2013年11月10日日曜日

新房昭之『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』

 
新房昭之監督・虚淵玄脚本の『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』の感想を書きます。

以下、ネタバレになります。


あらすじは、まず、ほむらが故意に心を閉ざして心的空間に仮想世界を構築します。その仮想世界はまどかが存在する世界でその中でほむらはまどかたちと暮らしています。ひと言で言えば、いわゆる夢を見ている状態です。物語はこの夢の中で夢とは知らずに暮らしているほむらの視点で始まります。ほむらはいつものように魔女を退治して暮らしていましたが、次第にその世界の不自然さに気づいてゆき、その世界が現実の世界でないことに気付いてゆきます。そして、巴マミと闘ったりするなど葛藤を経た後、ほむらはその世界が夢の世界であり、その夢は自分の夢であることに気づきます。その結果、ほむらは本当はまどかがいないことを再認識して絶望して、いわゆる魔女になってしまいます。本来ならまどかが神になった後の世界では魔法少女が魔女になることはありませんが、ここはかつての世界に擬した仮想世界なので魔女になることも可能です(*1)。そのとき、神まどかがほむらの救済に降臨してきます(*2)。ところが、実はこの瞬間をこそほむらは待っていたのでした!夢の中のほむらは絶望して魔女になりますが、この世界を作った現実のほむらはそれすら予想してこのことを計画していたのです。では、現実のほむらの真の狙いは何でしょうか?ほむらの真の狙いは神まどかと接触することで神まどかから人間まどかの情報を抜き出すことだったのです。そうやって抜き出した人間まどかの情報を、今度は人間ほむらの存在の上に上書きすることで人間まどかを復活させることが真の狙いだったのです。その結果、時間遡行により世界はほむらの狙い通りに書き換えられました。書き換えられた世界では、本来なら転校してくるのはほむらのはずだったのですが、まどかの人間情報が存在ほむらに上書きされたので、転校してきたのは人間まどかでした。つまり、ほむらの願い通り、人間まどかは復活したのです。しかし、それではほむらはどうなったのでしょうか?ほむらはまどかが存在することと引き換えに、もはや人間としては存在できなくなりました。では、今、目の前にいるほむらは何者なのでしょうか?実は目の前にいるほむは人間ではなく、悪魔なのです。つまり、ほむらは悪魔となってしまい、現実世界では悪魔の化身としてしか現れることができなくなりました。さらにまどかは神の断片であるために、ともすれば天に還ろうとしてしまいます。ほむらは人間まどかをこの現実世界にとどめるためには物質世界への執着をまどかに促さなければならなくなりました。それはまるで執着心を誘う悪魔の囁きに似ています。こうして神と悪魔は完全に隔たってしまいました。しかも神と悪魔はいずれ対決せざるをえない日が来ることの予感を残します・・・。

以上のように、ほむらはまどかを愛するがゆえにまどかを人間として復活させ、その代償としてほむらはまどかとは再び一緒に暮らせない、神と悪魔として完全に隔てられてしまうという、ほむらにとっては最大の不幸を背負うことになったのです。自分は最大級の不幸になっても愛する者の幸せのために犠牲になる、それがこの物語に描かれたほむらの愛の形です。

さて、ここからは少し余談の話をします。

この物語を見ると悪魔、すなわち堕天使サタンについて思い起こしてしまいます。堕天使サタンは元々は天使長ルシファーでした。しかもただの天使ではなく、天使の中で最も位階の高い天使であり、最も神に近い天使でした。天使の中でも知恵と力が最大の最強天使であり、神の最も良き理解者でした。しかし、そのルシファーがなぜか天界を追われ、堕天使サタンになってしまうのです。ルシファーが堕天使となってしまう理由は諸説あるようですが、特にこれといって定まった説があるわけではないようです。そういう意味では、この『叛逆の物語』はほむらがまどかを愛するがゆえに人間まどかの復活の代償に堕天使となってしまうという、ルシファー堕天使説の1つとして面白く見ることができると思います。アダムとイブに仕えるのを不満としたためにルシファーは堕天使となってしまったという説よりは、神を愛するがゆえに神の断片を人間として復活させるために悪魔に身を貶めるというほむら堕天使説の方が情緒があってなかなか味わい深いものがあると言えるかもしれません。

それから遮蔽されたソウルジェムという構造が私には興味深かったです。というのも私は旧約聖書の次のような一節を想起したからです。
神は闇をもて己れの隠処となし給う。
まわりを取り巻くは、深き水の暗さと大空の密雲のみ
しかし、その闇の中は内的光に満ち溢れているという構造です。つまり、一見、暗黒の黒雲に閉ざされたように見えても、その黒雲の中は光に溢れているというものです。まあ、この節は存在の原初の神の姿を描いたものですが、ほむらが悪魔となったその姿も表面は暗黒雲に覆われてはいるものの、その核にはまどかへの愛という光が溢れていると考えれば、堕天使論としてはなかなか面白いなあと思います。

それと似たような表現に漫画で岡野玲子の『陰陽師』があります。おそらく、ここでは魔王サタンに相当する物質の王(=大物主?)のことを言っているのだと思いますが、以下に引用します。

真の闇に光はない
真の闇を進むのに手に光を持つ必要はない
自らの光を覆い隠し鎮々と降りる
私の内なる光はいかなる闇にも溶け込むことはない
私の内なる光は罔両を焼き尽くす
嵐のように横暴な太古の闇 生命を生み出す豊潤な花開く闇
闇の闇・・・ 根の根・・・ 底の底
結晶体のごとき純粋な闇に我が根を結び
私は闇に君臨する
私の姿は堅く覆い隠されている
私は闇を行軍する戦車
私は大地の底深く結合する隠者
闇の世界で私の顔を見る者は焼滅する
覆いの中は晴明そのものだからだ
ゆえに私は堅く瞑し、肌のすべてを覆い隠す
私は夜行する新月
あらゆる死が私の前に
あらゆるはじまりが私の後に
闇に棲まう罔両は私の降下夜行する様に凛然とし震えあがる
私は根の根 底の底・・・ 星の種に着床する
すべての種子は闇の中で発芽する
闇が物質を生み出すのだ
闇の中でおれの存在が父として必要ならば
身を解き放ってすべての父になろう
存在が必要でないなら、おれは堅く押し黙って小さな種のままでいよう

それぞれ岡野玲子『陰陽師』第11巻から部分的に抜粋しました。とても詩的であり、地の底の魔王や物質の王など悪魔や魔というものについて考えるのにとても良い豊かなイメージを喚起してくれると思います。昨今、とかく悪を単純に悪いものとして徹底的に攻撃して叩き潰してしまう風潮が強いですが、悪というものを深く考えるとなかなかそう単純には割り切れないものがあると思います。悪の哲学なんていうのもありますし、悪と美はけっこう深い所で結びついていたりもします。ちなみに岡野玲子は作品の中ではそれを粋美と言っています。いろいろな意味で悪を単純化せずに少し掘り下げて探ってみるのはけっこう有意義なことだと思います。

さて、それから、今作におけるキュウべぇですが、TV版では『ファウスト』におけるメフィストフェレスのような役割でしたが、今作ではやや趣きが変わって、メフィストというよりは、科学(=サイエンス)といった面が強くなったと思います。まあ、TV版でも科学であったと言えばそうなのですが・・・。ただ、今回はキュウべぇはハッキリと敗北を認めていると私には思えました。というのも、愛というものに対する無理解を露呈しましたし、人間の不合理な情愛からは手を引くとまで言っているからです。これは科学の敗北だと私には思えました。それと神とキュウべぇの力関係はアーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』のオーバーマインドとオーバーロードのような差に思えました。超科学のキュウべぇも超越神のまどかには到底およばないのではないかと。「観測さえできれば神をも捕捉できる」とキュウべぇは言っていましたが、果たして実際のところそうだったのかどうか私には疑問です。いや、まあ、こんなところで物語に反抗しても仕方ないのですが(笑)。不確定性原理では運動量と位置は同時には観測できませんので、果たしてキュウべぇに神まどかを正確に観測できたかどうか疑問です。とはいえ、キュウべぇ自体は科学よりも、より進んだ超科学であるとするなら、もしかしたら可能だったのかもしれませんが。しかし、もしキュウべぇがまどかにとって代わって神となってしまえば、エネルギーを収集するという欲望も必要性も無くなってしまうと思うのですがね。神は何も望まなくてもすべての存在が神のもの、いや神そのものなのだから。

随分、突拍子もない話に脱線してしまいました。ところで、物語とは直接関係のない、アニメの表現としても、この作品はとても面白い作品だと思います。抽象的・前衛的な表現で闇に落ちた魔女などよく象徴的に表現していたと思いますし、素早いアクションシーンなども迫力良く、よく描いていたと思います。私は素人なので正確には分かりませんが、もしかしたら、けっこうコストがかからずに描けたのではないかと思ったりもします。アニメ製作的に製作コストはどうだったのかちょっと気になるところです。もし、この推測が当たっていたならば、低コストでも良質な表現が可能だという良い事例になるのではないかと思います。

さて、ともかくも、この作品はほむらの愛がとても切ない愛だというのが最大の見せ場なのだと思います。自分を犠牲にしてでも人間まどかを復活させるという愛。まどかへの愛が最も強いにも関わらず神と悪魔として二人は永遠に引き裂かれ、さらに深く愛しているにも関わらず神と悪魔として戦わねばならない運命に陥るというのがとても切ないラブストーリーなのだと思います。TV版では善悪二元論だった世界がまどかが神になることで善一元論になる世界でした。この新作『叛逆の物語』では善一元論の世界になぜ悪魔が存在するようになったかを描いた物語だと言えると思います。そして、この世界が終わるとき、すべてが終わるとき、まどかとほむらはやっと出会えるのでしょうね、きっと・・・。


(*1)実際にはソウルジェム内の暗黒物質を外部に漏らさないように閉じ込めた為らしいですが、魔法的な理屈の辻褄合わせはあまり気にしなくて良いと思います。

(*2)実際には閉じられた内部からもまどかは使者を使って救済の手を差し伸べています。本来なら何者も閉ざされた内部に侵入することは不可能なはずですが、外壁を飛び越えて閉じられた内部に侵入できるのは神だからなせる技なのでしょう。