2012年9月24日月曜日

ツリーとリゾーム

ドゥルーズ+ガタリの『哲学とは何か』で読書会をやるつもりなのだけど、その前にちょっとは彼らの主な概念についてちょっと勉強しておかなくちゃいけないなあということで、今回はリゾームについて考えてみようと思います。

で、まず、ツリーとリゾームを視覚的にイメージすると下図のようなものになると思います。左がツリー構造で、右がリゾーム構造です。




ツリー構造は枝が整然とした階層構造なのに対して、リゾーム構造は枝が横断的に錯綜したネットワーク構造になっています。

で、まあ、ドゥルーズ・ガタリは「これまでは世の中のいろんな知的構築物はツリー構造が多かった。例えば、知の構造とか組織の構造とか。しかし、それは硬直的な見方の産物であって現実にはそぐわないんじゃないか。現実はもっとリゾーム構造っぽい要素も多いんじゃないか。そこでリゾームで世界を捉え直してみる試みをやってみようか」というようなノリで考えたとき、『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』に結実したって感じでしょうか。いや、まあ、極端な話ですが。

もう少しイメージが伝わりやすいように話を非常に単純化して考えてみます。

まず、ツリー構造的な価値観の社会を考えてみます。例えば、人々が画一的な価値観を持った世界というのを考えてみます。みんながみんな同じような価値観を持った社会です。具体的には、例えば、高学歴・高収入をみんながみんな目指しているとします。みんながみんな東大や一流企業や大蔵省を目指しているとします。(←いやあ、古い世界観ですね。今となっては隔世の感がありますね。)それを図でイメージすると、頂点が1つの山にみんなが登ろうとしているようなもので、下図のような感じでしょうか。






この山はツリー構造な価値観なので、理路整然として価値観が整列しているので、山の傾斜も滑らかなものとなります。非常にシンプルな山です。

次に、リゾーム構造的な価値観の社会を考えてみます。、リゾーム構造にはツリー構造のような階層はなく、結節点にどれだけリンクが集中するかによって価値観の度合いが決まるものとします。結節点のリンクが多いとそれだけ山が盛り上がります。つまり、山がたくさんある多様な価値観の社会になります。もう少し具体的に言うと、人々は東大や一流企業だけを目指すのではなく、アーティストになることを目指したり、パン屋さんになることを目指したりするように様々な理想像を持ちます。それを図でイメージすると下図のような山がたくさんある図になります。















山ばかりで喩えるとちょっとスタティックなので、別なもので喩えると、波が様々に盛り上がっている海面と喩えることもできると思います。人々の欲望はダイナミックに変化するので海面のように時々刻々と盛り上がりが変化するので海面の方が適当な喩えかもしれませんね。


『千のプラトー』(=千の高原)はこのような状態、盛り上がりである高原がたくさんある状態を指しているのだと思います。そして、人々はこの非線形な曲面の最も高い盛り上がり、最大値を志向するのではなくて、人それぞれがたくさんある盛り上がり、極大値をそれぞれ志向するのが良いのではないかと考えているのではないでしょうか。あ、いや、盛り上がりがたくさん出来る状態、多様な価値観がある状態が望ましいと考えているのだと思います。(ところで、ドゥルーズの手法は傾斜を数値計算する非線形最小二乗法に似ていると思います。)

つまり、多様な価値観の社会やフレキシブルな知のあり様を望み、さらに、そのような世界を構築するのにもリゾーム的な手法(←『千のプラトー』はそのような手法で書かれている)によって実装するというのが彼らの考えだと思います。もちろん、これはある一面的な話であって、他にも彼らが込めた意味・意義はたくさんあるとは思いますが・・・。

なお、ひと昔前の日本は硬直的な価値観の社会でした。戦前の日本は北朝鮮のような社会だったかもしれませんが、戦後高度成長期の日本はどちらかといえば画一的な社会だったと思います。その方が製造業中心の工業社会に適した人材育成に向いていたのでしょうね。しかし、価値観が画一的な社会や硬直的な知の世界では少数派である自由な精神の持ち主は息詰まってしまうので、スキゾフレニックなゲリラ戦を仕掛けるような浅田彰の『逃走論』が生まれたのだと思います。もっともその源流は森一刀斎こと森毅にあると思います。異分野の知を自由自在に横断するネットワーク力・社交力や問題に対して太極拳の化勁のようなフレキシブルな身のこなしなど森毅こそ日本の元祖ドゥルージアンだと思います。

2012年9月22日土曜日

宗教について

前回の記事で「日本人の無意識、特に若者の無意識はオウム真理教事件がトラウマとなって内への探求を忌避するようになってしまった」というような話を書きました。また、オウム真理教だけでなく、すべての宗教に対して拒否反応をハッキリと持つようになったとも思います。そこで今回は宗教についてちょっと話しておこうと思います。

今の若者の宗教に対する反応を見ていると宗教というだけで思考停止状態になって聞く耳を完全に閉ざす拒絶反応を示すようになったと思います。しかし、宗教というだけで何もかもすべてを拒絶するのはちょっともったいないなと私などは思います。

というのも哲学の成り立ちを考えると宗教が果たした役割は大きく、これまで蓄積されてきた思索の軌跡はとても参考になると思うからです。そこにはたくさんのアイデアが詰まっています。ところが、今の若者は宗教というだけで無意味で無価値なものとして、それらをまったく参考にすることなく簡単に切り捨ててしまいます。私などからすれば、それはあまりにもったいなく、もう少し視野を広げられればなあと思います。

また、今の若者の「宗教とは何か」というような宗教に対する認識もかなり浅薄・偏狭・卑小なものになっていると思います。明らかに間違った認識を持っている人も数多くいます。まあ、宗教というだけで思考停止状態になるのですから、そうなるのも当然ですが。

ここまでこの記事を読んだ人は私が「宗教を擁護したりして、何か特定の宗教の勧誘でもしようとしているのではないか?」と疑う人がいるかもしれません。しかし、話はまったく逆で、むしろ宗教を突き放して捉えることで宗教を客観視しようというのが私の考えです。私は自分が特定の宗教に入信することはまずないとけっこう自信を持って思っています。そういう自信があるからこそ宗教を恐れずに見つめることができるのかもしれません。

ところが、今の若者はそうではないように思います。自己が脆弱であるために宗教に侵食されるかもしれず、そのためにあえて宗教を卑小なものと矮小化して捉えて切り捨てることで自己が侵食されるのを防いでいるように思えます。しかし、それは誤った宗教に対する認識をもとにしており、万一、それが破られればかえって宗教に入信してしてしまう危険があると思います。また、対象を矮小化することで逃避するような癖は宗教以外にも用いるようになってしまい、物事を客観的に見ることから次第に遠ざかってしまうようになるのではないかと思います。

確かに宗教には悪い面がたくさんあります。しかし、良い面・参考になる面もあると思います。悪い宗教があるからといって、すべての宗教を捨ててしまうのはあまりにもったいないと思います。ですので、宗教を恐れずに、また鵜呑みにすることもなく、もう少し注意深く耳を傾けてみては?と思います。

それから最後に、日本の若者が宗教を卑小に捉えるのは単に恐れから来る防衛反応ばかりでなく、ある感性が欠如しているからではないかと思います。それは何かというと詩的感受性です。日本の若者は詩の感性が大きく欠如するようになってしまったと思います。詩を読んでも詩に感応する若者がどんどん減ったと思います。そのため宗教に対しても多くの若者は感応することが無くなったのだと思います。そして、宗教に対してどんどん無理解になったのだと思います。

2012年9月21日金曜日

内へ向う哲学、外へ向う哲学

前回同様にツイッターで書いたことをここで少しまとめます。

で、以前、ツイッターで

哲学って、内宇宙(→内面・精神)に向う方向と外宇宙(→社会)に向う方向があるんだけど、いま、内面に向う方向はなにか避けられていて、社会に向う方向が大半になっていると思う。
 というようなことを書きました。今回はこれについて少し説明をしておきます。

まず、上記を図でイメージすると下図のようになります。

図が分かりにくいので(笑)、ちょっと解説すると、右側のピンク色の部分が自己、左側の淡黄色の部分が世界です。ピンク色部分の白と黒の目のようなものは目そのもので目をイメージしています(笑)。要は自己の内側と自己の外側を表しています。また、矢印は関心の方向を表しています。右向きの矢印は内側(=自己)への関心を表しています。同様に左向きの矢印は外側(=世界)への関心を表しています。

さて、仮に哲学をおおざっぱに2つに分けると、内へ向う哲学と外へ向う哲学があると思います。内へ向う哲学は自己の内面への関心で「心とは何か?」といったような方向に関心を持っています。自分の内側深くにどんどん探査のソナーを降ろしていって探索・探求するような方向です。

一方、外へ向う哲学は自己の外側の世界への関心で「世界とは何か?」といったような方向に関心を持っています。これは自己の外側の世界への関心ですので、例えば社会に関心を持ったり、もっと広く自分の生きている世界に関心を持ったり、さらに広く宇宙に関心を持ったりします。あるいは、もっと広く射程を広げて、自己も含めた全てである存在そのものに関心を持ったりもします。

そして、それぞれの方向への探求を進めてゆくと、いつの間にか2つ繋がったりする場合もあります。どういうことかというと内へ内へと探求を続けていたのにいつの間にか外と繋がったりします。逆に外へ外へと探求を続けていたのにいつの間にか内と繋がったりします。例えば、内側への探求であったはずの唯心論のように「心があるから世界が存在するんだ」というように内と外が繋がります。あるいは外側の世界の探求であったはずの存在論がいつの間にか自己の心をも包含してしまい、内側への探求と同じ探求になってしまうこともあります。(←まあ、これらは極端な喩えですが。)

何が言いたいかというと、内側と外側のどちらでも良いですが、いずれか一方向への探求であってもそれを極めれば、いつしか内と外の両方の探求へと繋がるということが言いたかったのです。何ごとも極めればそれはすべてに通じるといった感じでしょうか。(←ま、必ずしもそうでない場合もありますが。)

ところで、文学も似たようなところがあって、内側への探求は内面の心の襞を事細かく腑分けして精神分析のように探求するのが純文学に相当すると思います。外側への探求は社会派文学ですね。社会問題に関心を持って社会の暗部に光を当てるような探求をします。文学の関心も概ね内と外の2つがあると言えます。

さて、内と外それぞれへの探求にはどのようなものがあるかちょっと列挙しておきます。まず、内側への探求ですが、精神分析学とか大脳研究があります。ちょっと変わったところでは仏教なんかも内側への探求だと思います。言語の研究は内側へ含めて良いのか迷いますが、個人的には含めたいですね。次に外側への探求ですが、唯物論とか存在論とか宇宙論とかがあると思います。ほとんど物理学の世界ですね。「生命とは何か?」という問いはどちらに属するのか微妙なところです。今のところ遺伝子を含めて生物学は外側の探求ではないかと思いますが、もしかしたら、いつかは内側の探求に繋がるのではないかと思っています。

そろそろまとめると、極端な言い方をすれば、内へ向う哲学は「心とは何か?」という心を研究対象とした心の探求です。一方、外へ向う哲学は「世界とは何か?」とか「存在とは何か?」というように世界や存在を研究対象にしています。言わば、社会や世界、宇宙や存在の探求です。あるいは、その中での人間を研究対象にしています。

以上、おおざっぱで極端な話でしたが、内へ向う哲学と外へ向う哲学のイメージが少しは伝わったでしょうか?ま、あくまで、イメージの話であって厳密な話ではありませんのでツッコミは無しでご勘弁願います。

で、最初のツイートに戻ると
いま、内面に向う方向はなにか避けられていて、社会に向う方向が大半になっていると思う。
とあります。というか、そう書きました。

これは私の感触なのですが、今の若者は内面への探求を忌避しているように感じられます。どうも内面に触れることを恐れているように私には感じられます。もちろん、他人に内面を触れられることは誰だって怖いし嫌なことです。ですが、自分自身で自分の内面に触れることはそうではないはずです。ところが、今の若者は他人に内面を触れられることだけでなく、自分で自分の内面に触れることすら恐れているように私には感じられます。

なぜ、そうなってしまったのか?私の推測では、1995年のオウム真理教事件が原因ではないかと思っています。あの事件が大きなトラウマとなって今の若者たちに自分の内面に触れることを忌避させる無意識が働いているのではないかと思っています。「いやいや、そんなことはない。1995年といえば、アニメ『エヴァンゲリオン』があるじゃないか。あのアニメはロボットアニメとしては内面に触れる唯一のアニメじゃないか。それを思えば若者が内面への探求を無意識に忌避するようになったなんておかしいよ」という意見があるかもしれません。しかし、逆に言えば、だからこそエヴァンゲリオンは若者たちにとって特別なアニメになったのではないでしょうか?今思えば、1995年は極めて特殊な年で歴史の転換点になる年でした。オウム真理教事件だけでなく、阪神淡路大震災やインターネットが始まった年でもありました。この年を境に秋葉原は次第に趣都アキバとなり、オタク文化の隆盛が始まりました。ですので、様々な要因があるので一概に「原因はこれだ!」とは言い難いのですが、それでもオウム真理教事件が日本人の無意識に与えた影響は大きく、若者の内面への探求を忌避させるトラウマになっていると私は思います。

2012年9月20日木曜日

OSとしての哲学

ツイッターでも書いたのだけど「ブログを更新しなきゃいけないなあ」ということで、「さて、では何を書こうか?」ということで、とりあえず、ツイッターで書いたことを少しまとめて書くことにします。

で、ツイッターで

哲学って、喩えると、基本ソフト(=OS)みたいなものだと思う。精神を脳というハードウェア上で動くソフトウェアと仮定するとOSは哲学(=意味世界)であり、応用ソフト(=アプリケーション)は政治とか経済とかそれぞれの専門分野みたいなイメージ。ま、必ずしも全てが当てはまる訳じゃないが。
というようなことを書きました。これをちょっと補足しておきます。

上記を図でイメージすると下図のようになります。
このイメージについて解説すると、まず、脳と精神をハードウェアとソフトウェアとして分けます。例えば、まったく同じ遺伝子でまったく同じ脳を持った人間が二人いたとします。その二人が生まれてから異なる環境で異なる育て方をした場合、二人の精神は異なった精神・人格になると思います。人生経験という経験情報が異なる人格にするわけです。というわけで、脳と精神をハードウェアとソフトウェアで分けることにします。

次にソフトウェアである精神を言語面だけに絞って考えます。子供から大人に成長して人格を形成する過程で人は独自の意味体系を作り上げます。言葉にはそれぞれ意味があるわけですから、言葉を使うようになれば、人々はそれぞれ意味を心得ているわけです。本来、同じ言語を使っていれば、その人の言語に限ればほぼ同じような意味体系が構築されるのですが、人はそれぞれ異なった人生経験を経るのでその人の精神の意味体系は他者とは異なった意味体系に育ってゆきます。哲学は意味体系を整理整頓して整然とした意味体系に構築するものだということができます。(ま、この話はあくまでイメージの話なので厳密な話ではありませんので、ツッコミは無しに願います(笑)。)

この意味体系は人がこの世界で日常的に生きるときの基本的な意味付けですのでコンピュータに喩えれば基本ソフト(=OS)に相当すると思います。このOSに対して、人がさらに専門的な知識を身につけたとするとそれはOSに乗っかった上で動く応用ソフト(=アプリケーション)に似ていると思います。ただし、必ずしも基本ソフトと応用ソフトが階層関係にあるとは限りません。応用ソフトが直にハードウェアに乗っかるような体系化された応用ソフトもあるでしょうし、逆に直に専門分野に基本ソフトの意味が表れるものもあると思います。

それに、実際は多くのひとが階層などない混然一体となった意味体系で動いていると思います。しかし、それでは意味体系が秩序立ったものとは感じられず、カオスの中を生きているような不安な感覚に捕らわれてしまうかもしれません。そこで意味体系を秩序立ったものに整理整頓するために哲学が必要に感じられるのだと思います。

また、多くのひとは生きてゆくために仕事をしなければなりませんが、仕事の知識体系は人それぞれの専門分野ということができると思います。ここでの専門分野は社会にとって価値あるものです。一方、哲学は専門分野ではありませんので、お金儲けという意味では価値はありません。しかし、専門分野を含めた意味体系を整理整頓して秩序だったものにするのに、そのベースにある哲学を学ぶことはとても意味のあることだと思います。

さて、ここからはオマケの話です。SF的な想像力での話です。人格がソフトウェアならば、そのソフトウェアを現在のハードウェアから別のハードウェアに移し替えることは可能ではないでしょうか?それは脳から脳へとは限りません。脳からコンピュータへの移し替えも可能ではないでしょうか?脳から脳への移し替えは親から子へとか師から弟子へと口頭や以心伝心で伝えられるものかもしれません。しかし、ご存知のようにそういった継承は百パーセントのコピーではなく、違った継承になってしまいます。しかし、コンピュータ上に人格をAI的に復元可能になれば、人格を整理整頓しておけば、案外、人から人へ継承するよりは人からコンピュータに継承する方が人格の完全な複製になるかもしれません。さらに元の脳よりもコピー先のコンピュータの方が優れたハードウェアであった場合、同じ人格でもより良いパフォーマンスを示すかもしれません。