2023年8月31日木曜日

NEWS2023.08


8月2日(火)


8月5日(土)


日本共産党については幻滅している。例の除名事件もそうだが、トランスジェンダー差別やセックスワーカー否定の見解が私には許容できないからだ。日本共産党はかなり保守的だとは思っていたが、セクシャリティの問題でここまで酷いとは思わなかった。そして、除名事件に至っては全体主義以外のなにものでもない。したがって、日本共産党とは相容れない。結局、日本にはリベラル政党は存在しないのだ。日本の左派は冷戦時代に米国の悪い面ばかりを見て批判してしまい、米国の良い面を見て評価してこなかった。そのため米国の良い面を吸収できなかった。一方、日本の右派は米国のタカ派の面ばかり見ていて、やはり米国の良い面を吸収しなかった。結果、日本は米国の良質な部分を根づかせることができなかった。米国の歩みは決してまっすぐではない。様々な紆余曲折を経て困難を乗り越えて前進している。日本人にはそれが理解できなかった。

8月9日(水)
TERFの酷さが分かる話だった。ちなみにTERFとはウィキペディアによるとトランス排除的ラディカルフェミニスト( trans-exclusionary radical feminist)の略だそうだ。番組を見るとTERFは「トランスは生まれつきの犯罪者だ」と決めつけているようだ。その考え方はナチスに似ている。「ユダヤ人は生まれつきの犯罪者だ」と決めつけたのと同じだ。TERFはススキノ頭部切断事件を引き合いに出して、被害者を勝手にトランスで性加害の犯罪者だと決めつけて、あたかもトランスが生まれつきの性犯罪者であるかのようにほのめかしている。本当に呆れてしまう。しかもこのようなデマはヘイトクライムの扇動になる危険がある。驚いたのは牟田和恵氏というフェミニズムの学者の方がそれを誘引するかのようなツイートしている。はっきり言って、ここまで来るとTERFは危険思想だと思う。ナチスや民族主義者が他民族を排斥するために暴力を振るったのと同じで、TERFはトランス女性を排斥するために暴力を扇動しようとしているとしか思えない。

ラディカルフェミニズムはトランスジェンダーだけでなくセックスワークに対しても排他的だ。おそらく、ラディカルフェミニズムはトランスジェンダーやセックスワークを嫌悪しているのだと思う。さらに男性的なものの一部も嫌悪している。それらの嫌悪感がラディカルフェミニズムの思想の原動力になっている。結局、ラディカルフェミニズムの性に対する考えがかなり狭く偏重しているのだと考えられる。そのため、自分たちの性の枠組みの外にある性の存在が許せないのだ。これは宗教ではよくあることだ。例えば、カトリックの一派は同性婚を認めない。カトリックの考える性は現実世界の性に比べると狭く偏っているのだ。だから、特定の宗教の人々だけで集まってコミュニティを築いて、そのコミュニティだけで通用するルールを作って、そのコミュニティの中だけでルールに従って暮らす分には問題ないと思う。しかし、その特定の宗教にしか通用しないルールを社会一般に対して適用するのは間違っている。現実の世界には多様な人々がいるのだから、多様な人々が自由に暮らせるようにより広い包括的なルールにするべきだと思う。さて、話をラディカルフェミニズムに戻そう。ラディカルフェミニズムもそういった宗教と同じにすれば良い。自分たちのコミュニティを作って自分たちのコミュニティの中だけで通用するルールに基づいて暮せばいいのだ。例えば、女性スペースを守るなどと言わずに、ラディカルフェミニズムのスペースを作ればいいと思う。だが、ラディカルフェミニズムの偏狭な考えを社会一般に押しつけるのは間違っている。ラディカルフェミニズムは自分たちの考えが偏狭なことをもっと自覚すべきだ。自覚が足りないために「トランスは生まれつきの犯罪者」などという危険思想に陥ってしまうのだと思う。そのような悪魔的な思想に取り憑かれてしまうのは本当に恐ろしいことだ。だが、取り憑かれている間はなかなかそのことに気付かない。そこにこの問題の難しさがある。結局、性について広く学ぶしかないと思う。多様な性があることを早い段階から知っておくことだと思う。今はネットがあるので昔よりは情報が得られやすくなった。昔よりは学びやすいと思う。性について広く知ることで偏狭な考えは徐々に減っていくと思う。ただし、そういった偏狭な考えやラディカルフェミニズムが絶滅するわけではないとも思う。カトリックやラディカルフェミニズムやアーミッシュの人々のような少数派のコミュニティとして残っていけばいいと思う。だから、繰り返しになるが、ラディカルフェミニズムはラディカルフェミニズムで自分たちのコミュニティを作ればいいと思う。なので、女性スペースを守る会などと言わずに、ラディフェミスペースを作る会にすればいい。

8月16日(水)

今の日本は衰退のフェーズに入っている。かつての日本は経済大国で物質的豊かさから、さらにステップアップして、文化的な豊かさへとさらに上昇するつもりだった。ところが、バブルがはじけて日本は停滞しはじめた。同時にIT革命と東西冷戦の終焉によるグローバル化が始まった。グローバル化によって中国や東欧が後背地となって工業化が進む一方で、先進国は知識社会化へと変化していった。ところが、日本はIT革命に上手く順応できなかった。垂直統合化された日本の製造業は当初のITのような乱雑な成長を見下していた。しかし、いつしか日本はすべてに抜かれてしまった。日本は技術立国だったが、その技術で敗北してしまった。技術以外のものは、日本では換骨奪胎して、別のものに組み換えられていた。例えば民主主義だ。日本の民主主義は欧米の民主主義とは明らかに異なる。日本人は民主主義を換骨奪胎して、形式的な制度は民主主義だが、実質は非民主主義的なものに変えてしまった。民主主義に限らず、日本では万事がそのように換骨奪胎されたものに変わってしまう。だから欧米から見れば日本は不思議の国だ。民主主義だと言いながら、民主主義が機能していないのだ。日本人の頭の中は欧米から見れば不思議なのだ。日本人の精神構造はとても特殊なのだ。(そのことは河合隼雄などが早くから指摘していた。)さて、日本は技術で敗北して経済が低迷してしまった。もはや文化的にさらに高みをうかがうどころではなくなった。これからは縮小していくしかない。さらにそこに「貧すれば鈍する」が如く民度もどんどん低下していく。余裕が無くなって、そもそもベースが貧しいものだから、民度が低下するのも当然の流れだ。多くの国では、政治は保守とリベラルの対立構造を形成するものだが、日本では第1保守と第2保守があるだけだ。しかも対立というよりは馴れ合いの、翼賛体制を形成しつつある。これは極めて日本的だ。さらに戦前の日本で国際連盟から脱退した後のような自分勝手な体制になりつつある。それは日本独自路線というか、独りよがりな日本にだけ都合の良い狭量な体制だ。そんなわけで日本は衰退しながら、しかも変な国になりつつある。日本は特異な奇態な民族国家になりつつある。そして、おそらく、この流れは変えられない。時代の流れには逆らえないのだろうと思う。残念ではあるが。ともかく、このような日本に付き合うことはない。確かに不正義に対して間違いを指摘するのは大切だが、それにこだわっても多勢に無勢になる可能性も否定できないし、日本人は頭がおかしいのだから、それは彼らの人間性に対して疑問符を投げかけるものでもあるのだから、そこで戦っても無力で意味がない可能性が高い。だから、あとは個人でこの大きな流れに対していかに人間として正気を保ちつつ、生き残っていくかが問われるのだと思う。日本人は、皆、アイヒマンなのだ。アイヒマンで形成された国なのだ。日本はそういうディストピアであり、アイヒマンから見れば日本はパラダイスだ。個人は、アイヒマンになるか、アイヒマンになることを拒絶するかの選択に迫られるのだ。そして大多数の日本人はアイヒマンになることを選択するのだ。それが日本の現実だ。ほんの少数だけがアイヒマンになることを拒絶する。少数派のための戦略や戦術を磨かなければならない。

8月23日(水)

日本は忘却の国なのだろう。問題があっても時間が経過すれば人々は忘れる。そして人々が忘れてしまえば権力者は自分に都合の良いやり方で問題をすり替えてしまう。真に問題解決しようとは考えないのだろう。これを防ぐにはまず記録を残すこと。そして忘れないように、適時、振り返りをすることだと思う。振り返りをして問題を思い出させようとすると、問題を蒸し返すと煙たがられるだろう。しかし、問題を解決できていないのに問題を蒸し返すとはおかしな話だ。PDCAサイクルを回すようにちゃんと追及すべきだ。なので、繰り返しになるが、記録(ログ)と振り返り(レビュー)を適時行うことだ。

国民主権を私たちはもっと意識したい。そして権力は腐敗しやすい。ちゃんと三権分立で三権が互いに牽制し合うようにしたい。しかし、日本は議院内閣制のために議会と政府が権力を掌握しやすい。そして司法が議会や政府に迎合的だ。司法が分立していると言い難い。また、権力者は自分たちの権力を減らす方向には動かない。逆に自分たちの権限を増す方向に動かそうとする。まさに権力は腐敗しやすいわけだ。日本は民度が低いから権力者が自分たちに都合の良いように変え放題になりつつある。

日本の民度の低さには2つあって、1つは民主社会への理解不足がある。彼らは自分たちの損得でしか物事を考えない。利益しか眼中にないのだ。もう1つは草の根全体主義のような傾向があることだ。これは日本人固有の保守主義だ。これは人権に端的にあらわれる。彼らの本音は日本においては日本人以外には人権は無いと心の中では思っていることだ。ここでいう日本人とは多数派の日本人だ。少数派のカテゴリーの日本人は日本人だと思っていない。だから、少数派の日本人に対しては黙ってろと言わんばかりの態度をとる。少数派の日本人には様々な少数者が入る。異人種、性的少数者、障害者などだ。多数派の日本人は人権を問われると嫌がる。なぜなら彼らは本音では多数派の日本人以外にはまともな人権などないと考えている。少数派はワンランク下の階級だと考えているからだ。そんな考えは間違っているのだが、彼らにはそれが分からない。彼らは無意識にそういう階級社会を生きている。そういう皮膚感覚を持っている。21世紀にもなって度し難い人権感覚(階級差別意識)を多数派の日本人は持っているのだ。そういう意味では日本人であることはとても恥ずかしいことなのだ。しかし、島国で暮らしている限り、多数派日本人はそのことに気づかない。

8月27日(水)

今週は、私のタイムラインでは、関東大震災100周年に関する話で、朝鮮人虐殺に関する企画が多かった。日本人というのは自分たちの過去の悪行をとにかく「隠そう、無かったことにしよう」とやっきになる。そして、そういった隠蔽を指摘されると怒り出す。この繰り返しだ。南京大虐殺然り、従軍慰安婦然りである。関東大震災における朝鮮人虐殺も同様だ。日本人は歴史から何も学ばない。いや、むしろ積極的に歴史から学ばないように努力しようとしている。今も昔も日本人は積極的に記録を残さないし、情報も公開しない。その結果、知識の蓄積が無い。権力者も「由らしむべし知らしむべからず」という態度だ。「民衆は無知であるままが良い、その方がコントロールしやすい」と思っている。また、ジャーナリズムも権力者に忖度するし、中には権力を強化しようとしさえするところもある。そして民衆は民衆で全体主義的傾向が強い。民衆の中で声の大きい者は「お上に逆らうのは非国民だ」と公言して憚らない。だから日本人であっても「日本人は怖い。何をするか分からない。だから余計なことを言ってはならない」という風潮がある。というのも日本人による日本人に対する同調圧力が強いからだ。枠からはみ出る者に対しては陰湿ないじめを行う。逆に外国人の方は「外国人だから分からなくても仕方ない」と免罪されていたりする。ところが、いったんタガが外れると外国人に対してその残虐性を発揮する。南京大虐殺で日本兵はその残酷性を証明したし、関東大震災後の朝鮮人虐殺でも民衆は残虐性を発揮した。戦前の朝鮮半島や満州では日本人はかなり野蛮だと知られていたし、太平洋戦争でも米兵は日本人が狂気じみていることは知られていた。当の日本人は自分たちはマトモだと思っていても、外国から見れば日本人はあまりマトモとは見られていなかった。そう、当の日本人だけが自分たちはオカシイことに気づいていなかった。恐るべきことに日本人にはヒューマニズムや人権というものがずっと存在しなかったし、今も存在しているとは言い難いのだ。日本人は卑屈であるが、同時にその裏には凄まじい残虐性・野蛮さを秘めているのだ。日本人は一皮むけばすぐにその野蛮さを発動できる。日本人は上っ面だけをずっと取り替えてきた。仏教を取り入れて上っ面だけ文明化し、脱亜入欧で西洋を取り入れて上っ面だけ文明化した。しかし、その内実は何も変わらなかった。取り入れても換骨奪胎しただけだから中身は変わらなかった。上っ面だけだから変わり身も早い。でも、上っ面だけ。中身は何も変わらない。戦後民主主義も同様だ。上っ面だけ、中身は何も変わらない。日本人の好きな人物に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を挙げるひとが多い。彼らの特徴は残虐、狡猾、陰険だ。正義や善からは程遠い。日本人という野蛮な民族を統治するのは残虐で狡く陰険な権力者が相応しいということだろう。そしておそらく、日本人のこの傾向は変わらない。ただし、日本人の経済成長は終わった。今後の日本が、明治以降や戦後高度経済成長のような、経済が繁栄することはないだろう。どのような分野でも日本が世界をリードしていくことは無いだろう。日本は世界の文明社会の進歩に対して、後からひょこひょこ追随するしかない、能のない国になる。しかも、本質を理解できないから、相変わらず上辺だけ真似する。それでも、上辺だけでも、真似事でも、少しは人間性や人権を真似ることにはなるだろう。しかし、本質を理解していないから、システムはぐちゃぐちゃで、民衆は理(ことわり)を理解できずに、ただ単に「世界ではこうだから、日本でも同じようにこうするのですよ」式に、形式の真似だけに終始することになると思う。知識を蓄積せずに歴史に学ばなかった民族の末路がそこにある。日本人とは本当におめでたい人たちだと思う。それを外部からのは愉快だ。ただし、個人としてはそういう日本からは脱却すべきだ。そんなわけで日本の少数者になるべきだ。日本の多数派は笑ってやればいい。

一般に文明社会が繁栄するためには2つの要素の相剋が重要だ。個人の自由と足枷のある権力だ。そのためには政治的には保守とリベラルのせめぎ合いが必要だ。しかし、日本にそれを望んでも無理だろう。現在、日本は様々な面で衰退のフェーズにある。結果、日本は文明社会のしんがりを務めることだろう。日本のポテンシャルを考えればそれが妥当だ。日本の国家や社会はそれで仕方あるまい。そういった日本に適応してしまった日本人もそれで仕方あるまい。ただし、はみ出す個人はそれに甘んじる必要もない。個人としては、日本の中で少数派であっても、世界では世界市民であれば良い。