2012年10月12日金曜日

差異と生命


前回はリゾームについて考えました。今回はドゥルーズの主要な諸概念、差異、反復、イデア、非実在論、強度について考えてみようと思います。しかし、いずれも難解な概念ですので理解は一筋縄ではいきそうもありません。そこで今回は話を分かりやすくするために生命という補助線を引いて考えてみることにします。これらの諸概念は生命について言っている、あるいは、生命からこれらの諸概念を抽出したと考えれば、かなりスッキリした理解が得られるのではないかと思います。ただし、ここで述べる生命ですが、次の仮定を前提条件にします。それは「生命には魂がある」という仮定です。なんだか非科学的な仮定ですが、話を分かりやすくするために今回はあえて用いることにします。

(1)差異
さて、まず、ドゥルーズの差異といえば、微分dy/dxが想像されます。微分は限りなく小さい微分量dxやdyを考えます。それら微分量の比を計測することで接線の傾きを導き出します。ドゥルーズの分析はまさに微分的です。各計測点で微分することによって曲面の傾き具合を含めた全体像を浮かび上がらせるような手法です。中沢新一がドゥルーズの分析を「微分係数から大域構造を見る」と言っていますが、まことに言い得て妙です。







さて、ドゥルーズが若い頃に第一線で活躍していた哲学者といえばサルトルです。ドゥルーズ自体はサルトルからは思想的な影響は受けていないようですが、それでもサルトルがその時代を代表する哲学者であったことには違いないと思います。そのサルトルですが、彼の実存主義には有名な「実存は本質に先立つ」というテーゼがありました。行動の前では本質よりも実存が立ち上がるという考えです。例えば、昔、金属バット殺人事件というのがありましたが、普段は金属バットの本質は野球の道具ですが、それがいざ殺人に使われた瞬間、金属バットは人殺しの道具に変わってしまいます。このように本質(野球の道具)が実存(殺人の道具)に取って代わられることを「実存は本質に先立つ」と言います。しかし、では、どの瞬間に本質が実存に取って代わられるのか、それを近代科学的に捉えようとすると動きを連続写真に分解して分析することになるかもしれません。つまり、連続写真の前後の差異を計測することでどの時点で本質が実存に取って代わられるか捉えようとするのです。ドゥルーズは映画を愛しましたが、ドゥルーズの差異というのはこのように動的変化を連続写真に分解することに由来しているのかもしれません。

ちょっと話は逸れますが、下図は階段を下りる裸婦の連続写真とマルセル・デュシャンの『階段を下りる裸体』の図です。写真の発明によって対象を正確に模写することに意味の無くなった画家たちは写真では捉えられない対象の真理を描こうとしました。この『階段を下りる裸体』はそういった意味で階段を下りる裸婦をトータルに一枚の絵で捉えようとした試みと言えるでしょう。この例で言えば、ドゥルーズの差異は各写真での微分係数を析出して対象の全体を捉えるようなものだと思います。







ともかく、ドゥルーズの差異はどこまでも分解・微分して計測しようとする科学的な態度だっと思います。サルトルの実存主義は哲学よりも行動が現実を切り開くと言っているようで、ある意味哲学の敗北を意味しそうですが、ドゥルーズはその行動すら細かく分析することで行動(動的変化)をも哲学の範疇に捉えようとした試みと言えるかもしれません。


ドゥルーズの差異の由来について上記で推測を述べましたが、もう1つの由来があると思います。それは単子(モナド)です。限り無くゼロに近い微分量は言うまでもなく微分の発明者ライプニッツのモナドです。モナドとは何かと考えた場合、モナドとアトムの違いについて考えるとモナドについてイメージが浮かび上がってくると思います。まず、アトムですが、アトムは原子という小さい粒、物質の最小単位です。ところが、モナドの場合、その大きさは、dxやdyと表されるように、まちまちで恣意的でさえあります。アトムは元素の周期表で表されるようにスタティックな単位です。まさにツリー的な位置づけです。それに対してモナドは流動的な単位で一体何なのか、いまひとつ分かりません。しかし、もし1つ似たようなものを上げるとすれば、それは生命の単位ではないでしょうか。例えば、細胞を1つの生命の単位とした場合、その大きさはまちまちです。モナドがまちまちなのと似ています。モナドとは生命の単位として考えられないでしょうか。

ところで、生命はある意味差異の機械だと言えると思います。何故かというと生命体は自己と自己以外とを分別するからです。図にすると下図のようなものです。自己と外部とを区別します。また、外部から物質を取り込んで自己の一部とするか、あるいは、不必要なものとして外部に排出するなど、自己と自己以外に分別しています。まさに、生命は自己と自己以外とに分別する=差異するマシンでもあるのです。ちなみに、これは言語の作用ともよく似ています。言葉Aが浮かび上がった瞬間、表出していませんが非Aも生成しています。逆な言い方をすれば、言葉Aを生成した瞬間、非Aは存在しないものとして殺害されています。このように脳の言語機能も差異のマシンです。










話が混乱してきました(笑)。少し整理すると、ドゥルーズの差異はライプニッツのモナドであり、モナドは生命の最小単位として考えられないかということです。そして、生命そのものもそれ自体差異するマシンではないかと言うことです。

さて、以上で述べたように差異には2つの側面があると思います。1つは科学的な分析としての差異です。もう1つは生命の基本機能としての差異です。以下の文章では後者の生命の基本機能としての差異に関わる概念になります。

(2)反復
差異の次は反復ですが、普通に考えると「ドゥルーズはどうして反復なんて取り上げたの?」という感じが否めませんが、生命という補助線を入れると分かりやすくなるのではないでしょうか。ドゥルーズは「反復とは差異を反復することであり、差異とは反復される差異である」と言います。これは何を言っているのでしょうか?これを聞いて思い当たる具体的なイメージとしては細胞分裂、あるいは、生命体の繁殖です。上図を有機スープの海(非A)とそこに生まれた原初の生命体Aとしますと、生命体Aは細胞分裂して生命体A1と生命体A2に分かれ、さらにそれらがどんどん分裂して増殖してゆきます。あるいは、細胞分裂について考えてみると、下図のように受精卵にどんどん仕切りができて1つだった細胞がどんどん分裂して複数の細胞に分化してゆきます。このように細胞は自己と外界を分け隔てますが、細胞分裂はさらに自己と他者を分け隔てて増殖してゆきます。









つまり、これが「反復とは差異を反復することであり、差異とは反復される差異である」ということの意味です。細胞たちが自己と他者を分け隔てて差異を反復することであり、さらに細胞分裂が展開される反復される差異なのです。フラクタルL-systemのように自己相似的に反復されるのです。

さらにドゥルーズは「世界は1つであり、無限の差異である」とも言っています。もし、世界が生命のない物質だけの世界ならもっとスタティックな分類になったでしょう。しかし、生物が存在することによって世界は多様性に富んだ無限に差異を反復する動的な世界となっていると言えます。生命は植物や動物や細菌など様々な形態をとって生き残りを図っています。例えば、地球を人工衛星から俯瞰して見ている図を想像して下さい。地球という球体を生命が覆っています。まるでシャーレに繁殖する微生物のようです。生命という単位では球体表面である世界は1つであり、同時に様々な形態をとる生命群は生命の無限の差異であると言えるでしょう。








(3)イデア
さて、反復の次はいよいよイデア(=理念)です。ドゥルーズは「イデアは個体以前の差異である」と言います。これは一体どういう意味でしょうか?再び、A非Aの図に戻ります。仮にAを生命体、非Aを有機スープとします。Aと非Aは物質的にはどちらも同じ物質です。なぜなら生命体Aは有機スープから物質を抽出して組成しなおして自らを形成しました。しかし、Aは生命であり、非Aは無生物の物質に過ぎません。同じ物質であるにも関わらず、この違いはどこから生じるのでしょうか?つまり、生物を生物たらしめているものは何か?生命の本質とは何か?生命のイデアとは何か?ということです。

別の言い方をしましょう。自動車の部品(車体やタイヤやエンジン、それと燃料のガソリン)を寄せ集めて組み立てればそれは自動車として動き出します。しかし、生物の場合、部品を寄せ集めてもそれは生物の死体が出来上がるに過ぎません。メアリー・シェリーが描いた『フランケンシュタイン』と同じようにクリーチャーに生命を吹きこまなければ生物としては動き出しません。それでは生物と無生物を分けるものは一体何でしょうか?

ここで、最初の言葉「イデアは個体以前の差異」に戻って、図に基づいて考えてみます。もし、図から物質をすべて取り除いたとします。するとそこに残るものは何でしょうか?通常の3次元空間から物質を取り除いても何も残りません。ただの空っぽの空間だけが残ります。しかし、そこで、物質もろとも3次元空間をも取り除いた空間を考えてみましょう。そこに残った場は3次元空間とは別の次元の世界と考えられます。下図はそこに残った場のイメージです。









そこに残るものこそ、個体以前の差異、生命のイデアと考えられます。すなわち、物質も3次元空間も取り除いた後、別次元の空間に残るものこそ、個体以前の差異、つまり、生命のイデアではないでしょうか。

(4)非実在論
さて、上記で別次元の世界を考えました。それは私達が住む3次元空間の世界ではない世界です。3次元に住む私たちにとっては別次元は日常的な世界には存在しない非実在の世界です。つまり、ドゥルーズの非実在論もこの別次元の世界を言っています。日常的な感覚からすれば、非実在の世界を仮定することは途方もない空想のように思えます。しかし、科学ではけっこうそういった世界を考えたりしています。例えば、数学で扱う虚数です。虚数は実数としては存在しない数です。下図のように、実際には存在しない数・複素数を想定することで私たちの科学は成り立っているところがあります。また、物理学でも3次元以上の次元について実際に存在するのではないかという説もあります。とはいえ、3次元空間しか認識できない私たち人間が別次元については知りようがないので、この話はここではあまり深入りしません。しかし、可能性としては否定できないところがあります。















(5)強度
さて、いよいよ強度です。ですが、強度について考える前に、生命についてもう一度考えてみます。生命は様々な形態をとって生まれてきます。動物や植物や細菌など様々な形に姿を変えてこの世に生まれてきて生き残りをかけて闘います。私たち人間もその中の1つに過ぎません。しかし、すべての生物が生き残るわけではありません。絶滅する生物もいます。逆に新たに出現する新しい種もいたりします。例えば、昆虫について考えてみます。今現在もアマゾンの密林では新しい種類の昆虫が生まれており、その一方でそういった新しい種の昆虫たちも私たちに知られることなく知らぬ間に絶滅しているものもあるそうです。進化というと試行錯誤のすえの完成への道というようなイメージを持っている人もいるかもしれませんが、実際は、むしろ、ランダムにいろいろなタイプの生命形態をこの世に送り出して、その中からうまく生き残ったものだけが環境に適応した生物だったという方が近いのではないでしょうか。つまり、結果として、生き残った生物は環境に適応した合理的な生物であって、絶滅した生物は残念ながら環境に適応できなかった不合理な生物ということになるのではないでしょうか。つまり、あくまで結果論なのです。生命全体として見れば、進化は生き残りをかけた試行錯誤の連続です。合理・不合理に関わらず生命は多様な形態をとってこの世に生まれてきます。失敗も含めて多様な生命を生み出す原理は一体何でしょうか?実はそれこそ生まれいづる可能性の濃さ、潜在性の濃度というべき強度ではないでしょうか?

ドゥルーズは強度について「質・量以前の即自的差異」と言っています。強度は質以前・量以前の差異であり、即自的な差異であるというのです。強度は質や量など実在の測定は不可能なのです。逆に言えば、強度は非実在の空間で考えねばなりません。その異次元の中で、即自的ですので一種のエネルギー場を想定し、その中で濃度が高くなるところが生命が生まれる可能性の高いところではないでしょうか。イメージすると下図のようなエネルギー場を考えて、色の濃い点、濃度の高い箇所が生命が生まれいづる可能性の高い点と言えるのではないでしょうか。(下図でいえば、赤色の濃い部分です。)














このように考えると強度とは非実在空間における潜在性の濃度ということができるのではないでしょうか。(ところで、濃度に濃淡があるイメージは数直線で無限の濃度について考えてみると分かりやすいかもしれません。連続体仮説に従えば、数直線には無限の濃度の濃淡があります。)


(6)人工生命としての概念
さて、差異、反復、イデア、非実在論、そして、強度とドゥルーズの諸概念についてようやく説明し終わりました。ここからはオマケの話です。ここまで生命を補助線に話をしてきました。ここからは脳の世界について少しだけ考えてみます。というのも脳の生み出す世界も実は生命の世界にとてもよく似ているからです。多くの方が「えっ!どういうことですか?」と意外に思われるかもしれません。そこで分かりやすい例としてSF作家グレッグ・イーガンの小説『ディアスポラ』の一節「ワンの絨毯」を取り上げます。「ワンの絨毯」ではある惑星に原生生物がいるのですが、その原生生物の体は一種の電子回路のような構造になっており、その電子回路にはソフトウェアが存在しているというのです。そして、そのソフトウェアは一種の生命世界を形成しており、そこには多様な生命の生態系があり、生物が棲息する世界が繰り広げられているというのです。いわば人工生命の超高度版といったところでしょうか。この話をドゥルーズに結びつけると、ドゥルーズの著書『哲学とは何か』でドゥルーズは哲学とは概念を制作することだと言っています。ドゥルーズのいう概念は上記で述べてきた生命ととてもよく似ていると思うのです。そして、もしその概念がひとり歩きするようになれば、この「ワンの絨毯」の人工生命のような存在になるのではないかと思えるのです。つまり、概念イコール人工生命ではないかと思うのです。もっと飛躍して言えば、「ワンの絨毯」の原生生物がソフトウェアの生命世界を作るように、人間は大脳で概念という人工生命を作り出しているのではないかと思うのです。ただ、まあ、概念が自らの意思をもって一人歩きすることはないのでちょっと違いますが・・・。ただ、大脳というものが3次元空間にフラクタルに展開する神経細胞なのだとしたら、フラクタル次元として3次元をわずかに超えるかもしれず、そこから異次元が流入して、概念が一人歩きすることがあるかもしれませんね。例えば、ミュージシャンが作曲のときに「降りてくる」とか言いますからね(笑)。あるいは、自動筆記とか(笑)。話がオカルトめいてきたので、この話はこの辺りで止めておきます。ただ、この脳や生命世界の話はドゥルーズ=ガタリ最後の著書『哲学とは何か』の最終章に深く関わってくる話です。


さてさて、今回はドゥルーズの主要な諸概念を説明するために「生命には魂がある」という、ややオカルティックな前提条件で話を進めてしまいました。しかし、複素平面に置き換えて分かりやすくするというラプラス変換的な思考法としてご容赦下さい。また、実際、生命についてはまだまだ分からないことが多くあります。iPS細胞の研究で山中教授がノーベル賞をとって世間は騒いでいますが、まだまだ生命については謎が多いです。物理学的な観点からは生命はまだ説明できていません。ですので、推測がオカルト的だからといって否定するのではなく、あらゆる可能性を否定せずにその可能性を追求するという態度が大切ではないでしょうか。そういった中から創造的進化を遂げる概念も生まれてくるかもしれませんからね。もちろん、絶滅する概念もありますが(笑)。(誤解を招かないように言っておくと、ドゥルーズは生き残る生物だけでなく絶滅する生物も含めて生まれてくることが可能な生命を尊重したのだと思います。合理・不合理に関係なく、強度の高まるところリゾームのより集まったところに生まれいづる生命を愛でたのだと思います。)