新海誠監督の『言の葉の庭』を観ましたので感想を書きます。
久しぶりに素晴らしいアニメを観ました。見終わった後の清々しさは久しぶりでした。まず、あらすじを書いておきます。物語は16歳の高校生の男子と学校に通えなくなった高校の女教師との葛藤と恋の物語です。主人公の秋月孝雄は16歳にしては非常に大人びた少年です。すでに将来は靴職人になることを決めて黙々と靴職人目指して頑張っています。一方、もう一人の主人公雪野由香里は仕事によるストレスでトラウマを抱えてしまい仕事に行けずに朝から公園でビールを飲んでいるという生きることに行き詰った大人の女性です。彼女は自分と孝雄を比較して自分のことを成長していないと嘆き卑下している節があります。ただ、ひとの心は傷つきやすく脆いものだとしたら、そんなに卑下することもないだろうと私は思ったりします。日本社会は一人ひとりが経済活動に従って動いており、社会全体もそれに伴って全体運動していますので、いったんそこからはみ出してしまうととても居心地の悪いところなのでしょう。しかし、果たしてそれが正しいことなのかどうなのか。かつては企業戦士となって働くことで自己実現を行うというのがサラリーマンの既定の路線でした。しかし、企業の競争は激しくなり生存競争だけになりつつあって他を蹴落として自己の生存のみを優先するような経済活動で、果たして自己実現などが可能かどうかとても疑問に思います。
さて、孝雄は靴職人を目指しているので学校教育を煩わしく感じており、雨の日の午前中は休んで公園で靴の絵を描いています。学校に行きつつも勉強を半ば無意味と捉えており、いわば片足はドロップアウトしている感じです。一方、雪野は休職しており、味覚障害まで起こして現時点では完全にドロップアウトしています。そんな二人が出会って心を通わせます。心を通わせるといっても最初は恋ではなかったと思います。ドロップアウトした者同士が分かり合える共感が彼らの心を通わせたのでしょう。アウトサイダーである者同士の共感と言っていいかもしれません。そして、アウトサイダーであることは社会からのはみ出し者であり、どこか痛みを持っており、それは互いを繊細にします。そして、互いの心の繊細さに触れたとき、二人は次第に近しい気持ちになります。
ところが、ふとしたきっかけで雪野の正体を孝雄が知ってしまいます。孝雄は雪野の繊細な心を知っていたため、そして、既に彼女に恋し始めていたため、彼女をここまで追い詰めた先輩に手を上げて彼女の仇を討ちます。雪野は孝雄の仇討ちを知りませんが、どこかで何かを感じたのでしょう、そのあと二人はより一層近い関係になります。そして、雪野の自宅に訪れたときこれまでにない幸せを感じ、孝雄は恋愛にまで想いが高まります。それに対して雪野は恋愛なのかどうかは分かりません。二人でいることがこれまでになく幸せであることは確かです。そして、孝雄によって傷ついた心が癒されたのも確かです。二人は最後に互いの心を吐露して抱き合います。そして、雪野は実家に帰って教師として再出発し、孝雄は大人に成長することで今度は雪野を迎えに行こうと決意を固めて物語は終わります。
物語自体はさほど珍しくないと思います。確かに主人公の孝雄がとても大人であることに驚きますが、それ以外は特に珍しくないと思います。また、雪野のような心を病んだ教師は現在多くいると聞きます。多くの教師が学校生活で精神的に傷ついて休職しているというニュースを聞いたことがあります。おそらく雪野のようなケースは決して珍しくないのでしょう。ちょっと社会の暗いところを描いてあって新海誠にしては珍しいような気もします。
さて、ここからが本題です。この作品で特筆すべき点について言及します。それは自然の情景を描いた映像です。この作品は物語も確かに魅力的なのですが、それ以上に自然の描写がとても素晴らしいものになっています。雨に濡れた自然の描き方がこれまでのアニメにない素晴らしさでした。普段は動きのない情景が天気を雨にすることによって大きく変わります。自然や事物が雨に濡れることで色彩が際立って見えたり、風に揺れる木々や雨粒が心象風景として見事に浮かび上がってきます。雨に打たれて蒸気を発した空気が最早いつもとは違っています。
かつて日本文学は自然の情景を取り入れるのがたいへん優れていたと思います。しかし、それを映像化するのは非常に困難でした。なぜなら、実際の映像を撮ってもそれは日常的な情景であって、文脈に沿った印象を乗せた情景にはならないからです。ところが、それをこの作品は見事に描くことに成功しています。アニメ化することによって描きたい情景を見事にイメージどおりに描いているのです。いわば撮影では不可能なベストショットをアニメで見事に描いているのです。新海誠は元は文学部の国文学専攻だったはずです。日本の文学は伝統的に自然を描くことが多く、そして上手です。俳句にも必ず季語を入れて自然の移り変わりを表現するように日本独特の自然観があるからです。ただし、西洋だって自然観はあります。私は西洋の博物学が描く博物誌などに挿入されている動植物画は素晴らしいと思いますし、西洋の庭園のその自然のままにしようとする姿勢は良いと思います。それに対して日本の庭園は刈りこんで人工的にしてしまいがちです。おそらく、日本の場合、自然のままに任せると荒れ放題に自然が成長してしまうからだと思います。ところが、欧州は違います。例えば、ドイツなどは森を残しています。いったん森を伐採してしまうと二度と生えない気候になってしまったからです。また、英国ではナショナルトラストとして湖北地方など自然を残す運動があります。そうまでしないと自然を残せないからです。一方、日本は国立公園として自然を残そうとしていますが、山を削って自然を破壊すること甚だしいと思います。今回のウナギにしても絶滅を心配するよりもウナギの高騰を心配している始末です。日本人の感覚として自然は放っておけば勝手に再生するものと思っているようです。しかし、例えばオーストラリアでは山火事がいったん起これば二度と森は再生しない地域だってあります。それだけ日本の自然環境は恵まれているとも言えるのかもしれません。しかし、日本は戦後の経済成長の中で自然をとことん破壊してきました。今後、どこまで再生できるのかは分かりません。以前、吉本隆明が若い歌人が自然を詠んだ短歌が減ったと言っていたことがありました。それだけ日本人の中から自然に対する感性が失われたのだと思います。なぜかといえば都市化が進んで自然に触れる機会が減少したからだと思います。ながながと書いてきましたが、このアニメではそういった日本の自然に対する感覚がかつては文学であったのが、このアニメでは映像として見事に描かれていると思います。
風に揺れる枝、雲の中を走る稲妻、雨水のはね具合や波紋の広がり具合、とても素晴らしい表現でした。これはどのようなアニメ技法で描かれたのか素人の私には分かりません。CGなのかセル画風に手描きで描かれたものなのか、それともまったく別の技法なのか。いずれにしてもとても素晴らしい動く自然描写でした。実写では出せないアニメならではの表現でアニメにした甲斐があるというものです。実は、私は以前にこのような自然を描いたアニメ作品を期待したことがありました。それはディズニーアニメの『ポカホンタス』です。『ポカホンタス』の頃、CGが出始めた頃で水面の波紋や風に揺れる枝などコンピュータを使った自然な表現ができるのではないかと期待したことがありました。今回、そのときの期待以上の映像、自然な表現にさらにひとの感性を上乗せした素晴らしい映像を見ることができて本当に嬉しかったです!大げさな言い方かもしれませんが、アニメという表現ではあるものの、新海誠監督は自然を愛でるという日本文学の伝統の良き継承者なのかもしれません。
ありがとう、新海誠監督!
追記
自然には穏やかな自然もあれば、荒々しい自然もあります。アンドレ・ジッドが小説『田園交響楽』の中で自然とはベートーベンの田園交響曲のように美しいものだと言った反面、世界にはそうでないものもあると言いました。天国の楽園のような穏やかな自然だけでなく、石を裏返したときにムカデやダンゴムシがうじゃうじゃと這い出してきたり、動物の腹を切り裂いたら内臓がドバっとそのグロテスクな姿を見せたりします。表面は美しい曲面であっても、その中身はグロテスクな内臓だったりします。今回、この作品ではどちらかといえば、自然の美しい面ばかりを表現していたと思います。しかし、それは自然の一面に過ぎません。今度は是非もう1つの自然の面、荒々しかったり、グロテスクだったりする、魑魅魍魎が蠢くような自然の陰の部分を是非表現してほしいものだと思います。今作がとても素晴らしかったので、これは次回作への期待です。
久しぶりに素晴らしいアニメを観ました。見終わった後の清々しさは久しぶりでした。まず、あらすじを書いておきます。物語は16歳の高校生の男子と学校に通えなくなった高校の女教師との葛藤と恋の物語です。主人公の秋月孝雄は16歳にしては非常に大人びた少年です。すでに将来は靴職人になることを決めて黙々と靴職人目指して頑張っています。一方、もう一人の主人公雪野由香里は仕事によるストレスでトラウマを抱えてしまい仕事に行けずに朝から公園でビールを飲んでいるという生きることに行き詰った大人の女性です。彼女は自分と孝雄を比較して自分のことを成長していないと嘆き卑下している節があります。ただ、ひとの心は傷つきやすく脆いものだとしたら、そんなに卑下することもないだろうと私は思ったりします。日本社会は一人ひとりが経済活動に従って動いており、社会全体もそれに伴って全体運動していますので、いったんそこからはみ出してしまうととても居心地の悪いところなのでしょう。しかし、果たしてそれが正しいことなのかどうなのか。かつては企業戦士となって働くことで自己実現を行うというのがサラリーマンの既定の路線でした。しかし、企業の競争は激しくなり生存競争だけになりつつあって他を蹴落として自己の生存のみを優先するような経済活動で、果たして自己実現などが可能かどうかとても疑問に思います。
さて、孝雄は靴職人を目指しているので学校教育を煩わしく感じており、雨の日の午前中は休んで公園で靴の絵を描いています。学校に行きつつも勉強を半ば無意味と捉えており、いわば片足はドロップアウトしている感じです。一方、雪野は休職しており、味覚障害まで起こして現時点では完全にドロップアウトしています。そんな二人が出会って心を通わせます。心を通わせるといっても最初は恋ではなかったと思います。ドロップアウトした者同士が分かり合える共感が彼らの心を通わせたのでしょう。アウトサイダーである者同士の共感と言っていいかもしれません。そして、アウトサイダーであることは社会からのはみ出し者であり、どこか痛みを持っており、それは互いを繊細にします。そして、互いの心の繊細さに触れたとき、二人は次第に近しい気持ちになります。
ところが、ふとしたきっかけで雪野の正体を孝雄が知ってしまいます。孝雄は雪野の繊細な心を知っていたため、そして、既に彼女に恋し始めていたため、彼女をここまで追い詰めた先輩に手を上げて彼女の仇を討ちます。雪野は孝雄の仇討ちを知りませんが、どこかで何かを感じたのでしょう、そのあと二人はより一層近い関係になります。そして、雪野の自宅に訪れたときこれまでにない幸せを感じ、孝雄は恋愛にまで想いが高まります。それに対して雪野は恋愛なのかどうかは分かりません。二人でいることがこれまでになく幸せであることは確かです。そして、孝雄によって傷ついた心が癒されたのも確かです。二人は最後に互いの心を吐露して抱き合います。そして、雪野は実家に帰って教師として再出発し、孝雄は大人に成長することで今度は雪野を迎えに行こうと決意を固めて物語は終わります。
物語自体はさほど珍しくないと思います。確かに主人公の孝雄がとても大人であることに驚きますが、それ以外は特に珍しくないと思います。また、雪野のような心を病んだ教師は現在多くいると聞きます。多くの教師が学校生活で精神的に傷ついて休職しているというニュースを聞いたことがあります。おそらく雪野のようなケースは決して珍しくないのでしょう。ちょっと社会の暗いところを描いてあって新海誠にしては珍しいような気もします。
さて、ここからが本題です。この作品で特筆すべき点について言及します。それは自然の情景を描いた映像です。この作品は物語も確かに魅力的なのですが、それ以上に自然の描写がとても素晴らしいものになっています。雨に濡れた自然の描き方がこれまでのアニメにない素晴らしさでした。普段は動きのない情景が天気を雨にすることによって大きく変わります。自然や事物が雨に濡れることで色彩が際立って見えたり、風に揺れる木々や雨粒が心象風景として見事に浮かび上がってきます。雨に打たれて蒸気を発した空気が最早いつもとは違っています。
かつて日本文学は自然の情景を取り入れるのがたいへん優れていたと思います。しかし、それを映像化するのは非常に困難でした。なぜなら、実際の映像を撮ってもそれは日常的な情景であって、文脈に沿った印象を乗せた情景にはならないからです。ところが、それをこの作品は見事に描くことに成功しています。アニメ化することによって描きたい情景を見事にイメージどおりに描いているのです。いわば撮影では不可能なベストショットをアニメで見事に描いているのです。新海誠は元は文学部の国文学専攻だったはずです。日本の文学は伝統的に自然を描くことが多く、そして上手です。俳句にも必ず季語を入れて自然の移り変わりを表現するように日本独特の自然観があるからです。ただし、西洋だって自然観はあります。私は西洋の博物学が描く博物誌などに挿入されている動植物画は素晴らしいと思いますし、西洋の庭園のその自然のままにしようとする姿勢は良いと思います。それに対して日本の庭園は刈りこんで人工的にしてしまいがちです。おそらく、日本の場合、自然のままに任せると荒れ放題に自然が成長してしまうからだと思います。ところが、欧州は違います。例えば、ドイツなどは森を残しています。いったん森を伐採してしまうと二度と生えない気候になってしまったからです。また、英国ではナショナルトラストとして湖北地方など自然を残す運動があります。そうまでしないと自然を残せないからです。一方、日本は国立公園として自然を残そうとしていますが、山を削って自然を破壊すること甚だしいと思います。今回のウナギにしても絶滅を心配するよりもウナギの高騰を心配している始末です。日本人の感覚として自然は放っておけば勝手に再生するものと思っているようです。しかし、例えばオーストラリアでは山火事がいったん起これば二度と森は再生しない地域だってあります。それだけ日本の自然環境は恵まれているとも言えるのかもしれません。しかし、日本は戦後の経済成長の中で自然をとことん破壊してきました。今後、どこまで再生できるのかは分かりません。以前、吉本隆明が若い歌人が自然を詠んだ短歌が減ったと言っていたことがありました。それだけ日本人の中から自然に対する感性が失われたのだと思います。なぜかといえば都市化が進んで自然に触れる機会が減少したからだと思います。ながながと書いてきましたが、このアニメではそういった日本の自然に対する感覚がかつては文学であったのが、このアニメでは映像として見事に描かれていると思います。
風に揺れる枝、雲の中を走る稲妻、雨水のはね具合や波紋の広がり具合、とても素晴らしい表現でした。これはどのようなアニメ技法で描かれたのか素人の私には分かりません。CGなのかセル画風に手描きで描かれたものなのか、それともまったく別の技法なのか。いずれにしてもとても素晴らしい動く自然描写でした。実写では出せないアニメならではの表現でアニメにした甲斐があるというものです。実は、私は以前にこのような自然を描いたアニメ作品を期待したことがありました。それはディズニーアニメの『ポカホンタス』です。『ポカホンタス』の頃、CGが出始めた頃で水面の波紋や風に揺れる枝などコンピュータを使った自然な表現ができるのではないかと期待したことがありました。今回、そのときの期待以上の映像、自然な表現にさらにひとの感性を上乗せした素晴らしい映像を見ることができて本当に嬉しかったです!大げさな言い方かもしれませんが、アニメという表現ではあるものの、新海誠監督は自然を愛でるという日本文学の伝統の良き継承者なのかもしれません。
ありがとう、新海誠監督!
追記
自然には穏やかな自然もあれば、荒々しい自然もあります。アンドレ・ジッドが小説『田園交響楽』の中で自然とはベートーベンの田園交響曲のように美しいものだと言った反面、世界にはそうでないものもあると言いました。天国の楽園のような穏やかな自然だけでなく、石を裏返したときにムカデやダンゴムシがうじゃうじゃと這い出してきたり、動物の腹を切り裂いたら内臓がドバっとそのグロテスクな姿を見せたりします。表面は美しい曲面であっても、その中身はグロテスクな内臓だったりします。今回、この作品ではどちらかといえば、自然の美しい面ばかりを表現していたと思います。しかし、それは自然の一面に過ぎません。今度は是非もう1つの自然の面、荒々しかったり、グロテスクだったりする、魑魅魍魎が蠢くような自然の陰の部分を是非表現してほしいものだと思います。今作がとても素晴らしかったので、これは次回作への期待です。