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2013年10月12日土曜日

半藤一利『幕末史』

 
今回は半藤一利の『幕末史』を取り上げます。


最近の私の興味は日本の近代史に向けられています。キッカケはNHKの大河ドラマ『八重の桜』と宮崎駿監督のアニメ『風立ちぬ』の2つです。『八重の桜』はもろに幕末の話ですので、今回、『幕末史』を取り上げる尤もな理由です。このドラマの優れている点は1つは幕末を会津という負け組の視点から描いていること、2つめは銃という近代兵器をポイントに描いていること、さらに3つめは明治維新で終わるのではなく西南戦争以降まで描いていることの3点です。幕末・明治維新を倒幕派の視点のみで描いたのでは正しい歴史認識は得られないと思います。負け組からの視点も描くべきだと思います。また、銃という近代兵器の重要性も描かなければ、本当に幕末・明治維新を描いたことにははならないと思います。これは兵器だけに限らず、西洋がもたらした近代技術すべてに関わることですし、さらに言えば近代技術だけでなく近代国家・近代文明を日本がいかに受容したかに関わることだと思います。そして、明治維新を江戸城開城や箱館戦争までではなく西南戦争まで描くことが本当に明治維新を描いたことになると思います。日本は近代文明に触れて大きく転換したのですが、単に権力者が交代しただけでなく、日本全体が大きく変わったということを見るためにはそこまで描かなくてはならないと思います。さて、もう一方の理由、『風立ちぬ』からなぜ日本の近代史に興味を持つようになったかというと、第二次大戦後の日本の経済成長において日本の技術力がその復活の底力としてありましたが、その基礎を築いたのが実は戦時中の軍事技術の技術開発にありました。零戦などもそうですし、それら戦時中に活躍した航空技術者たちが戦後に自動車産業に移って、その高い技術力で今度は自動車を開発したことが原動力になっています。では、戦前はどうだったのか?いや、そもそも幕末までの日本は農業国だったはずが、明治維新以後は一体どうやって近代国家になり、近代技術を取り入れ、さらに成長していったのかという疑問が生まれました。それに幕末の頃は西洋列強に植民地にされるのではという危惧があったのですが、それを日本はどのように免れたのか?また、他の植民地のように主だった産業が西洋人によって支配されるという危険を日本はどうやって免れたのか?農業国だった日本がどうやって資本主義経済体制を構築し動き出させることができるようになったのか?技術や経済にわたる数々の疑問が生まれてきました。さらになぜ日本は戦争に突っ走ったのかという日本の政治に対する疑問も生じました。まあ、いずれも私の日本近代史に対する無知が根底にあるのですがね(苦笑)。ともかく、様々な疑問に動かされて日本の近代史に興味を持ったわけです。そこでまず、日本が近代化する起点となった幕末・明治維新に興味の対象が絞られたという訳です。まあ、随分と前置きが長くなってしまいましたが、以上のような理由で本書を読むことになりました。

さて、本書についてですが、幕末史の概略を通して知るには最適の入門書だと思います。ペリー来航から西南戦争までが描かれています。もちろん、それ以前のアヘン戦争にも触れていますし、西南戦争で終わるのではなく、山県有朋の軍部統帥権まで描いているので次の時代を決定づける重要な足がかりまで描かれています。幕末史は大筋ではこの本で描かれた著者の歴史認識が妥当だと思われます。著者の半藤氏は学者ではありませんので、学者的な緻密さには欠けるかもしれませんが、逆に大局的な視点ではおおむね半藤氏の視点は正しいものと私には思われます。半藤一利といえば『昭和史』が有名ですが、この『幕末史』も実に良い本だと思います。また、別の機会に取り上げたいと思っている氏の著作で『山県有朋』があります。これも間違いなく重要な本で、日本が戦争に突き進んでいった理由を知るには欠かせない一冊です。ともかくも、日本の近代化はこの幕末から始まりました。是非、一度、この『幕末史』を読んでみることをお薦めします。

幕末についてはいろいろと語りたいことがあるのですが、どうも断片的になってしまいそうで、うまくまとめることができなさそうです。そのうちにメモ的に書き連ねるかもしれません。

2013年9月29日日曜日

福島武夫『造船王国の新しい選択』

 
今回は福島武夫の『造船王国の新しい選択』を取り上げます。


この本は1996年に発行された本ですので、現在の世界の造船業界の状況とは若干違っていると思います。また、この本を読むまで私は日本の造船は韓国に追いぬかれて既に廃れてしまったものと勘違いしていました。しかし、実際はそうではありませんでした。熾烈な価格競争の中を日本の造船は粘り強く頑張ってきたことが分かります。さて、この本では、国内の主要な造船会社である三菱重工業、石川島播磨重工業、川崎重工業、日立造船、三井造船、住友重機械工業、NKK(日本鋼管)の7社が取り上げられています。これら7社が、戦後、如何にして熾烈な競争の中を生き残ってきたかを克明に描いています。また、序章では幕末から現在に至るまでの日本の造船の歴史を簡略に説明しています。日本の造船の歴史を概略的に知るにはこの本はとても良い本だと思います。

さて、近年における日本の造船が生き残ってこられた理由は何かというと大きく2つが上げられると思います。1つは低価格競争ではなく高度な技術力で特殊な船を作ることで差別化を図ったのだと思います。もう1つは造船以外の分野、プラントや陸機、あるいは航空宇宙産業などでシェアを伸ばしたのだと思います。これらによって低価格な韓国の造船会社に対抗してきたのだと思います。世界市場における造船のシェアは19世紀末から20世紀中頃までは英国がダントツの1位だったようです。それが1956年に日本が建造量で英国を抜いて世界一位になったそうです。その後も長い間の日本が一位の座を守ってきたそうです。

日本の造船の歩みを振り返ってみると幕末に造船に目覚め、国防の観点から国策的に造船に力を入れ、その後、第一次世界大戦のときに造船ブームが到来して大きく飛躍します。この時、船成金が生まれていますね。その後は逆に反動不況で苦しみます。そして、太平洋戦争で造船所がフル稼働しますが敗戦でボロボロになります。しかし、朝鮮戦争で復活してついには1956年に世界一位になります。日本を世界一位に導く下地を作った人物として戦艦大和を作った西島亮二とその後継者である真藤恒がいます。西島亮二によって構築された合理的で効率的な日本的生産方式です。戦後、真藤恒が働いていた元呉海軍工廠であるNBC造船所には数多くの見学者が来たそうで、トヨタのカンバン方式やビル建設に影響を与えたと言われています。そういった経緯もあり、その後も日本の造船は韓国の台頭に悩みながらも世界市場になんとか食らいついてゆきます。

ところで疑問に思ったことが1つあります。それは米国の造船です。太平洋戦争のときに米国は世界でダントツの海軍大国だったと思います。そして、今もそうだと思います。米国にはたくさんの造船所があるはずです。しかし、世界市場のシェアでは米国はほんのわずかしか占めていません。どうしてなのでしょう?残念ながら米国の造船史の本がありませんでしたので、私の推測になるのですが、造船も他の製造業と同じで低価格競争にさらされます。日本が韓国に追い抜かれたように後発国の方が人件費が安く有利です。おそらく、米国の造船も熾烈な低価格競争にさらされたのだと思います。そこで米国の造船がとった対策は専門的な高度な技術で差別化を図ることだったのではないかと思います。ただし、日本のような特殊な船ではなくて、軍艦という分野に特化したのではないかと思います。すなわち、米国の造船は軍需産業に特化したのではないかと思います。これはロシアにも言えることだと思います。冷戦時代にロシアも数多くの軍艦を作ってきたのは間違いないでしょう。そういう意味ではロシアも数多くの造船所を抱えているはずです。冷戦崩壊後、ロシアでは軍需工場を民需工場に転換するようにしてきましたが、それでも限界があって、多くは軍需産業として残っているのではないでしょうか。ですから、世界のシェアが少ないからといって米国やロシアが造船の技術力が劣っているとは一概には言えないと思います。むしろ、技術的には軍艦の方がはるかに高い技術力を必要としているので高度な技術力を持っていると思います。ただ、その一方で安く早く量産するといったような技術はやはり市場競争にさらされていないので、官営的な造船では培われないと思います。そういった違いがあるのではないでしょうか。

さて、現在の造船のシェアですが、少し異変が起こっているようです。韓国と日本だけでなく、そこに中国が割り込んできているようです。そして、いずれは中国がトップになることが予測されています。今までの流れから言えば、当然と言えば当然ですよね。ただ、懸念される点があります。それは造船能力が高まれば、自然とその国の海軍力も高まるということです。このまま推移すれば、おそらく何年か何十年か先には中国が米国を抜いて世界でトップの海軍力を持つようになるのではないでしょうか。現在も制海権を巡って中国は様々な海域でもめています。そのような中国が世界第一位の海軍力を持つことは非常に懸念される事態だと思います。しかし、中国に対抗できる国はおそらく米国くらいです。将来が危ぶまれます。だからといって日本が軍備増強に走るなんてことは決してしないことです。軍備増強は国の経済や財政を圧迫します。国力が上の中国に軍事力で対抗しようとしても、かえって日本を弱めてしまうでしょう。日本は軍事力ではなく、中国を取り囲む周辺の諸外国と協力して外交力で道理をもって中国に対抗してゆくべきなのだと思います。

それにしても、今後の世界は資源大国のロシア、世界の工場である中国、そして金融やITなど先端技術でリードする米国、この3国が世界の超大国として世界をリードしてゆくのではないでしょうか。もちろん、EUもそこにいくらかの存在感を示すとは思います。やはり、先進国ですからね。もちろん、中東もそれなりに力を増してくるでしょう。ただし、既得権益の壁が強く、その歩みはまだまだ遅いのではないかと思います。一方、日本はこれら超大国に挟まれた位置にいます。西には中国、東には太平洋を隔てて米国、北にはロシアです。地理だけでなく内実はどうでしょうか?昨今の日本の産業は後退につぐ後退です。日本が先端をゆく産業はどんどん減っています。家電も半導体も敗退しています。造船も後退しつつあります。自動車産業がかろうじて残っていますが、工場が海外移転して次第にウェイトが海外になってゆくでしょうし、電気自動車が普及したとき果たして日本の自動車産業が世界をリードできるかどうかは分かりません。したがって、日本はどんどん弱い国になってゆくでしょう。一方で中国はますます強くなってゆき、圧倒的な力の差を見せつけることでしょう。戦後の日本は中国を見下していたところがありましたが、今後は中国を巨人を見上げるように変わると思います。超大国と比べれば日本は小国です。世界全体で見れば日本は中位の大きさですが。ただ、日本はそれら超大国と張り合っても仕方ありません。日本は日本なりの幸せを追求するしかないと思います。日本は成熟した文明国になりつつあります。先進国としては政治や文化などまだまだ至らない点は多々ありますが、それでも社会インフラも整っているのでかろうじて先進国足り得ています。これからは日本にとって幸せな生き方とは何かを考えて、虚勢を張ることなく幸せな社会を作ってゆくのが良いと私は思います。陽はまた昇るとばかりに経済大国足らんと過当な競争を日本人に強いても日本社会がギスギスするばかりで仕方ないと思います。安定した慎ましやかな国を目指してはどうでしょうか?さらにこれだけグローバル化が進んだ世界になってきたのですから、国という小さな枠組みに囚われず、一個人は世界市民であるという認識を持って、大きな枠組みで世界を捉えるべきではないでしょうか?国という区分は次第に意味が小さくなってゆくべきなのだと思います。

もちろん、資本主義ですから競争は必要でしょう。しかし、それは先端技術などの一部の世界で十分ではないでしょうか。日本の環境を見ると国内的にはそんなに競争を必要としないような気がします。また、日本が、今後、活躍できる専門分野としてはiPS細胞などのバイオテクノロジーかもしれません。他の分野はちょっと厳しいような気がします。もちろん、今まで蓄積してきた技術力があるから一概に他はダメだとは言えませんが、全体的には前進しているというよりは後退しているのではないでしょうか。ところが、いわば日本は後退戦なのに日本の政治は貧富の差を拡大する方向に動いているように見えます。それは日本をわざわざ住みづらい国にしているように思えて仕方ありません。経済大国の夢を捨てきれず昔の夢を追おうとするあまり、かえって貧富の差を拡大している。そんなように思えます。それに競争を強いることで昔の本当の奴隷以上に今の労働者は働いていると思います。奴隷には財産の所有や行動の自由や自由時間がありませんでしたが、今の労働者も多くの時間が労働に奪われて実質的には昔の本物の奴隷以上に自由がないと言えるかもしれません。確かに奴隷よりは労働者の方が生産性が上がったでしょう。しかし、それは労働者の人生の犠牲の上に成り立っています。果たしてそれが良い生き方なのでしょうか?いったい金持ちたちにとっても、貧富の差が拡大して社会の大多数が貧しい人たちになったとき、そのような日本社会で暮らすことが本当に住み良い社会に感じられるとは思えません。日本は経済大国を目指すのではなく、中位の国を目指すべきではないでしょうか。

さて、随分、造船とはかけ離れた話になってしまいました。しかし、この本をきっかけに日本の造船の歴史や造船に限らず日本の近代技術の歴史についてたくさんの本に目を通すことになり、大変、充実した読書体験になりました。それらについてはまた追々、このブログで取り上げてゆきたいと思います。



2013年8月21日水曜日

前間孝則『技術者たちの敗戦』


今回は前間孝則の『技術者たちの敗戦』を取り上げます。


まず、著者の前間孝則氏はノンフィクション作家で主に日本の主要産業の技術開発史を扱った著書を数多く書かれている方です。前間氏自身も元は石川島播磨重工の航空宇宙事業本部の技術開発事業部でジェットエンジンの設計を20年間やっておられたそうです。そういった点では技術に関してもけっこう深いところまで理解できる書き手であり、技術開発史を研究するのにはもってこいの人物ではないかと思います。しかも本書によるとかなりの本好きで読みたい本を徹夜で読み耽って翌日はとろんとした目つきで会社に出社したり会社を休んだりしたそうで(笑)、技術者としては珍しく文科系的な読書人なところもあるようです。そんな前間氏のこの著書は氏のこれまでの技術開発史に関する数々の著作物の要約といった趣きの著書ではないかと思います。ところで世間では零戦の設計者である堀越二郎を主人公とした宮崎駿のアニメ『風立ちぬ』が大ヒットしています。それと合わせてこの本を読んでみると、より一層日本がいかにして技術大国になりえたかというのが分かってくるかと思います。そういった戦後の日本の経済的繁栄をもたらした日本の技術開発史を知るために、この本を入り口にして前間氏の一連の著作を読まれることを強くお薦めします。

さて、最初にこの本の帯文と表紙カバーの文を紹介しておきましょう。

日本の戦後復興の原動力となった20代~30代の技術者たちはどのように敗戦を迎え、廃墟から立ち直ったのか? 引用:『技術者たちの敗戦』
驚くべきことに、戦時中の技術開発は20代から30代の若手技術者によって行われた。彼らは情報遮断と原材料の不足など極めて厳しい状況のなかで、開発に熱中し、破れたりとはいえ、多くの成果を成し遂げたのである。戦後、GHQによって航空が禁止されたため、航空機産業の多くの技術者は自動車産業に移り、今日、アメリカをも脅かすようになった自動車産業の基礎をつくりあげた。また、国鉄の技師、島秀雄は、材料がなくなり、機関車がつくれなくなった戦争末期、将来を見据え、電車のブレーキ、台車、パンタグラフなどの研究を部下に命じたのだった。これが後に、新幹線の開発へと開花していく。この技術者たちの不屈の物語はこれからの日本の進むべき道に大きな示唆を与えるはずである。 引用:『技術者たちの敗戦』
これらの文章からも分かるようにこの本では戦前生まれの日本の技術者たちが戦時中にどのように技術開発に取り組み、そして戦後どのように活躍していったかを簡潔に描いたノンフィクションです。この本で取り上げられている技術者は全部で6人で、零戦の堀越二郎と曾根嘉年、新幹線の島秀雄、石川島播磨重工の真藤恒、レーダー開発の緒方研二、ホンダの中村良夫です。本書を読んでみると彼らの生き様や人柄はそれぞれユニークで、いわゆる一般の実直でまじめ一筋の技術者像とはちょっと違った装いが感じられます。島秀雄などは大正ロマンの影響を受けて育ったためかかなり自由な気風が感じられますし、中村良夫は技術者であった一方で文芸同人誌を発刊したり、ドイツ人技術者たちのパーティではハイネの詩を暗誦したりと教養の高さというか文化程度の高さを感じます。ちなみに文化程度が高いというのは何も高尚であることを自慢するという意味ではなくて、自由で柔軟な思考の持ち主であり、それは合理的な思考でもあり、一方で人間性の豊かさをも兼ね備えていると私は考えています。特に雑誌『モーターファン』に掲載された彼の「告別の辞」はなかなかダダイスティックであり、前衛芸術の精神もよく理解していたのではないかと思わせます。戦時中の頭の固い日本の軍人たちとは大違いです。ただ、この本で取り上げられた技術者たちはある意味特殊なのかもしれません。彼らと違って日本の多くの技術者たちはやはりその道一筋的なお堅いひとが大多数の占めているのかもしれませんし、日本社会自体がそういった傾向が強いと思います。自由で柔軟な思考に欠けることがしばしばです。むしろ、当時の東大のようなエリート校や軍需産業の方が上司もさん付けで呼ぶなどかなり自由な気風があったようにさえ感じられます。また、この本で語られているB29のエピソードからも如何に日本が自由で柔軟かつ合理的な思考が欠けているかが伺えると思います。大切なのは大局を見据えた戦略的思考と柔軟で合理的な自由な思考なのではないでしょうか。

さて、この本ではいろいろな点で示唆に富んだ指摘がなされています。読者のみなさんは是非読んで確かめて下さい。私が印象に残った文をメモ代わりに少し取り上げておきます。

かつての航空技術者たちは、先の岡本のように、「航空機よりどのくらい技術程度を落として設計すればちょうどいいのかわからなかった」という。その頃、自動車に求められていた水準はかなり低かったので、航空機のセンスで設計すると、あまりに上等なものができて過剰品質になり、値段がベラボウに高くなるのだった。
先の米戦略爆撃調査団のレポートを踏まえつつまとめられたアメリカの「第二次大戦と科学技術」と題するレポートでは次のように結論づけられている。「1945年の時点の日本のレーダー研究は、イギリスおよびアメリカに3~4年の遅れがあったと考えられる。日本はマグネトロン(磁電管)の設計においてオリジナリティを発揮したが、陸海共別々に製作しており、その製品性能は米英のものに比して劣っていた。(中略)結論として、日本の新兵器開発に関する戦時研究体制に学ぶべきものは、ほとんど無い」
最後に日本の近代史に関していうと、やや本道から外れたルートかもしれませんが、日本の近代史に関する研究では、主に明治維新から戦時中までを描いた山口昌男の歴史三部作が極めてユニークで面白いです。そこで主役になるのは経営者と文化人でした。それに対して前間孝則氏の著作は戦時中から戦後にかけて活躍した技術者たちの歴史を扱った一連の著作です。技術者たちが活躍する場や基礎を作ったのは山口昌男が描いた戦前の経営者や戦争でした。前間氏の出身である石川島播磨重工も元はといえば東京石川島造船所で渋沢栄一と浅からぬ関係がありますからね。渋沢栄一については山口昌男『敗者の精神史』で取り上げられています。そういった意味で山口・前間両氏の一連の著作から日本の近代史をもう一度捉え直すことは極めて意義のあることだと私は思います。

今、世界は東西冷戦が終わり、ネットによって相互に繋がって、さらなるグローバル化が進んでいます。資源のない国日本がグローバルな競争で生き抜くには科学技術の力が大きな鍵を握っています。いえ、もはや国という小さな枠組みに囚われることなく、一個人の力量として科学技術の知識が大きな鍵を握っていると思います。そういった現代において私たちは過去の先人たる日本の偉大な技術者たちから多くのことを学ぶことができると思います。


2013年6月25日火曜日

小林弘忠『歴代首相』

 
小林弘忠『歴代首相』を読んだ。


この本は日本の初代首相・伊藤博文から第58代首相・福田康夫まで総勢58名の歴代首相について書かれた本です。日本の政治を考えるとき、「日本の政治の歴史、特に時の宰相である最高権力者について知っていなければ!」という思いでこの本を買いました。最初は「戦前と戦後で分けて考えた方がいいかな?」とも思ったのですが、第二次大戦の敗戦があるとはいえ、やはり政治は繋がっており、戦前も無視できないなということで初代首相から書かれたこの本が値段も手頃だったので丁度良いということで選びました。

この本は各首相について生い立ちから始まり、どのようにして首相の座に登りつめ、首相となってからはどのような政治を行い、首相を辞めた後、どのように人生を締めくくったかまでを簡略に描いています。そういった訳で各々の首相のエピソードも興味深く読めるのですが、ただし読み進めるうちに、私が当初期待していたものとはちょっと違うなということが分かってきました。私が最初に期待したものというのは、時の最高権力者が如何に責任を持ってどのような考えで日本をその方向へ導こうとして政治を執ったのかというものでした。ところが、読み進めてゆくうちにどうやら日本の首相というのはそういう独裁的な日本をリードしてゆく最高権力者ではないというものでした。確かに歴代首相の中には独裁者に近い権力を集約した人も何人かはいます。しかし、それはいわゆる独裁者とはちょっとニュアンスが違います。

ちょっと他の国の例を考えてみましょう。かつての英国などは国王がいて国王が責任を持って国を統治していました。彼は統治において独裁的である一方で統治者としての責任感もあるわけです。(←そのうち議会制ができて国王の権力は失墜してしまいますが。)ところが、日本はどうかというと、例えば江戸時代を考えると天皇という国王がいるのですが、実質的な支配者としては将軍がいて彼が国を支配・統治しているわけです。ところが実際には、その下に老中がいて、彼らが実際の政治を仕切っているわけです。つまり、日本はピラミッドの頂点に為政者がいて、為政者が責任を持って統治するというスタイルになっていないのです。さて、話を本の時代に戻すと、戦後の日本は民主主義になったので、形式的には独裁者がいないスタイルになったかもしれないけれど、戦前の日本は大日本帝国なんていうイカメしい名前だからさぞや独裁者が威張って闊歩してたのかなと思って読むと、どうもそうではないのです。日本の首相は初代の伊藤博文のときから独裁者的ではないのです。構造的には共和制だった頃のローマのように元老院がいて執政官が選ばれて執政官が政治を執るというのに形は近いと思います。ただし、日本の場合は執政官たる首相の権威は低く、むしろ矢面に立たされる兵隊的下っ端的な感じでさえあります。

この執政官と元老院の関係は天皇とそれを陰で操る上皇に似ているのですが、かといって背後である上皇のように独裁者がいるかというと、どうもそうでもないのです。首相を支えている背後の人たちもいずれも独裁者的な側面がないのです。せいぜい山県有朋が独裁者に近いのですが、彼でさえ決定的に独裁者かというと独裁者ほどに強引な政治は執っていないように思えます。そうやって見てみると、どうも彼らには統治者としての責任感が欠如しているように思えるのです。もちろん、私は独裁者が良いといっている訳ではありません。しかし、どの首相も調整役であって、自らの考えを持ってリードしてゆく為政者には見えなかったのです。これは首相だけの責任ではなくて、首相を支える周囲にも責任があるとは思います。東京裁判でも連合国側は戦争の責任が誰にあるのかを巡って裁判をしたのですが、誰が戦争の最高責任者なのか分からず困ったのではないでしょうか?確かに東条英機だという見方はあると思います。しかし、彼は独裁者だったかというとどうもニュアンスが違う。東条は引き算思考の小役人で小さなことで周囲を締め上げていたとは思います。しかし、それは独裁者とは違います。石原莞爾も裁判の中で言っていますが、「自分にはいくらかの戦略はある。しかし、東条はこれっぽちも戦略を持ち合わせていない。皆無である。意見を持っていないものとは論争しようがない」と皮肉を込めつつも的確に東条のことを言い当てていると思います。そうやって見てゆくと日本の政治には君主のような支配者・統治者いなかったのではないかと思えてきます。日本の歴史を振り返ってみてパッと思いつくのは天皇親政をやろうとした後醍醐天皇くらいでしょうか。あとは織田信長が独裁者に相当するかもしれませんが、ただ彼の場合、本能寺で斃れたので統治者たらんとしたかどうか少し疑問です。とにかく、日本にはアメリカ大統領のようなリーダーはいなかったし、成立しなかったのではないかと思います。当人とそれを支える周囲というのがいなかったように思います。

なぜ、そうなったのでしょうか?私は日本人が騎馬民族でなかったからではないかと睨んでいます。世界の文明に目を向けてみると文明の支配者は多くが騎馬民族です。人類はその発展において農業という植物の飼い慣らしをしてきました。次に遊牧という動物の飼い慣らしをしてきました。そして、動物を飼い慣らす経験をした騎馬民族は今度はそれをヒトに応用してヒトを飼い慣らす文明を築いたのです。ところが、極東の島国・辺境日本は騎馬民族が支配者にはなりませんでした。そのことは中国の後宮のように宦官がいないことからも明らかです。宦官は去勢の技術が発達した結果、生まれた技術です。去勢は遊牧において動物を飼い慣らす技術から発展したものです。ところが、日本には宦官はいませんでした。そのため『源氏物語』に見られるように天皇の女たちに光源氏が手を出したりできたわけです。つまり、日本人は騎馬民族ではないためか、人を飼い慣らすこと人を支配することにあまりにも慣れていない節があります。極東の島国という辺境だからこそ起こった特殊な事情だと思います。

それにしても「ヒトがヒトを支配する」というのはあまり愉快な考えではありません。しかし、文明を支えていたのは農業に従事する奴隷だったという事実を見過ごすことはできません。また、従順になれない奴隷は兵士として軍隊に送られました。軍隊に送られて兵士として活躍するか、早めに間引かれるかのどちらかだったのではないでしょうか。時代が進むにつれて奴隷制も無くなりますが、それはヒューマニズムに目覚めたからというわけではなくて、他人に強制されて働く奴隷よりも自らの意思で働く労働者の方がよく働くという理由で奴隷制が無くなったという面もあります。このように文明とはヒトがヒトを支配する歴史だったという見方もあるのです。話は違いますが、シェークスピアの作品にもそのような人間観があってアメとムチでヒトを操るという場面が見られます。シェークスピア嫌いの人がいますが、彼らはそういうのをみて「人間とはまるで家畜のようなそんな単純なものではない」という思いでシェークスピアを嫌うのだと思います。ちなみに私もそういう人間観は好きではありません。しかし、厳然たる事実として文明社会とはそういう側面があるのも否定はできないと思います。

さて、何の話でしたでしょう?そうそう、日本の最高権力者に支配や統治する権限が与えられておらず、その責任感がないという話でした。いや、制度として権限は与えられているのだけれど、実際には歴史的な習慣のためか、それが機能していないという話でした。ならば、制度を大統領制にしろという意見があると思いますが、おそらく、制度を変えても日本人の習慣としてそれを機能しないものにしてしまうと思います。ここまで来ると日本人の精神構造の問題ではないかとさえ思えてきます。河合隼雄が指摘していましたが、日本人の精神構造と西洋人の精神構造は違うそうです。簡単に喩えて言えば、日本人がユング的であるのに対して西洋人はフロイト的であるそうです。確かに日本人の大衆の無意識はユングの集合的無意識に通じるものがあるような気がします。しかし、そうなってしまうと日本人はとことん政治に向かない民族だと思います。ある意味、日本人は支配される側でこそ力を発揮する民族なのかもしれません。組織の歯車としてよく働くが、少々頭が堅くて融通の効かない、しかし実際的な技術にかけては右に出るもののない優秀なエンジニア、(実際、世界で活躍する日本人ってそういう技術者が多くありませんか?)それが日本人に最もふさわしい姿なのかもしれません。え?私ですか?私は違います。私は日本人の中では変わり種の異端児ですから(笑)。ともかく、そうはいっても日本も独立国家なのですから、日本の首相は自己の信念に基いて自らの意思と責任をもって国を統治してほしいものだと思います。

えーと、随分、本の内容とは違う話になってしまいました。以上の記述は私が本を読みながら考えたまったく別のこと、妄想の話です。とにかく、現在の日本の政治を考えるためにも、大人の常識として日本の歴代の首相は知っておいた方が良いと思いますよ。

※文中で述べた日本人の精神構造については下記の本を参考になさって下さい。