2023年1月21日土曜日

NEWS2023.01

 
1月2日(月)
防衛費はインフラ整備のための公共投資とは違うってことかなあ。いくら防衛費にお金をかけても生産性が高まるわけではなく、むしろ負担が重くのしかかるだけということかしら。

1月3日(火)
このPFAS、ビデオニュースで沖縄米軍基地で廃棄された話を聞いてからずっと気になっている。沖縄の海藻類とか食べて大丈夫なんだろうかと。おそらく、かなり薄まるはずだから大丈夫だとは思うけど、やっぱり気になってしまう。日本政府は日米地位協定を改めてほしい。それとも国会で決めればいいのだろうか?

1月4日(水)
予定ではイニシャルのはずが、実際にはフルネームだったという話には驚いた。



1月5日(木)
室井さんには頑張ってもらいたい。

1月6日(金)
一概には言えないけど、一般と比較するとどうも単価が高すぎるってことかしら。どうも会計が杜撰な感じがするなあ。

1月7日(土)
大変勉強になった。宇沢弘文さんだけでなく、竹中平蔵についても勉強になった。宮台さんによるケネス・アローの不可能性定理の説明が分かりやすかった。


今週の私の中のホットな話題はColabo問題だった。とはいえ、私自身はColaboに不正会計があるとは思っていない。おそらく、杜撰あるいは未熟な会計処理があっただけではないかと推測している。貧困ビジネスなどと言われるような悪意ある搾取ビジネスがあるとはちょっと思えない。ただ、対立の構造でちょっと気になると思っている。

以前から言っているけれど保守>ラディカル・フェミニズム>セックスワーク肯定派の関係があると思っている。保守というと範囲が広いのでキモオタと限定していいかもしれない。

ただし、このキモオタという用語はあまり好ましくないと思っている。「キモい」というのはやはり問題がある言葉だと思うからだ。「キモい」という言葉を使ってキモオタを批判・非難したくなる気持ちも分からなくはない。しかし、それによる弊害の方が大きいように思う。多様性を認める社会を是とするなら、「キモい」という言葉は使うのはちょっと憚られると思うからだ。自分が思っている以上に世界は広い。想像以上に多様な人たちが存在する。「キモい」という言葉はそういう想像を超えた人たちを傷つけ、排除に向かわせる可能性が高いと思う。だから、個人的には「キモい」という言葉はなるべく使わないようにしようと思っている。いや、ほとんど使わないようにしようと思っている。なので、キモオタという用語もできれば、他の名称を考えてほしいと思っている。

さて、Colabo問題とは別の、一般的な意味での、キモオタvsラディカルフェミの闘いについてだが、キモオタの方が分が悪いように思う。キモオタの特定の性的嗜好を押しつけるようなものはやはり容認しがたいと思うからだ。とはいえ、押しつけているわけではなく、自分たちだけで楽しんでいるというのであれば、それは個人の自由ではある。私自身が「嫌だなあ」と思い始めたのは、自然科学や工学などの真面目な書籍の表紙に萌え絵が使われ始めた頃だ。内容は真面目そうなのに表紙が萌え絵でゲンナリした。「もっと硬派な表紙にして欲しいなあ」と思ったものだ。しかし、著者の意向でそうしたいというならやむを得ないし、出版の自由だからとやかく言えない。嫌だなと思いつつ、仕方ないと諦めていた。それに漫画コーナーに行くとそういう萌え絵が氾濫していて、そういう嗜好が多数派なんだと思い知らされたりした。(そういえば漫画コーナーには行かなくなって久しい。)そもそも私が若い頃の日本人はロリコンが多数派だった。私はロリコンではないので少数派だった。そんなわけで日本人男性の多数派の性的嗜好というのは萌え絵派なんだと諦めた。ただし、彼らにもそういった性的嗜好が「一般的ではない」という自覚はあったと思う。しかし、次第に「公的な場」に侵食していった。その方が「売れる」という理由で。そして「公的な場」に萌え絵が表示されることで、今度はそれを不快に思う人たちが現れる。それは当然といえば当然の話だ。そして、それがキモオタvsラディフェミの闘いになった。そんなわけでキモオタの方が分が悪い。ところが、逆恨みしたキモオタがラディフェミを攻撃するという愚行に走ったのが、昨今のキモオタvsラディフェミの闘い、本来の問題とは別の、場外乱闘的な、単なる相手に対するイチャモンをつける的な闘い、なんだと思う。とまあ、ここまではキモオタの身も蓋もないショーモナイ話なんだが、ややこしいのがこの後だ。

ラディフェミが敵と見做す者の中にセックスワーク容認派が含まれることだ。ラディフェミの世界観ではキモオタもセックスワーク容認派も同類と見做すようだ。キモオタもセックスワーク容認派もどちらも気持ちの悪い性的世界観を持っていると考えているようだ。逆にいうとラディフェミの性に対する世界観というのはかなり偏狭なように思う。狭い、偏った、限定的な性の世界ではないかと思う。そういう狭い性の世界観なので、それ以外の性の世界観を容認できないために、かなり「保守的」ではないかと思える。自分たちとは異なる、他の性の世界観に対して攻撃的になったりしやすいと思う。ラディフェミの性の世界観だけが唯一の性の世界観であり、それが正しく、それ以外の「間違った性の世界観」を糺すために、法的に取り締まろうとさえしようとしていると思う。ラディフェミの狭い世界観が端的に表れているのが、トランスとの相性の悪さだと思う。ラディフェミはトランスの性的世界が理解できない。そのためにラディフェミとトランスとの間には軋轢が生じやすい。ラディフェミがトランスを自分たちの狭い性的世界観で自分勝手に解釈してしまうために軋轢が生じるのだと思う。ラディフェミの仲間内だけで自分たちの性的世界観を共有しているだけなら問題はないのだが、それを仲間以外のいる世界に広げると途端に摩擦が生じる。ただ、ラディフェミは自分たちの性的な世界観が偏狭なことに無自覚だ。おそらく、その世界観はかなり硬いのだろうと思う。私はラディフェミたちのそういった偏狭で硬質な性的な世界観を変えるべきだとは思わない。ラディフェミのコミュニティの中だけならその世界観でも良いと思う。しかし、それはあくまでもラディフェミの中だけの世界で通用する世界観であって、ラディフェミの外の世界ではそれは通用しないし、それを通そうとすれば問題が生じると思う。ラディフェミの性の世界観は多様性を認める世界では通用しないと思う。しかし、多様な世界の中にあるラディフェミというひとつのコミュニティの中では通用する世界観だと思う。そういうコミュニティがあってもいい。ラディフェミは自分たちのコミュニティを作ることだけに専心して、ラディフェミの世界観を外の一般の世界に広げるのは止めてほしいと思う。ラディフェミのコミュニティを広げる手段として他のコミュニティを攻撃するのは止めてほしいと思う。

一連の騒動の原因はラディフェミが誰彼かまわず攻撃したことが発端にあるように思う。いや、発端というのはちょっと正しくなくて、キモオタの萌え絵が公的な場にまで氾濫してきたこと、それを誰も注意せず野放しにしてきたことに問題があると思う。また、キモオタがそういった注意に反発したことも問題だと思う。公の場に氾濫することは「やりすぎ」だという自覚が必要だと思う。内輪の世界であれば、いくらでもその道を極めるとかすればいいが、公の場では、それは仲間以外のひとの目にも触れるので不快であろうしダメだと気づくべきだ。ただ、ラディフェミもキモオタを全否定するのはどうかと思う。「そういう趣味のひとたちもいるし、仲間内だけで楽しむ分にはかまわない」ととどめておけばいいと思うのだが、「キモオタは撲滅しなければならない」というような全否定するような態度をとるのは問題だし強い反発を招くと思う。さらにセックスワーク容認派を攻撃したのも問題だ。考え方が違うからという理由で貶めるのはあまりにも狭量だ。ラディフェミもセックスワーク容認派も救済という面では似たような共通の目標を持っている。だから、一部では協力できる部分があるはずだ。ところが、ラディフェミは自分たちだけが唯一絶対に正しいとしてセックスワーク容認派を貶めている。そんな偏ったことをすれば救済からこぼれ落ちるひとたちも出てくるはずだ。一連の流れを見ていて、ラディフェミにも反省が必要だと思う。ラディフェミは外の世界が存在することを知り、自分たちと異なるコミュニティも尊重することを学ぶべきだと思う。このままでは「偏狭なラディフェミとは一切協力できない」と他のコミュニティから縁切りされると思う。

1月9日(月)
既視感。米国の連邦議事堂乱入事件と同じ。

インクルーシブにしないとダメだけど、当然、そこで摩擦が起こる。でも、それは乗り越えないといけない障壁だと思う。それに仕事にもプラスになる場合もあると思う。

1月10日(火)
私は今の立憲民主党には期待していないから、こういうこともあるだろうなと思う、くらいの感想だ。

やっぱり、こうなるかなあ。

アニメ『未来少年コナン』の太陽エネルギーみたいでカッコいい。でも、あのアニメの中の太陽エネルギーほど強大なエネルギーではないんだろうけど。

1月11日(水)
ふむ。

殺された側は納得が行かないという気もあるように思う。でも、殺されるだけの理由があれば話は違ってくるが・・・。ちょっと複雑。ノルウェー連続テロ事件で77人も殺した犯人が服役中に大学を卒業した話があって、なんか納得がいかない気分になったのを思い出した。私自身は死刑制度は廃止した方がいいと思っている。理由は冤罪があるから。しかし、ノルウェー連続テロ事件の犯人の場合は冤罪は無いし、精神病が争点となったみたいだけど、77人も殺害した場合は精神病であっても極刑でいいんじゃないかと思う。自分としてもこのあたりはちょっと迷う。

安田さんの「新鮮なビールを冷蔵庫から取り出したような気持ち」に笑った。安田さんにもそういった人間的な感情があるんだなあって(笑)。

結局、仁藤夢乃氏も北原みのり氏もラディカル・フェミニズムの思想が背景にある。ラディカル・フェミニズムは非常に偏った考え方をする思想で、現実を偏った一面でしか捉えないため、偏った現実認識になっている。そして、偏った目標を掲げている。その典型的な例が売春廃絶だ。ラディフェミはセックスワークを認めない。セックスワークはすべて性搾取だと考える。セックスワークを認めないから、ポルノも認めないということになる。ラディフェミは宗教保守と同じような厳格な規範を持つが、宗教保守と違うのは男女平等を強く主張している点が異なる。そのため、宗教保守は売り手(セックスワーカー側)を責めるが、ラディフェミは買い手(客側)を責める傾向がある。一般のフェミニズムは男女平等と考えると思うが、ラディフェミはシス女性中心主義的な、女性優位な傾向があると思う。さらに言えば男性嫌悪的な傾向、男性器嫌悪的な傾向があると思う。推測だが、ラディフェミはゲイやトランス女性に対して嫌悪感を持っている傾向があると思う。ラディフェミが「キモい」という言葉を使うのは自己中心的なシス女性中心主義的な考えに基づいているからだと思う。ラディフェミの考えるシス女性のモノサシから外れた異質なものは「キモい」と決めつけて排除しようという排他的な考えがあるのだと思う。自分たちとは異なるジェンダーを理解しようとしたり共存しようという考えがあまり無いのだと思う。社会は多様な性が共存する場だ。ラディフェミが自分たちの共同体(村社会)を作って、その村社会の中だけで自分たちの秩序に従って暮らしていく分には一向にかまわないと思う。それは宗教保守で言えば修道院にあたる。しかし、そのラディフェミたちのルールを社会全体のルールにまで押し広げようとするのは私は反対だ。ラディフェミたちがやろうとしていることは、宗教で言えばイスラム教徒がイスラム共和国を作るのと同じだ。しかし、日本ではどう考えても不可能だろう。ラディフェミが自分たちの思想を布教するのは自由だから布教を続ければいい。しかし、何度でもいうが私はラディフェミには反対だ。で、ここで話が終わりではない。問題があるのだ。それはラディフェミの運動がセックスワーカーの安全と権利を守るための運動に逆行するというのが問題なのだ。歴史的に、これまでセックスワークが労働と認められず、売春を廃止しようとしてかえってセックスワーカーの安全と権利を脅かす結果となってきた経緯がある。その反省を踏まえて、売春を労働と認めてセックスワークと捉えることで、セックスワーカーの安全と権利を守ろうという運動がようやく広がってきた。近年、宗教の人々への影響力が弱まってきたことも要因のひとつだと思う。ところがそこにラディフェミが現れて宗教保守とは別のアプローチでセックスワークを貶める運動が起こってきた。ラディフェミは売春廃止を訴えているが、結果的にはセックスワーカーの安全と権利を脅かしている。買春側を責めているが、結局、セックスワーク全体にスティグマを植え付けているのと同じだ。宗教保守がこれまで散々植え付けてきたスティグマと同じだ。「もうそういうのは止めようよ」というのがセックスワーク容認の考えだと思う。人間の性欲を容認して売春をセックスワークと捉えて、スティグマを無くしセックスワーカーのみならずセックスワーク全体の安全と権利を認めようというのがリベラルな考えだと思う。宗教保守やラディフェミたちはストイックに生きたければストイックに生きればいい。それは個人の自由だ。しかし、自分たちの偏った潔癖症を他者にまで押しつけるのはどうか。個人の自由の侵害ではないか。リベラルはラディフェミたちを注意し警戒しなければならない。なぜならラディフェミたちはリベラルではないからだ。一見、ラディフェミはリベラルに見える。しかし、実際はそうではない。だから注意や警戒が必要なのだ。そして、ひとつの指標として「キモい」というワードがある。リベラルは「キモい」という言葉をあまり使わない。なぜならリベラルは異質な他者と共存することを考えるからだ。差別を嫌い、多様な社会を目指すからだ。しかし、ラディフェミは違う。異質な他者に対してネガティブな意味を込めて「キモい」と言う。ラディフェミは買春者に対して「キモい」の烙印を押して貶めようとする。かつて売春婦に対して緋文字の烙印を押して貶めたのと同じだ。人間には性欲がある。そしてお互い同意の上でセックスするなら売春であっても問題ないのではないか。私は問題ないと思う。(日本も売春を合法化すべきだと思う。)だからラディフェミがやっていることは時代に逆行することだと思うし、新たな形でのスティグマの植え付けだと思う。繰り返しになるが、リベラルはラディフェミに警戒せよ。ラディフェミはリベラルではない。ラディフェミはセックスワークに新たな形でスティグマを植え付けようとしている。いまのところラディフェミは宗教保守ではないが、思想保守といえる。(もしかしたら、ジェンダー保守、ある特定のシス女性によるジェンダー保守かもしれない。今後、研究やラディフェミの展開次第ではそうなるかもしれない。)そして、ラディフェミを見分けるキーワードは「キモい」だ。「キモい」を連発する人に注意せよ。

1月16日(月)
これまでにない新たな、別な視点での発言をしてくれそうで期待していたのだが、とても残念。そして、彼が鬱を患っていたのも意外だった。議員辞職しても自由な発言は続けて欲しいものだ。

合掌。携帯電話の着信音にライディーンを使わせてもらっていた時期もありました。

GYAOには無料で映画やドラマを観せてもらって大変お世話になった。感謝。NetflixやAmazonPrimeビデオなど動画配信のサブスクサービスが乱立して、日本のGYAOが残れなかったのは残念だった。日本の動画配信サービスで残るのはアダルトビデオだけなのかもしれない。それは文化という視点から見れば、ちょっと寂しい気もする。逆に、日本のアダルトビデオ業界は世界のアダルトビデオ産業でトップになれるようにがんばってもらいたい。そのためには、日本はモザイク規制を止めた方が良いと思う。もちろん、国によってはモザイクを必要とする場合もあるだろうから、そういった国にはモザイク版を提供すればいいと思う。しかし、モザイク無しの国で競争するためには、モザイク規制を撤廃してモザイク無しの作品でチャレンジすべきだと思う。なので、モザイク規制を撤廃するべきだと思う。日本経済のため、日本の産業力強化のために、モザイク規制を撤廃すべきだ。なにより、猥褻という概念がそもそも古くて誤っていると思う。性教育の面からも身体のファクトを見えなくしてしまうのでモザイクは良くないと思う。

1月18日(水)
このような訴訟があったことに驚く。

1月19日(木)
フェイスブック、アマゾンに続いて、マイクロソフトもリストラか。

1月20日(金)
さらにグーグルもリストラ。

ChatGPTって何だろう?


Colabo問題について
①ラディフェミvsキモオタ
最初は温泉むすめ騒動に端を発した仁藤夢乃vs暇空茜の対立だと思っていた。思想的な構図としてはラディフェミvsキモオタだ。最初に仁藤夢乃が温泉むすめを性的コンテンツだとして批判して、それに腹を立てた暇空茜が仁藤夢乃のColaboに対してイチャモンをつける的な批判するという経緯だと思っていた。そして、暇空茜の批判によってネットでColabo批判が広がり、それに対して仁藤夢乃が弁護団を組織して訴訟を起こすという対抗措置をとったことで、両者の対立が徹底的なものになったと思っている。

②ラディフェミvsセックスワーク容認派
ところが、以前からあったのだが、仁藤夢乃などラディフェミによるセックスワーク容認派への批判がこの騒動でも声高に繰り返されたために、セックスワーク容認派も仁藤夢乃らラディフェミの「セックスワークやポルノを廃止する思想」に反発することになった。ラディフェミはセックスワークやポルノを性的搾取だと考えており、それらを廃絶することを目的としている。そして、廃絶するための手法として、買春者にスティグマを貼って社会的な地位を奪おうとしている。端的に言えば買春した男性を侮辱するということをしている。ラディフェミの思想的な背景には男性嫌悪や男性器嫌悪のようなシス女性中心主義というような思想が見え隠れているように感じられる。宗教保守の場合、売春女性がスティグマの対象となり、古くは石打ちの刑や緋文字の烙印を押されるなどの迫害を受けてきた。ラディフェミの場合はそれを裏返して買春男性を責めている点が異なる。他にも異なる点はあるが、宗教保守が女性差別であり、ラディフェミが男性差別とどちらもジェンダー差別であるところは同じだと思う。(これらを差別とまで言い切っていいかどうか私にも迷いがあるが、とりあえず、今回はジェンダー差別としておく。その方が構造の見通しが良くなるからだ。そして細部で多少は修正が必要かもしれないが、大まかな見取り図としては間違っていないように思うのだ。)そんなわけで、ラディフェミの思想やその手法は非常に問題があると思う。ラディフェミはかなり偏った思想ではあるが、個人がどのような思想を有しようとそれは個人の自由だから構わない。私自身はそのような思想は良くないと思っているが。ただし、手法が問題だ。スティグマの烙印を押しつけたり、相手を侮辱するのが正しい手法だろうか。事実に基づいているなら法的に問題ないかもしれないが、虚偽の場合は問題だ。いや、たとえ仮に事実に基づいているとしても、スティグマの押しつけるのが本当に正しいと言えるのか。それは違うと私は思う。そんなわけで、私はラディフェミの思想は偏狭な思想だと思うし、その手法は非常にネガティブな良くない手法だと思う。

③Colaboの不正疑惑
発端は暇空茜による逆恨みだったが、それがもしかしたら瓢箪から駒になるかもしれないと最近は思うようになった。理由は松沢呉一の記事を読んだからだ。元々、松沢呉一もセックスワーク容認派の立場からラディフェミを批判していたのがキッカケだと思う。ところが、暇空茜によるColabo不正疑惑の追及で、いろいろと不審な点が見られるようになった。当初は私も単なる杜撰な会計処理程度のことだろうと思っていたが、どうも理に適わない点が多々見られるようになり、不審に思うようになった。今のところ、不正ではないまでも、活動指針と実態とは違うのではないかという気がしてきている。不正ではないが、看板と実態とは異なっているのではないかという気がしてきているのだ。Colaboが自分たちの活動資金を集めるために自分たちの事業をアピールすることは不正ではない。しかし、資金提供する側が過大に評価してしまうのは問題だ。実態を見極められずに過剰に資金提供してしまうのは無駄遣いになるからだ。もちろん、無駄遣いをゼロにすることなどは不可能だ。だから、多少の誤差はあっても仕方ない。しかし、それがあまりに大きいとさすがに資金提供する側の問題だと思う。どうもその傾向が見受けられるように思う。そんなわけで今後の展開を見守りたい。Colaboの実態が明らかになった時点で人々は判断することになると思う。

1月24日(火)
へえ。

1月25日(水)
以前廃案になった改悪入管法が再び浮上してきた話。油断ならぬ。

1月26日(木)
もっともな指摘だと思う。

1月27日(金)
合掌。

1月28日(土)



まとめ
防衛費といい原発といい、日本は変わらない。そして、止められない。以前に敷かれたレールをひたすら走り続ける。そんなことをしていたら、いつかは崩壊するだろうに。しかし、問題は先送りするのが日本の政治。戦略もなく、とにかく金になる話、利権を作るのが日本の政治。誰も真面目に未来のことを考えない。

日本にはリベラル政党は存在しなくなった。2021年10月31日の衆院選の敗北が決定的だった。その後、自民党と自民党以外の保守政党がじわじわと増える結果となった。立憲民主党も中身はどんどん保守化している。残念だけど日本にリベラル政党が無くなってしまった。また、自民党も含めて政治のクオリティが低下している。原因のひとつは戦後が遠くなってしまったこと、もうひとつの原因は対抗勢力であった左派が無くなって、ぬるま湯につかっていて呆けてしまったのだと思う。その時々の時流に乗った建前を言っていれば良くて、本性はただの利権屋になっている。有権者も自分たちの利権を増やすのに忙しい。政治家が政治家なら、有権者も有権者だ。日本とは、そういう国。

今月はColaboの件が個人的には大きなトピックだった。繰り返しになるが、キモオタvsラディフェミvsセックスワーク派の構図だ。当初は暇空茜による温泉むすめ排除に対する意趣返しに過ぎないかと思っていたが、瓢箪から駒で、Colaboの活動自体がどうも不審な点があるように思えてきた。Colaboが女性支援を盾にして、実際の活動実態とそぐわない資金集めをしている可能性がある。資金集め自体はColaboの自由だが、それに乗せられる資金提供者が問題だ。資金提供者の目が曇っている可能性がある。資金提供者が考えているColaboの看板とColaboの看板の背後にある実際の姿がかけ離れている可能性がある。というのも、女性支援の背景にあるラディフェミの思想がかなり偏った考えに基づいている可能性があるからだ。なんでもかんでも性搾取だと主張して極端な風俗・ポルノ廃止論を唱えている。ラディフェミ内部は一枚岩ではないだろうけど、その思想の一部には、無自覚かもしれないが、女性優位思想、男性嫌悪・男性器嫌悪のシス女性中心主義が隠されているように思う。極端に言えば、男女平等ではなくて女性優位(女尊男卑)を目指している可能性がある。たしかに、これまで性差別によって女性が不利に扱われてきた歴史がある。しかし、注意しないといけないのは、ラディフェミはそれに乗じて女性優位な施策を通してしまいかねないことだ。こういうことを言うと「まさか」と思われるだろうし、昨今の言い方で言えば、「陰謀論だ」と言われかねないと思う。しかし、ラディフェミの思想を見誤ってはならない。かなり危うい思想をラディフェミは内部に孕んでいる。そして、その核にあるのは、おそらく、権力への意志、支配欲求だと思う。

なお、暇空茜に関していえば、リバタリアンだと思う。彼の「認知プロファイリングとは何か」という動画を見たが、成功したリバタリアンに見られる典型的な考え方だった。


2023年1月3日火曜日

22年の振り返りと23年に向けて


1.2022年の振り返り

2022年を振り返るとウクライナ侵攻と安倍元首相暗殺が大きなトピックだった。

ウクライナ侵攻に関してはロシアが早々とウクライナの東半分を占領するかと思ったがそうはならなかった。仮に占領できてもウクライナ国民の抵抗で統治が難しく泥沼化してしまうとは思っていた。ところが欧米の支援で占領すらままならなかった。それどころか現時点ではウクライナがロシアを押し返しつつある。したがって、どこに落ち着くかまったく予測できない。ウクライナは欧米の支援が無ければ戦いを継続することは難しいだろうし、ロシアもいつまでも消耗戦を続けることは不可能だろう。どこかで調停しなければならない。しかし、クリミアやロシア系とウクライナ系の住民が混在している地域ではどちらに転んでも、戦後に混乱や悲劇が生じるだろう。結局、国家に振り回されるのは人々だ。

安倍元首相暗殺に関しては、岸田政権の影の実力者であった安倍元首相がいなくなったことで権力の空白ができた。清和会は後継者を決められなかったし、統一教会問題でそれどころではなかった。宏池会の岸田首相としては、中心に空白のできた最大派閥の清和会とのバランスを取りながらの政権運営になる。安倍元首相が存命中のときの岸田首相は安倍の操り人形だったが、いなくなった今となっては、清和会の合意を取りつけながら自身の政策を織り交ぜつつの政権運営になっていく。清和会としても統一教会問題で疵がついてしまったのでおいそれと選挙で決着をつけるというわけにもいかないし、当面は選挙は無いので時間をかけて失地回復をはかればいいという腹積もりもあるだろう。したがって、岸田も清和会もお互いの顔色をうかがいつつ、お互いの顔を睨みつつ、腹をさぐるような政治になっていくだろう。ただし、岸田や清和会の政治家だけに限らず、今の政治家全般に言えることだが、国の舵取りや国家戦略を本気で考えている者はいない。彼らは権力の座にしがみつき、そこから自身にとっての旨味を引き出すことだけを考えている。防衛費倍増が良い例だ。予算が倍増すれば、それだけ政治家の旨味が増えると考えている。本気で国防のことも考えていなければ、負担する国民のことも考えていない。

さて次に、日本経済に関しては、日本の産業で半導体と家電が没落して自動車しか残っていなかったのが、電気自動車の出現によってついに自動車までダメになってしまうというのが見えてきた年だった。資源の無い国・日本は一体どうなってしまうのだろう。こままでは、とても貧しい国になってしまう。

日本の政治については、私はリベラル派であるので、リベラルの立場で言えば、日本政治がリベラルになることは無さそうだ。私は2021年10月末日の衆院選でリベラルが敗北したことですでに諦めた。与党の数多く失策がありながら、それでもリベラルは勝てなかった。本来なら保守の失策でリベラルは何もしなくても勝って良い選挙だ。ところが、有権者はそうではない選択をした。結局、日本ではリベラルは受け入れられないのだ。そして、2022年は立憲民主党は実質的には保守化していったし、維新が伸びたり、参政党なる保守政党がでてきたりした。自民党がダメだと思った有権者は別の保守政党を望んでいるのだ。結局、日本はほとんどの有権者が保守なのだ。2年前の記事でも書いたが、日本はリベラル派が少数派なのだ。

ところで、半導体が少し変わった動きを見せ始めている。米中対立がもとで、欧米が半導体製造を西側諸国で行おうという動きがある。これは日本にとっては運が良いことかもしれない。ただし、米国としてはかつてのCPUがそうだったようにハイテク部門は外には出さないだろうとは思う。

個人的に記憶に残っているのは、日本の障害者施策に対して国連障害者権利委員会の審査に基づいて国連から出された改善勧告だ。大きなポイントは3つで、障がい者を分離する支援学校を止めてインクルーシブな教育にせよということと、精神障害者の入院が多過ぎるということ、それと障害者権利条約の日本語訳がおかしいということだった。日本語訳がおかしいというのは、極端に言えば、日本の障害者福祉に対する考え方がおかしい、間違っているのではないかということだとも言えると思う。私はこのニュースからダイバーシティとインクルージョンの2つが日本には改めて必要だと感じた。そして、それこそが日本社会が変われるキッカケがあると思えた。


2.2023年に向けて

(1)日本の問題点

日本の構造的な問題については、以前の記事で書いた通りで今も変わっていないが、再度、記しておくと、日本の家族が子供中心の家族形態になっていること、日本の経済制度が既得権益層が有利になるように作られていること(そのため古い産業が延命して新しい産業が育たず産業構造の転換ができない)、中央集権で地方分権になっておらずまた地方分権を補完するネットワークも未発達でムダが多いこと、公文書など記録を残さないことの4つだ。これら日本の問題は今も変わっていない。

さて、どうすればこれらの日本の問題は解決・改善されるのだろう?

(2)家族支援、労動者支援、性教育、市民教育

私が昨年読んだ本で感銘を受けたものにネウボラに関する本があった。ネウボラとは子育てを支援するシステムでワンストップ窓口がありながらバックには様々な専門家が控えていて利用者の問題によってそれぞれ支援するというものだ。支援対象は基本は子育てに関するものだが家族の人間関係など家族生活全般に広げられると思う。ヒトを家族人という立場で捉えて、その家族に問題があればそれをネウボラが様々な専門家を混じえて解決していくというものだ。日本では家族のことはその家族に任せるという習慣があると思う。他人が口出しすべきではないというようなものだ。それは閉じたコミュニティになってしまい、必ずしも幸福なコミュニティになるとは限らない。そこで不満や悩みがある家族人に外部組織であるネウボラが専門知識を活かして支援するのだ。それによって家族生活の満足度を向上させることができると思う。

同じようなことを労働者に対してもできないだろうか?これまで日本は社員の教育・育成を社内で行ってきたし、不安や悩みなど総務部や労組などが担ってきたと思う。日本は社員を労組も含めた会社が丸抱えする仕組みだった。日本は社会主義ならぬ会社主義だった。しかし、今や時代は変わった。正規と非正規で労働者は分断されている。労働者を人的資源と捉えた場合、これまでのように人材の管理を会社に丸投げしていたのでは十分に労働者の潜在能力を引き出せないと思う。さらに制度が複雑だし立場によって制度もいろいろと違ってくる。そして何より閉じたコミュニティである会社は不条理を労働者に強いている場合がある。しかも悪いことにその不条理に所属する労働者がその不条理に過剰適応したりするのだ。日本人の特徴である所属する組織に対する忠誠だ。いや、忠誠というより損得勘定からくる偏狭な利己主義に過ぎない。そういった悪しき習慣を変えるためにも外部とのパイプを持つべきだと思う。ヒトを労働人と捉えて労働人をサポートするネウボラのようなワンストップ窓口を作るのだ。定期的にカウンセリングして、スキルアップやキャリアアップしたいのであればそれを紹介し、労働条件に不満があれば外部の労組や行政に紹介したりするなど、労働人の育成や悩みなど対処できるワンストップ窓口を作るのだ。そうすれば労働者の質も満足度も向上していくと思う。それはひいては日本の産業力の向上につながる。

以上、述べたことは、家族支援、労動者支援という言葉に集約できると思う。ヒトを家族人あるいは労働人と捉えて、外部組織がそれをサポートするのだ。子育て期間だけでなく、生涯そういうサポートを受けてもいいとさえ思う。

さて、その他にも、性教育やシチズンシップ教育を用意すべきだと思う。性教育に関しては家族支援の子どもができる前の支援として位置づけてもいいかもしれない。シチズンシップ教育についてはその地域社会に詳しい人たちに委ねるべきかもしれないが、学校で先生が行ってもいいかもしれない。日本にジャーナリズムを教える専門学部があれば、そこの先生に教えてもらうのが現状の課題なども聞けていいかもしれない。

ところで、日本の学校教育ももっと多様化していいと思う。以前、聞いた話では、デンマークでは、クラス制もあれば、もっと少ない少人数制(10人未満だろうか?)もあり、さらに個人の場合もあるという。そして、そこに障がい者も加えて普段から社会には多様な人たちがいることを知るべきだと思う。そして、組織は閉じるべきではなくて、外部から人を招いて外部からの教育も取り入れていくべきだと思う。日本人は兎角閉じた中で完成度を高めてゆく。しかし、実際は完成度を高めたのではなくて過剰適応しただけに過ぎない。現実は純粋培養が可能な閉じたシャーレではなく、多様で複雑で様々な生き物が往来するジャングルのようなものだ。現実に対応できる人材に育てるためにも学校は開かれた組織であるべきだと思う。

ここまでをまとめると、家族支援、労動者支援、性教育、市民教育がこれからの日本には必要だと思う。

(3)日本と世界について

日本の政治に関しては、リベラル派としては多数派になる可能性が低いと思っている。それでも日本の政治にリベラルが影響を及ぼすためにはどうすればいいかだが、これまた外部の通路を開けておくということになると思う。世界ではリベラルはネットワークを広げつつあると思う。その水流を日本に導き入れることだと思う。言ってしまえば、出羽守になればいいと思う。「欧米では〇〇だ」という風に。日本人は黒船に弱い。同じことを日本人と外国人が言った場合、日本人は日本人の言うことを意固地なまで撥ねつけるだろう。ところが、外国人が言ったなら黙って聞いたりする。そして、大勢が変わったら、ガラッと180度転換したりする。日本人は物事を本質で論理的に捉えるのではなく、空気で捉えて意思決定する。リベラル派の日本人が保守派の日本人に何を言ってもムダである場合が多い。だから、馬鹿にされようと出羽守で囁いてやればいいと思う。まあ、それでもムダである場合が多いだろう。

イメージだが、世界はツリーのような階層的なヒエラルキーとそれを横断するネットワークで構成されるようになる。横断するネットワークはリベラルなものもあれば、そうでないものもある。リベラルなネットワークが今より張り巡らされることによって包括的になって世界は多様性を享受できるようになるように思う。逆に全体主義を補完するようなネットワークが張り巡らされれば世界は多様性を失い、息苦しいものになっていくと思う。そして、その結果、収奪的になって社会は活力を失っていくだろう。米国や中国、EUやその他の世界各国がそういった分岐点にさしかかっている。かつては連合国と枢軸国の戦いだったり、その次は資本主義と社会主義の戦いだったりした。今度はツリーとネットワークのバランスの戦いになる。ツリーとネットワークのどちらかが勝つということではなくて、ツリーとネットワークの組み合わせやバランスが人々にどれだけ活力を与えられるかという戦いになる。