ラベル Books の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Books の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年11月29日土曜日

今月読んだ本2025.11

インド』(近藤正規)
インドについて大変勉強になった。モディ首相についてもっと知りたくなった。現在のインドの繁栄は彼によるところが大きいのだろう。また、初代首相のネルーの娘さんがインディラ・ガンディーで、結婚するときにマハトマ・ガンディーにガンディー姓をもらったのでガンディー姓になっただけで、ガンディーとは血縁関係はないということを初めて知った。それから、安倍晋三元首相がインドの発展に大変貢献しており、モディ首相からも大変感謝されていることを初めて知った。安倍晋三の功績としてインドがあるんだと驚いた。
 
 
BL塾』(阿部裕華・石橋悠)
「腐女子が夢中になっているというBLとは何ぞや?」という疑問から本書を読んでみた。基本構造、攻めキャラ、受けキャラ、略史、ジャンル、自分に合った作品の選び方などが分かりやすく書かれていた。(先月読んだ『官能小説案内』と構成が似ている。)しかし、なぜBLに惹かれるのかは私には今ひとつよく分からなかった。単にイケメンが好きなだけではないかとさえ思えた。ただ、BLが好きな女性でも作品によって好き嫌いの差がかなりあるらしいことは分かった。どうもそれが女性の特徴ではないかと思う。

エロマンガの歴史やジャンルについて解説されていた。私が知っているのは三流劇画までで、その後の美少女系エロマンガは知らない。というか、エロマンガだけでなく普通の漫画も読まなくなったのは、店頭に美少女系風の表紙の漫画が多くなって、それが嫌で書店の漫画コーナーに行かなくなったのだが、要はそういう傾向の絵を私は嫌悪していた。ちなみに三流劇画を読まなくなったのはエロ本からAVにシフトしたからだと思う。AVが普及する前はまだエロ本があったと思う。さて、本書の後半はジャンルについて解説だが、基本的に美少女系エロマンガがベースになっていると思う。で、個人的にはそれらは病的だと感じる。日本ではロリコンが多いのだが、それと共通する何かがあるように思えてならない。ただ、逆説的なのだが、「ジェンダーの混乱」の章だけは日本におけるトランスジェンダーやアナルセックスの先駆けであって有意義に思えた。
 
 
 

2025年10月30日木曜日

今月読んだ本2025.10

 
ワイマル共和国』(林健太郎)
 第一次世界大戦後からナチスが政権をとるまでの歴史。大変面白かった。ナチスに似たような右翼政党はあったが、ナチスの方がより馬鹿で過激だったから政権をとれたということらしい。今の時代に読んでおくと大変参考になると思う。
 
 
 『教養としての官能小説案内』(永田守弘) 
日本の官能小説の略史とジャンル解説。ジャンルには流行り廃りがあるらしい。日本の官能小説の特徴としては時代官能小説がわりと分厚く存在することだと思う。それと性器などの名称が独特の言葉で表現されていること、さらにオノマトペが大変発達していることだと思う。
 
 
 『お尻の文化誌』(ヘザー・ラドケ)
お尻に関する歴史の話。サラ・バートマンに始まり、バッスル、フラッパー、フィットネスなど大変勉強になった。キム・カーダシアンやマイリー・サイラスなどあまり知らなかった人物についても勉強になった。なお、お尻に関する名著としては、山田五郎さんの『百万人のお尻学』 がある。洋尻と和尻の違いが分かって長年の謎が解けて大変感動したのを覚えている。
 
 

2025年9月28日日曜日

今月読んだ本2025.09

 
革命と戦争のクラシック音楽史』(片山杜秀)
 ベートーヴェンをクライマックスに置いたクラシック音楽史。また、フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』の解説がとても勉強になった。
 
 
ナポレオン』(杉本淑彦)
ナポレオンの生涯を扱った新書。副題の「最後の専制君主、最初の近代政治家」が鍵概念だろう。ただ、ナポレオンの人となりについては、今ひとつだったかもしれない。それは史実を重視するために、あえて人となりを描かなかったのかもしれない。人となりを知るために、まとまったナポレオンの伝記を読んでみたくなった。


ハーレクイン・ロマンス』(尾崎俊介)
ハーレクイン・ロマンスなるものを書店で時々目にすることがあったが、中身は全然知らなかったので、何気なく知りたくなったので本書を読んでみた。ハーレクイン・ロマンスの歴史や界隈の構造が分かって勉強になった。面白かったのは、ハーレクイン・ロマンスを読む女性読者の気持ちが分かったのが良かった。また、作家の創作ルーチンも面白かった。それと人工知能を使ってハーレクイン・ロマンスを書こうと思えば書けるが、人工知能だと作家と読者の交流が生まれないので、結局、人間が書かないと売れないという話も面白かった。


ファニー・ヒル』(ジョン・クリーランド)
18世紀英国の性愛小説とのこと。両親を亡くした娘フランセス・ヒルが仕事を求めてロンドンに出てきて、ひょんなことから娼婦になって、様々な性体験を経て、幸せな家庭を築くという物語。 とにかく、ポジティブシンキング、セックスポジティブで暗さを感じさせない物語だった。最後に悪徳よりは美徳が優れているのだと自説を主張して終わる。しかも節制も説いたりする。とにかく、主人公のアッケラカンとした明るさがあって、楽しい読書体験だった。
 

2025年8月30日土曜日

今月読んだ本2025.08

前回読んだ片山杜秀さんの本が面白かったので、今月は本書を読んでみた。クラシック音楽から見た世界史、世界史から見たクラシック音楽史といった内容で、大変面白かった。片山さんの単著では、この本が一番読みやすかったかもしれない。
 
 
クロムウェル』(小泉徹)
クロムウェルについて知りたかったので読んでみた。しかし、残念ながら私の知識不足で理解不足になったかもしれない。 それでも、クロムウェルが兵士たちから信頼をかち得た理由が分かったのは良かった。
 
 
『バレエ101物語 新装版』
 積読解消のために読んだ。著名なバレエ作品のストーリーが分かるので大変重宝する本でした。ひと昔前と違って、ネットで検索しても、作品の写真や動画も豊富になったので、本を出発点としてさらに深く知ることができるようになった。例えばサブスクサービスが普及したことで音楽を勉強しやすくなったと思う。ひと昔前はクラシックやジャズを勉強しようと思っても、そんなにたくさんレコードやCDを買えないし、ラジオをエアチェックするのも大変だったと思う。それがサブスクサービスが始まったことで手軽に聴けるようになった。さらにYouTubeでも簡単に鑑賞できるようになった。なので、本で紹介されている作品もすぐに聴こうと思えば聴けるようになった。本当に便利な時代になった。バレエもネット上のコンテンツが増えたので本当に手軽に勉強しやすくなったと思う。
 
 
 
 
 

2025年7月30日水曜日

今月読んだ本2025.07


フランス料理の歴史』(ジャン=ピエール・プーラン、エドモン・ネランク)
 先月読んだ『レストランの誕生』だけだとごく限られた範囲での歴史だったので、もう少し通史を知りたくなったので本書を読んでみた。しかし、専門用語が多くて自分がどこまで理解できたか怪しい。元々、料理学校の生徒のための教科書のようで、一般人が読むのはちょっと辛いと思う。ちなみに歴史ドラマ『ダウントン・アビー』を見ていたので英国貴族の食事については分かりやすかったので、フランス版のそういった歴史ドラマがあったら良いなと思った。やはり、視覚的に見れた方が分かりやすいと思う。また、メートル・ドテルという給仕係みたいな役職があるらしいが、それも見た方が理解しやすいように思う。
 
 
 
恋愛と贅沢と資本主義』(ヴェルナー・ゾンバルト)
著者の主張である「資本主義とは愛妾経済なり」を確認するために読んでみた。主にフランスのことだと思う。逆に英国なんかはマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が当てはまるのではなかろうか。まだ読んだことはないのだが。
 
 
 
 
『アジア舞踊の人類学』 (宮尾慈良)
積読解消のために読んだ本。随分以前に購入したがずっと積読になっていた。人類学的なアプローチになっていて、著者がアジアの各地に赴き、民族舞踊を実際にフィールドワークした記録になっていて大変貴重な体験だったと思う。 ただ、全体として取りとめが無いような気もする。やはり、舞踊も映像でまず見てみないと理解が始まらないように思う。
 

2025年6月28日土曜日

今月読んだ本2025.06

ごまかさないクラシック音楽』(岡田暁生・片山杜秀) 
先月読んだ片山杜秀さんの本が面白かったので、引き続き片山さんの本を読むことにした。それで今回は岡田暁生さんとの対談本を選んだ。クラシック音楽の歴史であると同時に世界の歴史に関する対談だった。歴史好きの私としては大変面白かった。もしかしたら、今年読んだ本で一番面白い本になるかもしれない。ただし刊行自体は2023年5月と2年前の本だけど。
 
 
レストランの誕生』(レベッカ・L・スパング)
レストランの起源の話。 これまで鹿島茂の『デパートの誕生』やフィリップ・ペローの『衣服のアルケオロジー』を読んで、デパートの起源や近代的な服装の起源を勉強したので、今度はレストランの起源について知りたくて本書を読んだ。著者が大変多くの本を読んでいるのが分かる。おかげでフランスの市民社会が形成される過程でレストランが次第に形作られるのが分かる。ただ、かなり局所的な歴史の話だったので、個人的には、もう少し食文化の通史的な知識が欲しいのでフランス料理の歴史の本などを今後は読んでみたい。
 
 
 
妾と愛人のフェミニズム』(石島亜由美)
近代日本における妾と愛人の歴史を扱った話。 制度としての妾や庶子の話は大変勉強になった。ただし、著者はフェミニズムの視点からそれらを捉えている。私自身はセックスワーカーもポリアモリーも一夫多妻制も当事者たちが是とするなら良しとする考えなので、妾や愛人も当事者たちがそれで良いならかまわないのではないかと思っている。ただし、第三者である世間一般人が妾や愛人を差別するというのは問題だと思うし、正妻が妾を下位において人権を抑圧するのであればそれも問題だと思う。とにかく、著者の考えにはやや疑問を感じる部分があった。その疑問は、結局は、資本主義をどう考えるかに行き着くように思う。すべてをカネで考えるのは違うと思うが、かといって、すべてを愛で賄ってカネは排除するというのも理想的過ぎると思う。また、カネの力に対して、ヒトの力が介入するのも逆に言えば権力者の介入であってそれは悪しき社会主義ではないかと思う。自律的な資本主義経済の中でカネ勘定による意思決定の方がまだ個人の自由意志があるのではなかろうか。昨今では、不倫や浮気やセフレが市井にはあるが、それほど悪いものではない気もしている。当事者たちが是とするならそれもアリだし、当事者が否とするなら別れればいい。当事者次第という気がしている。
 
 

2025年5月30日金曜日

今月読んだ本2025.05

NHK-FMで片山杜秀さんがパーソナリティを務める音楽番組『クラシックの迷宮』を聴き始めて1年くらい経った。音楽と歴史の勉強になる大変面白い番組である。それでせっかくだから片山さんの本でクラシック音楽についてちょっと勉強してみようと思って本書を買ってみた。内容は片山さんとそれぞれの音楽家との出会いから始まってその解説に至るというもの。 大変勉強になった。面白かったエピソードに、片山さんが中学生の頃に友達の母親からカラヤンのチケットが余っているので薦められたら「カラヤンなんか聴きません!」といって断った話には思わず笑ってしまった。
  
 
新・ラグジュアリー』(安西洋之・中野香織)
ラグジュアリーというとLVMHなどの高級ブランドのことを思い浮かべるが、本書で扱われているのは新しいラグジュアリーなるもの。ウィリアム・モリスやスローフード運動、エシカル消費の話は大変参考になった。それで、日本で当てはまるもので思い浮かんだのが『美味しんぼ』 で出てくる数々の日本の食文化だった。あるいは陶磁器などの骨董品もそうかもしれない。ところで高価なものでなくても、安い瀬戸物でも日本の器はけっこう味わいがあるよなあ。
 
 
 
江戸の春画』(白倉敬彦)
ドキュメンタリー映画『春の画 SHUNGA』を観て、春画について知りたくなったので本書を読んでみた。春画入門には最適のテキストかもしれない。著者の考えが私的にはやや引っかかる箇所もあったが、春画というものを知るのには概ね良かった。
 
 
 

2025年4月30日水曜日

今月読んだ本2025.04

 
日本人の死生観』(五来重)
 先祖供養という日本独特の宗教観を理解するのに大変役立つ本だと思う。帯文の「人は死んだら、まず怨霊になる」という一文がよく表していると思う。先月読んだ『先祖供養と墓』がその起源になっている。要は風葬と殯だ。
 
 
仏教と民俗』(五来重)
 日本仏教が先祖供養という日本独特の宗教観を取り入れて、本来の仏教からかけ離れたものになっているのを理解するのに大変役立つ本だと思う。TVアニメ『まんが日本昔ばなし』など、日本の庶民の宗教観を理解するのに役立つ。副題が仏教民俗学入門。
 
先月から今月にかけて五来重の本を3冊読んだ。そのおかげで、私にとって、これまで謎だった日本人の宗教感覚のひとつが分かるようになった。 
 
 
衣服のアルケオロジー』(フィリップ・ペロー)
原書のタイトルは「ブルジョアジーの上着と下着 - 19世紀における衣服の一つの歴史」ということで、19世紀フランスの衣服の歴史になる。鹿島茂さんの『デパートの誕生』や『パリ、娼婦の館』なんかと合わせて読むとより理解が深まるのではないかと思う。また、ゾンバルトの愛妾経済というのにも繋がる話だと思う。
 

2025年3月30日日曜日

今月読んだ本2025.03

 
自由への旅:「マインドフルネス瞑想」実践講義録』(ウ・ジョーティカ)
 上座部仏教の瞑想はどのようなものか知りたくて本書を読んだ。大変勉強になった。ヴィパッサナー瞑想は意識を観察して、次第に深化して心の根源に辿り着く旅といえるかもしれない。
 
 
 
 
先祖供養と墓』(五来重)
 祖霊信仰の起源を知りたくて読んだ。子供の頃、祖母の家や近所の家に遊びに行くと必ず仏壇があって仏壇に手を合わせる家人がいたものだった。私にはそれが不思議でならなかった。子供の頃の遊び場は近所の神社や山や海だったのでアニミズムの感覚はなんとなく分かるつもりだ。だから、ネイティブアメリカンのスピリチュアリズムもなんとなく分かるような気がする。ところが、日本の祖霊信仰・先祖供養はどうもよく分からないでいた。そこで本書を読んでみて少し分かるような気がしてきた。起源はどうやら風葬と殯(モガリ)にあるらしい。日本人の宗教について知りたくなったので、五来重の本をもう少し読んでみようと思う。
 
 
中国の信仰世界と道教』(二階堂善弘)
 中国の宗教観について知りたくて読んでみた。霊廟など、どういう信仰心で祀っているのだろうという疑問からだ。また、日本を含めた東アジアの祖霊信仰の起源とか関連があるんだろうかという疑問もあった。しかし、読んではみたものの、実に混沌としたものだった。
 
 

2025年2月28日金曜日

今月読んだ本2025.02

 
ブッダという男』(清水俊史)
まず「第2部ブッダを疑う」は至極真っ当な指摘だと思う。妥当な見解だと思う。日本では釈尊を現代の価値観に合うように歪めて解釈することが多いので、こういった指摘は必要だったと思う。安易な啓発本ならともかくアカデミズムで歪曲してはダメだろう。そういった意味で本書は良い警鐘になったと思う。そして「第3部ブッダの先駆性」は大変面白かった。無我と縁起という概念が新しかったとのこと。釈尊を理解するのに大いに役立った。また、沙門宗教の視点から仏教を眺められたのも良かった。私の場合、事前に『インド哲学10講』を読んでおいて良かったと思った。
 
 
ジャイナ教とは何か』(上田真啓)
沙門宗教について知りたくて、そこで唯一残っている沙門宗教であるジャイナ教について知ろうと思ったのが本書を手にとったきっかけだった。この本も事前に『インド哲学10講』を読んでおいて良かったと思った。
 
ところで、当時の沙門宗教は多種多様だったと思う。六師外道も沙門宗教の中の一部に過ぎなかったと思うし、仏教も根本分裂するように一枚岩ではなかったし、その後のヨーガも沙門宗教の要素を含んだものだと捉えることもできると思う。現代の各宗派に分かれている仏教もヨーガも広い意味で沙門宗教と捉えることができるのではないか。そういった意味で、それらは「輪廻からの解脱を目指す」という沙門宗教という大きな流れではないかと思う。
 
 
仏教思想のゼロポイント』(魚川祐司)
ライターの星飛雄馬さんが推薦していたので読んだ。著者は東大大学院で仏教学を学んで、さらにミャンマーで上座部仏教を修行したらしい。そうした視座から仏教思想を提示したのが本書だ。日本仏教では「悟り」を実現不可能なものにしがちだが、本書では「悟り」を実現可能なものだと主張している。ゼロポイントとは、「悟りを諦める」のではなくて、「修行して悟りを開く」のが仏教の原点なんだと主張しているのだと思う。「悟り」は修行次第で開けるものなんだと著者は言いたいのだと思う。
 
 
移民の経済学』(友原章典)
 移民について経済の観点から捉えた一冊。移民を受け入れることのメリットとデメリットを説き、移民を受け入れて得をする人、損をする人をそれぞれの研究から指摘している。移民問題のポイントを程良く解説している。ただし、移民を受け入れた方が良いのか悪いのかは本書では結論を出していない。しかし、移民について考えるのに基本になる本だと思う。移民経済の入門書に丁度良いと思う。
 
 

2025年1月31日金曜日

今月読んだ本2025.01

インド哲学10講』(赤松明彦)
同著者の『ヒンドゥー教10講』を読んで良かったので本書も読むことにした。「インド哲学は難解だ」と聞いてたが、やはり難解だった。一度通読しただけではしっくりしない。もう一度読み直すべきなんだろう。個人的には第9章が大変面白かった。
 
 
 
 
道教思想10講』(神塚淑子)
 儒教について学んだら、今度は道教についても知りたくなったので本書を読んだ。『老子』が道教にとって重要であることを知って勉強になった。
 
 
 
近現代中国の儒教』(銭国紅)
 儒教の歴史の本ではなくて、歴史の話もあるけれど、どちらかというと儒教に対する著者のエッセイに近かった。これからの儒教、21世紀の儒教のあるべき姿について著者の想いが書かれていたが、私はむしろ儒教の起源、孔子以前の儒教、先祖祭祀の宗教について知りたくなった。
 
 
 

2017年1月3日火曜日

瀬木比呂志『リベラルアーツの学び方』


久しぶりにブログに投稿します。

今回、紹介するのは、最近、読んだ本で瀬木比呂志さんの『リベラルアーツの学び方』です。


瀬木比呂志さんを私が知ったのは神保哲生さん・宮台真司さんのビデオニュースというニュース専門のネット放送局でした。ビデオニュースでは以前から日本の刑事司法の問題(冤罪の多さなど)を取り上げていたので元裁判官である瀬木比呂志さんをゲストに迎えてのお話は大変勉強になりました。それがキッカケとなって私は瀬木さんの本を読みたいと思うようになりました。最初に読んだのは『絶望の裁判所』です。日本の裁判所に対する私の今までの信頼が大きく崩れる内容でした。大変衝撃を受けまして、それ以来、瀬木さんの司法に関する一般書は読まなくちゃと思っていて、次の『ニッポンの裁判』を読んでいる途中です。(そうこうするうちに『黒い巨塔 最高裁判所』まで刊行されてしまい、これも読まなくちゃと思って焦っている次第です。)

ところが、そんな折、大変ショッキングな出来事が起こりました。アメリカ大統領選でトランプ氏が勝利したのです!まさかトランプ氏が勝つとは夢にも思っていませんでしたので大変な驚きと共に深い落胆へと変わりました。彼のような人物がアメリカの大統領になったら世界はどうなってしまうのだろうと大変心配になりました。(実際、トランプ氏が大統領選に勝利するとすぐに人種差別的LGBT差別的な落書きなどがあちこちに起こったそうです。)そんなわけでトランプ氏勝利以来、私は憂鬱な日々を過ごしていました。そして、憂鬱な気分の中で「こういったことがなぜ起こったのか?どうすればこのようなことが起こらないようになるのか?」など考えることが多くなりました。そして、私自身が辿り着いた結論が啓蒙でした。もちろん、啓蒙がすべての解決策ではありません。いくつかある解決策の中のひとつに過ぎませんし、そういった解決策の中でも効力の弱い部類に入るものだろうとも思います。ただ、いくつかある解決策の中で私が最も支持する方法が啓蒙でした。人びとの教養を底上げすることで彼のような人物を選ばないような知力を身に着けようというのが狙いです。それと同時に、21世紀に適合するよう教養そのものを再構築するときなんだと思うようになりました。まあ、私も大した教養があるわけではありませんが、とはいえ、トランプ氏なる人物を選ばないという最低限の教養はあるつもりです。

さて、そこで、「じゃあ、現代の教養を考えるとき、どのような教養が適当であろうか?」と思案していたところ、「じゃあ、昨今は教養に関してどのような本が出ているだろうか?」と考えてネットで検索したところ、その中にこの瀬木さんの本『リベラルアーツの学び方』を発見したというわけなのです。この本が刊行されたのは2015年5月とのことなので、もう1年以上前の本ではありませんか。瀬木さんの本を読まなくちゃと思っていたわりにアッサリと見落としていました。いや、多少、目に入ったのかもしれませんが、司法とは関係ないと除外してしまったのかもしれません。ともかく、『絶望の裁判所』を読んだりビデオニュースでの鼎談を見たりして著者を知ったつもりでいたので、読む価値があるだろうと考えて、この本を読み始めたのでした。


まず、驚いたのはロックに対する思い入れがすごくあることでした。『絶望の裁判所』やビデオニュースで見た限りでは大変知的な印象のある、そして、どこか陰のある感じで、きっと書斎にこもって専門書ばかり読んでいる方なのかなあと思っていました。ところが、人間というのは面白いもので、印象とのギャップがあって、実はロックンローラーな一面があったわけです。いや、私はロックだけでなく音楽そのものに疎いのでこういった印象は間違っているかもしれませんが、コレクションしているCDの枚数だけでもその造詣の深さが分かるように思います。(なんと9000枚以上!内訳はロックとクラシックが各3500枚、ジャズ等900枚とのこと!)ロックだけではありません。漫画に対する造詣も計り知れないものがあって『HUNTER×HUNTER』を読んでたりするのに驚きました。私はまったく読んだことがなく表紙の絵だけネットで見たことがあるだけでした。アニメ『幽遊白書』の原作者だくらいしか知りません。また、『忍者武芸帳影丸伝』をきちんと読んで分析できる学生は司法試験にも多分受かるというクダリには「最初、ホンマかいな?」と半信半疑に思いましたが「とはいえ、裁判官であり学者でもある瀬木さんが言うのだから本当なんだろう」と私にして珍しく妙に神妙に受けとりました。

ただし、ロックや漫画に対する著者の造詣が深いことがこの本の肝心な点ではありません。私が最も感心したのは著者のリベラルアーツを学ぶ姿勢です。それはごくごく基本的なことなのですが、しかし昨今の若者には是非この姿勢を学んで欲しいと思ったのです。例えば、こんなクダリがあります。

芸術についても、ボーダレス、ジャンルレスの発想で個々の作品を楽しむとともに、「対話と学びの姿勢」で接してゆくことが大切です。その時楽しめればそれでよいという「消費の発想」では、個々の作品は、受け手に心を開いてはくれません。友人関係を消費の発想で考える人はいないと思いますが、芸術は人の創作物であり、作者の思考や感情の精髄が結晶したものなのですから、人間に接するのと同じような注意深い姿勢で接することが大切であり、必要でもあります。

まさにその通りだと私も思います。消費の発想ではダメなのです!しかし、昨今はそういった対話と学びの姿勢で作品を楽しむ人が少なくなったと感じることが多くなりました。本当に嘆かわしいことです。これは基本中の基本だったはずなのに!いつの間にか消費者の姿勢でばかり物事を捉えるようになってしまっています。私はホイジンガのホモ・ルーデンス的な言い様にならって「人間は学ぶ生きものだ」と思っていますので、何事も学ぶものだと思っています。(ついでに言うと昨今の若者は友人関係も、消費の発想とまでは言いませんが、本来の友情ではない空気的な利害関係で結ばれているかのように感じられます。まあ、どこまで当たってるかは分かりませんが。)

他にも

リベラルアーツとして映画を見る場合には、ただ、「面白いもの」、「スリリングなもの」、「見終わったときに心地よくさせてくれるもの」といった基準だけで選ぶのではなく、この映画は自分に何を与えてくれるのか(たとえば、経験したことのないような人間の複雑な感情、人間の善と悪それぞれの深さとその裏側、洗練された一つの幻想世界、など)という観点をも加えると、選択の範囲も広まり、映画を見る目も変わってくると思います。
というようなクダリがあります。いかに学ぶか、作品から何を学びとれるかとする著者の学びの姿勢がここにもあります。ところが昨今の若者は(いえ、若者に限った話ではなく、ちゃんとした大人でさえ)作品を消費の対象としか見ていない人が増えました。もちろん、「勉強!勉強!」と肩肘張った主張はかえって逆効果ですが、とはいえ消費の姿勢を当然と考えて、作品からまったく学ぼうとしないのは間違った態度だと後進のためにもハッキリと言っておくべきだと思います。こんなことは基本中の基本だったはずですが、いつの間にかその基本中の基本が日本では忘れられています。この基本中の基本を思い出すためだけでもこの本を読む価値があります。


それから、私が面白いなと思ったのは、著者の考え方の哲学です。著者自身も本書の中で再三述べていますが、著者の考え方のベースになっているのはプラグマティズムです。プラグマティズムに至った理由は著者自身の性格やこれまでの歩みなどが深く関係していると思いますが、それだけではなく裁判という現実を如何に法的に処置してゆくかという職業的な影響も大きくあるのではないかと私は睨んでいます。対象が自己の内面ならいざ知らず、裁判のような他者を含んだ現実を対象とする場合にはプラグマティックに取り組む他なかったのではないでしょうか。

ところで、プラグマティズムというものを私はなかなか理解できずにいます。哲学書や理論書を読んでもどうもピンとこない。その場ではなんとなく分かったような気がするのですが、時間が経つとどうも腑に落ちなくなるのです。そこでいろいろと考えてみたのですが、どうもプラグマティズムの根っこにあるのは経験ではないかと最近は思うようになっています。例えば、何らかのプラグマティズムの書があった場合、プラグマティズムの著者の根っこにある経験を読者である私が真に自己の経験として共有できるなら、その著書が腑に落ちる、納得できるようになるのではないかと思います。(いえ、まだ断定はできませんが。ところで、ここでそこまで経験を重視するなら西田幾多郎の純粋経験を持ち出したりすると話が迷宮に陥ってしまいそうですが(笑)。)逆に言うと哲学者の書いた理論ばかりのプラグマティズムよりも何らかの経験に基づいた、例えば、職業とか、あるいはスポーツとかの特定の経験に基づいたプラグマティズムの哲学書の方がピンとくるのではないでしょうか?そういった意味では裁判官という経験に基づいたプラグマティズムの方が理論ばかりのプラグマティズムよりもより分かり易いのではないかと思ったりします。まあ、でも、プラグマティズムについてはまだまだ分かりませんので、いずれまた自分なりに分かったというときに述べたいと思います。


さて、この本でちょっと特徴的な点について述べておきます。この本は三部構成になっていて第三部でリベラルアーツを学ぶ際の具体的な作品について述べているのですが、ちょっと面白いのが、第1章で、生物学、脳神経科学、精神医学関連、自然科学のそのほかの分野という順に述べられている点です。ちなみに第2章は社会・人文科学、思想、批評、ノンフィクションで、第3章は芸術で文学、映画、音楽、漫画、広い意味での美術となっています。注目すべきははじめに生物学、脳神経科学、精神医学関連が述べられている点です。これは人間に対する洞察を深めるために最初にこれらのジャンルを持ってきたのだと思います。この点が裁判官ならでは、あるいは自己の経験を基点とするプラグマティストならではの配列だと思います。ちなみにこれらの解説ではなかなか興味深い知見を得られることができましたので、是非、ご一読することをお薦めします。例えばこんなのです。

脳の営みの興味深い特質の一つとして、それが、「何がなんでも統一された一貫性のある絵を描きたい」というこだわりをもっていいることが挙げられます。僕たちが網膜上の盲点の存在に気付かないこと(脳が盲点に相当する部分の映像を補充してしまうからです)、各種の錯覚現象、ラマチャンドランの書物に掲げられているような各種の否認症例は、それを裏付けます。整合性のある閉じた回路を形成しようとする傾向は、脳の生理学的な構造自体に基づく特質なのではないでしょうか(脳の作話能力の本質性。このような脳の本性は、証人や訴訟当事者が、裁判における尋問で、故意に嘘をつくよりも、自分に都合のよいように構成された「作話」をする例のほうがはるかに多いと思われることと深く関連しているでしょう〔瀬木〕)。

人文系に偏った読書をしているとこういった視点はついつい見落としがちになりやすいからです。ひと昔の教養書ではこういった配列にはなかなかならなかったと思います。

ただ、そういう今どきな特徴だけでなく、基本中の基本も的確にところどころに散りばめられているので、当たり前になりすぎてつい忘れてしまいがちなことを思い出すのにも大変良い本でした。例えば、私の中では

欧米の文化が「罪の文化」であるのに対し日本の文化が「恥の文化」である
というルース・ベネディクトの『菊と刀 日本文化の壁』の言葉は「そうだった!当たり前すぎて忘れてた!」と膝を打ったのでした。こういう「そうだった!忘れてた!」とか「へぇ!そうだったんだ!知らなかった!」というのが随所に出てきます。


さて、トランプ氏の大統領選勝利からリビルド(再構築)というキーワードを思いついて、教養の再構築という考えに思い至り、昨今の教養はどうなっているのかという調査から本書にたどり着いたわけですが、何を学ぶかという学ぶ対象に何を選ぶかも、もちろん大事なのですが、どういった姿勢で学ぶかという、基本中の基本すぎてついつい見落としがちで私もすっかり見落としていたのですが、何を学ぶかよりも大事な学ぶ姿勢について思い至れただけでもこの本には大きな価値がありました。いえ、それだけでなく、この本に紹介されている作品はどれもこれも大いに教養、リベラルアーツの血となり肉となる実りある作品群だと思います。私も時間の許す限りこの本で紹介された作品に触れてゆきたいと思います。

ともかく、トランプ現象は決してアメリカだけの現象ではないと思います。世界中の多くの国で同じような現象が起こっていると思います。そして、その根底にある原因はどれも同じで、その問題に対する解決策もまた同じなのではないかと思います。かつて私はネオアカのミッションにグローバル化した世界で世界中の人たちで共有できる共通の21世紀の教養の構築というミッションを掲げました。トランプ大統領が誕生する今、このミッションを再び再起動するときが来たのだと強く思っています。


2013年10月12日土曜日

半藤一利『幕末史』

 
今回は半藤一利の『幕末史』を取り上げます。


最近の私の興味は日本の近代史に向けられています。キッカケはNHKの大河ドラマ『八重の桜』と宮崎駿監督のアニメ『風立ちぬ』の2つです。『八重の桜』はもろに幕末の話ですので、今回、『幕末史』を取り上げる尤もな理由です。このドラマの優れている点は1つは幕末を会津という負け組の視点から描いていること、2つめは銃という近代兵器をポイントに描いていること、さらに3つめは明治維新で終わるのではなく西南戦争以降まで描いていることの3点です。幕末・明治維新を倒幕派の視点のみで描いたのでは正しい歴史認識は得られないと思います。負け組からの視点も描くべきだと思います。また、銃という近代兵器の重要性も描かなければ、本当に幕末・明治維新を描いたことにははならないと思います。これは兵器だけに限らず、西洋がもたらした近代技術すべてに関わることですし、さらに言えば近代技術だけでなく近代国家・近代文明を日本がいかに受容したかに関わることだと思います。そして、明治維新を江戸城開城や箱館戦争までではなく西南戦争まで描くことが本当に明治維新を描いたことになると思います。日本は近代文明に触れて大きく転換したのですが、単に権力者が交代しただけでなく、日本全体が大きく変わったということを見るためにはそこまで描かなくてはならないと思います。さて、もう一方の理由、『風立ちぬ』からなぜ日本の近代史に興味を持つようになったかというと、第二次大戦後の日本の経済成長において日本の技術力がその復活の底力としてありましたが、その基礎を築いたのが実は戦時中の軍事技術の技術開発にありました。零戦などもそうですし、それら戦時中に活躍した航空技術者たちが戦後に自動車産業に移って、その高い技術力で今度は自動車を開発したことが原動力になっています。では、戦前はどうだったのか?いや、そもそも幕末までの日本は農業国だったはずが、明治維新以後は一体どうやって近代国家になり、近代技術を取り入れ、さらに成長していったのかという疑問が生まれました。それに幕末の頃は西洋列強に植民地にされるのではという危惧があったのですが、それを日本はどのように免れたのか?また、他の植民地のように主だった産業が西洋人によって支配されるという危険を日本はどうやって免れたのか?農業国だった日本がどうやって資本主義経済体制を構築し動き出させることができるようになったのか?技術や経済にわたる数々の疑問が生まれてきました。さらになぜ日本は戦争に突っ走ったのかという日本の政治に対する疑問も生じました。まあ、いずれも私の日本近代史に対する無知が根底にあるのですがね(苦笑)。ともかく、様々な疑問に動かされて日本の近代史に興味を持ったわけです。そこでまず、日本が近代化する起点となった幕末・明治維新に興味の対象が絞られたという訳です。まあ、随分と前置きが長くなってしまいましたが、以上のような理由で本書を読むことになりました。

さて、本書についてですが、幕末史の概略を通して知るには最適の入門書だと思います。ペリー来航から西南戦争までが描かれています。もちろん、それ以前のアヘン戦争にも触れていますし、西南戦争で終わるのではなく、山県有朋の軍部統帥権まで描いているので次の時代を決定づける重要な足がかりまで描かれています。幕末史は大筋ではこの本で描かれた著者の歴史認識が妥当だと思われます。著者の半藤氏は学者ではありませんので、学者的な緻密さには欠けるかもしれませんが、逆に大局的な視点ではおおむね半藤氏の視点は正しいものと私には思われます。半藤一利といえば『昭和史』が有名ですが、この『幕末史』も実に良い本だと思います。また、別の機会に取り上げたいと思っている氏の著作で『山県有朋』があります。これも間違いなく重要な本で、日本が戦争に突き進んでいった理由を知るには欠かせない一冊です。ともかくも、日本の近代化はこの幕末から始まりました。是非、一度、この『幕末史』を読んでみることをお薦めします。

幕末についてはいろいろと語りたいことがあるのですが、どうも断片的になってしまいそうで、うまくまとめることができなさそうです。そのうちにメモ的に書き連ねるかもしれません。

2013年9月29日日曜日

福島武夫『造船王国の新しい選択』

 
今回は福島武夫の『造船王国の新しい選択』を取り上げます。


この本は1996年に発行された本ですので、現在の世界の造船業界の状況とは若干違っていると思います。また、この本を読むまで私は日本の造船は韓国に追いぬかれて既に廃れてしまったものと勘違いしていました。しかし、実際はそうではありませんでした。熾烈な価格競争の中を日本の造船は粘り強く頑張ってきたことが分かります。さて、この本では、国内の主要な造船会社である三菱重工業、石川島播磨重工業、川崎重工業、日立造船、三井造船、住友重機械工業、NKK(日本鋼管)の7社が取り上げられています。これら7社が、戦後、如何にして熾烈な競争の中を生き残ってきたかを克明に描いています。また、序章では幕末から現在に至るまでの日本の造船の歴史を簡略に説明しています。日本の造船の歴史を概略的に知るにはこの本はとても良い本だと思います。

さて、近年における日本の造船が生き残ってこられた理由は何かというと大きく2つが上げられると思います。1つは低価格競争ではなく高度な技術力で特殊な船を作ることで差別化を図ったのだと思います。もう1つは造船以外の分野、プラントや陸機、あるいは航空宇宙産業などでシェアを伸ばしたのだと思います。これらによって低価格な韓国の造船会社に対抗してきたのだと思います。世界市場における造船のシェアは19世紀末から20世紀中頃までは英国がダントツの1位だったようです。それが1956年に日本が建造量で英国を抜いて世界一位になったそうです。その後も長い間の日本が一位の座を守ってきたそうです。

日本の造船の歩みを振り返ってみると幕末に造船に目覚め、国防の観点から国策的に造船に力を入れ、その後、第一次世界大戦のときに造船ブームが到来して大きく飛躍します。この時、船成金が生まれていますね。その後は逆に反動不況で苦しみます。そして、太平洋戦争で造船所がフル稼働しますが敗戦でボロボロになります。しかし、朝鮮戦争で復活してついには1956年に世界一位になります。日本を世界一位に導く下地を作った人物として戦艦大和を作った西島亮二とその後継者である真藤恒がいます。西島亮二によって構築された合理的で効率的な日本的生産方式です。戦後、真藤恒が働いていた元呉海軍工廠であるNBC造船所には数多くの見学者が来たそうで、トヨタのカンバン方式やビル建設に影響を与えたと言われています。そういった経緯もあり、その後も日本の造船は韓国の台頭に悩みながらも世界市場になんとか食らいついてゆきます。

ところで疑問に思ったことが1つあります。それは米国の造船です。太平洋戦争のときに米国は世界でダントツの海軍大国だったと思います。そして、今もそうだと思います。米国にはたくさんの造船所があるはずです。しかし、世界市場のシェアでは米国はほんのわずかしか占めていません。どうしてなのでしょう?残念ながら米国の造船史の本がありませんでしたので、私の推測になるのですが、造船も他の製造業と同じで低価格競争にさらされます。日本が韓国に追い抜かれたように後発国の方が人件費が安く有利です。おそらく、米国の造船も熾烈な低価格競争にさらされたのだと思います。そこで米国の造船がとった対策は専門的な高度な技術で差別化を図ることだったのではないかと思います。ただし、日本のような特殊な船ではなくて、軍艦という分野に特化したのではないかと思います。すなわち、米国の造船は軍需産業に特化したのではないかと思います。これはロシアにも言えることだと思います。冷戦時代にロシアも数多くの軍艦を作ってきたのは間違いないでしょう。そういう意味ではロシアも数多くの造船所を抱えているはずです。冷戦崩壊後、ロシアでは軍需工場を民需工場に転換するようにしてきましたが、それでも限界があって、多くは軍需産業として残っているのではないでしょうか。ですから、世界のシェアが少ないからといって米国やロシアが造船の技術力が劣っているとは一概には言えないと思います。むしろ、技術的には軍艦の方がはるかに高い技術力を必要としているので高度な技術力を持っていると思います。ただ、その一方で安く早く量産するといったような技術はやはり市場競争にさらされていないので、官営的な造船では培われないと思います。そういった違いがあるのではないでしょうか。

さて、現在の造船のシェアですが、少し異変が起こっているようです。韓国と日本だけでなく、そこに中国が割り込んできているようです。そして、いずれは中国がトップになることが予測されています。今までの流れから言えば、当然と言えば当然ですよね。ただ、懸念される点があります。それは造船能力が高まれば、自然とその国の海軍力も高まるということです。このまま推移すれば、おそらく何年か何十年か先には中国が米国を抜いて世界でトップの海軍力を持つようになるのではないでしょうか。現在も制海権を巡って中国は様々な海域でもめています。そのような中国が世界第一位の海軍力を持つことは非常に懸念される事態だと思います。しかし、中国に対抗できる国はおそらく米国くらいです。将来が危ぶまれます。だからといって日本が軍備増強に走るなんてことは決してしないことです。軍備増強は国の経済や財政を圧迫します。国力が上の中国に軍事力で対抗しようとしても、かえって日本を弱めてしまうでしょう。日本は軍事力ではなく、中国を取り囲む周辺の諸外国と協力して外交力で道理をもって中国に対抗してゆくべきなのだと思います。

それにしても、今後の世界は資源大国のロシア、世界の工場である中国、そして金融やITなど先端技術でリードする米国、この3国が世界の超大国として世界をリードしてゆくのではないでしょうか。もちろん、EUもそこにいくらかの存在感を示すとは思います。やはり、先進国ですからね。もちろん、中東もそれなりに力を増してくるでしょう。ただし、既得権益の壁が強く、その歩みはまだまだ遅いのではないかと思います。一方、日本はこれら超大国に挟まれた位置にいます。西には中国、東には太平洋を隔てて米国、北にはロシアです。地理だけでなく内実はどうでしょうか?昨今の日本の産業は後退につぐ後退です。日本が先端をゆく産業はどんどん減っています。家電も半導体も敗退しています。造船も後退しつつあります。自動車産業がかろうじて残っていますが、工場が海外移転して次第にウェイトが海外になってゆくでしょうし、電気自動車が普及したとき果たして日本の自動車産業が世界をリードできるかどうかは分かりません。したがって、日本はどんどん弱い国になってゆくでしょう。一方で中国はますます強くなってゆき、圧倒的な力の差を見せつけることでしょう。戦後の日本は中国を見下していたところがありましたが、今後は中国を巨人を見上げるように変わると思います。超大国と比べれば日本は小国です。世界全体で見れば日本は中位の大きさですが。ただ、日本はそれら超大国と張り合っても仕方ありません。日本は日本なりの幸せを追求するしかないと思います。日本は成熟した文明国になりつつあります。先進国としては政治や文化などまだまだ至らない点は多々ありますが、それでも社会インフラも整っているのでかろうじて先進国足り得ています。これからは日本にとって幸せな生き方とは何かを考えて、虚勢を張ることなく幸せな社会を作ってゆくのが良いと私は思います。陽はまた昇るとばかりに経済大国足らんと過当な競争を日本人に強いても日本社会がギスギスするばかりで仕方ないと思います。安定した慎ましやかな国を目指してはどうでしょうか?さらにこれだけグローバル化が進んだ世界になってきたのですから、国という小さな枠組みに囚われず、一個人は世界市民であるという認識を持って、大きな枠組みで世界を捉えるべきではないでしょうか?国という区分は次第に意味が小さくなってゆくべきなのだと思います。

もちろん、資本主義ですから競争は必要でしょう。しかし、それは先端技術などの一部の世界で十分ではないでしょうか。日本の環境を見ると国内的にはそんなに競争を必要としないような気がします。また、日本が、今後、活躍できる専門分野としてはiPS細胞などのバイオテクノロジーかもしれません。他の分野はちょっと厳しいような気がします。もちろん、今まで蓄積してきた技術力があるから一概に他はダメだとは言えませんが、全体的には前進しているというよりは後退しているのではないでしょうか。ところが、いわば日本は後退戦なのに日本の政治は貧富の差を拡大する方向に動いているように見えます。それは日本をわざわざ住みづらい国にしているように思えて仕方ありません。経済大国の夢を捨てきれず昔の夢を追おうとするあまり、かえって貧富の差を拡大している。そんなように思えます。それに競争を強いることで昔の本当の奴隷以上に今の労働者は働いていると思います。奴隷には財産の所有や行動の自由や自由時間がありませんでしたが、今の労働者も多くの時間が労働に奪われて実質的には昔の本物の奴隷以上に自由がないと言えるかもしれません。確かに奴隷よりは労働者の方が生産性が上がったでしょう。しかし、それは労働者の人生の犠牲の上に成り立っています。果たしてそれが良い生き方なのでしょうか?いったい金持ちたちにとっても、貧富の差が拡大して社会の大多数が貧しい人たちになったとき、そのような日本社会で暮らすことが本当に住み良い社会に感じられるとは思えません。日本は経済大国を目指すのではなく、中位の国を目指すべきではないでしょうか。

さて、随分、造船とはかけ離れた話になってしまいました。しかし、この本をきっかけに日本の造船の歴史や造船に限らず日本の近代技術の歴史についてたくさんの本に目を通すことになり、大変、充実した読書体験になりました。それらについてはまた追々、このブログで取り上げてゆきたいと思います。



2013年8月21日水曜日

前間孝則『技術者たちの敗戦』


今回は前間孝則の『技術者たちの敗戦』を取り上げます。


まず、著者の前間孝則氏はノンフィクション作家で主に日本の主要産業の技術開発史を扱った著書を数多く書かれている方です。前間氏自身も元は石川島播磨重工の航空宇宙事業本部の技術開発事業部でジェットエンジンの設計を20年間やっておられたそうです。そういった点では技術に関してもけっこう深いところまで理解できる書き手であり、技術開発史を研究するのにはもってこいの人物ではないかと思います。しかも本書によるとかなりの本好きで読みたい本を徹夜で読み耽って翌日はとろんとした目つきで会社に出社したり会社を休んだりしたそうで(笑)、技術者としては珍しく文科系的な読書人なところもあるようです。そんな前間氏のこの著書は氏のこれまでの技術開発史に関する数々の著作物の要約といった趣きの著書ではないかと思います。ところで世間では零戦の設計者である堀越二郎を主人公とした宮崎駿のアニメ『風立ちぬ』が大ヒットしています。それと合わせてこの本を読んでみると、より一層日本がいかにして技術大国になりえたかというのが分かってくるかと思います。そういった戦後の日本の経済的繁栄をもたらした日本の技術開発史を知るために、この本を入り口にして前間氏の一連の著作を読まれることを強くお薦めします。

さて、最初にこの本の帯文と表紙カバーの文を紹介しておきましょう。

日本の戦後復興の原動力となった20代~30代の技術者たちはどのように敗戦を迎え、廃墟から立ち直ったのか? 引用:『技術者たちの敗戦』
驚くべきことに、戦時中の技術開発は20代から30代の若手技術者によって行われた。彼らは情報遮断と原材料の不足など極めて厳しい状況のなかで、開発に熱中し、破れたりとはいえ、多くの成果を成し遂げたのである。戦後、GHQによって航空が禁止されたため、航空機産業の多くの技術者は自動車産業に移り、今日、アメリカをも脅かすようになった自動車産業の基礎をつくりあげた。また、国鉄の技師、島秀雄は、材料がなくなり、機関車がつくれなくなった戦争末期、将来を見据え、電車のブレーキ、台車、パンタグラフなどの研究を部下に命じたのだった。これが後に、新幹線の開発へと開花していく。この技術者たちの不屈の物語はこれからの日本の進むべき道に大きな示唆を与えるはずである。 引用:『技術者たちの敗戦』
これらの文章からも分かるようにこの本では戦前生まれの日本の技術者たちが戦時中にどのように技術開発に取り組み、そして戦後どのように活躍していったかを簡潔に描いたノンフィクションです。この本で取り上げられている技術者は全部で6人で、零戦の堀越二郎と曾根嘉年、新幹線の島秀雄、石川島播磨重工の真藤恒、レーダー開発の緒方研二、ホンダの中村良夫です。本書を読んでみると彼らの生き様や人柄はそれぞれユニークで、いわゆる一般の実直でまじめ一筋の技術者像とはちょっと違った装いが感じられます。島秀雄などは大正ロマンの影響を受けて育ったためかかなり自由な気風が感じられますし、中村良夫は技術者であった一方で文芸同人誌を発刊したり、ドイツ人技術者たちのパーティではハイネの詩を暗誦したりと教養の高さというか文化程度の高さを感じます。ちなみに文化程度が高いというのは何も高尚であることを自慢するという意味ではなくて、自由で柔軟な思考の持ち主であり、それは合理的な思考でもあり、一方で人間性の豊かさをも兼ね備えていると私は考えています。特に雑誌『モーターファン』に掲載された彼の「告別の辞」はなかなかダダイスティックであり、前衛芸術の精神もよく理解していたのではないかと思わせます。戦時中の頭の固い日本の軍人たちとは大違いです。ただ、この本で取り上げられた技術者たちはある意味特殊なのかもしれません。彼らと違って日本の多くの技術者たちはやはりその道一筋的なお堅いひとが大多数の占めているのかもしれませんし、日本社会自体がそういった傾向が強いと思います。自由で柔軟な思考に欠けることがしばしばです。むしろ、当時の東大のようなエリート校や軍需産業の方が上司もさん付けで呼ぶなどかなり自由な気風があったようにさえ感じられます。また、この本で語られているB29のエピソードからも如何に日本が自由で柔軟かつ合理的な思考が欠けているかが伺えると思います。大切なのは大局を見据えた戦略的思考と柔軟で合理的な自由な思考なのではないでしょうか。

さて、この本ではいろいろな点で示唆に富んだ指摘がなされています。読者のみなさんは是非読んで確かめて下さい。私が印象に残った文をメモ代わりに少し取り上げておきます。

かつての航空技術者たちは、先の岡本のように、「航空機よりどのくらい技術程度を落として設計すればちょうどいいのかわからなかった」という。その頃、自動車に求められていた水準はかなり低かったので、航空機のセンスで設計すると、あまりに上等なものができて過剰品質になり、値段がベラボウに高くなるのだった。
先の米戦略爆撃調査団のレポートを踏まえつつまとめられたアメリカの「第二次大戦と科学技術」と題するレポートでは次のように結論づけられている。「1945年の時点の日本のレーダー研究は、イギリスおよびアメリカに3~4年の遅れがあったと考えられる。日本はマグネトロン(磁電管)の設計においてオリジナリティを発揮したが、陸海共別々に製作しており、その製品性能は米英のものに比して劣っていた。(中略)結論として、日本の新兵器開発に関する戦時研究体制に学ぶべきものは、ほとんど無い」
最後に日本の近代史に関していうと、やや本道から外れたルートかもしれませんが、日本の近代史に関する研究では、主に明治維新から戦時中までを描いた山口昌男の歴史三部作が極めてユニークで面白いです。そこで主役になるのは経営者と文化人でした。それに対して前間孝則氏の著作は戦時中から戦後にかけて活躍した技術者たちの歴史を扱った一連の著作です。技術者たちが活躍する場や基礎を作ったのは山口昌男が描いた戦前の経営者や戦争でした。前間氏の出身である石川島播磨重工も元はといえば東京石川島造船所で渋沢栄一と浅からぬ関係がありますからね。渋沢栄一については山口昌男『敗者の精神史』で取り上げられています。そういった意味で山口・前間両氏の一連の著作から日本の近代史をもう一度捉え直すことは極めて意義のあることだと私は思います。

今、世界は東西冷戦が終わり、ネットによって相互に繋がって、さらなるグローバル化が進んでいます。資源のない国日本がグローバルな競争で生き抜くには科学技術の力が大きな鍵を握っています。いえ、もはや国という小さな枠組みに囚われることなく、一個人の力量として科学技術の知識が大きな鍵を握っていると思います。そういった現代において私たちは過去の先人たる日本の偉大な技術者たちから多くのことを学ぶことができると思います。


2013年7月24日水曜日

牧野克彦『自動車産業の興亡』


今回は牧野克彦『自動車産業の興亡』を取り上げます。
  

今日の世界経済を考える上で自動車産業を抜きにしては考えられないほど極めて重要なリーディング産業であると言っていいでしょう。大きな雇用と利益を生む自動車産業は国を支える基幹産業であり、国家さえもその存在を無視できないものだと思います。(実際、米国は大統領がビッグ3のトップを連れて日本を訪れたこともありますからね。)そこで1886年に自動車が開発されてから現在に至るまでの百数十年間に生まれてきた約2500社の自動車メーカーの歴史について知っておくのは決してムダではないと思います。この本はそういった世界の自動車メーカーが生まれては消えていった興亡の歴史が図表や数値を交えて丁寧に描き出されています。また、著者自身が自動車メーカーに約40年間勤めた、いわば業界の内側の人間ですので、外側からうわべだけを見て知っているのと違って業界内部にも通じた深い見識に裏付けられた本だと思います。戦後の日本経済を支えてきた製造業は自動車と家電の二本柱ですが、今、家電は中国がその安い人件費を武器に世界の工場となって以来、日本を追い越しつつあります。もう一方の柱である自動車産業においても中国の生産台数はすでに世界一になっています。今後の日本の自動車産業の行く末を考える上でも、また日本経済の行く末を考える上でも自動車産業の歴史について知っておくことは極めて重要だと思います。この本はそういった自動車産業の歴史を知るのに最適な本だと思います。是非、ご一読することをお薦めします。

まず、自動車は欧州で発明されます。最初は蒸気自動車が発明されました。1769年にフランスでベルギー人によって3輪車が試作されました。意外なことに電気自動車もこの頃発明されます。1883年にフランスとイギリスでそれぞれ電気自動車が発明されました。ガソリン自動車はというと、まず1876年にドイツでガソリンエンジンが発明され、1885年に自転車にガソリンエンジンを搭載したオートバイを試作し、1886年に4輪車に搭載した自動車が試作されました。これらを開発したのはダイムラーとマイバッハというエンジニアでした。そう、あのダイムラーベンツのダイムラーです。そして、これとはまったく別に1886年に4サイクルエンジンを載せた3輪車を開発した人物がいました。それがベンツでした。自動車の発明にダイムラーやベンツが既にいたのですね。その後、ガソリン自動車が生き残ってゆくのですが、それには道路や石油という条件が整うまでに少し時間がかかりました。また、自動車レースがそれに大きく貢献しています。

さて、自動車の普及をおおまかに追ってみましょう。最初に欧州で発明された自動車ですが、初期の世界の生産台数は2万台程度でした。欧州では自動車は高級品でした。それを変えたのがアメリカのヘンリー・フォードです。コンベアー生産方式によってT型フォードの大量生産を可能にしました。そして、欧州では一部の富裕層しか買えなかった自動車でしたが、米国では一般大衆にも買えるようにしました。その結果、右図のように1900年から1980年までの間、アメリカが世界の自動車の生産の大半を担っています。世界大恐慌と第二次世界大戦の時期はさすがに生産は落ち込みますが、それ以外はほぼ順調に生産台数を伸ばして行きます。

一方、欧州はというと戦争のたびに生産を落としています。欧州の場合、特徴的なのは自国内ですべての自動車部品を賄うということが少なく、他国にわたって部品を揃えていたため、いったん欧州内のどこかで戦争が起こると部品が滞り、その結果、生産が思うように行かなかったようです。こういった違いもあってますますアメリカが自動車大国になったわけです。その間、アメリカ国内では競争が激しくビッグ3と言われるフォード、GM、クライスラーが台頭してゆきます。この自動車大国アメリカのダントツでのトップの地位は日本が自動車産業に参戦してくる1980年まで続きます。

日本の自動車産業は戦後に伸びて行きます。戦前もあったのですが、戦前は軍用車に限られていたようです。日本がアメリカを追い越すのはトヨタのリーン生産方式、いわゆるカンバン方式によって作られた高い品質によるものでした。元々、リーン生産方式はアメリカのデミング博士に由来するらしいです。また、自動車が小型化することにアメリカの自動車メーカーが対応できなかったのも大きな要因でした。その後、日米自動車摩擦が起こります。結局、アメリカの政治圧力に負けて日本が自主規制することでアメリカの自動車メーカーは倒産を免れ、その間にアメリカの自動車メーカーが技術を向上させて日本に追いついたそうです。

それから後に今度はグループ化の波が押し寄せます。世界の自動車メーカーはある程度のグループに組み替えられます。その結果、GM、フォード、ダイムラー・クライスラー、トヨタ、ルノー、VWの6大グループに分けられます。本書は2003年に刊行された本ですのでここまでの歴史ですが、しかし、その後も再編成されて、現在では、トヨタ、GM、VW、ルノー、現代自動車の5大グループになってしまいました。韓国の現代自動車が食い込んできました。


ところで、英国では自動車メーカーが発達しませんでした。というより出遅れてしまいました。英国は産業革命発祥の地でありながら、どうしてでしょう?それはすでに発達した産業が既得権益を守ったがために新興企業である自動車産業の発達を阻害したといえるのではないでしょうか。例えば、赤旗法という規制がありました。1830年頃、英国は既に蒸気自動車を開発してロンドンを蒸気バスが走っていました。しかし、蒸気バスはエンジンが蒸気機関ですから黒煙を排出するので住民からは嫌われていました。また、すでに発達していた乗合馬車は蒸気バスに仕事を奪われるのではないかとたいへん恐れていました。そこで1865年に乗合馬車の団体は議会に働きかけて自動車の前方55メートル先で赤旗を持った警告者が自動車を通ることを付近の通行者に警告しなければならないという赤旗法を通してしまったのです。考えたら、バカバカしい法律ですよね。しかし、そのことによって英国では自動車の普及が妨げられてしまったのです。ドイツやフランスで自動車の開発が進んだことに危機感を抱いて1896年になって赤旗法はやっと廃止されました。また、第二次世界大戦後、ドイツやフランスの工場が破壊されたために英国の自動車産業は一時期伸びるのですが、次第に復興した欧州大陸のメーカーに抜かれてゆきます。現在では英国の国産メーカーは外国のメーカーに吸収合併されて、独立した英国の自動車メーカーはとうとう無くなってしまいました。

今度は日本の自動車メーカーの国内でのシェアを見てみましょう。トヨタは比較的シェアを維持し続けていますが、日産は新規参入組に押されて20%近くシェアを下げています。一方、新規参入組でシェアを伸ばしたのはホンダとスズキです。マツダと富士重工はシェアを落とし、三菱やダイハツはほぼ横ばいです。この図は1995年までですので、現在はもう少し日産のシェアは回復しているのではないでしょうか。瀕死のクライスラーをアイアコッカが建て直したようにカルロス・ゴーンが官僚体質だった日産を改革して経営を建て直しましたからね。




今度はアメリカ市場での各自動車メーカーのシェアを見てみましょう。右図のようになります。フォードやクライスラーはほぼ横ばいですが、GMがかなりシェアを落としています。そして、その落とした分を勝ち取ったのが日本の自動車メーカーです。GMがシェアを落とした原因は様々ありますが、まず1つ挙げられるのは内製率が80%と非常に高かった点があります。トヨタの内製率が30%ですので極めて高いことが分かると思います。同時にUAW(全米自動車労働組合)との確執がありました。内製率が高いことからもそれを外注しようとすれば労働組合と対立するのは目に見えていますよね。これらのためにGMは非常に非効率な生産になったのだと思います。他にも人気車が無いとかRV車に出遅れたなど要因は多々あります。例えば最新鋭のロボットを工場に導入したけれど故障が多くてまったく使いものにならなかったという大失敗もあったようです。先日、デトロイトが財政破綻しましたが、大きな原因はGMの低迷にあると言えるでしょう。


さて、最後に現在の世界の自動車産業の趨勢を見ておきます。2012年のデータですが、世界の自動車メーカーの販売台数ランキングと国別の自動車生産台数と国別の自動車販売台数です。



















日本のトヨタや日産・ルノーはよく頑張っています。ホンダもよく食らいついています。ですが、世界の生産台数と販売台数を見てみて下さい。かつては自動車の世界最大の市場はアメリカでした。アメリカが最も多く生産して最も多く購入していました。しかし、今では中国が世界最大の自動車市場になりました。中国に世界各国から来た自動車メーカーが工場を建てて自動車を作り、そして、作られた自動車を中国が買っています。世界経済にとって、とても象徴的だと思います。日本もいずれ自動車工場のほとんどが中国に移転してしまい、移転した工場は中国を本拠地としてしまうでしょう。また、電気自動車がガソリン自動車にとって変わる時代が到来したとき、電気自動車はこれまでのガソリン自動車とは違って家電のように部品の調達が垂直統合から水平分業に変わるのではないでしょうか。そうなれば、ますます日本の自動車産業は苦しくなると思います。日本がこの世界の潮流に逆らっても仕方ないのではないでしょうか。むしろ、日本としては製造業から知識産業に新たに産業構造の転換を図るべきなのだと思います。

いずれにしても、自動車産業の歴史を知る上でこの本を読むことを強くお薦めします。