたままなのかを観客の判断に委ねたのでしょうか?いいえ、そうではありません。監督はこの映画ではっきりとしたメッセージを残していると思います。なぜ、監督はラストシーンの視覚効果として、このように現実と夢の区別が難しくなるような映像にわざわざしたのでしょうか?それはニセモノが本物と見紛うばかり作られているために、見た目では判断できないということを寓話として入れたのだと思います。では、本物かニセモノかを判断するものは一体なんでしょうか?それは見た目ではなく、物事の本質を見る目です。(*3)

以上のように、この映画は現実と幻想が非常に似通って区別が難しくなってしまったけれど、物事の本質を見極めれば、それが現実か幻想かの判別は可能だと言っていると思います。さらに、見た目の美しさに魅惑されるような薄っぺらな恋愛ではなく、相手の人間性や積み重ねた時間によって培われた夫婦愛こそが深くて強い大切な愛なんだと教えてくれていると思います。この映画のラストシーン(機内でコブが目覚めてから、子供たちを抱き上げて、独楽が回っているシーン)で監督は観客が現実と幻想を見極められるか試しています。そして、見極められるためには物語の核心である夫婦愛に対する理解がなければなりません。物語の設定がSFやアクションで満たされていますが、意識の階層を深く潜った心の最深部、冒険の最後の最後、物語の核心部分で人間の情緒(深い夫婦愛)を扱った文芸的な心に触れる作品になっていると思います。SFと文芸が見事に融合した良質の物語だと思います。



(注)
(*1)一般に『荘周胡蝶の夢』のたとえ話は本文の理解(←夢と現実の区別がつかない。違いはない。)で良いのですが、『荘子』の説くところの『荘周胡蝶の夢』の本来の意味とは違います。本来の意味では「人間になろうと蝶になろうと、姿かたちがどのように変わっても本質は変わらない」ということを説いています。ただし、もう1つ付け加える意味があって、荘子はシャーマニズムの影響を強く受けているので、シャーマニズムが説いている世界認識で、この世界は「この世」の他にも別の世界である「あの世」がたくさんあって、「この世」も「あの世」も共に現実であるということも言っていると思います。

(*2)現実とバーチャルの区別がつかない人にはこの映画は試金石になっていると思います。というのは、現実とバーチャルの区別のつかない人はそれこそこの映画の虚無世界に落ち込んだように、映画のどの世界が現実でどの世界が夢かが分からなくなってしまっています。物語の枝葉末節に囚われるのではなく、物語の核を掴むことができれば、この映画のどの世界が現実でどの世界が夢かの区別がはっきりと掴むことができます。そして、それはうわべの見た目(視覚)ではなく、本質的な意味を知ることでその区別ができるということを自覚します。

(*3)逆に言うと、見た目に惑わされる人は、このラストシーンの見た目に、意識的にか無意識的にかは分かりませんが、影響を受けて、コブは現実世界に戻れなかったと判断してしまいます。

(*4)判断を観客に委ねる作品に『ゆれる』があります。どちらにも解釈できる作品です。なるほど、どちらにも解釈できるようにうまく作れているという意味では技術的に優れている。だが、観客からすれば、「それがどうした?」となります。どちらの解釈もできるし、どちらか一方でもそれなりに意味はあるけれども、両方可能で意味が増えるかというとそうでもないでしょう。1+1=2であって、1+1が3にも4にも増えるというわけではないでしょう。単にテクニックとして上手にできましたという話ではないでしょうか。確かに技術的には優れているけれども、物語としては意味はありません。

(*5)「コブはモルと夢の世界で暮らしたがっている」というのは第3階層でのコブとアリアドネの対話からも推測できる。コブはアリアドネにモルはロバートと一緒にいると言います。モルはコブと一緒にいたいからです。言い換えると、潜在意識のモルのこの願望はコブの願望でもあるのです。コブはモルと一緒にいたいのです。ちょっと冷めた目で見ると、コブが一人でミッションのクリアーを難しくしているだけで一人芝居しているように見えるかもしれませんね(笑)。

細かいツッコミですが、「コブはモルを欺けないので?」はという疑問があります。ですが、このとき、コブはサイトーが落ちてくるから虚無に残るつもりでいました。ですから、「コブが虚無に残る」という言葉はモルと一緒に残るという意味ではなくて、サイトーを連れて帰るために残るという意味だったのです。ですから、コブはモルにウソをついたわけではありませんでした。


(*6)ラストの虚無の世界におけるサイトーとコブの年齢差について推測を書いておきます。海辺のサイトーの屋敷で再会したサイトーとコブですが、サイトーは明らかに極めて高齢の老人になっています。一方、海岸から拾い上げられたコブはやつれてはいますが、老人になっているわけではないと思います。この二人の年齢差はどうやって生じたのでしょうか?おそらく、サイトーは弾丸による傷が原因で第1階層で死んでいます。一方、コブは夢を見ることで虚無世界に行ってサイトーが落ちてくるのを待っていました。ですから、順番から言えばコブが先でサイトーが後のはずです。ですが、年齢差から考えれば、サイトーが長く虚無にいて、コブが後から虚無に来たと推測できます。何故でしょうか?おそらく、コブは夢を見る状態で虚無にいましたが、第1階層で水中に車で転落したときに水死してしまったのではないかと思います。もしくは、他の第2、3階層で死んでしまった。死んでしまうことによって、夢で虚無にいた状態から、サイトーのように死んで虚無に落ちてきた状態に変わったのではないでしょうか?言ってみれば、最初、虚無にいた状態がリセットされて、死んで再び虚無に落ちてきたのです。そういったプロセスがあったためにサイトーはコブよりも早く虚無にいたわけです。サイトーはすでに弾丸の傷で死んでいるので、水死することもありません。コブよりもいち早く虚無に落ちているのです。その僅かな時間差が虚無で拡大されてサイトーが老人になるまでの時間差となって現れたのだと思います。ですから、サイトーは虚無の中で老人になるまでの一生分の時間を過ごしたことになります。機内で目覚めたときの茫然としたサイトーの表情はその過酷な長い年月が年輪のように押し寄せて、眠る前の精気のある顔から目覚めた後の苦難の旅を経た後のような微妙な表情に変わったのだと思います。この辺りの実に繊細な渡辺謙の演技はとても優れていると私は思います。