2010年6月13日日曜日

世界の大学学費

世界の大学学費について調べてみました。日本、米国、英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、アイルランドです。ただし、あくまでネットで調べたものであり、あくまで目安です。文系と理系ではやはり違ってきますし、為替の変動によってもしょっちゅう変わるでしょう。ただ、やはり、大学の学費はどこも高額ですね。米国では貧しい人は兵役に行くことによって大学に入りますが、なるほど、そうでもしなければ、なかなか学費は賄えないのだと思います。確か、日本でも映画を見るよりも1回あたりの授業料の方が高かったと思います。当たり前でしょうけど、授業をサボってアルバイトするよりも授業料の方が高いです。戦後の日本で最も上昇した物価の中に大学の授業料が上げられていたことが何年か前にあったと思いますし。ただ、世界的に大学のレジャーランド化は進んでいるとは言いますが、それでも海外の大学は勉学が大変なのだろうと思います。ちなみに非英語圏ではありますが、ドイツは確か大学の学費は無料だったと思います。まあ、高い学費に見合った教育を大学が行えているかという問題もありますが。ただ、今後は大学は主に理系もしくは理系に準じる勉強をするところになるでしょう。文学部などの廃止はその流れでしょう。大学を卒業すれば、それなりに社会で実際に役立つ技術を身につけられるようになる、ならなければならないと思います。もちろん、役立たない学問はダメだと言っているわけではありません。ただ、そういう学問は、ごく限られた一部の大学と大学ではなしに私塾的なところに場所を移すと思います。大学は単に卒業したという飾りではなく、実用的な技術を身につける場になると思います。そういう意味で、大学まで行って勉強するのは理系的になると思います。哲学などの知的好奇心を満足させるのは私塾的なものになるのではないでしょうか。また、技術の進歩が早い分野では社会人の受け入れが多くなるかもしれませんね。今までの単調な学習プロセスとは違った多様な学習プロセスになるのではないでしょうか。

アレハンドロ・アメナーバル監督『アレクサンドリア』(原題『AGORA』)

1.はじめに
たまには映画の案内でもしようということで、映画を紹介します。といっても、まだ見たわけではないのですが、面白そうだなあという期待を込めての紹介です。それは私の好きな英国人女優レイチェル・ワイズが主演している歴史映画『AGORA』です。AGORA(アゴラ)といっても池田信夫氏のアゴラではありません。まあ、意味はどちらもアゴラ(都市国家の広場、議論の場)から持ってきたのでしょうけどね。

以下、ネタばれを含みます。

『AGORA』公式サイトhttp://www.agorathemovie.com/



2.ヒュパティアを襲った悲劇
この映画でレイチェル・ワイズは古代エジプトの哲学者で数学者の女性ヒュパティアを演じています。古代エジプトといってもプトレマイオス朝以来、エジプトはヨーロッパの文明圏でクレオパトラもアフリカ系ではなく基本的にはヨーロッパ系であって、おそらくヒュパティアもヨーロッパ系じゃないかと思います。ヨーロッパ系といっても、要はギリシャ文明ってことですが。で、ヒュパティアですが、ローマの支配下にあった古代エジプトがキリスト教が勢力を増すにつれて非キリスト教系の人たちを圧迫してゆくのですが、ヒュパティアも非キリスト教系のひとりであり、ついに暴徒と化したキリスト教徒がヒュパティアをぎゃく殺してしまいます。私の記憶では、確か、ある日、ヒュパティアが街中を歩いているとキリスト教徒が嫌がらせに石を投げてきて、それを避けるためにヒュパティアが近くの教会の中に避難するのですが、実はそこにキリスト教徒たちが待ち構えていて一斉にヒュパティに飛びかかってナマスに切り刻んで殺したそうです。その後、キリスト教徒たちはバラバラになったヒュパティアの肉片を剣や槍に突き立てて、「それ見たことか!キリスト教に従わぬ者はこうなるんだぞ!」と街中を練り歩いたそうです。いや、かなり恐ろしい話ですね。漫画『デビルマン』で殺された牧村美樹が暴徒と化した人間に殺された挙句、バラバラの死体を槍などに突き刺して練り歩いたのを実際にやったような感じです。でも、まあ、ここまで残酷かはともかく、歴史の中では異教徒をぎゃく殺するというのはよくあったと思います。なお、ウィキペディアではカキの貝殻で肉をそぎ落として殺したとあります。いずれにしてもなんとも残酷な話です。そんなわけでキリスト教徒が悪者扱いなので上映に際してはちょっとだけ物議を醸したのかもしれません。

3.一神教の未来
ところで、キリスト教ですが、どうでしょう、一昔前と比べれば、随分、その勢力は落ちたと思います。おおむね、自然な勢力の低下ですが、それだけではなしに、欧州ではこの20年くらいで宗教から脱却しようとしたんじゃないかと思います。このまま行けば、キリスト教は消滅するところまでは行かないまでも、かなり縮小するんじゃないでしょうか。ただ、そのかわりと言うか、中東からの移民など貧困層にイスラム教が普及しているんじゃないかと思います。一神教という宗教形態から見れば、イスラム教の方が遥かに分かりやすいような気もします。キリスト教はどうもヨーロッパの土着信仰と混合して、一神教としてはちょっと分かりにくくなったんじゃないかと思います。ヨーロッパにおけるキリスト教の馴染み方がどうも一神教というよりは土着信仰的な気がします。ともかく、イスラム教の方がこれからのグローバルな宗教としては強いと思います。

4.ヒュパティアの時代
さて、ヒュパティアですが、とても理知的な女性だったようですし、実際にとても美人だったそうです。舞台になったアレクサンドリアはとても興味深い都市で、当時の世界最高の学術研究所ムセイオンがあったり、アレクサンドリア図書館があったりとギリシャの知の最後の砦といったところだと思います。ただ、ヒュパティアの虐殺をきっかけに迫害を恐れた学者たちはアレクサンドリアを捨てて逃げ出してしまうようです。また、ギリシャ哲学の系譜で言えば、アレクサンドリアはプロティノスを生んだ場所と言えると思います。プロティノスはプラトンの正当な継承者じゃないでしょうか。アリストテレスは例のラファエロが描いたアテネの学堂のようにプラトンとは対照的な哲学だったと思います。プラトンが天を指さしているのに対して、アリストテレスは地を指さしています。まあ、アリストテレスの哲学は形式論理的というか、近代科学的だったのではないでしょうか。それに対してプラトンはイデアなどちょっと神秘的な色合いのある哲学でした。その神秘的な色合いのプラトン哲学を受け継いだのがプロティノスだと思います。で、ヒュパティアの哲学はどういったものだったのかは分かりませんが、ヒュパティアはプラトン、アリストテレス、プロティノスの哲学について言及したり書簡を交わしたりしたそうなので、ギリシャ哲学の系譜上にあるのだろうと思います。また、彼女は実用的な天文学や数学もやっており、かなり理知的な女性だったようです。そんな聡明な女性が虐殺されるのはなんとも痛ましい話です。ちょっと記憶が定かではありませんが、読んだ歴史書の解説では、ヒュパティアがキリスト教に簡単に改宗するのを由としなかったためであり、その一方で、キリスト教徒がキリスト教の普及にやっきになっていたために改宗しないヒュパティアを目の敵にしたというのではないかという推測だったと思います。ウィキでもヒュパティアは主知主義的な傾向で理知的であったために、「不条理ゆえに我信ず」的なキリスト教徒にはヒュパティアの言動は教義に反するなど頭に来たのかもしれません。まあ、映画では、たぶん、また違った描かれ方をしていると思いますし、私の記憶違いもあるかもしれませんので、正確なところは各自で文献で調べて下さい(笑)。ところで、アレクサンドリアを逃れた当時の学者たちは東方に流れたようで、後にこれによってもイスラム教の哲学化に大きく寄与したのだと思います。さらにそれがキリスト教に逆輸入されてキリスト教神学になります。今では近代哲学以前の哲学、すなわち、神学はあまり顧みられないでしょうけど、そこにはなかなか興味深い思惟が数多く残されていると思います。

5.レイチェル・ワイズについて
さて、話は変わりますが、レイチェル・ワイズについて少しだけ。レイチェル・ワイズといえば、『ハムナプトラ』がメジャーな作品かもしれません。私的に良かった作品としては、ジュード・ロウと共演した『スターリングラード』や米国の銃社会を批判した法廷劇『ニューオリンズ・トライアル』や『ナイロビの蜂』があります。『ファウンテン』も、内容は分かりにくかったですが、なかなか綺麗でした。私的なお奨めは、ちょっと微妙ですが、『スターリングラード』でしょうか。どれも面白い作品なのですが、彼女が主役として活躍して、飛び抜けて面白い作品というのが実はあまりないのではないかと思います。でも、美人だからスクリーンに出ているだけでいいです(笑)。(ところで、米国映画は『ニューオリンズ・トライアル』など銃の所持を批判したり、医療制度を批判したりする映画をたくさん作るのですが、いざ、それを法制化しようとしても、なかなかうまく実現しませんでした。今回、オバマ大統領になって、まだまだ他の先進国と比べると不十分とはいえ、医療制度がやっと改革されました。)

6.『AGORA』日本公開予定?!
さて、たくさん書きかましたが、『AGORA』日本の公開予定は、・・・あれ?
未定のようです。

2010年6月6日日曜日

知の学習形態について

今後の知の学習形態について、ちょっと考えてみようと思います。といっても、実は「こうなるんだ」という確定的な考えではなくて、「たぶん、こんな感じだけど、また違ってくるかもしれない」的な緩い想像の段階です。ちなみに、ここでいう知は、まあ、哲学的思想的な人文知です。

1.知の遍歴の寓話
たとえ話です。まず、知に興味を持った若者を仮に読者Pとします。読者Pはまず自分が興味を持った哲学に近い哲学を専門とするA先生を訪ねます。読者PはA先生の講義(講話)に2年間参加してA先生の哲学を学びます。読者PはA先生から多くを学んでA先生に感謝しているのですが、それだけでは満足できずに、今度はA先生の所で学んでいるうちに興味を持ったB先生の所に行って学びます。読者Pは今度はB先生について5年間学びます。ところで、読者PはA先生やB先生のところで学習しながらも、自分では仕事をしながら、その合間に学習していました。さて、読者Pは満足できるほど学んで学習意欲を満足したのとそろそろ仕事が忙しくなったのを理由にこれ以上の知の学習を中断します。それから10年ほどは読者Pは仕事に邁進して生活基盤を築きます。10年経った頃、読者Pは再び学習意欲に狩られます。実生活の中での経験を通して、今まで学んだ知だけでは不十分だと感じたからです。また、忙しかった仕事も一段落したので、再び学び始めることにします。読者Pは仕事に邁進した10年の間も本格的な学習はできなかったものの、A先生やB先生とは親交は結んでいたので、すぐに再び彼らのところで学習し始めます。そして、すぐにC先生の存在を知って、今度はC先生のところで学び始めます。読者PはC先生のところで3年間学び、大いに学習意欲を満たされたのでした。

そんなとき、読者Pは自分よりも若いD先生に出会って、自己紹介でこれまでの学習遍歴を話し合いました。読者PはA先生で2年、B先生で5年、C先生で3年の間、それぞれ学んだことを言いました。一方、D先生はI先生で5年、J先生で3年、K先生で3年学んだと言いました。J先生とK先生はとても高名で知られる先生でした。D先生はずっと学び続けてきた人で、先生方からも高く評価されて、若くしてそのまま自分も先生になったのでした。読者PもD先生も学んできた先生から互いの知の内容がおおよそ検討がついて、すぐに自分たちが近しい知の学習者であることが分かり、すぐに打ち解けました。そして、二人はとても仲の良い生涯の親友になりました。

2.大学の知と市井の知の違い
大学の知は専門細分化して、その狭い範囲の専門分野の中では非常に精緻に知が極められています。一方、市井の知は確かに専門分野はありますが、大学の知と比較すれば、その精緻さでは劣るかもしれません。なぜなら、大学ではその専門分野を仕事として、そればかり集中して研究できるからです。一方、市井の知はそういうわけにはいきませんから、どうしても精緻さでは劣ってしまいます。しかし、その一方で、大学の知は専門細分化してしまったために、全体的な知に対してはリアリティを欠如してしまっているかもしれません。自分の専門分野だけで全体を把握しようとするからです。自分の専門分野だけで世界を説明しようとしてもちょっと無理があるからです。あるいは、自分の専門分野以外の専門分野には、また、別の専門家がいて、そこでは自分の専門分野だけでは通用しないのが分かっているからです。そのため、専門分野の外へ出ようとしなくなります。タコツボ化の弊害のひとつです。それに対して市井の知はトータリティを重視します。もちろん、専門分野も重視しますが、それだけではなくて、全体として役立てられる知であるように考えます。市井の知において、誰に学んだかが重要になります。専門分野は大切ですが、専門もその人の解釈によって様々な見解が生まれます。ですが、誰に学んだかが分かれば、その固有性が明確になり、解釈の方向性やその人の知の全体性がつかめるからです。先程のたとえ話で、誰に学んだかの知の系譜が重要なのはこのためです。それから、先生というのは知の技術者であると同時に人格者でなくてはならないと思います。その先生がどのような知の技術を持っているかは、その人に就いて学ばなければ分からないかもしれません。しかし、先生が人格者かどうかは、単に人付き合いの中から察することができます。人にものを教えるという先生というのは技術も大切ですが、それ以外に人格も大切だと思います。極端なことを言えば、技術は大したものでなくても、人格が良ければ、その先生に学んで良かったと考えられるかもしれませんから。ともかく、大学の知はアカデミズムというツリー状に階層化された知の体系の中に専門分野というタコツボの中に位置づけられてしまいますが、市井の知はリゾーム状のネットワーク的な知の体系の中に先生というノードに位置づけられると思います。学習者はそのネットワークを知を求めて点々と移動してゆくのではないでしょうか。

3.何をもって満足するのか?
実はこの知のネットワーク構造は武術の世界に似ているところがあります。武術も各流派に分かれて、先生が道場主になっており、先生も若い頃に別の先生に学んで先生になったりしています。ところで、武術の先生は何をもって先生として認められるのかというと武勇伝にその根拠を求めたりします。まあ、他流試合で勝ったとかなんとかです。強いことと試合に勝つことは似ていますが、微妙に違いもあります。宮本武蔵の武者修行は強くなるための修行というよりは、自分が一番強んいんだということを示すためにあちこちで試合する旅になっています。強くなるための修行と試合に勝って強いことを示すことは違いますよね。知の探求も人から認められることや自分が先生になることが目的ではないと思います。目に見えないけれど自分の知的好奇心を満足させる知を得ることが知の探求の目的のひとつではないでしょうか。何をもって自分を満足させるかは、他人ではなく、あくまで自分自身の中にあると思います。

4.人文知の行方
大学から人文知が限りなく減らされています。でも、それは仕方ないことです。大学には税金が使われています。私学も補助金という形で税金がいくらかは使われています。社会にとって役立つ人材を養成するためだから大学に税金が使われるのです。人文知は直接的には社会に役立ちません。人文知は社会に直接役立つ専門知識ではないからです。ですので、税金に余裕があればそんな人文知に税金を使っても良いかもしれませんが、余裕がないなら、やはり、社会に有用な専門知識の学習のために税金は使うべきです。それに人文知の学習インフラはこれまでの大学での知の蓄積とネットの発達によって、どんどん手に入れやすくなっています。ウィキペディアやグーグルブックスやウィキブックスが充実すれば、著作権の切れた古典的なテキストは無料でネットで読むことができるようになります。最低限、自己学習できる環境は整います。まあ、確かに直接、先生に就いて学習するのが良いのですが、大学という枠でなくても、それは市井の知でやれなくはないと思います。なので、知は社会に直接役立たなくても、純粋に知的好奇心を満たすためだけでも良いと思います。もちろん、可能であればなにか社会に直接役立つ人文知であっても構いませんが、社会に直接役立つことを無理に目指す必要はないと思います。人間のいくつかの欲求の中のひとつである知的好奇心を満たすためだけでも良いと思います。大学には大した学習意欲もなくて単に資格を取るためだけ来る人たちもいます。ですが、市井の知には、真に学びたい人たちだけが来れば良いと思います。こう書くと堅苦しく聞こえるかもしれませんが、実際は学ぶ意欲があれば、その内実は楽しい知になると思います。大学のように学習意欲のない者を客寄せするために無理にレジャーランドにする必要はないのです。市井の知は金儲けが一番の目的ではなく、真に知を求める者たちだけが集えば良いと思います。もし、その知に満足しなければ、黙ってその先生の元を去り、別の先生のところへ学びに行けば良いのですし、また、いつまでもその先生のところに居てもいいし、ある程度、その先生で満足すれば去って行ってもいいと思います。あくまで自己の知の完成が第一の目的であって、お金や権威が目的ではないと思います。

5.その他いろいろ
知の学習において、書物による学習も大事ですが、フェイストゥフェイスの学習も大事だと思います。学校教育では、悪く言えば、権威によって上位の先生から下位の生徒へ押しつけるところがあります。例えば、教科書の読書体験と通常の個人的な読書体験の違いに表れています。教科書は絶対正しい的な押し付けがありますが、通常の読書では著者と読者の対等な対話で読者は著者に対して真理を探求する者の心として懐疑を抱くことができます。個人的な読書体験ではそういう著者と読者の対等関係を築けます。ところが、学校教育では懐疑を差し挟む余地がなく、上から下への押し付けが多くなってしまうと思います。さて、知の学習はそういった学校教育と比べると実はそれほど輪郭が明確ではありません。学校教育では先程書いたように上から下への押し付けである一方で、これは正しいとこれは間違っているなどの輪郭が明確です。ですが、知は実はそう単純には、あるいは、そう荒くは輪郭を明確にできないところがあります。そうなると、学校教育のようなスタイルでは真に知の学習を伝達することが難しくなります。そういう輪郭の明確でない微妙な知の伝達にはどうしても生徒や先生の様子やニュアンスをうかがえるフェイストゥフェイスが重要になってくると思います。なので、市井の知のフェイストゥフェイスで学べる学びの場が大切になってくると思います。それと先生はやはりある程度の期間教えられる専門分野が必要だと思います。それが範囲が広く深いほど優れた先生ということになるのかもしれません。まあ、あくまで、ひとつの尺度に過ぎませんが。ところで、最近はYouTubeで映像を見られるので講義を見ることもできますし、驚いたのはインド人がスカイプのTV電話を使ってインドに居ながら、アメリカの子供の家庭教師をしているのもありました。まあ、アメリカ人の子供の礼儀作法がなっていないのを嘆いていましたが(笑)。他にもネットに教材を用意するなど、ともかく、ネットを使った教育がどんどん浸透しているようです。中途半端になってしまいましたが、ちょっと今回はいったんここで筆を置きます。

2010年6月5日土曜日

管新首相誕生について

1.民主党代表選について
菅直人が新首相に決まった。国会での首班指名の前の民主党代表選挙で、菅が291票に対して樽床が129票と、対抗馬の樽床氏が予想外の善戦だった。どうも樽床の票は小沢グループの票らしい。どうやら小沢はまだ政界を引退しないらしい。だが、彼には後継者はいるのだろうか?小沢の政治的な目的も二大政党が達成されたのでほぼ果たされたのではないだろうか?あるいは、さらなる目標として日本の国防について変えたいのだろうか?ともかく、民主党内が反小沢と小沢グループで分裂しているかのようなマスコミの誘導があるが、政権与党になればある程度派閥に分かれるのは自然な流れだろう。

2.民主主義として必要な手続き
ただ、代表選挙は茶番であるのを嘲笑する向きもあるが、民主主義の手続きとして必要なものだ私はと思う。ただ、意外な無名の対抗馬・樽床の善戦には別の意味があったと思う。とはいえ、小沢も二大政党制を最優先するだろうから、自由党の頃のように党を割ることはないと思う。だが、少数政党が増えているのでつけ入られる隙がないとは言い切れないとは思う。

3.公明党の不気味
それにしても、首班指名で公明党の議席数が多いのには改めて驚いた。大手新聞社の広告にも出ているし、その社会的影響力の大きさにやや引いてしまう。幸福実現党もその巨大さにある意味で焦りがあるのかもしれない。いずれにしても、宗教が政治に口出しするのは好ましくない。もう今の時代は政治は信仰ではなく理性で考えるべきだ。宗教を否定するつもりはないが、宗教は団体ではなく、個人の救済であるべきではないだろうか。

4.菅直人の弱点
さて、菅直人といえば、「未納三兄弟」が思い出される(笑)。その後の四国遍路での坊主頭は意外な一面を見た思いがある。政治家としてはちょっと変わった発想だと思う。60年代的な何かヒッピー的なものを漂わせているのかもしれない。ともかく、例の「未納三兄弟」の発言にあったように失言のリスクがこの人にはある。ただ、それは管自身も分かっているようで、記者会見での発言はずいぶん慎重になっていた。また、イラ管と言われるように短気な一面もあって、短気を起こさないようにも注意していた。今までのような失敗は許されない。総理となったからには発言は慎重にならねばならない。まあ、当然のことだろう。

5.民主党のリスク
ただ、民主党にとって最も注意しなければならないのは、管政権が短期で終わってしまうことだ。もし、短命政権で終わってしまうと民主党の政権担当能力が国民に問われることになる。そのときは民主党に代わって自民党による政権交代になる可能性がある。逆にいうと、管政権時代に組閣を二度はするつもりで長期に政権運営しなければ国民の信用は得られないだろう。民主党としても組閣が二回あれば、閣僚に抜擢されるチャンスも高くなるわけだから、挙党一致で協力しやすくなるのではないだろうか。

6.管新政権の課題
そして、管政権の最大課題は何よりも経済政策だろう。国家予算の縮小と増税。それをソフトランディングするにはインフレにすることだろう。小泉政権の時の竹中平蔵のように、誰を経済政策の担当にするかだが・・・。また、増税や予算削減は国民の不満が高まる。その反発を外らすために敵が必要になる。経団連などの大企業や霞ヶ関の官僚が”敵”として標的にされるかもしれない。管には薬害エイズで見せた官僚を切り崩した厚生大臣時代の実績がある。だが、それでも日本の財政危機を乗り越えるのは至難の技だろう。国民の理解はなかなか得られないだろう。だが、税収の落ち込みは尋常ではない。今までのような規模の国家予算を続けるのはいくらなんでも無理がある。そんなことを続ければ、ギリシャの財政危機以上の、日本の経済破綻が待っているだろう。もはや日本は経済大国ではない。日本は変わらなければならない。

7.民主党内の不安要素
また、民主党内にも不安はある。小沢グループの動向だ。ただ、先にも触れたが二大政党を崩すことはないだろう。ただ、党内での権力争いは新人の育成にもなるだろう。そうなれば、かつての自民党のような層の厚みが民主党にも出てくることだろう。老兵もそう簡単に新人に席を譲ってやることもあるまい。

8.社民党の暗い将来
ところで、社民党は普天間を強調していた。だが、選挙対策だろうが、野党では意味がない。普天間が踏み絵になっては社民党の将来は暗い。社民党は沖縄県民とよく話し合って連立に参加する道を開くべきだと思う。共産党のような道を歩んでも、票は共産党に流れるし、党員も離れてゆくだろう。

9.野党の反応
それにしても、管新総理を批判する野党の舌鋒がぬるい。彼らは自分たちの主張がないのだろうか?それとも、最初ということで批判を控えているのだろうか?古い政治家は習慣的に批判がましく言っている者も中にはいたが、批判の内容が貧弱だった。そう考えれば、鳩山退陣のタイミングは良かったのかもしれない。「なぜ、この時期に辞任するのか?」と鳩山辞任の理由がいまひとつ分からなかったが、結果論だが、これで良かったのかもしれないとも思える。だが、やはり、総理大臣がこの程度の批判に耐えられず、辞任するのは政治の脆弱さとして問題だと思う。確かに普天間問題は大きな問題で決して無視できない問題ではあるが、だからといって、県外移設できなかった責任を辞任するまで責める意識は国民には無かったと思う。「移設先をどうするか、米軍基地をどうするか?」は国民にとっても、どう対処すれば良いか名案は無かったのだから。だから、やはり、鳩山辞任は鳩山個人の資質によるところが大きく、この時期の辞任は責任感の薄さや粘りの弱さであって、政治家の資質として脆弱に過ぎると思う。

10.沖縄の今後
きっこのブログを読んだ。沖縄への思いと社民党への期待が書かれていた。気持ちは分からなくはないが、罷免されても政権離脱までする必要はなかったのではないか?社民党の課題は沖縄だけではないだろう。閣僚として罷免されても政権に関わる道を取るのが、ひいては沖縄のためにもなったのではないか?米軍基地の問題は米国を相手に戦わなければならない。そのためには日米安保を見直さねばならない。それは簡単には行かない。米国との長期の交渉が必要だ。米国にとって沖縄はアジアへの戦略拠点であって、日本の安全保障などではない。当たり前だが、日本は自分で自分を守る専守防衛を当然とすべきだ。管が記者会見で沖縄の米軍基地について、「ある意味で腰を据えて取り組まねばならない」というのは、日米安保の見直し、もしくは、破棄へ向けての長期的な取り組みを考えているのではないかと思う。日本の財政難で費用負担をできないので基地を日本に返せと言えばいい(笑)。嫌なら費用負担しろと。日本を囲む軍事的情勢は決して良いものではない。中国は世界第二位の軍事費を持っているし、ロシアはかつての超大国で軍事大国だ。また、北朝鮮という乱暴で何をするか分からない国がすぐ近くにある。拉致など普通なら考えられないことで、狂気の沙汰だ。が、だからといって米国に頼るもの違うだろう。自分の国は自分で守ると考えるべきではないだろうか。誰かに頼るなどというのは何か違うのではないかと思う。それに、そもそも日本は島国で海上での小競り合いはあっても、陸続きでの陸上での国境争いはないのだから、他国と比べれば安全な方だろう。同じ島国のアイスランドも軍隊を持っていない。沖縄に対して時間はかかるけれども、いつかは米軍基地を無くすという道筋を見せるべきだと思う。永久に沖縄に基地を置き続けるというのではあまりにも沖縄の負担が大き過ぎる。そのためにも交渉のテーブルに米国をつけるべきだと思う。

11.まとめ
いずれにしろ、管新政権の課題は日本経済だと思う。財政再建と経済回復だ。だが、これは険しい道であり、日本自身が産業構造の転換など大きく変わらなければならないと思う。

12.言論と表現の自由
イルカ漁を批判した映画「ザ・コーヴ」の上映を抗議のために中止したらしい。この対応は間違っている。表現の自由や言論の自由を守るために戦うべきだと思う。批判はしても上映そのものを禁止にするのはおかしい。上映を中止しろという団体もそうだし、迷惑がかかるからと自主的に中止する映画館も間違っている。以前、日教組の集会所のホテルを右翼団体が街宣車によって抗議活動することによってホテル側から集会を中止したことがある。このホテルの対応も間違っている。言論の自由は守られるべきだ。それを妨害する者に対しては断固として戦うべきだと思う。暴力によって言論の自由が脅かされてはならない。戦うという選択肢があることを忘れてはならない。そして、自分たちの自由が脅かされるときは戦わなければならない。戦いを回避するために自由を奪われても良いというのは間違っている。言論の自由を脅かされまいとする戦いは正義が自分たちにあるのだから、戦うのが恐くとも戦うべきだ。それを見ている社会は社会正義の側に当然味方するものだ。暴力に屈して正義を曲げて悪をはびこらせてはならない。

国家体制の多様性

1.何が一番良い国家体制だろうか?
国家体制についてちょっと触れておこうと思います。以前、ネオアカとしては、政治的立場として民主主義だという話をしました。また、全体主義には、当たり前ですが、反対の立場だとも言いました。ところで、国家体制としてはどのような体制が良いでしょうか?実はどのような国家体制が一番良いかはよく分かりません。資本主義や社会主義、あるいはイスラーム共和国などというのもあります。果たしてどの体制が良いでしょうか?

2.国民に主権があり、国民が民主的に選んだ体制
実はどの体制が良いかは、なかなか明確には言えないのではないかと思っています。ただ、根本的には、主権は人民にあり、民主的にその国家体制が選択されたものであるべきだと思います。つまり、資本主義であっても社会主義であってもイスラーム体制であっても国民に主権があり、国民が民主的に選んだ体制であれば、それが国家体制になって然るべきだと思います。ただし、問題もあります。ナチスドイツです。ナチスドイツは実は民主的に選ばれた国家体制でした。ですので、この考え方にもまったく問題がないわけではありません。ですが、おおむね、国家体制は主権者たる国民が選んだものであるべきだと思います。まあ、なかなか理想と現実の違いがあって、そう簡単に杓子定規には行きませんが。現在の日本では資本主義社会が絶対的なまでに是とされていますが、開発経済学では発展途上にある段階の国では資本主義は上手く機能しなかったという報告もあり、一概にすべてのケースでこれが正しいという体制はないのかもしれません。その時、その場所にあった体制に可塑的に変形するものだと考えた方がいいのかもしれません。とはいえ、やはり、現時点では民主主義の資本主義社会が今は良いように思います。まあ、経済が暗転すれば、また見方も変わるかもしれませんが。とはいえ、もし、社会主義やイスラーム体制の国に生まれたら、さぞや嫌だったかもしれないとも思います。

3.移民という出口
当然、どのような体制であっても、不満を持つ人たちはいると思います。ですが、極端に言うと、たとえ民主的に決めても、多数決で少数派の意見は受け入れてもらえないかもしれません。では、どうすれば良いでしょうか?コストなど問題は多々ありますが、最終手段としては、その国を去って別の国に移住するという移民という方法があると思います。もちろん、そうならないように、よく話し合って全員がある程度満足できるように全員が多少の妥協することによって、国を捨てることなく誰もが住みよい社会にするのが民主主義社会だとは思います。しかし、それでも、どんなに最善を尽くしても、やはり、移民する者が出てくると思います。その意味では、最低限、移民という扉は開けておくべきだと思います。

ただし、一方で、移民は高いリスクもあります。その人が高い技術力や豊かな資産を持っていれば別ですが、移民先での苦しい生活環境があります。まあ、移民先の社会に今まで税金を収めていないという社会的義務を果たしていないために、一般の国民とは違って生活を保障される権利もないという見方もあるかもしれません。移民労働者の劣悪な労働環境はしばしば問題になったりしますし、逆に移民に仕事を奪われた自国民の反発もあります。最近の米国では、アリゾナ州では不法移民は収監されて囚人として働かさせられてしまいます。ですから、移民にも問題は多々あってリスクが高いと思います。

4.移民の自由とリスク
ですが、基本的には、人間には移動の自由を与えられるべきだと思います。移民の自由を引き換えにリスクはありますが、それでも嫌な国家体制の中に閉じ込められるよりはマシかもしれません。福島亮大が『神話が考える』の中で民主主義の資本主義社会が唯一の国家体制のように書いてありましたが、必ずしも絶対的にそうだというわけではないと思います。国家もまた生物と同じように多様な体制が可能であり、一概にどの体制が良いとは言い切れないのではないかと思います。むしろ、国民が自国の主権者で民主的に体制を選択できる権利がある一方で、人々が自由に国家間を移動できる、つまり、移民の自由を与えられるべきだと思います。

現代思想の今後について

1.構造主義から分析哲学まで
現代思想の今後について少し考えてみようと思います。現代思想といっても、既に現代ではなく、過去のものです。フランスで展開した構造主義も、また、その後に展開を期待されたポスト構造主義も今はもう過去のものになってしまった感があります。これら一連の構造主義を大陸哲学とすると、英米系の分析哲学がその後を引き継いだと考えるのかもしれません。ですが、確かにそれら分析哲学は停滞した現代思想の中で目立った活躍ではありますが、かつての構造主義に比べれば、それほど大きな展開になっていないと私には感じられます。大きな展開になっていないからといって、それらを軽視してよいわけでもありませんし、実際、考える材料を提供してくれているとは思います。ですが、極端なことを言えば、全体を俯瞰する構造主義と比べれば、分析哲学は個別の行動原理を模索するもので、構造主義とは違った思考形態であり、構造主義が哲学であるのに対して、分析哲学は実践(行動やプラグマティズム)ではないかと思います。(これはレヴィ=ストロースの構造主義とサルトルの実存主義の対立と、ある意味、似ているのではないかと思えます。)

2.近代哲学の敗北
ここで、もっと遡って哲学についても振り返ってみます。極端に言えば、中世の西洋では哲学でなく神学だったと思います。それが近代になって「神が死んだ」(ニーチェ)ことによって神が出てこない近代哲学になりますが、「神は死んだ。だが、困った」(サルトル)と言われたように神抜きの哲学をうまくは構築できませんでした。なぜなら、乱暴に言えば、ハイデガーの『存在と時間』が存在論を批判したものの、それに代わる存在論をハイデガーは構築できませんでしたから。まあ、サルトルがユニークな実存主義を掲げたのですが、哲学的にはレヴィ=ストロースの構造主義にあっけなく退けられてしまいました。(ただし、だからといって実存主義に価値や意味がないというわけではありません。)結局、デリダが「哲学はすでに死んでいる」と言ったように哲学は存在(つまり、あらゆるもの全て)の哲学的な構築に失敗しています。(これは無矛盾の形式化に失敗した数学に似ています。)そういうわけで、実は私たちは自分でもうまく説明できないよく分からない世界に存在しているのです。この謎については宇宙や生命の物理的な解明を待つしかないと思いますが、それでもすべてを完全に解明するのはちょっと難しいのではないでしょうか。(SF作家のイーガンはそのことを強く意識していると思います。)

3.現代思想の可能性
さて、そういうわけで存在の哲学的な探求は困難だと考えられます。大きな枠組としては哲学は既に終わっている感があります。もちろん、様々な存在の可能性を考えるのは楽しく、それらは今後も続けられると思いますが、しかし、それはあくまで可能性にとどまるでしょう。あるいは、哲学の敗北を覆す天才が現れる可能性もあるかもしれませんが、さて、どうでしょう。ともかく、繰り返しますが、哲学は大枠としては終わっています。では、現代思想という小さな枠組みの中ではその可能性はどうでしょうか?現代思想を哲学的な分析のツールと見立てたとき、その展開の可能性はすべて出尽くしているでしょうか?私の個人的な見方ですが、構造を俯瞰透視する構造主義と記号の生成消滅のダイナミズムを捉えようとする記号論(特に記号の生成過程を分析しようと努めたクリステヴァの記号論)が大きな分析ツールとしてはあったと思います。人によってはクリステヴァはソーカル事件で否定されてしまった感がありますが、まあ、安易に数学を導入したクリステヴァにも問題はあったかもしれませんが、彼女の業績をすべて否定してしまうのは間違っていると思います。乱暴に言えば、構造主義をマクロな視点とすれば、彼女の記号論はミクロな視点の導入であり、2つは相補的な関係にあったと思います。(彼女は後に根拠を求めてラカンの精神分析に向かっていきます。)というわけで、現代思想は構造主義と記号論という2つの大きな分析ツールがあると見立てることができると思います。

4.可能性への個人的な見解
それでは現代思想の分析ツールとしては、この2つがすべてでしょうか?いえ、実は私はもう1つ可能性があるのではないかと思っています。それは何かと言うと、連載コラム『ヴィトカツィの時代』で示唆した形態学です。私の考える形態学は、構造主義と記号論でいえば、どちらかというとスケール的にはミクロの世界を扱う記号論に近いものです。ただし、クリステヴァが精神分析学へ向かったのとは反対の方向に向かうものだと考えています。言い換えると、形態学はフロイトに向かうのではなくユングに向かうものだと考えています。形態学がどのようなものかは連載コラムの中で詳述しようと思います。ただ少しだけ触れると、形態学はパターンを生む可能性があります。ここでいうパターンとはコンピュータのプログラミングでいうところのデザインパターンを意味しています。デザインパターンとは乱暴に言えば動的組織のプログラミングによる構造化です。昨今ではアーキテクチャと言えるかもしれません。ともかく、まあ、そういった様々あるパターンのカタログを作成する方向に向かうかもしれません。ただ、それはすでにデザインパターンとして具現化されているし、哲学的には構造分析と大した違いはないと言えるかもしれません。形態学では、そういったパターンを抽出するのではなく、精神の抽象レベルへのサイコダイビングみたいな探求になるのではないかと思っています。

5.哲学の個別化
さて、私の個人的な見解の正否はともかく、言語化可能な哲学の展開としては一般的に理解できるレベルでは出尽くしていると思います。一般的に理解できるレベルを超えるとなると、それは個別的な理解に進まざるを得ないと思います。つまり、それは師から弟子への言葉を超えた以心伝心で伝わるレベルということです。哲学の一般的な理解は、まあ期待されたものかどうかは別として、ある程度達成されたのですが、それを一歩踏み越えて深く理解しようとなると、それはもう言葉を超えたレベルでの伝承的な理解になると思います。まあ、ずいぶん、乱暴な話ではあるのですが、実は歴史的にはそういうのは過去にもありました。中世哲学の頃、イスラーム世界では学者とされる師から弟子へとその哲学が継承されたというのがあります。現代哲学も、ただし中世哲学とは違って神を除いた哲学的展開になるとは思いますが、同じような師資相承の形態を取るのではないかと思います。

6.個別の思想展開とネットワーク形成による環境整備
さて、以上を整理すると、哲学や現代思想のアカデミックな展開は終わっており、現代思想から新たに大きな潮流が出てくることはないと思います。今後はそれぞれの哲学者が自分たちの哲学を個別に個人的に展開してゆくしかないと思います。付け加えると、大学は狭い意味で社会に役立つ有用な技術を養成する機関になるので、哲学の居場所は大学では限りなく少なくなるでしょう。哲学は大学に代わって哲学を求める人たちのために市井(市場)に活躍の場を移すと思います。市場での哲学の展開は様々な方法が模索されると思います。東浩紀のやり方もその1つでしょう。(哲学とはちょっと毛色が違うが小谷野敦も同様だと思います。)ネオアカはネオアカで独自の展開をしようと思いますが、ネオアカで一括りにする必要はなくて、個人が各自で自分の好きなように自分に合ったやり方で展開すればいいと思います。以上で述べたように、全体としては個人個人が知の拠点となっていけばよく、互いが反目しあうのではなく、互いにネットワークを形成することによって、知を探求したいと考えている人たちに知を探求しやすい環境を提供することだと思います。個人が個別の思想展開をするとどうしても自己の正当性を主張するあまり、閉鎖的になったり独善的になったりするかもしれませんが、知を探求したい人たちに学びやすい環境を提供するためには、知の拠点が内側に閉鎖的に閉じこもってしまうのではなく、各自の知の拠点を開放的にして、知を学ぶ人たちが知を求めて様々な知の拠点を移動できるようにネットワーク化した方が良いと思います。(もちろん、ネットワーク化して知の拠点同士が互いに友好関係を結ぶと同時に、その逆に矛盾するようですが、知の活性化を図るために互いに批判的であるべきだとは思います。)