2020年6月6日土曜日

仏教のすすめ


1.別の生き方ー文明社会批判

私は文明社会だけが人間の唯一の生き方だと決めてしまうのはリスクが高いと思っている。人間の価値観は1つではないと思うからだ。人間は様々な価値観で自分が好きなように生きていっていい。日本国憲法でも前文で個人の幸福の追求は自由だと謳っている。それに生物は植物や動物、昆虫や細菌など様々に異なった形態で生存戦略をとっている。たとえ環境が大きく変化しても、いずれかの種が変化に対応できるだろう。生物は多様な生存戦略をとることで生物全体が絶滅するリスクは軽減している。だから、人間も文明社会だけが唯一の生き方だとは決めつけない方がいいと思う。

もちろん、文明社会も単一の文明社会とは限らない。欧米型もあれば中国型もあるだろう。イスラム型やアフリカ型、インド型や東欧型もあるかもしれない。様々な文明社会があってもいい。(とはいえ、グローバル化によって文明社会はどれも似たようなものに収斂しつつあるのだが・・・。)ただし、個人の自由でそれらを選択できればなお良い。世界人権宣言では個人の自由が謳われているが、実際にそれが世界の隅々で実践されているかは分からない。

ともかく、話を戻すと、文明社会だけが唯一の生き方だとは決めつけない方がいい。では、文明社会以外にどんな生き方があるのか?

2.仏教のすすめ

文化人類学者のレヴィストロースは未開社会にも文明社会に匹敵する人間のあり方を提示した。文明社会が絶対ではなく、未開社会という生き方もあることを示すことで文明社会を相対化した。だから、文明社会から離れて、ソローのような森の生活を選択するのもありだと思う。私自身は仏教のような生き方を推奨したい。

ここで話は随分飛ぶが、おおまかにいって、農業が興って人々が文明を築き始めたときに今日でいう宗教が生まれたと私は考えている。それ以前は狩猟採集生活でアニミズムとシャーマニズムが人々の精神生活を占めていたと思っている。ただし、アニミズムは当時の人々にも理解できた一方で、シャーマニズムは当時の人々にさえもよく分からないものとして捉えられていたと思う。シャーマニズムはシャーマンにしか分からなかった。いや、シャーマンさえもその全体像を把握しているものは少なかったのではないかと思える。おそらく、シャーマニズムは探求の途上にあったのではないかと思うのだ。それが比較的整理されたのが仏教ではないかと私は考えている。つまり、仏教はシャーマニズムの継承者ではないかと考えている。

ところで、日本では仏教は大きく誤解されていると私は思っている。日本で仏教というと「悟りを開く」ということだと多くのひとは考えると思う。「悟りを開く」ことで「心の平安を得る」というのが単純化された図式ではないかと思う。でも、それは本来の仏教とは随分違うのではないかと私は思う。人間である限り、苦悩やストレスからは完全には逃れられないと思う。

私の考える仏教は、人間には魂があって魂が身体に宿っていると考えていると思う。そして、魂が身体から離れるとき、すなわち、死ぬとき、一般人は魂が輪廻に絡め取られるのだが、修行者は魂が輪廻に刈り取られずに、魂が輪廻から解放されるようにする、いわゆる解脱するというのが、仏教の目標ではないかと思う。だから仏教では解脱するために様々な修行をする。これは他の宗教が生前の行いによって魂が天国へ行くか地獄に落ちるかに似てはいるが、仏教はそれとは大きく異なると私は考えている。いずれにしろ、仏教は、人間には魂があり、魂が輪廻から解放されることを目指すものだと思う。

3.文明と自然の往還

話がさらに脱線するが、動物は自然環境に適応するように生まれついている。一方、人間は文明を構築することで環境を大きく変えてしまった。仏教の考え方を適用すれば、現在の畜産における家畜の惨状はいずれ輪廻転生した人間たちにもはね返ってくる。そういう意味では、ヴィーガンは案外仏教的な考え方に近いとも言える。ともかく、動物が動物のままで幸福に生を全うすることを考えると、たとえ弱肉強食であっても自然環境で暮らすのが幸せではないかと思う。人間が地球全部をわがものとして文明で覆い尽くすのは誤りであり傲慢ではないかと思う。動物たちが自然に暮らせるように地球の半分くらいの土地を野生のままに残すべきではないかと思う。現在のアマゾンのように。私は南米大陸かアフリカ大陸かオーストラリア大陸か、いずれか1つの大陸を自然に戻すべきだと思っている。もちろん、その土地で生まれ育ち暮らしている人たちにとっては許しがたいことだと思えるだろうけれど・・・。

ただ、仮にそういった自然大陸を作ったとき、文明社会から離れて、そこで再び狩猟採集での暮らしをひととき選ぶ人たちも出てくると思う。もちろん、そこでの暮らしは命がけだし、実際に生命を落とす人たちも出てくると思う。しかし、それでも生の活力を求めて自然大陸での暮らしを選ぶ人たちが出てくると私は確信している。日本人は里山的な農村暮らしが自然な生き方だと思いがちだが、真に自然な生き方とは農業が興る以前の狩猟採集時代だ。真に自然な生き方は農業ではない。狩猟生活こそ自然な生き方だ。

4.まとめ

随分、支離滅裂になってしまった。言いたいことは2つだ。まず、大前提として文明社会が人間の生き方のすべてではないということ。文明社会とは別の生き方として、一つは仏教の生き方があるし、他にも自然の中で狩猟採集生活を生きる生き方がある。これら別の生き方は個人の生き方であり、個人の選択の自由だ。私は別の生き方として仏教を推奨する。

個人は文明と自然の往還が可能だと考える。もちろん、文明社会をより良きものにするために尽力することも可能だ。ただし、それは個人の生き方であって、宗教団体を作って文明の中に小さな共同体を作ることではない。文明社会をより良きものにするのは一市民としてだが、一個人の生き方としては仏教や狩人を選択もできるということだと思う。文明と自然を融合しようとしても難しく(←これまで融合しようとして人は宗教団体や思想団体、あるいは思想的な農村を作っては失敗を繰り返してきた。自然な生き方として農業にこだわる人が多いが、何度も言うが農業は決して自然な生き方ではないと思う。)、文明と自然を分離して、個人は文明と自然を往還すればいいと私は思う。

英国の哲学者にしてSF作家のオラフ・ステープルドン(1886-1950)が1930年に書いた小説『最後にして最初の人類』の中で、文明と自然との往還を描いた箇所が物語の最後の方にあります。著者の視座の遠く未来まで見通せることに脱帽です。こんな偉大な先人が、しかも1930年にいたことに驚きます。