前回は日本を変革するためには家族を変えなければいけないと提言した。子供中心の家庭から夫婦中心の家庭に変えること、夫婦のセックスを家庭で行われる当たり前のこととして夫婦のプライベートな寝室をセッティングすることを提案した。また、親子関係において人権を導入して個人の自由意思や選択の自由を尊重することを提案した。親といえども子供を尊重してズケズケと立ち入らないような距離感をしっかりとることを提案した。というわけで、前回は家族がテーマだった。で、今回はガラリと変わって、企業がテーマとなる。
(1)大企業と個人商店の二極化へ
大企業に求められるのは効率だ。大量生産することによって単価を著しく下げることができる。しかし、それでは市場の需要すべてに応えることはできない。しかし、大企業が需要のすべてに応える必要はない。8割の需要に応えられればよい。残りの2割は他のより小さな企業、個人商店に任せればよい。小さな企業は効率は悪いが細かい要望には応えられる。しかし、多くの需要に応えられるだけのキャパシティはない。だが、元々、2割が最大限なのでそれで問題はない。大企業と個人商店はこのような相補関係にある。
「ちょっと待って!その個人商店というのは中小企業に相当するのではないか」という声が聞こえてくるかもしれない。ところがそうではない。日本の中小企業は新規参入を規制によって阻むことで、生産性が低くても、また細かな専門性がなくても生き残っていけるようになっている。市場の競争原理が働かないからだ。結局、その犠牲になっているのは消費者だ。消費者は中小企業の不満足な商品やサービスでも他に選択肢がないのでそれで我慢しなければならないからだ。ちなみに中小企業の従業員も犠牲者だ。大企業ならもっと合理化されて負担の少ない労働条件であるはずなのに、小さいがために一人当たりにかかる負担は大きくなってしまう。結局、儲かっているのは中小企業の経営者だ。規制によって競争がないので経営者としても手腕を問われないし鍛えられない。安い労働力を使役して儲けを出している。こんな不公正なことはない。
現在、ITや3Dプリンタなど技術革新によって個人の技術者や職人で扱える機械が増えてきている。そして、専門性は個人や小さなチームでこそ洗練・深化されてゆくものだ。すなわち、個人商店であっても十分に市場で通用するだけの環境が整いつつある。物量面では大企業に敵わないかもしれないが、少量であれば中小企業に負けないだけの力がある。そもそも不満足な商品やサービスしか提供できない中小企業がのさばれば、社会が進歩するはずがない。あぐらをかいたツケは、結局、社会にまわってくるのだ。それに比べて、個人が専門性を追求してそれで生業が成り立つならば、それは生き生きとした社会になる。みんな、組織に縛られて不自由に生きるよりは、個人が自由に生きられる方を望む。たしかに個人商店は風が吹けばすぐに倒れる不安定なものに見える。しかし、ネットワーク化されれば、あるいはブロックチェーンによってあたかも一つの組織であるかのように疑似組織化されれば、それほど不安定なものにはならないだろう。むしろ、かなり柔軟な対応が可能になり、変化に即応しやすくなる。大型戦艦の時代から空母というプラットフォームから発進した多数の戦闘機の時代に変わったように。
まとめると、不公正な規制で守られた中小企業を解体して、それらの人々を、大企業もしくは個人商店に収斂させてゆくのだ。
(2)市場を真っ当なものにする
かつて工業国だった日本の産業構造は垂直統合型だった。大企業の系列によって下請け、孫請と工場はツリー構造を成していた。しかし、最初は海外に工場が移転して次第に国内工場は骨抜きになり、しまいにはボロボロになってしまった。そして、いつしか本体である大企業までも外国企業に買収される始末となった。アップルのように技術とデザインだけ残して生産は中国で行うというようなファブレス化して大きな利益を出しながら生き残る企業もあるが、日本の企業には真似できなかった。なぜ真似できなかったのか?まず、デザインに関してはセンスが無かった。なぜそうなったかはデザインを軽視してきたからに他ならない。日本人は機能重視でデザインを軽視する傾向が強い。生活を生き生きとしたものにするためにデザインは重要なんだが、日本人の生活は全然生き生きしていない。次に技術を継承できなかった。なぜか?本質を見極める目、戦略を立てる目が無かった。じゃあ、何をしていたか?日本人は組織の中で席次争いをしていた。周りの空気を読んでできるだけ美味しい想いができるように雰囲気で意思決定していた。そんなことだから、高度な技術を究めてゆくなんてことはできなかったのだ。それから、もう一つ。失敗を容認できなかった。市場は試行錯誤と失敗の繰り返しだ。その中から成功がほんの僅か生まれる。ところが、日本人は少しの失敗を許さない。一度失敗したら落伍者の烙印が押される。今回は失敗したが、また次があるとはなかなかならない。これは市場原理に反する。しかし、それが日本ではまかり通る。これでは少しも良くならないし、いずれ競争に負ける。さらに、上記でも指摘したように規制によって公正な競争が阻まれている。これでは市場原理が真っ当に働かない。
戦後、高度経済成長を経験したときに投げかけられた疑問は「本当に市場経済で良いのか?市場経済では格差が拡大して貧富の差がさらに広がるのではないか?本当は資本主義ではなく社会主義の方が持続可能な経済体制なのではないか?」といった疑問だった。しかし、実際の日本の市場は公正な市場ではなく、規制によって制限された不公正・不公平な市場だった。右肩上がりのときはその非効率は見えにくかった。しかし、いったん下り坂になるとそれがいかに日本経済を、日本社会を歪めているかが分かる。いや、日本の中に住んでいる人には見えないのかもしれない。なぜなら不公正が日常になってしまっているからだ。
いまや日本の国家財政がボロボロであるように、日本の産業もボロボロだ。そして、その原因は日本自身にある。日本が進歩しようとしなかったからだ。なぜ、進歩できなかったかというと、市場を歪めてしまったからだ。結果、世界との競争に負けた。さらに国内では市場が歪んだままだから、格差がまだら模様に偏在することになった。
解決策は単純で、日本の市場を真っ当なものにすることだ。そして、普通にフェアに競争することだ。そうすれば、おのずと市場に合わせて日本の産業構造が変化してゆく。中小企業を守るなどといって市場を歪めて、結局は自分たちの首を絞めている。政府は個人を守りこそすれ、法人を守る必要はないのだ。市場原理によって不合理なもの(規制に守られた中小企業)は早々に退場させて、より合理的なもの(大企業と個人商店)に入れ替えるべきなのだ。日本は市場を規制で歪めるから、個人も経済も社会もダメになってしまうのだ。
まとめ
日本の企業を大企業もしくは個人商店に二分化する。言い換えれば、規制に守られた非効率な中小企業を退場させる。現代は組織に縛られない生き方を望む者が増えたはずだ。そして、個人でもやっていける環境(←ITや3Dプリンタなど)が整ってきた。
次に日本の市場から不合理な規制を無くし、フェアな競争原理が働くように市場を正すことだ。なんなら市場を監視する公的機関を設けてもよい。ただし、中小企業の経営者は既得権益を守るために政治家に働きかけたりするだろう。政治はそういったものをはねつけるだけの力が必要になる。おそらく、それはネットを介した市場の力がそういった力になると思う。なぜなら、非効率な中小企業を退場させた方が市場としては合理的でかつ利益を生むからだ。市場は万能ではないが、市場の力が正しく発動すればこのような不合理は排除できると思う。日本では、市場はまだ真価を発揮していない。