ラベル 科学・技術 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 科学・技術 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年8月21日水曜日

前間孝則『技術者たちの敗戦』


今回は前間孝則の『技術者たちの敗戦』を取り上げます。


まず、著者の前間孝則氏はノンフィクション作家で主に日本の主要産業の技術開発史を扱った著書を数多く書かれている方です。前間氏自身も元は石川島播磨重工の航空宇宙事業本部の技術開発事業部でジェットエンジンの設計を20年間やっておられたそうです。そういった点では技術に関してもけっこう深いところまで理解できる書き手であり、技術開発史を研究するのにはもってこいの人物ではないかと思います。しかも本書によるとかなりの本好きで読みたい本を徹夜で読み耽って翌日はとろんとした目つきで会社に出社したり会社を休んだりしたそうで(笑)、技術者としては珍しく文科系的な読書人なところもあるようです。そんな前間氏のこの著書は氏のこれまでの技術開発史に関する数々の著作物の要約といった趣きの著書ではないかと思います。ところで世間では零戦の設計者である堀越二郎を主人公とした宮崎駿のアニメ『風立ちぬ』が大ヒットしています。それと合わせてこの本を読んでみると、より一層日本がいかにして技術大国になりえたかというのが分かってくるかと思います。そういった戦後の日本の経済的繁栄をもたらした日本の技術開発史を知るために、この本を入り口にして前間氏の一連の著作を読まれることを強くお薦めします。

さて、最初にこの本の帯文と表紙カバーの文を紹介しておきましょう。

日本の戦後復興の原動力となった20代~30代の技術者たちはどのように敗戦を迎え、廃墟から立ち直ったのか? 引用:『技術者たちの敗戦』
驚くべきことに、戦時中の技術開発は20代から30代の若手技術者によって行われた。彼らは情報遮断と原材料の不足など極めて厳しい状況のなかで、開発に熱中し、破れたりとはいえ、多くの成果を成し遂げたのである。戦後、GHQによって航空が禁止されたため、航空機産業の多くの技術者は自動車産業に移り、今日、アメリカをも脅かすようになった自動車産業の基礎をつくりあげた。また、国鉄の技師、島秀雄は、材料がなくなり、機関車がつくれなくなった戦争末期、将来を見据え、電車のブレーキ、台車、パンタグラフなどの研究を部下に命じたのだった。これが後に、新幹線の開発へと開花していく。この技術者たちの不屈の物語はこれからの日本の進むべき道に大きな示唆を与えるはずである。 引用:『技術者たちの敗戦』
これらの文章からも分かるようにこの本では戦前生まれの日本の技術者たちが戦時中にどのように技術開発に取り組み、そして戦後どのように活躍していったかを簡潔に描いたノンフィクションです。この本で取り上げられている技術者は全部で6人で、零戦の堀越二郎と曾根嘉年、新幹線の島秀雄、石川島播磨重工の真藤恒、レーダー開発の緒方研二、ホンダの中村良夫です。本書を読んでみると彼らの生き様や人柄はそれぞれユニークで、いわゆる一般の実直でまじめ一筋の技術者像とはちょっと違った装いが感じられます。島秀雄などは大正ロマンの影響を受けて育ったためかかなり自由な気風が感じられますし、中村良夫は技術者であった一方で文芸同人誌を発刊したり、ドイツ人技術者たちのパーティではハイネの詩を暗誦したりと教養の高さというか文化程度の高さを感じます。ちなみに文化程度が高いというのは何も高尚であることを自慢するという意味ではなくて、自由で柔軟な思考の持ち主であり、それは合理的な思考でもあり、一方で人間性の豊かさをも兼ね備えていると私は考えています。特に雑誌『モーターファン』に掲載された彼の「告別の辞」はなかなかダダイスティックであり、前衛芸術の精神もよく理解していたのではないかと思わせます。戦時中の頭の固い日本の軍人たちとは大違いです。ただ、この本で取り上げられた技術者たちはある意味特殊なのかもしれません。彼らと違って日本の多くの技術者たちはやはりその道一筋的なお堅いひとが大多数の占めているのかもしれませんし、日本社会自体がそういった傾向が強いと思います。自由で柔軟な思考に欠けることがしばしばです。むしろ、当時の東大のようなエリート校や軍需産業の方が上司もさん付けで呼ぶなどかなり自由な気風があったようにさえ感じられます。また、この本で語られているB29のエピソードからも如何に日本が自由で柔軟かつ合理的な思考が欠けているかが伺えると思います。大切なのは大局を見据えた戦略的思考と柔軟で合理的な自由な思考なのではないでしょうか。

さて、この本ではいろいろな点で示唆に富んだ指摘がなされています。読者のみなさんは是非読んで確かめて下さい。私が印象に残った文をメモ代わりに少し取り上げておきます。

かつての航空技術者たちは、先の岡本のように、「航空機よりどのくらい技術程度を落として設計すればちょうどいいのかわからなかった」という。その頃、自動車に求められていた水準はかなり低かったので、航空機のセンスで設計すると、あまりに上等なものができて過剰品質になり、値段がベラボウに高くなるのだった。
先の米戦略爆撃調査団のレポートを踏まえつつまとめられたアメリカの「第二次大戦と科学技術」と題するレポートでは次のように結論づけられている。「1945年の時点の日本のレーダー研究は、イギリスおよびアメリカに3~4年の遅れがあったと考えられる。日本はマグネトロン(磁電管)の設計においてオリジナリティを発揮したが、陸海共別々に製作しており、その製品性能は米英のものに比して劣っていた。(中略)結論として、日本の新兵器開発に関する戦時研究体制に学ぶべきものは、ほとんど無い」
最後に日本の近代史に関していうと、やや本道から外れたルートかもしれませんが、日本の近代史に関する研究では、主に明治維新から戦時中までを描いた山口昌男の歴史三部作が極めてユニークで面白いです。そこで主役になるのは経営者と文化人でした。それに対して前間孝則氏の著作は戦時中から戦後にかけて活躍した技術者たちの歴史を扱った一連の著作です。技術者たちが活躍する場や基礎を作ったのは山口昌男が描いた戦前の経営者や戦争でした。前間氏の出身である石川島播磨重工も元はといえば東京石川島造船所で渋沢栄一と浅からぬ関係がありますからね。渋沢栄一については山口昌男『敗者の精神史』で取り上げられています。そういった意味で山口・前間両氏の一連の著作から日本の近代史をもう一度捉え直すことは極めて意義のあることだと私は思います。

今、世界は東西冷戦が終わり、ネットによって相互に繋がって、さらなるグローバル化が進んでいます。資源のない国日本がグローバルな競争で生き抜くには科学技術の力が大きな鍵を握っています。いえ、もはや国という小さな枠組みに囚われることなく、一個人の力量として科学技術の知識が大きな鍵を握っていると思います。そういった現代において私たちは過去の先人たる日本の偉大な技術者たちから多くのことを学ぶことができると思います。


2013年7月5日金曜日

キャンベル-ケリー&アスプレイ『コンピューター200年史』

 

今回はマーチン・キャンベル-ケリーとウィリアム・アスプレイの『コンピューター200年史』を取り上げます。


この本はタイトルのように200年にわたるコンピュータの歴史を追った本です。19世紀のチャールズ・バベッジの階差機関から始まり、エッカート、モークリーのENIACを経て、現代のパソコンからインターネットの出現に至るまでのコンピュータの歴史を様々な経路を辿りながら描いた歴史書です。

私たちの時代はインターネットの普及という革命的な激変がありました。よく言われるように、いわゆるIT革命ですが、IT革命というだけではまだ言い足りないくらいです。まさに本当の革命といっていいくらい、私たちの生活を大きく変えました。そして、そこで主役になったのがコンピュータです。コンピュータなくしてはインターネットはありえませんでした。その昔、各家庭の中にモーターがいくつあるかでその家の文明度が計れると言われたことがありました。なぜかというとモーターは様々な家電に使われていたからです。今やCPUが家の中にいくつあるかでその家の文明度が決まるかもしれません。もはやコンピュータは私たちの生活に無くてはならないものです。しかし、そんなコンピュータの歴史を私たちは知っているでしょうか?確かにコンピュータの世界はドッグ・イヤーと言われるように普通の時間よりも4倍早く時間が進むと言われています。それだけ目まぐるしく進歩してゆきます。また、ムーアの法則と言われるようにCPUの性能は18ヶ月で2倍になると言われています。それだけ性能自体も一世代前とは比べ物にならないほど短い時間で良くなります。そのため、私たちはついつい短いスパンでの変化に気を取られがちです。そのため、コンピュータの歴史という長いスパンではあまり意識してこなかったように思います。コンピュータがこれだけ私たちの生活に必要不可欠な道具であるにも関わらずです。そういう意味でこの本を読んでおくのは極めて有意義なことだと思います。コンピュータの歴史を知ることでコンピュータの全体像が浮かび上がってきます。そして、コンピュータの歴史という全体像を知ることでコンピュータを俯瞰して捉えることができるようになり、今まで見えなかったことが見えるようになると思います。

さて、読んでいて面白かったのはコンピュータは英米で発達したという点です。最初は英国で発達し、後に米国で急速に普及します。つまり、近代化と歩調を合わせるように発達していったのだと思います。まあ、当然といえば当然なのですが。最初は対数表の計算が必要でコンピュータを必要としました。なぜなら、世界の海を支配した大英帝国が正確な航海表を必要としたからでした。そして、手形交換所の煩雑な計算もコンピュータを必要とした理由に加わります。つまり、資本主義がコンピュータを必要としたのです(*1)。また、コンピュータが普及した大きな要因は事務機器の機械化にありました。事務機器の機械化を好んで進めたのが米国で米国は何に対しても機械化好きなようでした。もちろん、米国が近代工業化してゆくのとコンピュータの発達がちょうど重なったこともあると思います。(ただ、初期のコンピュータの発達の歴史は単線的なものではなくて、様々な方面からそれぞれ発達してきたと思います。)事務機器の機械化で飛躍的な発展を遂げたのがIBMです。元々は文房具の会社でしたからね。それが元となってメインフレームとして事務機器に長らく強い影響力を残しています(*2)。とにかく、最初に世界の工場といわれた英国で発達し、第二次世界大戦後に工業国としてトップに立った米国で発展・普及していったのです。もちろん、戦争も大きく影響はしています。何より弾道の計算がコンピュータの開発が急がれた理由ですし、ENIACの開発にフォン・ノイマンが加わったのも戦争の影響からですし、英国でEDSACが作られたのもチューリングの暗号解読機ボンベという下地があったからだと思います。また、リアルタイムシステムの開発も元はと言えば戦闘機のパイロットを養成するためのシミュレータの開発が始まりでした。こうやって見てみると資本主義と戦争がコンピュータを発達させたと言っていいかもしれません。(ただ、それだけではなしに思考のスタイルも関係しているように私には思えます。極端な言い方ですが、英米哲学だからこそコンピュータが発達したのではないかと思えます。逆に大陸哲学、構造主義ではコンピュータは発達しなかったのではないかと思えます。この辺りはまた別の機会に考えてみたいと思います(*3)。)

さて、一方、ソ連ではどうだったかという疑問はありますが、本書では分かりません。本書ではまったくソ連は出てきません。ただ、ソ連はFAXですら使用するのを禁止したという話を聞いたことがあります。FAXによって危険思想が伝播してゆくのを恐れたらしいのです。そんなことを考えると今のインターネットなど到底不可能だと思ってしまいます。現在でも多くの強権的な国の政府がSNSを使うことを嫌がっているのを考えるとソ連がFAXを禁止したのも分かる気がします。ただ、ソ連の科学技術は進んでいた面もあったと思います。ロケットや戦闘機などを見ると凄いなあと感心します。制御工学が発達していたのでしょうか?それにソ連水爆の父のサハロフ博士なんて人もいますから、決して劣っていたわけではないと思います。しかし、やはり、経済体制にムダが多かったのではないでしょうか。物資が不足して常に行列ができているにも関わらず、その裏では物々交換は恒常的に行われていたというのですから、経済体制に問題があったのではないかと思います。ただ、別に経済が世界で一番でなくても、多少、経済的にルーズでも、ブータンのいうGDH(国民総幸福量)のように幸福度が高ければ良かったとは思いますが。

随分、話が脱線してしまいました。あ、そういえば、コンピュータの発展は英米における統計学の発展とも関係がありそうな気がします。この辺りも一度調べてみる必要がありますね。

とにかく、本書はコンピュータの歴史ですが、コンピュータサイエンスの歴史ではなくて、産業の面から見たコンピュータの歴史といった方が近いかと思います。しかし、コンピュータの歴史の全体を俯瞰するという意味では本書は最適だと思います。確かに個々の細かい要素、例えば、ハードウェアの発達史やソフトウェアの発達史、CPUの発明やENIAC開発秘話、暗号解読の歴史など様々なコンピュータに関係する要素があるとは思いますが、それはまた個々のプロットとして別に勉強すればよいと思います。とにかく、全体像を掴むという意味では本書を読んでおいて損はないと思います。(ただ、少々、読みにくくはありました。より整理された本があればそちらも読んでみたいと思います。)

(*1)資本主義の起源は株式会社であり、株式会社の起源は胡椒を求めるためにイタリア商人たちが出資して航海に出したのがはじまりでした。つまり、大航海時代を可能にしたのは株式会社制度でした。そして、英国を大英帝国にまで押し上げたのはインドでの交易でした。さらに言えば、インドの木綿を織る自動織機の開発が産業革命の始まりでそこから蒸気機関を動力とする発明が生まれますし、バベッジの階差機関も自動織機から発想を得ているといえなくもないと思います。

(*2)昨今はすべてPCもしくはクラウドに置き換わったかもしれませんが、現状はよく知りません。

(*3)1946年にメーシー会議(通称サイバネティクス会議)というのがあって、そこでフォン・ノイマンとノーバート・ウィナーがそれぞれ講演をしているのですが、二人の講演は非常に対照的だったそうです。ノイマンはいわゆるノイマン型コンピュータの話をしたのですが、ウィナーはサイバネティクスの話をしたそうです。現在、コンピュータはノイマン型で進んでいるのですが、(この後に「限界自体はチューリングが計算可能性として既に示しているわけで」と書こうと思ったのですが「あれ?違ったっけ?」となり実際はどうだったかを忘れてしまったので、急いで調べてみたのですが分からず手元に本もなく時間もないのでまた後日改めて勉強し直すということで、とりあえず、ここは読み飛ばして下さい。トホホ。(T_T))、今後はウィナーの言っていたサイバネティクスに可能性があるかもしれません。といってもまったく未知なのですが(爆)。ともかく、英米哲学的な思考スタイルでないものの可能性としてサイバネティクスのようなものもあるかもしれません。いや、サイバネティクスだけに限らず他にも別のタイプの非ノイマン型コンピュータがあるかもしれません。そして、まだ別の知の可能性があるのかもしれません。・・・あわわ。話がこんがらがってきました。真空管のような私の頭ではもはや限界・・・。やはり、この話はまた別の機会で・・・。

2013年7月3日水曜日

デビッド・ヴァイス『Google誕生』

 
 
今回はデビッド・ヴァイス『Google誕生』を取り上げます。
 
本書はGoogleが起業してから2005年くらいまでの約10年間の軌跡を追った伝記です。Googleについて書かれた本はたくさんありますが、この本はその中でも比較的初期に書かれたもので、また最もまとまって書かれた本だと思います。さて、Googleを起業したのはラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンの二人です。どちらも両親がエンジニアや科学者であるため早くから知的環境で育っています。そのため物事を道理で考える癖がついており、出会った頃の二人は互いに議論ばかりしていたそうです。そんな彼らがスタンフォード大学の大学院生だった頃に研究のために作った検索エンジンが非常に優れたものでみんなから重宝されてとうとう起業にまで至ります。Googleの検索は他の検索エンジンを寄せ付けない極めて優れたものでした。ネットを使うときに検索は無くてはならない絶対に必要なものでしたので投資家も彼らに目をつけます。しかし、それを収益に結びつける方法がありませんでした。そのため、Googleが起業したての頃はベンチャー企業によくあるように経営は大変で、ラリーとサーゲイの二人はGoogleの投資家を如何に満足させるかに苦労したようです。しかし、彼らは投資家たちを競わせるように駆け引きで切り抜けていきました。そうしているうちに広告という収益を上げる方法を見つけてGoogleの大躍進が始まりました。もちろん、投資家も大喜びです。

さて、本書を読むとGoogleが普通の企業とは全然違うことが分かります。この頃のGoogleは形態こそ企業の体裁をとっていますが、果たしてこれは企業なのかと疑問に思えてきます。Googleの内部はまるで大学院生の研究所といった方がいいかもしれません。やることなす事すべて前例のない度肝を抜くことばかりです。そして、Googleが見ているのはちっぽけなものではありません。彼らが見据えているのは人類とか世界といった大きなものです。決して米国の消費者とか米国内といった目先の小さなものだけに囚われていません。(←いえ、これだって決して小さい訳ではありませんし、決してこれらを軽視している訳でもありませんが。)それにしても、東西冷戦が終わってグローバリゼーションが始まり、地球が資本主義で覆われたとき、資本主義の象徴である米国企業の最先端において、今度は企業とはいえないような新しい形態の組織体が芽吹いてきたわけです。それがGoogleでした。何か歴史の皮肉を感じさせます。(ただし、ラリー・ペイジがCEOになってからのGoogleは普通の企業へと変貌しつつあるようで、私としては非常に残念です。しかし、Googleがその設立当初から持っている「邪悪になるな」という良心はまだ失っていないと私は思っています。)

とにかく、Googleの起源を知りたければ、この本を読むに限ります。もちろん、この本に書かれていない初期の歴史もあるとは思います。ですが、基本的な歴史はこの本で十分に知ることができると思います。なお、この本が書かれた後の歴史も必ず必要になってくるので、この本の続きが待たれます。この本で書かれたことはまだほんの始まりに過ぎないのです。本当の変化はこれからなのです。なので私たちはGoogleから目が離せません。なぜならGoogleを見ることは未来を見ることなのですから。

追記
Googleの検索を支えている技術はラリー・ペイジが考案したページランクシステムという仕組みです。私も仕組みはよく分かりませんが、結局、ページランクシステムを有効にするにはすべてのページを読み込まねばならず、Googleは世界中のインターネットのすべてのページをクローリングという言わば定期的な巡回でダウンロードしています。その量は極めて膨大です。そこでGoogleが考え出したのがパソコンのボードを積み上げてラックのようにして、さらにそれをいくつもコンテナの中に並べてどんどん増やしてゆくというデータセンターという大規模システムです。いわゆるクラウドのハードウェアの部分に当たります。スーパーコンピュータが処理能力の性能を上げるというスケールアップをしているのに対して、データセンターではコンテナを増やすことで処理能力を上げるというスケールアウトをしているわけです。言ってみれば物量作戦です。しかし、このデータセンターが大きく私たちの生活を変えました。ネットが私たちとデータセンターを繋ぐのです。データセンターと繋がることで私たちは強力な性能を持ったコンピュータを個人で持つことを可能にしたのです。さらに端末もパソコンだけでなく、スマートフォンやタブレットに増えました(*1)。さらにGoogleGlassやアイ・ウォッチなんてものも今後は出てくるかもしれません。そのようにしてGoogleは私たちの生活を変えました。そして、Googleはその膨大なデータセンターにありとあらゆる情報を入力して私たちが利用できるようにしようとしています。(*2)人類がこれまで築いてきたすべての情報です。すべての書物、すべての音楽、すべての映画、さらに膨大な遺伝子情報から最新の研究データまで、さらには企業の情報システムを丸ごとなど、ありとあらゆる情報を収納し整理して私たちが使えるようにしようとしています。今まで入手できなかったり見えなかったりした情報をGoogleが私たちに提供することで人類が進歩することを加速しているのです。しかも、その多くは無償で提供されています。今では多くのIT企業が無償でサービスを提供することを当たり前のようにやっています。しかし、これほど大規模に無償での提供を最初に始めたのはGoogleです。他は誰もやらなかったことです。もし、Googleが無償で提供をやらなかったらどうなっていたでしょうか?現在のような便利なネットの世界になっていたでしょうか?それとも他の企業がやっていたでしょうか?それは分かりません。しかし、Googleが無償提供をやったことで大きな穴が穿たれて、多くのIT企業がGoogleに続いて無償提供を始めたのは歴史的事実です。世界を大きく変えたのです。私たちは感謝する必要はありませんが、その事実は知っていてもいいのではないでしょうか。そして、技術は薬にもなれば毒にもなります。ITも同様です。例えば、昨今の米国の戦争で使われる無人機は遠隔操作で使われています。これもIT技術の応用と言っていいでしょう。無人機の活用が果たして是か非かは今のところ分かりません。しかし、そういったことも踏まえた上で私たちはGoogleの行く末を見続ける必要があると思います。


(*1)アップルが開発したiPhoneがこのスマートフォンに相当します。逆に考えるとアップルが果たした役割や歴史的位置づけが分かると思います。アップルはあくまで端末を発明したのであってデータセンターそのものを発明したわけではありません。しかもアップルはiPhoneを使って消費者の囲い込みをやろうとしています。それに比べてGoogleのAndroidはオープンソースで無償で提供されています。オープンソースであるために改変が容易で様々な利用を可能にしています。GoogleとAppleのいずれが人類社会に大きく貢献したのか分かるのではないでしょうか。

(*2)昨今ではGoogleに限らず多くのIT企業がデータセンターで私たちにサービスを提供しています。ただし、データセンターの恩恵を最初に私たちにもたらしたのはGoogleです。確かにASPなど似た概念はありましたが、実際に利用可能なものとして普及させたのはGoogleです。
 

2010年5月25日火曜日

ツイッターの人気動向について調べてみた

ツイッターの人気動向についてGoogleを使って調べてみました。過去1年間の話題になった頻度を表したグラフです。上のグラフが「ツイッター」で調べた結果で、下のグラフが「twitter」で調べた結果です。おおよそ、上は日本の動向、下は米国の動向と見ることができると思います。今日のニュースでツイッター上での第3者による「つぶやき広告」を禁止する方針をツイッターが打ち出しました。それだけツイッターに対する注目が高まっているのかもしれません。ツイッターはどこまで浸透するのでしょうか。ツイッターは手軽なコミュニケーションツールですが、その一方で口コミというマーケティングツールの側面も強くあります。ブログの場合は一方的な発信が多くなりますが、ツイッターの場合は双方向のやり取りがブログよりは多くなると思います。今後、ツイッターがどのような展開をするのか興味深いですね。


2010年5月8日土曜日

GoogleVoiceについて

グーグルのサービス「Goggles」は画像内のテキストを翻訳できるらしい。翻訳したい画像の文字をキャプチャして翻訳するらしい。そういえば、YouTubeでもキャプションを翻訳するサービスがあったような気がする。キャプチャとキャプションは微妙に違うかな・・・。

また、グーグルは街を丸ごと超高速のブロードバンドにする事業もやっている。電話もテレビも情報のラインはこれ1本で済むということなのだろうか。が、それもあるが、電話をタダにする話もあったように思う。グーグルボイスだ。

電話といえばスカイプがあったと思うが、グーグルボイスはもっと凄いらしい(笑)。←ありがちな言い方だなあ。ともかく、最大の特徴は意味を理解してくれるようになるだろうことだ。もし、意味を理解してくれるようになったら、本当に凄いと思う。←また、ありがちな表現をしてしまった。

コマンド入力が音声入力に変わる、なんてことじゃない。おそらく、同時翻訳が可能になるのではないだろうか。それが実現すると凄いと思う。人と人を隔てるものに、言葉の壁がある。つまり、言語の違いだ。もし、グーグルが自動で自然な同時通訳が可能になれば、意思の疎通が今よりも遥かに容易になる。

それはすなわち国境の壁を崩すことに成功するということではないだろうか?国と国がいがみ合うとき、相手のことをよく知らないことが大きな原因のひとつだと思う。自動同時通訳で異なる言語でも簡単にコミュニケーションが可能になれば、ともかくお互いをよく知ることが可能になる。

そして、ネットがあるから、距離の隔たりは関係なくなっている。つまり、本当に容易に外国人とコミュニケーションが可能になる。昔、エスペラント語、世界共通言語を作って異なる言語同士でもコミュニケーションを図りやすくしようという運動があった。ちなみに、考えた人はポーランド人医師だ。

だが、グーグルが自動同時通訳を作れば、エスペラントは要らなくなる。それに人々は自分の母国語を守ることも可能になる。いくら便利にするためとはいえ、世界の言語を1つの同じものにするわけにはいかないだろう。自分たちの文化もあるのだし。それらを守ることがグーグルの同時通訳なら可能になる。

グーグルボイスが意味をつかみ出すために、どうやら大量にデジタル化したグーグルブックスのデータが役立つらしい。なるほど、あれだけ大量のテキストデータがあれば、意味を取り出すことに役立てられるのかもしれない。意味ほど難しいものはないのに、グーグルはそれを可能にしてしまうかもしれない。

ところで、グーグルはアメリカから生まれた。そのアメリカは見方を変えれば亡命者の国だ。皆、自分の故郷の国を喪失して、自分の暮らす新たな国としてアメリカにやってきた。以前の国への反省からアメリカは世界に先駆けて良い国であろうとする国といえるかもしれない。世界の国の中で最も新しい国だ。

アメリカは国という組織形態の中で過去の伝統を引きずらない新しさを取り入れられる国だ。だが、国という組織形態に縛られていることは他の国と変わりはない。国という組織の限界だ。そこにグーグルとう新しい組織形態が芽吹いた。

グーグルはほどんどネットそのものになろうとしている。グーグルパブリックDNSもそのひとつの表れではないだろうか。そして、ネットには国境はない。アメリカから芽吹いたグーグルはその根をネットに沿って広げ、グーグルは世界を包み込んで、グーグルは世界中に存在しようとしている。

グーグルの自動通訳によって国境の壁は消え、国家の違いも形骸化するかもしれない。もちろん、国はそれぞれ、その国独自の国家体制・社会体制を敷けばいい。だが、そこに住まう人でその体制が気に入らなければ、移動すれば良くなるのではないか。実際、二重国籍はどんどん増えている。

21世紀において、国家に代わる新しい組織形態としてグーグルが生まれたのではないか。21世紀の人類社会では、国家は存在するが、人々は国家を選択可能になるのではないか。そうなれば、国民を抑圧するような国家権力は半ば無効化されるのではないだろうか。

そんなグーグルが巨大な国家権力である中国と衝突したのは必然だと言える。グーグル対中国。そして、その間に挟まれている日本。日本の未来はどこにあるのだろう?拙論『日本の未来戦略』を参照していただきたい!(笑)←手前味噌だなあhttp://www.neoaca.com/critique

2010年5月5日水曜日

ひろゆき×勝間和代から日本のIT企業まで

ひろゆきと勝間の対談が話題になっているらしい。


1.勝間和代について
私は勝間女史に関しては特に興味はない。強いて言えば、良いキャリアを持っているのに、やっていることは啓発セミナーになっているのではないかと思う。例えば、経営コンサルの大前研一は経営コンサルの合間に人材育成のために経営セミナーをやっている感じがするのに対して、勝間女史は啓発セミナーを主業務としてやっているように感じられる。そして、内容は啓発セミナーであって、経営セミナーではないのではないかと思う。良いキャリアなのに不思議だ

2.ひろゆきについて
ひろゆき氏はある種のリアリズムを基づいた経営哲学によって会社を運営していると思う。それは旧来の日本には余り無かった経営スタイルであるため、批判も多いが良い面もある。荒っぽく言えば、アメリカ的な自由な雰囲気がある。氏を批判するのは自由だし、氏が自分の思うままに会社運営するのも自由だ。

3.2ちゃんについて
ただ、今はひろゆき氏の2ちゃんもニコ動も劣勢ではないかと思う。ツイッターとUSTにその地位を脅かされているのではないだろうか。ツイッターのコメントがUSTに反映されるのは大きい。また、若者の2ちゃん離れも大きい。2ちゃんはひと世代前は辛辣な辛口コメントが多かったが、今はコミュニケーション不全の若者が多いのではないか。つまり、極端に言えば、話ができない相手が多くて、コミュニケーションが成立しなくなったのではないだろうか?ある種、ユーザの傾向が変わったのかもしれない。また、ニコ動も弾幕というコメントは2ちゃんのような辛口コメントだったからこそ、有意義だったが、それが凡庸な悪態になったのではユーザが興ざめしてしまう。そして、ログインや入場制限がユーザに制限をかけてしまっている。たしかにツイッターもログインが必要だが、これを窓口に議論は継続できる。

4.劣勢の日本のIT企業
ところで、動画共有サービスは日本発のものが少ないと思う。ニコ動やGyaOやアメーバビジョンがあるが、その他はあるのだろうか?動画検索しても引っ掛かるのは海外のサイトが多いのではないか?日本では動画共有サイトを運営する日本企業が育たなかったのかもしれない。先日、ライブドアが韓国企業に買収される発表があった。先述したように2ちゃんもニコ動もツイッターやUSTに押されている。検索サイトはGoogleやYahooだ。ブログではてなやアメーバは日本企業だが、FC2やライブドアは外資だ。日本ではIT企業は育たなかったかもしれない。ウェブでは、意外と中国や韓国のIT企業が強い。日本は若者が企業して大きくしたIT企業があまり育たなかったかもしれない。しかし、IT産業が大きくなった今、これから起業しても、買収されることはあっても、そこが基幹になる可能性は低い。日本のIT企業は尽く外資のIT企業に乗っ取られるかも。もし、中国と米国が対立したとき、日本のIT企業が中国系に独占されていれば、日本からグーグルを追い出すかもしれない。そのとき、日本は百度を選択させられるかもしれない。百度は、当然、中国政府が言論統制しているのだから、日本も中国の言論統制下に置かれるかもしれない。だが、考え方によって同じかもしれない。もし、野中広務の言うことが真実なら、今までの自民党政権下では、官房機密費という税金を自民党に有利になるように世論操作するために政治評論家にバラまかれていたことになる。中国が検閲によって言論統制するように、日本は評論家によって世論操作していた。アジア人は中央政府の統制下におかれることを是とする国民性があるのかもしれない。もし、欧米なら、官房機密費で世論操作していたとバレようものなら、極めて大きなスキャンダルになると思う。中国の言論統制や日本の世論操作が、それほど騒がれないのは、アジア的気質があるからかもしれない。中国政府の言論統制を他人事と思っていると、知らぬ間に自分たちもその統制下に置かれていることになるかもしれない。それは北朝鮮の国民と同じような立場になるということだ。もし、私が中国政府なら、百度を、実質的な国家管理下に置き、アジアのグーグルにして、アジア全体の言論統制に使うだろう。

日本ではIT産業を上手に育てられなかった。そして、ウェブの言論プラットフォームは米国か中国の企業に委ねられるかもしれない。両者が対立したとき、日本はどうなるだろうか・・・。