前回同様にツイッターで書いたことをここで少しまとめます。
で、以前、ツイッターで
まず、上記を図でイメージすると下図のようになります。
図が分かりにくいので(笑)、ちょっと解説すると、右側のピンク色の部分が自己、左側の淡黄色の部分が世界です。ピンク色部分の白と黒の目のようなものは目そのもので目をイメージしています(笑)。要は自己の内側と自己の外側を表しています。また、矢印は関心の方向を表しています。右向きの矢印は内側(=自己)への関心を表しています。同様に左向きの矢印は外側(=世界)への関心を表しています。
さて、仮に哲学をおおざっぱに2つに分けると、内へ向う哲学と外へ向う哲学があると思います。内へ向う哲学は自己の内面への関心で「心とは何か?」といったような方向に関心を持っています。自分の内側深くにどんどん探査のソナーを降ろしていって探索・探求するような方向です。
一方、外へ向う哲学は自己の外側の世界への関心で「世界とは何か?」といったような方向に関心を持っています。これは自己の外側の世界への関心ですので、例えば社会に関心を持ったり、もっと広く自分の生きている世界に関心を持ったり、さらに広く宇宙に関心を持ったりします。あるいは、もっと広く射程を広げて、自己も含めた全てである存在そのものに関心を持ったりもします。
そして、それぞれの方向への探求を進めてゆくと、いつの間にか2つ繋がったりする場合もあります。どういうことかというと内へ内へと探求を続けていたのにいつの間にか外と繋がったりします。逆に外へ外へと探求を続けていたのにいつの間にか内と繋がったりします。例えば、内側への探求であったはずの唯心論のように「心があるから世界が存在するんだ」というように内と外が繋がります。あるいは外側の世界の探求であったはずの存在論がいつの間にか自己の心をも包含してしまい、内側への探求と同じ探求になってしまうこともあります。(←まあ、これらは極端な喩えですが。)
何が言いたいかというと、内側と外側のどちらでも良いですが、いずれか一方向への探求であってもそれを極めれば、いつしか内と外の両方の探求へと繋がるということが言いたかったのです。何ごとも極めればそれはすべてに通じるといった感じでしょうか。(←ま、必ずしもそうでない場合もありますが。)
ところで、文学も似たようなところがあって、内側への探求は内面の心の襞を事細かく腑分けして精神分析のように探求するのが純文学に相当すると思います。外側への探求は社会派文学ですね。社会問題に関心を持って社会の暗部に光を当てるような探求をします。文学の関心も概ね内と外の2つがあると言えます。
さて、内と外それぞれへの探求にはどのようなものがあるかちょっと列挙しておきます。まず、内側への探求ですが、精神分析学とか大脳研究があります。ちょっと変わったところでは仏教なんかも内側への探求だと思います。言語の研究は内側へ含めて良いのか迷いますが、個人的には含めたいですね。次に外側への探求ですが、唯物論とか存在論とか宇宙論とかがあると思います。ほとんど物理学の世界ですね。「生命とは何か?」という問いはどちらに属するのか微妙なところです。今のところ遺伝子を含めて生物学は外側の探求ではないかと思いますが、もしかしたら、いつかは内側の探求に繋がるのではないかと思っています。
そろそろまとめると、極端な言い方をすれば、内へ向う哲学は「心とは何か?」という心を研究対象とした心の探求です。一方、外へ向う哲学は「世界とは何か?」とか「存在とは何か?」というように世界や存在を研究対象にしています。言わば、社会や世界、宇宙や存在の探求です。あるいは、その中での人間を研究対象にしています。
以上、おおざっぱで極端な話でしたが、内へ向う哲学と外へ向う哲学のイメージが少しは伝わったでしょうか?ま、あくまで、イメージの話であって厳密な話ではありませんのでツッコミは無しでご勘弁願います。
で、最初のツイートに戻ると
これは私の感触なのですが、今の若者は内面への探求を忌避しているように感じられます。どうも内面に触れることを恐れているように私には感じられます。もちろん、他人に内面を触れられることは誰だって怖いし嫌なことです。ですが、自分自身で自分の内面に触れることはそうではないはずです。ところが、今の若者は他人に内面を触れられることだけでなく、自分で自分の内面に触れることすら恐れているように私には感じられます。
なぜ、そうなってしまったのか?私の推測では、1995年のオウム真理教事件が原因ではないかと思っています。あの事件が大きなトラウマとなって今の若者たちに自分の内面に触れることを忌避させる無意識が働いているのではないかと思っています。「いやいや、そんなことはない。1995年といえば、アニメ『エヴァンゲリオン』があるじゃないか。あのアニメはロボットアニメとしては内面に触れる唯一のアニメじゃないか。それを思えば若者が内面への探求を無意識に忌避するようになったなんておかしいよ」という意見があるかもしれません。しかし、逆に言えば、だからこそエヴァンゲリオンは若者たちにとって特別なアニメになったのではないでしょうか?今思えば、1995年は極めて特殊な年で歴史の転換点になる年でした。オウム真理教事件だけでなく、阪神淡路大震災やインターネットが始まった年でもありました。この年を境に秋葉原は次第に趣都アキバとなり、オタク文化の隆盛が始まりました。ですので、様々な要因があるので一概に「原因はこれだ!」とは言い難いのですが、それでもオウム真理教事件が日本人の無意識に与えた影響は大きく、若者の内面への探求を忌避させるトラウマになっていると私は思います。
で、以前、ツイッターで
哲学って、内宇宙(→内面・精神)に向う方向と外宇宙(→社会)に向う方向があるんだけど、いま、内面に向う方向はなにか避けられていて、社会に向う方向が大半になっていると思う。というようなことを書きました。今回はこれについて少し説明をしておきます。
まず、上記を図でイメージすると下図のようになります。
さて、仮に哲学をおおざっぱに2つに分けると、内へ向う哲学と外へ向う哲学があると思います。内へ向う哲学は自己の内面への関心で「心とは何か?」といったような方向に関心を持っています。自分の内側深くにどんどん探査のソナーを降ろしていって探索・探求するような方向です。
一方、外へ向う哲学は自己の外側の世界への関心で「世界とは何か?」といったような方向に関心を持っています。これは自己の外側の世界への関心ですので、例えば社会に関心を持ったり、もっと広く自分の生きている世界に関心を持ったり、さらに広く宇宙に関心を持ったりします。あるいは、もっと広く射程を広げて、自己も含めた全てである存在そのものに関心を持ったりもします。
そして、それぞれの方向への探求を進めてゆくと、いつの間にか2つ繋がったりする場合もあります。どういうことかというと内へ内へと探求を続けていたのにいつの間にか外と繋がったりします。逆に外へ外へと探求を続けていたのにいつの間にか内と繋がったりします。例えば、内側への探求であったはずの唯心論のように「心があるから世界が存在するんだ」というように内と外が繋がります。あるいは外側の世界の探求であったはずの存在論がいつの間にか自己の心をも包含してしまい、内側への探求と同じ探求になってしまうこともあります。(←まあ、これらは極端な喩えですが。)
何が言いたいかというと、内側と外側のどちらでも良いですが、いずれか一方向への探求であってもそれを極めれば、いつしか内と外の両方の探求へと繋がるということが言いたかったのです。何ごとも極めればそれはすべてに通じるといった感じでしょうか。(←ま、必ずしもそうでない場合もありますが。)
ところで、文学も似たようなところがあって、内側への探求は内面の心の襞を事細かく腑分けして精神分析のように探求するのが純文学に相当すると思います。外側への探求は社会派文学ですね。社会問題に関心を持って社会の暗部に光を当てるような探求をします。文学の関心も概ね内と外の2つがあると言えます。
さて、内と外それぞれへの探求にはどのようなものがあるかちょっと列挙しておきます。まず、内側への探求ですが、精神分析学とか大脳研究があります。ちょっと変わったところでは仏教なんかも内側への探求だと思います。言語の研究は内側へ含めて良いのか迷いますが、個人的には含めたいですね。次に外側への探求ですが、唯物論とか存在論とか宇宙論とかがあると思います。ほとんど物理学の世界ですね。「生命とは何か?」という問いはどちらに属するのか微妙なところです。今のところ遺伝子を含めて生物学は外側の探求ではないかと思いますが、もしかしたら、いつかは内側の探求に繋がるのではないかと思っています。
そろそろまとめると、極端な言い方をすれば、内へ向う哲学は「心とは何か?」という心を研究対象とした心の探求です。一方、外へ向う哲学は「世界とは何か?」とか「存在とは何か?」というように世界や存在を研究対象にしています。言わば、社会や世界、宇宙や存在の探求です。あるいは、その中での人間を研究対象にしています。
以上、おおざっぱで極端な話でしたが、内へ向う哲学と外へ向う哲学のイメージが少しは伝わったでしょうか?ま、あくまで、イメージの話であって厳密な話ではありませんのでツッコミは無しでご勘弁願います。
で、最初のツイートに戻ると
いま、内面に向う方向はなにか避けられていて、社会に向う方向が大半になっていると思う。とあります。というか、そう書きました。
これは私の感触なのですが、今の若者は内面への探求を忌避しているように感じられます。どうも内面に触れることを恐れているように私には感じられます。もちろん、他人に内面を触れられることは誰だって怖いし嫌なことです。ですが、自分自身で自分の内面に触れることはそうではないはずです。ところが、今の若者は他人に内面を触れられることだけでなく、自分で自分の内面に触れることすら恐れているように私には感じられます。
なぜ、そうなってしまったのか?私の推測では、1995年のオウム真理教事件が原因ではないかと思っています。あの事件が大きなトラウマとなって今の若者たちに自分の内面に触れることを忌避させる無意識が働いているのではないかと思っています。「いやいや、そんなことはない。1995年といえば、アニメ『エヴァンゲリオン』があるじゃないか。あのアニメはロボットアニメとしては内面に触れる唯一のアニメじゃないか。それを思えば若者が内面への探求を無意識に忌避するようになったなんておかしいよ」という意見があるかもしれません。しかし、逆に言えば、だからこそエヴァンゲリオンは若者たちにとって特別なアニメになったのではないでしょうか?今思えば、1995年は極めて特殊な年で歴史の転換点になる年でした。オウム真理教事件だけでなく、阪神淡路大震災やインターネットが始まった年でもありました。この年を境に秋葉原は次第に趣都アキバとなり、オタク文化の隆盛が始まりました。ですので、様々な要因があるので一概に「原因はこれだ!」とは言い難いのですが、それでもオウム真理教事件が日本人の無意識に与えた影響は大きく、若者の内面への探求を忌避させるトラウマになっていると私は思います。