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2013年6月27日木曜日

蒼井そら『ぶっちゃけ蒼井そら』


蒼井そらの『ぶっちゃけ蒼井そら』を読みました。


ぶっちゃけ、ごくフツーの女の子がごくフツーに仕事して、ごくフツーに仕事を通して成長してゆくというごくフツーの働く女性の物語でした。ただし、フツーと違うのは彼女の仕事がAV女優という、ただ一点です。この本はそんな蒼井そらの生い立ちからAVデビュー、さらにAV界のトップアイドルに成長する現在に至るまでの道のりを描いた自伝的エッセイです。さらに自伝だけでなく、彼女のセックス観や恋愛観、人生観までも飾ることなく率直に語られています。

一般に女性がセックス産業やポルノ産業で働くというと多くのひとは「苦海に身を沈める」というような眉をひそめるイメージがありますが、彼女の語り口からはそのような暗さは一切なく、むしろ明るく前向きで自分が一歩一歩前進して成長してゆくのを楽しんでいるという、喜んで学ぶという姿勢が感じられます。その明るさに無理をしているところは感じられず、いろいろと工夫して努力はしていますが、ひたむきというよりはむしろマイペースで頑張っているという感じがします。

そして、AV女優特有の悩みや葛藤も逃げることなく率直に語られています。それは家族との関係や恋人との関係です。家族や恋人にAV女優であることを打ち明けてAV女優という仕事を認めてもらうまでの悩みやAV女優の仕事を続けながら恋人とセックスしてゆくことの悩みなどです。これらの悩みはAV女優たち全員の悩みでもあると思います。これらの悩みに対して万人向けの普遍的な解答というわけではありませんが、蒼井そらという個人としての解答を提示していると言えるでしょう。もちろん、すべてに完璧な解答を出しているわけではなくて、どうしても答えの出ない矛盾もあります。しかし、彼女は無理に矛盾を歪めることをせずに矛盾は矛盾のままに、矛盾を抱えながらAV女優の仕事をしてゆくという、とても健全な自覚を持って取り組んでいます。

そんな彼女の姿勢を見ているとビジネス書でよくある、現場のたたき上げから成功していったビジネスマンたちのサクセスストーリーと似たものを感じます。そういったビジネスマンたちは仕事でどんな苦難があっても明るく前向きで諦めることなく頑張り、それでいてお客様に感謝するという謙虚な気持ちをいつも持っていたりします。彼らは誤って自分を高く評価し過ぎることはなく、他人が驚くほど自分を客観視しており、自分の利点を生かして仕事をし、自分の欠点を冷静に見つめています。蒼井そらはそういった仕事で成功するタイプと多くの共通点を持っていると感じさせます。

さて、アダルトビデオは映画と違って幻想をできる限り持続させようと努めます。確かに映画も感情移入できるように幻想を持続させようとはします。しかし、最終的にそこから引き出されるのは物語から一歩引いた客観的な視点です。映画は観客を没入させると同時に映画を見終わったときには観客が客観的な視点を獲得できるように支援しています。ところが、アダルトビデオは違います。アダルトビデオは観客がどこまでも性的に酔い痴れられるように幻想をできる限り持続させようとします。そのため、AV女優たちはアダルトビデオの外でも性的な対象としてのAV女優を演じることになります。インタビューや販売促進会でもAV女優として振る舞うことを要求されます。現実のリアルな人間ではなくて、AV女優という現実には存在しない人間を演じさせられます。このため、現実と幻想を見誤ったユーザーから淫乱や売女などという事実とは異なる罵声を浴びせられたりします。しかし、アダルトビデオが幻想をできる限り持続させることを目的としているので、商売上、それにはあまり大きな声で反論してきませんでした。そのため、AV女優と一般視聴者の間にはある種の情報の非対称が生じることになりました。これはAV女優に限ったことではなくて、セックスワーカーたちにも昔から付きまとってきた問題でした。その非対称が見えざる壁となって、周囲の無理解と間違った認識を生み、これまでAV女優たちやセックスワーカーたちに数多くの悲劇をもたらしてきました・・・。彼女たちは侮辱され蔑まれて人格や人間性を否定され深く傷つけられてきました。私は思います。もう、そろそろそんな哀しい悲劇は止めにしませんか?と。人類の歴史は愚かさの繰り返しですが、一方で確かに進歩してきた面もあると思います。人類は愚かさの中で少しずつですが、前進して問題を解決してきました。ですから、この性にまつわる問題も決して解決できない問題ではないと私は思うのです。そう考えるとこの本は今まで語られてこなかったAV女優側からの情報なのです。今までは聞こえてこなかった壁の向こうからの声です。そこで語られているのはAV女優を演じている偽りの声ではなくて、人間としての真実の声なのです。この蒼井そらの本は、可愛らしい女の子の小さな小さなひと声ですが、しかし、非対称の情報の壁に穴を穿つ、ひとつの大きな突破口ではないかと思います。

2013年6月22日土曜日

原紗央莉『本名、加藤まい~私がAV女優になった理由~』

 
 
原紗央莉『本名、加藤まい~私がAV女優になった理由~』を読んだ。
 

この本は2009年から2011年にかけてAV女優として活躍していた原紗央莉の自伝である。まず、最初に断っておこう。「彼女がAV女優になったのには辛い過去があって仕方なくAV女優になった」というようなお涙頂戴的な人情ばなしをこの本に期待してはいけないということだ。彼女には他人に同情してほしいというような女々しい気持ちは一切ない。そんなものに対しては彼女は怒って蹴りを入れるくらいだろう。では、この本には一体何が書かているのか?

ここに書かれているのは彼女の決意であり宣言なのだ。世界中を敵に回しても自分の足で立ち、どんなに向かい風が強くとも、たとえそれが身を切り刻む嵐であっても、まっすぐに前を見据えて突き進んでゆくという強い強い決意なのだ。しかも、「来るなら来い!受けて立つ!」といった敵に対して堂々と胸を張って生きてゆくという、まるで獅子の宣言なのだ。確かにこの本を執筆したときの彼女はたかだが21歳の小娘に過ぎない。だが、ひとの決意に年齢は関係ない。他人から見れば他愛のない理由かもしれないし、考え方も稚拙かもしれない。しかし、未熟ながらも本人がそのときどきを本気で生きて真剣に考えて下した決断なのだ。万一、間違っていたとしても、おとしまえは自分でつけるし、その覚悟は既にしてある。
そう、この決断は戦士の決断なのだ。

普通のひとは自分がAV女優であることを隠す。親にも隠すし、友だちにも隠すかもしれない。本名なんて隠して当たり前だ。本名を知られて故郷で後ろ指なんて指されたくない。何年かAV女優として働いて幾らかのまとまったお金を稼いだら、あとは引退して世間にバレないように群衆にまぎれるだけ。小賢しいと言われようがかまやしない。稼いだお金を数えながら、チョロっと舌を出してニンマリするだけ。賢く生きようではないか。普通はそう考える。ところが、原紗央莉は違う。小賢しく立ち振舞おうなんてこれっぽっちも考えない。彼女はAVで裸やセックスを人前に晒すだけではない。本名まで世間に晒す。しかも、その晒し方が尋常ではない。本にして晒す。しかも、文章の中に晒すのではない。本のタイトルという一番目につくところにデカデカと出して晒す。彼女は気でも狂ったのか?それともヤケクソなのか?もしかしてドMなのか?いや、そうではない。彼女は正気だ。しかも、とことん本気だ。彼女は自分の選択に胸を張っていたいのだと思う。陰でコソコソとAV女優をして稼ぐなんて気はサラサラない。「陰でコソコソとAV女優をしてるって?コソコソしてねぇよ!あたしの選んだ選択になんか文句あっか?」と言ってバーンと本名を叩きつけたのだ。言っておくが、これは開き直りではない。むしろ、性分だと思う。曲がったことができない、不器用と言われようがまっすぐにしか生きられない彼女の性分なのだと思う。

この性分がこの本を彼女に書かせたのだと思う。もちろん、「仕事の企画として勧められたから」というのもあるだろう。しかし、そんなものはあくまで表面的な事象に過ぎない。彼女の心の中で執筆へと突き動かしたものはもっと別で、それは個人的な動機からだと思う。では、その個人的な動機とは何なのか?それには「この本は誰に向けて書かれたのか?」について考えてみる必要がある。まず、この本は誰かに分かってもらいたいという気持ちで書かれたものではないと思う。おそらく、自分自身に向けて自分自身のためだけに書かれたものだと思う。では、いったい彼女は自分に対して何が言いたかったのか?そして、何をしたかったのだろうか?それを解き明かすには、彼女の置かれた状況について考えなければならない。彼女もAVという仕事が世間でどのように評価され、AV女優が世間からどういう目で見られるかは十分に知っている。それなのになぜ本名を晒してまでこのような本を書いたのか?下手をすれば、AV女優というレッテルが一生ついてまわるかもしれない危険があるのに。なぜか?それは「自分にウソをついて生きていけるだろうか?」という問いにすべてが集約されていると思う。そう自分に問うたときの彼女の答えは”否”だと思う。「自分が自分にウソをついて生きていくことはできない。そんなことをすれば自分の意思に自分が飲み込まれてしまう」と感じ取ったのではないかと思う。「自分の意思に自分が飲み込まれてしまう」とはどういうことか?これを説明することは少々難しい。私たちの人格を構成している要素は言語で、人格は言語で構成されたOSのようなものだと思う。だが、OSは心の表層に過ぎない。心にはもっと奥がある。それは無意識のことを言っているのか?いや、無意識よりももっと深層だ。心の最深部には未だコトバにならない意思のうねりのようなものがある。あるいは、言い方を変えれば精神のエネルギー、魂のマグマといったようなものがあると思う。それは私たち生物を創造的進化に促すものと同じであり、ベルクソンのいう精神のエネルギーそのものだと思う。その精神のエネルギーが自分自身である人格と対立してぶつかったとき、大波が小舟を粉々に叩き潰してしまうように意思のうねりがちっぽけな人格を破壊してしまうのだと思う。おそらく、彼女は本能的にそれを感知したのだと思う。では、どうすれば自らが自らを破壊せずに生きられるのか?答えは1つしかない。つまり、人格と精神エネルギーが一致するしかないのだ。もし、心と魂が一致していれば、たとえたった一人で世界中を敵に回しても負ける気はしない、おそらく、そのように感じ取ったのではないかと思う。その意思の顕れとして打ち立てられたのがこの本というモニュメントだと思う。そう、この本はモニュメントなのだ。彼女の意思が結晶したモニュメントなのだ。彼女の人格とエネルギーを一致させるためにモニュメントが必要だったのだ。

私が感動するのは彼女の意思の強さだ。といっても世間一般にいわれる意思の強さではない。自らをも灼き尽くすかもしれないほど強力な生命のエネルギーに感動するのだ。世界中を向こうにまわしても勝てると思わせる強力な意思力。何ごとも直接的でかつ不器用で、ときにはあっけないほどに忍耐力もなさそうだけれど、何者の力が掛かっても動かしがだい底力というか、まるで恒星のような存在力のある人間、それが原紗央莉だと思う。現代は情報化社会が進むにつれて人々は知的になった一方で、どんどん小賢しくなったとも言える。みんな、小粒になってしまい、野性味は失われ、かつては燃えるようだった生命力も穏やかな蛍光灯のような弱々しい光に変わってしまった。そんなときに現れたのが原紗央莉だった。彼女はセックスの女王というよりはむしろセックスの虎だ。そして、ガツンと一発世間の男どもにパンチを喰らわす。

「あたしがAV女優原紗央莉だ!文句あっか?」

2013年5月1日水曜日

私の好きなAV女優

ちょっと思うところがあって私の好きなAV女優を列挙しておこうと思います。

ところで、なぜ私は彼女たちが好きなのか、その理由をいろいろ考えてみたとき、それは彼女たちの思い切りの良さにあると思い至りました。もちろん、彼女たちの持っている美しさや性的魅力や人間的魅力も彼女たちが好きな理由ではありますが、それよりもむしろ作品における彼女たちの思い切りの良さが私の固定観念を払いのけてくれたというのが最も大きな理由であると考えています。彼女たちの表現は私の想像を上回るものでした。彼女たちの思い切りの良さがブロックバスターしてくれたのです。喩えて言えば、優れたアートに出会ったときに目が開かれて一挙に視野が拡がったような覚醒感に似ています。そんなわけで私は彼女たちに大変感謝しています。


日本のAV女優
  1. 高井桃
  2. 小澤マリア
  3. 原紗央莉
  4. 立花里子
  5. 花井メイサ
  6. 小向美奈子
  7. 風間ゆみ


 米国のポルノ女優
  1. Jennifer White
  2. Kagney Linn Karter
  3. Jenna Haze
  4. Asa Akira
  5. Sasha Grey
  6. Vanessa Blue
  7. Sarina Valentina
  8. Eva Lin
  9. Yasmin Lee
  10. Annie Sprinkle


2010年8月15日日曜日

セクサロイドの問題

とりあえず、ツイッターを元にした下書です。後日、修正するつもりです。

1.ヒト型ロボットの最も有効な可能性、それはセクサロイド!
日本の新産業の可能性についてだけど、日本のヒト型ロボット技術ってとても進んでいると思う。本当はロボットは別にヒト型でなくても良いんだけどね。ただ、例えば、原発事故が起こったとき、ヒトが放射能汚染で入れない場所で作業するのに、ヒト型ロボットは役に立つと思う。でも、惑星探査などで活躍するロボットは別にヒト型である必要はない。戦闘機などはヒトが乗らない方が高速で高い旋回率を出せるのではないだろうか?軍用ロボットの活躍が期待される。ヒト型ロボットで一番役に立つ可能性が高いのは、ズバリ、セクサロイドだと思う(笑)。

2.本物の人間以上に快楽をもたらすセクサロイド
人とまったく同じ寸分たがわぬヒト型ロボットを作り出すかもしれない。いや、場合によっては、ヒトでは不可能は動きをロボットなら可能にするかもしれない。つまり、ヒトとセックスするよりも、ロボットとセックスする方が気持ちが良くなるかもしれない。さらに受け応えも期待通りにプログラムできる。セクサロイドなら、夫婦喧嘩することなく、自分の望む通りの、欲望の沿うリアクションをするようにプログラムできる。う~む、今でさえ、現実の女性より、2次元が良いというオタクがいるくらいだから、精密なセクサロイドができたら、結婚する男性が減るかもしれない。人口を減らすには良いかも(笑)

3.セクサロイドの問題点
実はスピルバーグ監督の『A.I.』ですでにセクサロイドは描かれている。また、押井守の『イノセンス』では幼女タイプのセクサロイドも描かれている。東浩紀の他人に迷惑をかけなければ児童性愛も良いのであれば、幼女タイプのセクサロイドは許されることになるのではないのか?が、それで良いのか?例えば、児童性愛者が街で見かけた児童に欲情して、それと同じセクサロイドを作って、そのセクサロイドと自宅でセックスしているとしたら、それは許されるのだろか?いや、児童に限らず、例えば、有名女優と外見が同じセクサロイドを作ったとき、許されるのか?女優の場合は著作権を主張するかも(笑)でも、まあ、ロボット開発が進歩すれば、いずれ、精密なセクサロイドは登場すると思う。高額ならお金持ちのみが購入するだろうし、レンタルビデオ店でセクサロイドのレンタルをするかもしれない。風俗店からは職が奪われるとセクサロイドに対する反対運動が起こるかもしれない。倫理的に問題は多いが、実用に耐えうる精巧なセクサロイドを開発すれば、大きな新産業になるかもしれない。世界の風俗店がセクサロイドに置き換わるかもしれない。病気の感染の恐れもないし、売春ほどの倫理の問題もない。セクサロイドはおもちゃで遊んでいるのと同じ扱いになるかもしれないからだ。人と違って、セクサロイドなら24時間稼働可能だろう。セクサロイドが登場すれば、売春やレイプが減るかもしれない。産児制限の国では、人口減少にも貢献するかもしれない。まあ、セクサロイドを利用する男性の人権はともかく、女性の人権はセクサロイドによって守られると考えるかもしれない。

以上、セクサロイドについていろいろと思考実験してみました。