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2020年12月27日日曜日

BLOG2020 Review

 
1.振り返り

今年のこのブログを振り返ってみる。

まず、『21世紀はセックス革命の時代』を書いた。これは性の多様性が重要だし、それが広まってゆく、いや、期待したいし、その過程で摩擦も生じるだろう、という予測と願望で書いた。その関連で『日本を変革する(1)夫婦中心の家庭へ』を書いた。日本ではこれまで性がタブー視されていたが、セックスライフは人生の重要な一部なので、もっと性について知識を深めなければならないという思いで書いた。性の多様性は個人だけでなく家族や職場や社会に大きな変化をもたらすと思う。トランスやオープンマリッジなど様々な点で人々はより自由なセックスライフを送れるようになれると期待したい。(セクソロジー)

21世紀は格差社会の時代』も書いた。これはトマ・ピケティの『21世紀の資本』そのままだ。格差を解消するためにはどうすれば良いか?主に2つあって、再分配と経済成長だと思う。これは別に二者択一というわけではなくて、両方を追求すれば良いと思う。ただ、再分配は政治力が必要で、富裕層がタックスヘイブンなどに逃げられないように包囲網を敷いて公平に課税する必要がある。再分配もいかに分配するかが問題になってくる。思うのだが、ケインズが当初に構想したIMFもこういったグローバルな展開を予見してのことだったのではないかと思う。(モラルサイエンス)

ただし、日本の場合は『日本を変革する(2)市場を真っ当にする』と『日本を変革する(3)地方分権とネットワーク』で書いたように、長年続いた戦時経済体制のためにレントシーキングが生じてしまい市場原理が正常に機能していないし、中央集権体制のため硬直化してしまい非効率な生産システムになっている。そのため、経済成長も再分配もしずらくなっている。日本はまず基本的なシステムの構造改革しなければならい。つまるところ、ツリーとネットワークの最適化ということになると思う。ツリーを中央集権から地方分権に変え、さらに横断的にツリーを補完するネットワークを構築・育成することだと思う。また、非生産的な残業を廃止することで労働時間を短縮して、人々が地域社会に市民参加できる余裕を作ることだと思う。(日本の変革)

21世紀の生存戦略』では個人が生きるためには3つの知を磨き続けること、学び続けることを書いた。3つの知とは、全体知、専門知、人間知の3つだ。まず、生きるためには専門知を身につけねばならない。しかし、専門知だけではダメだと思う。広い知見が必要だ。かつては教養といったが、私は全体知と呼ぶ。さらに限られた時間や条件の中で最大限に学ばねばならない。そのためには己自身をよく知る必要がある。それが人間知だ。この3つを磨き続けること、学び続けることだと私は思う。(生存戦略)

ちなみに『仏教のすすめ』も書いたが、これは人間知に属する部分もあるかもしれない。ただ、どちらかといえばブッディズムは生き方を多く含んでいる。逆転した見方をすれば、ブッディズムはヨガ的生き方の一変種といえるかもしれない。実際に行っていることはヨガととても似ている。ただ、ブッディズムの場合は性的な禁欲という点でヨガと異なると思う。21世紀の仏教は宗教ではなくて、ヨガなどと同じライフスタイルのひとつと捉えるべきだと思う。(ブッディズム)

日本を変革する(4)記録・蓄積』はPDCAサイクルをより大きくしたものだ。『21世紀の生存戦略』でも触れたが人間知を磨くうえで大切なのは記録して振り返り改善してゆくというプロセスだ。日本ではこれがあまりにも粗末にされている。これを改善せねばならない。

足早に振り返るとざっと以上のようになる。

見立てとしては、おおむね間違ってないと思う。いや、当たり前過ぎる話かもしれない。しかし、実際に実装されるにはまだまだ程遠い。個人としては鋭意努力している。日々、学び続けているつもりだ。しかし、問題は日本だ。日本は1990年から本質的に変わっていない。失われた10年と言われた頃から変わっていない。いや、変わったかもしれないが、悪い方向に変わっている。格差は広がり、財政は悪化を増している。日本の企業は競争力をどんどん失っている。いつ、ジャパンクライシスが起こってもおかしくない。貧困は多くの人々を、特に弱者を不幸にする。そんな悲劇はなんとしても避けたい。

2.三つ巴

私は、日本には3つの勢力があると思っている。保守、リバタリアン、リベラルの3つだ。ただし、多くの日本人たちはそのことに無自覚だと思う。人々は「自分は保守だ」とか「自分はリベラルだ」という風に考えてないと思う。むしろ、「自分は普通の日本人だ」と考えている人が多いのではないかと思う。あるいは、言い換えると「自分は偏っていない。自分は普通なんだ」と考えている。でも、それは無意識な自分中心主義だと思う。社会は多様な人々がいて、多様な人々が共存してゆくための手続きとして民主主義があると思う。「私が普通なんだから、他人は私に合わせろ」ではなくて、「あなたと私では考え方が違う。しかし、それでも同じ社会に暮らしてゆくために互いに協力しましょう」というのが市民社会ではないかと思う。なので、最初に話を戻すと、日本人はまず互いに違うということ、そして自分はどの勢力に近いかを自覚することから始めなければならないと思う。

私の感触では、日本人の多くは保守にあてはまると思う。日本の多数派は保守だと思う。逆にリベラルは少数派だと思う。さらに保守にもリベラルにも違和感をおぼえる人は少なからずいて、おそらく彼らはリバタリアンだと思う。実際、数的にはリベラルよりリバタリアンの方が多いと思う。また、リバタリアンはリベラルよりは保守の方と相性が良いと思う。逆にリバタリアンはリベラルに対して部分的に嫌悪感すら感じていると思われる。

さて、私自身はリベラルだと思っている。リベラルが描くような自由に生きられる社会を目指している。だから、リベラル派が増えることを願っている。もちろん、リベラルは研鑽を積んで、今よりもより良く変わっていく必要もあると思う。また、他の勢力とも共存可能だと考えている。なぜなら、個人が自由に生き方を選択できるように選択肢を増やすのだから、保守的に生きたい人もリバタリアン的に生きたい人もその生き方をそれぞれ選択可能だと思うからだ。

ところで、外国に目を向けてみる。米国はどうか。保守とリベラルの分断が鮮明になっている。とはいえ、エスタブリッシュメントはコスモポリタン(裏を返せば帝国主義)だ。プアホワイトが狭量なナショナリズムになっているだけだ。ただ、アングロ・プロテスタントな文化がヒスパニック系に侵食されているのが気になるが。中国はどうか。共産党独裁は変わらない。ITの進歩によって監視社会がより強化されてしまった。ますます中華中心主義が蔓延るだろう。さらに儒教によってノモス化された中国的な全体主義が世界を席巻するかもしれない。日本も巻き込まれるかもしれない。

日本は中国・韓国と比較した場合、経済的に一番後塵を拝する立場になると思う。したがって、日本の保守主義は内側に向かうしかなくなる。悪くすれば、狭量なナショナリズムに陥る可能性がある。ともかく、外へ向かうだけの力は日本には最早無い。

私としては、日本の3つの勢力(保守、リバタリアン、リベラル)が単に争うのではなく、互いに協力したり、他勢力からの批判に対して自己に磨きをかけて成長することが望ましいと考えている。そして、3つの勢力が共存してゆくのが望ましいと思う。ただ、今の状況は旗色が不鮮明で、互いに敵味方がよく分からず、仲間だと思っていたら違ったので憤慨したとか、逆にあいつらは敵だからあいつらには徹底的に反対で話し合う余地はないのだとか、そういう不毛な形勢になっていると思う。そうではなくて、互いに違いを認識しつつ共存してゆける関係に持ってゆくべきだと思う。

振り返りで示した問題解決の提言を実現するために、リベラルの啓蒙と3つの勢力の鮮明化はつながっていると思う。日本はとかく無意識・無自覚で、戦略に欠け、場当たり的な振る舞いが多い。それを止めるためには旗色を鮮明にして互いに研鑽してゆくことで問題解決に至ると思う。

最後に、おそらく数的には

保守>リバタリアン>リベラル

の順だと思うので、リベラル派を増やすべく啓蒙してゆきたい。

それと、来年は読んでいる本のことや考えていることなど、もっとざっくばらんにフリーライティングな感じで書いてゆきたいなと思う。今もそうだけど、あんまり文章にまとめることに力を注ぐよりは、メモ的に断片的にであっても、とりあえず書き残してゆくことに注力する方が今は良い気がしている。

2020年7月26日日曜日

日本の構造問題


(1)中央集権型ツリー構造


単純化していうと日本の構造は上図のような中央集権型ツリー構造だ。政治も内閣に権限が集中しているし、経済も戦時経済体制を継承した統制資本主義だ。工業国としては中央集権体制は適した体制だった。しかし、インフラが成熟した知識社会の場合、中央集権型ツリー構造では豊かな社会を構築するのには向いていない。成長した大木の場合、幹ではなく枝葉を豊かに繁らせなくてはならない。枝葉を豊かにするには、それぞれの太い枝が末端の枝葉をどの方向に向けるかを決めなければならない。すべてを中央で決めるのではなく、各々の太い枝で方向性を決めるのが適している。

(2)分散型ツリー構造
したがって、中央集権型ツリー構造を下図のような分散型ツリー構造に変えるべきだ。



これは政治に見立てたら、以前から言われていた道州制だ。国がお金を持つのではなく、それぞれの地方がお金を持ってその地方に適したお金を配分する。ひと言で言えば、連邦制だ。

(3)ツリー横断型ネットワーク
さらに知識社会は情報社会だ。知識やマネーが縦横無尽に流通するネットワークが必要だ。インターネットというインフラを人類は手に入れた。情報を末端まで流通させるテクノロジーは可能になった。そこで分散型ツリー構造を補完するために下図の赤線のような、ツリーを横断するリゾーム状のネットワークを形成する。実際には、専門化・特化した組織(NPOやNGOや企業)がそれぞれの得意分野を生かしてツリー構造をバイパスして補完する。

(※リゾーム状にツリーを横断するバイパスのような描画にしたかったのだが、上手く描けなかった。)

(4)弊害
いまだに日本は中央集権型ツリー構造の夢を見ている。その典型例がリニア中央新幹線だ。「新幹線の成功をもう一度」という夢から同じことをしようとしている。しかし、すでに新幹線があるのに、似たようなものを作ることにあまり意味はない。むしろ、莫大なお金が注ぎ込まれて弊害の方が大きいだろう。(今後も無用の長物を作ろうとする愚行が日本が破綻するまで続けられる可能性が高い。)

(5)構造転換は可能か?
中央集権型ツリー構造から分散型ツリー構造+横断ネットワークへの転換は可能だろうか?それはかなり難しいと考えられる。理由は転換によって既得権益層が利益を手放すことになるからだ。既得権益層は権益を手放すよりはジリ貧になる方を選ぶ。ガラポン(=リセット)されていきなり利益がゼロになるよりは、いずれ衰退しようができるだけ現在の構造で利益を手に入れようと抵抗するだろう。

(6)メディアも国民も同罪
権力を監視するメディア(=ジャーナリズム)も同じだ。例えば、新聞では日本はまれにみる全国紙が強い国だ。中央集権型ツリー構造だから中央に張り付いている全国紙は強い。しかし、分散型ツリー構造になれば地方紙が優位になってしまう。全国紙が地方紙に利益を譲ることなど考えられない。2000年代、全国紙は「総論賛成、各論反対」だった。敵を作らず、適当に茶を濁してきた。すべての読者によい顔を見せようとして個別具体的な批判を避けてきた。テレビもまったく同じ構造だ。(ダム建設批判や原発事故後の電力批判が視聴者やスポンサーの顔色を窺っていつの間にか雲散霧消した。)

そして、国民自身も同じだった。自らが所属する組織を守るために「総論賛成、各論反対」を続けてきた。言わば日本国民全員が構造転換に反対だった。これでは構造転換など不可能だ。したがって、日本はこのままジリ貧に衰退してゆく。当然の帰結だ。衰退の責任は一部の既得権益層だけでなく国民自身にもある。

(7)まとめ
構造転換が必要なのは明らかだが、統制された中央集権型ツリー構造の日本はそれを変えることが構造的にできないでいる。政治もメディアも機能していない。逆に規制によって構造を強化して、構造転換が難しくなるようにさえしている。結果、既得権益層を守るために、切り捨てられるのは弱者や未来の可能性だ。

考えてみれば、繁栄はいつまでも続かないということなのだろう。日本も同じだ。明治維新でアジアで先駆けて繁栄したが、戦争を起こして衰退し、戦後、運良く繁栄したが、90年代から始まる工業国から知識社会へ移行する段階で適応できずに躓いた。そして、2000年にWTOに加盟した眠れる獅子の中国は経済大国として目覚め、もはや中国の覇権を誰も止められなくなった。世界史的に見て、強大な超大国・中国を近隣にした日本の今度の停滞はかなり長期になると思う。そればかりかチベットやウイグルを見ていると日本は消滅する可能性さえあると思う。

諸行無常なり。

2020年7月19日日曜日

個人の問題

日本人の個人の問題について考えている。といっても、考えがまとまっていないので、つらつらと思いついたことを書いてみる。たぶん、夏目漱石の個人主義なんかも遠くは関連しているかもしれない。

男女の違いについて私は下図のような仮定を考えている。


男性は円形で、女性は四角形だ。

これらを重ね合わせると、重なる部分と重ならない部分が生じる。



そして、重ならない部分は互いに理解しがたい部分になる。
たまに相手のことを包摂してしまう場合もあるかもしれない。

しかし、それは一面的な部分であって、全体としてはどちらかがどちらか一方に完全に把握されてしまうことは人間の場合無いと思う。この図は分かりやすくするために平面で描いているが、人間はもっと多次元で多面的だから様々な局面でこういう分かり合えない部分が多数存在すると思う。

それでも男女がパートナーシップで暮らしていけるのは愛があるからかもしれない。愛は互いの溝を埋めるブリッジのようなものだと思う。愛は溝を埋めることはできないが、溝の一時的に乗り越えることは可能にする。


ただし、日本では愛は誇張され過ぎているかもしれない。人間の内面には、様々な力がある。欲望などは強い力だ。金欲、物欲などだ。性欲も強い。食欲なんてのはあまり弱いと困る。そういった力の中で比較すると愛は微力だ。経済活動では欲望が大きな原動力になっているが、それに比べて愛はそんなに大きな原動力になっていない。

しかし、注意しなければいけないのは、愛は大切だということ。「愛は偉大で最も強い力」だと誤認してしまうと、放っておいても愛が作用して人々を救ってくれると勘違いしてしまう。しかし、実際は愛は微力なので忘れられがちだ。だからこそ、愛の大切さを説いて、愛を喚起してやらねばならないと思う。(ちなみに日本人に愛は馴染んでいない。昔は慈悲がそれに相当したし、愛は仏教用語でいう渇愛で斥ける対象でさえあったと思う。せいぜい情をかける程度だと思う。ギフトとしての愛なんてほとんど定着していないんじゃないかとさえ思う。)

男女間の溝なんて持ち出してしまったが、自己と他者でも同じような図式で捉えられると思う。自己と他者にも乗り越えられない溝があるのだ。だからこそ、個人には自由意思があると思うし、個人を個人たらしめているのはこの自由意思だとさえ思う。

じゃあ、個人はなにものとも繋がっていないのかというと、そこはちょっと微妙だと思う。キリスト教的に考えれば個人の魂は神とつながっていると思えるし、インド的に考えればブラフマンとアートマンでつながっているとも思えるし、仏教的に考えれば真如と阿頼耶識はつながっているとも思える。あるいは輪廻で生きとし生けるもののすべての魂はつながっているとも思える。ただし、親子で魂はつながってはいないのだけは確かだ。日本では母子でまるで魂がつながっているかのように錯覚していないだろうか。魂は孤独なものであることをもっと自覚した方がいいと思う。で、愛という微力なものが人々にブリッジをかける。とても微力だが。

話題を変える。

個人のセクシャリティを花に喩える。人間のセクシャリティは子どものときは種であって、どのような花が咲くかは分からない。大人に成長したときに花が開花してはじめてその人がバラの花だったり百合の花だったりタンポポだったりと分かる。つまり、レズビアンだったりゲイだったりトランスだったりクィアだったりする。しかし、親は自分と同じ花を咲かせると勘違いしやすい。しかし、セクシャリティの場合、親が桜の花だったとしても、子どもは百合の花を咲かせることはよくあることだ。むしろ、親も子どもも同じ桜の花を咲かせる方が希な気がする。さて、問題は親が桜で子どもが百合だったとき、親が子どもに「おまえも桜になれ」と強制することだ。まあ、ムチャクチャで不幸なことを親の誤認から始めてしまうわけだ。親として子どもを愛しているならば、子どものありのままを受け入れて成長・応援してやることが親の愛だと思う。レズでもゲイでもトランスでもクィアでもだ。セクシャリティという一面だけを捉えても、親子でも、男女の相違のように、自己と他者は異なり、溝が存在する。

話題を変える。

「らしさ」についてだが、「男らしく」とか「女らしく」の「らしさ」だが、今は亡き森毅さんが良いことを書いておられた。「男らしく」や「女らしく」ではなく、「自分らしく」ありなさいということを言っておられた。自分を何か型にはめるのなんておかしいと思う。ましてや、自分を他人から「○○らしくありなさい」と規定されてしまうなんてまっぴらごめんだ。

話題を変える。

日本人は自由意思を軽視しがちだし、人権もあまり考えたことがない。もっとも、人権を完成されたものと考えるのもちょっと問題だとは思う。私はけっこう気をつけているつもりだが、それでも気づかぬうちに差別してしまっているなんてことがある。(人権はまだまだ過渡期に思う。)人権を踏みにじるのは許されないが、過ちをあまりに強く非難するのもどうかと思う。人間は誰しも過ちを犯すものだからだ。(「ひと誰か過たざらん。誤りてひとこれを能く改むる」だっけ。)それと、よく言われるように、日本人は同調圧力が強い。「日本人は皆同じ」だと思っているフシがある。これは大きな間違いだし、これは多くの不幸を生むと思うので早く止めてほしい。「酒を飲んだらハメをはずして腹を割って話して仲良くなる」なんてのも止めてほしい。何なんだろう、この田舎者的発想は。酒を飲まないトランプ夫妻を居酒屋に誘って親密さをアピールってのもそれに由来するのだろうけど、日本人、訳わからん。それと、海外で大きな事故があったとき、ニュースの最後で事故に巻き込まれた日本人の有無を言うのも、半分、どうかと思う。問い合わせの要不要の情報として流しているのかもしれないが、半面、日本人が巻き込まれていなければ「良かった」となるのだろうか?日本人以外の人命はどうでもいいのかと。

話題を変える。

私が子供の頃は戦争を引きずった大人が近くにいたものだった。それは戦争を深く反省していたことと、戦後の焼け野原から日本の復興のために必死に働いていることだった。日本の敗戦はそういった大人のメンタルに深く突き刺さっていた。それは元来物事を深く考えない日本人を深く考えさせる原動力となった。しかし、経済成長で次第にそういった陰や深みは薄れっていった。決定的だったのはバブルが日本人のメンタルを堕落させた。まあ、全部が全部とは言わないが。バブルによって日本はもう一段ステップアップするチャンスがあったが、そのチャンスをものにできなかったと思う。結局、日本人のメンタルはそれ以降浅薄なものになってしまったと思う。そして、学校教育が日本的集団心理を再生産する場となってどんどん日本的集団心理に適応した人間を培養していったと思う。会社も社会も学校の延長になってしまった。あとはあらゆる場面でその繰り返し。

以上、ここまでフリーライティングで書いてみた。で、日本人のメンタルを変えるには『日本を変革する1』で書いたように家族から変えなければならないと思う。親子であっても互いに独立した個人であることを認識する。カギとなるのはセクシャリティだと思う。『21世紀はセックス革命』と書いたように、こんな日本人でさえもセクシャリティは多様に発現すると思う。そのとき、軋轢が生じて、人々は改めて物事の本質について考えるようになると思う。そして、それは戦いになる場合もあると思う。それは単純化していえば、保守vsリベラルの戦いになる。戦いを嫌いだが、戦いを避けてばかりではいけない。自由を得るためには戦わなければならない。ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん、だ。

2020年7月11日土曜日

日本を変革する(5)まとめ

これまで『日本を変革する』というテーマで4回の記事を書いた。今回はそのまとめを書いていこうと思う。

第1回では『家族を変革する』で子供中心の家庭から夫婦中心の家庭へという提案をした。これは以前に書いた『21世紀はセックス革命の時代』とも関わっている。

日本はこれまでセックスにはあまり触れないようにして社会を築いてきた。よく言われるのは「子供の教育上良くない」という理由でいろいろな変革を日本社会は拒否してきた。それは日本社会が大人を基準に社会を構築するのではなく、子供を基準に社会を構築しようとする傾向が強いことを表している。

また、セックスは人間に自然に備わっている本能なので、なにも教えなくても自然にできるものだという勝手な思い込みがあり、そのためもあって性教育も疎かだし、セックスに関する必要な正しい情報も少ない。大人になれば食欲があるように性欲があって、セックスライフが生活の重要な一部分であるにも関わらず、日本人のセックスライフは貧しいものになっている。

さらに個人のあり方が日本の子供中心の家庭によって大きく阻害されている。日本の親子関係がそれだ。日本の親子関係の問題を最もよく表しているのが毒親だ。成人した子供であっても親が子供を独立した個人として認めずに、自分の影響下・支配下に置こうとする。子供は経済的に自立することではじめてその呪縛から解放されるのだが、親はその支配をなかなか手放そうとしない。そもそも、なぜ親はそうなってしまうのかというと、親自体が独立した個人として人格的な成長ができていないからだ。人間は孤独な存在であること、独立した存在であることを受容できていないからだ。これが個人だけにとどまるならば個人の問題として済む話だが、この傾向は展開されて、「日本人は皆同じ」という異常な同調圧力へと拡大されてしまうのが問題なのだ。

なので、まず、家族のあり方から変えねば、日本の根本は変わらないと思う。

次に、『市場を真っ当なものにする』ことを提案した。日本の経済は市場経済で資本主義だと多くの人は思っている。しかし、実際は違う。日本人は資本主義のルールをねじ曲げて特異な市場経済に変えてしまっている。

これは日本の儒教と似ている。幕末の儒学者、横井小楠は儒教を根本的に学ぶ中で日本の儒学が本来の儒教の姿をねじ曲げてしまっていることに気づいた。本来の儒教では禅譲といって能力主義だったはずが、日本の儒教では血縁主義になっていた。本来の儒学ではそれは大間違いであるのに、日本の儒学者たちはそのことを黙認してしまっていた。結局、日本では歪められた儒教が定着してしまっていた。そのことを指摘した横井小楠は日本人からは社会を根本から破壊する過激派と危険視されてしまう。

現在の日本の資本主義もそれと同じだ。市場経済・資本主義と銘打っていても、実際はかなり歪められたものになっている。最たるものが規制だ。新規参入を阻むために規制を設けて既得権益層が安定して利益を上げられるように歪めた市場にしてしまっている。その結果、日本経済は世界経済からどんどん遅れをとっている。不合理なことばかりやっているから当然そうなる。

国内のくだらぬ規制を撤廃して市場原理が正常に機能するように市場を真っ当なものにすることが解決策だ。市場原理が正常に機能するようなれば、日本の企業は自然と淘汰されて大企業と個人商店の2つに二極化すると思う。

3つめが『分権とネットワーク』だ。これまでの日本は工業国モデルで中央集権型のツリー構造だった。戦後の高度経済成長期はそれで良かった。しかし、知識社会へ移行するためには中央集権型のツリー構造では現実に対応しきれない。まず、中央集権型から地方分権型に変える必要がある。幹を作るときには中央集権型は優れているが、幹を作り終わったあとの枝葉をその地域に張り巡らせるときには地方分権型の方が優れているからだ。今の日本は枝葉を作る段階にある。

さらにシンプルなツリー構造だけでは真に豊かにはなれない。ツリーを横断するネットワークの活躍がそこには必要だ。(それは大脳のシナプスに似ている。言語とはまさにツリーを横断するネットワークだ。)問題はネットワークを張り巡らせるには時間が必要なことだ。あ、それと個人個人の一個人の能力の高さも必要だが、それこそインターネットがそれを可能にすると思う。時間を作るためには労働時間を定時できっちり終わらせることとテレビを見ないことだ。日本人の共通感覚を養うためにテレビは共通の話題として役立ってきた。しかし、多様な個人の生き方を認める社会なのだから、共通の話題はそれほど必要としない。ニュースを見る必要はあるが、バラエティを見る必要はない。可処分時間をネットワークのための時間や個人の能力を高める学習の時間に使うべきだと思う。

最後の4つめが『記録と蓄積』だ。とにかく、日本人は意思決定過程を記録するというのが苦手だ。その根底には道理で物事を決めることが苦手だというのがある。集団心理で雰囲気で物事を決めている。それは無謬性とイジメの心理だ。考えてみれば愚かな話だ。人間は完璧ではない、間違いをときには犯す。それを受け入れて、振り返って修正していくためにも、道理で考え、その記録を残し、後日検証して、改善していくという当たり前のことができていない。だから、それを改善するためには記録することだ。そして、振り返って改善してゆく。ひと言でいえば、PDCAサイクルだ。ちなみに、政治や社会のチェックを行うのがジャーナリズムだ。ジャーナリズムを正常に機能させるためには、ジャーナリズムは独立した存在でなければならない。ジャーナリズムにはお金を払おう。ただし、ジャーナリズムに対しても無批判であってはならないので、自分の目でよく確かめることを怠ってはならない。

以上、4つの提案を行った。こうやって並べると新しい日本のグランドデザインが見えてこないだろうか?まず、日本的家族の呪縛から解放して個人を確立する。歪んだ規制を撤廃して市場経済を正常に機能させる。中央集権型から地方分権にして頭脳を地方に分散する。同時にネットワークを張り巡らせて硬直したツリーを補完する。そして、記録して振り返ってシステムを改善してゆく。これらが21世紀の日本が進むべき道だと思う。


2020年7月5日日曜日

日本を変革する(4)記録・蓄積

日本を変革するシリーズの最後です。最初、家族を変えるから始まり、市場を変える、日本の構造を変えると続きました。最後は、それを永続的なもの、持続可能なものにするための方策です。それは記録すること、そして、その記録を蓄積することです。

(1)意思決定過程を記録する

日本に一番欠けているものは意思決定過程を記録しないことです。ひと言で言えば、公文書管理がなっていません。なぜそうなるかは簡単です。物事を空気で決めるからです。もし意思決定過程を記録に残してしまうと責任の所在がハッキリしてしまうからです。道理がなくて空気で決めているので、意思決定過程を記録してしまうと、もろに責任が当人に降りかかるからです。

物事を空気で決めてしまうのは、いくつか理由があります。一つは日本人は議論ができない。議論をケンカだと思っている。物事を道理で決めるためには議論が必要なのにそれができないのです。もう一つは物事を道理で考えることがとても苦手です。日本人は抽象的に考えるのが苦手なので、道理で考えるのも苦手です。ロジックを積み上げるのが苦手なのです。さらに物事の大小が区別できない。具体的なものなら大小が区別できるが、抽象的なものになると大小の区別ができない。しかも、大小の区別ができないから枝葉末節にこだわる。枝葉末節を大なるものと勘違いしている。さらにそれが枝葉末節であると他人から指摘されても、議論が苦手なので他人の意見を受け入れられない。自説を曲げられない。ロジックの組み上げは共同作業のはずなのに、まるで勝敗を決める将棋の対戦でもしているかと勘違いしている。そのため、議論そのものが成り立たない。以上のような傾向があるから、日本人は空気で物事を決めるのが良いと思っていて、それを実践している。

そして、空気で物事を決めてしまうと、意思決定過程を記録するのが困難になる。なぜなら、そこにロジック、道理がないからです。日本人の意思決定は、ただなんとなく、その場のモヤモヤ~っとした雰囲気で決まっただけなのですから。なので、記録ができないのです。

さらに、議論の行方を黙ってうかがっている人の中には損得勘定を働かせている者もいます。黙って議論を見守り、自分の得になりそうな機会があれば、自分の損得勘定を他者に悟られないように注意しながら、議論の方向をそれとなく自分が得になる方向に向かうように促したりします。こういうたちの悪い輩が黙っている者の中には隠れています。

さて、こういった問題は教育の問題だと思います。学校教育で複数人における議論と意思決定過程の記録をする訓練をしておくべきです。なんでも良いのですが、例えば10人の昼食費1万円が与えられたときに何を食べるかを意思決定させる練習をするのです。同じものなのか、バラバラなのか、あるいは、みんな同じ店か、ばらばらに買いに行くかすべて自由です。どういった選択をしてもかまいません。ただ、議論とそれを記録するということだけはしっかりやる。

私の周囲の大人たちを見ていても複数人での意思決定が苦手だと感じます。大抵、遠慮がちです。ここでの遠慮がちは美徳ではありません。空気をうかがっているのです。合理的な選択や自由意思を尊重しようという気配はありません。日本人が気にしているのは集団心理です。極端な言い方をすると、自分が集団からいじめられないように周囲に気を配っているのです。これは人間の心理というよりは、サルの心理に近いです。彼らは道理が大切なのではなく、ボス猿のご機嫌が大切なのです。

(余談ですが、日本人の心理には、『浦島太郎』の古来からいじめがセットされていて、現在も学校教育がそれを培養しています。日本人がより良く変わるためには、いじめを克服する必要があると思います。)

(2)データを蓄積する

さて、記録を習慣化できれば、あとはそれを持続することです。そうすれば、記録がどんどん蓄積されていきます。そして、記録を振り返ることで何らかの知見が得られるはずです。ところが、日本人は記録を蓄積することが苦手です。日本人の生き方は刹那的です。「今が良ければ良い、明日のことは知らない」という人が意外と多いです。

なぜそうなるのか?日本人は記録というよりは書類を作っていると感じています。つまり、極端に言えば、お役所に必要な書類を作っているのです。お役所に必要な面倒な書類作成だと思っているのです。だから、面倒な仕事は増やしたくない。お役所が要求する書類だけ作っていればいいという感覚です。

それともう1つ、日本人は物は重視しますが、情報や知識、そして人間を軽視しています。情報や知識は抽象的な部類に入るようで物のように大切に扱われません。そして、人間。人物は複雑です。人物は物ではありません。人格は複雑なソフトウェアです。日本人の人物評、人間観察力は単線的で浅いです。人間を軽く見ています。個人の自由意思や人権を軽視しています。日本人の大切なものは、物とお金です。知識や個人を軽視しています。世界が知識社会に移行したとき、日本はついて行けませんでしたが、理由は簡単で、知識を軽視したからです。日本の没落の原因のひとつがそこにあります。

話が脱線しましたが、繰り返しになりますが、記録を蓄積し、時々、振り返れば、そこから新しい知見が得られると思います。後はPDCAサイクルでシステムが改善されていくと思います。なので、徹底的にデータを蓄積していくことです。

まとめ
変革の方策はとてもシンプルです。記録すること。そして、その記録を蓄積することです。そして、時々、それらを振り返って改善してゆくことです。



2020年6月28日日曜日

日本を変革する(3)地方分権とネットワーク

日本を変革するシリーズの第3弾。前々回は家族を変革し、前回は企業を変革するだった。今回は地方分権とネットワークがテーマとなる。

(1)中央集権から地方分権へ

1990年代半ばあたりから言われていることだが、国を中央集権から地方分権に変える。集中型から分散型に変えることだ。ずっと言われてきたように道州制の導入だ。税の配分を中央に集中させるのではなく、地方に分散する。そして、分散するのは、お金だけではない。政治もエネルギーも食料も地方に分散する。

ただし、分散型システムは中央集権型システムよりは非効率ではある。中央ではなく、地方が意思決定していかなくてはならない。地方議会が意思決定して差配していかなくてはならない。ふざけた地方議会ではすぐに立ちいかなくなるし、不正が横行することもあるだろう。質の高い人材が地方で求められる。そういった人材をスカウトするか、地方で育てていかなければならない。

今までは良くも悪くも中央に任せていれば良かった。責任も中央にあった。しかし、これからは自分たち自身に責任がある。豊かになるのも、落ちぶれるのも自分たち次第だ。今までは国が集めたお金を地方にばら撒いていた。しかし、これからはそうではない。自分たちで集め、自分たちで配分していくべきだ。

これまでは中央から地方へトップダウンのツリー構造だった。これからは地方ごとにトップをおく分散型のツリー構造にする。簡単に言えば、英米の連邦制のようなものだ。


(2)ネットワークを育てる

経済的な豊かさを向上させるには市場原理に則って競争しなければならない。しかし、市場は万能ではない。市場原理に則れば、すべてが良くなり、満足な暮らしが手に入るというわけではない。地方分権では、市場ではなく、社会を育てなければならない。社会を育てるのは行政のようなツリー構造のものではない。様々なコミュニティや拠点が横断的に繋がるネットワークが適している。具体的には、大学であったり、NPOであったり、宗教法人だったりする。もちろん、小さな自治体が拠点になることもあるだろうし、文化施設のもたらす一時的なコミュニティが拠点にあることもあるだろう。いずれにしても、多様なコミュニティや拠点がゆるやかに繋がるネットワークが地方分権には適している。地方行政や地方議会がツリーだとするならば、様々なコミュニティがネットワークだ。そういったネットワークを増やしていくことだ。

そして、忘れてはならないのが、チェック機能や情報発信機能を担うジャーナリズムだ。権力が不正を働かないように常にチェックしなければならないし、地域の埋もれやすい情報をしっかりと発信するのもジャーナリズムの役割だ。民主主義社会を機能させ、より良く改善していくサイクルはPDCAと同じで、そこでチェック機能を果たすジャーナリズムの存在が欠かせないのだ。

(3)時間が必要だ。

さて、上記を実現するために日本にとって一番何が必要かというと、それは時間だ。日本人は兎角、枝葉末節にこだわる。些末なことに高い完成度を求める。そのため、多くの時間を失ってきた。会社人間と言われたように、日本人は会社が人生そのものだった。会社が日本人の多くの時間を奪ってきた。しかし、これからは違う。会社は人生の一部でしかない。会社のために使う時間はキッチリと限定すべきだ。そして、自由にできる時間を作ることで、その時間を会社以外のことに使うべきだ。つまり、社会を育てる時間に充てるのだ。

また、会社勤めをしていない若者や主婦はテレビを見ないことだと思う。共通の話題としてテレビ番組の話題を取り上げることが多い。(特にバラエティ。)しかし、マスを意識した日本のテレビ番組はあまりに幼稚で低俗すぎる。昨今のテレビ離れは良いことで、もっと時間を有意義なものに使うべきだ。

まとめ

今までは国がトップのツリー構造で、会社も産業のツリー構造の一部だった。日本は全体的にツリー構造だった。しかし今後は、まず中央集権から地方分権に変える。次に様々なネットワークを育てるのだ。つまり、日本をツリー構造から地方分権と多様なネットワークに変えるのだ。しかし、そのためには、可処分時間が必要だ。そこで重要になってくるのが残業を減らすこととテレビを見ないことだ。

余談
余談になるが、『21世紀の生存戦略』で私は人間知について書いたが、自分自身を知るためにまず最初にすることは、自分のログを残すということだ。自分自身の観察記録を残すのだ。そして、自分の傾向をデータ的に知ることで、次はこうしたらいいとか改善策を考えられる。そしてそれを試してみて上手く行かなかったら、また別の方法を考える。この繰り返しだ。つまり、PDCAサイクルだ。これは自分自身を知るためだけでなく、ビッグデータや科学的実験など幅広く応用されると思う。ハラリのいうデータ主義も要はログを残すことに等しい。なので、まず最初の一歩はログを残すことだ。すべてはそこから始まると言っても過言ではない。


2020年6月20日土曜日

日本を変革する(2)市場を真っ当にする

前回は日本を変革するためには家族を変えなければいけないと提言した。子供中心の家庭から夫婦中心の家庭に変えること、夫婦のセックスを家庭で行われる当たり前のこととして夫婦のプライベートな寝室をセッティングすることを提案した。また、親子関係において人権を導入して個人の自由意思や選択の自由を尊重することを提案した。親といえども子供を尊重してズケズケと立ち入らないような距離感をしっかりとることを提案した。というわけで、前回は家族がテーマだった。で、今回はガラリと変わって、企業がテーマとなる。

(1)大企業と個人商店の二極化へ
大企業に求められるのは効率だ。大量生産することによって単価を著しく下げることができる。しかし、それでは市場の需要すべてに応えることはできない。しかし、大企業が需要のすべてに応える必要はない。8割の需要に応えられればよい。残りの2割は他のより小さな企業、個人商店に任せればよい。小さな企業は効率は悪いが細かい要望には応えられる。しかし、多くの需要に応えられるだけのキャパシティはない。だが、元々、2割が最大限なのでそれで問題はない。大企業と個人商店はこのような相補関係にある。

「ちょっと待って!その個人商店というのは中小企業に相当するのではないか」という声が聞こえてくるかもしれない。ところがそうではない。日本の中小企業は新規参入を規制によって阻むことで、生産性が低くても、また細かな専門性がなくても生き残っていけるようになっている。市場の競争原理が働かないからだ。結局、その犠牲になっているのは消費者だ。消費者は中小企業の不満足な商品やサービスでも他に選択肢がないのでそれで我慢しなければならないからだ。ちなみに中小企業の従業員も犠牲者だ。大企業ならもっと合理化されて負担の少ない労働条件であるはずなのに、小さいがために一人当たりにかかる負担は大きくなってしまう。結局、儲かっているのは中小企業の経営者だ。規制によって競争がないので経営者としても手腕を問われないし鍛えられない。安い労働力を使役して儲けを出している。こんな不公正なことはない。

現在、ITや3Dプリンタなど技術革新によって個人の技術者や職人で扱える機械が増えてきている。そして、専門性は個人や小さなチームでこそ洗練・深化されてゆくものだ。すなわち、個人商店であっても十分に市場で通用するだけの環境が整いつつある。物量面では大企業に敵わないかもしれないが、少量であれば中小企業に負けないだけの力がある。そもそも不満足な商品やサービスしか提供できない中小企業がのさばれば、社会が進歩するはずがない。あぐらをかいたツケは、結局、社会にまわってくるのだ。それに比べて、個人が専門性を追求してそれで生業が成り立つならば、それは生き生きとした社会になる。みんな、組織に縛られて不自由に生きるよりは、個人が自由に生きられる方を望む。たしかに個人商店は風が吹けばすぐに倒れる不安定なものに見える。しかし、ネットワーク化されれば、あるいはブロックチェーンによってあたかも一つの組織であるかのように疑似組織化されれば、それほど不安定なものにはならないだろう。むしろ、かなり柔軟な対応が可能になり、変化に即応しやすくなる。大型戦艦の時代から空母というプラットフォームから発進した多数の戦闘機の時代に変わったように。

まとめると、不公正な規制で守られた中小企業を解体して、それらの人々を、大企業もしくは個人商店に収斂させてゆくのだ。


(2)市場を真っ当なものにする

かつて工業国だった日本の産業構造は垂直統合型だった。大企業の系列によって下請け、孫請と工場はツリー構造を成していた。しかし、最初は海外に工場が移転して次第に国内工場は骨抜きになり、しまいにはボロボロになってしまった。そして、いつしか本体である大企業までも外国企業に買収される始末となった。アップルのように技術とデザインだけ残して生産は中国で行うというようなファブレス化して大きな利益を出しながら生き残る企業もあるが、日本の企業には真似できなかった。なぜ真似できなかったのか?まず、デザインに関してはセンスが無かった。なぜそうなったかはデザインを軽視してきたからに他ならない。日本人は機能重視でデザインを軽視する傾向が強い。生活を生き生きとしたものにするためにデザインは重要なんだが、日本人の生活は全然生き生きしていない。次に技術を継承できなかった。なぜか?本質を見極める目、戦略を立てる目が無かった。じゃあ、何をしていたか?日本人は組織の中で席次争いをしていた。周りの空気を読んでできるだけ美味しい想いができるように雰囲気で意思決定していた。そんなことだから、高度な技術を究めてゆくなんてことはできなかったのだ。それから、もう一つ。失敗を容認できなかった。市場は試行錯誤と失敗の繰り返しだ。その中から成功がほんの僅か生まれる。ところが、日本人は少しの失敗を許さない。一度失敗したら落伍者の烙印が押される。今回は失敗したが、また次があるとはなかなかならない。これは市場原理に反する。しかし、それが日本ではまかり通る。これでは少しも良くならないし、いずれ競争に負ける。さらに、上記でも指摘したように規制によって公正な競争が阻まれている。これでは市場原理が真っ当に働かない。

戦後、高度経済成長を経験したときに投げかけられた疑問は「本当に市場経済で良いのか?市場経済では格差が拡大して貧富の差がさらに広がるのではないか?本当は資本主義ではなく社会主義の方が持続可能な経済体制なのではないか?」といった疑問だった。しかし、実際の日本の市場は公正な市場ではなく、規制によって制限された不公正・不公平な市場だった。右肩上がりのときはその非効率は見えにくかった。しかし、いったん下り坂になるとそれがいかに日本経済を、日本社会を歪めているかが分かる。いや、日本の中に住んでいる人には見えないのかもしれない。なぜなら不公正が日常になってしまっているからだ。

いまや日本の国家財政がボロボロであるように、日本の産業もボロボロだ。そして、その原因は日本自身にある。日本が進歩しようとしなかったからだ。なぜ、進歩できなかったかというと、市場を歪めてしまったからだ。結果、世界との競争に負けた。さらに国内では市場が歪んだままだから、格差がまだら模様に偏在することになった。

解決策は単純で、日本の市場を真っ当なものにすることだ。そして、普通にフェアに競争することだ。そうすれば、おのずと市場に合わせて日本の産業構造が変化してゆく。中小企業を守るなどといって市場を歪めて、結局は自分たちの首を絞めている。政府は個人を守りこそすれ、法人を守る必要はないのだ。市場原理によって不合理なもの(規制に守られた中小企業)は早々に退場させて、より合理的なもの(大企業と個人商店)に入れ替えるべきなのだ。日本は市場を規制で歪めるから、個人も経済も社会もダメになってしまうのだ。

まとめ
日本の企業を大企業もしくは個人商店に二分化する。言い換えれば、規制に守られた非効率な中小企業を退場させる。現代は組織に縛られない生き方を望む者が増えたはずだ。そして、個人でもやっていける環境(←ITや3Dプリンタなど)が整ってきた。

次に日本の市場から不合理な規制を無くし、フェアな競争原理が働くように市場を正すことだ。なんなら市場を監視する公的機関を設けてもよい。ただし、中小企業の経営者は既得権益を守るために政治家に働きかけたりするだろう。政治はそういったものをはねつけるだけの力が必要になる。おそらく、それはネットを介した市場の力がそういった力になると思う。なぜなら、非効率な中小企業を退場させた方が市場としては合理的でかつ利益を生むからだ。市場は万能ではないが、市場の力が正しく発動すればこのような不合理は排除できると思う。日本では、市場はまだ真価を発揮していない。

2020年6月13日土曜日

日本を変革する(1)夫婦中心の家庭へ

私はこれまで『21世紀はセックス革命の時代』、『21世紀は格差社会の時代』、『21世紀の生存戦略』の三本の記事を書いてきた。(それと万人向けではない個人的な推奨として『仏教のすすめ』も書いた。)セックス革命では人々の性が大きく変わると予想した。格差社会では格差が生じる問題と対策を論じた。生存戦略ではこれからを生き抜くための個人の生存戦略を提示した。これらは日本のみならず世界的な視野で書いた。それで、これからはしばらく日本を対象として、日本を変革するための方法を提示しようと思う。

日本を変革するためには、まず、第一に日本の家族を変革しなければならないと思う。

(1)子供中心の家庭から夫婦中心の家庭へ

日本の家庭は子供中心の家庭だと言われる。実際にそうだと私も思う。例えば、大人になれば人間には性欲があって夫婦はセックスするものだが、子供にはその事実がひたすら隠されている。つまり、夫婦が寝室に入って睡眠するだけでなくセックスしていることは隠されている。子供はセックスがいかなるものかを知らなくて、おぼろげに大人たちが何かをしていることさえも知らないし知らされない。睡眠しているだけでなく、大人たちが愛を交わしていること、愛を交わすことの必要性・重要性を教えられずにいる。これは家庭だけでなく社会にまで拡大されている。家の外で、公共の場で、社会で、恋人たちがキスしたり抱擁したりすることを隠そうとする。大人であれば、人間であれば、当然行われる行為、性欲を満たし愛を交わす行為であるはずなのに、それがあたかも悪いことでもあるかのように隠されている。社会は子供のためだけのものではない。社会は大人と子供のためのものだ。いや、積極的に言えば成人した人間のためにある。子供はまだ未熟であり、成長の途中にあるからだ。なのに、その成長の途中にある子供に合わせて日本は社会を作ってしまっている。本来ならば、基本的には成長した大人のための社会にすべきだ。

だから、家庭を子供中心の家庭から夫婦中心の家庭へ変えるのが良いと考える。そこで重要になるのが寝室だ。夫婦は寝室で寝る。子供は子供部屋で寝る。夫婦の寝室に子供は、例えば夜9時以降入ってはいけない。子供には、大人になれば夫婦は寝室で愛を交わす夜の営み、セックスがあること、それが必要なことを上手に教えなければいけない。一方、親は子供の性の開花に合わせて適切に性教育を行った方が良い。(もちろん、性教育を専門家に任せるのも選択肢としてはあると思う。)また、子供がどのような性を開花させても親は子供の応援をすべきだと思う。ただし、親子であっても、性はプライベートなことなので、親にとっても子供にとっても、とても慎重にデリケートに扱わなければいけないが・・・。

ともかく、大人になれば人間には性欲がありセックスするということを家庭に組み込み、子供にもちゃんと教えるべきだと思う。

(2)親子関係と人権の尊重と魂の孤独

もう1つは日本の家族は親子の距離の近さがある。とにかく親子の距離が近い、近すぎる。親はまるで子供を自分の所有物か、自分の一部と思っているフシがある。子供は自分と独立した人間であるのが当たり前なのに、まるでそうではないかのように近しいものとして扱う。ひとによっては親は子供の自由意思や選択の自由を頭ごなしに否定することさえある。親が「細く長く生きるライフスタイル」であるのに対して、子供は「太く短く生きるライフスタイル」を選択したいと思っているのに、親は子供に自分と同じ「細く長く生きるライフスタイル」を無理強いしたりするなんてことがざらにある。どんなライフスタイルを選択するのも子供の自由のはずなのに、だ。どうも親は子供を自分の分身とでも思っているようだ。こういったことは親が子供との距離を近いものと考えていることに原因があると思う。

私の提案としては、人権というラインを引くことが解決策だと思う。たとえ親子であっても人権をナイガシロにすることは許されない。個人の自由意思の尊重、選択の自由の尊重などだ。これは子供だけでなく親に対しても適用される。子供に人権があるように、親にも人権がある。互いの人権を尊重すべきだ。

親子の間に人権のラインを引くことをすごく他人行儀だと考えるかもしれない。しかし、私は親が子供の人権を踏みにじることの方が問題だと思う。日本人は子供の自由意思を軽んじる傾向が強い。例えば「失敗するのが目に見えているから、正しい方向に導いてやるのだ」というパターナリズムがまかり通る。しかし、私は失敗のリスクをサジェストしながら、子供に選択の自由を与えるべきだと思う。「失敗するのは良くない」と考えるのが違うと思う。失敗を経験することも大事だからだ。また、納得することも大事だからだ。ま、これは一例に過ぎない。愛はギフト、みかえりを求めずにただ与えることであって、みかえりを求めて与えるのは交換だ。親が子供を愛するならば、みかえりを求めずに与えることを学ばねばならない。親の意思を子供に押しつけるのは愛ではない。それは支配欲だ。子供は独立した人間であり自由意思を持った存在であり、親の一部ではない。支配してはならない。子供が糸の切れた凧のようにさ迷っても、それが子供の自由意思ならば子供の自由意思を尊重すべきだ。もちろん、子供が救いを求めてきたら親の愛でもってサジェストしたりサポートしたりすればいいが。

ともかく、日本人の親は子供との距離が近い人が多い。そういった親は人権というラインを引いて、子供との距離をとるべきだ。

ひとによっては親が子供の内面を傷つけるようなことを平気で言う人もいる。もっと酷くなれば毒親になる。たとえ親子であっても相手の心を傷つけるようなことを言っていいはずがない。ところが、日本人は子供の心を傷つけることに無頓着な親が多い。すべては親子関係の距離が極めて近いという認識に基づいている。しかし、これは間違った認識だ。実際は人間の魂は孤独なものだ。それぞれの魂は繋がってはいない。繋がっていないものが近づきすぎればそこに衝突や摩擦が生じるのは当たり前の話だ。日本人は魂の孤独と向き合うことを恐れている。その恐怖と不安が親子の魂はつながっているという誤った認識、願望になっている。その結果、近すぎる距離は摩擦や衝突を起こす。


まとめ
日本を変革するためには、まず、日本の家庭を子供中心から夫婦中心に変える。そして、家庭生活にはセックスを組み込む。具体的には夫婦だけの寝室を作る。家では落ち着いてセックスできないのでラブホテルを利用するという夫婦がいるが、家で落ち着いてセックスできる環境を作る。

ちなみに英国のコンドームメーカーが50カ国で夫婦間での年間のセックス回数をアンケート調査した結果、日本は最下位の50位で年間約45回だった。49位は年間約90回であり、1位は110回くらいだった。つまり、日本人の夫婦は世界の夫婦と比べると年間のセックス回数が約半分なのだ。日本だけ異常に回数が少ないのだ。労働時間の長さが影響もしているがそれでも日本よりも労働時間が長い国でも日本の倍以上セックスしている。家庭で夫婦が同じベッドで寝ないことも大きな要因だと思う。日本は戦後に布団で寝る文化が生まれたが、布団は基本的に一人寝用だ。一方、世界ではベッドや寝台の文化で夫婦はともに寝る。子供が入れない夫婦の寝室がないのも日本の特徴だろう。日本では親子で川の字になって寝る。夫婦のセックスは子供がいない隙きにチャチャッと済ませるなんてことになっていないだろうか?二人だけの寝室でじっくりと愛を交わすセックスなんて無くて、とにかく子供がいない隙きに性欲を処理してしまうなんてことになっていないだろうか?そもそも日本人はセックスを悪しきものと考えていないだろうか?日本人の性への理解が性悪説になっていないだろうか?日本のアダルトビデオを見ると女性を侮辱する内容が世界のポルノに比べると著しく多くないだろうか?セックスに対する基本的な理解やエロスの複雑さを日本人は理解していないのではないだろうか・・・。

次に親子関係に距離をとる。具体的には人権というラインを引く。子供の人権を尊重する。子供の自由意思や選択の自由を尊重する。子供に親の意思を無理強いしてはならない。親の孤独の埋め合わせとして子供を利用してはならない。親は自分の魂の孤独と自分自身で向き合うべきだ。

私が好きな映画に『リンカーン』があるのだが、私がこの映画が好きなのはリンカーンと夫人との喧嘩のシーンがあるからだ。いつもは夫人に優しいリンカーンが極めて大事な状況で夫人を突き放す場面があるのだ。それは魂の孤独にまつわる話で、たとえ夫婦であっても魂の孤独からは逃れられないことを知るのには格好の材料だからだ。リンカーン夫婦に夫婦愛がないわけではない。むしろ、夫婦愛があるからこそ、相手を信じているからこそ、突き放すという、これは映画を見てみない分からない極めて絶妙な場面があるのだ。夫婦は人生の同じ時間を過ごすが、親子はズレた人生の時間を過ごす。つまり、子供には子供の人生がある。日本の親子の距離はもっと離れていてしかるべきだと思う。

2020年6月6日土曜日

仏教のすすめ


1.別の生き方ー文明社会批判

私は文明社会だけが人間の唯一の生き方だと決めてしまうのはリスクが高いと思っている。人間の価値観は1つではないと思うからだ。人間は様々な価値観で自分が好きなように生きていっていい。日本国憲法でも前文で個人の幸福の追求は自由だと謳っている。それに生物は植物や動物、昆虫や細菌など様々に異なった形態で生存戦略をとっている。たとえ環境が大きく変化しても、いずれかの種が変化に対応できるだろう。生物は多様な生存戦略をとることで生物全体が絶滅するリスクは軽減している。だから、人間も文明社会だけが唯一の生き方だとは決めつけない方がいいと思う。

もちろん、文明社会も単一の文明社会とは限らない。欧米型もあれば中国型もあるだろう。イスラム型やアフリカ型、インド型や東欧型もあるかもしれない。様々な文明社会があってもいい。(とはいえ、グローバル化によって文明社会はどれも似たようなものに収斂しつつあるのだが・・・。)ただし、個人の自由でそれらを選択できればなお良い。世界人権宣言では個人の自由が謳われているが、実際にそれが世界の隅々で実践されているかは分からない。

ともかく、話を戻すと、文明社会だけが唯一の生き方だとは決めつけない方がいい。では、文明社会以外にどんな生き方があるのか?

2.仏教のすすめ

文化人類学者のレヴィストロースは未開社会にも文明社会に匹敵する人間のあり方を提示した。文明社会が絶対ではなく、未開社会という生き方もあることを示すことで文明社会を相対化した。だから、文明社会から離れて、ソローのような森の生活を選択するのもありだと思う。私自身は仏教のような生き方を推奨したい。

ここで話は随分飛ぶが、おおまかにいって、農業が興って人々が文明を築き始めたときに今日でいう宗教が生まれたと私は考えている。それ以前は狩猟採集生活でアニミズムとシャーマニズムが人々の精神生活を占めていたと思っている。ただし、アニミズムは当時の人々にも理解できた一方で、シャーマニズムは当時の人々にさえもよく分からないものとして捉えられていたと思う。シャーマニズムはシャーマンにしか分からなかった。いや、シャーマンさえもその全体像を把握しているものは少なかったのではないかと思える。おそらく、シャーマニズムは探求の途上にあったのではないかと思うのだ。それが比較的整理されたのが仏教ではないかと私は考えている。つまり、仏教はシャーマニズムの継承者ではないかと考えている。

ところで、日本では仏教は大きく誤解されていると私は思っている。日本で仏教というと「悟りを開く」ということだと多くのひとは考えると思う。「悟りを開く」ことで「心の平安を得る」というのが単純化された図式ではないかと思う。でも、それは本来の仏教とは随分違うのではないかと私は思う。人間である限り、苦悩やストレスからは完全には逃れられないと思う。

私の考える仏教は、人間には魂があって魂が身体に宿っていると考えていると思う。そして、魂が身体から離れるとき、すなわち、死ぬとき、一般人は魂が輪廻に絡め取られるのだが、修行者は魂が輪廻に刈り取られずに、魂が輪廻から解放されるようにする、いわゆる解脱するというのが、仏教の目標ではないかと思う。だから仏教では解脱するために様々な修行をする。これは他の宗教が生前の行いによって魂が天国へ行くか地獄に落ちるかに似てはいるが、仏教はそれとは大きく異なると私は考えている。いずれにしろ、仏教は、人間には魂があり、魂が輪廻から解放されることを目指すものだと思う。

3.文明と自然の往還

話がさらに脱線するが、動物は自然環境に適応するように生まれついている。一方、人間は文明を構築することで環境を大きく変えてしまった。仏教の考え方を適用すれば、現在の畜産における家畜の惨状はいずれ輪廻転生した人間たちにもはね返ってくる。そういう意味では、ヴィーガンは案外仏教的な考え方に近いとも言える。ともかく、動物が動物のままで幸福に生を全うすることを考えると、たとえ弱肉強食であっても自然環境で暮らすのが幸せではないかと思う。人間が地球全部をわがものとして文明で覆い尽くすのは誤りであり傲慢ではないかと思う。動物たちが自然に暮らせるように地球の半分くらいの土地を野生のままに残すべきではないかと思う。現在のアマゾンのように。私は南米大陸かアフリカ大陸かオーストラリア大陸か、いずれか1つの大陸を自然に戻すべきだと思っている。もちろん、その土地で生まれ育ち暮らしている人たちにとっては許しがたいことだと思えるだろうけれど・・・。

ただ、仮にそういった自然大陸を作ったとき、文明社会から離れて、そこで再び狩猟採集での暮らしをひととき選ぶ人たちも出てくると思う。もちろん、そこでの暮らしは命がけだし、実際に生命を落とす人たちも出てくると思う。しかし、それでも生の活力を求めて自然大陸での暮らしを選ぶ人たちが出てくると私は確信している。日本人は里山的な農村暮らしが自然な生き方だと思いがちだが、真に自然な生き方とは農業が興る以前の狩猟採集時代だ。真に自然な生き方は農業ではない。狩猟生活こそ自然な生き方だ。

4.まとめ

随分、支離滅裂になってしまった。言いたいことは2つだ。まず、大前提として文明社会が人間の生き方のすべてではないということ。文明社会とは別の生き方として、一つは仏教の生き方があるし、他にも自然の中で狩猟採集生活を生きる生き方がある。これら別の生き方は個人の生き方であり、個人の選択の自由だ。私は別の生き方として仏教を推奨する。

個人は文明と自然の往還が可能だと考える。もちろん、文明社会をより良きものにするために尽力することも可能だ。ただし、それは個人の生き方であって、宗教団体を作って文明の中に小さな共同体を作ることではない。文明社会をより良きものにするのは一市民としてだが、一個人の生き方としては仏教や狩人を選択もできるということだと思う。文明と自然を融合しようとしても難しく(←これまで融合しようとして人は宗教団体や思想団体、あるいは思想的な農村を作っては失敗を繰り返してきた。自然な生き方として農業にこだわる人が多いが、何度も言うが農業は決して自然な生き方ではないと思う。)、文明と自然を分離して、個人は文明と自然を往還すればいいと私は思う。

英国の哲学者にしてSF作家のオラフ・ステープルドン(1886-1950)が1930年に書いた小説『最後にして最初の人類』の中で、文明と自然との往還を描いた箇所が物語の最後の方にあります。著者の視座の遠く未来まで見通せることに脱帽です。こんな偉大な先人が、しかも1930年にいたことに驚きます。

2020年5月30日土曜日

21世紀の生存戦略

私はかつて『日本の未来戦略』という小論を書いた。あれから10年が経過した。今回はその続きに近いものを提案しようと思う。それは個人レベルの生存戦略だ。『日本の未来戦略』では日本の生存戦略を提示した。今回は個人の生存戦略を提示したい。21世紀に個人が生き生きと生きていくための生存戦略だ。

1.専門知

第一に個人は得意分野、特技を究めることだ。つまり、その人その人の専門的な特技を養うことだ。技術者であってもいいし、職人であってもいい。その人が他の人よりも抜きん出ているものを磨き上げることだ。知識社会的な言い方でいえば、専門知を磨くことだ。逆な見方をすれば人間の能力には限界があるから、すべての事柄、知全体に精通した全知全能にはなれない。知全体の大きさは人間の能力を遥かに超えるものだ。いずれかの部分的な知に特化してその部分知を究めることだ。それが専門知だ。


2.全体知

次に必要なのは全体知だ。先程の「人間の能力には限界があり、全知全能にはなれない」という言葉とは矛盾するようだが、細々とした専門的な細部は知らなくていいので、おおまかな知の全体像を掴むことだ。これは昔風にいえば教養になる。あるいは、もっと限定していえば、人格形成に関わる教養ということになるかもしれない。ただし、私が考えているものはそれとは少し違う。私は人間の全体知は二段階あって、マトリックスとライブラリーというように捉えている。

マトリックスとはその人の人格を形成している主要な知を想定している。思想に近いといえるかもしれない。しかし、それは思想とは少し違う。思想というような首尾一貫したものではない。脳のメインメモリに格納されている知というものに近い。一方、ライブラリーは脳の補助記憶に格納されている知だ。普段はそんなに使われないが知識としては知っていて、ノートなど外部記憶を見れば思い出して使えるような知だ。これは様々なジャンルの本を読むことで積み足していける。(とはいえ、どこかで記憶の限界があるとは思うが。)

なぜ、マトリックスと思想を区別するのかというと、現実への対応の仕方が違うからだ。私は現実は人間の知を超えるものだと思っている。人間がいくら頑張っても人間の知が現実を囲い込んで、現実を人間があたかも全知全能の神であるかのように把握・掌握できるとは思っていないからだ。傲慢なインテリになるとまるで三国志の諸葛孔明のようにすべてを見通せるような気になるかもしれない。しかし、残念ながら、人間の知よりも現実の方が上回っている。現実と理論がズレるとき、間違っているのは現実ではなく理論だ。まして、知に思想や人格など首尾一貫性を持ち込むと現実に対応しずらくなる。もちろん、可変で可塑的なマトリックスだとしても限界はある。人間にとって現実は未知であったり不可知であったりするからだ。しかし、マトリックスは思想と比べれば、もっと柔軟に対応できると思う。マトリックスをできるだけ広げれば広げるほど厚みを増せば増すほど現実というボールをレシーブするときの足場が広く堅牢になると思う。とはいえ、それも同じ次元であればの話で、次元が異なればマトリックスもまったく役に立たないなんてことはよくある。だから、人間は現実に対して謙虚になった方が良い。所詮、人間は神にはなれない。

とはいえ、それでも私は、人間は「ホモ・ラーニング(学ぶ生きもの)」だと思うので、限られた時間と能力を最大限活用して、知を学び続けて、人間が捉えうる全体知たるマトリックスとライブラリーをより豊かなものにしつづけていくと思う。生きている限り・・・。

3.人間知(ヒューマン特性)

人間はただ単に学ぶだけでは生きられない。生活しなければ生きられない。だから、現実には生活しながら学ばなければならない。しかし、人間はコンピュータではない。電源を入れてデータをロードすれば学ぶ、なんて風にはできていない。学習に集中できるときもあれば、集中できないときもある。体調が良い日もあれば悪い日もある。人間はマシーンではない。さらに人間は合理的にはできていない。認知科学でいえば、エコンとヒューマンのような違いがある。人間は機械と比べると人間の特性がある。

私たちは人間でありながら、限られた資源と時間の中で効率良く学ばねばならない。そのためには人間の特性をよく知らねばならない。しかも、人間の特性といってもかなりの個人差がある。他人に最適な方法が自分にも通用するとは限らない。結局のところ、「汝自身を知れ」ということに行き着く。自分自身をよく知って、自分に合ったやり方を見い出さねばならない。そして、生活に合わせたり、あるいは生活を最適化したりしながら、試行錯誤を重ねて自分に合った学びの方法を発見し実践していかねばならない。(巷でいうライフハックに似ている。)

4.まとめ

21世紀の生存戦略は3つだ。1つめは専門知を身につけること、2つめは全体知(マトリックスとライブラリー)を積み重ねること、3つめは人間知(ヒューマン特性)を把握することで自分の能力を最大限引き出して専門知と全体知を学習してゆくことだ。つまり、人間である自分自身を知ることだ。この三位一体が21世紀を生きる個人の生存戦略の主要な柱となる。


2020年5月23日土曜日

21世紀は格差社会の時代

1.21世紀は格差社会の時代

21世紀は格差社会の時代になると思う。なぜそう思うかの理由は単純で、経済学者トマ・ピケティが『21世紀の資本』で言っている通りだと思うからだ。経済は通常ならば格差が生じて当たり前で、戦争後の僅か数十年がr<gとなる特別な期間であって、通常はr>gとなるからだ。

そして、そこで問題になるのもピケティが指摘している通りで、世襲資本主義であり、タックスヘイブンで課税逃れが起こることだ。それに対する処方箋もピケティが指摘している通りで国際的な包囲網を構築するしかない。しかし、これが困難なこともピケティが指摘している通りだ。しかし、困難であっても国連のような国際機関を創設してなんとか包囲するしかないと私は思う。しかし、そんなものが構築されるには長い時間を要してしまい、構築される頃にはどうしようもない格差で手も足も出ないかもしれない。


2.日本の不公正を是正する

市場経済自体は大きくは間違っていないと思う。問題は不公正な市場である場合が問題だ。日本に話を限定すると、日本の場合は規制が市場を不公正なものにしている。よく言われるように、規制によって新規参入を阻み、既得権益層だけで利益を享受していることが日本では往々にしてよくある。特に中小企業などで不合理な経営をしているのに、なぜか経営が成り立っているなんてことがよくある。それは規制によって新規参入を阻むことで、経営者が高い利益を貪っているからだ。同じ業界での他国の状況を比べてみると分かる。他国では大企業化していて合理化されていて、品質もコストも労働条件も良いというすべてにおいて良好な業界が、日本ではまったく逆で品質もコストも労働条件も悪いのに経営者だけが利益を上げているなんてケースがある。合理的な意味での経営努力なんてものはなく、旧態依然の業態でありながら、新規参入をさせないことで、消費者は仕方なくその商品を買わざるをえない状況を作り、利益を生み出している。そして、デービッド・アトキンソンさんが言っているように日本は中小企業の割合が大きすぎる。そういった中小企業が不合理・非効率でも成り立つのは規制で守られているからだ。21世紀にもなって日本は何をやっているんだかと思う。

日本はそういう不公正な市場を正さねば、世襲資本主義が蔓延ってしまう。正当な競争の結果、格差が生じるなら諦めもつくが、はなから不公正な競争によって生じた格差ならば到底許すことはできない。日本の格差を是正するのはまず不公正な業界を正していくことから始まると思う。不公正を正していけば、結果的に日本の企業は二極化すると思う。極端な言い方をすれば、中小企業を解体されて、大企業に収斂するか、職人やエンジニアなどの専門性を持ったフリーランスになるかの2つになると思う。大企業は効率性が求められるので細かいことには限界がある。一方、フリーランスは細かい対応は可能だが量的な限界がある。互いが補い合う関係になると思う。

少し見方を変えれば、日本は災害大国でもあるので、分散型社会が適していると思う。工業社会の頃は中央集権で幹線で結ぶことで効率を良くすることができたかもしれない。しかし、これからは分権・分散することで効率や便利さが多少犠牲になるかもしれないが、それぞれが独立してやっていくことになると思う。それは経済だけでなく、政治も社会もそうなると思う。いや、そうなって欲しいと思う。

3.まとめ

市場経済自体は悪いものではないと思う。そして、原理的に格差が生じてしまうのも仕方がないといえば仕方がない。それは国際的な包囲網で是正するしかない。日本に限定すれば、市場に不正を持ち込むことで不当に利益を上げることだ。日本の解決策は市場を公正にすることだ。

20世紀はブルジョアとプロレタリアートの戦いと形容されがちだが、21世紀は特権階級と市民との戦いといえると思う。2つは似ているようで違う。20世紀は社会主義の実験が行われて多くの失敗を経験した。21世紀は市場経済を否定するのではない。しかし、市場経済は完璧ではないから修正はこれからも必要だ。市場経済そのものを否定するものではない。21世紀はグローバルに展開した市場経済を公正にすることだ。世界の富裕層がタックスヘイブンなどの抜け道を使って納税から逃れて不正に資産を貯め込んだり、日本の特権階級のように規制によって不公正な市場を作り出して不当に利益を貪ったりすることを正すことだ。21世紀の課題はグローバルな市場経済システムを公正なものにすることだ。


2020年5月17日日曜日

21世紀はセックス革命の時代

1.21世紀はセックス革命の時代

21世紀はセックス革命の時代だと思う。

世界では1990年代からIT革命が始まったし、日本では1995年のWindows95からインターネットが普及しはじめてIT革命が始まったと思う。コンピュータ技術の進歩はこれからも続くと思う。

一方、1991年にソ連崩壊で冷戦構造が終焉を迎えて、2000年に中国がWTOに加盟して世界は本格的にグローバルな市場経済に突入していったと思う。そして中国が米国をも凌ぐ超大国になりうるまでに成長した。しかし、世界の人々の暮らしは全体的には豊かにはなったものの、ピケティが指摘するように長いスパンで見ればこれまでの経済に見られたように格差社会になりつつある。

このように人類の文明社会は技術革新によって目まぐるしく変わりながら、前進(?)しつづけている。

20世紀後半は資本主義vs共産主義の経済革命の時代だった。21世紀は何かというとセックス革命の時代だと思う。それはいわば、保守vsリベラルの構図だと思う。極端に言ってしまえば、性的マイノリティを容認するか拒絶するかの違いだ。多様か、一様かの違いでもある。

ところで、日本人は戦後の高度成長期からこれまでは一様だった。一億総中流だった。皆、日本人は同じだという無意識があった。家族のような無意識だ。テレビがそれを後押しした。同じテレビ番組について話す。そして、みんな、似たように感じるといった具合に。しかし、これからは違うと思う。テレビを見ない人たちが増えている。何を考えているか分からない。いや、それでいいんだ。何を考えているか分からない人たちともそれなりに助け合ったり、あるいは干渉せずに共存してゆくのが社会だ。しかし、「日本人はみな同じだ」という古い意識の日本人とそうではない多様な考えの日本人との間で軋轢が生じるようになると思う。先程、話した保守vsリベラルの構図だ。これは日本に限らず、様々な国で見られる現象だと思う。特に問題なのは強固な保守主義の国だ。イスラム教や中国のような国だ。そのような国がどうやって保守とリベラルが折り合いをつけてゆくか、あるいはどちらかが優位に立つかは分からない。

一応、断っておくと、私はリベラルだ。多様な社会が良いと思っている。

とにかく、広い意味で倫理が問われる局面が増えてくると思う。そして、摩擦を引き起こす大きなものとしてセクシャリティの問題が突出するのではないかと思う。

2.子供から大人へ:秘められた性から目覚める性

私の好きな映画に『Vフォー・ヴェンデッタ』がある。その中で象徴的な場面がある。レズビアンの女の子が両親にガールフレンドを紹介するんだが、父親は怒って喚き散らし、母親は悲しみに泣きじゃくってしまい、ついに父親は女の子の赤ん坊の頃の写真をゴミ箱に投げ捨てるという酷いシーンがある。この両親にはレズビアンのことが理解できなかった。おそらく、レズビアンを含めたLGBTQを理解・許容できなかったのだと思う。

人間というのは子供から大人へ成長する過程で性に目覚めてゆく。子供の頃は性は種子のように秘められた状態だ。しかし、次第に大人に成長することで性が成熟して開花する。それはまるで種子から芽が出て花を咲かせるようなものだ。どのような花を咲かせるかは子供のときには分からない。成長して花開いて初めてその子がどのような花なのか分かる。親はマジョリティの花でも、子供はLGBTQなどのマイノリティの花を咲かせることは往々にしてある。いや、マジョリティの花だって実際は多種多様だ。私たちが思っている以上に人間の性は多様だ。ジャングルのように様々な花があるのだ。旧体制の社会がそれをある一定の型に押し込めていたにすぎない。

ちなみに未成年への性行為が禁じられるのは、未成熟な人間に性行為を行うことで傷つけることになるからだ。まだ心身ともに成長していないからだ。

さて、親は子供がどのような性を秘めているのかは分からない。しかし、子供の成長とともに性が次第に展開してゆくことで子供の性がどのような性状のものか、分かってくる。ところが、親は子供の性が自分たちと同じものだと考えがちだ。しかし、親子であろうと性状が異なることは大いにある。そのため、先の映画のような悲劇が生まれる。

仮に、あなたが親だとして、子供がLGBTQだったら、あなたは子供を応援できるだろうか?私は子供を愛する親ならば、子供がどのような性であろうとも応援するのが当然だと思う。しかし、(こういう言い方は適切ではないかもしれないが、)それは綺麗事では済まされない。性というのは奇態なものでもある。たとえば、身体において性器以外の部位は顕花植物のような美しさがあるが、性器は隠花植物のような奇態さがある。あるいは、たとえばアナルセックスがデフォルトだったりするのを親の立場から応援することができるだろうか。答えはイエスだと思う。応援すべきだと思う。(もちろん、それは当人の問題で親がとやかく口出しすることではないが。)ともかく、知識として知っておいた方が良いと思う。

ところで、以前、20歳女性と50歳男性の年の差カップルに対してロリコンじゃないかと言った知り合いがいた。私はそれは違うと言ったが、その場では面倒なので説明しなかった。成人の年齢になった人間に性的魅力を感じることは別にロリコンではない。20歳であろうと30歳であろうと関係ないし、年の差がどんなに離れていようと関係ない。まだ成長していない未成年に対して性的魅力を感じることがロリコンだと思う。ところで、人間の成長はなにも成人になったからと言って止まってしまうわけではなくて、経験を積むことで徐々にでも成長してゆくと思う。ただ、性的には成人になる頃に大人として成熟するということだと思う。


時間と文才がないのでとりとめもなく書いた。20世紀後半は世界は資本主義か社会主義かの戦いだった。21世紀はおもにセクシャリティにおける保守かリベラルかの戦いになると思う。それは国のなかにおける戦いだったり、国と国との戦いだったりする。とりあえず、今は日本ではインターネットは分断されずに世界と繋がっている。性の知識は拡散する。国によっては国外との繋がりを遮断するところも出てくるかもしれない。その場合、性の知識は広まりにくくなる。しかし、これほど性が革命的に変わった時代は人類史上無かったと思う。この流れは止めるべきではない。なぜなら人間の可能性が大いに広がったからだ。多様性は可能性を見せてくる。そして、これまでは抑圧されてきた人々が個人の幸福の追求を邪魔されることなく行えるのは喜ばしいことだからだ。21世紀が幸福な性革命の時代になることを願う。

ちなみに性的に放縦になることを薦めているのではない。私は個人的にはどちらかというと禁欲を薦めている。大人になると食欲のように性欲がある。性欲が生活に組み込まれる。セックスライフ。食生活があるようにセックスライフがある。セックスライフについてはまた改めて書きたい。とりあえず、ひとまず筆を置くことにする。







2013年6月19日水曜日

アニミズムとシャーマニズム

久しぶりに宗教について再び考えてみます。(前回、宗教について考えた記事はここを参照して下さい。)

さて、宗教とは何でしょうか?この問いに対して私なりの見解を述べてみます。今回は歴史的な経緯としてどのように宗教が生まれてきたかをおおざっぱに考えます。ただし、これから述べる見解は私の推測であって、学術的な裏付けはありません。


1.アニミズムとシャーマニズム

まず、遥か昔、文明社会が生まれる以前の人間社会には、最初はアニミズムとシャーマニズムがあったと考えています。

アニミズムとは精霊信仰のことで自然の中などいろんなところに精霊が存在するという考えで、次第に精霊を神秘的なものとして敬うようになっていったのだと思います。現代人の私たちも雄大な自然を見たりするとそこに何かしらの神々しさを感じたりしますが、アニミズムはそのような人間の基本的な感覚がもとになって形成されたのだと思います。

次にシャーマニズムですが、実はシャーマニズムとは何なのかはよく分かりません。シャーマニズムはシャーマンという専門家が行なっていたもので人を呪ったり癒したりしていたようです。例えば呪医(メディスンマン)といわれるように治療師であったり、黒魔術師といわれるように破壊者でもあったりしたようです。ただし、それはシャーマンが生活するための生業に過ぎず、シャーマンが実際に何をしていたのかはよく分かりません。学者の研究で共通して分かっているのはシャーマンは脱魂と憑依という技術を持っていたらしいということだけです。それらが本当は何を意味するのかよく分かりません。しかも同時代に生きた周囲の普通の人々でさえ、シャーマンが何をしているのか、シャーマニズムが何なのかよく分からなかったようです。

いずれにしろ、話を整理すると、文明社会が出現する以前は宗教と呼ばれるようなものとしてはアニミズムとシャーマニズムの2つがありました。ところが、人類社会が文明社会に変化したときにそれらも大きく変容していったようです。そのとき、いわゆる宗教が出現したのだと思います。


2.アニミズムから宗教へ

さて、人類社会が文明社会に変化したとき、アニミズムは一神教や多神教など神を崇拝したり信仰したりする宗教へと変わっていきました。都市化した文明社会ではアニミズムは次第に体系化されて、多神教や一神教に収斂していったのだと思います。例えば、インドのヒンドゥー教や古代オリエントの多神教、あるいはユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教のように洗練されていったのだと思います。しかし、文明社会の周縁ではアニミズムが残ったところもあります。例えば、日本の神道がそうです。神道はアニミズムに近い形で残りました。あるいはアメリカインディアンの精霊信仰はアニミズムの原形を非常に色濃くとどめていると思います。

基本的には宗教はこのように神を崇拝するものだと思います。


3.シャーマニズムの衰退

では、アニミズムが宗教に変わったとき、シャーマニズムは何に変わったのでしょうか?実はあまり変わらなかったといえるかもしれません。というのもアニミズムと違ってシャーマニズムは継承者が少数でしたし、治療師などの特殊な技術の専門家でしたのでそのままの形態で残る場合が多かったようです。ただし、文明化が進むにつれて次第にシャーマニズムは減少していったようです。当時の人々の間でよく言われていたのは昔のシャーマンに比べると文明化が進むにつれてシャーマンの力が弱くなっていったそうです。そのため、シャーマニズムは人々に必要とされなくなり、次第に衰退していったようです。


4.仏教とは何か?

ところで、仏教とは何なのでしょうか?

日本では仏様を崇拝する宗教のように勘違いする人もいるかもしれませんが、本来の仏教は仏様を神のように崇拝するものではありません。そういう意味では仏教はアニミズムから発展していった宗教とは違うと思います。

では、一体仏教とは何から発展したものでしょうか?確かに仏教は釈迦が突然変異的に始めた宗教と見ることもできるでしょう。しかし、私はそうではなくて仏教も過去の継承から生じたものではないかと考えています。釈迦という天才が何の脈絡もなく仏教という知の体系を突然に創り出すというのは少しおかしいと思うのです。何らかの歴史的な過去からの知の継承があるのではないかと。では、一体それは何なのか?実はシャーマニズムが変容した結果、仏教に変化したのではないかと私は考えています。文明化が進んだときアニミズムが体系化されて宗教に変容したように、シャーマニズムも体系化・言語化されて仏教という形態になったのではないかと思っています。まあ、そのような歴史的な痕跡は実際にはないと思います。あえて極端なことを言えばバラモン教の神秘主義をさらに変化させて生まれてきたのが仏教といえるかもしれません。

では、シャーマニズムから変容したものは仏教だけでしょうか?世の中には神秘主義と言われるものがありますが、私が思うに神秘主義といわれるものもシャーマニズムから変容したものではないかと考えています。すべての神秘主義がそうというわけではありませんが、神秘主義のいくつかは、極端な言い方をすれば、シャーマニズムが変容して神秘主義になったと言えると思います。そういう意味では仏教は神秘主義の1つだと思います。あるいは、言い方を変えると神秘主義の中でもシャーマニズムを最もよく継承しているのは仏教ではないかと思います。


5.宗教と神秘主義

さて、宗教というと私たち日本人は仏教や神道を想像してしまいます。しかし、上述したように一般に宗教と呼ばれるようなものと仏教は随分違いますし、神道も宗教以前のアニミズムに近いもので一般に言われる宗教とは少しニュアンスが違います。

繰り返しますが、一般的にいって宗教とは神を崇拝するものです。人間が持っているアニミズムの感覚が残って洗練されて神を崇拝し信仰するようになったものが宗教だと思います。それが一神教の場合もあれば、多神教の場合もあるのでしょう。しかし、いずれにしても神を崇拝するという意味では同じだと思います。

ところが、仏教はそれとは違います。神を崇拝するわけではないからです。現代人は仏教も一緒くたにして宗教とひと括りにして言いますが、それはあまり正しくないと思います。仏教は本質的には神秘主義です。

ただし、ややこしいのは宗教の中にも神秘主義といわれるものがあります。例えばイスラム教の中にはスーフィズムと呼ばれる神秘主義があります。どうもイスラム教に限らず他の宗教でも突き詰めてゆくと往々にして神秘主義に辿り着く場合があるようです。果たしてそれらは宗教なのでしょうか?それとも神秘主義なのでしょうか?実際、それらをどちらに判別すればよいのか分からないことが多いと思います。

それから、読者の中には「神秘主義も宗教の1つに過ぎない」という意見もあると思います。それはその通りで、そのようにカテゴライズする考え方もアリだと思います。ただ、私が言いたいのは宗教の起源を考えたとき、アニミズムとシャーマニズムの2つがあり、アニミズムからは神を崇拝・信仰する宗教が生まれ、シャーマニズムからは神秘体験を基本とする神秘主義や仏教が生まれたのだということです。このように2つの流れがあるのに多くの人はこの2つの違いを無視して混同してしまっていると思うのです。

6.宗教と哲学

さて、ようやく哲学の話です。宗教と哲学には密接な関わりがあります。哲学の起源をギリシャ哲学とする見方がありますが、そのギリシャ哲学も後にイスラム教神学に取り入れられたり、さらにキリスト教神学に取り入れられたりして神学としてある意味高度化されます。それらは一神教的な存在論ではありますが、高度な哲学をそこに構築しました。また、仏教などは中観や唯識などのように独自の哲学を積み上げてゆきました。このように哲学はかつては宗教だったとさえいえるかもしれません。その中には古の賢人たちの知恵が詰まっています。確かにそれらをそのままの形で使うことは出来ないでしょう。しかし、それらをまったく参考にしないのはちょっと勿体無いと思います。ですから、哲学を学ぶために宗教を知っておくことは決してムダではないと思います。



2013年5月1日水曜日

私の好きなAV女優

ちょっと思うところがあって私の好きなAV女優を列挙しておこうと思います。

ところで、なぜ私は彼女たちが好きなのか、その理由をいろいろ考えてみたとき、それは彼女たちの思い切りの良さにあると思い至りました。もちろん、彼女たちの持っている美しさや性的魅力や人間的魅力も彼女たちが好きな理由ではありますが、それよりもむしろ作品における彼女たちの思い切りの良さが私の固定観念を払いのけてくれたというのが最も大きな理由であると考えています。彼女たちの表現は私の想像を上回るものでした。彼女たちの思い切りの良さがブロックバスターしてくれたのです。喩えて言えば、優れたアートに出会ったときに目が開かれて一挙に視野が拡がったような覚醒感に似ています。そんなわけで私は彼女たちに大変感謝しています。


日本のAV女優
  1. 高井桃
  2. 小澤マリア
  3. 原紗央莉
  4. 立花里子
  5. 花井メイサ
  6. 小向美奈子
  7. 風間ゆみ


 米国のポルノ女優
  1. Jennifer White
  2. Kagney Linn Karter
  3. Jenna Haze
  4. Asa Akira
  5. Sasha Grey
  6. Vanessa Blue
  7. Sarina Valentina
  8. Eva Lin
  9. Yasmin Lee
  10. Annie Sprinkle


2013年4月22日月曜日

アート鑑賞について

アート鑑賞についてちょっと気になったので書いておきます。

アートを鑑賞することで人は何をしているのでしょうか?その答えは意味を見つけ出しているのです。そのアート作品を鑑賞することでそこから何らかの意味を見つけ出しているのです。見つけ出された意味はその人だけの意味かもしれませんし、他の鑑賞者と同じ意味を見出しているかもしれません。いずれにしても、どちらでも構いません。他人にとって意味がなくても、その人にとって意味があればそれで良いのです。その人にとってはそれがアート作品です。たとえ他人にとっては意味のないガラクタであっても!また、例えばAとBの2つのアート作品があったとします。そのどちらが優れているかなどというのはあまり意味がありません。私にとってはAの作品の方が重要な意味があったとしても、他人にとってはBの作品の方が重要かもしれません。アート作品の意味は人それぞれで違ってくるからです。ともかく、アート鑑賞において人々がやっていることは自分の感覚器官を開いてアート作品から意味を感じ取っているのです。そして、見い出された意味がその人にとって新しい意味であれば、驚きを伴った喜びになるわけです。

さて、そういったアート鑑賞において大事なことは何かというと自分の感覚のチャンネルを偏見や先入観や固定観念にとらわれずに開いておくことです。といっても、そんなに無理をしなくてもかまいません。肩の力を抜く程度だと考えていいでしょう。それに、多少の偏りがあったとしても大丈夫です。むしろ、それがフックとなって何らかの意味を作品から引っ掛けてきて、ひいては自分自身の精神分析になる場合もあるからです。ともかく、基本的には固定的なものの見方に囚われずに自由なものの見方ができるようにしておくことです。アートの鑑賞の仕方が分からない人の中で勉強熱心なタイプの人はわざわざアート作品の解説書などを読んで、解説書の見方を頭に叩き込んだ上で当のアート作品を鑑賞したりする場合があります。せっかくアートを鑑賞しても解説書通りの見方しか出来ない人がいます。さらには解説書が提示している見方しか認めずに、その見方に沿わない作品を貶したりする人までいます。そうなっては本末転倒です。本来、アート作品は頭脳を柔軟にするものです。未知なモノに対してそこから意味を引き出せるように柔軟に心のチャンネルをひねられるようにするためのものです。ラジオのチューナーをひねって周波数を合わせるように作品の意味に合わせるように心のチャンネルをひねるのです。ところがそうせずに最初から決まり事でもあるかのように決まった見方に凝り固まってしまったのではアート鑑賞をする意味がありません。(もちろん、そういうのが分かった上で解説書を比較のためや自分の見落としを補うために利用するのはかまいません。しかし、最初からその見方しかなないと決めつけて解説書通りの見方しか出来ないようであれば、解説書を見ずに作品を鑑賞して、まずは作品から何かを感じるとることから始めることをお勧めします。)

さて、では、心のチャンネルをひねるとはどういうことでしょうか?これは言葉で説明するのはなかなか難しいことです。例えば、森の中に入ってたくさんのセミが鳴いていたとしましょう。そのとき、ある珍しい種類のセミが鳴いているのに気付いたとします。それを一緒にいる仲間に伝えるとき、どんな音が聞こえるかを伝えることはできます。しかし、その音を聞き分けるためにどのように聞くかというのを伝えることはできません。単に耳を澄ましてよく聞いて下さいとしか言えません。聞き分け方というのは自分でチャンネルを合わせるしかないのです。といっても、これではあんまりですので、もう少し説明を試みます。たとえば、諺に「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」というのがあります。これは幽霊が見えて恐ろしく感じたのですが、よくよくその幽霊を見てみると、なんのことはない枯れたススキが幽霊のように見えただけだった、所詮、幽霊なんておらず、単に枯れたススキが錯覚で幽霊のように見えただけだったという話です。しかし、これは逆にいうと枯れたススキに幽霊という意味が宿ったということができます。つまり、単なる枯れたススキであっても見方を変えれば、それは幽霊に見えたりするわけです。これをアート鑑賞に喩えていえば、ガラクタの寄せ集めに過ぎなかった作品がそこに何らかの意味を帯びてアート作品になったということが言えるわけです。心のチャンネルをひねるとはそのように見方を柔軟に変えられることなのです。

以前、読書会で取り上げたドゥルーズが精神活動において哲学、科学、アートという3つの軸を考えていましたが、アートだけはちょっと特殊な軸で知性で捉えられる類のものではありません。それは無限に対して開かている人間の感覚であって、知性で捉えるのではなくて、詩に感応するような感受性で捉えるものだと思います。ところが、どうも若い人の中にはアートも哲学とか科学とかの知的道具の捕獲網で捉えて標本ケースに並べて分類しようとしている人がいるようです。しかし、それはアートの楽しみ方としてはあまり好ましくありません。実際、そういったコレクションはやれなくはありませんが、そういったやり方はアートを鑑賞して新しい意味を発見するという楽しみを半減させてしまう恐れがあります。なぜなら、すぐに「ああ、これは以前に見たあの作品と同じ意味だな」となってしまい、以前、発見した意味に落ち込んでしまいやすいからです。アート鑑賞の楽しみは新しい意味の発見です。意味世界を更新することが楽しいのです。ですから、そのためにはアートの分類や整理をするのではなく、忘却する方が本当は良いのです。私たちは、日々、整理して分類しています。それは言語や知性にとってとても大切なことです。しかし、それには例外があってアートだけはあまり整理や分類を細かくやる必要はありません。いい加減であったりテキトーであったりで良いのです。いいえ、もっと言えば、忘れていてさえいても良いのです。

私たちはあらゆる物事、森羅万象を科学や論理学で理路整然と並べて、この世界や頭の中の言語世界を整理整頓して、この世から名付けえぬ何かを排除しています。
終いにはその名付けえぬ何かがまるで存在しないと思い込んだり、あるいは、その存在にまったく気付かなくなってさえしてしまいます。しかし、世界は人間が知覚できる以上に広く深いもので謎に満ちています。人間は所詮人間で、人間が知覚しているのは世界のごく一部に過ぎません。ただ、名付けえぬ何かにまったく触れられないかというとそうではなくて、ほんの少し触れられる可能性があります。それは何かというと、それこそがアートであり、知性の裂け目なのだと思います。なぜ、アートだけが名付けえぬものに触れられるのでしょうか。おそらく、アートという知性の裂け目はワームホールのようなもので無限や別次元につながっているのではないかと思います。ですから、知性の破れ目を残しておくことも実は大切なことなんだと思いますよ。随分、トンデモナイ話をしてしまいましたが、トンデモナイ話も自由な精神、詩心がなせるワザなのではないでしょうか。

2012年10月30日火曜日

ネオアカ読書会 第1回ドゥルーズ『哲学とは何か』


ドゥルーズ=ガタリ『哲学とは何か』の読書会と目次と資料をブログにアップしておきます。

1.ネオアカ読書会第1回ドゥルーズ『哲学とは何か』



2.目次

目次

序論 こうして結局、かの問は・・・・・・

Ⅰ 哲学
1 ひとつの概念とは何か
2 内在平面
3 概念的人物
4 哲学地理

Ⅱ 哲学 -科学、論理学、そして芸術
5 ファンクティヴと概念
6 見通しと概念
7 被知覚態、変様態、そして概念

結論 カオスから脳へ

3.プレゼン資料
資料は画像をクリックすると新しいウィンドウでプレゼンテーションが開始されます。






4.書籍



以上、どうぞよろしくお願いします。

2012年10月12日金曜日

差異と生命


前回はリゾームについて考えました。今回はドゥルーズの主要な諸概念、差異、反復、イデア、非実在論、強度について考えてみようと思います。しかし、いずれも難解な概念ですので理解は一筋縄ではいきそうもありません。そこで今回は話を分かりやすくするために生命という補助線を引いて考えてみることにします。これらの諸概念は生命について言っている、あるいは、生命からこれらの諸概念を抽出したと考えれば、かなりスッキリした理解が得られるのではないかと思います。ただし、ここで述べる生命ですが、次の仮定を前提条件にします。それは「生命には魂がある」という仮定です。なんだか非科学的な仮定ですが、話を分かりやすくするために今回はあえて用いることにします。
 
(1)差異
さて、まず、ドゥルーズの差異といえば、微分dy/dxが想像されます。微分は限りなく小さい微分量dxやdyを考えます。それら微分量の比を計測することで接線の傾きを導き出します。ドゥルーズの分析はまさに微分的です。各計測点で微分することによって曲面の傾き具合を含めた全体像を浮かび上がらせるような手法です。中沢新一がドゥルーズの分析を「微分係数から大域構造を見る」と言っていますが、まことに言い得て妙です。







さて、ドゥルーズが若い頃に第一線で活躍していた哲学者といえばサルトルです。ドゥルーズ自体はサルトルからは思想的な影響は受けていないようですが、それでもサルトルがその時代を代表する哲学者であったことには違いないと思います。そのサルトルですが、彼の実存主義には有名な「実存は本質に先立つ」というテーゼがありました。行動の前では本質よりも実存が立ち上がるという考えです。例えば、昔、金属バット殺人事件というのがありましたが、普段は金属バットの本質は野球の道具ですが、それがいざ殺人に使われた瞬間、金属バットは人殺しの道具に変わってしまいます。このように本質(野球の道具)が実存(殺人の道具)に取って代わられることを「実存は本質に先立つ」と言います。しかし、では、どの瞬間に本質が実存に取って代わられるのか、それを近代科学的に捉えようとすると動きを連続写真に分解して分析することになるかもしれません。つまり、連続写真の前後の差異を計測することでどの時点で本質が実存に取って代わられるか捉えようとするのです。ドゥルーズは映画を愛しましたが、ドゥルーズの差異というのはこのように動的変化を連続写真に分解することに由来しているのかもしれません。

ちょっと話は逸れますが、下図は階段を下りる裸婦の連続写真とマルセル・デュシャンの『階段を下りる裸体』の図です。写真の発明によって対象を正確に模写することに意味の無くなった画家たちは写真では捉えられない対象の真理を描こうとしました。この『階段を下りる裸体』はそういった意味で階段を下りる裸婦をトータルに一枚の絵で捉えようとした試みと言えるでしょう。この例で言えば、ドゥルーズの差異は各写真での微分係数を析出して対象の全体を捉えるようなものだと思います。







ともかく、ドゥルーズの差異はどこまでも分解・微分して計測しようとする科学的な態度だっと思います。サルトルの実存主義は哲学よりも行動が現実を切り開くと言っているようで、ある意味哲学の敗北を意味しそうですが、ドゥルーズはその行動すら細かく分析することで行動(動的変化)をも哲学の範疇に捉えようとした試みと言えるかもしれません。


ドゥルーズの差異の由来について上記で推測を述べましたが、もう1つの由来があると思います。それは単子(モナド)です。限り無くゼロに近い微分量は言うまでもなく微分の発明者ライプニッツのモナドです。モナドとは何かと考えた場合、モナドとアトムの違いについて考えるとモナドについてイメージが浮かび上がってくると思います。まず、アトムですが、アトムは原子という小さい粒、物質の最小単位です。ところが、モナドの場合、その大きさは、dxやdyと表されるように、まちまちで恣意的でさえあります。アトムは元素の周期表で表されるようにスタティックな単位です。まさにツリー的な位置づけです。それに対してモナドは流動的な単位で一体何なのか、いまひとつ分かりません。しかし、もし1つ似たようなものを上げるとすれば、それは生命の単位ではないでしょうか。例えば、細胞を1つの生命の単位とした場合、その大きさはまちまちです。モナドがまちまちなのと似ています。モナドとは生命の単位として考えられないでしょうか。

ところで、生命はある意味差異の機械だと言えると思います。何故かというと生命体は自己と自己以外とを分別するからです。図にすると下図のようなものです。自己と外部とを区別します。また、外部から物質を取り込んで自己の一部とするか、あるいは、不必要なものとして外部に排出するなど、自己と自己以外に分別しています。まさに、生命は自己と自己以外とに分別する=差異するマシンでもあるのです。ちなみに、これは言語の作用ともよく似ています。言葉Aが浮かび上がった瞬間、表出していませんが非Aも生成しています。逆な言い方をすれば、言葉Aを生成した瞬間、非Aは存在しないものとして殺害されています。このように脳の言語機能も差異のマシンです。










話が混乱してきました(笑)。少し整理すると、ドゥルーズの差異はライプニッツのモナドであり、モナドは生命の最小単位として考えられないかということです。そして、生命そのものもそれ自体差異するマシンではないかと言うことです。

さて、以上で述べたように差異には2つの側面があると思います。1つは科学的な分析としての差異です。もう1つは生命の基本機能としての差異です。以下の文章では後者の生命の基本機能としての差異に関わる概念になります。

(2)反復
差異の次は反復ですが、普通に考えると「ドゥルーズはどうして反復なんて取り上げたの?」という感じが否めませんが、生命という補助線を入れると分かりやすくなるのではないでしょうか。ドゥルーズは「反復とは差異を反復することであり、差異とは反復される差異である」と言います。これは何を言っているのでしょうか?これを聞いて思い当たる具体的なイメージとしては細胞分裂、あるいは、生命体の繁殖です。上図を有機スープの海(非A)とそこに生まれた原初の生命体Aとしますと、生命体Aは細胞分裂して生命体A1と生命体A2に分かれ、さらにそれらがどんどん分裂して増殖してゆきます。あるいは、細胞分裂について考えてみると、下図のように受精卵にどんどん仕切りができて1つだった細胞がどんどん分裂して複数の細胞に分化してゆきます。このように細胞は自己と外界を分け隔てますが、細胞分裂はさらに自己と他者を分け隔てて増殖してゆきます。









つまり、これが「反復とは差異を反復することであり、差異とは反復される差異である」ということの意味です。細胞たちが自己と他者を分け隔てて差異を反復することであり、さらに細胞分裂が展開される反復される差異なのです。フラクタルL-systemのように自己相似的に反復されるのです。

さらにドゥルーズは「世界は1つであり、無限の差異である」とも言っています。もし、世界が生命のない物質だけの世界ならもっとスタティックな分類になったでしょう。しかし、生物が存在することによって世界は多様性に富んだ無限に差異を反復する動的な世界となっていると言えます。生命は植物や動物や細菌など様々な形態をとって生き残りを図っています。例えば、地球を人工衛星から俯瞰して見ている図を想像して下さい。地球という球体を生命が覆っています。まるでシャーレに繁殖する微生物のようです。生命という単位では球体表面である世界は1つであり、同時に様々な形態をとる生命群は生命の無限の差異であると言えるでしょう。








(3)イデア
さて、反復の次はいよいよイデア(=理念)です。ドゥルーズは「イデアは個体以前の差異である」と言います。これは一体どういう意味でしょうか?再び、A非Aの図に戻ります。仮にAを生命体、非Aを有機スープとします。Aと非Aは物質的にはどちらも同じ物質です。なぜなら生命体Aは有機スープから物質を抽出して組成しなおして自らを形成しました。しかし、Aは生命であり、非Aは無生物の物質に過ぎません。同じ物質であるにも関わらず、この違いはどこから生じるのでしょうか?つまり、生物を生物たらしめているものは何か?生命の本質とは何か?生命のイデアとは何か?ということです。

別の言い方をしましょう。自動車の部品(車体やタイヤやエンジン、それと燃料のガソリン)を寄せ集めて組み立てればそれは自動車として動き出します。しかし、生物の場合、部品を寄せ集めてもそれは生物の死体が出来上がるに過ぎません。メアリー・シェリーが描いた『フランケンシュタイン』と同じようにクリーチャーに生命を吹きこまなければ生物としては動き出しません。それでは生物と無生物を分けるものは一体何でしょうか?

ここで、最初の言葉「イデアは個体以前の差異」に戻って、図に基づいて考えてみます。もし、図から物質をすべて取り除いたとします。するとそこに残るものは何でしょうか?通常の3次元空間から物質を取り除いても何も残りません。ただの空っぽの空間だけが残ります。しかし、そこで、物質もろとも3次元空間をも取り除いた空間を考えてみましょう。そこに残った場は3次元空間とは別の次元の世界と考えられます。下図はそこに残った場のイメージです。









そこに残るものこそ、個体以前の差異、生命のイデアと考えられます。すなわち、物質も3次元空間も取り除いた後、別次元の空間に残るものこそ、個体以前の差異、つまり、生命のイデアではないでしょうか。

(4)非実在論
さて、上記で別次元の世界を考えました。それは私達が住む3次元空間の世界ではない世界です。3次元に住む私たちにとっては別次元は日常的な世界には存在しない非実在の世界です。つまり、ドゥルーズの非実在論もこの別次元の世界を言っています。日常的な感覚からすれば、非実在の世界を仮定することは途方もない空想のように思えます。しかし、科学ではけっこうそういった世界を考えたりしています。例えば、数学で扱う虚数です。虚数は実数としては存在しない数です。下図のように、実際には存在しない数・複素数を想定することで私たちの科学は成り立っているところがあります。また、物理学でも3次元以上の次元について実際に存在するのではないかという説もあります。とはいえ、3次元空間しか認識できない私たち人間が別次元については知りようがないので、この話はここではあまり深入りしません。しかし、可能性としては否定できないところがあります。















(5)強度
さて、いよいよ強度です。ですが、強度について考える前に、生命についてもう一度考えてみます。生命は様々な形態をとって生まれてきます。動物や植物や細菌など様々な形に姿を変えてこの世に生まれてきて生き残りをかけて闘います。私たち人間もその中の1つに過ぎません。しかし、すべての生物が生き残るわけではありません。絶滅する生物もいます。逆に新たに出現する新しい種もいたりします。例えば、昆虫について考えてみます。今現在もアマゾンの密林では新しい種類の昆虫が生まれており、その一方でそういった新しい種の昆虫たちも私たちに知られることなく知らぬ間に絶滅しているものもあるそうです。進化というと試行錯誤のすえの完成への道というようなイメージを持っている人もいるかもしれませんが、実際は、むしろ、ランダムにいろいろなタイプの生命形態をこの世に送り出して、その中からうまく生き残ったものだけが環境に適応した生物だったという方が近いのではないでしょうか。つまり、結果として、生き残った生物は環境に適応した合理的な生物であって、絶滅した生物は残念ながら環境に適応できなかった不合理な生物ということになるのではないでしょうか。つまり、あくまで結果論なのです。生命全体として見れば、進化は生き残りをかけた試行錯誤の連続です。合理・不合理に関わらず生命は多様な形態をとってこの世に生まれてきます。失敗も含めて多様な生命を生み出す原理は一体何でしょうか?実はそれこそ生まれいづる可能性の濃さ、潜在性の濃度というべき強度ではないでしょうか?

ドゥルーズは強度について「質・量以前の即自的差異」と言っています。強度は質以前・量以前の差異であり、即自的な差異であるというのです。強度は質や量など実在の測定は不可能なのです。逆に言えば、強度は非実在の空間で考えねばなりません。その異次元の中で、即自的ですので一種のエネルギー場を想定し、その中で濃度が高くなるところが生命が生まれる可能性の高いところではないでしょうか。イメージすると下図のようなエネルギー場を考えて、色の濃い点、濃度の高い箇所が生命が生まれいづる可能性の高い点と言えるのではないでしょうか。(下図でいえば、赤色の濃い部分です。)














このように考えると強度とは非実在空間における潜在性の濃度ということができるのではないでしょうか。(ところで、濃度に濃淡があるイメージは数直線で無限の濃度について考えてみると分かりやすいかもしれません。連続体仮説に従えば、数直線には無限の濃度の濃淡があります。)


(6)人工生命としての概念
さて、差異、反復、イデア、非実在論、そして、強度とドゥルーズの諸概念についてようやく説明し終わりました。ここからはオマケの話です。ここまで生命を補助線に話をしてきました。ここからは脳の世界について少しだけ考えてみます。というのも脳の生み出す世界も実は生命の世界にとてもよく似ているからです。多くの方が「えっ!どういうことですか?」と意外に思われるかもしれません。そこで分かりやすい例としてSF作家グレッグ・イーガンの小説『ディアスポラ』の一節「ワンの絨毯」を取り上げます。「ワンの絨毯」ではある惑星に原生生物がいるのですが、その原生生物の体は一種の電子回路のような構造になっており、その電子回路にはソフトウェアが存在しているというのです。そして、そのソフトウェアは一種の生命世界を形成しており、そこには多様な生命の生態系があり、生物が棲息する世界が繰り広げられているというのです。いわば人工生命の超高度版といったところでしょうか。この話をドゥルーズに結びつけると、ドゥルーズの著書『哲学とは何か』でドゥルーズは哲学とは概念を制作することだと言っています。ドゥルーズのいう概念は上記で述べてきた生命ととてもよく似ていると思うのです。そして、もしその概念がひとり歩きするようになれば、この「ワンの絨毯」の人工生命のような存在になるのではないかと思えるのです。つまり、概念イコール人工生命ではないかと思うのです。もっと飛躍して言えば、「ワンの絨毯」の原生生物がソフトウェアの生命世界を作るように、人間は大脳で概念という人工生命を作り出しているのではないかと思うのです。ただ、まあ、概念が自らの意思をもって一人歩きすることはないのでちょっと違いますが・・・。ただ、大脳というものが3次元空間にフラクタルに展開する神経細胞なのだとしたら、フラクタル次元として3次元をわずかに超えるかもしれず、そこから異次元が流入して、概念が一人歩きすることがあるかもしれませんね。例えば、ミュージシャンが作曲のときに「降りてくる」とか言いますからね(笑)。あるいは、自動筆記とか(笑)。話がオカルトめいてきたので、この話はこの辺りで止めておきます。ただ、この脳や生命世界の話はドゥルーズ=ガタリ最後の著書『哲学とは何か』の最終章に深く関わってくる話です。


さてさて、今回はドゥルーズの主要な諸概念を説明するために「生命には魂がある」という、ややオカルティックな前提条件で話を進めてしまいました。しかし、複素平面に置き換えて分かりやすくするというラプラス変換的な思考法としてご容赦下さい。また、実際、生命についてはまだまだ分からないことが多くあります。iPS細胞の研究で山中教授がノーベル賞をとって世間は騒いでいますが、まだまだ生命については謎が多いです。物理学的な観点からは生命はまだ説明できていません。ですので、推測がオカルト的だからといって否定するのではなく、あらゆる可能性を否定せずにその可能性を追求するという態度が大切ではないでしょうか。そういった中から創造的進化を遂げる概念も生まれてくるかもしれませんからね。もちろん、絶滅する概念もありますが(笑)。(誤解を招かないように言っておくと、ドゥルーズは生き残る生物だけでなく絶滅する生物も含めて生まれてくることが可能な生命を尊重したのだと思います。合理・不合理に関係なく、強度の高まるところリゾームのより集まったところに生まれいづる生命を愛でたのだと思います。)

2012年9月24日月曜日

ツリーとリゾーム

ドゥルーズ+ガタリの『哲学とは何か』で読書会をやるつもりなのだけど、その前にちょっとは彼らの主な概念についてちょっと勉強しておかなくちゃいけないなあということで、今回はリゾームについて考えてみようと思います。

で、まず、ツリーとリゾームを視覚的にイメージすると下図のようなものになると思います。左がツリー構造で、右がリゾーム構造です。


 

ツリー構造は枝が整然とした階層構造なのに対して、リゾーム構造は枝が横断的に錯綜したネットワーク構造になっています。

で、まあ、ドゥルーズ・ガタリは「これまでは世の中のいろんな知的構築物はツリー構造が多かった。例えば、知の構造とか組織の構造とか。しかし、それは硬直的な見方の産物であって現実にはそぐわないんじゃないか。現実はもっとリゾーム構造っぽい要素も多いんじゃないか。そこでリゾームで世界を捉え直してみる試みをやってみようか」というようなノリで考えたとき、『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』に結実したって感じでしょうか。いや、まあ、極端な話ですが。

もう少しイメージが伝わりやすいように話を非常に単純化して考えてみます。

まず、ツリー構造的な価値観の社会を考えてみます。例えば、人々が画一的な価値観を持った世界というのを考えてみます。みんながみんな同じような価値観を持った社会です。具体的には、例えば、高学歴・高収入をみんながみんな目指しているとします。みんながみんな東大や一流企業や大蔵省を目指しているとします。(←いやあ、古い世界観ですね。今となっては隔世の感がありますね。)それを図でイメージすると、頂点が1つの山にみんなが登ろうとしているようなもので、下図のような感じでしょうか。






この山はツリー構造な価値観なので、理路整然として価値観が整列しているので、山の傾斜も滑らかなものとなります。非常にシンプルな山です。

次に、リゾーム構造的な価値観の社会を考えてみます。、リゾーム構造にはツリー構造のような階層はなく、結節点にどれだけリンクが集中するかによって価値観の度合いが決まるものとします。結節点のリンクが多いとそれだけ山が盛り上がります。つまり、山がたくさんある多様な価値観の社会になります。もう少し具体的に言うと、人々は東大や一流企業だけを目指すのではなく、アーティストになることを目指したり、パン屋さんになることを目指したりするように様々な理想像を持ちます。それを図でイメージすると下図のような山がたくさんある図になります。















山ばかりで喩えるとちょっとスタティックなので、別なもので喩えると、波が様々に盛り上がっている海面と喩えることもできると思います。人々の欲望はダイナミックに変化するので海面のように時々刻々と盛り上がりが変化するので海面の方が適当な喩えかもしれませんね。


『千のプラトー』(=千の高原)はこのような状態、盛り上がりである高原がたくさんある状態を指しているのだと思います。そして、人々はこの非線形な曲面の最も高い盛り上がり、最大値を志向するのではなくて、人それぞれがたくさんある盛り上がり、極大値をそれぞれ志向するのが良いのではないかと考えているのではないでしょうか。あ、いや、盛り上がりがたくさん出来る状態、多様な価値観がある状態が望ましいと考えているのだと思います。(ところで、ドゥルーズの手法は傾斜を数値計算する非線形最小二乗法に似ていると思います。)

つまり、多様な価値観の社会やフレキシブルな知のあり様を望み、さらに、そのような世界を構築するのにもリゾーム的な手法(←『千のプラトー』はそのような手法で書かれている)によって実装するというのが彼らの考えだと思います。もちろん、これはある一面的な話であって、他にも彼らが込めた意味・意義はたくさんあるとは思いますが・・・。

なお、ひと昔前の日本は硬直的な価値観の社会でした。戦前の日本は北朝鮮のような社会だったかもしれませんが、戦後高度成長期の日本はどちらかといえば画一的な社会だったと思います。その方が製造業中心の工業社会に適した人材育成に向いていたのでしょうね。しかし、価値観が画一的な社会や硬直的な知の世界では少数派である自由な精神の持ち主は息詰まってしまうので、スキゾフレニックなゲリラ戦を仕掛けるような浅田彰の『逃走論』が生まれたのだと思います。もっともその源流は森一刀斎こと森毅にあると思います。異分野の知を自由自在に横断するネットワーク力・社交力や問題に対して太極拳の化勁のようなフレキシブルな身のこなしなど森毅こそ日本の元祖ドゥルージアンだと思います。

2012年9月22日土曜日

宗教について

前回の記事で「日本人の無意識、特に若者の無意識はオウム真理教事件がトラウマとなって内への探求を忌避するようになってしまった」というような話を書きました。また、オウム真理教だけでなく、すべての宗教に対して拒否反応をハッキリと持つようになったとも思います。そこで今回は宗教についてちょっと話しておこうと思います。

今の若者の宗教に対する反応を見ていると宗教というだけで思考停止状態になって聞く耳を完全に閉ざす拒絶反応を示すようになったと思います。しかし、宗教というだけで何もかもすべてを拒絶するのはちょっともったいないなと私などは思います。

というのも哲学の成り立ちを考えると宗教が果たした役割は大きく、これまで蓄積されてきた思索の軌跡はとても参考になると思うからです。そこにはたくさんのアイデアが詰まっています。ところが、今の若者は宗教というだけで無意味で無価値なものとして、それらをまったく参考にすることなく簡単に切り捨ててしまいます。私などからすれば、それはあまりにもったいなく、もう少し視野を広げられればなあと思います。

また、今の若者の「宗教とは何か」というような宗教に対する認識もかなり浅薄・偏狭・卑小なものになっていると思います。明らかに間違った認識を持っている人も数多くいます。まあ、宗教というだけで思考停止状態になるのですから、そうなるのも当然ですが。

ここまでこの記事を読んだ人は私が「宗教を擁護したりして、何か特定の宗教の勧誘でもしようとしているのではないか?」と疑う人がいるかもしれません。しかし、話はまったく逆で、むしろ宗教を突き放して捉えることで宗教を客観視しようというのが私の考えです。私は自分が特定の宗教に入信することはまずないとけっこう自信を持って思っています。そういう自信があるからこそ宗教を恐れずに見つめることができるのかもしれません。

ところが、今の若者はそうではないように思います。自己が脆弱であるために宗教に侵食されるかもしれず、そのためにあえて宗教を卑小なものと矮小化して捉えて切り捨てることで自己が侵食されるのを防いでいるように思えます。しかし、それは誤った宗教に対する認識をもとにしており、万一、それが破られればかえって宗教に入信してしてしまう危険があると思います。また、対象を矮小化することで逃避するような癖は宗教以外にも用いるようになってしまい、物事を客観的に見ることから次第に遠ざかってしまうようになるのではないかと思います。

確かに宗教には悪い面がたくさんあります。しかし、良い面・参考になる面もあると思います。悪い宗教があるからといって、すべての宗教を捨ててしまうのはあまりにもったいないと思います。ですので、宗教を恐れずに、また鵜呑みにすることもなく、もう少し注意深く耳を傾けてみては?と思います。

それから最後に、日本の若者が宗教を卑小に捉えるのは単に恐れから来る防衛反応ばかりでなく、ある感性が欠如しているからではないかと思います。それは何かというと詩的感受性です。日本の若者は詩の感性が大きく欠如するようになってしまったと思います。詩を読んでも詩に感応する若者がどんどん減ったと思います。そのため宗教に対しても多くの若者は感応することが無くなったのだと思います。そして、宗教に対してどんどん無理解になったのだと思います。

2012年9月21日金曜日

内へ向う哲学、外へ向う哲学

前回同様にツイッターで書いたことをここで少しまとめます。

で、以前、ツイッターで

哲学って、内宇宙(→内面・精神)に向う方向と外宇宙(→社会)に向う方向があるんだけど、いま、内面に向う方向はなにか避けられていて、社会に向う方向が大半になっていると思う。
 というようなことを書きました。今回はこれについて少し説明をしておきます。

まず、上記を図でイメージすると下図のようになります。

図が分かりにくいので(笑)、ちょっと解説すると、右側のピンク色の部分が自己、左側の淡黄色の部分が世界です。ピンク色部分の白と黒の目のようなものは目そのもので目をイメージしています(笑)。要は自己の内側と自己の外側を表しています。また、矢印は関心の方向を表しています。右向きの矢印は内側(=自己)への関心を表しています。同様に左向きの矢印は外側(=世界)への関心を表しています。

さて、仮に哲学をおおざっぱに2つに分けると、内へ向う哲学と外へ向う哲学があると思います。内へ向う哲学は自己の内面への関心で「心とは何か?」といったような方向に関心を持っています。自分の内側深くにどんどん探査のソナーを降ろしていって探索・探求するような方向です。

一方、外へ向う哲学は自己の外側の世界への関心で「世界とは何か?」といったような方向に関心を持っています。これは自己の外側の世界への関心ですので、例えば社会に関心を持ったり、もっと広く自分の生きている世界に関心を持ったり、さらに広く宇宙に関心を持ったりします。あるいは、もっと広く射程を広げて、自己も含めた全てである存在そのものに関心を持ったりもします。

そして、それぞれの方向への探求を進めてゆくと、いつの間にか2つ繋がったりする場合もあります。どういうことかというと内へ内へと探求を続けていたのにいつの間にか外と繋がったりします。逆に外へ外へと探求を続けていたのにいつの間にか内と繋がったりします。例えば、内側への探求であったはずの唯心論のように「心があるから世界が存在するんだ」というように内と外が繋がります。あるいは外側の世界の探求であったはずの存在論がいつの間にか自己の心をも包含してしまい、内側への探求と同じ探求になってしまうこともあります。(←まあ、これらは極端な喩えですが。)

何が言いたいかというと、内側と外側のどちらでも良いですが、いずれか一方向への探求であってもそれを極めれば、いつしか内と外の両方の探求へと繋がるということが言いたかったのです。何ごとも極めればそれはすべてに通じるといった感じでしょうか。(←ま、必ずしもそうでない場合もありますが。)

ところで、文学も似たようなところがあって、内側への探求は内面の心の襞を事細かく腑分けして精神分析のように探求するのが純文学に相当すると思います。外側への探求は社会派文学ですね。社会問題に関心を持って社会の暗部に光を当てるような探求をします。文学の関心も概ね内と外の2つがあると言えます。

さて、内と外それぞれへの探求にはどのようなものがあるかちょっと列挙しておきます。まず、内側への探求ですが、精神分析学とか大脳研究があります。ちょっと変わったところでは仏教なんかも内側への探求だと思います。言語の研究は内側へ含めて良いのか迷いますが、個人的には含めたいですね。次に外側への探求ですが、唯物論とか存在論とか宇宙論とかがあると思います。ほとんど物理学の世界ですね。「生命とは何か?」という問いはどちらに属するのか微妙なところです。今のところ遺伝子を含めて生物学は外側の探求ではないかと思いますが、もしかしたら、いつかは内側の探求に繋がるのではないかと思っています。

そろそろまとめると、極端な言い方をすれば、内へ向う哲学は「心とは何か?」という心を研究対象とした心の探求です。一方、外へ向う哲学は「世界とは何か?」とか「存在とは何か?」というように世界や存在を研究対象にしています。言わば、社会や世界、宇宙や存在の探求です。あるいは、その中での人間を研究対象にしています。

以上、おおざっぱで極端な話でしたが、内へ向う哲学と外へ向う哲学のイメージが少しは伝わったでしょうか?ま、あくまで、イメージの話であって厳密な話ではありませんのでツッコミは無しでご勘弁願います。

で、最初のツイートに戻ると
いま、内面に向う方向はなにか避けられていて、社会に向う方向が大半になっていると思う。
とあります。というか、そう書きました。

これは私の感触なのですが、今の若者は内面への探求を忌避しているように感じられます。どうも内面に触れることを恐れているように私には感じられます。もちろん、他人に内面を触れられることは誰だって怖いし嫌なことです。ですが、自分自身で自分の内面に触れることはそうではないはずです。ところが、今の若者は他人に内面を触れられることだけでなく、自分で自分の内面に触れることすら恐れているように私には感じられます。

なぜ、そうなってしまったのか?私の推測では、1995年のオウム真理教事件が原因ではないかと思っています。あの事件が大きなトラウマとなって今の若者たちに自分の内面に触れることを忌避させる無意識が働いているのではないかと思っています。「いやいや、そんなことはない。1995年といえば、アニメ『エヴァンゲリオン』があるじゃないか。あのアニメはロボットアニメとしては内面に触れる唯一のアニメじゃないか。それを思えば若者が内面への探求を無意識に忌避するようになったなんておかしいよ」という意見があるかもしれません。しかし、逆に言えば、だからこそエヴァンゲリオンは若者たちにとって特別なアニメになったのではないでしょうか?今思えば、1995年は極めて特殊な年で歴史の転換点になる年でした。オウム真理教事件だけでなく、阪神淡路大震災やインターネットが始まった年でもありました。この年を境に秋葉原は次第に趣都アキバとなり、オタク文化の隆盛が始まりました。ですので、様々な要因があるので一概に「原因はこれだ!」とは言い難いのですが、それでもオウム真理教事件が日本人の無意識に与えた影響は大きく、若者の内面への探求を忌避させるトラウマになっていると私は思います。