2017年1月3日火曜日

瀬木比呂志『リベラルアーツの学び方』


久しぶりにブログに投稿します。

今回、紹介するのは、最近、読んだ本で瀬木比呂志さんの『リベラルアーツの学び方』です。


瀬木比呂志さんを私が知ったのは神保哲生さん・宮台真司さんのビデオニュースというニュース専門のネット放送局でした。ビデオニュースでは以前から日本の刑事司法の問題(冤罪の多さなど)を取り上げていたので元裁判官である瀬木比呂志さんをゲストに迎えてのお話は大変勉強になりました。それがキッカケとなって私は瀬木さんの本を読みたいと思うようになりました。最初に読んだのは『絶望の裁判所』です。日本の裁判所に対する私の今までの信頼が大きく崩れる内容でした。大変衝撃を受けまして、それ以来、瀬木さんの司法に関する一般書は読まなくちゃと思っていて、次の『ニッポンの裁判』を読んでいる途中です。(そうこうするうちに『黒い巨塔 最高裁判所』まで刊行されてしまい、これも読まなくちゃと思って焦っている次第です。)

ところが、そんな折、大変ショッキングな出来事が起こりました。アメリカ大統領選でトランプ氏が勝利したのです!まさかトランプ氏が勝つとは夢にも思っていませんでしたので大変な驚きと共に深い落胆へと変わりました。彼のような人物がアメリカの大統領になったら世界はどうなってしまうのだろうと大変心配になりました。(実際、トランプ氏が大統領選に勝利するとすぐに人種差別的LGBT差別的な落書きなどがあちこちに起こったそうです。)そんなわけでトランプ氏勝利以来、私は憂鬱な日々を過ごしていました。そして、憂鬱な気分の中で「こういったことがなぜ起こったのか?どうすればこのようなことが起こらないようになるのか?」など考えることが多くなりました。そして、私自身が辿り着いた結論が啓蒙でした。もちろん、啓蒙がすべての解決策ではありません。いくつかある解決策の中のひとつに過ぎませんし、そういった解決策の中でも効力の弱い部類に入るものだろうとも思います。ただ、いくつかある解決策の中で私が最も支持する方法が啓蒙でした。人びとの教養を底上げすることで彼のような人物を選ばないような知力を身に着けようというのが狙いです。それと同時に、21世紀に適合するよう教養そのものを再構築するときなんだと思うようになりました。まあ、私も大した教養があるわけではありませんが、とはいえ、トランプ氏なる人物を選ばないという最低限の教養はあるつもりです。

さて、そこで、「じゃあ、現代の教養を考えるとき、どのような教養が適当であろうか?」と思案していたところ、「じゃあ、昨今は教養に関してどのような本が出ているだろうか?」と考えてネットで検索したところ、その中にこの瀬木さんの本『リベラルアーツの学び方』を発見したというわけなのです。この本が刊行されたのは2015年5月とのことなので、もう1年以上前の本ではありませんか。瀬木さんの本を読まなくちゃと思っていたわりにアッサリと見落としていました。いや、多少、目に入ったのかもしれませんが、司法とは関係ないと除外してしまったのかもしれません。ともかく、『絶望の裁判所』を読んだりビデオニュースでの鼎談を見たりして著者を知ったつもりでいたので、読む価値があるだろうと考えて、この本を読み始めたのでした。


まず、驚いたのはロックに対する思い入れがすごくあることでした。『絶望の裁判所』やビデオニュースで見た限りでは大変知的な印象のある、そして、どこか陰のある感じで、きっと書斎にこもって専門書ばかり読んでいる方なのかなあと思っていました。ところが、人間というのは面白いもので、印象とのギャップがあって、実はロックンローラーな一面があったわけです。いや、私はロックだけでなく音楽そのものに疎いのでこういった印象は間違っているかもしれませんが、コレクションしているCDの枚数だけでもその造詣の深さが分かるように思います。(なんと9000枚以上!内訳はロックとクラシックが各3500枚、ジャズ等900枚とのこと!)ロックだけではありません。漫画に対する造詣も計り知れないものがあって『HUNTER×HUNTER』を読んでたりするのに驚きました。私はまったく読んだことがなく表紙の絵だけネットで見たことがあるだけでした。アニメ『幽遊白書』の原作者だくらいしか知りません。また、『忍者武芸帳影丸伝』をきちんと読んで分析できる学生は司法試験にも多分受かるというクダリには「最初、ホンマかいな?」と半信半疑に思いましたが「とはいえ、裁判官であり学者でもある瀬木さんが言うのだから本当なんだろう」と私にして珍しく妙に神妙に受けとりました。

ただし、ロックや漫画に対する著者の造詣が深いことがこの本の肝心な点ではありません。私が最も感心したのは著者のリベラルアーツを学ぶ姿勢です。それはごくごく基本的なことなのですが、しかし昨今の若者には是非この姿勢を学んで欲しいと思ったのです。例えば、こんなクダリがあります。

芸術についても、ボーダレス、ジャンルレスの発想で個々の作品を楽しむとともに、「対話と学びの姿勢」で接してゆくことが大切です。その時楽しめればそれでよいという「消費の発想」では、個々の作品は、受け手に心を開いてはくれません。友人関係を消費の発想で考える人はいないと思いますが、芸術は人の創作物であり、作者の思考や感情の精髄が結晶したものなのですから、人間に接するのと同じような注意深い姿勢で接することが大切であり、必要でもあります。

まさにその通りだと私も思います。消費の発想ではダメなのです!しかし、昨今はそういった対話と学びの姿勢で作品を楽しむ人が少なくなったと感じることが多くなりました。本当に嘆かわしいことです。これは基本中の基本だったはずなのに!いつの間にか消費者の姿勢でばかり物事を捉えるようになってしまっています。私はホイジンガのホモ・ルーデンス的な言い様にならって「人間は学ぶ生きものだ」と思っていますので、何事も学ぶものだと思っています。(ついでに言うと昨今の若者は友人関係も、消費の発想とまでは言いませんが、本来の友情ではない空気的な利害関係で結ばれているかのように感じられます。まあ、どこまで当たってるかは分かりませんが。)

他にも

リベラルアーツとして映画を見る場合には、ただ、「面白いもの」、「スリリングなもの」、「見終わったときに心地よくさせてくれるもの」といった基準だけで選ぶのではなく、この映画は自分に何を与えてくれるのか(たとえば、経験したことのないような人間の複雑な感情、人間の善と悪それぞれの深さとその裏側、洗練された一つの幻想世界、など)という観点をも加えると、選択の範囲も広まり、映画を見る目も変わってくると思います。
というようなクダリがあります。いかに学ぶか、作品から何を学びとれるかとする著者の学びの姿勢がここにもあります。ところが昨今の若者は(いえ、若者に限った話ではなく、ちゃんとした大人でさえ)作品を消費の対象としか見ていない人が増えました。もちろん、「勉強!勉強!」と肩肘張った主張はかえって逆効果ですが、とはいえ消費の姿勢を当然と考えて、作品からまったく学ぼうとしないのは間違った態度だと後進のためにもハッキリと言っておくべきだと思います。こんなことは基本中の基本だったはずですが、いつの間にかその基本中の基本が日本では忘れられています。この基本中の基本を思い出すためだけでもこの本を読む価値があります。


それから、私が面白いなと思ったのは、著者の考え方の哲学です。著者自身も本書の中で再三述べていますが、著者の考え方のベースになっているのはプラグマティズムです。プラグマティズムに至った理由は著者自身の性格やこれまでの歩みなどが深く関係していると思いますが、それだけではなく裁判という現実を如何に法的に処置してゆくかという職業的な影響も大きくあるのではないかと私は睨んでいます。対象が自己の内面ならいざ知らず、裁判のような他者を含んだ現実を対象とする場合にはプラグマティックに取り組む他なかったのではないでしょうか。

ところで、プラグマティズムというものを私はなかなか理解できずにいます。哲学書や理論書を読んでもどうもピンとこない。その場ではなんとなく分かったような気がするのですが、時間が経つとどうも腑に落ちなくなるのです。そこでいろいろと考えてみたのですが、どうもプラグマティズムの根っこにあるのは経験ではないかと最近は思うようになっています。例えば、何らかのプラグマティズムの書があった場合、プラグマティズムの著者の根っこにある経験を読者である私が真に自己の経験として共有できるなら、その著書が腑に落ちる、納得できるようになるのではないかと思います。(いえ、まだ断定はできませんが。ところで、ここでそこまで経験を重視するなら西田幾多郎の純粋経験を持ち出したりすると話が迷宮に陥ってしまいそうですが(笑)。)逆に言うと哲学者の書いた理論ばかりのプラグマティズムよりも何らかの経験に基づいた、例えば、職業とか、あるいはスポーツとかの特定の経験に基づいたプラグマティズムの哲学書の方がピンとくるのではないでしょうか?そういった意味では裁判官という経験に基づいたプラグマティズムの方が理論ばかりのプラグマティズムよりもより分かり易いのではないかと思ったりします。まあ、でも、プラグマティズムについてはまだまだ分かりませんので、いずれまた自分なりに分かったというときに述べたいと思います。


さて、この本でちょっと特徴的な点について述べておきます。この本は三部構成になっていて第三部でリベラルアーツを学ぶ際の具体的な作品について述べているのですが、ちょっと面白いのが、第1章で、生物学、脳神経科学、精神医学関連、自然科学のそのほかの分野という順に述べられている点です。ちなみに第2章は社会・人文科学、思想、批評、ノンフィクションで、第3章は芸術で文学、映画、音楽、漫画、広い意味での美術となっています。注目すべきははじめに生物学、脳神経科学、精神医学関連が述べられている点です。これは人間に対する洞察を深めるために最初にこれらのジャンルを持ってきたのだと思います。この点が裁判官ならでは、あるいは自己の経験を基点とするプラグマティストならではの配列だと思います。ちなみにこれらの解説ではなかなか興味深い知見を得られることができましたので、是非、ご一読することをお薦めします。例えばこんなのです。

脳の営みの興味深い特質の一つとして、それが、「何がなんでも統一された一貫性のある絵を描きたい」というこだわりをもっていいることが挙げられます。僕たちが網膜上の盲点の存在に気付かないこと(脳が盲点に相当する部分の映像を補充してしまうからです)、各種の錯覚現象、ラマチャンドランの書物に掲げられているような各種の否認症例は、それを裏付けます。整合性のある閉じた回路を形成しようとする傾向は、脳の生理学的な構造自体に基づく特質なのではないでしょうか(脳の作話能力の本質性。このような脳の本性は、証人や訴訟当事者が、裁判における尋問で、故意に嘘をつくよりも、自分に都合のよいように構成された「作話」をする例のほうがはるかに多いと思われることと深く関連しているでしょう〔瀬木〕)。

人文系に偏った読書をしているとこういった視点はついつい見落としがちになりやすいからです。ひと昔の教養書ではこういった配列にはなかなかならなかったと思います。

ただ、そういう今どきな特徴だけでなく、基本中の基本も的確にところどころに散りばめられているので、当たり前になりすぎてつい忘れてしまいがちなことを思い出すのにも大変良い本でした。例えば、私の中では

欧米の文化が「罪の文化」であるのに対し日本の文化が「恥の文化」である
というルース・ベネディクトの『菊と刀 日本文化の壁』の言葉は「そうだった!当たり前すぎて忘れてた!」と膝を打ったのでした。こういう「そうだった!忘れてた!」とか「へぇ!そうだったんだ!知らなかった!」というのが随所に出てきます。


さて、トランプ氏の大統領選勝利からリビルド(再構築)というキーワードを思いついて、教養の再構築という考えに思い至り、昨今の教養はどうなっているのかという調査から本書にたどり着いたわけですが、何を学ぶかという学ぶ対象に何を選ぶかも、もちろん大事なのですが、どういった姿勢で学ぶかという、基本中の基本すぎてついつい見落としがちで私もすっかり見落としていたのですが、何を学ぶかよりも大事な学ぶ姿勢について思い至れただけでもこの本には大きな価値がありました。いえ、それだけでなく、この本に紹介されている作品はどれもこれも大いに教養、リベラルアーツの血となり肉となる実りある作品群だと思います。私も時間の許す限りこの本で紹介された作品に触れてゆきたいと思います。

ともかく、トランプ現象は決してアメリカだけの現象ではないと思います。世界中の多くの国で同じような現象が起こっていると思います。そして、その根底にある原因はどれも同じで、その問題に対する解決策もまた同じなのではないかと思います。かつて私はネオアカのミッションにグローバル化した世界で世界中の人たちで共有できる共通の21世紀の教養の構築というミッションを掲げました。トランプ大統領が誕生する今、このミッションを再び再起動するときが来たのだと強く思っています。