2013年6月30日日曜日

中沢新一『チベットのモーツァルト』

今回は中沢新一の『チベットのモーツァルト』を取り上げます。

私とこの本との出会いは1989年頃です。浅田彰を知ったのと同じタイミングで数学者の森毅経由で中沢新一のことを知りました。私が最初にを買った中沢新一の本は『虹の理論』でした。次に買ったのが河出文庫から出たばかりの『イコノソフィア』です。そして、その次に買ったのがこの『チベットのモーツァルト』と『雪片曲線論』でした。中沢新一の本はどの本も面白くて、当時は本当に夢中になって読みました。いえ、今でもたまに開いては読み返すことがあります。

さて、この『チベットのモーツァルト』ですが、中沢新一の処女作なのですが、本当に内容がいっぱい詰まった中身の濃~い本です。作家は処女作が最高傑作だとよく言いますが、中沢新一の場合も、もしかしたら、この『チベットのモーツァルト』を超えるような著作は希有なのではないでしょうか?また、私は単行本で買ったので分かりますが、中沢新一の本は装丁がどれも洒落ていてカッコイイです。もし、これから本を買われる方は可能であれば、是非、単行本で購入されることをお薦めします。

目次
本の調律
孤独な鳥の条件―カスタネダ論
チベットのモーツァルト―クリステヴァ論
極楽論
風の卵をめぐって
病のゼロロジック―暴力批判論
マンダラあるいはスピノザ的都市
夢見の技法
丸石の教え
視覚のカタストロフ―見世物芸のために
着衣の作法 脱衣の技法
ヌーベル・ブッディスト
砂漠の資本主義者


さて、内容ですが、どの章も極めて難解です。現代思想に関してある程度の基礎知識を必要とします。ですが、ガチガチの論理による読み難さはありません。むしろ、知性の知的センスを要求されます。感受性の鋭さと言い換えてもいいかもしれません。非常にソフトでしなやかな文章で三段跳びで石の上をポン、ポン、ポンとジャンプしながら軽快に飛び移ってゆくような高速な論理展開です。また、美しい伸びのある優美な文章でもあります。ですが、そこで展開されている知はデジタルで強靭です。彼以外の知性と彼を比べたら、真空管と量子コンピュータとの差があるくらい知性の差を感じます。内容は現代思想という最先端の知性とチベット密教という東洋の叡智がクロスしたもので私にはたいへん魅力的に感じられましたが、昨今の日本ではあまり受けないかもしれません。書かれた当時はまだチベット密教を感性として分かる下地が日本人にはかろうじてあったかもしれませんが、今の日本は完全に近代化されたので、そういう感性は根こそぎ抜き取られて根絶やしになってしまったと思います。しかし、現代思想について言及された部分だけを取り出して読んでもそこには天才的な閃きがあると思います。是非、読んでみることをお薦めします。

なお、どの章もお薦めなのですが、あえて選ぶとすれば、『チベットのモーツァルト-クリステヴァ論』と『病のゼロロジック-暴力批判論』でしょうか。『極楽論』も本人が細野晴臣との対談本『観光』で一番出来が良かったと言っていたのでお薦めかもしれません。しかし、クリステヴァ論と暴力批判論は現代思想にとって極めて重要な論考になっていると思いますので是非読んでみることをお薦めします。ここで言及されていることを現代の哲学者は何ひとつ超えられてはいません。いえ、むしろ、後退しているくらいです。一見、現代思想のテキストは流行の旬が過ぎたように思われるかもしれませんが、案外、ここに書かれているのは流行とは関係のない哲学にとって普遍的な内容だと思います。

さて、最近の若者からは中沢新一は宗教的な内容を含むために低く評価されているかもしれません。ですが、現代思想の部分だけを取り上げてみても、他の論客は彼の足元にも及ばないと思います。喩えて言えば浅田彰が秀才だとしたら、中沢新一は天才です。ただし、天才とバカは紙一重というように彼にもちょっとそんな面があると思います。彼の知性の速さが彼を軽薄に見せてしまうのかもしれません。また、実際、彼の知性をまったく理解できない人たちがいるのも事実です。なぜ、そうなるのかは上手くは説明できませんが、ドゥルーズが人間の知性を科学と哲学と芸術の3つのベクトルに分けましたが、彼らには芸術という方面への感受性が欠けているのではないかと思います。彼らはとても論理的でニュートン力学のように明晰なのですが、しかし、もし彼らが昔に生まれていたら、果たして彼らは無限という概念を創出しえただろうか、あるいは、詩というものを創出できただろうかと少し疑問に思います。なにかそういった方面への知覚や感受性が彼らには欠けているのではないかと思います。ともかく、こんな話をしてもあまり生産的ではありません。それよりも、むしろ、私たちのアンテナの感度を上げて彼の知性が描くなめらかで優美な軌跡を感じ取ることができるように耳を澄ました方が良いと思います。扉はまだ開かれてはいません。感性の扉を開いてドアを押し広げたとき、私たちの目の前にはこれまで見たことのない色鮮やかで生気に溢れた世界があることにはじめて気づくと思います。

2013年6月29日土曜日

フィリップ・K・ディック『ユービック』

今回はフィリップ・K・ディックの『ユービック』を取り上げます。なお、最初にお断りしておきますが、ネタバレで話しますので未読の方はご注意下さい。

さて、この物語は読んでいる最中は謎に満ちていましたが、読み終わってみれば、物語はとてもシンプルで「なあんだ、そういうことか!」と言った感じになります。しかし、よくよく考えてみると、この作品には実にユニークなディック特有の世界観や人間観が詰まっています。読み終わって全体を振り返ったとき、「なるほど!作者のディックが言いたかったのはそういうことか!」と大きくうなずくことになります。

まず、あらすじは次のようなストーリーです。超能力者と超能力者の超能力を無効にする力を持った不活性者たちがいる未来社会です。そこでは超能力者が超能力を使って社会に悪影響を働きかけるという問題のある社会です。そのため、悪い超能力者を捕まえることを専門とする会社があり、日夜、超能力者と戦っています。さて、超能力者を捕まえる会社で働く主人公チップは超能力者を狩るために不活性者たちを月に集結します。しかし、事前に超能力者たちに察知され、超能力者たちが仕掛けた爆弾でチップと不活性者たちは多大な損害を負います。チップたちのチームは半数を失い、残りの半数の多くは負傷します。チップたちは這々の体で地球に帰ります。ところが、帰ってきた地球では妙な現象が起こるのことに気づきます。それは時間退行現象といってその名の通り彼らの周囲の物の時間が退行してゆきます。(←この辺は本書でご確認下さい。)そして、一人ひとりが死んでゆくのです。彼らは逃げまわった挙句、チップの勤める会社の社長ラシターに救われます。一体、何が起こっているのでしょうか?実はチップたちは超能力者の仕掛けた爆弾でやられてしまい、生き残っていたと思っていたが、実は大怪我のために半死状態でコールドスリープされていたのです。しかし、コールドスリープされた人たちは、夢を見ているような状態で意識があり、その意識の世界をまるで現実の世界のように暮らしているのです。ところが、半死者たちの中にも特殊能力を持った者がいて、そいつはチップたちの意識を惑わす特殊能力を持った半死者だったのです。そのため、半死者となっていたチップたちは襲われ、時間退行現象という能力者の術中にはまってしまったのでした。しかし、この時間退行現象に対抗するものが1つだけありました。それがユービックだったのです。ユービックとはスプレーで、唯一時間退行現象を無効にすることができる力を持っています。ただし、だからといってユービックで敵の半死者を倒すことはできません。単に時間退行現象を相殺するだけの力です。結局、チップたちはこの意識の世界でも超能力者と戦った現実世界と同じように狩ったり狩られたりする者としての戦いが繰り広げられるのでした。

さて、この作品で描かれた世界観はひとことで言うと捕食的世界です。それは地球の生物たちを見ても分かるように生き物たちは基本的に捕食の関係にあります。例えば、蚊を食べるトンボ、トンボを食べる小鳥、小鳥を食べる鷲というように様々なところに食物連鎖があります。そして、人間の世界も超能力者と不活性者というように捕食の関係になっているのです。また、私たちの資本主義社会も似ていると思います。市場というフィールドで繰り広げられるのは企業たちの競争です。そこでも企業同士で捕食的世界が繰り広げられています。企業は利益を上げることに血眼になり、ついには企業合併で他の企業を飲み込んでしまいます。あるいは、競合相手を廃業に追い込んだりします。資本主義社会における企業も捕食的世界を生きているのです。この作品ではそういった資本主義の未来社会でも新たに超能力者を加えた捕食的な世界になっており、さらに半死状態の世界までもが食うか食われるかの捕食的世界を演じているのです。どこまでも続く捕食的世界・・・。人間はいつまでも、たとえ半死状態になっても、この捕食的世界で食うか食われるかを生き続けねばならないのです。

さて、このような捕食的な世界を生きる人間はどのような人間なのでしょうか?答えは簡単で大き過ぎもせず、小さ過ぎもしない、等身大の大きさの人間なのだと思います。なんのことか分かりにくいかもしれませんね。簡単に言えば本作の主人公チップや社長のラシターのような普通の人たちです。アメリカ社会で働く普通の人々といった方が良いかもしれません。ここで少しアメリカ社会について考えてみましょう。例えば、世界で一番労働時間の長い国はどこか分かりますか?もしかしたら、日本と答えた方もいるかもしれませんが、正解はアメリカです。アメリカは世界の人々から拝金主義だの資本主義の権化だのと嫌われることが多いですが、実は世界で一番の働き者の国でもあるのです。とはいえ、世界で一番の働き者でありたいなどとアメリカ国民は望んでいないかもしれませんが。ともかく、どんどん仕事をできるような環境にするためか、アメリカの大都市はどんどん眠らなくなっているみたいで、いわば24時間営業になりつつあるようです。それだけ人々はローテーションを組んでこまめに働いているのではないでしょうか?でも、そんなに働くと誰しもくたびれてきますよね。ヨレヨレの服みたいに肉体だけでなく、精神もくたびれてくるのではないでしょうか?ディックの小説に出てくる人たちも実はそういった人たちが多いのではないでしょうか?くたびれているとは言っても行き詰まったということではなくて、それでも仕事を滞らないように回してゆくという感じでしょうか。ディックの小説は主にパルプ・マガジンと呼ばれる娯楽誌に掲載されることが多かったそうです。読者は仕事で疲れているので、あまり深く考えずに軽く読んで楽しめるような読み物が多かったと思います。ですから、大衆小説と同じで出てくる登場人物がみんな読者たちと同じ等身大の人間で人情とちょっとしたロマンスと冒険があるような話が多かったのではないでしょうか。そういった人々が活躍する場を現代社会ではなくSFに置き換えたのがディックの小説のように感じます。ディックの人間観はそういった現代社会で忙しく働いて色褪せた日常生活を送る普通の人々なのです。ディックの人間観が最もよく表れていると私が思うのは、ディックの他の作品になるのですが、『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』の序文で述べられた文章です。(ちなみにこの『三つの聖痕』はディック的要素が万遍なく詰まったディック小説です。)以下、序文です。

つまりこうなんだ結局。人間が塵から作られたことを、諸君はよく考えてみなくちゃいかん。たしかに、元がこれではたかが知れとるし、それを忘れるべきじゃない。しかしだな、そんなみじめな出だしのわりに、人間はまずまずうまくやってきたじゃないか。だから、われわれがいま直面しているこのひどい状況も、きっと切りぬけられるというのが、わたしの個人的信念だ。わかるか?

この序文にディックの人間観がよく表れていると思います。ハードボイルドのように格好つけることもなく、深刻ぶることもなく、ときに俗物的な面もさらしたり、惨めな気持ちでへこんでしまったり、笑顔で話しながら頭の片隅でちゃっかりと金銭の計算をしていたり、ひとりよがりなロマンスの妄想をしたり、ディックに出てくる人間はごくありふれたアメリカの労働者の姿なんだと思います。

これは他の作家と比較してみるとより鮮明に分かると思います。例えば、サイバーパンクの雄ウィリアム・ギブスンとは明らかに違います。ギブスンの場合、主人公たちはアウトローでアナーキストです。個人の力で組織に立ち向かうハッカーです。『ニューロマンサー』のケイスや『カウント・ゼロ』のボビーのような電脳カウボーイです。ところが、ディックの場合、主人公は組織に属するサラリーマンです。ギブスンの主人公が青年や少年だったら、ディックの主人公は『電気羊』のデッカードのようにくたびれた中年です。俳優で喩えたら前者がキアヌ・リーブスで後者がブルース・ウィリスです。私としては、できればギブスンの描く格好いいアウトローになりたかったものですが、現実にはそうも行かず(笑)、そうなると仕事に忙しく追われるディックの描くくたびれた中年になるのが現実で、(才能のある若者は是非ギブスンの方を目指して下さい。)、私たちに近いそういった登場人物に共感するかもしれません。もちろん、パルプ・マガジンの需要として読者が共感しやすくするためにわざとそういった人物を描くようにしたのかもしれませんが。

ともかく、SFで描かれる未来は輝かしいユートピアか恐ろしいディストピアになりがちで、そこで描かれる人間像もどちらか一方に偏ったタイプの人間になりがちです。しかし、ディックの描く人間は、どんなにテクノロジーが発達した未来になっても、現代社会を生きる私たちと同じように仕事と生活に追われるという、まるで現代人である私たちと同じ人間の姿なのです。そして、目の前の困難に対して、ちっぽけな力しか持たない人間がそのちっぽけな力にも関わらず、自分でやれるだけのことはやるという、宇宙や神から見たら愚かでちっぽけな存在に過ぎないのだけれど、それでも精一杯に一生懸命に生きる人間の姿なのです。

さて、この『ユービック』はフィリップ・K・ディックの入門書としては最も適した作品のひとつだと思います。非常に分かりやすくディックの世界を堪能できると思います。ディックの他の作品と共通する世界観や人間観が描かれていると思います。もちろん、SF的要素も十分に楽しめると思います。ですので、SFが苦手という方もディックの小説をまだ読んだことがないという方も、是非、『ユービック』を一読してみて下さい。

あ、それから、この『ユービック』だけでディックのすべての面が捉えられるというわけではありません。ディックにはもっと奥深い他の側面があって、それは哲学的だったり、サイケデリックであったり、神学的であったり、神秘主義的であったりします。いわゆる幻視者としてのディックです。それは『聖なる侵入』に代表されるヴァリスシリーズやインタビュー集『ラスト・テスタメント』の世界です。これらについても、このブログで追々取り上げてゆきたいと思います。

2013年6月28日金曜日

基地問題における鳩山由紀夫に対する評価について

最近、鳩山由紀夫に関連して思ったことをここに書いておく。また、自分の方針を一部変更したこともここに記す。世間の一般的な反応をやや腹立たしく思ったために言葉が荒々しくなったことを断っておく。

(なお、文中の沖縄米軍基地問題は正しくは普天間基地県外移設問題なのだが、方向性としては基地撤退には違いないので、分かりやすく考えるために米軍基地撤退として考えた。そもそも県外移設すらできないのなら、米軍基地撤退など到底無理な話だろう。ともかく、ここで話しているのは大筋の話だ。言葉の正確さを保っていたのでは話は膨大な量に膨らんでしまう。ともかく、大筋の話だ。)

まず、鳩山由紀夫に対する世間と私の評価について書かなければならないが、その前に私の立場を書いておく。私は基本的には米軍基地は日本から撤退すべきだと考えている。理由は日本は独立国であり、基本的に独立国は他国の軍隊の駐留を認めるべきではないからだ。自分の国は自分の国の軍隊で守る、これが大原則だ。ただし、場合によっては駐留を認めるという例外はあるだろう。例えば、アフガン戦争のときにカザフスタンは基地を米軍に貸した。そのような場合は許されるが、平時に常駐するというのはありえない。歴史的経緯で言えば、第二次世界大戦で日本は米国の敵国であり、敗戦したために米軍が駐留したのが発端だった。それは理解できる。しかし、あれから50年以上も経過しており、なおかつ近隣諸国と友好関係も結んでいるのに米軍が常駐しなければならない理由はない。実質的には防共のために米軍を常駐させたのだが、それは理由にならない。独立国がどのような政治体制を敷くかは独立国の自由だ。まして日本は共産化することはもはやあり得ない。したがって、米軍が日本に駐留する正当な理由はない。

さて、上記のように私の立場を明確にした上で、次に鳩山由紀夫について私の評価を述べる。鳩山由紀夫の方向性としては沖縄米軍基地を撤退させる方向で動いていた。普天間基地県外移設を公言して真剣に取り組んでいた。しかし、国のトップである首相の鳩山由紀夫にも県外移設は実現できなかった。彼は県外移設を実現すると公言したにも関わらず、実際には実現できなかったために責任をとって辞任した。その後、彼のあとを継いだ首相たちはどうだったか?菅直人にしろ、野田佳彦にしろ、沖縄米軍基地問題に真剣に取り組もうとはしなかった。米軍基地撤退が現実に実現できるとは考えなかったからだ。もちろん、自民党に政権交代して安倍晋三が首相になってからは、米軍基地容認の立場だから撤退どころの話ではない。こうなってみると、誰が一番米軍基地撤退に向けて真剣に取り組んだかというと鳩山由紀夫以外にいないという結論になる。

ちなみに、ここで、「いや、社民党や共産党が米軍基地撤退を訴えている」と主張する意見があるかもしれない。しかし、これは意味がない。なぜなら、米軍基地撤退を実現するためには、その前に実現しなければならないことがあるのだが、残念ながら彼らはそれを絶対にクリアーできない。それは彼らが政権与党になることだ。しかし、社民党や共産党が政権与党になることは絶対にありえない。米軍基地撤退よりも彼らが政権与党になる方が実現可能性が低い。もちろん、連立して政権与党に入る可能性はある。しかし、それとて与党に横から口出しするのが関の山で実質的な決定権は彼らにはない。これは社民党が実証済みだ。社民党は県外移設を主張したがまったく受け入れられず連立与党から離脱するハメになった。したがって、彼らがいくら米軍基地撤退を訴えても、実際にそれを実現する力は彼らにはないのだ。実績がそれを証明している。すなわち、彼らは評価の対象外だ。もちろん、彼らが米軍基地撤退を訴えるのは自由だ。しかし、それを私が支持政党を選択する指標の1つに加えることはもはやない。なぜなら、不可能なことは指標に入れても仕方ないからだ。

私が腹立たしく思うのは米軍基地撤退派が鳩山由紀夫を低く評価することだ。自民党のような反対派が鳩山由紀夫を低く評価するのは理解できる。なぜなら、米軍基地を本気で撤退させようとしたからだ。反対派とは真逆の方向だ。ところが、撤退派の人まで鳩山由紀夫を低く評価する。これは不当な評価だと思う。上記でも述べたように最も米軍基地撤退に尽力した政治家は鳩山由紀夫だけなのに、それをまるで恩を仇で返すようにして彼を低く評価するのだ。彼らは「他の政治家ならきっと米軍基地撤退をできたはずだ」と考えているのかもしれない。ところが、そんな政治家はどこにも存在していない。どこにも存在していない者と比較して鳩山由紀夫を低く評価している。実に間違った考え方だと思う。

さらにおかしなことがある。沖縄県民だ。沖縄県民は基地撤退にあれだけ尽力した鳩山由紀夫を非難しておきながら、その後の選挙で基地容認派の自民党を選択しているのだ。これは明らかに沖縄県民は米軍基地容認を選んだことになる。鳩山由紀夫にダメ出ししておきながら、その直後に真逆の基地容認に転ずる。結局、「撤退を試みたけどダメだった。仕方ないので容認派に転ずる」という思考のプロセスがあったのだろう。つまり、沖縄県民は基地容認という現実的な選択をしたということだろう。

私は原理的に、かつ、心情的には沖縄米軍基地は撤退すべきだと考えている。しかし、それは現実的ではないということが鳩山由紀夫の試みで分かった。もはや米軍基地撤退は大きく世界情勢が変わらない限り、変わることはないだろうと思う。政治は現実的に考えて取り組まねばならないと考えている。したがって、米軍基地撤退に関して、もはや、私の政策課題にこれを組み込むことはしない。実現不可能なことは政策課題に入れても仕方がないからだ。支持政党を選ぶときの政策課題に米軍基地問題を加えることはもはやない。また、私は民主党を支持しているので、民主党のマニフェストに米軍基地撤退を明記するようなことはしてほしくない。加えるとしても、それはかなり先の課題として加えるにとどめてもらいたい。先というのはおそらく10年20年ではないだろう。もっともっとずっと先ではないかと思う。いつになるのかは分からない。なぜなら、日本国内の事情で変わることはないからだ。変わるとすれば、米国や他の諸外国の事情で変わるだろう。残念だが、日本に米軍基地撤退を決める実質的な決定権はない。

私は長い間、米軍基地撤退派であり、口先だけでなく、実現すべく実際に試みたいとずっと思っていた。そして、そのチャンスが鳩山由紀夫首相のときに巡ってきた。しかし、残念ながら、そのチャンスは活かせなかった。基地問題は一歩も進まなかった。彼を応援したけれどダメだった。かつて私は試みもせずに諦めるのはおかしいと思っていた。何もせずに最初から諦めるひとに批判的だった。だが、私の場合は鳩山由紀夫を応援することで基地撤退を試みたけどダメだったということだ。何もせずに諦めたわけでなく、やってみたけれどダメだったという試みた事実がある。つまり、私が基地撤退が不可能だと判断する理由は、何もせずに想像で判断したのではなく、実際に試みてみた上での判断だ。想像ではなく、事実に基づく判断だということだ。

したがって、今後、私は基地撤退に関しては現実的には不可能だという立場に立とうと思う。もちろん、積極的な容認ではなく、仕方なく消極的に容認せざるをえないという立場だ。もし、鳩山由紀夫を貶す基地撤退派のひとが私を説得するつもりならば、鳩山由紀夫以上の実績を上げた政治家で実際の事例を上げて説得してほしいと思う。この世には存在しないのにそれを持ち出してきて、鳩山由紀夫より優れていると主張するのはナンセンスだ。誰だって鳩山由紀夫の欠点を並べることは容易だろう。だが、彼らは存在しない架空の政治家をいくら持ち出したって仕方がないではないか。架空の政治家では欠点を上げることすらできないではないか。政治はそういう夢想家といつまでも付き合ってはいられない。政治は現実と向き合わねばならない。私のことを撤退を諦めたと言って非難するだろうか?だが、実現できないことをいつまでも言うのは不平不満を述べて自分のストレスを解消をしているのと変わらない。寝言を言っているのと同じだ。政治はそんな寝言にいつまで付き合ってはいられない。説得するつもりがないのも結構だ。いつまでも少数野党でいればいいだけの話だ。説得するつもりなら実績を作ることだ。だが、万年少数野党では実績の作りようがない。したがって、実質的にはこの議論は終わっている。

長くなったので私の主張していることが伝わらないかもしれない。そこで、繰り返しになるが、結論をもう一度書いておこう。つまり、結論とはこうだ。私は考え方としては米軍基地撤退派であり、基地問題に対してとった鳩山由紀夫の行動を高く評価している。同時に鳩山由紀夫を低く評価する基地撤退派は現実が見えていない人たちであり、不当に低い評価だと考えている。また、私としては、基地撤退を試みたがそれが成し得ないことが鳩山由紀夫という事例で分かったので、今後はその経験を踏まえて基地撤退は現状では不可能と考え、私の政策課題から外すこととする。以上。

ちなみに、原発に関しても、近々、方向修正しなければならないかもしれない。私の立場は時間をかけて徐々に脱原発を進めるという脱原発派だ。だが、官邸前デモの脱原発派に対する世間の評価はどんどん下がってきているのではないかと思う。評価が下がる理由は選挙後も彼らが自分たちの主張を修正することも推進派と意見を擦り合わせることもしなかったからだと思う。頑なに自分たちの主張だけを押し付けたと思う。しかし、自分たちだけの意見を一方的に押し付けるのはおかしい。民主主義においては異なる意見と折衷案を見出して妥協しなければならないはずだ。それなのに、彼らは自分たちの主張を一歩も譲らない。これでは世間の評価が下がるのも頷ける。もちろん、これは推進派にも言えることだ。だが、推進派は少なくとも妥協する姿勢は見せている。もちろん、上辺だけだとは思うが。だが、それでも民主主義の手続きは踏んでいる。したがって、脱原発派は選挙結果を踏まえて、表現を変えるか、主張を修正するか、すべきだと思う。

(おおげさに言えば、私の言っていることが正しいかどうかは後世の歴史家が評価してくれると思う。後世の評価において当時の人々がいかに愚かだったかということはよくあることだ。ま、現実を変えられなかったという点では私もその愚かな人々とまったく同じなので、愚かさには大した変わりはないんだがね・・・。それにしても、先のことを考えると憂鬱だ。次の参院選では民主党は惨敗して党存続の危機に陥るだろうからだ。だが、その結果、迎える日本の政治はどうか。自民党が圧倒的多数で第二政党が公明党になるだろう。実質的な自民党一党独裁政権だ。しかも、それに対抗する野党も保守系がほとんどでリベラル政党は日本の中では少数派になってしまうと思う。私のようなリベラル政党支持派にはなんとも嘆かわしい話ではないか。)

2013年6月27日木曜日

蒼井そら『ぶっちゃけ蒼井そら』

蒼井そらの『ぶっちゃけ蒼井そら』を読みました。

ぶっちゃけ、ごくフツーの女の子がごくフツーに仕事して、ごくフツーに仕事を通して成長してゆくというごくフツーの働く女性の物語でした。ただし、フツーと違うのは彼女の仕事がAV女優という、ただ一点です。この本はそんな蒼井そらの生い立ちからAVデビュー、さらにAV界のトップアイドルに成長する現在に至るまでの道のりを描いた自伝的エッセイです。さらに自伝だけでなく、彼女のセックス観や恋愛観、人生観までも飾ることなく率直に語られています。

一般に女性がセックス産業やポルノ産業で働くというと多くのひとは「苦海に身を沈める」というような眉をひそめるイメージがありますが、彼女の語り口からはそのような暗さは一切なく、むしろ明るく前向きで自分が一歩一歩前進して成長してゆくのを楽しんでいるという、喜んで学ぶという姿勢が感じられます。その明るさに無理をしているところは感じられず、いろいろと工夫して努力はしていますが、ひたむきというよりはむしろマイペースで頑張っているという感じがします。

そして、AV女優特有の悩みや葛藤も逃げることなく率直に語られています。それは家族との関係や恋人との関係です。家族や恋人にAV女優であることを打ち明けてAV女優という仕事を認めてもらうまでの悩みやAV女優の仕事を続けながら恋人とセックスしてゆくことの悩みなどです。これらの悩みはAV女優たち全員の悩みでもあると思います。これらの悩みに対して万人向けの普遍的な解答というわけではありませんが、蒼井そらという個人としての解答を提示していると言えるでしょう。もちろん、すべてに完璧な解答を出しているわけではなくて、どうしても答えの出ない矛盾もあります。しかし、彼女は無理に矛盾を歪めることをせずに矛盾は矛盾のままに、矛盾を抱えながらAV女優の仕事をしてゆくという、とても健全な自覚を持って取り組んでいます。

そんな彼女の姿勢を見ているとビジネス書でよくある、現場のたたき上げから成功していったビジネスマンたちのサクセスストーリーと似たものを感じます。そういったビジネスマンたちは仕事でどんな苦難があっても明るく前向きで諦めることなく頑張り、それでいてお客様に感謝するという謙虚な気持ちをいつも持っていたりします。彼らは誤って自分を高く評価し過ぎることはなく、他人が驚くほど自分を客観視しており、自分の利点を生かして仕事をし、自分の欠点を冷静に見つめています。蒼井そらはそういった仕事で成功するタイプと多くの共通点を持っていると感じさせます。

さて、アダルトビデオは映画と違って幻想をできる限り持続させようと努めます。確かに映画も感情移入できるように幻想を持続させようとはします。しかし、最終的にそこから引き出されるのは物語から一歩引いた客観的な視点です。映画は観客を没入させると同時に映画を見終わったときには観客が客観的な視点を獲得できるように支援しています。ところが、アダルトビデオは違います。アダルトビデオは観客がどこまでも性的に酔い痴れられるように幻想をできる限り持続させようとします。そのため、AV女優たちはアダルトビデオの外でも性的な対象としてのAV女優を演じることになります。インタビューや販売促進会でもAV女優として振る舞うことを要求されます。現実のリアルな人間ではなくて、AV女優という現実には存在しない人間を演じさせられます。このため、現実と幻想を見誤ったユーザーから淫乱や売女などという事実とは異なる罵声を浴びせられたりします。しかし、アダルトビデオが幻想をできる限り持続させることを目的としているので、商売上、それにはあまり大きな声で反論してきませんでした。そのため、AV女優と一般視聴者の間にはある種の情報の非対称が生じることになりました。これはAV女優に限ったことではなくて、セックスワーカーたちにも昔から付きまとってきた問題でした。その非対称が見えざる壁となって、周囲の無理解と間違った認識を生み、これまでAV女優たちやセックスワーカーたちに数多くの悲劇をもたらしてきました・・・。彼女たちは侮辱され蔑まれて人格や人間性を否定され深く傷つけられてきました。私は思います。もう、そろそろそんな哀しい悲劇は止めにしませんか?と。人類の歴史は愚かさの繰り返しですが、一方で確かに進歩してきた面もあると思います。人類は愚かさの中で少しずつですが、前進して問題を解決してきました。ですから、この性にまつわる問題も決して解決できない問題ではないと私は思うのです。そう考えるとこの本は今まで語られてこなかったAV女優側からの情報なのです。今までは聞こえてこなかった壁の向こうからの声です。そこで語られているのはAV女優を演じている偽りの声ではなくて、人間としての真実の声なのです。この蒼井そらの本は、可愛らしい女の子の小さな小さなひと声ですが、しかし、非対称の情報の壁に穴を穿つ、ひとつの大きな突破口ではないかと思います。

2013年6月26日水曜日

ぼくの魂の舗装道路の上で

日本の政治について考えていたら、とても憂鬱な気持ちになってしまった。それというのも、このまま進めば日本はとんでもなく自由のない無慈悲な国になるのではないかと思えたからだ。それはSFが描くところのディストピアそのものではないかと思えてくる。ジョージ・オーウェルが描いたディストピア小説『1984年』のような全体主義国家を思い描いてしまう。人々は一党独裁の下、理性も感情も党に支配され、個としての意識は失われ、ただ党への熱狂的な崇拝だけになる。そして次のような狂ったスローガンを酔い痴れるように声高に叫ぶ。
戦争は平和である。
自由は屈従である。
無知は力である。
「自分たちがそんな風になるなんて、そんなバカなことはありえない」と人々は笑うかもしれない。だが、支配が完全なとき、人々は支配されていることに気づかないものだ。しかも現実の世界は子供じみたSF小説と違って、おそろしく周到で極めて狡猾である。私たちが気付かぬうちに私たちの心を捕らえているかもしれない。彼らは巧みに忍び寄り狡知に長けたやり方で私たちの心を裏側から支配するかもしれない。例えば誰に教えられるわけでもなく、次のようなスローガンをいつの間にか心の奥深くに刷り込まれているかもしれない。
負け組には生きる資格がない。
負け組が自殺するのは自業自得だ。
たとえ毎年3万人の人間が自殺しようが、支配された人々はまるで痛痒を感じなくなっているかもしれない。もしも乗っていた電車で人身事故が起きたとしても仕事に遅れることを舌打ちするだけで死者が出たことを気にも止めないかもしれない。もはや私たちの頭の中は仕事と自分のことだけで一杯になり、理性や感情はシステムに支配され、隣人がいつの間にか減っていても一向に気にもかけず、ただシステムが電子的に動かす数字に一喜一憂し、口座の預金残高が増えることだけに喜びを感じる、そんな風になっているかもしれない。

そんな恐ろしい未来を想像すると、とてもじゃないがやりきれない陰鬱な気持ちになる。今日はそんな狂った気分を反映するようなマヤコフスキーの詩を記しておこう。そして、私の妄想が妄想のままであり続け、決して現実にはならないようにと目を閉じて静かに祈ろう・・・。
踏みつけられたぼくの魂の
舗装道路の上で
狂人たちは歩きながら
ぎこちない文の踵をよじる。
都市たちは
絞め殺され、
雲の首吊り紐の結び目には
塔たちが
頸をかしげて
凍てついたところを、
ぼくはただ一人で行く。
十字路で
警官たちが
磔刑にされたと
泣きわめくために。


マヤコフスキー 『ぼく』

2013年6月25日火曜日

小林弘忠『歴代首相』

小林弘忠『歴代首相』を読んだ。

この本は日本の初代首相・伊藤博文から第58代首相・福田康夫まで総勢58名の歴代首相について書かれた本です。日本の政治を考えるとき、「日本の政治の歴史、特に時の宰相である最高権力者について知っていなければ!」という思いでこの本を買いました。最初は「戦前と戦後で分けて考えた方がいいかな?」とも思ったのですが、第二次大戦の敗戦があるとはいえ、やはり政治は繋がっており、戦前も無視できないなということで初代首相から書かれたこの本が値段も手頃だったので丁度良いということで選びました。

この本は各首相について生い立ちから始まり、どのようにして首相の座に登りつめ、首相となってからはどのような政治を行い、首相を辞めた後、どのように人生を締めくくったかまでを簡略に描いています。そういった訳で各々の首相のエピソードも興味深く読めるのですが、ただし読み進めるうちに、私が当初期待していたものとはちょっと違うなということが分かってきました。私が最初に期待したものというのは、時の最高権力者が如何に責任を持ってどのような考えで日本をその方向へ導こうとして政治を執ったのかというものでした。ところが、読み進めてゆくうちにどうやら日本の首相というのはそういう独裁的な日本をリードしてゆく最高権力者ではないというものでした。確かに歴代首相の中には独裁者に近い権力を集約した人も何人かはいます。しかし、それはいわゆる独裁者とはちょっとニュアンスが違います。

ちょっと他の国の例を考えてみましょう。かつての英国などは国王がいて国王が責任を持って国を統治していました。彼は統治において独裁的である一方で統治者としての責任感もあるわけです。(←そのうち議会制ができて国王の権力は失墜してしまいますが。)ところが、日本はどうかというと、例えば江戸時代を考えると天皇という国王がいるのですが、実質的な支配者としては将軍がいて彼が国を支配・統治しているわけです。ところが実際には、その下に老中がいて、彼らが実際の政治を仕切っているわけです。つまり、日本はピラミッドの頂点に為政者がいて、為政者が責任を持って統治するというスタイルになっていないのです。さて、話を本の時代に戻すと、戦後の日本は民主主義になったので、形式的には独裁者がいないスタイルになったかもしれないけれど、戦前の日本は大日本帝国なんていうイカメしい名前だからさぞや独裁者が威張って闊歩してたのかなと思って読むと、どうもそうではないのです。日本の首相は初代の伊藤博文のときから独裁者的ではないのです。構造的には共和制だった頃のローマのように元老院がいて執政官が選ばれて執政官が政治を執るというのに形は近いと思います。ただし、日本の場合は執政官たる首相の権威は低く、むしろ矢面に立たされる兵隊的下っ端的な感じでさえあります。

この執政官と元老院の関係は天皇とそれを陰で操る上皇に似ているのですが、かといって背後である上皇のように独裁者がいるかというと、どうもそうでもないのです。首相を支えている背後の人たちもいずれも独裁者的な側面がないのです。せいぜい山県有朋が独裁者に近いのですが、彼でさえ決定的に独裁者かというと独裁者ほどに強引な政治は執っていないように思えます。そうやって見てみると、どうも彼らには統治者としての責任感が欠如しているように思えるのです。もちろん、私は独裁者が良いといっている訳ではありません。しかし、どの首相も調整役であって、自らの考えを持ってリードしてゆく為政者には見えなかったのです。これは首相だけの責任ではなくて、首相を支える周囲にも責任があるとは思います。東京裁判でも連合国側は戦争の責任が誰にあるのかを巡って裁判をしたのですが、誰が戦争の最高責任者なのか分からず困ったのではないでしょうか?確かに東条英機だという見方はあると思います。しかし、彼は独裁者だったかというとどうもニュアンスが違う。東条は引き算思考の小役人で小さなことで周囲を締め上げていたとは思います。しかし、それは独裁者とは違います。石原莞爾も裁判の中で言っていますが、「自分にはいくらかの戦略はある。しかし、東条はこれっぽちも戦略を持ち合わせていない。皆無である。意見を持っていないものとは論争しようがない」と皮肉を込めつつも的確に東条のことを言い当てていると思います。そうやって見てゆくと日本の政治には君主のような支配者・統治者いなかったのではないかと思えてきます。日本の歴史を振り返ってみてパッと思いつくのは天皇親政をやろうとした後醍醐天皇くらいでしょうか。あとは織田信長が独裁者に相当するかもしれませんが、ただ彼の場合、本能寺で斃れたので統治者たらんとしたかどうか少し疑問です。とにかく、日本にはアメリカ大統領のようなリーダーはいなかったし、成立しなかったのではないかと思います。当人とそれを支える周囲というのがいなかったように思います。

なぜ、そうなったのでしょうか?私は日本人が騎馬民族でなかったからではないかと睨んでいます。世界の文明に目を向けてみると文明の支配者は多くが騎馬民族です。人類はその発展において農業という植物の飼い慣らしをしてきました。次に遊牧という動物の飼い慣らしをしてきました。そして、動物を飼い慣らす経験をした騎馬民族は今度はそれをヒトに応用してヒトを飼い慣らす文明を築いたのです。ところが、極東の島国・辺境日本は騎馬民族が支配者にはなりませんでした。そのことは中国の後宮のように宦官がいないことからも明らかです。宦官は去勢の技術が発達した結果、生まれた技術です。去勢は遊牧において動物を飼い慣らす技術から発展したものです。ところが、日本には宦官はいませんでした。そのため『源氏物語』に見られるように天皇の女たちに光源氏が手を出したりできたわけです。つまり、日本人は騎馬民族ではないためか、人を飼い慣らすこと人を支配することにあまりにも慣れていない節があります。極東の島国という辺境だからこそ起こった特殊な事情だと思います。

それにしても「ヒトがヒトを支配する」というのはあまり愉快な考えではありません。しかし、文明を支えていたのは農業に従事する奴隷だったという事実を見過ごすことはできません。また、従順になれない奴隷は兵士として軍隊に送られました。軍隊に送られて兵士として活躍するか、早めに間引かれるかのどちらかだったのではないでしょうか。時代が進むにつれて奴隷制も無くなりますが、それはヒューマニズムに目覚めたからというわけではなくて、他人に強制されて働く奴隷よりも自らの意思で働く労働者の方がよく働くという理由で奴隷制が無くなったという面もあります。このように文明とはヒトがヒトを支配する歴史だったという見方もあるのです。話は違いますが、シェークスピアの作品にもそのような人間観があってアメとムチでヒトを操るという場面が見られます。シェークスピア嫌いの人がいますが、彼らはそういうのをみて「人間とはまるで家畜のようなそんな単純なものではない」という思いでシェークスピアを嫌うのだと思います。ちなみに私もそういう人間観は好きではありません。しかし、厳然たる事実として文明社会とはそういう側面があるのも否定はできないと思います。

さて、何の話でしたでしょう?そうそう、日本の最高権力者に支配や統治する権限が与えられておらず、その責任感がないという話でした。いや、制度として権限は与えられているのだけれど、実際には歴史的な習慣のためか、それが機能していないという話でした。ならば、制度を大統領制にしろという意見があると思いますが、おそらく、制度を変えても日本人の習慣としてそれを機能しないものにしてしまうと思います。ここまで来ると日本人の精神構造の問題ではないかとさえ思えてきます。河合隼雄が指摘していましたが、日本人の精神構造と西洋人の精神構造は違うそうです。簡単に喩えて言えば、日本人がユング的であるのに対して西洋人はフロイト的であるそうです。確かに日本人の大衆の無意識はユングの集合的無意識に通じるものがあるような気がします。しかし、そうなってしまうと日本人はとことん政治に向かない民族だと思います。ある意味、日本人は支配される側でこそ力を発揮する民族なのかもしれません。組織の歯車としてよく働くが、少々頭が堅くて融通の効かない、しかし実際的な技術にかけては右に出るもののない優秀なエンジニア、(実際、世界で活躍する日本人ってそういう技術者が多くありませんか?)それが日本人に最もふさわしい姿なのかもしれません。え?私ですか?私は違います。私は日本人の中では変わり種の異端児ですから(笑)。ともかく、そうはいっても日本も独立国家なのですから、日本の首相は自己の信念に基いて自らの意思と責任をもって国を統治してほしいものだと思います。

えーと、随分、本の内容とは違う話になってしまいました。以上の記述は私が本を読みながら考えたまったく別のこと、妄想の話です。とにかく、現在の日本の政治を考えるためにも、大人の常識として日本の歴代の首相は知っておいた方が良いと思いますよ。

※文中で述べた日本人の精神構造については下記の本を参考になさって下さい。

2013年6月24日月曜日

東京都議選の感想

今回の東京都議選の感想です。

私は民主党を支持していたので今回の民主惨敗は残念な結果だった。しかし、結果を見て驚くということはなく、予想した結果だった。まず、今回の選挙について私なりの分析を述べておく。まず、民主党だが、選挙前の様子では民主党を批判はしても支持する声は見受けられなかったので前回の衆院選と同様に議席を大幅に減らすだろうことは予測できた。一方、自民党に関しては株価に陰りは見えるもののアベノミクスに対する世間の評価はプラス評価こそすれマイナス評価はほとんどなかったと思う。したがって、都議選においても前回の衆院選と同様に議席を大幅に増やすだろうことは予測できた。また、維新に関しては橋下慰安婦発言の悪影響で得票を大きく減らすだろうことも予測された通りだった。みんなの党の伸びは橋下慰安婦発言がなければ維新に流れていたはずの票がみんなの党に流れた結果だと思う。唯一、共産党が議席を倍増したのが意外だった。どのような有権者の意思が働いたのかは今のところ明確な答えは得られていない。ただ、これは東京という大都市だから成し得た結果であって国政になるとそうは伸びないだろうと思う。それから、生活の党、社民党、緑の風に関しては議席を確保できないだろうことは選挙する前からおおむね分かっていたのではないだろうか。したがって、投票率が低くなるのも予想できたことだと思う。政治に無関心な層に訴えかけるような話題性が今回の選挙にまったく無かったからだ。こうしたことを踏まえれば、今回の選挙結果は想定の範囲内で驚くことは何もなかった。

ところで、私がなぜ民主党を支持するのかについて理由を述べておこう。私は保守政党とリベラル政党による二大政党制を支持しており、保守政党ではなくリベラル政党を支持している。したがって、自民党ではなく、民主党を支持するという結果になる。もちろん、政策で支持する政党を考えてはいる。そして、今の日本にとって喫緊の政策課題は何と言っても財政問題を抱えた経済政策だと考えている。ただ、そこでとれる経済政策は限られており、実はどの政党が政権を取ってもそう大して大きな違いが生じるとは思っていない。あえて言えば、経済成長重視タイプか社会福祉重視タイプかのいずれかだと思っている。だが、どの政党が政権を取っても、どちらか一方に偏重することはないと思っている。

それ以外の政策については、1つは基本的には今の憲法を変えるべきではないと考えている。言論や表現の自由を規制すべきではないし、個人の自由を制限して国民を縛ったりナショナリズムを強要するような憲法に変えるべきではないと考えている。ただ、9条に関しては自衛隊を軍隊と明記しても構わないとは思っているが、今、それを急いでする理由はないと思っている。逆に変えて欲しいと思うのは天皇制で、私としては天皇制を廃止すべきだと考えている。天皇家の人権のためにも平等な人権のためにも天皇制は廃止した方が良いと考えている。アメリカのように人間はみんな平等であるべきだと思う。ただし、9条改正や天皇制廃止についてはどうしても今すぐに変えてほしいというわけではない。いずれ変われば良いと思っている。したがって、今、何よりも重視すべき政策は経済政策でそれが支持政党を選択する指標となる。

さて、今回の都議選の結果から、次に控えている参議院選挙はこの選挙結果を反映するような結果となるだろうと思う。つまり、自民・公明が大躍進して大幅に議席を増すことが予想される。逆に民主党は大幅に議席を減らすと予想される。そうなれば、自民党が憲法改正に着手して、いよいよ現在の憲法が自民党の憲法改正案に置き換わる日が来ることになるのは目に見えている。だが、私がいくら不満に思おうと有権者が多数決で選んだ結果なのだからどうしようもない。唯一、頼みの綱は米国で、米国政府が自民党が提案している新憲法に難色を示して修正するように働きかけてくれることだけだ。今まで米国を批判してきた日本人のまさに自分勝手な都合の良い頼みごとではあるが・・・。ただ、私の場合は米国を批判しつつも米国の良い点は評価してきたつもりだから、米国に頼ってもそんなに自分勝手だとは思わないが・・・。とはいえ、米国が日本を助ける義理はなく、米国にとって何らかのメリットがあるのであれば難色を示すだろうとは思う。

とにかく、自民党の憲法改正案に大反対している私としては、今回の都議選の結果はいよいよ次の参院選で自民党が大勝する前兆であり、ひいては憲法改悪へ前進してしまったという憂鬱な気持ちがますます募る選挙結果でした。

2013年6月23日日曜日

浅田彰『逃走論』

今回は浅田彰の『逃走論』を取り上げます。

私がこの本を初めて手にとったのは1990年頃ではなかったかと思います。私が浅田彰を知ったのは京都大学の数学者でエッセイストの森毅の文章を読んで知ったのが初めてではなかったかと思います。森毅については高校生の頃、森毅の著書で中公新書から出ていた『数学受験術指南』を父親に薦められて読んで知っており、それ以来、私は森毅のファンになってしまい、なんとなく彼の書いたものを目にしたら読むようになっていました。それで森毅の文章を新聞か何かで見つけては読んでいたのですが、その中のどれかだと思うのですが、具体的にどこで浅田彰の名前を知ったのかは残念ながら忘れてしまいましたが、確かニューアカデミズムという名前と同時に目にしたような気がしています。それから話は少し違いますが、後日になって気付いたのですが、確か高校の国語の先生だったと思うのですが、授業中の雑談で「最近、天才が出たといって世間を騒がしている若者がいるが、頭でっかちなだけで経験のない若者に何ほどのことが分かるのか?!」といった批判的な話をしていたのを覚えており、あれはおそらく浅田彰のことを言っていたのだなと後になって気付いたりしました。まあ、年寄りが若者に嫉妬して批判するみたいな感じでちょっと情けない批判だったのですが、それでもまだ浅田彰を読んでいただけその先生はマシで、最近の教師などは生徒に本を読めといいながら、本人は全然読まんでいないなんてことはザラにあるのではないかと思います。


目次

逃走する文明
ゲイ・サイエンス
差異化のパラノイア
スキゾ・カルチャーの到来
対話 ドゥルーズ=ガタリを読む


マルクス主義とディコンストラクション
ぼくたちのマルクス
本物の日本銀行券は贋物だった
共同討議マルクス・貨幣・言語


ツマミ食い読書術
知の最前線への旅
N・G=レーゲン『経済学の神話』
今村仁司『労働のオントロギー』
広松渉『唯物史観と国家論』
栗本慎一郎『ブタペスト物語』
山本哲士『消費のメタファー』
柄谷行人『隠喩としての建築』
山口昌男『文化の詩学1・2』
蓮実重彦『映画誘惑のエクリチュール』

さて、この『逃走論』ですが、第Ⅰ部は楽しく読むことができました。私の場合、森毅を読んでいたので内容的には第Ⅰ部は森毅的に理解することが容易かったです。第Ⅱ部はこの本で一番難解なパートではないかと思います。特に柄谷行人・岩井克人との三人での共同討議は「よくもまあ、こんな小難しい会話ができるものだ」と感嘆のため息をもらしたものでした。ですので、第Ⅱ部は、後日、大学生になってからじっくり読んだ記憶があります。第Ⅲ部のツマミ食い読書術などは学生にとってとても魅力的な手引きでした。紹介されてある本は片っ端から読みたくなりましたし、当時は現代思想が花盛りだったので書店にも現代思想関連の本がたくさん並んでいました。あの頃の私は本当によく本を買っていましたね。もう、大きな本屋さんへ行くと「あれも欲しい、これも欲しい」で本屋から出るときは財布の中がいつもスッカラカンになっていました(笑)。今となっては楽しい思い出です。そういえば、当時は本を手元にたくさん置いておかない気が済まなかったのでカバンに何冊も本を詰め込んでは持ち運びしていました。読みたくなったらいつでも読めるように読みたくなりそうな本を何冊もカバンに入れていたのです。結局、あれこれ読んでゆくうちに本当に読みたい本が手元になくて何のためにカバンに本をたくさん詰め込んでいたんだと悔しく思うこともしばしばありました。本当に読みたくなった本は自宅の本棚に置いてきたなんてことがしばしばでした。本の重みでカバンの肩紐が食い込んで痛かったのを覚えています。これも今となっては懐かしい思い出です。

ただ、この本ではマルクスがたびたび引用されているので、ソ連が崩壊してしまった今となっては意味のない文章になってしまったのではないかと危惧される人もいるかもしれません。まあ、マルクスは、元々、批判をするだけで「じゃあ、どうするのか?」という実際的な解決策については未熟なままでしたからね。ただ、第Ⅰ部のスキゾキッズの精神だとか第Ⅲ部の読書術だとかは今の若者たちにも十分に役立つと思います。いえ、むしろ今の時代だからこそ逃走論は役立つと言えるかもしれません。なぜなら、これが書かれた当時とは違って、今の時代は大企業の時代ではなく、個人の時代になりつつあるからです。喩えて言えば重厚長大な巨大戦艦の時代から軽薄短小で個々人が活躍する戦闘機の時代になりつつあるからです。そして、個々の戦闘機が活躍する時代こそスキゾキッズたち逃走論の時代ではないでしょうか。私たちはグローバル競争という地球規模の大きなうねりの中で軽やかに、しなやかに、そして、したたかに駆け抜けてゆく。スキゾキッズの本当の冒険はまさにこれから始まるのではないでしょうか。

追記
ちなみに私が浅田彰の本で最初に手にとったのが、島田雅彦との対談集『天使が通る』でした。これが確か1989年か1988年頃だったと思うのですが、今ひとつ記憶が定かではありません。対談の最初の方で漫画『北斗の拳』が参照されていて親しみを覚えたのを覚えています。でも、「卑近な例」として『北斗の拳』が上げられていたので、漫画ばかり読んでいた自分が少し恥ずかしかったという記憶も残っています。とにかく、浅田彰の知識の多さとハイカルチャーでハイセンスな感覚にテキストを読んでいる自分がどこまで理解できているか分からずやや不安でしたが、それでも楽しく読むことできました。

それから、何の雑誌だったかを忘れたので記憶違いかもしれませんが、テーマはマルクスだったのですが、浅田彰と誰かの対談だったのですが、半分以上がマルクスではなく、ケインズの話ばかりでびっくりした記憶があります。しかも「ケインズはゲイだけど、バレリーナの奥さんを貰ってカッコイイ!」みたいな内容で(笑)、「おいおい、テーマはマルクスとちゃうんかい」とツッコミを入れたくなるような対談でした。あのときはまだ冷戦崩壊前でしたが、既に浅田はマルクスをある程度見限っていたのではないかと当時思ったものでした。


2013年6月22日土曜日

原紗央莉『本名、加藤まい~私がAV女優になった理由~』

原紗央莉『本名、加藤まい~私がAV女優になった理由~』を読んだ。

この本は2009年から2011年にかけてAV女優として活躍していた原紗央莉の自伝である。まず、最初に断っておこう。「彼女がAV女優になったのには辛い過去があって仕方なくAV女優になった」というようなお涙頂戴的な人情ばなしをこの本に期待してはいけないということだ。彼女には他人に同情してほしいというような女々しい気持ちは一切ない。そんなものに対しては彼女は怒って蹴りを入れるくらいだろう。では、この本には一体何が書かているのか?

ここに書かれているのは彼女の決意であり宣言なのだ。世界中を敵に回しても自分の足で立ち、どんなに向かい風が強くとも、たとえそれが身を切り刻む嵐であっても、まっすぐに前を見据えて突き進んでゆくという強い強い決意なのだ。しかも、「来るなら来い!受けて立つ!」といった敵に対して堂々と胸を張って生きてゆくという、まるで獅子の宣言なのだ。確かにこの本を執筆したときの彼女はたかだが21歳の小娘に過ぎない。だが、ひとの決意に年齢は関係ない。他人から見れば他愛のない理由かもしれないし、考え方も稚拙かもしれない。しかし、未熟ながらも本人がそのときどきを本気で生きて真剣に考えて下した決断なのだ。万一、間違っていたとしても、おとしまえは自分でつけるし、その覚悟は既にしてある。
そう、この決断は戦士の決断なのだ。

普通のひとは自分がAV女優であることを隠す。親にも隠すし、友だちにも隠すかもしれない。本名なんて隠して当たり前だ。本名を知られて故郷で後ろ指なんて指されたくない。何年かAV女優として働いて幾らかのまとまったお金を稼いだら、あとは引退して世間にバレないように群衆にまぎれるだけ。小賢しいと言われようがかまやしない。稼いだお金を数えながら、チョロっと舌を出してニンマリするだけ。賢く生きようではないか。普通はそう考える。ところが、原紗央莉は違う。小賢しく立ち振舞おうなんてこれっぽっちも考えない。彼女はAVで裸やセックスを人前に晒すだけではない。本名まで世間に晒す。しかも、その晒し方が尋常ではない。本にして晒す。しかも、文章の中に晒すのではない。本のタイトルという一番目につくところにデカデカと出して晒す。彼女は気でも狂ったのか?それともヤケクソなのか?もしかしてドMなのか?いや、そうではない。彼女は正気だ。しかも、とことん本気だ。彼女は自分の選択に胸を張っていたいのだと思う。陰でコソコソとAV女優をして稼ぐなんて気はサラサラない。「陰でコソコソとAV女優をしてるって?コソコソしてねぇよ!あたしの選んだ選択になんか文句あっか?」と言ってバーンと本名を叩きつけたのだ。言っておくが、これは開き直りではない。むしろ、性分だと思う。曲がったことができない、不器用と言われようがまっすぐにしか生きられない彼女の性分なのだと思う。

この性分がこの本を彼女に書かせたのだと思う。もちろん、「仕事の企画として勧められたから」というのもあるだろう。しかし、そんなものはあくまで表面的な事象に過ぎない。彼女の心の中で執筆へと突き動かしたものはもっと別で、それは個人的な動機からだと思う。では、その個人的な動機とは何なのか?それには「この本は誰に向けて書かれたのか?」について考えてみる必要がある。まず、この本は誰かに分かってもらいたいという気持ちで書かれたものではないと思う。おそらく、自分自身に向けて自分自身のためだけに書かれたものだと思う。では、いったい彼女は自分に対して何が言いたかったのか?そして、何をしたかったのだろうか?それを解き明かすには、彼女の置かれた状況について考えなければならない。彼女もAVという仕事が世間でどのように評価され、AV女優が世間からどういう目で見られるかは十分に知っている。それなのになぜ本名を晒してまでこのような本を書いたのか?下手をすれば、AV女優というレッテルが一生ついてまわるかもしれない危険があるのに。なぜか?それは「自分にウソをついて生きていけるだろうか?」という問いにすべてが集約されていると思う。そう自分に問うたときの彼女の答えは”否”だと思う。「自分が自分にウソをついて生きていくことはできない。そんなことをすれば自分の意思に自分が飲み込まれてしまう」と感じ取ったのではないかと思う。「自分の意思に自分が飲み込まれてしまう」とはどういうことか?これを説明することは少々難しい。私たちの人格を構成している要素は言語で、人格は言語で構成されたOSのようなものだと思う。だが、OSは心の表層に過ぎない。心にはもっと奥がある。それは無意識のことを言っているのか?いや、無意識よりももっと深層だ。心の最深部には未だコトバにならない意思のうねりのようなものがある。あるいは、言い方を変えれば精神のエネルギー、魂のマグマといったようなものがあると思う。それは私たち生物を創造的進化に促すものと同じであり、ベルクソンのいう精神のエネルギーそのものだと思う。その精神のエネルギーが自分自身である人格と対立してぶつかったとき、大波が小舟を粉々に叩き潰してしまうように意思のうねりがちっぽけな人格を破壊してしまうのだと思う。おそらく、彼女は本能的にそれを感知したのだと思う。では、どうすれば自らが自らを破壊せずに生きられるのか?答えは1つしかない。つまり、人格と精神エネルギーが一致するしかないのだ。もし、心と魂が一致していれば、たとえたった一人で世界中を敵に回しても負ける気はしない、おそらく、そのように感じ取ったのではないかと思う。その意思の顕れとして打ち立てられたのがこの本というモニュメントだと思う。そう、この本はモニュメントなのだ。彼女の意思が結晶したモニュメントなのだ。彼女の人格とエネルギーを一致させるためにモニュメントが必要だったのだ。

私が感動するのは彼女の意思の強さだ。といっても世間一般にいわれる意思の強さではない。自らをも灼き尽くすかもしれないほど強力な生命のエネルギーに感動するのだ。世界中を向こうにまわしても勝てると思わせる強力な意思力。何ごとも直接的でかつ不器用で、ときにはあっけないほどに忍耐力もなさそうだけれど、何者の力が掛かっても動かしがだい底力というか、まるで恒星のような存在力のある人間、それが原紗央莉だと思う。現代は情報化社会が進むにつれて人々は知的になった一方で、どんどん小賢しくなったとも言える。みんな、小粒になってしまい、野性味は失われ、かつては燃えるようだった生命力も穏やかな蛍光灯のような弱々しい光に変わってしまった。そんなときに現れたのが原紗央莉だった。彼女はセックスの女王というよりはむしろセックスの虎だ。そして、ガツンと一発世間の男どもにパンチを喰らわす。

「あたしがAV女優原紗央莉だ!文句あっか?」

2013年6月21日金曜日

ラリー・カハナー『AK-47 世界を変えた銃』 

かの有名な突撃銃AK-47について書かれた本です。
目次
第1章 祖国を守る
第2章 AKとM16の対応パート1
第3章 パンドラの箱
第4章 アフリカのクレジットカード
第5章 ラテン・アメリカのカラシニコフ文化
第6章 アメリカを訪れたカラシニコフと彼の銃
第7章 国連も認めたほんとうの大量破壊兵器
第8章 AKとM16の対決パート2
第9章 AKをもう一度売り込む
エピローグ AK最後の?日
     



私はガンマニアでもミリタリーファンでもなく、通常のライフルとアサルトライフル(突撃銃)の違いさえ知らなかったので大変参考になりました。AK-47についてはさいとう・たかをの漫画『ゴルゴ13』ではしばしばゴルゴの持つM-16とこのAK-47が対決する話があるので名前は知っていましたが・・・。

AK-47Ⅱ型
※バナナ型の弾倉が見た目の特徴なんでしょうね。

さて、AK-47の特徴としては、よく知られた事実ですがAK-47は劣悪な環境にあってもメンテナンスを必要とすることなく、すぐに実戦に使えるというのが大きな魅力です。例えば長期間に渡って泥沼の中に埋まっていてもそのまま弾倉を装填すれば撃つことができるそうです。米国のM16ではそうはいきません。M16はメンテナンスを必要とし、劣悪な環境下では故障を起こしやすいそうです。ベトナムなど過酷な条件ではたいへん扱いにくいようです。

なぜそのような違いが生じるのかというとAK-47は構造がとてもシンプルだからだそうです。真理がシンプルなものであるのと似ていますね。それだけ合理的にできていると見ることもできると思います。そのため操作も簡単なようで少年兵でも1時間も訓練すればすぐにAK-47を撃つことができるようになるそうです。ですので、少々手荒に扱っても壊れないしメンテナンスも必要としない、操作も簡単で誰でもすぐに使えるということで非常に重宝されたようです。さらに使うものにとっての利点はAK-47の価格がとても安いことです。安いので誰もが簡単に大量に購入することができるそうです。

そのため、AK-47は様々な戦場で活躍してきました。ベトナム、アフリカ、中南米、アフガニスタン・・・。この本では世界各国でAK-47が使われた歴史を負っているので、近代の戦争・紛争の歴史も同時に追うことができます。まあ、逆に言えば、それだけAK-47が頻繁に使われてきたということなのでしょう。驚いたことに国によっては国旗にAK-47のシルエットを入れているところもあるくらいです。

この本ではAK-47の生みの親についてもその生涯を追跡しています。AK-47の設計者ミハイル・カラシニコフは第二次世界大戦でナチスドイツと戦って負傷し、ナチスに負けないライフルを開発して祖国ソ連を守ろうと決意して生まれたのがAK-47だったそうです。彼は元々は銃の設計について専門の教育を受けたわけではなくて、いわゆるたたき上げで銃の設計に携わるようになったそうです。そのため、予備知識がなかったのが幸いして先入観にとらわれることなく合理的に銃を開発できたのではないでしょうか。また、他の銃からもその優れた点をどんどん取り入れたそうです。専門教育を受けたわけではないので、他からどんどん良いところは取り入れようという一種の謙虚さだったのだと思います。そうやって開発されたのがAK-47です。彼は祖国に貢献したい一心だったので開発した当時はまったく金儲けには興味が無かったそうです。ところが、冷戦が終焉してアメリカに招かれてM16の開発者であるユージン・ストナーに会ってみるとM16のライセンス料で大金持ちになっているのを見て大変驚きます。M16が1丁売れるごとに1ドルがストナーに入るそうです。凄い契約ですね。一方、カラシニコフですが、彼にとって残念だったのはAK-47はすでに共産圏の国に無償で製造方法についても提供されていたので彼には一銭もお金が入らなかったそうです。しかし、AK-47の普及のおかげでカラシニコフの名前も有名になり、ウィスキーの名前にカラシニコフと付けたりしてちょっとした商売にしたそうです。それだけAK-47が世界的に普及したということでしょうね。

この本を読んで知ったものにTV映画『44ミニッツ』があります。実際にロサンゼルスであった銀行強盗を元にした映画なのですが、たった二人の犯人たちがAK-47を持っていて数十人の警官と撃ち合いになったのですが、警官の装備している銃では歯が立たなかったという恐ろしい話です。突撃銃の破壊力や有効性がこの映画を見るとよく分かります。



拳銃や散弾銃とは違って一定の距離をとった間での戦闘では突撃銃はとても有効な武器なのでしょう。ただ、もっと遠距離の狙撃になるとライフルの方が有効なのではないでしょうか。私は専門家ではないので間違っているかもしれませんが。

米国では銃による事件が跡を絶ちません。早く銃規制をすればいいのにと思うのですが、全米ライフル協会などの団体がそれを許さないのでしょう。2013年4月に銃規制強化の法案が否決されたとき、オバマ大統領は強い口調で「恥ずべき日だ」と非難しました。私も同感です。そんな米国ですが、銃規制を描いた名作映画に『ニューオーリンズ・トライアル』があります。ジャンルは法廷ものですが、とても参考になると思います。


2013年6月20日木曜日

フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(訳:村上春樹)

ちょっと前に読んだ小説ですが、最近、レオナルド・ディカプリオ主演で映画が公開されたようですので感想を書いておこうと思います。それはスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』です。ちなみに読んだのは村上春樹訳の方です。

私自身は『グレート・ギャツビー』は有名なので名前は知っていましたが、あらすじとかを読んでみたのですが、あまり興味が持てなくて読んでいませんでした。さらに後に村上春樹が名作だと言っているいうことで読まなくちゃいけないかなあという気持ちになったりしたのですが、それでも読んでいませんでした。それからさらにウィキペディアで解説を読むと「英語で書かれた20世紀最高の小説で2位」と書かれてあったのでますます読まなくちゃという気になり、とうとう本を購入したのですが、それから随分長い間積読になってしまい、ようやく最近になって読んだというのが実情です。

さて、「読んだ感想は?」と言うと「小説のいわんとすることは分かるけど、しかし、世間で言われるほど高く評価されるほどの小説だろうか?」というのが正直な私の評価です。世間の評価というのは案外あてにならないなあというのが率直な感想です。ただ、私自身が気づいていない良さがあるのかもしれないという一抹の不安も少しありますが・・・。


さて、ストーリーはとてもシンプルで、貧しい青年ギャッツビーが好きな女性デイジーのハートを射止めるために無理して金持ちに成り上がるのですが、デイジーたちが住むハイソサエティーな連中との間に育ちの違いからギャップが生じるといった感じです。結局、ギャッツビーの夢は叶えられずに挫折するのですが、そのギャッツビーを傍らで見ていた友人のニックがギャッツビーの純愛に感動しつつ、ハイソサエティーに対して厭世観というか達観みたいなものを得て、デイジーたちの見せかけだけのハイソサエティーを捨て去るというような話です。

この物語の重要な点は2つあって、1つは金持ちたちに対する批判、もう1つはニックの得た達観です。金持ち批判については当時のアメリカ社会を知っていることが大事でそこまでに至る歴史と当時の状況というのを知っていないとこの金持ち批判はいまひとつ伝わってこないのではないかと思います。それから、もう一方の重要なポイントである達観ですが、これはフィッツジェラルドの後の世代で流行ったサリンジャーなどに代表される超絶主義に通じるものがあるのだと思います。いや、超絶主義までいくと行き過ぎになってしまうかもしれません。村上春樹などは適度な距離感を大事にしているのだと思いますから、超絶主義のようにあまり世間から乖離してしまうのも彼のリアリズムに反するのだと思います。程良い距離感。それが村上春樹の表面的なオシャレさだったり、深層におけるリアリズムだったりするのだと思います。

この作品はロシア文学のような深い感動を得られるという物語ではありません。しかし、作品の舞台が1920年代のちょっと古いアメリカですが、現代の社会に対しても十分に通じる世界観とかニヒリズム的な態度やクールなリアリズムがあるのだと思います。読後にクールな余韻が残るのがこの作品の魅力なんでしょうね。


『グレート・ギャツビー』をより深く理解するためには当時のアメリカ社会を知っておいた方が良いので、下記にアメリカ社会を知るための参考文献を挙げておきます。いずれも資本主義やアメリカ社会を考える上でとても参考になる本だと思います。





2013年6月19日水曜日

アニミズムとシャーマニズム

久しぶりに宗教について再び考えてみます。(前回、宗教について考えた記事はここを参照して下さい。)

さて、宗教とは何でしょうか?この問いに対して私なりの見解を述べてみます。今回は歴史的な経緯としてどのように宗教が生まれてきたかをおおざっぱに考えます。ただし、これから述べる見解は私の推測であって、学術的な裏付けはありません。


1.アニミズムとシャーマニズム

まず、遥か昔、文明社会が生まれる以前の人間社会には、最初はアニミズムとシャーマニズムがあったと考えています。

アニミズムとは精霊信仰のことで自然の中などいろんなところに精霊が存在するという考えで、次第に精霊を神秘的なものとして敬うようになっていったのだと思います。現代人の私たちも雄大な自然を見たりするとそこに何かしらの神々しさを感じたりしますが、アニミズムはそのような人間の基本的な感覚がもとになって形成されたのだと思います。

次にシャーマニズムですが、実はシャーマニズムとは何なのかはよく分かりません。シャーマニズムはシャーマンという専門家が行なっていたもので人を呪ったり癒したりしていたようです。例えば呪医(メディスンマン)といわれるように治療師であったり、黒魔術師といわれるように破壊者でもあったりしたようです。ただし、それはシャーマンが生活するための生業に過ぎず、シャーマンが実際に何をしていたのかはよく分かりません。学者の研究で共通して分かっているのはシャーマンは脱魂と憑依という技術を持っていたらしいということだけです。それらが本当は何を意味するのかよく分かりません。しかも同時代に生きた周囲の普通の人々でさえ、シャーマンが何をしているのか、シャーマニズムが何なのかよく分からなかったようです。

いずれにしろ、話を整理すると、文明社会が出現する以前は宗教と呼ばれるようなものとしてはアニミズムとシャーマニズムの2つがありました。ところが、人類社会が文明社会に変化したときにそれらも大きく変容していったようです。そのとき、いわゆる宗教が出現したのだと思います。


2.アニミズムから宗教へ

さて、人類社会が文明社会に変化したとき、アニミズムは一神教や多神教など神を崇拝したり信仰したりする宗教へと変わっていきました。都市化した文明社会ではアニミズムは次第に体系化されて、多神教や一神教に収斂していったのだと思います。例えば、インドのヒンドゥー教や古代オリエントの多神教、あるいはユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教のように洗練されていったのだと思います。しかし、文明社会の周縁ではアニミズムが残ったところもあります。例えば、日本の神道がそうです。神道はアニミズムに近い形で残りました。あるいはアメリカインディアンの精霊信仰はアニミズムの原形を非常に色濃くとどめていると思います。

基本的には宗教はこのように神を崇拝するものだと思います。


3.シャーマニズムの衰退

では、アニミズムが宗教に変わったとき、シャーマニズムは何に変わったのでしょうか?実はあまり変わらなかったといえるかもしれません。というのもアニミズムと違ってシャーマニズムは継承者が少数でしたし、治療師などの特殊な技術の専門家でしたのでそのままの形態で残る場合が多かったようです。ただし、文明化が進むにつれて次第にシャーマニズムは減少していったようです。当時の人々の間でよく言われていたのは昔のシャーマンに比べると文明化が進むにつれてシャーマンの力が弱くなっていったそうです。そのため、シャーマニズムは人々に必要とされなくなり、次第に衰退していったようです。


4.仏教とは何か?

ところで、仏教とは何なのでしょうか?

日本では仏様を崇拝する宗教のように勘違いする人もいるかもしれませんが、本来の仏教は仏様を神のように崇拝するものではありません。そういう意味では仏教はアニミズムから発展していった宗教とは違うと思います。

では、一体仏教とは何から発展したものでしょうか?確かに仏教は釈迦が突然変異的に始めた宗教と見ることもできるでしょう。しかし、私はそうではなくて仏教も過去の継承から生じたものではないかと考えています。釈迦という天才が何の脈絡もなく仏教という知の体系を突然に創り出すというのは少しおかしいと思うのです。何らかの歴史的な過去からの知の継承があるのではないかと。では、一体それは何なのか?実はシャーマニズムが変容した結果、仏教に変化したのではないかと私は考えています。文明化が進んだときアニミズムが体系化されて宗教に変容したように、シャーマニズムも体系化・言語化されて仏教という形態になったのではないかと思っています。まあ、そのような歴史的な痕跡は実際にはないと思います。あえて極端なことを言えばバラモン教の神秘主義をさらに変化させて生まれてきたのが仏教といえるかもしれません。

では、シャーマニズムから変容したものは仏教だけでしょうか?世の中には神秘主義と言われるものがありますが、私が思うに神秘主義といわれるものもシャーマニズムから変容したものではないかと考えています。すべての神秘主義がそうというわけではありませんが、神秘主義のいくつかは、極端な言い方をすれば、シャーマニズムが変容して神秘主義になったと言えると思います。そういう意味では仏教は神秘主義の1つだと思います。あるいは、言い方を変えると神秘主義の中でもシャーマニズムを最もよく継承しているのは仏教ではないかと思います。


5.宗教と神秘主義

さて、宗教というと私たち日本人は仏教や神道を想像してしまいます。しかし、上述したように一般に宗教と呼ばれるようなものと仏教は随分違いますし、神道も宗教以前のアニミズムに近いもので一般に言われる宗教とは少しニュアンスが違います。

繰り返しますが、一般的にいって宗教とは神を崇拝するものです。人間が持っているアニミズムの感覚が残って洗練されて神を崇拝し信仰するようになったものが宗教だと思います。それが一神教の場合もあれば、多神教の場合もあるのでしょう。しかし、いずれにしても神を崇拝するという意味では同じだと思います。

ところが、仏教はそれとは違います。神を崇拝するわけではないからです。現代人は仏教も一緒くたにして宗教とひと括りにして言いますが、それはあまり正しくないと思います。仏教は本質的には神秘主義です。

ただし、ややこしいのは宗教の中にも神秘主義といわれるものがあります。例えばイスラム教の中にはスーフィズムと呼ばれる神秘主義があります。どうもイスラム教に限らず他の宗教でも突き詰めてゆくと往々にして神秘主義に辿り着く場合があるようです。果たしてそれらは宗教なのでしょうか?それとも神秘主義なのでしょうか?実際、それらをどちらに判別すればよいのか分からないことが多いと思います。

それから、読者の中には「神秘主義も宗教の1つに過ぎない」という意見もあると思います。それはその通りで、そのようにカテゴライズする考え方もアリだと思います。ただ、私が言いたいのは宗教の起源を考えたとき、アニミズムとシャーマニズムの2つがあり、アニミズムからは神を崇拝・信仰する宗教が生まれ、シャーマニズムからは神秘体験を基本とする神秘主義や仏教が生まれたのだということです。このように2つの流れがあるのに多くの人はこの2つの違いを無視して混同してしまっていると思うのです。

6.宗教と哲学

さて、ようやく哲学の話です。宗教と哲学には密接な関わりがあります。哲学の起源をギリシャ哲学とする見方がありますが、そのギリシャ哲学も後にイスラム教神学に取り入れられたり、さらにキリスト教神学に取り入れられたりして神学としてある意味高度化されます。それらは一神教的な存在論ではありますが、高度な哲学をそこに構築しました。また、仏教などは中観や唯識などのように独自の哲学を積み上げてゆきました。このように哲学はかつては宗教だったとさえいえるかもしれません。その中には古の賢人たちの知恵が詰まっています。確かにそれらをそのままの形で使うことは出来ないでしょう。しかし、それらをまったく参考にしないのはちょっと勿体無いと思います。ですから、哲学を学ぶために宗教を知っておくことは決してムダではないと思います。



2013年6月2日日曜日

雑感 華原朋美から日本経済の行く末まで

華原朋美を久しぶりに見た。90年代をしんみりと思い出したりした。小室哲哉やケイコを思い出したり、直接関係ないけど中森明菜を思い出したりした。それとエヴァンゲリオンを思い出したりした。

日本のテレビ文化・・・。「テレビの時代は終わった」と言っても消えてなくなる訳ではない。映像メディアやテレビ放送文化はこれからも残る。テレビに携わる人たちは質の良い作品を作ってほしいものだ。といってもテレビ文化が衰退した原因のひとつはテレビ局にお金が集まらなくなったからだろう。

テレビ局にお金が集まらなくなった理由はスポンサーである日本の企業の経済力が弱くなったからだろう。端的に言えば日本経済が衰退したからだ。そして、おそらくそれは回復する見込みは少ない。結局、少ない予算の中で良い作品を作るしかないと思う。

良い作品って何か、真剣に考えないといけないなあ。それにしても日本のテレビの歴史ってまとめた本ってないのだろうか?日本のテレビの歴史を考えたとき、思い浮かぶのって大橋巨泉だったりする(笑)。いや、他にもっとあるとは思うんだけど。

日本のインターネットの歴史を振り返ったときアルファブロガーって記述に残るんだろうなあ。池田信夫とか切り込み隊長とかfinalventとかきっこさんとか小飼弾とか竹熊健太郎とか。ツイッターになると津田大介とか東浩紀とか。橋下徹とかも残るかもしれない。

私は音楽は全然詳しくないんだけど、日本の歌謡史に華原朋美も『I'm proud』で残ると思う。中森明菜いくつかの曲で残ると思う。AKB48も残るんだろうけど、後世の歴史家がどのように評価するかは分からない。演歌って残るのかな?

日本は明治以後はアジアの中で経済成長した方だと思う。その頃は女工哀史とかで有名な紡績業とか軽工業で成長した。その後、世界は恐慌でブロック経済になり戦争になる。戦後は日本は再び経済成長してゆく。自動車や家電など製造業で大躍進する。そして、今、それらは失われ衰退しつつある。

英国などは二度の世界大戦でボロボロになった。第二次世界大戦以後はイギリス病といわれるほど衰退したし、その後も目立った回復はなく、金融ビッグバンなど自国企業はなくて場所だけ貸すというウィンブルドン方式をしたりした。米国は戦前は恐慌だったが、戦争で復活し戦後は世界の覇権を握るまでに。

しかし、その後の米国経済は日本の製造業に脅かされることになる。自動車産業まで日本に奪われることになる。当時は不買運動が起こり、日本車をハンマーで壊したりする映像も流れたりした。大規模なリストラが行われたりした。日本は米国の企業を買収したり、米国の一等地を買ったりした。

しかし米国は復活した。ITと金融だった。金融によってWTOに加盟した中国に投資され工場が建設された。そして、中国は世界の工場になった。また、ITは世界中に広まりインターネットが世界を繋げ、そして世界を変えた。米国はITと金融という知識産業で復活した。同時に中国も製造業で目覚めた。

しかし、その一方で日本は衰退した。なぜなら製造業が中国に奪われたからだ。いや、奪われつつある。家電はすでに中国に奪われた。あるいはサムスンの韓国に。自動車はかろうじてまだ日本は勝っている。しかし、それも電気自動車が普及したときどうなるか分からない・・・。

ところで米国もITと金融で復活したとはいえ、富は少数に集中することになった。製造業の場合は工員に広く分散するが、ITや金融の場合は優秀な個人が富を手にすることになるので富は拡散しない。結果、貧富の差が拡大した。富をどう再分配するかが米国の問題として残っている。

さて、日本だが、とりあえず、自動車産業だけは残っている。しかし、それも製造業の法則から考えれば、工場は海外に移転するのが合理的になると思う。その方が安く生産することができるからだ。結局、自動車産業も海外の企業に抜く抜かれる関係なく、海外に工場を移転せざるをえないと思う。

そうなると日本国内は衰退せざるをえない。家電も自動車も無くなれば、日本は貧しくならざるをえない。それは昔から言われていたことだ。日本は資源が乏しく加工して付加価値を生み、それを海外に売って利益を生み出す貿易立国だと。輸出が無くなったとき、日本は衰退せざるをえない。

日本が衰退するのは仕方がないと私は思う。確かに座して衰退を待つのではなく何か挽回策を講じようとするのは分かる。とはいえ、かつての経済大国に復活できるような方策はまず無いと思う・・・。ただ、これまで蓄積してきた資産が日本にはある。それを有効に活用して延命することだと思う。

今、日本の経済について「あーしろ、こーしろ」と意見提言がある。それらは多少の効果を発揮するかもしれない。しかし、先程も言ったようにかつての経済大国に返り咲くほどの大きな挽回策とはなりえない。何が言いたいかというと日本のポテンシャルを見極めて「この程度かな」と落ち着くことだと思う。

落ち着いたとき、近代文明の中で日本は子供から大人に成熟できるのではないかと思う。市民社会が成熟するのではないかと思う。民主主義が定着するのではないかと思う。文化が大人になるのではないかと思う。自民党の政治家はオジサンであって大人ではない。大人の政治家はこれから出現する。