2020年7月31日金曜日

NEWS2020.07


7月1日(水)
周庭氏ら香港活動家4人、民主派団体を脱退
今までよく頑張ったと思う。あとは生きのびてほしい。

中国、人口抑制でウイグル人に不妊強制か 報告書
このニュースは本当だろうか?本当ならば恐ろしいことだ。


7月4日(土)
高速道路、ETC専用化へ
マジか。ううむ。

7月5日(日)
【速報】小池百合子氏が当選確実 わずか4秒で
あ~あ。やれやれ。ガッカリ・・・。

7月11日(土)
200710 NO HATE TV 第90回 「リベラル・レイシズム」

ちゃんと見れてないけど、今回の都知事選の分析、こういう見方もあるかと思ったり。ただ、改めて思ったのは、日本では、保守>リバタリアン>リベラルくらいの順で、リベラルが少数派なんじゃないかと思う。さらに日本のリベラルは世界のリベラルとちょっとズレているとも思う。(とはいえ、世界のリベラルも地域や様々な属性によって異なってはいるだろうけど。でも、日本のリベラルはその中でもちょっとズレが大きいとは思う。)で、解決策は、日頃からリベラル派を増やすように地道に啓蒙活動をするしかないと思う。ただ、長期的に見ても、日本でリベラル派が保守派と張り合えるほど大きな勢力になるのはけっこう困難だという気がしている。しかし、なにもしないよりは啓蒙活動した方が少しでも良くなるとも思う。気をつけたいのは現実主義路線とか言って力を求めるあまり、保守寄りな選択をしてリベラルの道をねじ曲げてしまうことで、それは本末転倒だし、日本の悪い癖で上辺だけ装って中身が違ってしまうなんてことになりかねない。なので、不人気でも地味にリベラルを続けることだと私は思う。

7月21日(火)
英外相、中国がウイグル人に「おぞましい」人権侵害と非難

以前から言われていたが、これは本当に事実なのか?事実なのだとしたら恐ろしいことだ。真相を解明してほしいが、超大国中国に対してそんなことができるか・・・。

マックやスタバも運用開始したデジタル人民元は基軸通貨ドルを脅かすダークホースになり得るか?
ついに始まったか。中国のことだから、必ず「支配すること」が内包されていると思う。個人的には使いたくなくても広まってしまえば使わざるをえなくなる。そうなると「首根っこを抑えられる」ような状態になってしまうかもしれない。

7月24日(金)
米司法省、平和的デモへの警察対応調査 過剰な実力行使か
驚く。トランプのやりそうなことではある。だが、それを支持する層が米国内に一定数いるのも事実だ。米国内の分断。双方の溝がどんどん広がっているのだろうか。以前、トランプによる米軍への出動要請に対して米軍が断ったのが救いだった。しかし、今後、それがいつまで続くかは分からない。他人事ではないと思う。日本の自衛隊もネトウヨ講師陣を招いて講義しているらしいので、自衛隊員のネトウヨ化もかなり進んでいるのではないかと思う。民主主義国における軍隊のあり方なんて高度過ぎてなかなか理解されないんだろう。

7月28日(火)
日産、6700億円の巨額赤字に コロナ拡大の影響直撃

吉野家・はなまるうどん・京樽 最大計150店を閉店へ

7月30日(木)
李登輝台湾元総統が死去、97歳 民主化推進、本省人の親日家
巨星墜つ。

まとめ
7月のニュースはコロナウイルスの第2波が基調にあった。東京を中心に次第に増えていく感染者。ロックダウンするのか、それとも経済を優先するのかがあり、そんな中でGotoキャンペーンなるものがあったが、賛否両論というか、どちらかというと不安の声の方が大きかったように思う。とはいえ観光関連の業界としてはコロナの影響による収益の悪化で悲鳴を上げている状況でなんとかしたいという気持ちもありで、難しい選択だった。結局、消費者の不安が勝ってキャンペーンは失敗だったように思う。そして、企業の業績悪化が次第に鮮明になりつつある。日本がどんどん衰退してゆく。

感染源が「夜の街」という表現で風俗産業を槍玉にあげる風潮もあった。(「夜の街」は接待を伴う飲食業も含むのでそれを風俗産業と位置づけるのもどうかと異論があると思う。)ちなみに人間の営みの中でセックスは大きな位置を占めるので、セックスワークを蔑ろにするのは違うのではないかと思う。日本人は兎角「生命を維持するための飲食以外の欲求は我慢しろ」という風潮が強い。しかし、「人はパンのみに生きるにあらず」で、セックスは人間にとって欠かせない営みだと思う。したがって、セックス産業も不可欠な仕事であるので、それを貶めて抑圧するのは間違っていると思う。セックス産業が感染源にならないような仕組みを構築する方向に努力するべきだと思う。

コロナ以外の今月のニュースを振り返ると、まず香港だ。ついに香港の抵抗がひとつの終焉を向かえた。雨傘運動から始まった抵抗運動、よく頑張ったと思う。中国関連でいえば、BBCによるウイグル人に対する弾圧が大きなニュースだった。以前から言われていたことだが。チベットとウイグルは漢民族による支配で中華化されてしまうのだろう。とても悲しいことだ。韓国や日本の場合、人口が多いので、そのようなやり方は無理だと思うが、支配階級を親中で固めることで支配しようとするのではと思う。基本的には経済的に包囲・支配する方法に出ると思う。

東京都知事選。2つの点で勉強になった。1つは小池百合子への支持が多いこと。私は全然支持する気持ちが無かったのだが、東京ではそうではないことが統計的に分かった。もう1つは山本太郎の意図。出馬の意図は当選が目的ではなく、人々の支持を持続させるためのイベントだった。このやり方を快く思わない人々もいるだろう。ただ、政治家としては生き残るためには政治運動を続けなければならないし、選挙は大事な政治運動でもある。バーニー・サンダースもそうだった。仮に山本太郎と宇都宮健児が逆の立場で宇都宮健児が支持者を増やすためだけに出馬した場合、それを是とするかどうか?そのときの状況にもよるとは思うが、この戦術そのものを否定することはできない気がする。ただ、いずれにしろ、私はMMTには懐疑的なので山本太郎は支持しない。ということで、やはり、政策で判断すべきだと思う。

米国のBLM関連のデモ。どうも米国の警察は私が思っていたようなものではないらしい。十把一絡げにはできないが、警察官の中には白人至上主義者もいるらしい。エミコヤマさんのツイートで黒人女性が自宅に強盗に入られたと通報したら、駆けつけた警官にその女性自身が撃ち殺されたという話があって、警察に通報するのはけっこうリスクが高いという話を読んで驚いた。そんな風に思ってネットで色々見ていたら、今度はトランプ大統領がよく分からない警察を派遣したとか自警団かもとかというニュース映像で、さらに拉致してたりと、えっ、こんなことがアメリカでという驚きの映像が続いた。ただ、プロテストのひとたちも負けてなくて、強い信念や意思を感じた。しかし、アジアの場合はこうは行かないんだろうなという気もする。公権力の方が圧倒的に武力で勝るような気がする。結局、アジアは全体主義に向かい、欧米は曲りなりにも自由主義を維持するのかもしれない。ちなみに日本は中心が空虚な全体主義に向かう気がする。昔と全然変わってないと気がする。

日本の衰退を日々感じる。しかし、私の周囲ではいっこうに感じてない。仮にそれらの人々が衰退を感じとれた場合、果たして適正な対応がとれるだろうか?甚だ疑問である。かえって劇薬を選択してしまいそうな恐れがある。そもそも、それらの人々が変わることを期待しても無理ではないか。老人はもはや変われない。それならば、いっそ「いざ急変」というときに対応できるような次世代を密かに育てておく方が良い気がする。しかし、損失回避の時間が長引けば、待ち時間が長すぎて待機している次世代も腐ってしまう。難しい。

2020年7月26日日曜日

日本の構造問題


(1)中央集権型ツリー構造


単純化していうと日本の構造は上図のような中央集権型ツリー構造だ。政治も内閣に権限が集中しているし、経済も戦時経済体制を継承した統制資本主義だ。工業国としては中央集権体制は適した体制だった。しかし、インフラが成熟した知識社会の場合、中央集権型ツリー構造では豊かな社会を構築するのには向いていない。成長した大木の場合、幹ではなく枝葉を豊かに繁らせなくてはならない。枝葉を豊かにするには、それぞれの太い枝が末端の枝葉をどの方向に向けるかを決めなければならない。すべてを中央で決めるのではなく、各々の太い枝で方向性を決めるのが適している。

(2)分散型ツリー構造
したがって、中央集権型ツリー構造を下図のような分散型ツリー構造に変えるべきだ。



これは政治に見立てたら、以前から言われていた道州制だ。国がお金を持つのではなく、それぞれの地方がお金を持ってその地方に適したお金を配分する。ひと言で言えば、連邦制だ。

(3)ツリー横断型ネットワーク
さらに知識社会は情報社会だ。知識やマネーが縦横無尽に流通するネットワークが必要だ。インターネットというインフラを人類は手に入れた。情報を末端まで流通させるテクノロジーは可能になった。そこで分散型ツリー構造を補完するために下図の赤線のような、ツリーを横断するリゾーム状のネットワークを形成する。実際には、専門化・特化した組織(NPOやNGOや企業)がそれぞれの得意分野を生かしてツリー構造をバイパスして補完する。

(※リゾーム状にツリーを横断するバイパスのような描画にしたかったのだが、上手く描けなかった。)

(4)弊害
いまだに日本は中央集権型ツリー構造の夢を見ている。その典型例がリニア中央新幹線だ。「新幹線の成功をもう一度」という夢から同じことをしようとしている。しかし、すでに新幹線があるのに、似たようなものを作ることにあまり意味はない。むしろ、莫大なお金が注ぎ込まれて弊害の方が大きいだろう。(今後も無用の長物を作ろうとする愚行が日本が破綻するまで続けられる可能性が高い。)

(5)構造転換は可能か?
中央集権型ツリー構造から分散型ツリー構造+横断ネットワークへの転換は可能だろうか?それはかなり難しいと考えられる。理由は転換によって既得権益層が利益を手放すことになるからだ。既得権益層は権益を手放すよりはジリ貧になる方を選ぶ。ガラポン(=リセット)されていきなり利益がゼロになるよりは、いずれ衰退しようができるだけ現在の構造で利益を手に入れようと抵抗するだろう。

(6)メディアも国民も同罪
権力を監視するメディア(=ジャーナリズム)も同じだ。例えば、新聞では日本はまれにみる全国紙が強い国だ。中央集権型ツリー構造だから中央に張り付いている全国紙は強い。しかし、分散型ツリー構造になれば地方紙が優位になってしまう。全国紙が地方紙に利益を譲ることなど考えられない。2000年代、全国紙は「総論賛成、各論反対」だった。敵を作らず、適当に茶を濁してきた。すべての読者によい顔を見せようとして個別具体的な批判を避けてきた。テレビもまったく同じ構造だ。(ダム建設批判や原発事故後の電力批判が視聴者やスポンサーの顔色を窺っていつの間にか雲散霧消した。)

そして、国民自身も同じだった。自らが所属する組織を守るために「総論賛成、各論反対」を続けてきた。言わば日本国民全員が構造転換に反対だった。これでは構造転換など不可能だ。したがって、日本はこのままジリ貧に衰退してゆく。当然の帰結だ。衰退の責任は一部の既得権益層だけでなく国民自身にもある。

(7)まとめ
構造転換が必要なのは明らかだが、統制された中央集権型ツリー構造の日本はそれを変えることが構造的にできないでいる。政治もメディアも機能していない。逆に規制によって構造を強化して、構造転換が難しくなるようにさえしている。結果、既得権益層を守るために、切り捨てられるのは弱者や未来の可能性だ。

考えてみれば、繁栄はいつまでも続かないということなのだろう。日本も同じだ。明治維新でアジアで先駆けて繁栄したが、戦争を起こして衰退し、戦後、運良く繁栄したが、90年代から始まる工業国から知識社会へ移行する段階で適応できずに躓いた。そして、2000年にWTOに加盟した眠れる獅子の中国は経済大国として目覚め、もはや中国の覇権を誰も止められなくなった。世界史的に見て、強大な超大国・中国を近隣にした日本の今度の停滞はかなり長期になると思う。そればかりかチベットやウイグルを見ていると日本は消滅する可能性さえあると思う。

諸行無常なり。

2020年7月19日日曜日

個人の問題

日本人の個人の問題について考えている。といっても、考えがまとまっていないので、つらつらと思いついたことを書いてみる。たぶん、夏目漱石の個人主義なんかも遠くは関連しているかもしれない。

男女の違いについて私は下図のような仮定を考えている。


男性は円形で、女性は四角形だ。

これらを重ね合わせると、重なる部分と重ならない部分が生じる。



そして、重ならない部分は互いに理解しがたい部分になる。
たまに相手のことを包摂してしまう場合もあるかもしれない。

しかし、それは一面的な部分であって、全体としてはどちらかがどちらか一方に完全に把握されてしまうことは人間の場合無いと思う。この図は分かりやすくするために平面で描いているが、人間はもっと多次元で多面的だから様々な局面でこういう分かり合えない部分が多数存在すると思う。

それでも男女がパートナーシップで暮らしていけるのは愛があるからかもしれない。愛は互いの溝を埋めるブリッジのようなものだと思う。愛は溝を埋めることはできないが、溝の一時的に乗り越えることは可能にする。


ただし、日本では愛は誇張され過ぎているかもしれない。人間の内面には、様々な力がある。欲望などは強い力だ。金欲、物欲などだ。性欲も強い。食欲なんてのはあまり弱いと困る。そういった力の中で比較すると愛は微力だ。経済活動では欲望が大きな原動力になっているが、それに比べて愛はそんなに大きな原動力になっていない。

しかし、注意しなければいけないのは、愛は大切だということ。「愛は偉大で最も強い力」だと誤認してしまうと、放っておいても愛が作用して人々を救ってくれると勘違いしてしまう。しかし、実際は愛は微力なので忘れられがちだ。だからこそ、愛の大切さを説いて、愛を喚起してやらねばならないと思う。(ちなみに日本人に愛は馴染んでいない。昔は慈悲がそれに相当したし、愛は仏教用語でいう渇愛で斥ける対象でさえあったと思う。せいぜい情をかける程度だと思う。ギフトとしての愛なんてほとんど定着していないんじゃないかとさえ思う。)

男女間の溝なんて持ち出してしまったが、自己と他者でも同じような図式で捉えられると思う。自己と他者にも乗り越えられない溝があるのだ。だからこそ、個人には自由意思があると思うし、個人を個人たらしめているのはこの自由意思だとさえ思う。

じゃあ、個人はなにものとも繋がっていないのかというと、そこはちょっと微妙だと思う。キリスト教的に考えれば個人の魂は神とつながっていると思えるし、インド的に考えればブラフマンとアートマンでつながっているとも思えるし、仏教的に考えれば真如と阿頼耶識はつながっているとも思える。あるいは輪廻で生きとし生けるもののすべての魂はつながっているとも思える。ただし、親子で魂はつながってはいないのだけは確かだ。日本では母子でまるで魂がつながっているかのように錯覚していないだろうか。魂は孤独なものであることをもっと自覚した方がいいと思う。で、愛という微力なものが人々にブリッジをかける。とても微力だが。

話題を変える。

個人のセクシャリティを花に喩える。人間のセクシャリティは子どものときは種であって、どのような花が咲くかは分からない。大人に成長したときに花が開花してはじめてその人がバラの花だったり百合の花だったりタンポポだったりと分かる。つまり、レズビアンだったりゲイだったりトランスだったりクィアだったりする。しかし、親は自分と同じ花を咲かせると勘違いしやすい。しかし、セクシャリティの場合、親が桜の花だったとしても、子どもは百合の花を咲かせることはよくあることだ。むしろ、親も子どもも同じ桜の花を咲かせる方が希な気がする。さて、問題は親が桜で子どもが百合だったとき、親が子どもに「おまえも桜になれ」と強制することだ。まあ、ムチャクチャで不幸なことを親の誤認から始めてしまうわけだ。親として子どもを愛しているならば、子どものありのままを受け入れて成長・応援してやることが親の愛だと思う。レズでもゲイでもトランスでもクィアでもだ。セクシャリティという一面だけを捉えても、親子でも、男女の相違のように、自己と他者は異なり、溝が存在する。

話題を変える。

「らしさ」についてだが、「男らしく」とか「女らしく」の「らしさ」だが、今は亡き森毅さんが良いことを書いておられた。「男らしく」や「女らしく」ではなく、「自分らしく」ありなさいということを言っておられた。自分を何か型にはめるのなんておかしいと思う。ましてや、自分を他人から「○○らしくありなさい」と規定されてしまうなんてまっぴらごめんだ。

話題を変える。

日本人は自由意思を軽視しがちだし、人権もあまり考えたことがない。もっとも、人権を完成されたものと考えるのもちょっと問題だとは思う。私はけっこう気をつけているつもりだが、それでも気づかぬうちに差別してしまっているなんてことがある。(人権はまだまだ過渡期に思う。)人権を踏みにじるのは許されないが、過ちをあまりに強く非難するのもどうかと思う。人間は誰しも過ちを犯すものだからだ。(「ひと誰か過たざらん。誤りてひとこれを能く改むる」だっけ。)それと、よく言われるように、日本人は同調圧力が強い。「日本人は皆同じ」だと思っているフシがある。これは大きな間違いだし、これは多くの不幸を生むと思うので早く止めてほしい。「酒を飲んだらハメをはずして腹を割って話して仲良くなる」なんてのも止めてほしい。何なんだろう、この田舎者的発想は。酒を飲まないトランプ夫妻を居酒屋に誘って親密さをアピールってのもそれに由来するのだろうけど、日本人、訳わからん。それと、海外で大きな事故があったとき、ニュースの最後で事故に巻き込まれた日本人の有無を言うのも、半分、どうかと思う。問い合わせの要不要の情報として流しているのかもしれないが、半面、日本人が巻き込まれていなければ「良かった」となるのだろうか?日本人以外の人命はどうでもいいのかと。

話題を変える。

私が子供の頃は戦争を引きずった大人が近くにいたものだった。それは戦争を深く反省していたことと、戦後の焼け野原から日本の復興のために必死に働いていることだった。日本の敗戦はそういった大人のメンタルに深く突き刺さっていた。それは元来物事を深く考えない日本人を深く考えさせる原動力となった。しかし、経済成長で次第にそういった陰や深みは薄れっていった。決定的だったのはバブルが日本人のメンタルを堕落させた。まあ、全部が全部とは言わないが。バブルによって日本はもう一段ステップアップするチャンスがあったが、そのチャンスをものにできなかったと思う。結局、日本人のメンタルはそれ以降浅薄なものになってしまったと思う。そして、学校教育が日本的集団心理を再生産する場となってどんどん日本的集団心理に適応した人間を培養していったと思う。会社も社会も学校の延長になってしまった。あとはあらゆる場面でその繰り返し。

以上、ここまでフリーライティングで書いてみた。で、日本人のメンタルを変えるには『日本を変革する1』で書いたように家族から変えなければならないと思う。親子であっても互いに独立した個人であることを認識する。カギとなるのはセクシャリティだと思う。『21世紀はセックス革命』と書いたように、こんな日本人でさえもセクシャリティは多様に発現すると思う。そのとき、軋轢が生じて、人々は改めて物事の本質について考えるようになると思う。そして、それは戦いになる場合もあると思う。それは単純化していえば、保守vsリベラルの戦いになる。戦いを嫌いだが、戦いを避けてばかりではいけない。自由を得るためには戦わなければならない。ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん、だ。

2020年7月11日土曜日

日本を変革する(5)まとめ

これまで『日本を変革する』というテーマで4回の記事を書いた。今回はそのまとめを書いていこうと思う。

第1回では『家族を変革する』で子供中心の家庭から夫婦中心の家庭へという提案をした。これは以前に書いた『21世紀はセックス革命の時代』とも関わっている。

日本はこれまでセックスにはあまり触れないようにして社会を築いてきた。よく言われるのは「子供の教育上良くない」という理由でいろいろな変革を日本社会は拒否してきた。それは日本社会が大人を基準に社会を構築するのではなく、子供を基準に社会を構築しようとする傾向が強いことを表している。

また、セックスは人間に自然に備わっている本能なので、なにも教えなくても自然にできるものだという勝手な思い込みがあり、そのためもあって性教育も疎かだし、セックスに関する必要な正しい情報も少ない。大人になれば食欲があるように性欲があって、セックスライフが生活の重要な一部分であるにも関わらず、日本人のセックスライフは貧しいものになっている。

さらに個人のあり方が日本の子供中心の家庭によって大きく阻害されている。日本の親子関係がそれだ。日本の親子関係の問題を最もよく表しているのが毒親だ。成人した子供であっても親が子供を独立した個人として認めずに、自分の影響下・支配下に置こうとする。子供は経済的に自立することではじめてその呪縛から解放されるのだが、親はその支配をなかなか手放そうとしない。そもそも、なぜ親はそうなってしまうのかというと、親自体が独立した個人として人格的な成長ができていないからだ。人間は孤独な存在であること、独立した存在であることを受容できていないからだ。これが個人だけにとどまるならば個人の問題として済む話だが、この傾向は展開されて、「日本人は皆同じ」という異常な同調圧力へと拡大されてしまうのが問題なのだ。

なので、まず、家族のあり方から変えねば、日本の根本は変わらないと思う。

次に、『市場を真っ当なものにする』ことを提案した。日本の経済は市場経済で資本主義だと多くの人は思っている。しかし、実際は違う。日本人は資本主義のルールをねじ曲げて特異な市場経済に変えてしまっている。

これは日本の儒教と似ている。幕末の儒学者、横井小楠は儒教を根本的に学ぶ中で日本の儒学が本来の儒教の姿をねじ曲げてしまっていることに気づいた。本来の儒教では禅譲といって能力主義だったはずが、日本の儒教では血縁主義になっていた。本来の儒学ではそれは大間違いであるのに、日本の儒学者たちはそのことを黙認してしまっていた。結局、日本では歪められた儒教が定着してしまっていた。そのことを指摘した横井小楠は日本人からは社会を根本から破壊する過激派と危険視されてしまう。

現在の日本の資本主義もそれと同じだ。市場経済・資本主義と銘打っていても、実際はかなり歪められたものになっている。最たるものが規制だ。新規参入を阻むために規制を設けて既得権益層が安定して利益を上げられるように歪めた市場にしてしまっている。その結果、日本経済は世界経済からどんどん遅れをとっている。不合理なことばかりやっているから当然そうなる。

国内のくだらぬ規制を撤廃して市場原理が正常に機能するように市場を真っ当なものにすることが解決策だ。市場原理が正常に機能するようなれば、日本の企業は自然と淘汰されて大企業と個人商店の2つに二極化すると思う。

3つめが『分権とネットワーク』だ。これまでの日本は工業国モデルで中央集権型のツリー構造だった。戦後の高度経済成長期はそれで良かった。しかし、知識社会へ移行するためには中央集権型のツリー構造では現実に対応しきれない。まず、中央集権型から地方分権型に変える必要がある。幹を作るときには中央集権型は優れているが、幹を作り終わったあとの枝葉をその地域に張り巡らせるときには地方分権型の方が優れているからだ。今の日本は枝葉を作る段階にある。

さらにシンプルなツリー構造だけでは真に豊かにはなれない。ツリーを横断するネットワークの活躍がそこには必要だ。(それは大脳のシナプスに似ている。言語とはまさにツリーを横断するネットワークだ。)問題はネットワークを張り巡らせるには時間が必要なことだ。あ、それと個人個人の一個人の能力の高さも必要だが、それこそインターネットがそれを可能にすると思う。時間を作るためには労働時間を定時できっちり終わらせることとテレビを見ないことだ。日本人の共通感覚を養うためにテレビは共通の話題として役立ってきた。しかし、多様な個人の生き方を認める社会なのだから、共通の話題はそれほど必要としない。ニュースを見る必要はあるが、バラエティを見る必要はない。可処分時間をネットワークのための時間や個人の能力を高める学習の時間に使うべきだと思う。

最後の4つめが『記録と蓄積』だ。とにかく、日本人は意思決定過程を記録するというのが苦手だ。その根底には道理で物事を決めることが苦手だというのがある。集団心理で雰囲気で物事を決めている。それは無謬性とイジメの心理だ。考えてみれば愚かな話だ。人間は完璧ではない、間違いをときには犯す。それを受け入れて、振り返って修正していくためにも、道理で考え、その記録を残し、後日検証して、改善していくという当たり前のことができていない。だから、それを改善するためには記録することだ。そして、振り返って改善してゆく。ひと言でいえば、PDCAサイクルだ。ちなみに、政治や社会のチェックを行うのがジャーナリズムだ。ジャーナリズムを正常に機能させるためには、ジャーナリズムは独立した存在でなければならない。ジャーナリズムにはお金を払おう。ただし、ジャーナリズムに対しても無批判であってはならないので、自分の目でよく確かめることを怠ってはならない。

以上、4つの提案を行った。こうやって並べると新しい日本のグランドデザインが見えてこないだろうか?まず、日本的家族の呪縛から解放して個人を確立する。歪んだ規制を撤廃して市場経済を正常に機能させる。中央集権型から地方分権にして頭脳を地方に分散する。同時にネットワークを張り巡らせて硬直したツリーを補完する。そして、記録して振り返ってシステムを改善してゆく。これらが21世紀の日本が進むべき道だと思う。


2020年7月5日日曜日

日本を変革する(4)記録・蓄積

日本を変革するシリーズの最後です。最初、家族を変えるから始まり、市場を変える、日本の構造を変えると続きました。最後は、それを永続的なもの、持続可能なものにするための方策です。それは記録すること、そして、その記録を蓄積することです。

(1)意思決定過程を記録する

日本に一番欠けているものは意思決定過程を記録しないことです。ひと言で言えば、公文書管理がなっていません。なぜそうなるかは簡単です。物事を空気で決めるからです。もし意思決定過程を記録に残してしまうと責任の所在がハッキリしてしまうからです。道理がなくて空気で決めているので、意思決定過程を記録してしまうと、もろに責任が当人に降りかかるからです。

物事を空気で決めてしまうのは、いくつか理由があります。一つは日本人は議論ができない。議論をケンカだと思っている。物事を道理で決めるためには議論が必要なのにそれができないのです。もう一つは物事を道理で考えることがとても苦手です。日本人は抽象的に考えるのが苦手なので、道理で考えるのも苦手です。ロジックを積み上げるのが苦手なのです。さらに物事の大小が区別できない。具体的なものなら大小が区別できるが、抽象的なものになると大小の区別ができない。しかも、大小の区別ができないから枝葉末節にこだわる。枝葉末節を大なるものと勘違いしている。さらにそれが枝葉末節であると他人から指摘されても、議論が苦手なので他人の意見を受け入れられない。自説を曲げられない。ロジックの組み上げは共同作業のはずなのに、まるで勝敗を決める将棋の対戦でもしているかと勘違いしている。そのため、議論そのものが成り立たない。以上のような傾向があるから、日本人は空気で物事を決めるのが良いと思っていて、それを実践している。

そして、空気で物事を決めてしまうと、意思決定過程を記録するのが困難になる。なぜなら、そこにロジック、道理がないからです。日本人の意思決定は、ただなんとなく、その場のモヤモヤ~っとした雰囲気で決まっただけなのですから。なので、記録ができないのです。

さらに、議論の行方を黙ってうかがっている人の中には損得勘定を働かせている者もいます。黙って議論を見守り、自分の得になりそうな機会があれば、自分の損得勘定を他者に悟られないように注意しながら、議論の方向をそれとなく自分が得になる方向に向かうように促したりします。こういうたちの悪い輩が黙っている者の中には隠れています。

さて、こういった問題は教育の問題だと思います。学校教育で複数人における議論と意思決定過程の記録をする訓練をしておくべきです。なんでも良いのですが、例えば10人の昼食費1万円が与えられたときに何を食べるかを意思決定させる練習をするのです。同じものなのか、バラバラなのか、あるいは、みんな同じ店か、ばらばらに買いに行くかすべて自由です。どういった選択をしてもかまいません。ただ、議論とそれを記録するということだけはしっかりやる。

私の周囲の大人たちを見ていても複数人での意思決定が苦手だと感じます。大抵、遠慮がちです。ここでの遠慮がちは美徳ではありません。空気をうかがっているのです。合理的な選択や自由意思を尊重しようという気配はありません。日本人が気にしているのは集団心理です。極端な言い方をすると、自分が集団からいじめられないように周囲に気を配っているのです。これは人間の心理というよりは、サルの心理に近いです。彼らは道理が大切なのではなく、ボス猿のご機嫌が大切なのです。

(余談ですが、日本人の心理には、『浦島太郎』の古来からいじめがセットされていて、現在も学校教育がそれを培養しています。日本人がより良く変わるためには、いじめを克服する必要があると思います。)

(2)データを蓄積する

さて、記録を習慣化できれば、あとはそれを持続することです。そうすれば、記録がどんどん蓄積されていきます。そして、記録を振り返ることで何らかの知見が得られるはずです。ところが、日本人は記録を蓄積することが苦手です。日本人の生き方は刹那的です。「今が良ければ良い、明日のことは知らない」という人が意外と多いです。

なぜそうなるのか?日本人は記録というよりは書類を作っていると感じています。つまり、極端に言えば、お役所に必要な書類を作っているのです。お役所に必要な面倒な書類作成だと思っているのです。だから、面倒な仕事は増やしたくない。お役所が要求する書類だけ作っていればいいという感覚です。

それともう1つ、日本人は物は重視しますが、情報や知識、そして人間を軽視しています。情報や知識は抽象的な部類に入るようで物のように大切に扱われません。そして、人間。人物は複雑です。人物は物ではありません。人格は複雑なソフトウェアです。日本人の人物評、人間観察力は単線的で浅いです。人間を軽く見ています。個人の自由意思や人権を軽視しています。日本人の大切なものは、物とお金です。知識や個人を軽視しています。世界が知識社会に移行したとき、日本はついて行けませんでしたが、理由は簡単で、知識を軽視したからです。日本の没落の原因のひとつがそこにあります。

話が脱線しましたが、繰り返しになりますが、記録を蓄積し、時々、振り返れば、そこから新しい知見が得られると思います。後はPDCAサイクルでシステムが改善されていくと思います。なので、徹底的にデータを蓄積していくことです。

まとめ
変革の方策はとてもシンプルです。記録すること。そして、その記録を蓄積することです。そして、時々、それらを振り返って改善してゆくことです。