批評について

ここでは批評とは何かについて私の見解を述べてみます。

1.批評とは何か
批評とは何か?批評とは、批評する対象を分析して評価することです。ゆえに批評には分析して評価するという2つの段階があります。まず、分析ですが、分析には幾つかの技法があります。分析は主観に基づく恣意的なものではなく、科学的に妥当な客観的なものを目指しています。それに対して評価は批評家の価値観に基いて対象を評価することです。ですので評価においては批評家の価値観という主観に左右されます。ここでいう批評家の価値観はそのひとの思想であったり道徳であったり美意識であったりします。批評家の評価が妥当かどうかは読者の判断に委ねられます。


2.2つの分析手法
ではまず、分析について述べます。分析手法には構造分析と記号分析の2つの分析手法があります。

(1)構造分析
構造分析は構造主義に基づきます。構造主義というと◯◯主義という意味で主義主張と受け取られる方もいるかもしれませんが、構造主義の本来の意味は分析手法の1つである構造分析に基づいて行われる批評のことを指します。さて、構造分析は文字通り対象の構造を分析することを意味します。例えば、対象が物語であれば物語の構造を明らかにしますし、対象が部族社会であれば部族社会の構造を明らかにします。イメージでいえば見取り図や透視図のようなものです。住宅の構造などは見取り図や透視図でとても分かりやすくなりますよね。それと同じです。

ただし、構造分析には欠点があります。1つはデリダも述べているように経験主義に陥ってしまいやすいことです。対象を今までの経験から魅力のないありふれた構造として捉えてしまうことです。それは一面的には正しいのですが、対象が生起した意味の重要性を見落としてしまいがちになります。それから、もう1つの欠点は静態的な構造を分析することはできても、動態的な構造を動的なままに把握することは不得意ではないかという点です。例えば、雪の結晶ですが、出来上がった雪の結晶の構造を分析することができても、雪の結晶が出来上がってくる過程を構造分析で表現することは苦手ではないでしょうか。

(2)記号分析
次に記号分析ですが、記号分析は記号論に基づきます。ただし、ここでいう記号論はジュリア・クリステヴァや山口昌男が用いた記号論を指します。英米哲学の用いる記号論や分析哲学とは違います。さて、記号分析とは何かについて考えるとき、コトバに対して二元論的なものの見方や感受性があることが大前提にあります。例えば、Aというコトバが生成されたとき、その背後では非Aというコトバが生成されているにも関わらず、その存在が無視されているといったようなものです。言い方を変えれば、コトバAが生成されるとは同時に非Aが切り捨てられるということでもあります。いわゆる記号の生成と殺害です。
つまり、記号分析とはコトバが生起する瞬間に起こっている動態、記号の生成過程を捉えることであると言えると思います。そして、初期のクリステヴァはそれを数学的に表現しようとしましたし、その後のクリステヴァはラカンの精神分析学に意味の起源を求めようとしたと思います。

そして、1つのコトバが生まれるとコトバは連鎖的にどんどん展開してゆきます。まるで生物の細胞分裂のようです。下図はそういった記号の連鎖的生成を表していると言ってもいいでしょう。(なお、このモデルが正しいといってここで提示しれいるわけではありません。記号の二元論的展開の一例として提示しているに過ぎません。)これらは二元論的な運動ですが、非常にダイナミックであることが分かると思います。このような記号の展開運動の事例として山口昌男のトリックスター論や中心と周縁論があると思います。


しかし、記号分析にも欠点があります。それは記号分析が象徴分析に陥りやすいことです。本来の記号分析は記号の生成というコトバの深層にまでダイビングしなければ得られません。しかし、表層しか捉えず、その表層をもって生成過程としてしまうことがしばしばあります。そうなるともはや記号分析ではなくて象徴分析になってしまいます。もちろん、象徴分析も間違いではありませんが、コトバの真相に迫っているとは言い難いです。

以上が批評における2つの分析手法、構造分析と記号分析です。

(3)歴史分析
ところで、分析手法は上述した2つしかないのかというとそうではありません。他にも分析手法はあります。しかし、最もオーソドックスなものとしてはこの2つが挙げられると思います。もし付け加えるとすれば、ウラジーミル・プロップの手法が挙げられると思います。彼の手法は形態分析と歴史分析です。形態分析は構造分析とほとんど同じようなものだと思いますが、もう少し系統だったものだと思います。一方、歴史分析はその名の通り対象の歴史的な経緯を追った分析です。対象が生じた起源まで遡り、対象が如何にして現在の形態にまで変容したかを解明する分析手法です。歴史分析は地味な手法ですし研究には時間もかかりますが、とても有効な分析手法の1つだと思います。


3.評価とは何か
さて、次に評価ですが、評価の基準は広い意味での価値観です。批評家が持っている倫理や思想や美意識など主観的な価値観が基準となって対象を評価することです。言わば批評家個々人が持っているモノサシですね。そのモノサシが妥当であるかどうかは読者の判断に委ねられます。

ただ、批評家の価値基準は批評の中では実はあまり明確に表明されていないことが多いです。わざわざ明確に表現せずとも自明のものとして暗黙裡にされていることがほとんどです。これは仕方のないことで限られた紙数の中で長々と批評家の価値観を体系立てて述べるなどというのはとても不可能だからです。むしろ、批評の文脈から批評家の価値観が自然と読者に読み取れるようになっていると考える方が妥当です。あとはそれを読み取った読者にその価値観が妥当かどうかの判断が任されます。しかし、昨今の読者はこれがとても苦手になっています。文章の読解力や文意を適確に掴み取る力が低下しています。さらに自身の中に参照とすべき価値基準をあまり持ち合わせていない、つまり、自分の価値観を持っていないという人が増えています。批評家の価値観と読者自身の価値観を照らし合わせて、批評家の価値観の良し悪しを判断したり、自身の価値観を修正したりしようにも、元となる自身の価値観を持っていないことが多いようなのです。そのため読者が自分自身で判断するというのが苦手になっています。

そういう意味では、批評家は自身の持っている価値観についてどこかで表明しておいた方が良いかもしれません。それは批評家の思想であったり、道徳であったり、美意識であったりします。昨今では書籍だけではなく、ウェブという発表の場もあるので簡単に表現できる場があるのでどこかで明確に表明しておくのも良いかもしれません。そうすれば、読者の価値観の形成にも役立つでしょうし、読者が批評を判断する強力な下支えにもなると思います。


以上が批評についての私の見解です。




2013年6月1日更新