2013年7月29日月曜日

宮崎駿『風立ちぬ』

宮崎駿監督の『風立ちぬ』の感想を書きます。

この物語を2つのパートに分けて考えます。1つは堀越二郎と菜穂子との愛の物語というパートです。もう1つは堀越二郎と戦争との関わりというパートです。なお、いつものことですがネタバレ全開で書きますので映画をまだご覧になっていない方はご注意下さい。また、今回は物語を忠実に追って作品分析するというよりは物語の周辺を埋めることで物語に託された意味を浮かび上がらせるといった分析になるかと思います。この映画を見た人たちの反応や映画には描かれていない当時の時代背景を引き合いに出すことによって映画の内容を浮き彫りにできればと思っています。そういう意味では、あまりネタバレにならないかもしれません。なお、こういった映画に描かれていない背景を引き合いに出すやり方は主観的な捉え方になってしまうかもしれません。そう言われても仕方のない面があります。なぜなら歴史的な史実に基づいた作品の場合、純粋に物語そのものを捉えるというのは難しい場合があるからです。どうしても作品を見る者が記憶している歴史認識に作品の印象が無意識に左右される恐れがあるからです。もちろん、史実に基づいた作品であっても純粋に物語分析できる作品もあるとは思いますが・・・。いずれにせよ、その辺りの主観的か客観的かの判断は読者の個々の判断にお任せします。

では、まず、二郎と菜穂子の愛の物語について解説します。二人の出会いは汽車の中で関東大震災に遭遇したことがきっかけでした。付き人の女性がケガしたのを手助けした二郎に菜穂子は恋します。そして、偶然再会して二人はたちまち恋に落ちて結婚します。しかし、菜穂子は病気に侵されていました。結核でした。当時、結核は死の病でしたので菜穂子が助かる見込みはほとんどありませんでした。二郎は設計の仕事があり、菜穂子を看病するだけの十分な時間はありませんでした。結局、菜穂子は療養所暮らしで二郎は設計の仕事に従事する毎日でした。しかし、二郎への想いが積もった菜穂子は療養所を抜け出して二郎の下宿に押しかけます。二郎は菜穂子の想いを汲んで一緒に暮らします。一緒に暮らすといっても二郎は大半の時間を仕事に費やし、菜穂子も多くは病のために寝て暮らします。二人一緒の時間はごく僅かでした。しかし、二人にとって菜穂子の生きている時間は限られているので、ありふれた日常生活とはいえ二人はできるだけ充実して生きようとします。二人はこのごくありふれた日常の瞬間を実はかなり真剣に生きたのでした。

さて、この愛の物語の捉え方ですが、現代の日本人には2つの見方があるようです。1つは人道的見地から見た二郎に対する批判です。その批判とは「二郎はなぜもっと菜穂子のために時間を費やさなかったのか?」というものです。もっと菜穂子の病気の看病をしたり、菜穂子のために何かしてあげたりしなかったのかというものです。これに対しては菜穂子の気持ちになって考えると二郎のとった行動が理解できると思います。菜穂子は二郎に看病してもらいたかったでしょうか?あるいは、二郎に菜穂子のために何かしてもらいたかったでしょうか?おそらく、菜穂子はそのようなことは望まなかったでしょう。菜穂子の望みは少しでも夫の二郎に尽くしたいというものではなかったでしょうか?夫のために何か役立ちたいというのが菜穂子の願いだったのではないでしょうか?では、なぜ菜穂子は夫にとって病身の自分が邪魔になると分かっていながら二郎の下宿におしかけたのでしょうか?それは二郎に会いたい、二郎と一緒に暮らしたいという強い想いがあったからです。二郎への愛と言っていいでしょう。二郎を愛するがゆえに二郎と一緒に暮らしたいと強く願ったから迷惑をかけると分かっていながら、どうしてもその気持ちを抑えきれずに二郎の下宿におしかけたのです。読者によっては、なぜそれを我慢できなかったのかと問われるかもしれません。しかし、菜穂子の病気のことを考えれば菜穂子の気持ちが分かると思います。菜穂子の結核は助からない病気です。もし、このまま療養所にいれば二度と二郎と一緒に暮らせないまま自分は死んでしまうかもしれない。そう考えると一緒に暮らせるチャンスは二度とないかもしれない。その焦りから彼女は二郎の下宿に押しかけることを決意したのだと思います。そして、ある程度、二郎と一緒に暮らして満足したため彼女は療養所に帰って行きます。これ以上一緒にいては迷惑だろうし、病身の醜い自分を愛する二郎に曝け出すのも憚られたのかもしれません。そして、何よりも、いわゆる「もう思い残すことはない」という心境に達したからだと思います。菜穂子も二郎もこの想いは共有していたでしょう。二人は愛し合った夫婦だからです。二郎は技術者であるために感情があまり表に出て来ませんが、おそらく、二人ともそういった想いを十分に心の裡に秘めていたと思います。なぜなら妹の加代と下宿の黒川夫人が菜穂子が療養所に帰ったときに二人で大いに悲しみますが、そのときの二郎と菜穂子の心境が描かれなかったことでかえって二人の想いが加代と黒川夫人以上に深かったのだと分かると思います。二人は心の深い深いところで想いを共有して強い絆で結ばれていたのだと思います。以上のように考えれば、現代人が二郎のとった行動に対して非人道的だという批判は当たらないと思います。ただし、見方を変えれば、現代の日本人というものは、昔と比べれば、随分、人道的になったと私などは思います。というのも、二郎を批判する現代日本人は二郎の仕事よりも菜穂子の人命の方を重視するという思想がその奥底にはあるからです。古いタイプの日本人なら妻の生命よりも仕事を重視する人はけっこう多くいたのではないでしょうか?また、そういった夫を理解する妻も多かったのではないでしょうか?かつて企業戦士と言われた頃の日本の家庭は仕事至上主義があったのではないかと思います。それが今では二郎が仕事ばかりすることを批判するようになったのですから、日本人のヒューマニズムも随分と進歩したと思います。

さて、話を戻しましょう。今度はもう1つの見方について考えましょう。もう1つの見方とは死に対する捉え方です。現代日本人は死を出来るだけ遠ざけようと努力していると思います。ところが、すでに上で解説しましたが、二郎と菜穂子はそうではなくて、ほとんど死は避けられないものとして死を覚悟していたと思います。療養所を抜け出した場合、菜穂子の寿命は短くなるかもしれません。しかし、それも覚悟の上で彼女は二郎に会いたい一心で療養所を抜け出してきます。菜穂子と二郎にとって死は避けられないもので、避けられないのなら、せめて生きている時間をできるだけ充実したものにしたいというのが彼らの願いだったと思います。ところが、現代日本人はそうは考えないようです。寿命延長を何よりも最重要と考えて、できるだけ菜穂子が長く生きられるように対処すべきだと考えているようです。二郎が菜穂子の寝床のそばでタバコを吸うシーンがありますが、多くの現代日本人は二郎に対して批判的です。菜穂子にタバコの煙で不快な思いをさせているだけでなく、さらに言えば、菜穂子の身体に悪いのは明らかであり、もし菜穂子の溶体が悪くなったり、寿命が縮まったりしたらどうするんだ、という批判があるわけです。ここにはごくありふれた日常生活を充実させるという二人の想い、しかも、その裏には日常生活を充実したものにさせるために生命を賭けているという覚悟があるのですが、そういった想いに現代日本人は思い至ることなく、単に何よりも優先する寿命延長至上主義的な考えから現代日本人は二郎を批判するのです。そう、現代日本人はかつての日本人が持っていた死は避けられないという死生観が決定的に欠けているのです。おそらく、現代日本人は日常生活の中から死というものを遠ざけてしまったために死に対する考えが劣化してしまったのだと思います。現代日本人は生き物を殺すという場面に接することが極端に減ってしまいました。肉は切り身の状態でパッケージされてスーパーマーケットの商品棚に並んでいるだけで、実際に家畜が屠殺される場面を見ることはありません。また、家族の死も自宅で見とることはなく、多くは病院や介護施設で死んで行きます。死というものに接する機会が昔に比べて限りなく少なくなってしまったのです。そのために、現代日本人は死に対する考えが決定的に劣化してしまったのだと思います。死を覚悟している二郎と菜穂子の生き様がいまひとつ理解できないのもそういった死に対する考えの浅さに由来しています。ところで、私は古いタイプの人間なのだと思います。なぜなら、この結核を患った妻との愛の物語は私には昔からよくある物語に感じられたからです。言い換えれば、わりとオーソドックスな物語に感じられました。ですので、この愛の物語自体に対して特に高くも評価しませんし、逆に低くも評価しません。かつてはよくあった物語だなあというのが私の正直な感想です。むしろ、この物語を理解できない現代日本人に私は時代の変化を感じて感慨深く思ったくらいです。

以上が二郎と菜穂子の愛の物語に対する私の感想です。

さて、今度はもう1つのパートについて言及します。堀越二郎と戦争との関わりです。これについては作品はややボンヤリと描いています。明確に戦争に賛成・反対の立場では描かれていません。時代に翻弄される個人という観点で描かれているわけでもありません。一生懸命飛行機作りに励む二郎の背景から戦争との関わりが薄っすらと感じ取れるといった程度です。そこでここでは堀越二郎の立っていた立場と彼とはまったく違う立場の人たちを対比することでもう少し明確に二郎と戦争との関わりを浮かび上がらせるようにしたいと思います。まず、最初に堀越二郎についてです。堀越二郎は航空機の設計技師という、今で言うエリートエンジニアに相当します。東京大学の航空学科の超エリート校出身で、これまた超一流企業の三菱重工に就職します。そこで零戦などの戦闘機の設計に携わります。映画では、裕福な家庭で育ち、ただただ飛行機に憧れて、飛行機を作らんがために勉強して大学に入り、卒業して会社に就職したら、時代は戦争で戦闘機を作らざるを得なかったという経緯のようです。私が気になるのは果たして彼に戦争責任があったのか、あるいは、彼自身が戦闘機を作ったことに対する罪の意識が戦後になってあったのかという点です。この問いを問う前に言っておきますが、私は「単純に彼に戦争責任があり罪の意識があって然るべきだ」と考えているわけではありません。しかし、逆に「彼には戦争責任はまったく無く、罪の意識など感じる必要はない」と考えているわけでもありません。彼の置かれた立場から考えると、ちょっと微妙な判断をせざるを得ないと思っています。その判断をするためには彼とは異なる立場の人たちと比較してみる必要があると思います。

まず、手近なところから考えてみます。堀越二郎は戦闘機を作っていましたが、戦争において飛行機が果たした役割について考えてみます。飛行機における戦闘には大きく2つのタイプがあったと思います。それは戦闘機による戦闘と爆撃機による戦闘です。戦闘機は制海権や制空権を得るために戦闘機同士で戦ったり、戦艦や空母などを攻撃したりする戦い方が多かったと思います。

一方、爆撃機は爆弾をどんどん落っことしてゆくことで都市を破壊するという戦い方が普通だと思います。都市を破壊することで純粋に戦闘力を破壊するだけでなく、戦争に必要な後方支援を遮断するためです。最も恐れられたのはやはり爆撃機による空爆でした。空爆は非戦闘員である市民も関係なく平気で無差別に殺戮するので非人道的な戦闘方法であると当時でさえも国際的に非難されていました。そういった非人道的な空爆に最初に踏み切ったのは日本でした。中国で渡洋爆撃重慶爆撃を行いました。重慶爆撃のとき、爆撃機を護衛したのが二郎たちが設計した戦闘機でした。また、空爆で有名なものとしてはドイツのドレスデン空爆東京大空襲があります。また、広島・長崎の原爆投下も空爆のひとつと考えることもできると思います。ともかく、空爆は無差別に非戦闘員も含めて大量殺戮するという非人道的な恐るべき戦闘行為でした。映画の中では、冒頭の二郎の夢の中で爆撃機が出てくるのとラストのB29らしき残骸と空襲を受けた焼け野原らしきシーンの二箇所が出てきますが、飛行機による戦闘で最も恐るべきものは空爆だというのはこれら2つのシーンが暗示していると思います。宮崎駿は『ハウルの動く城』でも空爆のシーンを描いていますね。私たち日本人にとっては空爆は太平洋戦争末期における戦争の象徴だったと思います。ただ、空爆が非人道的だという抗議は日本人はあまり持たなかったのではないでしょうか?

というのは、日本人は戦争は国民が一丸となって国全体で戦っていたのだという意識が強くあったからだと思います。空爆を受けている私たちも最前線で戦っている兵士ではないものの後方支援として工場で弾薬を作ったり、兵器を作ったりしているわけで、攻撃を受けても当然だと考えていたのではないでしょうか。近代国家の戦争というのは国民が総動員して行うもので非戦闘員が攻撃されたからといって非人道的だなどと抗議するのは筋違いだと思っていたのではないでしょうか。非戦闘員なのに随分と勇ましい考え方のように聞こえるかもしれません。しかし、その一方でこの考え方は危険な部分も孕んでいると思います。読者の皆さんはバンザイ岬をご存知でしょうか?太平洋戦争時、サイパン島で追い詰められた日本兵と民間人は米兵から投降を勧められたにも関わらず、投降を拒否して岬から身投げして死んでいったのです。兵士はもちろんのこと非戦闘員である民間人も後方支援として戦争に加担したという意識があったのではないでしょうか?もちろん、投降した後にどのような扱いを受けるのか、どんなに酷い辱めを受けるのか、それを恐ろしく思って、いっそ死んだ方がマシだと考えての自決だったかもしれません。しかし、この考え方も裏を返せば、勝った側は負けた側に対して何をしても良いという考えに転換してしまう危険があります。例えば、南京大虐殺では日本兵は大量に中国人を殺戮しています。最初は墓穴に向かった走らせて背後から銃で撃って墓穴に落とすというやり方をやっていたそうですが、そのうち銃弾を節約するために一箇所に中国人をぎゅうぎゅう詰めにして上からガソリンをかけて焼き殺したりしたそうです。ガソリンの量が足りなくて半焼で死ねずに唸っている中国人もいたそうです。これらの大半は軍命令によって行われた殺戮であったでしょうが、中には面白半分に陵辱して殺害するなんてこともあったようです。中国人女性を集団でレイプして最後に面白半分に一升瓶を膣に突っ込んで銃床で叩いてどれくらい奥に入るものかと無理に突っ込んだら中を突き破って死んでしまったといった証言もありました。非常に残酷な話ですが、日本人に限らず戦場ではしばしばこのような残虐な行為が起こっていたのだろうと思います。ロシア兵などもドイツでレイプしまくったと聞きます。なぜ、ここでロシアを持ち出してきたかというとロシア兵も元はと言えば貧しい貧困層が多かったのではないかと思うからです。先の南京大虐殺における日本兵も多くは貧しい下層階級の出身者を含んでいたものと思います。教育レベルが低く、貧しい階層の者ほど戦場における残虐行為は酷くなるという気が私はしています。社会において下層階級で虐げられてきた者たちがいったん無法状態の戦場に置かれたとき彼らはこれまでにない残虐行為を行う者になるのではないでしょうか?日本兵も士官学校出の将校などのエリートは別にして、下級兵士になると、例えば東北の貧農の出身であれば、故郷には親兄弟は残っているが、姉妹などは製糸工場などに奉公に出るなど、ほとんど人身売買と言っていいような態で家を出て行っていたのではないでしょうか。中には女郎として売られた者も少なくなったでしょう。都会においては貧富の差が激しく、奉公に入った女中がそこの主人にレイプされて子供を孕んで僅かなお金を渡されて追い出されたという話は相当数あったそうです。かえって士農工商で住居を住み分けていた江戸時代にはこのような無秩序な行為は少なかったのではないでしょうか?それが明治以降の近代に入って一挙に崩れた。曲がりなりにも秩序があった農村社会が破壊されて、工場での働き手として農村から人手が引き剥がされていった。日本は近代化の中で激しい貧富の差が生じ、その中で貧しい者は相当に虐げられてきた。富国強兵政策の背後には疲弊する貧困層と兵隊に取られた働き手たちという暗い裏面がありました。下級兵士はそんな下層階級出身者が多かった。そういった不満が表れたものとして2.26事件があった。2.26事件は下層階級を虐げる富裕層に対する青年将校たちの反乱でした。しかし、2.26事件は封じ込められ、富裕層への不満の道も閉ざされました。その結果、はけ口として今度は外国に矛先が向けられたというわけです。石原莞爾の満州事変も元はと言えば、満州建国によって外から日本を変えるという革命でした。しかし、だからといって南京大虐殺が許されるわけではありません。しかし、南京大虐殺を単に彼らを日本鬼子といって残酷な人間といったのでは正しく理解できないと思います。南京大虐殺で残虐行為に及んだ兵士たちにもそういった背景があるのだというのは知っておいてしかるべきだと思います。さて、それに比べれば、この映画の主人公堀越二郎はなんと恵まれた人間だったことでしょう。頭脳明晰・成績優秀で裕福な家庭で育ち、一流企業に就職して外国にも何度か行っている。二郎と下級兵士ではまるで住む世界が違うとまで言えそうです。確かに二郎は戦場で直接人を殺しませんでした。しかし、だからといって罪はないんだと胸を張って言えるでしょうか?例えば、原爆を開発したオッペンハイマー博士は広島・長崎の惨状を知ったあと、いかに原爆が非人道的な兵器かということを心底思い知らされたそうです。その後、彼は反核運動に向かうようになります。オッペンハイマー博士は直接殺害したわけではありません。しかし、彼には罪の意識がかなりあったのです。

近代国家の戦争において戦闘員も非戦闘員も少なからず戦争に加担しています。では、すべての戦争は悪なのでしょうか?ナチスドイツを倒したアメリカも悪なのでしょうか?それは違うと思います。ユダヤ人を強制収容所で大量に殺戮してきたナチスドイツと戦うことは正義の戦争だったと思います。戦争にも戦う理由があるのです。つまり、「その戦争に正義はあるか?」という問いです。日本の戦争に正義はあったのでしょうか?日本は日露戦争で朝鮮半島を支配下におき、満州事変で満州を侵略し、日中戦争で中国を蹂躙しました。さらに日独伊三国同盟を結んであのナチスドイツと結託して領土の拡大を図りました。そして、真珠湾攻撃によって太平洋戦争を始めて東南アジア各国を侵略してゆきます。どこをどう探しても日本の侵略戦争に正義はありません。しかも南京大虐殺など非人道的な殺戮が堂々と行われていました。ところが、今の日本人はそのことを忘れてしまっています。例えば、あのナチスドイツと日本が手を組んでいたことをすっかり忘れてしまっているくらいです。ただ、ナチスドイツにしてみれば、日本が真珠湾を攻撃したおかげでアメリカの参戦を招いてしまい、引いてはナチスドイツの敗北に繋がったのですから、「日本はなんてことをしてくれたんだ!」と思っているかもしれません。ナチスドイツの欧州大陸支配を阻んだものの遠因に日本の真珠湾攻撃があるのですから、現在の世界を築くのに日本が貢献した唯一の足跡と言えるかもしれません。(←もちろん、皮肉ですが。)さて、話を元に戻しましょう。大局的に見て、日本の戦争に正義はありませんでした。ただ、そのことを末端の二郎たちはどの程度知っていたのかという問題があります。大本営の発表がウソだらけだったというのは今では周知の事実ですが、日本の戦争に正義がないことを国民はどの程度認識していたのでしょうか。あるいは、当時は奪ったもの勝ちが当たり前だったのかもしれません。ヒューマニズムも当時と今では随分と違うでしょうからね。それにそもそも戦争に対してこれだけ深く拒絶反応を持つようになった日本人は第二次世界大戦の反省に由来しています。それまでの日本人はそれほど戦争に対して否定的ではなかったと思います。むしろ、好戦的だったとさえ言えるでしょう。私は戦争というものは愚かな行為だと思っているので戦争の反省を踏まえるようになった現代の日本の国民性はとても良いものだと考えています。ただし、単に条件反射的に戦争に拒絶反応を示すのではなくて、自分の頭で道理を考えて戦争に対して是か非かを判断しなければならないとも思っています。随分、話がそれました。堀越二郎の戦争責任について話を戻しましょう。近代国家の戦争においては戦闘員だけでなく非戦闘員も総動員されて戦争に加担します。さらに後方拠点を叩くという意味でも非戦闘員が住む都市も攻撃の対象になります。そういった意味では戦争の責任は戦闘員のみならず非戦闘員にもあるでしょう。確かに兵役を拒否すれば軍法会議で即銃殺されたり、強制的に工場労働させられたりと個人の意思に反して戦争に組み込まれたとする言い訳もあると思います。しかし、たとえそうであったとしても殺された側からすれば、やはり戦争の加担者であったことに違いはないでしょう。そして、戦争をしている国家に正義はあるかという問題があります。仮に非道なナチス・ドイツと戦うための戦争なら正義の戦争と言えるかもしれません。(ただし、悪の帝国ナチスドイツという印象も戦勝国側のイメージ操作の部分もあります。)しかし、単なる侵略戦争には正義はありません。(実は経済合理性から見ても日本の侵略戦争はあまり合理的ではなかったりするので、日本を戦争に向かわせた原動力は何かの勘違いか狂気の沙汰に近い面もあります。)したがって、日本の戦争はまったくの侵略戦争であり、そこに正義はありません。そう考えれば、二郎に戦争責任がまったく無かったとは言えないと思います。別にこれは二郎に限った話ではなく、当時の日本国民全員が戦争責任があったのだと思います。ただし、だからといって当時の為政者たちの罪が軽くなるわけではありません。戦争に導いた彼らが一番悪いことに変わりはありません。以上、堀越二郎と戦争に関わるパートについての私の感想を終わります。


さて、以上がこの物語の2つのパート、二郎と菜穂子の愛の物語と二郎の戦争との関わりに関する解説でした。ところで、この『風立ちぬ』ではこれまでの宮崎駿作品には見られない視点の変化があります。それは何かというと文明批判的な視点です。今までの宮崎駿は『風の谷のナウシカ』にしろ『もののけ姫』にしろ文明批判的な視点が非常に強かったのです。『天空の城ラピュタ』などはラピュタ人の超文明を否定的に扱っていますし、『千と千尋の神隠し』では河川の汚染など文明による環境破壊を強く批判していました。年長の人であれば『未来少年コナン』を知っていると思いますが、インダストリアに象徴されるように戦争批判と文明批判の塊でした。ところが、今作ではそれが少し違ってきています。以下にそれについて解説します。

「ピラミッドのある世界とない世界のどちらが好きか」という問いがカプローニ氏から二郎に投げかけられます。これは宮崎駿の多くの作品にある文明批判に通じる問いでもあります。宮崎駿のこれまでの作品を振り返ってみると『未来少年コナン』や『天空の城ラピュタ』が良い例だと思います。『未来少年コナン』では文明都市インダストリアと農村社会ハイハーバーが出てきます。『天空の城ラピュタ』では超文明としてラピュタが出てきます。文化人類学では文明社会と対照的なものとして未開社会があります。宮崎駿が作品の中で言ったピラミッドのある世界とピラミッドのない世界とはまさにこの文明社会と未開社会を指しています。以下にこれらについて考察してみます。

まず、ヨーロッパ人がアメリカ大陸を発見したときの状況を考えると分かりやすいと思います。西欧はすでに西欧文明を築いていました。一方、アメリカ先住民は北米では文明社会を拒んで部族社会を形成して暮らしていました。ただし、アメリカ大陸にも文明社会はありました。中央アメリカに築かれたアステカ文明やマヤ文明、あるいは南米はペルーのインカ文明などです。彼らは鉄を発見しなかったので石器文明ですが品種改良など植物栽培においては優れており、ジャガイモやトマトやトウガラシなどがあり、アメリカ大陸発券後は世界の食生活を一変させてしまいました。ジャーマンポテトやフレンチポテト、イタリアのパスタやピザに使われるトマト、キムチに使われるトウガラシなど今となっては無くてはならない食材がアメリカ大陸からもたらされました。そういったアメリカの石器文明とは裏腹に、北米のアメリカ先住民は文明社会を善しとせずに文明を拒んで部族社会を形成して生きることを選びました。文化人類学者のレヴィ=ストロースがフィールドワークした南米先住民もそういった部族社会の人たちでしょう。彼らの暮らしは狩猟採集か原始的な農業でした。彼らと行動を共にして調査した結果分かったことのひとつに豊かな自然の恵みがあるため彼らの一日の平均労働時間は4時間くらいと大変短かったそうです。『悲しき熱帯』の中でレヴィ=ストロースは文明社会に戻るとき自分たち文明人を忙しく立ち働くミツバチに喩えて忙しい文明社会に戻ることを残念がっている言葉を残しています。労働時間が短いのなら、彼らの残りの時間は何をやって過ごしていたのかというと、いわば遊んでいたようでした。といっても物質的には貧しい生活ですから、精神世界に生きていたというべきかもしれません。紋様を描いたり、宗教的な儀礼のために花を集めたり、首飾りを作ったりという感じでしょうか。それはそれで充実した生活だったかもしれません。しかし、数多くいた先住民たちもヨーロッパ人が入ってきたときにもたらされた病気で原因で多くの人が生命を落として人口が激減してしまい、今では100分の1以下に減ってしまったそうです。いや、千分の1以下かもしれません。

さて、話を元に戻しましょう。文明社会と未開社会。人類には生き方として2つの選択肢があったわけです。宮崎駿は彼の作品を通して文明批判を続けてきました。そして、宮崎駿の文明批判の行き着く先は文明社会でも未開社会でもなく、第三の道である中世的な農村社会にその理想を見出します。『未来少年コナン』で言えばハイハーバーでの暮らしを理想郷とします。『ラピュタ』では超文明のラピュタを滅ぼしてしまいます。『もののけ姫』ではついに未開社会に生きるサンと北方先住民であるアシタカは交わることなく別れます。しかし、次第に大和文明が彼らのテリトリーを侵食してゆくことでしょう。ともかく、文明批判を続けてきた宮崎駿は「では文明社会がダメだというのなら、代わりにどのような世界を理想とするのか?」という問いに対して、文明でも未開でもない、中世的な農村社会、里山的な自然と人間社会が調和した社会を理想郷としてきました。里山は都市と山の中間に位置します。里山の後ろは山という自然が控えています。また、里山は都市からは離れたところにあります。ただし、里山の自然界は通常の自然界とは違った世界です。というのも、普通の自然界ではありえないほど特定の生き物が異常に繁殖したりします。稲という特定の植物を繁殖させる稲作による影響と見ることができます。里山の自然は普通のありのままの自然とはちょっと違っているのです。里山の世界では自然と人間が一種の協定を結んでいる世界と言えるかもしれません。(それを善しとするか悪しきとするかはまた別問題ですが。)しかし、現在、里山的世界は成功しているとは決して言えません。里山の生産性は現在の経済活動から見れば見劣りがするからです。中世的な世界の経済活動なら里山的な生産性でも十分だったかもしれません。しかし、現代社会では里山的世界の生産性では文明社会を養うにはまったく足りません。結局、農業はどんどん機械化されて行き、環境もそれに合うような形に変えられて行きました。もはや近代農業における農場は工場であって里山ではありません。確かに宮崎駿が理想とした里山的世界は一種の理想郷だったとは思いますが、その理想郷が成立するためには一定の条件下でないと成り立たないものでした。つまり、現代文明との両立は不可能です。現代文明を支える農業としては、やはり工場としての農業を必要とします。そして、現代文明がなければ、飛行機など作れるはずもないのです。さらに言うと文明社会は戦争をも生み出してきました。歴史がそれを証明しています。農業の労働者として多くの奴隷を必要としたため文明社会は近隣諸国に領土を拡大して侵略した国の国民を奴隷としてきました。一方、部族社会では戦争は回避されてきました。ピエール・クラストルの『国家に抗する社会』で描かれているように戦争という愚かしい行為は部族社会では回避されるのが普通でした。

さて、話を少し整理しましょう。人類のライフスタイルの選択肢としては、文明社会と未開社会、そして、その中間である里山的社会の3つがあります。そのいずれも人類は選択可能だと私は思います。アマゾンの奥地では今も未開人が野生の暮らしをしていると聞きます。また、アーミッシュの人々のようにあえて現代文明を否定して中世的な世界に暮らす選択をする人たちもいます。日本でも武者小路実篤が立ち上げた新しき村というのはそういった思想に依ったものだったのではないでしょうか。(里山的社会は生産性が低くともそれに甘んじる覚悟であるなら別にやっていけないわけでありません。)そして、私たちのように現代文明の中で暮らす人たちも大勢います。したがって、それらの社会は両立は不可能であっても、それぞれが独立して暮らすということは決して不可能ではないと思います。ただし、何度も言いますが、それぞれにメリットとデメリットはあります。文明人は物質的に豊かな暮らしがある一方で忙しく働かなければなりません。一方、未開人はのんびりした暮らしかもしれませんが、ひと度病気が猛威を振るえば部族がたちまち死に絶えてしまうなんてこともしばしばありました。近世の日本の農村社会は里山的世界でしたが、そこの暮らしが果たして人間的だったかどうか疑問に思う面も多々あります。里山的な生産性を保つために彼らの性生活もどこか統制的でしたし、村社会特有の縛りがあって決して自由からは程遠かったように思います。また、食い扶持の配分を考えて間引きという嬰児殺しも頻繁に行われていました。結局、いずれもメリット・デメリットがあると思います。いえ、進歩史観的に見れば、人類の歩みは自然の脅威との戦いであり、数々の悲劇を生み出してきた自然の脅威を文明の進歩は一歩一歩克服してきたという進歩の歩みなんだという、文明社会だけを唯一の人類の理想的な社会だと見なす見方もあると思います。しかし、21世紀になってかつては恐れていた自然を文明が再生不可能なまでに破壊して取り返しがつかないことになってしまいそうだという状況になってしまい、そういった進歩史観に疑問が投げかけられるようになりました。また、レヴィ=ストロースの仕事などは文明社会より下位に見られていた未開社会が実は豊かな精神世界を持っており、文明社会とは別の方向に質・量ともに同等かそれ以上の価値ある社会を見出したことでした。それによってレヴィ=ストロースは文明社会を相対化することに成功しています。したがって、人類は必ずしも文明社会という生き方しかないわけではないと思います。ピラミッドのある世界か、それともピラミッドのない世界か。私たちにはいくつかの選択肢があるのだと思います。

さて、宮崎駿は長い間文明批判を行ってきました。彼の最高傑作の漫画『風の谷のナウシカ』も墓所のピュアな未来人を否定して清濁両方を兼ね備えた人類を是とする思想を披露していますが、そこでも文明社会は拒絶されています。ところが、今作では「ピラミッドのある世界かない世界か」という問いの中でカプローニや二郎たちには飛行機のある文明社会を選択させています。その結果、戦争という悲劇にも見舞われてしまうのですが・・・。ともかく、これまでは明確に文明批判を続けてきた宮崎駿が今回はそうではない一面を表しているわけです。そして、二郎には戦争責任が突きつけられるわけです。ただし、二郎の戦争責任については明確に描かれてはいません。宮崎駿は「堀越二郎が全面的に正しかったとは思ってはない」としつつも、逆に否定的にも描いてもいません。その代わり宮崎駿は二郎に対して「生きねば」という想いを託しています。後方支援として彼は戦争に加担して多くの死に関わったと言えるでしょう。彼はそれに対して自らを断罪すべきだったのでしょうか?いえ、むしろ失われた生命のためにも、今度は失われた世界を再興するために努力する道を彼は選んだのではないでしょうか?戦後の日本経済を支えたのは紛れもなく技術立国日本と言われた技術力です。戦時中の技術者たちが戦後において日本の復興に果たした役割は極めて大きかったと思います。現在の日本の繁栄を支えたのは彼ら技術者たちの技術力だったのではないでしょうか。宮崎駿が今までの文明批判的な態度を改めてまで描きたかったのは堀越二郎にあったような日本人の高い技術力に基づいた日本の未来への希望だったのではないでしょうか。

明治から現代に至るまでの日本の産業を歩みをざっと振り返ってみましょう。戦前の日本は江戸時代とガラリと変わって産業革命が起こります。しかし、グローバル経済から見ると、英国たち欧米先進国が重工業にシフトしていったのに対して、日本はそれら欧米先進国に代わって軽工業を担うというものでした。いわば後進国として先進国が最早やらなくなった産業を担ったのです。日本は安い労働力で安かろう悪かろうの製品を作っていました。今では信じられないかもしれませんが、それは後進国の当たり前のプロセスだったと思います。この頃の日本は欧米先進国の後塵を拝していたのです。しかし、日本は次第に戦争直前から戦時中にかけて工業国へと進化してゆきます。そして、戦争によって日本は随分工業国に進化していったと言っていいでしょう。とはいえ、それでも欧米先進国に比べれば総合力として日本の技術力は劣っていたといわざるをえないでしょう。確かに零戦や戦艦大和は日本の優れた技術力を結集した工業製品だったと思います。しかし、全体としてみれば、それはごく一部であってレーダーや暗号解読など多くの分野で日本の科学技術力は欧米と比べて劣っていたと言わざるを得ないでしょう。もちろん、戦争に負けたのは単なる科学技術力が劣っていたからだけではありません。国力の差が極めて大きかったと思います。ところが、戦後の日本はこの欧米先進国優位という立場を逆転するのです。それまでと違って日本の工業製品が単に安いから売れたというのではなくて、高品質ゆえに欧米の工業製品を押しのけるときがやってくるのです。それは家電と自動車の分野に象徴されます。日本の自動車が世界市場に進出できた要因は単に安いだけでなくその品質の高さにありました。アメリカの自動車市場に日本車が割って入れたのはその品質の高さゆえでした。そして、ついにビッグスリーを押しのけてアメリカの自動車市場に確固たる地位を築き、日本の高い技術力が欧米先進国を逆転したのです。振り返ってみれば、それらの基礎を築いたのは戦時中の日本の技術者たちでした。堀越二郎もその一人なのでしょう。戦後の日本経済の繁栄を支えた者は「生きねば」と言って焼け野原の中から立ち上がってきた彼ら技術者たちだったのです。近年、『プロジェクトX』で技術者の評価が上がりましたが、その源流は同じくNHKの『電子立国日本』であり、そのおおもとをどんどん辿れば戦時中に活躍した若い技術者たちに辿り着きます。まさに堀越二郎たちです。ここに二郎に「生きねば」と言わしめた宮崎駿の意図があったのではないかと思えてきます。まるで司馬遼太郎が敗戦によって失われた日本人の自信を取り戻すために『坂の上の雲』を書いたように、90年代から始まった「失われた20年」で失われた日本人の自信を取り戻すために宮崎駿は天才技術者・堀越二郎の生涯を描いたのではないでしょうか。

(ただし、現在もこれが当てはまるとは必ずしも限りません。例えば、液晶テレビで日本が中国に負けたのは安かったからであって、いくら高画質・高品質でも高価であっては消費者には受け入れられませんでした。戦後、高品質で日本の家電と自動車が伸びたように同じ手法が通じるというわけではありません。私たちは時代の変化に合わせて自らを変えていかねばならないのだと思います。)

とまれ、右傾化甚だしい昨今の日本にあって、彼ら右翼を単に批判するのではなく、右翼も含めて日本人全員に未来への希望を与えるという意味では、この堀越二郎の物語は深い意味を有していると思います。この物語は多くの日本人に過去への反省と未来への希望を与えるという、極めて希有な作品だからです。この物語は、一見、宮崎駿の平和主義者であると同時に兵器好きのミリタリーオタクという相矛盾する性格が一人の人間に同居しているという自己矛盾を描いた作品に捉えられがちです。確かにそういった面もないわけではありません。しかし、そんな小さい個人的な事柄のために彼は作品を作ったりしないと思います。この宮崎駿という物語作者はこの物語を通して日本人に過去への反省と未来への希望を与えるという深慮遠謀な意図を自分でも気づかず無意識に持って、この作品を作ったのではないかと私には思えます。

年間約3万人の人たちが絶望して自殺してゆく昨今の日本・・・。この作品はそんな絶望した彼らに単純に希望だけを与えるのではなく、もっと苦しかった過去を教え、そしてその過去への反省を踏まえた上で希望を与えようとしていると思います。かつてはがむしゃらに前進することしか知らなかった戦後の高度成長期の日本とは違った、成熟した大人の思想をこの作品からは感じます。そして「生きねば」という宮崎駿のラストメッセージは現在の状況に絶望して自殺してゆく人たちに「死ぬな、生きよ!」という強い願いが込められた祈りの言葉であり、さらに単に祈りだけでなく「かつては技術力で焼け野原から再興したではないか」という歴史的裏付けのある未来への希望を込めた言葉なのだと思います。この言葉は単に自殺しようとしている人だけでなく、東日本大震災の被災者も含めた、現在、苦境に立つ日本社会の日本人全員に向けられた宮崎駿からの最後のメッセージなのだと思います。

2013年7月25日木曜日

新海誠『言の葉の庭』

新海誠監督の『言の葉の庭』を観ましたので感想を書きます。

久しぶりに素晴らしいアニメを観ました。見終わった後の清々しさは久しぶりでした。まず、あらすじを書いておきます。物語は16歳の高校生の男子と学校に通えなくなった高校の女教師との葛藤と恋の物語です。主人公の秋月孝雄は16歳にしては非常に大人びた少年です。すでに将来は靴職人になることを決めて黙々と靴職人目指して頑張っています。一方、もう一人の主人公雪野由香里は仕事によるストレスでトラウマを抱えてしまい仕事に行けずに朝から公園でビールを飲んでいるという生きることに行き詰った大人の女性です。彼女は自分と孝雄を比較して自分のことを成長していないと嘆き卑下している節があります。ただ、ひとの心は傷つきやすく脆いものだとしたら、そんなに卑下することもないだろうと私は思ったりします。日本社会は一人ひとりが経済活動に従って動いており、社会全体もそれに伴って全体運動していますので、いったんそこからはみ出してしまうととても居心地の悪いところなのでしょう。しかし、果たしてそれが正しいことなのかどうなのか。かつては企業戦士となって働くことで自己実現を行うというのがサラリーマンの既定の路線でした。しかし、企業の競争は激しくなり生存競争だけになりつつあって他を蹴落として自己の生存のみを優先するような経済活動で、果たして自己実現などが可能かどうかとても疑問に思います。

さて、孝雄は靴職人を目指しているので学校教育を煩わしく感じており、雨の日の午前中は休んで公園で靴の絵を描いています。学校に行きつつも勉強を半ば無意味と捉えており、いわば片足はドロップアウトしている感じです。一方、雪野は休職しており、味覚障害まで起こして現時点では完全にドロップアウトしています。そんな二人が出会って心を通わせます。心を通わせるといっても最初は恋ではなかったと思います。ドロップアウトした者同士が分かり合える共感が彼らの心を通わせたのでしょう。アウトサイダーである者同士の共感と言っていいかもしれません。そして、アウトサイダーであることは社会からのはみ出し者であり、どこか痛みを持っており、それは互いを繊細にします。そして、互いの心の繊細さに触れたとき、二人は次第に近しい気持ちになります。

ところが、ふとしたきっかけで雪野の正体を孝雄が知ってしまいます。孝雄は雪野の繊細な心を知っていたため、そして、既に彼女に恋し始めていたため、彼女をここまで追い詰めた先輩に手を上げて彼女の仇を討ちます。雪野は孝雄の仇討ちを知りませんが、どこかで何かを感じたのでしょう、そのあと二人はより一層近い関係になります。そして、雪野の自宅に訪れたときこれまでにない幸せを感じ、孝雄は恋愛にまで想いが高まります。それに対して雪野は恋愛なのかどうかは分かりません。二人でいることがこれまでになく幸せであることは確かです。そして、孝雄によって傷ついた心が癒されたのも確かです。二人は最後に互いの心を吐露して抱き合います。そして、雪野は実家に帰って教師として再出発し、孝雄は大人に成長することで今度は雪野を迎えに行こうと決意を固めて物語は終わります。

物語自体はさほど珍しくないと思います。確かに主人公の孝雄がとても大人であることに驚きますが、それ以外は特に珍しくないと思います。また、雪野のような心を病んだ教師は現在多くいると聞きます。多くの教師が学校生活で精神的に傷ついて休職しているというニュースを聞いたことがあります。おそらく雪野のようなケースは決して珍しくないのでしょう。ちょっと社会の暗いところを描いてあって新海誠にしては珍しいような気もします。

さて、ここからが本題です。この作品で特筆すべき点について言及します。それは自然の情景を描いた映像です。この作品は物語も確かに魅力的なのですが、それ以上に自然の描写がとても素晴らしいものになっています。雨に濡れた自然の描き方がこれまでのアニメにない素晴らしさでした。普段は動きのない情景が天気を雨にすることによって大きく変わります。自然や事物が雨に濡れることで色彩が際立って見えたり、風に揺れる木々や雨粒が心象風景として見事に浮かび上がってきます。雨に打たれて蒸気を発した空気が最早いつもとは違っています。

かつて日本文学は自然の情景を取り入れるのがたいへん優れていたと思います。しかし、それを映像化するのは非常に困難でした。なぜなら、実際の映像を撮ってもそれは日常的な情景であって、文脈に沿った印象を乗せた情景にはならないからです。ところが、それをこの作品は見事に描くことに成功しています。アニメ化することによって描きたい情景を見事にイメージどおりに描いているのです。いわば撮影では不可能なベストショットをアニメで見事に描いているのです。新海誠は元は文学部の国文学専攻だったはずです。日本の文学は伝統的に自然を描くことが多く、そして上手です。俳句にも必ず季語を入れて自然の移り変わりを表現するように日本独特の自然観があるからです。ただし、西洋だって自然観はあります。私は西洋の博物学が描く博物誌などに挿入されている動植物画は素晴らしいと思いますし、西洋の庭園のその自然のままにしようとする姿勢は良いと思います。それに対して日本の庭園は刈りこんで人工的にしてしまいがちです。おそらく、日本の場合、自然のままに任せると荒れ放題に自然が成長してしまうからだと思います。ところが、欧州は違います。例えば、ドイツなどは森を残しています。いったん森を伐採してしまうと二度と生えない気候になってしまったからです。また、英国ではナショナルトラストとして湖北地方など自然を残す運動があります。そうまでしないと自然を残せないからです。一方、日本は国立公園として自然を残そうとしていますが、山を削って自然を破壊すること甚だしいと思います。今回のウナギにしても絶滅を心配するよりもウナギの高騰を心配している始末です。日本人の感覚として自然は放っておけば勝手に再生するものと思っているようです。しかし、例えばオーストラリアでは山火事がいったん起これば二度と森は再生しない地域だってあります。それだけ日本の自然環境は恵まれているとも言えるのかもしれません。しかし、日本は戦後の経済成長の中で自然をとことん破壊してきました。今後、どこまで再生できるのかは分かりません。以前、吉本隆明が若い歌人が自然を詠んだ短歌が減ったと言っていたことがありました。それだけ日本人の中から自然に対する感性が失われたのだと思います。なぜかといえば都市化が進んで自然に触れる機会が減少したからだと思います。ながながと書いてきましたが、このアニメではそういった日本の自然に対する感覚がかつては文学であったのが、このアニメでは映像として見事に描かれていると思います。

風に揺れる枝、雲の中を走る稲妻、雨水のはね具合や波紋の広がり具合、とても素晴らしい表現でした。これはどのようなアニメ技法で描かれたのか素人の私には分かりません。CGなのかセル画風に手描きで描かれたものなのか、それともまったく別の技法なのか。いずれにしてもとても素晴らしい動く自然描写でした。実写では出せないアニメならではの表現でアニメにした甲斐があるというものです。実は、私は以前にこのような自然を描いたアニメ作品を期待したことがありました。それはディズニーアニメの『ポカホンタス』です。『ポカホンタス』の頃、CGが出始めた頃で水面の波紋や風に揺れる枝などコンピュータを使った自然な表現ができるのではないかと期待したことがありました。今回、そのときの期待以上の映像、自然な表現にさらにひとの感性を上乗せした素晴らしい映像を見ることができて本当に嬉しかったです!大げさな言い方かもしれませんが、アニメという表現ではあるものの、新海誠監督は自然を愛でるという日本文学の伝統の良き継承者なのかもしれません。

ありがとう、新海誠監督!

追記
自然には穏やかな自然もあれば、荒々しい自然もあります。アンドレ・ジッドが小説『田園交響楽』の中で自然とはベートーベンの田園交響曲のように美しいものだと言った反面、世界にはそうでないものもあると言いました。天国の楽園のような穏やかな自然だけでなく、石を裏返したときにムカデやダンゴムシがうじゃうじゃと這い出してきたり、動物の腹を切り裂いたら内臓がドバっとそのグロテスクな姿を見せたりします。表面は美しい曲面であっても、その中身はグロテスクな内臓だったりします。今回、この作品ではどちらかといえば、自然の美しい面ばかりを表現していたと思います。しかし、それは自然の一面に過ぎません。今度は是非もう1つの自然の面、荒々しかったり、グロテスクだったりする、魑魅魍魎が蠢くような自然の陰の部分を是非表現してほしいものだと思います。今作がとても素晴らしかったので、これは次回作への期待です。

2013年7月24日水曜日

牧野克彦『自動車産業の興亡』

今回は牧野克彦『自動車産業の興亡』を取り上げます。

今日の世界経済を考える上で自動車産業を抜きにしては考えられないほど極めて重要なリーディング産業であると言っていいでしょう。大きな雇用と利益を生む自動車産業は国を支える基幹産業であり、国家さえもその存在を無視できないものだと思います。(実際、米国は大統領がビッグ3のトップを連れて日本を訪れたこともありますからね。)そこで1886年に自動車が開発されてから現在に至るまでの百数十年間に生まれてきた約2500社の自動車メーカーの歴史について知っておくのは決してムダではないと思います。この本はそういった世界の自動車メーカーが生まれては消えていった興亡の歴史が図表や数値を交えて丁寧に描き出されています。また、著者自身が自動車メーカーに約40年間勤めた、いわば業界の内側の人間ですので、外側からうわべだけを見て知っているのと違って業界内部にも通じた深い見識に裏付けられた本だと思います。戦後の日本経済を支えてきた製造業は自動車と家電の二本柱ですが、今、家電は中国がその安い人件費を武器に世界の工場となって以来、日本を追い越しつつあります。もう一方の柱である自動車産業においても中国の生産台数はすでに世界一になっています。今後の日本の自動車産業の行く末を考える上でも、また日本経済の行く末を考える上でも自動車産業の歴史について知っておくことは極めて重要だと思います。この本はそういった自動車産業の歴史を知るのに最適な本だと思います。是非、ご一読することをお薦めします。

まず、自動車は欧州で発明されます。最初は蒸気自動車が発明されました。1769年にフランスでベルギー人によって3輪車が試作されました。意外なことに電気自動車もこの頃発明されます。1883年にフランスとイギリスでそれぞれ電気自動車が発明されました。ガソリン自動車はというと、まず1876年にドイツでガソリンエンジンが発明され、1885年に自転車にガソリンエンジンを搭載したオートバイを試作し、1886年に4輪車に搭載した自動車が試作されました。これらを開発したのはダイムラーとマイバッハというエンジニアでした。そう、あのダイムラーベンツのダイムラーです。そして、これとはまったく別に1886年に4サイクルエンジンを載せた3輪車を開発した人物がいました。それがベンツでした。自動車の発明にダイムラーやベンツが既にいたのですね。その後、ガソリン自動車が生き残ってゆくのですが、それには道路や石油という条件が整うまでに少し時間がかかりました。また、自動車レースがそれに大きく貢献しています。

さて、自動車の普及をおおまかに追ってみましょう。最初に欧州で発明された自動車ですが、初期の世界の生産台数は2万台程度でした。欧州では自動車は高級品でした。それを変えたのがアメリカのヘンリー・フォードです。コンベアー生産方式によってT型フォードの大量生産を可能にしました。そして、欧州では一部の富裕層しか買えなかった自動車でしたが、米国では一般大衆にも買えるようにしました。その結果、右図のように1900年から1980年までの間、アメリカが世界の自動車の生産の大半を担っています。世界大恐慌と第二次世界大戦の時期はさすがに生産は落ち込みますが、それ以外はほぼ順調に生産台数を伸ばして行きます。

一方、欧州はというと戦争のたびに生産を落としています。欧州の場合、特徴的なのは自国内ですべての自動車部品を賄うということが少なく、他国にわたって部品を揃えていたため、いったん欧州内のどこかで戦争が起こると部品が滞り、その結果、生産が思うように行かなかったようです。こういった違いもあってますますアメリカが自動車大国になったわけです。その間、アメリカ国内では競争が激しくビッグ3と言われるフォード、GM、クライスラーが台頭してゆきます。この自動車大国アメリカのダントツでのトップの地位は日本が自動車産業に参戦してくる1980年まで続きます。

日本の自動車産業は戦後に伸びて行きます。戦前もあったのですが、戦前は軍用車に限られていたようです。日本がアメリカを追い越すのはトヨタのリーン生産方式、いわゆるカンバン方式によって作られた高い品質によるものでした。元々、リーン生産方式はアメリカのデミング博士に由来するらしいです。また、自動車が小型化することにアメリカの自動車メーカーが対応できなかったのも大きな要因でした。その後、日米自動車摩擦が起こります。結局、アメリカの政治圧力に負けて日本が自主規制することでアメリカの自動車メーカーは倒産を免れ、その間にアメリカの自動車メーカーが技術を向上させて日本に追いついたそうです。

それから後に今度はグループ化の波が押し寄せます。世界の自動車メーカーはある程度のグループに組み替えられます。その結果、GM、フォード、ダイムラー・クライスラー、トヨタ、ルノー、VWの6大グループに分けられます。本書は2003年に刊行された本ですのでここまでの歴史ですが、しかし、その後も再編成されて、現在では、トヨタ、GM、VW、ルノー、現代自動車の5大グループになってしまいました。韓国の現代自動車が食い込んできました。


ところで、英国では自動車メーカーが発達しませんでした。というより出遅れてしまいました。英国は産業革命発祥の地でありながら、どうしてでしょう?それはすでに発達した産業が既得権益を守ったがために新興企業である自動車産業の発達を阻害したといえるのではないでしょうか。例えば、赤旗法という規制がありました。1830年頃、英国は既に蒸気自動車を開発してロンドンを蒸気バスが走っていました。しかし、蒸気バスはエンジンが蒸気機関ですから黒煙を排出するので住民からは嫌われていました。また、すでに発達していた乗合馬車は蒸気バスに仕事を奪われるのではないかとたいへん恐れていました。そこで1865年に乗合馬車の団体は議会に働きかけて自動車の前方55メートル先で赤旗を持った警告者が自動車を通ることを付近の通行者に警告しなければならないという赤旗法を通してしまったのです。考えたら、バカバカしい法律ですよね。しかし、そのことによって英国では自動車の普及が妨げられてしまったのです。ドイツやフランスで自動車の開発が進んだことに危機感を抱いて1896年になって赤旗法はやっと廃止されました。また、第二次世界大戦後、ドイツやフランスの工場が破壊されたために英国の自動車産業は一時期伸びるのですが、次第に復興した欧州大陸のメーカーに抜かれてゆきます。現在では英国の国産メーカーは外国のメーカーに吸収合併されて、独立した英国の自動車メーカーはとうとう無くなってしまいました。

今度は日本の自動車メーカーの国内でのシェアを見てみましょう。トヨタは比較的シェアを維持し続けていますが、日産は新規参入組に押されて20%近くシェアを下げています。一方、新規参入組でシェアを伸ばしたのはホンダとスズキです。マツダと富士重工はシェアを落とし、三菱やダイハツはほぼ横ばいです。この図は1995年までですので、現在はもう少し日産のシェアは回復しているのではないでしょうか。瀕死のクライスラーをアイアコッカが建て直したようにカルロス・ゴーンが官僚体質だった日産を改革して経営を建て直しましたからね。




今度はアメリカ市場での各自動車メーカーのシェアを見てみましょう。右図のようになります。フォードやクライスラーはほぼ横ばいですが、GMがかなりシェアを落としています。そして、その落とした分を勝ち取ったのが日本の自動車メーカーです。GMがシェアを落とした原因は様々ありますが、まず1つ挙げられるのは内製率が80%と非常に高かった点があります。トヨタの内製率が30%ですので極めて高いことが分かると思います。同時にUAW(全米自動車労働組合)との確執がありました。内製率が高いことからもそれを外注しようとすれば労働組合と対立するのは目に見えていますよね。これらのためにGMは非常に非効率な生産になったのだと思います。他にも人気車が無いとかRV車に出遅れたなど要因は多々あります。例えば最新鋭のロボットを工場に導入したけれど故障が多くてまったく使いものにならなかったという大失敗もあったようです。先日、デトロイトが財政破綻しましたが、大きな原因はGMの低迷にあると言えるでしょう。


さて、最後に現在の世界の自動車産業の趨勢を見ておきます。2012年のデータですが、世界の自動車メーカーの販売台数ランキングと国別の自動車生産台数と国別の自動車販売台数です。



















日本のトヨタや日産・ルノーはよく頑張っています。ホンダもよく食らいついています。ですが、世界の生産台数と販売台数を見てみて下さい。かつては自動車の世界最大の市場はアメリカでした。アメリカが最も多く生産して最も多く購入していました。しかし、今では中国が世界最大の自動車市場になりました。中国に世界各国から来た自動車メーカーが工場を建てて自動車を作り、そして、作られた自動車を中国が買っています。世界経済にとって、とても象徴的だと思います。日本もいずれ自動車工場のほとんどが中国に移転してしまい、移転した工場は中国を本拠地としてしまうでしょう。また、電気自動車がガソリン自動車にとって変わる時代が到来したとき、電気自動車はこれまでのガソリン自動車とは違って家電のように部品の調達が垂直統合から水平分業に変わるのではないでしょうか。そうなれば、ますます日本の自動車産業は苦しくなると思います。日本がこの世界の潮流に逆らっても仕方ないのではないでしょうか。むしろ、日本としては製造業から知識産業に新たに産業構造の転換を図るべきなのだと思います。

いずれにしても、自動車産業の歴史を知る上でこの本を読むことを強くお薦めします。

2013年7月14日日曜日

遠藤誉『中国動漫新人類』

今回、取り上げるのは遠藤誉の『中国動漫新人類』です。

感想としては非常に面白い本でした。これは単に中国における日本アニメの受容のされ方を知るだけでなく、現代の中国を知るには欠かせない本だと思いました。この本が出版されたのは2008年ですので、現在は、若干、状況が変わっているかも知れません。しかし、八〇后と言われる1980年代以降の生まれで日本の動漫(アニメや漫画)に親しんできた中国の若者たちのルーツを知るには欠かせない一冊であることに変わりはありません。日本と中国の間には懸案となっている問題がいくつかありますが、それらの問題を考えるためにもこの本で書かれていることはとても重要だと思います。是非一度読むことを強くお薦めします。

この本はタイトル『中国動漫新人類』とあるように日本のアニメや漫画が大好きな中国の若者について書かれた本です。しかし、彼らは日本のアニメが大好きな一方で愛国主義教育によって抗日戦争という史実を知り日本を嫌う反日という別の側面も持っています。相反する2つの感情を中国の若者たちは内に抱えもっています。この本はそれらについて見事に描いています。この本は内容的には前半と後半に大きく分かれており、前半は日本アニメが中国で愛されるようになった経緯や状況などが様々な立場の人たちへのインタビューによって多角的に丁寧に描かれています。後半は反日に至った経緯について緻密に調べられて描かれています。前半が社会学的とすれば、後半は歴史的な話になっています。

読んでいる途中で分かったのですが、著者の遠藤誉氏がかなりの高齢であることに気づきました。巻末にある著者紹介を読んでみると1941年中国長春市生まれとあり納得しました。この本は2007年頃から雑誌に掲載されたようなのですが、ということは、つまり、この本を執筆していたときに遠藤氏は既に60代後半だったということになります。その歳でよくアニメとかに理解を示せるなあと驚きました。同時に彼の歴史認識に対しても実際にその時代を生きた現実を知っている方だなあというのも分かりました。彼の家族に起こった悲劇を読んで久しぶりに過去の戦争の悲惨さを思い出しました。教科書の知識として日中戦争を知った若者と実際にその時代を生きて肌でその時代を知っている人とでは歴史認識がちょっと違いますからね。後半の歴史の話を読み始めた最初は私にはやや退屈に感じられたのですが、読むに従ってとても興味深い内容であることが分かってきました。この本が単に中国における日本アニメの人気が高いことを取り上げるといった、ひとつの社会現象を捉えたというだけでなく、もう一歩踏み込んで過去の歴史的な背景まで描いていることでグッと深みが増しています。サンフランシスコにおける華僑の人権運動の話を読むに至っては中国で起こっていた反日デモに対する理解をかなり深めることができました。

さて、この本では中国で日本アニメが普及した要因のひとつを海賊版にあると考えています。海賊版が出回っているために小遣いの少ない子供たちの誰もが手に入れやすかった。それに比べて米国のアニメは著作権が厳しく海賊版が出回りにくかった。また、日本ではあまり見られないCVDというファイル形式も安易に動画のコピー・再生を容易にした。アニメであってもこのファイル形式だどパソコンなどで簡単に再生できるようで比較的簡単に普及したようです。それに翻訳の問題も台湾や香港から入ってくることで日本とカルチャーギャップがあっても内容を理解しやすかったし、さらにも名門大学の学生が日本アニメを好きなあまり競って翻訳したことも大きかった。また、中国政府が日本のアニメをたかがアニメや漫画ということで軽く見なして海賊版が普及することを黙認していた。それに比べると米国のアニメに対してはどうもイデオロギー的に警戒していたらしい様子が窺える。そして何より、中国で普及した一番の要因は日本アニメの面白さが中国の若者たちを魅了したことでした。当たり前ですが、これが日本アニメが普及した一番の原動力になっています。『鉄腕アトム』や『ドラえもん』、『スラムダンク』や『セーラームーン』、果ては『クレヨンしんちゃん』まで幼児から青年、幼児の母親まで幅広い視聴者に受け入れられた。しかも単に面白い娯楽というだけでなく、また米国のような政治的イデオロギーではなくて、もっと普遍的な、ヒューマニズムなど精神的な意味での思想としてじわじわと無意識下に浸透するように受け入れられていったようです。それは私たち日本人にも分かる感覚だと思います。アニメを見て感動したことのある人なら分かると思います。

ところで、面白かったのは中国政府高官の話です。興味深い内容でしたので、ちょっと長いですけど以下に引用します。
日本のアニメというのは特に思想性とか目的のようなものがないんですよ。思想性とか、宗教性とか、他の文化圏の人間を説得しよう、あるいは感化しようといった、意図的な中身、目的性といったものがありません。ただ、若者が喜ぶものを作っているという感じですね。しかし、アメリカのアニメは違う。アメリカのアニメには思想性とか目的性があります。すなわち、アメリカ社会が持っている民主主義とか、人権主義とか、あるいは平等といった、要するにアメリカ社会が持っている価値基準のようなものを、アニメの中に含ませているんですよ。これをクオリティの高い映像で芸術作品のように見せて、うっとりさせ、次第にその思想性を浸透させていく。その意味では、日本のアニメよりずっと思想性と目的性を持っていると私は思っています。日本は何かにつけて、アメリカのような戦略性に乏しい国でしょう。経済が繁栄すればいい、それによって国民が幸せになればいいと思っているという傾向はありますね。それはそれで良いことですよ。ただ、アメリカの言いなりになり過ぎて、そこに自尊心がないようにお思います。現代の日本は国家戦略といった大局的視点を持ち得ない国でしょう。アメリカは違います。あそこは英雄主義にしろ、世界のアメリカという社会思想にしろ、確固たる戦略を持った国だから、アニメの中に、その思想性が自然に忍び込んでいるんですよ。だから、もし危険性ということを言うならば、どんなに量が少なくとも、アメリカの方が日本よりもっと高いんですよ。
実に的確に日本と米国を捉えていると私などは思います。ここには日本と米国の特徴が見事に捉えられています。ひと言でいえば、日本には戦略性がなく、米国は明確に戦略を持っているということに尽きると思います。戦略があることが良いことなのどうなのか、それがアニメなどコンテンツが普及することに吉と出るか凶と出るかは難しい問題です。しかし、グローバルに展開しようとする場合、戦略を持っていた方が成功している例が多いのではないでしょうか。日本アニメのような例はむしろ稀なように思います。(ところで、話はそれますが、実際、戦後すぐの頃、米国のCIAは米国文化を日本に植えつけるように情報操作しています。日本のアメリカナイズは米国の戦略によって半ば意図的に行われた結果なのです。)

さて、日本アニメが中国に普及した結果、事態はさらに進展していきます。まず、あまりの普及に驚いた中国政府が日本アニメの放送を制限しようとしました。放映時間に制限を加えたのです。しかし、海賊版が深く浸透してしまったために、もはや放映時間の制限だけでは日本アニメの普及を食い止めることができなかったようです。そこで中国政府は中国でアニメの制作を奨励します。日本アニメに取って代わるために国産アニメを国策として進めたのです。ところが、これも上手く行かなかったようです。日本アニメに比べて国産アニメは映像も内容もクオリティが低かったからです。さらにマーケティングの問題もあってうまく行かなかったようです。ただし、今後はどうかは分かりません。私の考えですが、経済成長と共に中国でもクリエイターたちが育って、いずれは日本アニメを追い越す日も来るのではないでしょうか?実際、これまでも中国映画や香港映画は質の高い作品を作ってきたと思います。ヒューマンドラマでも単なる娯楽作品でもいずれの場合でもそれなりに質の高い作品を世に送り出してきた実績があると思います。ならば、アニメや漫画もクリエイターさえ育てば質の良い作品を作るようになるのではないでしょうか。日本アニメがいつまでも一部のオタクにしか受けないような偏った作品ばかりを作っている間に中国はより質の高いアニメ作品を作って日本を追い越す日が来ないとは言えないと思います。

さて、本書の後半は日本アニメ大好きと反日という相反する2つの感情を抱えた若者たちの心情を理解するために歴史の話になります。後半と言ってもページ数としては第5章と第6章くらいですので量的には少ないのですがね。そこには憤青(憤怒青年)と言われるネットに起源を持つ愛国民族主義者たちの話や江沢民の世界反ファシズム戦争勝利記念大会での演説の話、サンフランシスコの台湾華僑が世界抗日戦争史実維持聯合会という団体でロビー活動した結果、従軍慰安婦問題をナチ戦争犯罪情報公開法に加えるようになったという話や南京大虐殺が人権侵害問題としてアメリカで取り上げられるようになった話など非常に興味深い話がたくさん詰まっています。これは非常に勉強になりましたし、従軍慰安婦問題や南京大虐殺を含めた日本の戦争について改めて勉強しなければという気を起こさせてくれました。昨今、橋下徹大阪市長の従軍慰安婦発言が問題となりましたが、日本の国内にだけ目を向けるのではなく、世界にもこの問題で目を向ける必要があるのだなと改めて思い知らされました。

最後に繰り返しになりますが、アニメに関心のある方、中国に関心のある方はこの本は読んでおいた方がいいと思います。その理由を述べる前にざっと世界の状況を見渡してみます。米国のハリウッドは映画産業で確固たるブランドを築きました。それは娯楽作品でも芸術作品でもいずれにおいても高いクオリティを実現しているというちゃんとした実力を持ったブランド力があるからです。さらにグローバリゼーションでかつては発展途上国だった多くの国でインフラ整備が進んでテレビが普及する中、不足するコンテンツを補うものとして米国はTVドラマの販売を広げています。そこではハリウッドの映画スタジオが撮る高品質なTVドラマを売り込んでいます。それは別に米国だけではありません。韓国も韓流ドラマやK-POPで娯楽産業を国家戦略として売り出しています。今のところ、韓流ドラマは東アジアだけでなく、欧州や中東の一部でも受け入れられているので成功していると言っていいでしょう。そして、中国は国産アニメを着々と作り続けています。米国のピクサーを真似た3Dアニメも既に作っていますし、携帯電話で読める漫画やアニメも既に出ています。では、日本のアニメはどうでしょうか。私は以前から日本のアニメもグローバルコンテンツとして十分に世界に通用すると思っています。実際に世界中の子供たちが視聴しているでしょう。最近はクールジャパンの名目で日本政府も日本アニメの普及に努めているとは思います。しかし、あくまで限られた視聴者だと思います。それに著作権やブランド力に至ってはハリウッドのシステムには遠く及びません。まだまだ体制が不十分だと思います。ですが、何よりもコンテンツそのものに何かが足りないと私は思っています。喩えて言えば、富野由悠季監督の『機動戦士ガンダム』はそれまでは子供向けだったアニメを青年でも楽しめるようにアニメの視聴者の年齢を押し上げたと思います。言わば、子供向けと限られていた壁を突破して、さらに広い市場を切り開いたと思います。今、日本アニメはグローバルに展開することを夢見ていますが、ガンダムのような今までの常識を破るような突破する何かが必要なのではないでしょうか。そこには意識した明確な戦略が必要ではないかと思います。私はアニメを「たかがアニメ、所詮はアニメ」とは考えていません。アニメも立派な表現形態のひとつであって文学や映画のように人々の心に深く訴える作品、人々に深く考えさせる作品、人々の心を強く感動させる作品を創り出すことができるメディアだと思っています。文学に世界文学があるように、アニメもまた世界で高く認められる精神性の高い表現ができるものだと思っています。単なる子供向けのものだとは考えていません。アニメが子供向けのものだと誰が決めたのでしょうか?そんなものは言うなれば『銀河英雄伝説』において帝国軍が必ずイゼルローン回廊を通って攻めてくるものと決めてかかっている固定観念と同じではありませんか。アニメが子供だけに限られた表現形態だと決っているわけではありません。アニメの可能性はもっと幅の広いものです。アニメの可能性はまだ十分には開かれていません。アニメの真の発動はこれからだと私はそう確信しています。

最後にあとがきを読んでいたら著者の関係者への感謝の言葉の中に柳瀬博一氏の名前が載っていました。柳瀬さんと言えば『文化系トークラジオLife』のUSTREAM放送でよくお見かけする博識でバランスの良いセンスをお持ちの編集者の方ではありませんか。この素晴らしい本の編集に携わっていたとは驚くとともに納得もしました。さすがにセンスが良いと。歳をとると男性はだんだん硬直しがちで、柔軟な思考や鋭敏な感覚を持ち続けること、若い頃のセンスに加えてバランスの良さを加えたセンスを維持しつづけることが非常に難しくなると思います。私自身は不器用でそういうカッコイイおじさんになれなかったのですが、私が若い頃にそういう人が一人だけ近くにいたので他のオジサンと比較できたので、そういう歳のとり方ができるんだと知ることができました。歳をとると男性は女性以上に若者から邪険にされたりするので、せめてカッコイイおじさんになってあまり邪険にされないオジサンになりたかったですね(寂寥・・・)。

それと参考までに目次を掲載しておきます。
第1章 中国動漫新人類―日本のアニメ・漫画が中国の若者を変えた!
  中国清華大学の「日本アニメ研」が愛される理由
  『セーラームーン』で変身願望を実現した中国の少女たち
  『スラムダンク』が中国にもたらしたバスケブーム
  なぜ日本の動漫が中国の若者を惹きつけるのか
  意図せざる?知日派?の誕生―中学3年生から見えてくる日本動漫の影響度
  『クレヨンしんちゃん』にハマる中国の母娘
  日本にハマってしまった「哈日族」たち

第2章 海賊版がもたらした中国の日本動漫ブームと動漫文化
  初めて購入してみた海賊版
  「たかが動漫」と、野放しにした中国政府
  動漫の消費者は海賊版が育てた
  仮説:「タダ同然」のソフトが文化普及のカギ
  中国における動漫キャラクターグッズの巨大マーケット
  日本動漫の中国海賊版マーケット
  進化する海賊版製作方法―DIY方式と偽正規版
  中国政府の知財対策と提訴数
  日本アニメの字幕をつくる中国エリート大学生たち

第3章 中国政府が動漫事業に乗り出すとき
  中国のコスプレ大会は国家事業である
  中国の大学・専門学校の75%がアニメ学科を
  国家主導のアニメ生産基地の実態
  アニメ放映に関する国家管理―許可証制度
  『クレヨンしんちゃん』盗作疑惑の背景に見えてくるもの
  中国政府は、日本動漫をなぜ「敵対勢力」と位置づけたのか?
  ゴールデンタイムにおける外国アニメ放映禁止令が投げかけた波紋
  日本アニメ放映禁止に抗議して、地下鉄爆破宣言をした大学生
  日本アニメの多くは、実は中国で制作されている?
  アメリカも崩せない中国ネット監視の壁

第4章 中国の識者たちは、「動漫ブーム」をどう見ているのか
  北京大学文化資源研究センター・張頤武教授の見解
  『日本動漫』の作者・白暁煌氏の見解
  中国美術出版社の林陽氏の経験
  ある政府高官の、日本動漫に関する発言―中国はいずれ民主化する

第5章 ダブルスタンダード―反日と日本動漫の感情のはざまで
  清華大学生の日本動漫への意識と対日感情
  ネット上での日本動漫と対日感情に関する議論
  中国人民大学の「日本動画が中国青年に与える影響」に関する報告書

第6章 愛国主義教育が反日に変わるまで
  なぜ愛国主義教育が強化されるようになったのか
  「抗日戦争」と世界反ファシズム戦争との一体化
  台湾平和統一のために「抗日戦争」協調路線を展開
  台湾系アメリカ華僑華人社会と、中国政府の奇妙な関係
  華僑華人・人権保護団体が巻き起こした慰安婦問題
  ネットで暴れる民族主義集団―憤青
  日中の戦後認識のズレは、どこから来るのか
  ―アメリカに負けたのであって、中国に負けたとは思っていない日本

第7章 中国動漫新人類はどこに行くのか
  日本動漫が開放した「民主主義」
  ウェブににじむ若者の苦悩―「親日は売国奴ですか?」
  中央電視台が温家宝のために敷いた赤絨毯―「岩松看日本」
  精神文化のベクトル、トップダウンとボトムアップ
  中国が日本に「動漫」を輸出する日


2013年7月8日月曜日

堀内一史『アメリカと宗教』

今回は堀内一史の『アメリカと宗教』を取り上げます。

私たちがアメリカについて考えるとき決して外してはならないのがアメリカの宗教です。アメリカと宗教は切っても切れない関係にあります。一見、アメリカは世界で最初の民主主義国で科学と合理主義の塊であり、宗教とは無縁の国だと考えがちです。しかし、実際のアメリカはそうではありません。英国のピューリタン(清教徒)がアメリカに入植して以来、この国は極めて宗教的な国です。

多くの日本人がそうだと思うのですが、普段、目にするアメリカに関する情報、例えば、アメリカの映画、アメリカの音楽、アメリカのニュースなどから、私たちはアメリカという国は極めて先進的で自由なリベラルな発想をする国だと考えがちです。確かにそれは間違っていないと思います。しかし、それはアメリカの顔の半分に過ぎません。もう半分の顔は、あまり目立って報道されませんが、極めて地味で保守的で信心深い、リベラルからは程遠い宗教的な顔を持っています。

保守とリベラル・・・。そうです。アメリカは共和党と民主党の二大政党制の国ですが、保守を支えている人たちの多くは、つまり、共和党を支えている人たちの多くは実はこの宗教的な人たちなのです。そして、宗教と政治が顕著に結びついているのは共和党を支えている宗教右派と言われる人たちなのです。近年のアメリカでは共和党と民主党が代るがわる政権の座に就いていますが、それだけこの国の宗教的な人たちの力は根強いのです。もちろん、リベラルを支えている人たちの中にも宗教的な人たちがいないわけではありません。最近は宗教左派というのも存在します。しかし、どちらかと言えば、彼らは宗教的な思想信条は個人の問題として捉えて政治とは切り離して考える人たちが多いのではないでしょうか。ところが、宗教右派の人たちはそれとは違って、自分たちの宗教的な思想信条を政治を使って社会に大きく反映させようとしているのではないでしょうか。例えば「人々はもっと慎ましやかに禁欲的に生きねばならない。ハリウッド映画のような性的に破廉恥で乱れた生活など断じて許されない。もっと政治に積極的に関与して人々を正しい道に導かなければならない」と考えるような人たちではないかと思います。つまり、極めて保守的な考え方をする人たちです。そして、その保守的思想の根底にあるのが彼らの宗教です。一般に保守というと、単純に自国を愛するという愛国心に支えられたナショナリズムが多いと思います。しかし、アメリカの場合は、そういったシンプルなナショナリズムもあるのはありますが、むしろ多くの保守はその根底に宗教がある保守だと思います。

この本はそういったアメリカの宗教について歴史を追いながら見事に読み解いています。アメリカを本当に理解するためには、アメリカの宗教に対する理解が絶対に欠かせません。そういう意味では、この本はアメリカを理解するためには欠かせない一冊です。


さて、ここでいう彼らの宗教とは何でしょうか?確かにアメリカは移民の国であり、様々な種類の宗教が入り乱れています。しかし、その中でも最も影響力のあるのはキリスト教です。しかも、ピューリタンとして入ってきたものですから、キリスト教の中でも、元はプロテスタントです。そのプロテスタントとして入ってきた宗教が歴史の時間の流れの中で様々に変化・分化して、さらに様々な紆余曲折を経て、現在では多様な宗派として林立しています。例えば、バプテスト派教会、メソジスト派教会、長老派教会などのように分かれています。ただし、これだけではなしに、この分化以外に主流派、福音派、黒人教会などというようにも分かれています。その結果、南部バプテスト連合(福音派)や合同メソジスト教会(主流派)といったように様々な宗派に分かれています。中には米福音ルター派教会(主流派)なんていうのもあります。さらに近年では宗派に囚われないメガチャーチなるものも存在します。このように宗派は非常に複雑に分化しています。この本ではそういった複雑な変遷が鮮明に描かれています。また、この本では、スコープス裁判など歴史的なポイントとなる事件や問題もちゃんと押さえられています。

私たち日本人はアメリカというと資本主義の権化で欲望を全面的に肯定する欲深い国だと考えているかもしれません。しかし、アメリカの宗教という別の側面を知るとそのイメージとのあまりの違いに驚かされると思います。実はアメリカを支えているのは資本主義や合理精神とは別のもう1つものがあって、それが極めて禁欲的で保守的な宗教であることに気付かされると思います。アメリカを知るためにはアメリカの宗教を知る必要があります。この本はアメリカの宗教を知る入門書として最適な一冊だと思います。一読することを強くお薦めします。

なお、自分の整理のためですが、下記に各宗派についてのメモ書きと本書の図表を抜粋しておきます。

バプテスト派教会
バプテスト派教会は人口比で17.2%を占めるプロテスタント最大の教会。さらに、この中の南部バプテスト連合は保守的な福音派に属するプロテスタントで最大規模の教派である。また、米バプテスト教会USAはリベラルな主流派に属する。バプテスト派教会の特徴は洗礼が全身を水に沈める浸礼であること、信仰告白を重視して幼児洗礼をみとめないこと、教会の独立性が極めて高いことであるらしい。

メソジスト派教会
メソジスト派教会はバプテスト派教会に次ぐ信徒数を誇る。特徴は個人の信仰の自由意思を尊重し、悔い改めれば誰でも救われるという救済観、キリストの十字架上の死による代理贖罪を強調する、幼児洗礼も認めることらしい。

その他、ルター派教会、ペンテコステ派教会、長老派教会、回復派教会、米国聖公会、ホーリネス派教会、会衆派教会、など様々な教会・教派がある。

さらに、教会毎に分類するのではなく、政治との関連で分類する見方がある。それが主流派と福音派である。端的に言えば、主流派は世俗に寛容なリベラルであり、福音派は聖書や教義に厳格な保守である。ただし、近年は宗教左派に福音派左派が存在するので、宗教的態度としては保守であっても政治的にはリベラルであるので、必ずしも一般に考えられる保守とは限らない。

主流派
主流派とは多数派という意味での主流派ではない。宗教的・歴史的な意味で主流派という名前になったようだが、その由来はよく分からない。とりあえず、福音派ではない人々と定義するのが分かりやすい。特徴としては概して寛容である。また、隣人愛の実践として社会福祉に強い関心を持つ。聖書の内容を絶対視せず、解釈を加えてゆくことが多く、神学的にはほぼリベラルである。元は概ね共和党支持だったが、1980年以降は民主党に支持が傾いている。ただし、近年は信徒数の減少に歯止めがかからない状況とのこと。

福音派
基本的には神学的な意味での保守派である。ただし、実態は極めて多様である。しかもプロテスタント固有の信仰様式ではなく、カトリックにもまたがっており、教派にも囚われることなく、諸教派に福音派は存在する。例えば、ブッシュ大統領は主流派の合同メソジスト教会に属するが、福音派の信仰を持っている。実にややこしい。福音派の多くは政治的には保守で共和党を支持する傾向が強い。ただし、政治的にはリベラルな福音派も少数ながら存在する。なお、福音派の特徴は外部団体との協力には消極的で社会への奉仕よりは福音を拡大しながら自らの信仰を深めることに強い関心を持っているらしい。近年は信徒数が増える傾向にあるらしい。

原理主義
原理主義者は福音派の中のさらに保守的傾向の強い人たちである。

以上のように非常に入り組んでいて複雑であり、しかも時々刻々と変化するため彼らの位置づけは必ずしも固定的ではなく、流動的である。いつなん時、これらのポジションが変化するか分からないと思います。












2013年7月6日土曜日

マシュー・リーン『ボーイングvsエアバス』

今回はマシュー・リーンの『ボーイングvsエアバス』を取り上げます。

この本は戦争を挟んで航空機がどのように発達し、その後、2つの航空機メーカー、ボーイングとエアバスに収斂してゆくかを描き、さらにこの2社がライバルとして如何に競ってきたかを綴ったノンフィクションです。

現在、旅客機と言えば、ボーイングとエアバスの2大メーカーが主流になっています。その2大メーカーがどのように成長し、なぜ生き残ることができたかをその足跡を綿密に追うことによって見事に浮かび上がらせています。また、旅客機とは何なのか、人々が必要としている旅客機とはどのようなものなのかということも彼らが歩んできた足跡を辿ることで自然と分かるようになっています。

ところで、日本の航空機産業はどうだったのでしょう?日本は家電と自動車で世界第二位の経済大国にのし上がりましたが、航空機だけは世界のトップ企業を育てることには成功しませんでした。日本は戦時中は零戦という優れた戦闘機を作ることに成功したにも関わらず、戦争に負けたことによって戦後は戦勝国側から航空機の製造を長らく制限されて、制限を解除されたときには時既に遅く、世界の航空機メーカーから技術力を大きく引き離されて、世界に太刀打ちできる航空機メーカーを育てることができませんでした。なぜ、戦勝国は敗戦国の航空機製造を制限したのでしょうか?その理由は航空機が戦争にとって極めて大きな役割を果たすからです。第二次世界大戦ではっきりと示されたのは戦艦に象徴されるような大艦巨砲主義の時代は終わったということでした。代わりに台頭したのが、空母から出撃した戦闘機による攻撃や爆撃機による高高度からの空爆、絨毯爆撃でした。それゆえに戦勝国は敗戦国が二度と反撃できないように敗戦国の航空機を生産する能力を抑えようと考えたのです。その結果、日本は占領期間を終えて自衛隊を持った後も、自前で戦闘機を作ることはできず、米国から戦闘機を購入するということを長らく続けることになったのです。しかも購入したのは米国の最新鋭の戦闘機ではなしに1つ前の世代のいわば古いタイプの戦闘機だったのです。ともかく、そうした経緯によって日本の航空機産業は長らく低迷することになったのでした。

そうやって日本を含めた敗戦国側の航空機産業を抑制して、戦勝国側の航空機メーカーは順風満帆で成長していったのでしょうか?実はそうではありません。戦勝国の航空機メーカーは航空機メーカー同士で熾烈な争いを繰り広げました。米国にはボーイングのほかにダグラスやロッキードなど手強い競合企業がたくさんありました。欧州も同様で各国間の航空機メーカーで争っていました。そうした激しい競争の中からボーイングが旅客機として抜きん出た企業に成長してゆくのです。一方、欧州のエアバスはボーイングに負けじと欧州各国の航空機メーカーを統合してコンソーシアムという組織体にすることでボーイングに対抗してきました。このように彼らはぬるま湯の中で成長したわけではなくて、激しい競争の中でたゆまぬ努力をし続け、時には合従連衡を重ねたりしながら、2社は育っていったのです。

さて、航空機同士の競争となると私たちはつい、より速く、より大勢の人たちを運ぶことができるというのが競争に勝つ要件かと考えてしまうかもしれません。しかし、実際はそうではありませんでした。例えば、コンコルドです。コンコルドは旅客機で音速の壁を超える初めての超音速旅客機です。しかし、音速の壁を超えるのは技術的に極めて至難の業でした。非常な苦労の末、膨大な開発費と長い時間をかけて開発したコンコルドでしたが、機内は狭くて決して快適とは言えず、さらに燃費が悪い上に航続距離もとても短いなどビジネスとしては極めて不経済な代物でした。結局、コンコルド以後は超音速旅客機は開発されることはなくなってしまいます。コンコルドはより速くを追求しても成功しなかったという失敗事例になってしまいました。では、より大勢の人たちを運ぶというのはどうだったでしょうか?こちらは簡単に想像がつきます。より大きな機体にして客席を増やしても実際に客が乗らなかった場合、空っぽの空席で飛んでいることになります。高い燃料費がかかっているのに空席ばかり運んでいたのではビジネスになりません。乗客で席が埋まってこそ旅客機はビジネスになるのです。したがって、航空機メーカーの競争はいかにビジネスとして優れているかであって、飛行機の能力として速いとか大勢の載せられるとかいった単なる技術力にあるのではなかったのです。(ただし、もちろん、技術力に意味がないと言っているわけではありません。ビジネスに成功するにしても、それを支える技術力が必ず必要だからです。ただ、ビジネスの要件を満たしていなければ、たとえ高い技術力があっても企業は生き残れないのです。)

それから、この本を読むと大きな商談をまとめるビジネスマンたちが次々に登場してきます。航空機販売ですから、一機だけでも極めて高いお金が動くのは間違いありません。しかも、その一機が糸口になって次々に商談が広がっていったりします。そういう男たちの生き様も少し垣間見ることができてけっこう面白かったりします。

さて、私たちの時代は飛行機が当たり前になってしまいました。ちょっと音がするなと思って空を見上げたら飛行機が飛んでいたというのが当たり前の時代です。夜空を見上げてもチカチカと点滅する光が動いているのが見えて飛行機が飛んでいるのだなとすぐに分かります。ライト兄弟が初飛行に成功したのが1903年です。それからたかが110年です。あるいは、ボーイング29、つまり、B29が東京を空爆し、広島・長崎に原爆を落としたのが今から約70年前です。ほんの少しばかりの時間で飛行機が飛ぶのが当たり前になってしまいました。そして、世界の大空を飛んでいる旅客機の多くがこのボーイングとエアバスです。これだけたくさんの飛行機が空を飛んでいるのに見かける旅客機はこの2社がほとんどです。凄いことです。今後もこの2大航空機メーカーが2強であり続けるのかどうかは分かりません。新たな航空機メーカーが対等に競い合える競合企業として熾烈な争いに加わるかもしれません。しかし、たとえ第三のメーカーが加わったとしても、この2社がそう簡単にトップの地位から転げ落ちるとは考えにくいと思います。当分はこの2社が世界の空を支配するのは間違いないと思います。そういう意味では、ボーイングとエアバス、この2社についてどのような歴史を持った企業なのか、知っておくのは悪くはないと思います。

ちょっと文章の締めが上手く締まりませんでしたね。ここはひとつプロの方に締めてもらうことにしましょうか。そう、私たちの世代でジェット旅客機と言えば、城達也のジェットストリーーム♪です(笑)。では、最後までごゆっくりとお楽しみ下さい。



尚、飛行機とアメリカの関わりを描いた歴史書に下記のものがあります。飛行機に焦点を当てて別の角度から見たアメリカ、広い視点から見たアメリカという点で興味深く読める本です。是非、読んでみて下さい。



※なお、この『ボーイングvsエアバス』は2000年に刊行された本です。したがって、若干、現状とは異なっているかもしれませんのでご注意下さい。

2013年7月5日金曜日

キャンベル-ケリー&アスプレイ『コンピューター200年史』

今回はマーチン・キャンベル-ケリーとウィリアム・アスプレイの『コンピューター200年史』を取り上げます。

この本はタイトルのように200年にわたるコンピュータの歴史を追った本です。19世紀のチャールズ・バベッジの階差機関から始まり、エッカート、モークリーのENIACを経て、現代のパソコンからインターネットの出現に至るまでのコンピュータの歴史を様々な経路を辿りながら描いた歴史書です。

私たちの時代はインターネットの普及という革命的な激変がありました。よく言われるように、いわゆるIT革命ですが、IT革命というだけではまだ言い足りないくらいです。まさに本当の革命といっていいくらい、私たちの生活を大きく変えました。そして、そこで主役になったのがコンピュータです。コンピュータなくしてはインターネットはありえませんでした。その昔、各家庭の中にモーターがいくつあるかでその家の文明度が計れると言われたことがありました。なぜかというとモーターは様々な家電に使われていたからです。今やCPUが家の中にいくつあるかでその家の文明度が決まるかもしれません。もはやコンピュータは私たちの生活に無くてはならないものです。しかし、そんなコンピュータの歴史を私たちは知っているでしょうか?確かにコンピュータの世界はドッグ・イヤーと言われるように普通の時間よりも4倍早く時間が進むと言われています。それだけ目まぐるしく進歩してゆきます。また、ムーアの法則と言われるようにCPUの性能は18ヶ月で2倍になると言われています。それだけ性能自体も一世代前とは比べ物にならないほど短い時間で良くなります。そのため、私たちはついつい短いスパンでの変化に気を取られがちです。そのため、コンピュータの歴史という長いスパンではあまり意識してこなかったように思います。コンピュータがこれだけ私たちの生活に必要不可欠な道具であるにも関わらずです。そういう意味でこの本を読んでおくのは極めて有意義なことだと思います。コンピュータの歴史を知ることでコンピュータの全体像が浮かび上がってきます。そして、コンピュータの歴史という全体像を知ることでコンピュータを俯瞰して捉えることができるようになり、今まで見えなかったことが見えるようになると思います。

さて、読んでいて面白かったのはコンピュータは英米で発達したという点です。最初は英国で発達し、後に米国で急速に普及します。つまり、近代化と歩調を合わせるように発達していったのだと思います。まあ、当然といえば当然なのですが。最初は対数表の計算が必要でコンピュータを必要としました。なぜなら、世界の海を支配した大英帝国が正確な航海表を必要としたからでした。そして、手形交換所の煩雑な計算もコンピュータを必要とした理由に加わります。つまり、資本主義がコンピュータを必要としたのです(*1)。また、コンピュータが普及した大きな要因は事務機器の機械化にありました。事務機器の機械化を好んで進めたのが米国で米国は何に対しても機械化好きなようでした。もちろん、米国が近代工業化してゆくのとコンピュータの発達がちょうど重なったこともあると思います。(ただ、初期のコンピュータの発達の歴史は単線的なものではなくて、様々な方面からそれぞれ発達してきたと思います。)事務機器の機械化で飛躍的な発展を遂げたのがIBMです。元々は文房具の会社でしたからね。それが元となってメインフレームとして事務機器に長らく強い影響力を残しています(*2)。とにかく、最初に世界の工場といわれた英国で発達し、第二次世界大戦後に工業国としてトップに立った米国で発展・普及していったのです。もちろん、戦争も大きく影響はしています。何より弾道の計算がコンピュータの開発が急がれた理由ですし、ENIACの開発にフォン・ノイマンが加わったのも戦争の影響からですし、英国でEDSACが作られたのもチューリングの暗号解読機ボンベという下地があったからだと思います。また、リアルタイムシステムの開発も元はと言えば戦闘機のパイロットを養成するためのシミュレータの開発が始まりでした。こうやって見てみると資本主義と戦争がコンピュータを発達させたと言っていいかもしれません。(ただ、それだけではなしに思考のスタイルも関係しているように私には思えます。極端な言い方ですが、英米哲学だからこそコンピュータが発達したのではないかと思えます。逆に大陸哲学、構造主義ではコンピュータは発達しなかったのではないかと思えます。この辺りはまた別の機会に考えてみたいと思います(*3)。)

さて、一方、ソ連ではどうだったかという疑問はありますが、本書では分かりません。本書ではまったくソ連は出てきません。ただ、ソ連はFAXですら使用するのを禁止したという話を聞いたことがあります。FAXによって危険思想が伝播してゆくのを恐れたらしいのです。そんなことを考えると今のインターネットなど到底不可能だと思ってしまいます。現在でも多くの強権的な国の政府がSNSを使うことを嫌がっているのを考えるとソ連がFAXを禁止したのも分かる気がします。ただ、ソ連の科学技術は進んでいた面もあったと思います。ロケットや戦闘機などを見ると凄いなあと感心します。制御工学が発達していたのでしょうか?それにソ連水爆の父のサハロフ博士なんて人もいますから、決して劣っていたわけではないと思います。しかし、やはり、経済体制にムダが多かったのではないでしょうか。物資が不足して常に行列ができているにも関わらず、その裏では物々交換は恒常的に行われていたというのですから、経済体制に問題があったのではないかと思います。ただ、別に経済が世界で一番でなくても、多少、経済的にルーズでも、ブータンのいうGDH(国民総幸福量)のように幸福度が高ければ良かったとは思いますが。

随分、話が脱線してしまいました。あ、そういえば、コンピュータの発展は英米における統計学の発展とも関係がありそうな気がします。この辺りも一度調べてみる必要がありますね。

とにかく、本書はコンピュータの歴史ですが、コンピュータサイエンスの歴史ではなくて、産業の面から見たコンピュータの歴史といった方が近いかと思います。しかし、コンピュータの歴史の全体を俯瞰するという意味では本書は最適だと思います。確かに個々の細かい要素、例えば、ハードウェアの発達史やソフトウェアの発達史、CPUの発明やENIAC開発秘話、暗号解読の歴史など様々なコンピュータに関係する要素があるとは思いますが、それはまた個々のプロットとして別に勉強すればよいと思います。とにかく、全体像を掴むという意味では本書を読んでおいて損はないと思います。(ただ、少々、読みにくくはありました。より整理された本があればそちらも読んでみたいと思います。)

(*1)資本主義の起源は株式会社であり、株式会社の起源は胡椒を求めるためにイタリア商人たちが出資して航海に出したのがはじまりでした。つまり、大航海時代を可能にしたのは株式会社制度でした。そして、英国を大英帝国にまで押し上げたのはインドでの交易でした。さらに言えば、インドの木綿を織る自動織機の開発が産業革命の始まりでそこから蒸気機関を動力とする発明が生まれますし、バベッジの階差機関も自動織機から発想を得ているといえなくもないと思います。

(*2)昨今はすべてPCもしくはクラウドに置き換わったかもしれませんが、現状はよく知りません。

(*3)1946年にメーシー会議(通称サイバネティクス会議)というのがあって、そこでフォン・ノイマンとノーバート・ウィナーがそれぞれ講演をしているのですが、二人の講演は非常に対照的だったそうです。ノイマンはいわゆるノイマン型コンピュータの話をしたのですが、ウィナーはサイバネティクスの話をしたそうです。現在、コンピュータはノイマン型で進んでいるのですが、(この後に「限界自体はチューリングが計算可能性として既に示しているわけで」と書こうと思ったのですが「あれ?違ったっけ?」となり実際はどうだったかを忘れてしまったので、急いで調べてみたのですが分からず手元に本もなく時間もないのでまた後日改めて勉強し直すということで、とりあえず、ここは読み飛ばして下さい。トホホ。(T_T))、今後はウィナーの言っていたサイバネティクスに可能性があるかもしれません。といってもまったく未知なのですが(爆)。ともかく、英米哲学的な思考スタイルでないものの可能性としてサイバネティクスのようなものもあるかもしれません。いや、サイバネティクスだけに限らず他にも別のタイプの非ノイマン型コンピュータがあるかもしれません。そして、まだ別の知の可能性があるのかもしれません。・・・あわわ。話がこんがらがってきました。真空管のような私の頭ではもはや限界・・・。やはり、この話はまた別の機会で・・・。

2013年7月4日木曜日

エドワード・エブスタイン『ビッグ・ピクチャー』

今回はエドワード・エブスタインの『ビッグ・ピクチャー』を取り上げます。

この本はハリウッドの映画産業のビッグ・ピクチャー(=全体像)を描いたノンフィクションです。この本には様々な事柄が書かれていますが、大きく分けて2つあると思います。1つはハリウッドの6大スタジオ(バイアコム←パラマウント、ディズニー、フォックス、ソニー、ワーナー、ユニバーサル)が成り立つに至った経緯、特に現在の地位を築いた立役者、すなわち経営者たちについて描いています。もう1つは興行収入が減る中で今度はケーブルTVやDVDなどホーム・エンターテイメントで収益を上げるようになるといった映画産業が変容してゆく過程が描かれています。もちろん、これらだけではなく様々な映画業界の情報が詰め込まれていますので、映画ファンのちょっとした豆知識としても使えます。

映画に興味のある方はもちろんのことTVのドラマに興味のある方も是非読んでおくことをお薦めします。なぜなら、有料・無料を問わずテレビ番組の主要な商品の半分は映画とドラマです。スポーツやニュース、あるいはバラエティなど他にも人々を惹きつける商品はありますが、やはり、強い吸引力を持つのは映画やドラマだと思います。そして、今やテレビは世界中のどの国も持つようになりました。かつては後進国と言われた国も今や新興国となって飛躍的な経済発展を遂げ、各家庭に1台は必ずテレビを持つようになりました。いえ、テレビだけでなくパソコンやスマートフォンの普及を考えれば、先進国とあまり変わらなくなりつつあると言っていいと思います。しかし、テレビの歴史が浅い国ではコンテンツがありません。つまり、テレビがあるところ、それだけ映画やドラマを買ってくれる市場があるということです。そういった世界市場という視野を持ち、なおかつ実際に売れる販売網を持って、そして何より視聴者の要望に十分応えられるだけの高いクオリティを持った作品を作り続けているのはハリウッドの6大スタジオをおいて他にはありません。ストーリー性においても映像のクオリティにおいても俳優の演技においてもハリウッドは他国のスタジオとは比較にならないほど優れていると思います。むしろ、それが当たり前過ぎて、このような指摘は何を今更という感じの方が強いかもしれません。それくらいハリウッドの映画産業の実力とブランドは浸透しているのだと思います。(今、韓国ドラマが世界進出に頑張っています。日本でも韓流がブームになりましたし、中国でも韓国ドラマは人気があるようです。さらに欧州の一部の国でもちょっとした人気があるようで、ハリウッドで作られた海外ドラマに対抗しるうるドラマ作りをやっているのが韓国だと思います。日本のドラマも世界市場で売れるような良い作品を作って欲しいものです。ただ、少し前までは東アジアでは日本のドラマは人気が高かったと思います。また頑張って欲しいものです。)

ただし、注意してもらいたいのは、私は何もビジネスについて知りたいからこの本に興味を持ったのではありません。私が興味を持っているのは物語です。どういうことかというと、大昔、物語は語り部によって人々に語り継がれてきましたが、それが紙の発明や印刷技術が出現したとき、書物へと形を変えて文学に発展してゆきました。そして、映像技術が発明されて今度は映画に変貌を遂げました。そう、映画やドラマはかつて語り部によって語り継がれてきた物語が映像技術によって映画に姿を変えたものなのです。もちろん、音声媒体と文字媒体と映像媒体ではそれぞれ違いがあります。例えば、文字媒体である文学は人々の内面を表現するのに極めて優れた形態だと思います。やはり、人々の内面を描くのは文学の方が適しているでしょう。しかし、視覚的イメージをダイレクトに伝えるのは映画の方が優れていると言わざるを得ないと思います。このようにそれぞれの媒体で表現に得意・不得意があると思います。いずれにせよ、私たちが物語を受け取る媒体として映画という選択肢が1つ増えたわけです。そして、今や私たちが物語に触れる媒体としては映画は無視できない存在になりました。、いえ、無視できないどころか、むしろ映画がメインになりつつあると言えるかもしれません。そうやって私たちの頭の中に簡単に入ってくる物語ですが、物語は私たちの精神に非常に大きな影響を与えます。場合によってはその人の人生すら変えてしまうことがあります。ですから、その物語がどのように作られているのかなど、物語についてよく知っておきたいと考えるのは当然だと思います。商業目的で作られているのですから、サブリミナル効果ではありませんが、私たちが気付かないうちに無意識に何か良からぬものを刷り込まれているかもしれません。実際、ハリウッド映画ではアメリカ的価値観を知らず知らずのうちに刷り込まれていると思います。ただし、それらすべてが悪いものではなくて、逆にアメリカの方が自分たちの国よりも優れている、自分たちの国の方が遅れていると気付かせてくれる場合もあると思います。同性愛の受容だとか人種差別の無さだとかです。いずれにせよ、少なからず私たちに影響を与える物語について、その内実を知りたいのです。だから、ハリウッドの内実を描いたこの本に興味があるのです。

物語という観点から世界を捉えてみましょう。まず、物語には様々な形態があります。小説や映画があります。日本では漫画もありますし、アニメは映画に含めて良いかもしれません。それから演劇もありましたね。かつての物語の広がりは今と比べれば限定的だったかもしれません。しかし、今ではグローバル化が進み、どんな国でも各家庭にTVがあって、そこでは映画やドラマが流れるようになって、世界共通で同じ映画や同じ海外ドラマを楽しむ時代になってきています。物語にもグローバル化の波が押し寄せているのだと思います。そんな中でハリウッドは娯楽としての映画も作りますし、かといって低俗なものばかりではなくて、アカデミー賞作品のように人々を真剣に考えさせるとても良質な作品も作っています。そして、それらをビジネスとして立派に成り立たせています。他国では国の補助なしでは映画が作れない国もあるのに、です。凄いことです。凄いぞ、アメリカです(笑)。ただ、日本でもハリウッドに負けない分野があります。それはアニメです。商業アニメで成功しているのはアメリカと日本だけです。ディズニーと日本アニメです。特に日本アニメは広く世界に浸透しています。ただし、今後も日本アニメがその地位を維持できるかどうかは分かりませんが。漫画の衰退が少し気になるところです。一方、文学については未知数だと私は思います。内面の探求という意味では文学は衰退しつつある、もしくは、これ以上深くは進展するのは難しいような気がしています。というのも、グローバリズムの普及によって世界中のいたる所が現代文明で覆い尽くされようとしていますが、そのためにかえって豊かな精神文化が破壊されていると思うからです。物語の中でも文学というものは内面への旅です。その内面があまり豊かではなくなりつつあると思います。しかし、そうではない、単に物語という観点では物語は爆発的な拡散はしていると思います。TVや映画の普及で今まで物語に触れてこなかった人たちにも物語は届くようになったと思います。

ところで、物語は無限にできるものなのでしょうか?書店に行けば、山のように小説の新刊書が積まれています。まるで物語の洪水です。しかし、私たちはそういった洪水のような物語をただ単に無作為に受容していれば良いのでしょうか?それとも何らかの体系的な受容の仕方というものがあるのでしょうか?それは好きなジャンルを読むということでしょうか?あるいは名作といわれるものを片っ端から読めば良いのでしょうか?物語は私たちの精神に深く影響するというのに意外とその受容の仕方は定まっていないように私には感じられます。しかし、じゃあ、無限にある物語をどのように読めば良いというのでしょう?私はそのヒントは語り部だった頃の昔にあると考えています。語り部たちは聴衆に物語を語って聞かせますが、単に1つの物語だけではなくて、複数の物語をセットで語って聞かせます。聴衆は複数の物語を知ることで、そこから基本的な生活の知識を得たり、道徳を養ったり、人格を形成するのに役立てていると思います。物語をまったくバラバラに受容するのではなくて、ある程度まとまった物語を受容することで人格マトリクスに影響を及ぼしていると思います。ということは私たちもある程度まとまった物語をセレクトする必要があるのではないでしょうか。人格を形成する上で基本となる物語のセットをセレクトする必要があるのではないでしょうか。物語の元型となるものがあって、それを現代の生活にマッチするものに変形して現代人に伝えてゆくということが要るのではないでしょうか。まったくの無作為でバラバラに物語を受容するのではなくて、核となる物語のセットがあって、そこから先は各人が自分の好みにあった物語を吸収してゆくというのが良いような気がします。一見、それは文学全集を作ることと思われるかもしれません。しかし、文学全集とは明らかに違う点があります。文学全集はあくまで文学に主眼が置かれています。しかし、物語の元型は人格マトリクスに主眼を置いてのセレクトです。むしろ、元型といった時点で自然と人格マトリクスに沿った基本形が浮かび上がってくると思います。ここでいう元型とはユングが用いているような意味での元型です。言い換えれば、ゲーテが見た様々な植物の中の元型である原植物のことです。あるいは、プロップなどは物語の元型が見えていたからこそ、その時代その時代で付加された装飾を剥ぎとって魔法昔話の元型である『魔法昔話の起源』に辿り着くことが出来たのではないでしょうか。レヴィ=ストロースの『神話論理』も元型を探し求めた結果、あのような構造に至ったのではないでしょうか。いずれにしても、まだ明確な形で掴み出せるほど物語の元型をあぶり出すまでには至っていません。しかし、猶予もあまりありません。なぜなら世界はどんどん文明化されて豊かな精神文化の基盤が根こそぎ失われつつあるからです。いわゆるヴェイユのいう根こぎが完成されつつあるからです。しかし、まだそういった根、わずかでも足場があるうちに物語のセットを提示できれば、人々の心に深く受容される可能性は高いと思います。しかし、まったく足場が失われてしまえば、そう簡単には受容されない恐れがあります。私たちは急がねばならないのです。

さて、話が分散してしまいました。特に先程のセンテンスなどは意味がよく分からなかったかもしれません。しかし、物語という観点から映画を捉え、物語という観点から世界を捉えたとき、ハリウッド映画のいるポジションは人々に与える影響力の大きさから非常に重要なポジションに立っており、私たちは自分たちの精神文化を考える上で決して無視できない存在なのだということを知っておくべきだと思います。もちろん、ハリウッド映画の大部分は他愛もない娯楽作品です。しかし、その影響力は計り知れないものがあります。よく考えてみて下さい。日本のアニメだってそうでしょう。他愛のない日本アニメが私たちの精神にどれだけ大きな影響を与えてきたか、決して見過ごせるものではありません。そして、それは、今、グローバルな規模で起こっているのです。ただし、それは逆に言えば、もしも豊かな物語を提供することができるのならば、私たちの精神文化を今よりももっと豊かなものにすることができるチャンスでもあるのです。

さて、以上のように考えると、ハリウッド映画は物語産業の重要な柱であり、この本はそのハリウッドの映画産業の基本を知るのに欠かせない重要な一冊です。是非、読んでおくことをお薦めします。

2013年7月3日水曜日

デビッド・ヴァイス『Google誕生』

今回はデビッド・ヴァイス『Google誕生』を取り上げます。

本書はGoogleが起業してから2005年くらいまでの約10年間の軌跡を追った伝記です。Googleについて書かれた本はたくさんありますが、この本はその中でも比較的初期に書かれたもので、また最もまとまって書かれた本だと思います。さて、Googleを起業したのはラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンの二人です。どちらも両親がエンジニアや科学者であるため早くから知的環境で育っています。そのため物事を道理で考える癖がついており、出会った頃の二人は互いに議論ばかりしていたそうです。そんな彼らがスタンフォード大学の大学院生だった頃に研究のために作った検索エンジンが非常に優れたものでみんなから重宝されてとうとう起業にまで至ります。Googleの検索は他の検索エンジンを寄せ付けない極めて優れたものでした。ネットを使うときに検索は無くてはならない絶対に必要なものでしたので投資家も彼らに目をつけます。しかし、それを収益に結びつける方法がありませんでした。そのため、Googleが起業したての頃はベンチャー企業によくあるように経営は大変で、ラリーとサーゲイの二人はGoogleの投資家を如何に満足させるかに苦労したようです。しかし、彼らは投資家たちを競わせるように駆け引きで切り抜けていきました。そうしているうちに広告という収益を上げる方法を見つけてGoogleの大躍進が始まりました。もちろん、投資家も大喜びです。

さて、本書を読むとGoogleが普通の企業とは全然違うことが分かります。この頃のGoogleは形態こそ企業の体裁をとっていますが、果たしてこれは企業なのかと疑問に思えてきます。Googleの内部はまるで大学院生の研究所といった方がいいかもしれません。やることなす事すべて前例のない度肝を抜くことばかりです。そして、Googleが見ているのはちっぽけなものではありません。彼らが見据えているのは人類とか世界といった大きなものです。決して米国の消費者とか米国内といった目先の小さなものだけに囚われていません。(←いえ、これだって決して小さい訳ではありませんし、決してこれらを軽視している訳でもありませんが。)それにしても、東西冷戦が終わってグローバリゼーションが始まり、地球が資本主義で覆われたとき、資本主義の象徴である米国企業の最先端において、今度は企業とはいえないような新しい形態の組織体が芽吹いてきたわけです。それがGoogleでした。何か歴史の皮肉を感じさせます。(ただし、ラリー・ペイジがCEOになってからのGoogleは普通の企業へと変貌しつつあるようで、私としては非常に残念です。しかし、Googleがその設立当初から持っている「邪悪になるな」という良心はまだ失っていないと私は思っています。)

とにかく、Googleの起源を知りたければ、この本を読むに限ります。もちろん、この本に書かれていない初期の歴史もあるとは思います。ですが、基本的な歴史はこの本で十分に知ることができると思います。なお、この本が書かれた後の歴史も必ず必要になってくるので、この本の続きが待たれます。この本で書かれたことはまだほんの始まりに過ぎないのです。本当の変化はこれからなのです。なので私たちはGoogleから目が離せません。なぜならGoogleを見ることは未来を見ることなのですから。

追記
Googleの検索を支えている技術はラリー・ペイジが考案したページランクシステムという仕組みです。私も仕組みはよく分かりませんが、結局、ページランクシステムを有効にするにはすべてのページを読み込まねばならず、Googleは世界中のインターネットのすべてのページをクローリングという言わば定期的な巡回でダウンロードしています。その量は極めて膨大です。そこでGoogleが考え出したのがパソコンのボードを積み上げてラックのようにして、さらにそれをいくつもコンテナの中に並べてどんどん増やしてゆくというデータセンターという大規模システムです。いわゆるクラウドのハードウェアの部分に当たります。スーパーコンピュータが処理能力の性能を上げるというスケールアップをしているのに対して、データセンターではコンテナを増やすことで処理能力を上げるというスケールアウトをしているわけです。言ってみれば物量作戦です。しかし、このデータセンターが大きく私たちの生活を変えました。ネットが私たちとデータセンターを繋ぐのです。データセンターと繋がることで私たちは強力な性能を持ったコンピュータを個人で持つことを可能にしたのです。さらに端末もパソコンだけでなく、スマートフォンやタブレットに増えました(*1)。さらにGoogleGlassやアイ・ウォッチなんてものも今後は出てくるかもしれません。そのようにしてGoogleは私たちの生活を変えました。そして、Googleはその膨大なデータセンターにありとあらゆる情報を入力して私たちが利用できるようにしようとしています。(*2)人類がこれまで築いてきたすべての情報です。すべての書物、すべての音楽、すべての映画、さらに膨大な遺伝子情報から最新の研究データまで、さらには企業の情報システムを丸ごとなど、ありとあらゆる情報を収納し整理して私たちが使えるようにしようとしています。今まで入手できなかったり見えなかったりした情報をGoogleが私たちに提供することで人類が進歩することを加速しているのです。しかも、その多くは無償で提供されています。今では多くのIT企業が無償でサービスを提供することを当たり前のようにやっています。しかし、これほど大規模に無償での提供を最初に始めたのはGoogleです。他は誰もやらなかったことです。もし、Googleが無償で提供をやらなかったらどうなっていたでしょうか?現在のような便利なネットの世界になっていたでしょうか?それとも他の企業がやっていたでしょうか?それは分かりません。しかし、Googleが無償提供をやったことで大きな穴が穿たれて、多くのIT企業がGoogleに続いて無償提供を始めたのは歴史的事実です。世界を大きく変えたのです。私たちは感謝する必要はありませんが、その事実は知っていてもいいのではないでしょうか。そして、技術は薬にもなれば毒にもなります。ITも同様です。例えば、昨今の米国の戦争で使われる無人機は遠隔操作で使われています。これもIT技術の応用と言っていいでしょう。無人機の活用が果たして是か非かは今のところ分かりません。しかし、そういったことも踏まえた上で私たちはGoogleの行く末を見続ける必要があると思います。


(*1)アップルが開発したiPhoneがこのスマートフォンに相当します。逆に考えるとアップルが果たした役割や歴史的位置づけが分かると思います。アップルはあくまで端末を発明したのであってデータセンターそのものを発明したわけではありません。しかもアップルはiPhoneを使って消費者の囲い込みをやろうとしています。それに比べてGoogleのAndroidはオープンソースで無償で提供されています。オープンソースであるために改変が容易で様々な利用を可能にしています。GoogleとAppleのいずれが人類社会に大きく貢献したのか分かるのではないでしょうか。

(*2)昨今ではGoogleに限らず多くのIT企業がデータセンターで私たちにサービスを提供しています。ただし、データセンターの恩恵を最初に私たちにもたらしたのはGoogleです。確かにASPなど似た概念はありましたが、実際に利用可能なものとして普及させたのはGoogleです。

2013年7月2日火曜日

アレックス・アベラ『ランド 世界を支配した研究所』

今回はアレックス・アベラの『ランド 世界を支配した研究所』を取り上げます。

この本はRAND研究所について、その成り立ちから現在に至るまでを描いたノンフィクションです。RANDというのは「Research and Development」(研究と開発)の略に由来した名称で主に米国の国防に関わる研究をしているシンクタンクです。米国の軍事的覇権を構築するのに多大な功績を残した知る人ぞ知る研究所です。特徴としてはすべてを数値化して合理的にするという“合理性の帝国”とも言われた徹底した姿勢です。そして、何よりも特筆すべきはRANDの中心的人物で希代の戦略家アルバート・ウォルステッターの存在です。

多くの日本人は彼のことを知らないかもしれませんが、彼こそは核の戦略家と呼ばれ、今日の核の世界の基礎を築いた人物のひとりです。本書はRAND研究所の歩みを描いたものではあるのですが、これをウォルステッターの歩みと言い換えてもいいくらいウォルステッターはRANDを語る上で欠かせない中心的人物なのです。ただ、このウォルステッターは筋金入りのタカ派ではあるものの、なかなかユニークな人物でもあります。というのも、元々、彼は数学者でした。学生の頃の彼はニューヨーク市立大学シティカレッジの数理論理学の学生で、彼の論文を見たアインシュタインは「私がこれまで読んだものとしては、数理論理学の最も明快な外挿法である」と誉めて、自宅に彼を招いたというエピソードもあるくらいなのです。その一方で、彼には現代アートをこよなく愛する芸術愛好家としての側面もありました。彼自身、絵を描いたりしていたようですし、モダンアートの最新作のチェックはもちろんのこと、芸術史家マイヤー・シャピロの助手を務めたり、ル・コルビジェが東海岸に来たときにはガイド兼ドライバーをしたこともあったそうです。しかし、彼にはもう1つ隠された過去があって、これは随分後になって明らかになったのですが、実は学生の頃、彼は共産主義の分派集団「革命労働者党同盟」という地下組織に所属していたことがあったそうです。この集団は新トロッキー主義の集団だったようです。いずれにしても彼のこんな過去がもしバレていたアメリカの安全保障の要職に就くことなど絶対になかったでしょう。しかし、幸か不幸かまったくバレることなく、彼はRANDの要職を全うします。アメリカにとってこれは絶対にプラスだったと私などは思います。これについては面白いエピソードがあります。赤狩りの頃、ハリウッドを追われた脚本家夫婦をウォルステッターの自宅に泊めたのですが、案の定、FBIが嫌がらせの電話を夜中にしてきたのです。FBIは電話で「何をたくらんでいるんだ?」とか「誰とわるだくみをしているんだ?」とか当人に関わる周囲の人物に誰彼と関係なく詰問して嫌がらせするわけです。このFBIからの嫌がらせを恐れて周囲の人々が当人たちから離れてゆくように仕向けるわけですね。(フィリップ・K・ディックの小説『アルベマス』にも似たようなシーンがありましたね。)ところが、ウォルステッターはおもむろに電話に出ると「二人は私の友人です。あなたの質問に答える必要はありません。もうこれで十分質問に答えているでしょう。二度と電話しないで下さい」と堂々と言ってのけたのでした。核という国家の最高機密を扱う人間がFBIに逆らったのです。しかも、彼は、昔、共産主義の地下組織に属していたという過去があるにも関わらずです。なかなか大胆というか、怖いもの知らずというか、それにもまして国家権力などに囚われない自由な精神というか、彼の役職を考えるとなかなか不思議なメンタリティに感じられます。しかし、彼は別に二重人格とか表裏があるいうわけでは決してありません。むしろ、まっすぐな人格だったようにさえ感じられます。そういう人物がいったいどのような思想に基いて核の世界を築いたのか、非常に興味深いと思いませんか?この本はそういう疑問を解きほぐしてくれるので、そういう点でもこの本は読むに値する文献だと思います。

さて、この本は他にも面白い言及がなされています。例えば、マッドサイエンティストの象徴にもなっているハーマン・カーンについても書かれています。スタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情』で狂気の科学者ストレンジラブ博士のモデルとなった人物です。また、RANDが設立されるきっかけになったのは実は東京大空襲にあったことや、ベトナム戦争時の国防長官として有名なマクナマラとRANDとの関わりなどについても書かれています。さらにかの悪名高きネオコンとの関係についても書かれています。このように、この本はアメリカの知られざる中枢を知るには欠かせない一冊だと思います。是非、読んでみて下さい。

追記
アメリカにはウォルステッターのように歴史に残る優秀なテクノクラートというのがいます。彼以外にも、記事の中でも出てきましたが、ロバート・マクナマラがいます。マクナマラはベトナム戦争の失敗があるためにアメリカ国内では随分低い評価をされているようですが、優秀さという点では彼ほど優秀なテクノクラートはいなかったのではないでしょうか?しかも単に頭の良い優秀さだけでなく、その軍曹風な風貌とは裏腹に知的な教養人であり、人格的にもとても優れた人物だったと思います。だからと言って、彼が指揮したベトナム戦争が許されるわけではありませんし、その指揮において間違いも犯しています。ベトナムに兵力を逐次投入して多大な犠牲を出したのはマクナマラの責任ではあるでしょう。しかし、予算改革など彼が残した業績は極めて優れたものだったと言わざるをえないと思います。また、国防長官を辞職した後は世界銀行の総裁になって貧困の撲滅に尽力したとも言われています。ともかく、20世紀のアメリカの覇権を築くにあたっては優れたテクノクラートがアメリカにはいたのです。日本人はまだまだ多くのことを彼らから学ぶことができると思います。

余談ですが、分析哲学をアカデミズムという狭いフィールドで学ぶよりは、ウォルステッターやマクナマラのような人物がどのように思考し、どのように行動したか、そして、その結果、どのような結果になったかを学ぶ方がより実践的な分析哲学になるのではないかという気が私にはしています。学問としての分析哲学は、所詮、狭い枠組みの中でのゲームに過ぎないように私には感じられるのです。もちろん、それはそれで優れた思考の軌跡であり、学問的には一定の価値があるとは思います。しかし、極端に言えば、結局はアカデミズムという狭い世界での勝った負けたのゲームにしか過ぎないのではないでしょうか。実験室の中のような不自然に純粋に保たれた空間ではなくて、すべてが入り乱れて何が起こるか分からないリアルな世界において分析哲学的な思考を実践に結びつけて役立ててゆくためには、むしろ彼らの軌跡を追う方が役立つのではないでしょうか。

2013年7月1日月曜日

アンドリュー・ニコル『ガタカ』

今回はアンドリュー・ニコル監督の『ガタカ』を取り上げます。なお、ネタバレで書きますので未見の方はご注意下さい。

物語は近未来SFです。未来では遺伝子操作で優れた才能を持ったものだけが生まれてくるようになっています。ところが、主人公ヴィンセントは父と母が車の中でそのときの気分でセックスしてしまったために生まれてきた自然な子供でした。調べてみるとヴィンセントは心臓に問題があってあまり長生きできそうになかったり近眼になったりなど様々な問題を抱えた人間であることが分かりました。彼は育てられますが、メガネをかけ身長もあまり伸びないのでした。その後、彼には遺伝子操作で生まれた優秀な弟が出来ますが、弟の方が身長が高かったり運動神経が優れていたりします。ヴィンセントは勉強やスポーツなど弟と何を競っても敵いませんでした。しかし、そんなヴィンセントには夢がありました。それは宇宙飛行士になるという夢でした。彼は夢中で宇宙飛行士になる勉強をします。しかし、試験のとき遺伝子検査が行われ、ヴィンセントはあえなく失格になってしまいます。ショックを受けた彼は家を飛び出して姿をくらませてしまいます。しかし、実はヴィンセントは宇宙飛行士になる夢を諦めたわけではなくて、別人になりすますことによって宇宙飛行士になろうと決意したのでした。そして、闇医者と契約を結び、さらに優秀な遺伝子を持つものの事故で障害者になってしまったジェロームという青年とも契約を結んで、彼から遺伝子を提供してもらうことでヴィンセントはジェロームになりすますのでした。そして、航空宇宙局に局員としてまんまと潜り込むことに成功します。しばらくするとヴィンセントは成績優秀で宇宙飛行士としてタイタンの探査船の宇宙飛行士に選ばれます。大喜びしたヴィンセントですが、喜んだのも束の間、宇宙局内で殺人事件が起こります。ヴィンセントたちの上司が殺されたのです。そこでヴィンセントのまつ毛が見つかり、彼は正体がバレそうになります。さらに驚いたことに殺人事件を捜査しにきた刑事はなんとヴィンセントの弟だったのです。ヴィンセントはなんとか正体がバレないように苦心します。そして、ジェロームの協力もあってヴィンセントはなんとか正体を隠しおおせます。一方、殺人事件は真犯人が捕まり、ヴィンセントの正体がバレる恐れも完全に無くなります。しかし、ヴィンセントの正体を見抜いた弟が彼を待ちかまえます。ついにヴィンセントは弟と対決します。それも命を賭けて。夜の海で彼らは競泳をします。その結果、何をやっても敵うはずのなかった弟にヴィンセントは勝利します。ヴィンセントは喜びを胸に秘めて宇宙船に乗り込み、ついに地球を後にします。(他にも物語の中で恋人のアイリーンとのロマンスやジェロームとの友情が描かれています。)

さて、この作品で言いたかったことは遺伝子がすべてを決定するわけではなく、挑戦や努力で人は乗り越えられるのだということを表面的には表していると思います。遺伝子がすべてを決めるというような優生学のいい加減さや予定調和的な決定論的世界観に対して強烈な批判を浴びせているのだと思います。確かにそれはそうで、私も異論はないのですが、しかし、私が面白いと思うのはそこではなく、ただ一点、ヴィンセントと弟との対決がとても面白いと思うのです。

ヴィンセントと弟との対決、それは遠泳です。どちらが遠くまで泳げるかを競い合うのです。子供の頃に二人はやはり同じ遠泳で競い合ってヴィンセントは弟に負けています。遺伝的に身体能力が勝る弟が勝ったのは当たり前でした。しかし、ヴィンセントは宇宙飛行士になりたいという一心でずっとトレーニングを続けてきました。今もなりすますことによって宇宙局に潜り込んでいるくらい思いが強いわけですから。さて、二人は一斉に海に飛び込んで遠くへ遠くへと泳いで行きます。大人になった二人ですから、子供の頃とは違って、岸から遠く離れてはるかに遠くへと泳いで行きます。海は夜の闇に包まれて真っ暗です。岸の明かりがどんどん遠ざかります。弟は次第に息が上がってゆき不安にかられ始めます。こんなに遠くまで泳いでしまったら岸に戻れないのではないかとどんどん不安に駆られます。しかし、それでもヴィンセントは泳ぐことを止めません。どんどん前へと泳いでゆきます。弟はヴィンセントに戻ろうと声を掛けますが、ヴィンセントには届きません。弟は不安ながらも泳ぎますが、ついに力尽きて溺れてしまいます。そのとき、前を泳いでいたヴィンセントは弟に気づき、弟を助けて岸に戻ります。岸で息を吹き返した弟はヴィンセントにあんなに遠くまで泳いだら戻れなくなると思ったといいます。それに対してヴィンセントは戻ることなんてこれっぽっちも考えていなかったと答えます。

読者の皆さんは「一体これのどこが面白いの?」と不思議に思うかもしれません。なぜ、私がこれが面白いかというとここには青年の思想や、ひいては宇宙開発にチャレンジする思想が表れていると思うからです。青年の思想は失うもののない思想です。もし、家族を支える夫なら、危険な真似はできません。妻や子供のことを考えると死ぬわけにはいかないからです。しかし、青年は違います。失うものはありません。一途に突っ走ることができるのです。それは革命の思想でもあるのです。革命は既存の権力体制を転覆して新しい権力を打ち立てることですが、青年は既存の権力を転覆する起爆剤の役割を果たします。どんなに綿密な計画を練っても無謀な青年たちがいなければ実行力に欠け、革命は成り立たないのです。青年がいてこその革命なのです。

また、宇宙開発の思想にも青年の思想は流れています。宇宙開発はNASAを代表として今でこそ華やかな科学技術のスター的存在です。しかし、宇宙開発の初期は試行錯誤の中で多くのひとが死んでゆきました。実験と挑戦の中で死んでいったのです。ソ連がガガーリン少佐をボストーク1号で宇宙空間に打ち上げることに成功しますが、それまでに無数の挑戦者たちが死んでいます。表には出てきていませんが、無数の犠牲者が宇宙開発の歴史には捧げられています。(ガガーリン少佐自体、帰還後、訓練中に事故で亡くなっています。)しかし、どうしてそこまでして人類は宇宙開発に向かうのでしょうか?その理由としては人工衛星からの情報で天気予報や衛星通信など生活を便利にするためという理由もあるとは思います。しかし、私が一番の理由として考えているのは生存圏の拡大です。人類の生存圏を地球という一惑星から、さらに宇宙空間へ、別の惑星へと拡大するためだと考えています。生物の戦いは生存圏の拡大の戦いでもあったのではないでしょうか?水中から陸へ、陸から空へと生命は生存圏を拡大してきたと思います。そして、ついに宇宙空間へと拡大して地球以外の惑星でも、あるいは、人工衛星の中でも人間が生きていけるように生存圏を拡大しようとしているのだと思います。しかし、それを実現するためにはどうしても犠牲を必要とするのです。犠牲を恐れず、前だけを見て突き進んでゆく、そういう青年の思想に私は深く感動するのです。生命は自己保存の本能を持っているはずですが、それすら捨てて、ただひたすら宇宙を目指すのです。そこに生物を超えたものを私は感じて感動するのです。

竹宮恵子の漫画に『エデン2185』というSFマンガがあります。このマンガはエデン2185という別の惑星へ移民するために地球を遠く離れて航行している宇宙船の物語です。主人公シド・ヨーハンは父母を持たず、試験管を母体として生まれ、コンピュータを養父として育った青年です。彼の宇宙船の中での生涯の物語です。そのエピソードの中で最も印象深いのがシドが反乱者を鎮圧する事件です。宇宙船の中で少人数による反乱が起こります。彼らの目的は地球へ帰ること。長い宇宙船での生活に嫌気が指し、望郷の念にかられて地球に帰りたくなったのでした。彼らの犯行声明を聞いた市民たちも動揺しはじめます。市民たちも口にこそ出しませんでしたが、望郷の念をずっと抱き続けてきたからです。市民たちは反乱グループをどうするかで喧々諤々の意見を戦わせます。しかし、いずれも決定力に欠けています。なぜなら、自分たちの意見を主張する者も百パーセントの自信を持っていなかったからです。結論が出ないまま時間だけが過ぎてゆきます。しかし、そのときです。シドは反乱グループに会いたいと申し出ます。しかもたった一人で。反乱グループはたった一人であることに油断すると同時に仲間が増えると考えてシドを迎え入れます。しかし、シドは反乱グループに加わるために来たのではありませんでした。シドは単身で乗り込むと反乱グループを撃ち殺し、生き残ったものもハッチを開けて宇宙空間へ放り出してしまいます。たった一人で反乱グループを皆殺しにしてしまったのです。しかも少しも躊躇することなく冷酷に殺します。このシドの無謀で冷酷な行為に市民は驚きますが、次第に落ち着きを取り戻し、再びエデン2185へ向かう旅に出ます。シドはなぜこのような行為に及んだかというと許せなかったのです。一度地球を捨てて、すべてを断ち切って飛び出したのに、今さら後ろ髪を引かれるように、後戻りすることをシドは許せなかったのです。いったん飛び出したなら、たとえ死んでしまおうとも自分の意志を貫かねばならない。自分たちはイカロスかもしれない。しかし、それでも勇気ひとつを友にして飛び出さなけれならない。シドにはそういう覚悟があったのです。そのため、彼は反乱グループを許せなかったし、自分たちの意志を鈍らせる市民たちを許せなかったので、反乱グループをひとりで皆殺しにするという暴挙に出たのです。このようにシドにも青年の思想を見て取ることができると思います。

青年の思想にはいろいろなものを読み取ることができると思います。『ガタカ』のように遺伝子に対する挑戦であったり、宇宙開発のように地球圏の生物であるという限界に対する挑戦であったりもします。イカロスのように空を飛ぶことへの挑戦でもあったりもしますし、革命のように旧権力に対する挑戦でもあったりもします。様々なものへの挑戦が青年の思想には込められているとは思いますが、私が青年の思想に最も思うのは人間という限界づけられたものへの挑戦だと思います。例えば、マルクス主義も社会主義を経て共産主義に飛躍するとき人間は今ある人間の限界を超えて新しいタイプの人間に進歩するのだと考えました。レーニンの『国家と革命』でも人間は共産主義の最終的な段階で進化すると書かれています。つまり、人間という枠組みに限界づけられたものから、より優れた存在へと進化するのだと考えたわけです。そういった考えに対する賛否はともかく、彼らの根本に流れているのも青年の思想だと思います。確かに、今さら共産主義だのと笑っちゃうかもしれません。しかし、科学技術の思想も、今あるものを越えてゆこうとする意味においては青年の思想だといえなくもないと思います。人は今よりもより良くなれるのだと考えるのはすべて青年の思想だと言えるかもしれません。歴史を振り返ったとき、確かに文明は進歩してきた側面は否定できないと思います。進歩史観を無批判に称揚することはできませんが、しかし、進歩してきた事実もまた否めないと思います。これからも人間が進歩してゆくつもりなら、私たちはイカロスを笑えないのではないでしょうか。いえ、もっと言えば、私たちは第二、第三のイカロスとして犠牲を厭わず、前に進む強い意志を持たねばならないのではないでしょうか。いつの時代でも時代を切り拓いてきたのは、限界づけられたものを乗り越えようとする、この青年の思想なのではないでしょうか。そんなことを考えると『ガタカ』のヴィンセントが後を振り返らずに宇宙船の窓からただまっすぐに宇宙の彼方を見つめる気持ちが分かるような気がするのでした。