2020年6月28日日曜日

日本を変革する(3)地方分権とネットワーク

日本を変革するシリーズの第3弾。前々回は家族を変革し、前回は企業を変革するだった。今回は地方分権とネットワークがテーマとなる。

(1)中央集権から地方分権へ

1990年代半ばあたりから言われていることだが、国を中央集権から地方分権に変える。集中型から分散型に変えることだ。ずっと言われてきたように道州制の導入だ。税の配分を中央に集中させるのではなく、地方に分散する。そして、分散するのは、お金だけではない。政治もエネルギーも食料も地方に分散する。

ただし、分散型システムは中央集権型システムよりは非効率ではある。中央ではなく、地方が意思決定していかなくてはならない。地方議会が意思決定して差配していかなくてはならない。ふざけた地方議会ではすぐに立ちいかなくなるし、不正が横行することもあるだろう。質の高い人材が地方で求められる。そういった人材をスカウトするか、地方で育てていかなければならない。

今までは良くも悪くも中央に任せていれば良かった。責任も中央にあった。しかし、これからは自分たち自身に責任がある。豊かになるのも、落ちぶれるのも自分たち次第だ。今までは国が集めたお金を地方にばら撒いていた。しかし、これからはそうではない。自分たちで集め、自分たちで配分していくべきだ。

これまでは中央から地方へトップダウンのツリー構造だった。これからは地方ごとにトップをおく分散型のツリー構造にする。簡単に言えば、英米の連邦制のようなものだ。


(2)ネットワークを育てる

経済的な豊かさを向上させるには市場原理に則って競争しなければならない。しかし、市場は万能ではない。市場原理に則れば、すべてが良くなり、満足な暮らしが手に入るというわけではない。地方分権では、市場ではなく、社会を育てなければならない。社会を育てるのは行政のようなツリー構造のものではない。様々なコミュニティや拠点が横断的に繋がるネットワークが適している。具体的には、大学であったり、NPOであったり、宗教法人だったりする。もちろん、小さな自治体が拠点になることもあるだろうし、文化施設のもたらす一時的なコミュニティが拠点にあることもあるだろう。いずれにしても、多様なコミュニティや拠点がゆるやかに繋がるネットワークが地方分権には適している。地方行政や地方議会がツリーだとするならば、様々なコミュニティがネットワークだ。そういったネットワークを増やしていくことだ。

そして、忘れてはならないのが、チェック機能や情報発信機能を担うジャーナリズムだ。権力が不正を働かないように常にチェックしなければならないし、地域の埋もれやすい情報をしっかりと発信するのもジャーナリズムの役割だ。民主主義社会を機能させ、より良く改善していくサイクルはPDCAと同じで、そこでチェック機能を果たすジャーナリズムの存在が欠かせないのだ。

(3)時間が必要だ。

さて、上記を実現するために日本にとって一番何が必要かというと、それは時間だ。日本人は兎角、枝葉末節にこだわる。些末なことに高い完成度を求める。そのため、多くの時間を失ってきた。会社人間と言われたように、日本人は会社が人生そのものだった。会社が日本人の多くの時間を奪ってきた。しかし、これからは違う。会社は人生の一部でしかない。会社のために使う時間はキッチリと限定すべきだ。そして、自由にできる時間を作ることで、その時間を会社以外のことに使うべきだ。つまり、社会を育てる時間に充てるのだ。

また、会社勤めをしていない若者や主婦はテレビを見ないことだと思う。共通の話題としてテレビ番組の話題を取り上げることが多い。(特にバラエティ。)しかし、マスを意識した日本のテレビ番組はあまりに幼稚で低俗すぎる。昨今のテレビ離れは良いことで、もっと時間を有意義なものに使うべきだ。

まとめ

今までは国がトップのツリー構造で、会社も産業のツリー構造の一部だった。日本は全体的にツリー構造だった。しかし今後は、まず中央集権から地方分権に変える。次に様々なネットワークを育てるのだ。つまり、日本をツリー構造から地方分権と多様なネットワークに変えるのだ。しかし、そのためには、可処分時間が必要だ。そこで重要になってくるのが残業を減らすこととテレビを見ないことだ。

余談
余談になるが、『21世紀の生存戦略』で私は人間知について書いたが、自分自身を知るためにまず最初にすることは、自分のログを残すということだ。自分自身の観察記録を残すのだ。そして、自分の傾向をデータ的に知ることで、次はこうしたらいいとか改善策を考えられる。そしてそれを試してみて上手く行かなかったら、また別の方法を考える。この繰り返しだ。つまり、PDCAサイクルだ。これは自分自身を知るためだけでなく、ビッグデータや科学的実験など幅広く応用されると思う。ハラリのいうデータ主義も要はログを残すことに等しい。なので、まず最初の一歩はログを残すことだ。すべてはそこから始まると言っても過言ではない。


2020年6月20日土曜日

日本を変革する(2)市場を真っ当にする

前回は日本を変革するためには家族を変えなければいけないと提言した。子供中心の家庭から夫婦中心の家庭に変えること、夫婦のセックスを家庭で行われる当たり前のこととして夫婦のプライベートな寝室をセッティングすることを提案した。また、親子関係において人権を導入して個人の自由意思や選択の自由を尊重することを提案した。親といえども子供を尊重してズケズケと立ち入らないような距離感をしっかりとることを提案した。というわけで、前回は家族がテーマだった。で、今回はガラリと変わって、企業がテーマとなる。

(1)大企業と個人商店の二極化へ
大企業に求められるのは効率だ。大量生産することによって単価を著しく下げることができる。しかし、それでは市場の需要すべてに応えることはできない。しかし、大企業が需要のすべてに応える必要はない。8割の需要に応えられればよい。残りの2割は他のより小さな企業、個人商店に任せればよい。小さな企業は効率は悪いが細かい要望には応えられる。しかし、多くの需要に応えられるだけのキャパシティはない。だが、元々、2割が最大限なのでそれで問題はない。大企業と個人商店はこのような相補関係にある。

「ちょっと待って!その個人商店というのは中小企業に相当するのではないか」という声が聞こえてくるかもしれない。ところがそうではない。日本の中小企業は新規参入を規制によって阻むことで、生産性が低くても、また細かな専門性がなくても生き残っていけるようになっている。市場の競争原理が働かないからだ。結局、その犠牲になっているのは消費者だ。消費者は中小企業の不満足な商品やサービスでも他に選択肢がないのでそれで我慢しなければならないからだ。ちなみに中小企業の従業員も犠牲者だ。大企業ならもっと合理化されて負担の少ない労働条件であるはずなのに、小さいがために一人当たりにかかる負担は大きくなってしまう。結局、儲かっているのは中小企業の経営者だ。規制によって競争がないので経営者としても手腕を問われないし鍛えられない。安い労働力を使役して儲けを出している。こんな不公正なことはない。

現在、ITや3Dプリンタなど技術革新によって個人の技術者や職人で扱える機械が増えてきている。そして、専門性は個人や小さなチームでこそ洗練・深化されてゆくものだ。すなわち、個人商店であっても十分に市場で通用するだけの環境が整いつつある。物量面では大企業に敵わないかもしれないが、少量であれば中小企業に負けないだけの力がある。そもそも不満足な商品やサービスしか提供できない中小企業がのさばれば、社会が進歩するはずがない。あぐらをかいたツケは、結局、社会にまわってくるのだ。それに比べて、個人が専門性を追求してそれで生業が成り立つならば、それは生き生きとした社会になる。みんな、組織に縛られて不自由に生きるよりは、個人が自由に生きられる方を望む。たしかに個人商店は風が吹けばすぐに倒れる不安定なものに見える。しかし、ネットワーク化されれば、あるいはブロックチェーンによってあたかも一つの組織であるかのように疑似組織化されれば、それほど不安定なものにはならないだろう。むしろ、かなり柔軟な対応が可能になり、変化に即応しやすくなる。大型戦艦の時代から空母というプラットフォームから発進した多数の戦闘機の時代に変わったように。

まとめると、不公正な規制で守られた中小企業を解体して、それらの人々を、大企業もしくは個人商店に収斂させてゆくのだ。


(2)市場を真っ当なものにする

かつて工業国だった日本の産業構造は垂直統合型だった。大企業の系列によって下請け、孫請と工場はツリー構造を成していた。しかし、最初は海外に工場が移転して次第に国内工場は骨抜きになり、しまいにはボロボロになってしまった。そして、いつしか本体である大企業までも外国企業に買収される始末となった。アップルのように技術とデザインだけ残して生産は中国で行うというようなファブレス化して大きな利益を出しながら生き残る企業もあるが、日本の企業には真似できなかった。なぜ真似できなかったのか?まず、デザインに関してはセンスが無かった。なぜそうなったかはデザインを軽視してきたからに他ならない。日本人は機能重視でデザインを軽視する傾向が強い。生活を生き生きとしたものにするためにデザインは重要なんだが、日本人の生活は全然生き生きしていない。次に技術を継承できなかった。なぜか?本質を見極める目、戦略を立てる目が無かった。じゃあ、何をしていたか?日本人は組織の中で席次争いをしていた。周りの空気を読んでできるだけ美味しい想いができるように雰囲気で意思決定していた。そんなことだから、高度な技術を究めてゆくなんてことはできなかったのだ。それから、もう一つ。失敗を容認できなかった。市場は試行錯誤と失敗の繰り返しだ。その中から成功がほんの僅か生まれる。ところが、日本人は少しの失敗を許さない。一度失敗したら落伍者の烙印が押される。今回は失敗したが、また次があるとはなかなかならない。これは市場原理に反する。しかし、それが日本ではまかり通る。これでは少しも良くならないし、いずれ競争に負ける。さらに、上記でも指摘したように規制によって公正な競争が阻まれている。これでは市場原理が真っ当に働かない。

戦後、高度経済成長を経験したときに投げかけられた疑問は「本当に市場経済で良いのか?市場経済では格差が拡大して貧富の差がさらに広がるのではないか?本当は資本主義ではなく社会主義の方が持続可能な経済体制なのではないか?」といった疑問だった。しかし、実際の日本の市場は公正な市場ではなく、規制によって制限された不公正・不公平な市場だった。右肩上がりのときはその非効率は見えにくかった。しかし、いったん下り坂になるとそれがいかに日本経済を、日本社会を歪めているかが分かる。いや、日本の中に住んでいる人には見えないのかもしれない。なぜなら不公正が日常になってしまっているからだ。

いまや日本の国家財政がボロボロであるように、日本の産業もボロボロだ。そして、その原因は日本自身にある。日本が進歩しようとしなかったからだ。なぜ、進歩できなかったかというと、市場を歪めてしまったからだ。結果、世界との競争に負けた。さらに国内では市場が歪んだままだから、格差がまだら模様に偏在することになった。

解決策は単純で、日本の市場を真っ当なものにすることだ。そして、普通にフェアに競争することだ。そうすれば、おのずと市場に合わせて日本の産業構造が変化してゆく。中小企業を守るなどといって市場を歪めて、結局は自分たちの首を絞めている。政府は個人を守りこそすれ、法人を守る必要はないのだ。市場原理によって不合理なもの(規制に守られた中小企業)は早々に退場させて、より合理的なもの(大企業と個人商店)に入れ替えるべきなのだ。日本は市場を規制で歪めるから、個人も経済も社会もダメになってしまうのだ。

まとめ
日本の企業を大企業もしくは個人商店に二分化する。言い換えれば、規制に守られた非効率な中小企業を退場させる。現代は組織に縛られない生き方を望む者が増えたはずだ。そして、個人でもやっていける環境(←ITや3Dプリンタなど)が整ってきた。

次に日本の市場から不合理な規制を無くし、フェアな競争原理が働くように市場を正すことだ。なんなら市場を監視する公的機関を設けてもよい。ただし、中小企業の経営者は既得権益を守るために政治家に働きかけたりするだろう。政治はそういったものをはねつけるだけの力が必要になる。おそらく、それはネットを介した市場の力がそういった力になると思う。なぜなら、非効率な中小企業を退場させた方が市場としては合理的でかつ利益を生むからだ。市場は万能ではないが、市場の力が正しく発動すればこのような不合理は排除できると思う。日本では、市場はまだ真価を発揮していない。

2020年6月13日土曜日

日本を変革する(1)夫婦中心の家庭へ

私はこれまで『21世紀はセックス革命の時代』、『21世紀は格差社会の時代』、『21世紀の生存戦略』の三本の記事を書いてきた。(それと万人向けではない個人的な推奨として『仏教のすすめ』も書いた。)セックス革命では人々の性が大きく変わると予想した。格差社会では格差が生じる問題と対策を論じた。生存戦略ではこれからを生き抜くための個人の生存戦略を提示した。これらは日本のみならず世界的な視野で書いた。それで、これからはしばらく日本を対象として、日本を変革するための方法を提示しようと思う。

日本を変革するためには、まず、第一に日本の家族を変革しなければならないと思う。

(1)子供中心の家庭から夫婦中心の家庭へ

日本の家庭は子供中心の家庭だと言われる。実際にそうだと私も思う。例えば、大人になれば人間には性欲があって夫婦はセックスするものだが、子供にはその事実がひたすら隠されている。つまり、夫婦が寝室に入って睡眠するだけでなくセックスしていることは隠されている。子供はセックスがいかなるものかを知らなくて、おぼろげに大人たちが何かをしていることさえも知らないし知らされない。睡眠しているだけでなく、大人たちが愛を交わしていること、愛を交わすことの必要性・重要性を教えられずにいる。これは家庭だけでなく社会にまで拡大されている。家の外で、公共の場で、社会で、恋人たちがキスしたり抱擁したりすることを隠そうとする。大人であれば、人間であれば、当然行われる行為、性欲を満たし愛を交わす行為であるはずなのに、それがあたかも悪いことでもあるかのように隠されている。社会は子供のためだけのものではない。社会は大人と子供のためのものだ。いや、積極的に言えば成人した人間のためにある。子供はまだ未熟であり、成長の途中にあるからだ。なのに、その成長の途中にある子供に合わせて日本は社会を作ってしまっている。本来ならば、基本的には成長した大人のための社会にすべきだ。

だから、家庭を子供中心の家庭から夫婦中心の家庭へ変えるのが良いと考える。そこで重要になるのが寝室だ。夫婦は寝室で寝る。子供は子供部屋で寝る。夫婦の寝室に子供は、例えば夜9時以降入ってはいけない。子供には、大人になれば夫婦は寝室で愛を交わす夜の営み、セックスがあること、それが必要なことを上手に教えなければいけない。一方、親は子供の性の開花に合わせて適切に性教育を行った方が良い。(もちろん、性教育を専門家に任せるのも選択肢としてはあると思う。)また、子供がどのような性を開花させても親は子供の応援をすべきだと思う。ただし、親子であっても、性はプライベートなことなので、親にとっても子供にとっても、とても慎重にデリケートに扱わなければいけないが・・・。

ともかく、大人になれば人間には性欲がありセックスするということを家庭に組み込み、子供にもちゃんと教えるべきだと思う。

(2)親子関係と人権の尊重と魂の孤独

もう1つは日本の家族は親子の距離の近さがある。とにかく親子の距離が近い、近すぎる。親はまるで子供を自分の所有物か、自分の一部と思っているフシがある。子供は自分と独立した人間であるのが当たり前なのに、まるでそうではないかのように近しいものとして扱う。ひとによっては親は子供の自由意思や選択の自由を頭ごなしに否定することさえある。親が「細く長く生きるライフスタイル」であるのに対して、子供は「太く短く生きるライフスタイル」を選択したいと思っているのに、親は子供に自分と同じ「細く長く生きるライフスタイル」を無理強いしたりするなんてことがざらにある。どんなライフスタイルを選択するのも子供の自由のはずなのに、だ。どうも親は子供を自分の分身とでも思っているようだ。こういったことは親が子供との距離を近いものと考えていることに原因があると思う。

私の提案としては、人権というラインを引くことが解決策だと思う。たとえ親子であっても人権をナイガシロにすることは許されない。個人の自由意思の尊重、選択の自由の尊重などだ。これは子供だけでなく親に対しても適用される。子供に人権があるように、親にも人権がある。互いの人権を尊重すべきだ。

親子の間に人権のラインを引くことをすごく他人行儀だと考えるかもしれない。しかし、私は親が子供の人権を踏みにじることの方が問題だと思う。日本人は子供の自由意思を軽んじる傾向が強い。例えば「失敗するのが目に見えているから、正しい方向に導いてやるのだ」というパターナリズムがまかり通る。しかし、私は失敗のリスクをサジェストしながら、子供に選択の自由を与えるべきだと思う。「失敗するのは良くない」と考えるのが違うと思う。失敗を経験することも大事だからだ。また、納得することも大事だからだ。ま、これは一例に過ぎない。愛はギフト、みかえりを求めずにただ与えることであって、みかえりを求めて与えるのは交換だ。親が子供を愛するならば、みかえりを求めずに与えることを学ばねばならない。親の意思を子供に押しつけるのは愛ではない。それは支配欲だ。子供は独立した人間であり自由意思を持った存在であり、親の一部ではない。支配してはならない。子供が糸の切れた凧のようにさ迷っても、それが子供の自由意思ならば子供の自由意思を尊重すべきだ。もちろん、子供が救いを求めてきたら親の愛でもってサジェストしたりサポートしたりすればいいが。

ともかく、日本人の親は子供との距離が近い人が多い。そういった親は人権というラインを引いて、子供との距離をとるべきだ。

ひとによっては親が子供の内面を傷つけるようなことを平気で言う人もいる。もっと酷くなれば毒親になる。たとえ親子であっても相手の心を傷つけるようなことを言っていいはずがない。ところが、日本人は子供の心を傷つけることに無頓着な親が多い。すべては親子関係の距離が極めて近いという認識に基づいている。しかし、これは間違った認識だ。実際は人間の魂は孤独なものだ。それぞれの魂は繋がってはいない。繋がっていないものが近づきすぎればそこに衝突や摩擦が生じるのは当たり前の話だ。日本人は魂の孤独と向き合うことを恐れている。その恐怖と不安が親子の魂はつながっているという誤った認識、願望になっている。その結果、近すぎる距離は摩擦や衝突を起こす。


まとめ
日本を変革するためには、まず、日本の家庭を子供中心から夫婦中心に変える。そして、家庭生活にはセックスを組み込む。具体的には夫婦だけの寝室を作る。家では落ち着いてセックスできないのでラブホテルを利用するという夫婦がいるが、家で落ち着いてセックスできる環境を作る。

ちなみに英国のコンドームメーカーが50カ国で夫婦間での年間のセックス回数をアンケート調査した結果、日本は最下位の50位で年間約45回だった。49位は年間約90回であり、1位は110回くらいだった。つまり、日本人の夫婦は世界の夫婦と比べると年間のセックス回数が約半分なのだ。日本だけ異常に回数が少ないのだ。労働時間の長さが影響もしているがそれでも日本よりも労働時間が長い国でも日本の倍以上セックスしている。家庭で夫婦が同じベッドで寝ないことも大きな要因だと思う。日本は戦後に布団で寝る文化が生まれたが、布団は基本的に一人寝用だ。一方、世界ではベッドや寝台の文化で夫婦はともに寝る。子供が入れない夫婦の寝室がないのも日本の特徴だろう。日本では親子で川の字になって寝る。夫婦のセックスは子供がいない隙きにチャチャッと済ませるなんてことになっていないだろうか?二人だけの寝室でじっくりと愛を交わすセックスなんて無くて、とにかく子供がいない隙きに性欲を処理してしまうなんてことになっていないだろうか?そもそも日本人はセックスを悪しきものと考えていないだろうか?日本人の性への理解が性悪説になっていないだろうか?日本のアダルトビデオを見ると女性を侮辱する内容が世界のポルノに比べると著しく多くないだろうか?セックスに対する基本的な理解やエロスの複雑さを日本人は理解していないのではないだろうか・・・。

次に親子関係に距離をとる。具体的には人権というラインを引く。子供の人権を尊重する。子供の自由意思や選択の自由を尊重する。子供に親の意思を無理強いしてはならない。親の孤独の埋め合わせとして子供を利用してはならない。親は自分の魂の孤独と自分自身で向き合うべきだ。

私が好きな映画に『リンカーン』があるのだが、私がこの映画が好きなのはリンカーンと夫人との喧嘩のシーンがあるからだ。いつもは夫人に優しいリンカーンが極めて大事な状況で夫人を突き放す場面があるのだ。それは魂の孤独にまつわる話で、たとえ夫婦であっても魂の孤独からは逃れられないことを知るのには格好の材料だからだ。リンカーン夫婦に夫婦愛がないわけではない。むしろ、夫婦愛があるからこそ、相手を信じているからこそ、突き放すという、これは映画を見てみない分からない極めて絶妙な場面があるのだ。夫婦は人生の同じ時間を過ごすが、親子はズレた人生の時間を過ごす。つまり、子供には子供の人生がある。日本の親子の距離はもっと離れていてしかるべきだと思う。

2020年6月6日土曜日

仏教のすすめ


1.別の生き方ー文明社会批判

私は文明社会だけが人間の唯一の生き方だと決めてしまうのはリスクが高いと思っている。人間の価値観は1つではないと思うからだ。人間は様々な価値観で自分が好きなように生きていっていい。日本国憲法でも前文で個人の幸福の追求は自由だと謳っている。それに生物は植物や動物、昆虫や細菌など様々に異なった形態で生存戦略をとっている。たとえ環境が大きく変化しても、いずれかの種が変化に対応できるだろう。生物は多様な生存戦略をとることで生物全体が絶滅するリスクは軽減している。だから、人間も文明社会だけが唯一の生き方だとは決めつけない方がいいと思う。

もちろん、文明社会も単一の文明社会とは限らない。欧米型もあれば中国型もあるだろう。イスラム型やアフリカ型、インド型や東欧型もあるかもしれない。様々な文明社会があってもいい。(とはいえ、グローバル化によって文明社会はどれも似たようなものに収斂しつつあるのだが・・・。)ただし、個人の自由でそれらを選択できればなお良い。世界人権宣言では個人の自由が謳われているが、実際にそれが世界の隅々で実践されているかは分からない。

ともかく、話を戻すと、文明社会だけが唯一の生き方だとは決めつけない方がいい。では、文明社会以外にどんな生き方があるのか?

2.仏教のすすめ

文化人類学者のレヴィストロースは未開社会にも文明社会に匹敵する人間のあり方を提示した。文明社会が絶対ではなく、未開社会という生き方もあることを示すことで文明社会を相対化した。だから、文明社会から離れて、ソローのような森の生活を選択するのもありだと思う。私自身は仏教のような生き方を推奨したい。

ここで話は随分飛ぶが、おおまかにいって、農業が興って人々が文明を築き始めたときに今日でいう宗教が生まれたと私は考えている。それ以前は狩猟採集生活でアニミズムとシャーマニズムが人々の精神生活を占めていたと思っている。ただし、アニミズムは当時の人々にも理解できた一方で、シャーマニズムは当時の人々にさえもよく分からないものとして捉えられていたと思う。シャーマニズムはシャーマンにしか分からなかった。いや、シャーマンさえもその全体像を把握しているものは少なかったのではないかと思える。おそらく、シャーマニズムは探求の途上にあったのではないかと思うのだ。それが比較的整理されたのが仏教ではないかと私は考えている。つまり、仏教はシャーマニズムの継承者ではないかと考えている。

ところで、日本では仏教は大きく誤解されていると私は思っている。日本で仏教というと「悟りを開く」ということだと多くのひとは考えると思う。「悟りを開く」ことで「心の平安を得る」というのが単純化された図式ではないかと思う。でも、それは本来の仏教とは随分違うのではないかと私は思う。人間である限り、苦悩やストレスからは完全には逃れられないと思う。

私の考える仏教は、人間には魂があって魂が身体に宿っていると考えていると思う。そして、魂が身体から離れるとき、すなわち、死ぬとき、一般人は魂が輪廻に絡め取られるのだが、修行者は魂が輪廻に刈り取られずに、魂が輪廻から解放されるようにする、いわゆる解脱するというのが、仏教の目標ではないかと思う。だから仏教では解脱するために様々な修行をする。これは他の宗教が生前の行いによって魂が天国へ行くか地獄に落ちるかに似てはいるが、仏教はそれとは大きく異なると私は考えている。いずれにしろ、仏教は、人間には魂があり、魂が輪廻から解放されることを目指すものだと思う。

3.文明と自然の往還

話がさらに脱線するが、動物は自然環境に適応するように生まれついている。一方、人間は文明を構築することで環境を大きく変えてしまった。仏教の考え方を適用すれば、現在の畜産における家畜の惨状はいずれ輪廻転生した人間たちにもはね返ってくる。そういう意味では、ヴィーガンは案外仏教的な考え方に近いとも言える。ともかく、動物が動物のままで幸福に生を全うすることを考えると、たとえ弱肉強食であっても自然環境で暮らすのが幸せではないかと思う。人間が地球全部をわがものとして文明で覆い尽くすのは誤りであり傲慢ではないかと思う。動物たちが自然に暮らせるように地球の半分くらいの土地を野生のままに残すべきではないかと思う。現在のアマゾンのように。私は南米大陸かアフリカ大陸かオーストラリア大陸か、いずれか1つの大陸を自然に戻すべきだと思っている。もちろん、その土地で生まれ育ち暮らしている人たちにとっては許しがたいことだと思えるだろうけれど・・・。

ただ、仮にそういった自然大陸を作ったとき、文明社会から離れて、そこで再び狩猟採集での暮らしをひととき選ぶ人たちも出てくると思う。もちろん、そこでの暮らしは命がけだし、実際に生命を落とす人たちも出てくると思う。しかし、それでも生の活力を求めて自然大陸での暮らしを選ぶ人たちが出てくると私は確信している。日本人は里山的な農村暮らしが自然な生き方だと思いがちだが、真に自然な生き方とは農業が興る以前の狩猟採集時代だ。真に自然な生き方は農業ではない。狩猟生活こそ自然な生き方だ。

4.まとめ

随分、支離滅裂になってしまった。言いたいことは2つだ。まず、大前提として文明社会が人間の生き方のすべてではないということ。文明社会とは別の生き方として、一つは仏教の生き方があるし、他にも自然の中で狩猟採集生活を生きる生き方がある。これら別の生き方は個人の生き方であり、個人の選択の自由だ。私は別の生き方として仏教を推奨する。

個人は文明と自然の往還が可能だと考える。もちろん、文明社会をより良きものにするために尽力することも可能だ。ただし、それは個人の生き方であって、宗教団体を作って文明の中に小さな共同体を作ることではない。文明社会をより良きものにするのは一市民としてだが、一個人の生き方としては仏教や狩人を選択もできるということだと思う。文明と自然を融合しようとしても難しく(←これまで融合しようとして人は宗教団体や思想団体、あるいは思想的な農村を作っては失敗を繰り返してきた。自然な生き方として農業にこだわる人が多いが、何度も言うが農業は決して自然な生き方ではないと思う。)、文明と自然を分離して、個人は文明と自然を往還すればいいと私は思う。

英国の哲学者にしてSF作家のオラフ・ステープルドン(1886-1950)が1930年に書いた小説『最後にして最初の人類』の中で、文明と自然との往還を描いた箇所が物語の最後の方にあります。著者の視座の遠く未来まで見通せることに脱帽です。こんな偉大な先人が、しかも1930年にいたことに驚きます。

2020年5月31日日曜日

NEWS2020.05

5月4日
緊急事態宣言延長 首相、14日をめどに解除前倒し検討
緊急事態宣言が延長されるとのこと。14日に再度検討とのこと。

5月5日
安倍首相会見「PCR検査は本気で増やそうとしている」緊急事態宣言を5月末まで延長

神保さん、頑張ってはるなあ。

5月8日(金)
国の借金、過去最大1114兆円 19年度末、赤字国債増え続ける
2019年度末時点での国の借金(国債、借入金、政府短期証券)が過去最大とのこと。あわわ。

5月9日(土)
コロナに負けない免疫力をつけるために

今回は免疫の話。たいへん勉強になった。ワクチンの具体的なイメージが少しは分かってとても良かった。ネットで見た新型コロナウイルスについての中国人医師の意見で、この新型コロナウイルスを乱破ウイルスと呼んでいて、今回、話を視聴して、やはり、ステルスや忍者などをイメージした。私の変なイメージで遊撃隊(ゲリラ戦術)を想起した。三国志の姜維が少数精鋭部隊で敵の大部隊を内部で引っかき回して撹乱するのを思い出した。それと、ウイルスによる絶滅の可能性の話も面白かった。恐竜がウイルスで絶滅した説を思い出した。巨大な恐竜vsミクロなウイルスの戦い。

それにしても数値化して考えるのが大事なんだが、日本人ってここまで不勉強になったかと思った。テレビの影響が大きい。他の先進国でももちろん不勉強なひとは大勢いるだろうけど、でも、なんか日本は際立っているように感じてならない。そもそも検索上位にくるトピックとかも、日本だけなんか幼稚なものだったりするし、なんかヤバいなって思う。変な話、ネットは基本はパソコンで見た方がいいと思う。スマホメインだとちゃんと読まないんじゃないかなあ。

岩田健太郎「よく走る人ほど風邪ひきやすい訳」
こちらも免疫の話。免疫を上げるのって実質的には難しいんだなあ。栄養ドリンクが意味無いことが分かって勉強になった。

5月14日(木)
39県の緊急事態宣言を解除へ。安倍首相が表明「感染拡大を防止できるレベルにまで抑え込むことができた」
さて、世間はどのように動くだろうか?商売をやっている人は待ちかねた解除で一斉に商売を始める傾向が強いと思う。一方、消費者は待ちかねた人々もいるだろうけど、多くは慎重な姿勢をとるひとが多いのではないか。生産者と消費者で若干意識の違いが生じると思う。感染者が出てクラスターが発生すればその地域は再び萎縮するし、そういうことがなければ徐々に日常に戻っていくと思う。ただし、有意な統計データがないので、どのように推移していくかは実際に時間が経過しないと分からない。

5月16日(土)
検察庁法の改正案はどこに問題があるのか

今回の改正案の問題点が分かりやすく解説されていて大変勉強になった。それにしても権力の腐敗に終わりはない。たとえ政権交代されても次の政権がこれらの権限を利用して悪事を働かない確証はなく、日本の行末が恐ろしい。

せやろがいおじさんによる解説もこれまでの経緯を考える上で分かりやすい。


コロナの緊急事態宣言が特定地域を除いて解除されて、さてこれからどうなるかという時期に検察庁法改正なんて、やっぱり火事場泥棒じゃないかと思う。これが日本政府のやり方か・・・。

5月18日(月)
首相、検察庁法改正案の今国会成立を断念 世論反発受け
とりあえず見送りになって良かった。しかし、広島の案件は今後どうなるのだろう?

5月21日(木)
政権急転、黒川検事長を処分 スピード辞職で幕引き図る
まさかの急な展開に驚く。仮に黒川検事長に捜査の手が入れば枕を高くして寝られない人たちが出てくる可能性がある。そのためにスピード辞職かと穿った見方をしたくなる。しかし、組織なんで第2、第3の黒川が出てこないとも限らない。というか、人事上、そうなっている可能性の方が高い。それにしもて黒川はよりによってなぜこんな時期にこの面子で麻雀なんてしたのか不思議だ。また、文春がここまで影響を与えたとなると文春も権力から睨まれることになるかもしれない。

国会(立法府)で決めた法律を内閣(行政府)が勝手に解釈変更してねじ曲げてしまったのが黒川検事長の定年延長だったのだろう。それを法の番人である司法が問題視するのは役目上当然の話(←というか内閣の解釈変更が違法であってそれは取り締まりの対象だろう)で、内閣は事後的に法律にしようとしたが多くの反対にあって断念して、そこへきて賭け麻雀が発覚してあっけなく幕切れとなったという話。ただし、今後もこの続きはありうるかもしれない点に注意がいる。

5月23日(土)
今週のマル激の最後で黒川検事長辞職に関する話を聴いていて思ったのだが、政府と検察との権力闘争の結果、黒川が身を引いた可能性もあるのかなあとも思った。というのも、先週見送りになった検察庁法改正案は人事権が内閣に握られてしまうことになり、それは検察の独立性を脅かすものであり、つまりは検察の権力を大きく削ぎ落とすものになってしまう。さすがに検察はそれを容認できない。検察OBも含めて検察庁法改正案に猛反発が起こった。黒川も出身母体である検察から裏切り者として睨まれることには不安もあるだろう。政府と検察の両方から綱引きになり、結局、自ら身を引いたという可能性も確かにあるかもしれない・・・。いずれにしても政府と検察との権力闘争という構図には違いあるまい。果たしてそこに正義や善はあったのだろうか?そもそも、そんな権力闘争に明け暮れている場合かと思う。いや、そんな古臭い権力闘争がいまだに起こるのは旧態依然の体制が残っているからだろうが。欧米の先進国からすれば、政治や社会のシステムがものすごく置いてけぼりになった状態なんじゃなかろうかと思う。でもまあ、そもそも安倍内閣が権力を自分たちに集中しようとし過ぎることが根本原因ではある。三権分立さえ破りかねない。実際、定年延長では破っているわけだし。

5月24日(日)
香港"民主の女神"アグネス・チョウさん「国家安全法は危険」中国全人代で審議
アグネスさんとか、もう香港からカナダなどの外国に逃げた方がいいと思う。とても残念だけどあまりに危険になると思う。有名人だから中国もそう簡単に手は出さないとは思うけど、組織の下部までそういった管理が行き届くとは限らない。とても残念だけどここまでが限界じゃないかと思う。生命を賭けて香港の民主社会のために頑張ってこられたとは思うけど、生命が危険にさらされるのはあまりに忍びない。

5月25日(月)
緊急事態宣言の全国解除を安倍首相が表明。「“日本モデル”わずか1カ月半でほぼ収束させることができた」
PCR検査の数が少ないので、実態がよく分からないのが心配。ただ、ウイルスは弱毒化しているのかもしれない。日本モデルと言ってしまうのはさすがにどうかと思う。これからどうなるんだろう。第2波の心配や海外からの流入の心配など心配の種は尽きない。

まとめ
月前半はコロナ一色だった。緊急事態宣言の延長、続いて比較的感染者が少ない地域から解除、そして最後には全国解除へという流れだった。私の肌感覚では人々は徐々にコロナから意識が離れている感じだが、感染者が増えた地域では再びロックダウンかもという危機感も頭の片隅にはあるという感じ。神保さんの首相への質問がとても印象的だった。不思議なのはPCR検査が増えない謎は謎のままだった。一体全体なぜなんだろう?月後半は検察庁法改正案問題だった。結局、黒川検事長の賭け麻雀であっけなく幕切れになった。この事件は政治家と検察との権力闘争の構図とも見て取れる。そして内閣が国会で定められた法解釈を勝手に閣議決定で変えてしまうという三権分立を平気で破っていることにも驚かされた。そして広島の河井案里議員の事件が今後どうなるかウォッチしなければなるまい。月の最後に、香港の民主派運動が中国の国家安全法によって終わりそうで残念な幕切れになりそう。生命の安全を願う。

事情を詳しく知らないのだが、リアリティー番組の出演者で20代前半の女子プロレスラーの木村花さんという方がSNSの誹謗中傷がもとで自殺されたらしい。ネット時代になって有名人に対する誹謗中傷が酷いことになっているらしい。ちょっとネトウヨを想起する。ネトウヨ気質とでもいうのか。ただ、実際のネトウヨは年齢層が高い人が多いので少しイメージと違うかもしれない。頭の固い偏った昭和な価値観の中の一部の人がネトウヨになりやすいのかもと思ったりもする。「あれしちゃダメ、これしちゃダメ」的な考え方をする人は古い人に多い。話がズレた。ともかく、有名人の死は日本では思いのほか大きく影響する。志村けんの場合もそうだ。日本は政治や社会に興味がある人より、芸能に興味がある人がかなり多いのだろう。検索上位ワードも世界と日本では随分傾向が違うようだし。芸能とリンクしている”世間”という日本的モノサシはヨロシクナイのでは?”世間”に対してはもっと無関心であった方が良いように思うのだが・・・。要はテレビを見ない方が良い気がする。