2024年5月31日金曜日

NEWS2024.05

 
5月2日(木)
現在の日本保守党などの起源が愛知県知事リコール署名偽造事件にあるのではないかとう指摘は「なるほど」となって面白かった。
 
5月3日(金)
「円安が進むのに対して日銀が介入して戻す」 という動き。さて、どうなるか。
 
ポストモダンについて
現代はモダンが終わり、ポストモダンに入った。 90年代に冷戦が終わり、続いてIT革命によって世界が繋がり始めた。モダンの時代は人々の生き方は画一的だったが、ポストモダンになって多様になった。ただし、経済システムはほぼ画一化され、マネーが支配するようになった。そのため人々は確実にマネーに縛られるようになった。また、モダンの可能性はモダンの時代にほぼ出尽くしている。ポストモダンはその組み換えの試行錯誤に過ぎない。AIの登場はそれを加速する。21世紀の四半世紀で大きく変わったのはセクシャリティだ。いわゆるLGBTQ+が認知されるようになってきた。それに対する反発も同時に吹き上がった。また、ネットの普及で人々の性に関する知識も増大して大きく変わった。振り返れば、21世紀前半は性革命の時代だといえる。さて、モダンだった頃、思考が固定観念に縛られて硬直してしまうのではないかと懸念されたため、脱構築によっ柔軟な思考を保持したいものだと思ったものだったが、杞憂だったのかもしれない。歴史修正主義やフェイクニュースなど虚偽情報にまみれて、逆にファクト(真正性)が問われるほどになってしまった。経済はモノカルチャーから多様な経済を形成するようになって、人々は自分に合った道を選択するのが適するようになった。そう、ポストモダンで大切なのは「自分に合った道」を各人が見つけることが重要になった。そして、ポストモダンはジャングルなのだ。ジャングルのそれぞれの場所で多様な生物が展開する。しかも時々刻々と移り変わる。玉虫色で捉えがたい。そういった世界では全体を捉えても多くの個々人にはあまり意味がない。個人にとって、ある特定の場所でその環境と自分のスペックで生き残れればいいだけなので、全体の把握は意味が無い。仮に鳥瞰できたとしても、森の奥深くのごく限られたスポットで繰り広げられるバトルにとって、鳥瞰は意味がない。しかも、全体は時々刻々とカオスに変化する。大事なのは個人がそこで生き残れるかどうかだけなのだ。(例えば、すべての音楽を聴くのに1万年かかるとしたら、一個人が音楽の全体を把握することはできないのと似ている。)こう考えると、民主主義の政治家はなかなか難しい。政治家はデータサイエンティストの素養が要求されるかもしれない。ところで、フィリップ・K・ディックの小説に『ユービック』という作品がある。そこでは捕食的世界が繰り返される。生きている間は超能力者と反超能力者で闘い、半生になったらなったで捕食者とそれに抗うレジスタンスという具合に闘いが繰り返される。おそらく、ポストモダンのジャングルでも同じようにそれぞれのフィールドでバトルが繰り返されるのだろう。ヘイターとカウンター、フェミニストと保守、ターフとトランスジェンダーなどなど。また、批評というものがかつてほどの意味は無くなるのも仕方ないことだ。全体と部分の乖離が大きいからだ。限られた部分でしか生きていない個人にとって全体の把握はほとんど意味がない。しかし、私たちには知性がある。一個人の人間という能力的な限界はあるが、「なぜ?」と問う知性が少しばかりはある。だから、知的好奇心を満たすためにも歴史を学ぶことに意味はあると思う。もちろん、それは歴史の一面に過ぎないけれども、全く無いよりはマシだろう。さて、話を戻そう。時代はポストモダンになった。IT革命、マネー支配、性革命が展開した。世界は多様なジャングルになった。ジャングルで生きる人々にとって、生き残るために大事なのは自分に合った道を見つけることになった。一方、ジャングル全体を把握することは困難になったし、以前よりも全体を把握することの意味は少なくなった。ポストモダンがどこに帰結するのかは分からない。とてつもない権力への意志を持った者が現れて独裁国家・全体主義国家を作るかもしれない。あるいは、AIが人々を最適に管理するようになるかもしれない。いずれにしても、ポストモダンのジャングルは時々刻々と玉虫色に変化して一個人には捉えどころがない。もしかしたら狩猟採集時代のように人々はまばらに点在して安定するかもしれない。(少子化はその傾向かもしれない。)あるいは、古代マヤ文明のように集住して生贄を要求するような残忍な社会を形成することもあるかもしれない。ポストモダン、生き残るために自分に合った道を四苦八苦しながら模索しつつ、一方で生きることの意味をあまり見出だせないという、いつもと同じ、人間の限界にぶち当たるかもしれない。
 
5月9日(木)

5月11日(土)
なかなかためになる話。

5月16日(木)
労働力としては外国人を必要とするが、移民となって定住することは何としても避けたいというのが、日本の保守の考えなんだろう。なにかとイチャモンをつけて定住させない腹なんだろう。米国の共和党が南部で黒人に投票させないようにいろいろとトラップを仕掛けるのに似ている。

5月17日(金)
つばさの党と比べると維新や日本保守党の方がまだマシに思えてしまうという錯覚を起こした罪は重い。

Googleは本当に変わっちゃったんだなあ。官僚的になってしまった。残念。

5月18日(土)
いろいろと面白い話が聞けた。知り合いの話が面白かった。

個人の生存戦略について
日本がいろいろと劣化してダメになっていく中で個人が生き残るには、スモールでシンプルでスマートでソフトであることかもしれない。勝手な抽象的なイメージだが(笑)。20世紀の終わり頃にこれからは重厚長大に対して軽薄短小と言われたが、さらにそれを推し進めたものという感じ。ただし、足場として20世紀の遺産が必要かもしれないが。

5月20日(月)



5月22日(水)


5月23日(木)
朝日新聞の件。野沢直子や藤田直央のコメントには大変驚いた。タレントの野沢直子はまだしも、藤田直央は朝日新聞の編集委員ではないか。新聞社の人間がそんなことを言うのはさすがに自己否定にも程がある。常識が無い。というか常識よりももっと根本的な認識。うむ、驚いた。

5月25日(土)
ギャンブル依存症の話。ネット時代になって大きく変わったとのこと。大変勉強になった。

5月26日(日)
Googleでこんなミスが起こったことに驚く。最近のGoogleはどんどんイメージが悪くなっている。逆にMicrosoftのイメージがアップしつつある。

5月27日(月)
実をいうと蓮舫さんが参議院議員を辞めることの方がショックだった。それとニュース映像を見てちょっと歳をとったなあと思った。確か東京都はちょっとした国家並みの大きさだが、個人的にはあまり興味が無い。
 
5月30日(木)
埼玉県警の話に驚く。もしかして埼玉県警の幹部がネトウヨを擁護あるいは支援までしているのか?そういえば、自衛官が靖国参拝した件があったが、警察や自衛隊の一部にネトウヨ化が進行しているのかもしれない。
 
 5月31日(金)
 
 
今月は先月末の衆院選補選で自民全敗・立憲全勝で、リベラル派は喜び浮かれた一ヶ月だった。しかし、私が思うに日本の有権者がそんなに簡単にリベラル派になったとは思えない。単に無党派層になっただけではないかと思う。そして、その多くは潜在的な保守ではないかと思う。まあ、地道に若者世代のリベラル派を増やす努力をして欲しいと思う。そういえば、政治資金規正法の改正案は結局どうなるんだろう?