2013年11月12日火曜日

SF映画ベストテン

こちらに影響を受けて私もSF映画ベストテンを選んでみました。

ただ、SF映画の基本を選ぼうと考えたために、どうしても古典的な作品となってしまい、どうも古臭いものになってしまったかもしれません。それから、既に既存ではあると思いますが、以前からSF映画に限らずSF小説も含めたSFジャンルの分類というのをもう少し明確にできるのではと思っているので、そのうち自分なりのSF分類表みたいなのを作ってみたいと思っていますが、とりあえず、今回はそれぞれの作品がどのジャンルに該当するかを私なりに考えてみて書いておきました。

下記が私の選んだSF映画ベストテンです。

1.『マトリックス』
2.『スターウォーズ』
3.『ブレードランナー』
4.『タイムマシン』
5.『A.I.』
6.『2001年宇宙の旅』
7.『ソラリス』
8.『時計じかけのオレンジ』
9.『ガタカ』
10.『CODE46』

1.『マトリックス』

ジャンルはサイバーパンクに分類されますね。SF小説でいえばウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』に相当するでしょうか。この作品が優れている点はバーチャル世界とリアル世界の2つを分けたこととコンピュータの世界もマトリックスというソフトの世界とマシンシティなどのハードの世界の2つに分けたことだと思います。IT革命によって現代の私たちはコンピュータを身近なテクノロジーとして肌身を通して感じることができるようになりましたが、それをさらに拡張して想像させてくれたのが、この『マトリックス』だと思います。人類にとって21世紀の幕開けはコンピュータ時代の幕開けでしたが、その最も象徴的な作品だと思います。それから、映像がクールであることも優れた点でありますが、それ以上に作品に込められたラナ・ウォシャウスキー監督の特異な思想も優れた点として上げることができます。彼(女)の特異な思想とは、60年代のカウンターカルチャーの最良の部分が込められた思想だと思います。考えてみれば、コンピュータは、元々、ヒッピー文化が生み出したテクノロジーでもありますから、コンピュータとカウンターカルチャーが結びつくのは自然なことではあるんですけどね。シリーズ第3作の『レボリューションズ』が分からないという人もいるかもしれませんが、すぐには分からず後になって分かる、あるいは一生分からないかもしれませんが、それでも、とりあえずは「見ておけ!」という作品です。それだけ、この作品は奥が深い作品なのです。

2.『スターウォーズ』

ジャンルはいわゆるスペースオペラ(冒険活劇)で、この『スターウォーズ』はその決定版といえる作品です。ライトセイバーというレーザーの剣を振り回して戦う姿はとてもカッコイイです。そして、フォースという超能力が純真な少年の心にはとても魅力的に映りました。私は1978年に初めて『スターウォーズ』を見たとき、劇場でのけぞりました。ハン・ソロ船長のミレニアム号が光速で発進したとき、星々の光点がワッと伸びて本当に驚いて座席でのけぞったのです。とても衝撃的で今でもよく覚えています。さて、子供だった私はこの『スターウォーズ』ほど「SFとは何ぞや?」というのを意識させられた作品はありませんでした。冒頭に未来ではなく昔の話というテロップが流れたり、太陽が2つあったり、宇宙人がヒト型以外の様々なタイプがあったりとSFの可能性をこれでもかと思い知らされました。それまでの日本の作品にはそういうのはありませんでした。私にとって『スターウォーズ』はSFの洗礼を受けた作品ですね。それから、この『スターウォーズ』にも先程の『マトリックス』と同様にカウンターカルチャーの要素が込められています。それはヨーダに代表されるジェダイの騎士の思想です。ジェダイというのは時代劇の“時代”に由来する命名だそうですが、ルーク・スカイウォーカーの着ている服も柔道着のような合わせ着を着ているように東洋思想が大きな影響を与えています。つまり、カウンターカルチャー経由の東洋思想がこの『スターウォーズ』には込められているわけです。例えば米国のコンピュータの本などを読むと本の片隅に格言などが書かれていたりするのですが、それがヨーダの言葉だったりするときがあります(笑)。コンピュータのエンジニアにとってヨーダの言葉はほとんど東洋思想と同じ意味に捉えられているのかもしれませんね。スペースオペラの決定版としてこの『スターウォーズ』は外せない作品だと思います。

3.『ブレードランナー』

 
 
ジャンルはアンドロイドものになると思います。原作はかの有名なフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』ですが、作品自体はリドリー・スコット監督によってとてもスタイリッシュなSF映画に仕上がっています。原作では本物の生物か人工物かや憂鬱な夫婦関係で主人公は悲喜こもごもがあるのですが、映画ではアンドロイドと駆け落ちするというロマンティックな終わり方になっています。レプリカントか人間かを判断するフォークト=カンプフ感情移入度測定法なる手法がとてもユニークでした。いわゆるチューリング・テストです。ディックの作品は数多く映画化されていますが、ディックの小説自体、パルプマガジンという安っぽい三文小説雑誌に掲載されていたものが大半ですので、まあ、チープなストーリーが多いです。その中でこの『ブレードランナー』は異色でとてもスタイリッシュな作品に仕上がっていると思います。なお、ディック自体は決してチープな作家ではなくて、『聖なる侵入』や『パーマー・エルドリッチの3つの聖痕』など優れた作品を残しています。この『ブレードランナー』を入り口としてディック作品を読むことをお薦めします。なお、ディックのエッセイ集『ラスト・テスタメント P・K・ディックの最後の聖訓』もお薦めです。これを読むとディックもけっこうカウンターカルチャーの影響を受けているのがよく分かると思います。まあ、LSDもちょっぴりやったりしていますからね。

4.『タイムマシン』

ジャンルは時間旅行ものになりますが、本作は単なる時間旅行ものというだけでなく、SFの父H.G.ウェルズの代表作にあたります。SFにとって記念碑的な作品ですし、人類社会の未来に想像を広げるというSFの基本といってよい作品だと思います。さて、映画のストーリーは最初は事故死した恋人を救うために時間を遡行しますが、どうしても彼女の死の運命を変えることができません。そこで今度は未来に行くことで運命を変えられるのではないかと模索し始めます。しかし、未来でも運命を変える答えは見つからず、むしろ人類が文明によって滅び行く姿を目撃します。滅びの惨事に巻き込まれて、さらに遠い未来へとたどり着いた主人公はそこで2つの種族に分化した人類に出会います。2つの種族とは食人種と被食人種です。主人公は被食人種に味方して食人種をやっつけます。そして、主人公は彼らと共に新しい人類の未来を作る生活を始めて物語は終わります。この作品には人類の行く末や文明批判、科学の限界などが込められていてSF作品の基本中の基本だと言っていいと思います。古いからといってダメではなくて、古くても優れた古典的名作だと思います。

5.『A.I.』

ジャンルは人工知能あるいはロボットものです。SF版ピノキオ物語のような作品です。人間に酷使され迫害されたロボットの悲劇のようですが、時間が経ち、遥か未来ではロボットがすべての能力において人間を上回っているという皮肉な結末が極めて秀逸で辛辣でした。公開当時、前評判のわりには人気が無かったのですが、私は見て大変気に入った作品です。多くの観客は人工知能に人間が超えられたということに気づかなかったのだと思います。さて、物語は人間のために一生懸命に尽くして働いたロボットたちが理不尽な迫害にさらされるという話が詰まっています。子供を難病で失った母親を癒やすために使わされたこども型ロボット、セックスの相手を務めさせられるセクサロイド、その他、人間のために働くロボットたち。しかし、人間からは仕事をロボットに奪われたと逆恨みされて鬱憤を晴らすためにロボット狩りという理不尽な迫害で次々と壊されていったりします。ロボットよりも人間の方が野蛮で危険です。人間の母親の愛を求めたロボットはいつしか海底でエネルギー切れで眠りにつきます。そして、遥かな時が流れ、彼を発見する者が現れます。それは見たこともない高性能なロボットでした。彼らはこども型ロボットに触れるだけで経験(=記憶)をロードすることができます。しかも仲間たちも手をつなぐだけで記憶を共有することができます。人間とは違って正確に経験を追体験できます。彼らはこども型ロボットを彼らの基地に連れ帰ります。ところで、地球はすでに間氷期を過ぎ、氷河期になっています。どうやら人類たちは滅亡してしまったようで地球は高性能ロボットたちによって管理されているようです。基地に帰った高性能ロボットはこども型ロボットの幸せを検討します。しかし、彼ら高性能ロボットの技術をもってしても人間の再生は一日しか達せられません。そこで一日だけこども型ロボットと再生させた母親に楽しい一日を過ごさせて、夜、眠りにつくときにこども型ロボットを永遠の眠りにつかせるようにします。つまり、高性能ロボットは単に能力が優れているだけでなく、人間性という面でも人間を上回った優れた存在になっているのです。かつてアニメ『伝説巨神イデオン』の中で主人公コスモが「俺たち、出来損ないの人類」という言い方をしていましたが、まさに優れたロボットによって人類は凌駕されてしまう日が来るのかもしれません。今のままの人間、進化しないままの人間では、今以上に優れた存在にはなれないのかもしれません。

6.『2001年宇宙の旅』

 

ジャンルは人類進化ものですかね。ただ、映画自体は宇宙空間をリアルに描いた作品として有名になったのではないかと思います。それとモノリスという謎の物体が大きかったと思います。ストーリーとしては猿がモノリスに触れて知恵をつけて人類へと進化し、さらに木星探査でモノリスに触れて人類からスターチャイルドへと進化を遂げるという物語です。モノリスが生物の進化に極めて重要な役割を果たしています。モノリスは生物に知性を与えるものなのか、それともモノリスが生命を生み出したのか。生命の起源の話であり、生命の行き着く果ての話です。それから、モノリス以外にも話題になったものがあります。それはコンピュータです。IBMを一文字ずらしたHALがそうです。コンピュータが人間に逆らう話です。もっとも真実はプログラムされた命令に原因があったのですけどね。ともかく、ロボット三原則に少し触れた感じです。それとラストシーンでボーマン船長が体験する超常体験も有名です。あの映像体験は一体何なのか、今もってよく分からないかもしれませんが、60年代に流行したサイケデリックカルチャーにおけるLSD体験に近いのではないかと言われています。この映画に深みを与えているものがあるとすれば、それはこの謎の映像体験があるからだと思います。SF映画ファンは必見の作品です。

7.『ソラリス』

 

ジャンルは異生物ものです。また、異知性ものでもあります。これらのジャンルは地球生物と異なる生物と出会い、人間の知性とは異なる知性とどうコミュニケーションをとるかという問題を持っています。この『ソラリス』は惑星という巨大な形を取りながら、底知れない超知性と超物理的な能力を持った知性体なのです。似たような異知性の異生物を描いたものとしてSF小説の『ブラッド・ミュージック』のバイオロジックスやアニメ『交響詩篇エウレカセブン』のコーラリアンがあります。『戦闘妖精雪風』のジャムも同様だと思います。私たちは生物や知性というものを地球生物や人間の知性を基準にして考えがちです。しかし、そうではない、それとはまったく異なる生物や知性を想像してみることによって、それらの可能性が大きく広がるのを感じることができると思います。私たちが知り得たことなど、宇宙と生命の神秘から見ればほんの僅かな細やかなものに過ぎません。「人間よ、奢るなかれ」と戒められているようで身が引き締まります。あるいは、改めて広大な宇宙や自然の神秘に触れて畏怖と憧憬の眼差しを再び取り戻すかもしれません。人知を遥かに超えるものとして私たちはついつい神を想像しがちですが、神へ辿り着くもっと手前に、人間よりも遥かに優れた知性を持つ異生物というものがあるかもしれません。私たちは神にお目見えする前にまず異知性の賢者にまず会ってコミュニケーションをとってみなければなりません。


8.『時計じかけのオレンジ』

ジャンルはディストピアです。テーマは暴力と性ですね。ただ、ディストピアものでよくある全体主義国家の管理者社会とは少し違いますね。例えば典型的なディストピアのSF小説と言えば、『われら』や『すばらしい新世界』や『1984』がありますね。ですが、この『時計じかけのオレンジ』は暴力と性がテーマで、原作とは違って映画ではあまり管理者社会というのは前面には打ち出されていないように感じられます。とはいえ、ルドヴィコ療法というような矯正がなされるところは管理社会的ではありますが・・・。ともかく、この映画は主人公アレックスの凶暴さにひたすら嫌悪感を感じる物語になっています。観客の方が主人公アレックスがルドヴィコ療法で瞼を剥いて無理やり映像を見させられるのように、この映画の目を背けたくなる映像を無理やり見せられているような気分になってきます。「一体、スタンリー・キューブリック監督は何を言いたくてこの映画を撮ったのか?」と首を傾げてしまいます。しかし、そこは鬼才スタンリー・キューブリック監督ですからちゃんとした意図があると思います。そこで補助線として『カッコーの巣の上で』という映画を引き合いに出します。管理主義の婦長に反抗した主人公マクマーフィーはついにロボトミー治療によって生気のない廃人のようになってしまい、憐れに思ったネイティブアメリカンのチーフは彼を窒息死させて彼自身は精神病院から脱走します。反逆児マクマーフィーも管理社会によって牙を抜かれてしまうというのが、ディストピアの1つの結末と言えると思います。一方、西欧社会とは違う育ち方をした、いわば自然児のチーフは脱走することでこの管理社会から脱出します。管理社会によって精神的に殺されないようにするためには文明社会からドロップアウトするしかないのかもしれません。ともかく、マクマーフィーとチーフの2つの選択肢があるわけです。ここで『時計じかけのオレンジ』に話を戻すと、主人公アレックスはこのいずれにも属しません。彼は管理社会によって牙を抜かれるどころか、逆にますます悪くなっています。ディストピアにおいては悪しき者はより悪しくなる、ということかもしれません。ディストピアは悪を矯正するどころか悪を助長するのかもしれません。ある意味、人間性を喪失してロボットのようになるよりも、もっと悪いかもしれませんね。

9.『ガタカ』

 

ジャンルは遺伝子ものでしょうか。テーマはチャレンジ精神や青年の思想ですね。遺伝子で出生が決まる近未来社会。両親の予定外の情交によって生まれたヴィンセントは先天的な弱点を抱えている。彼の夢は宇宙飛行士になることだが、不適正な遺伝子のために宇宙飛行士への道はあえなく潰えてしまう。しかし、ヴィンセントは諦めずに違法行為の別人のなりすましによって、まんまと宇宙局に入社する。そして、様々な血のにじむような努力を重ねた結果、ついには宇宙飛行士になる。映画の中でヴィンセントが弟のアントンと遠泳競争をしますが、危険を顧みずチャレンジしたヴィンセントが弟アントンを打ち負かしてしまいます。遺伝子を人間の意志の力が超えた瞬間でした。この危険を顧みずに新しいことにチャレンジする精神は青年の思想なのだと思います。宇宙開発にはこの向こう見ずな青年の思想が根底にあると思います。遺伝子ものに話を戻すと私が面白いなと思ったのはアニメ『機動戦士ガンダムSeed』です。遺伝子操作で生まれたコーディネーターと遺伝子操作を加えずに自然に生まれたナチュラルとの間の戦いが描かれています。人間は自らに手を加えることで今以上に優れた存在になろうとするかもしれませんね。少なくとも寿命を延ばすことで学ぶ時間を増やせるかもしれません。ただ、頭が良くなるかどうかは分かりません。例えば遺伝子操作でいくら脳というハードウェアの性能をアップしても、所詮、コンピュータの計算能力には敵わないでしょう。むしろ、脳というハードウェアをコンピュータに代えた方がより性能がアップするかもしれません。いえ、いっそ人格もプログラムでもっと良くなるように書き換えた方が良いかもしれません。ということは遺伝子操作で人間の性能をアップするよりは最初から人工知能で優れたものを作った方が良いものができるかもしれません、上記の『A.I.』のように。まあ、でも、ともかく、遺伝子によるSFはまだまだ開拓の余地はありそうです。

10.『CODE46』

 

ジャンルはナノマシンです。いえ、正確にはナノマシンは重要な要素ではあるのですが、ナノマシンそのものがこの作品の主要テーマになっているわけではありません。ですが、ナノマシンも今後のSFにおいては欠かせない重要な要素だと思いますので、あえてこの作品をトップ10に入れてみました。ナノワールドという意味では『ミクロの決死圏』を入れても良かったのですが、『ミクロの決死圏』だと単なるミクロの世界での現実であって、ナノマシンのように人工的に作られたマシンという意味合いが薄くなってしまいます。やはり、ナノの世界にまで人間の手が及んできたというのを意識するためには、単に極小の世界というだけでなく、ナノマシンに触れないわけにはいかないと思います。それと、近未来社会の世界像としては、ここで描かれたような世界がわりと典型的になるのではないかと思えます。『ブレードランナー』のような繁華で猥雑な都市の世界像というのもあるでしょうが、むしろ、この映画で描かれたような都市と見捨てられた郊外という関係が今後の文明社会では最もありそうな気がします。まあ、『トゥモロー・ワールド』まで行くともう少し終末観がありますが。ともかく、ディストピアでもユートピアでもない、あるいはディックのような猥雑な世界でもない。描かれている世界は管理社会というほどではないにしろ、とはいえ、様々な背後には完成されたシステムが人々を捕らえているような世界です。そこにはロマンの入る余地はないのです。しかし、私たちは自ら望んでそのような世界を作ったのです。自ら望んで作った世界に私たち自身が縛られているというジレンマ、抜け出せなさがあります。SFではディストピアとして未来社会に警鐘を鳴らしてきましたが、現代社会から敷衍したとき、自分たちが作ったシステムからの抜け出せ無さが今後の課題になるかもしれません。さて、ナノマシンに話を戻すと、SFにおけるナノマシンはどのくらい可能性があるかは分かりません。もしかしたら、そんなに大して可能性はないのかもしれません。しかし、予断は禁物です。科学は今まで私たちの予想を大きく上回ってきました。ナノマシンだってどんなに大きな可能性があるか分かりません。今後、ナノマシンでどのくらい大きなセンス・オブ・ワンダーを巻き起こせるか、大いに期待することにしましょう。

以上が私が選んだSF映画トップテンでした。

それから、トップ10から外した作品の中にもなかなか捨てがたい作品があります。例えば、『スタートレック』などは『スターウォーズ』と対をなすスペースオペラのもう1つの決定版と言えると思います。それなのになぜトップ10に加えなかったのかというと、私の不勉強で私が『スタートレック』についてあまり詳しく知らないからです(爆)。それとスペースオペラは1つあれば十分かもと考えたのも理由の1つです。それから『猿の惑星』も外しました。10位くらいにランクインさせようかと随分迷ったのですが、今回は外しました。『トゥモロー・ワールド』も終末観がこれまでにない斬新さがありましたのでランクインさせようかと迷ったのですが、『CODE46』に似たような要素もあるかと思い、これまた今回は外しました。ええと、それから、日本のアニメもあえて外しました。SFアニメというジャンルで言えばSF映画にも勝るとも劣らない優秀な作品が日本のアニメ作品にはあると思っています。『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』が『マトリックス』に多大な影響を与えたことを考えてみても分かると思います。しかし、あくまでSF映画という範囲に限定することにして、今回はあえてアニメは外しました。『伝説巨神イデオン』や『交響詩篇エウレカセブン』や『戦闘妖精雪風』などはSFとしてもなかなか面白い作品だと思っています。いずれSFアニメ・ベストテンがあれば、そのときに検討したいと思います。そのほか『マニトゥ』や『吸血鬼ゴケミドロ』とかも面白いので、ちょっと考えたのですが、やっぱり外すことにしました。


今回、SF映画ベストテンを選んでみて、ジャンルとしては、けっこうオーソドックスなジャンルをバランス良く選べたんじゃないかと思っています。取り上げたのはサイバーパンク、スペースオペラ、アンドロイド、時間旅行、人工知能、人類進化、異生物・異知性、ディストピア、遺伝子、ナノマシンです。あ、でも、入れ忘れたジャンルもあるかもしれませんが。それとSFというのは神話と似ていて、神話が過去のことを扱うのだとしたら、SFは未来のことを扱っているという違いかもしれません。神話がこの世界の成り立ちや物事の起源を説明するのに対して、SFは神の正体や人類の行く末を描いたりすることが多いと思います。ベクトルが過去に向かうか、未来に向かうかの違いだけで、探求していることは神話もSFも同じなのかもしれません。はるか昔は子どもたちにこの世界のことを教えるのに神話を使って説明していたと思います。しかし、現代ではそのような神話で子どもたちにこの世界の成り立ちを説明する大人は少なくなったと思います。これからは真面目に科学的な諸説を用いて説明することになるかもしれませんが、聴いている子どもたちはそれでは味も素っ気もなく退屈してしまうかもしれません。そういう意味ではこれからは物語の形式を用いてSFで子どもたちにこの世界について教えることになるかもしれませんね。

それから、SFはジャンルによってそれぞれのジャンルの問題系というのはおおよそ定番になっているものがあると思います。ですから、しっかりとジャンルによる分類を行い、そのジャンル毎に定番的な問題系をリストアップしておけば、おおよそSFの全体像というかSFの地図が掴めるかと思います。また、SFの新作が出ても、SF的にはその作品の新しいところ、あるいは、逆にすでに提示されている問題の1つのパターンに過ぎないなど明確に分類分けできるのではないかと思います。もちろん、すでに既存の問題系だとしても作品としての面白さはまた別の話でよくあるSFであとうとも、面白い作品というのは出てくる可能性はあるので、必ずしもSFジャンルがSFの面白さのすべてだというわけではありません。しかし、やはり、そういったジャンル分け、マップがあれば便利だと思いますので、そういうジャンルとマップがあれば良いのになあと思う次第です。ちなみに意外と自由国民社の総解説シリーズから出ている『世界のSF文学』が私的には良かったですね。



2013年11月10日日曜日

新房昭之『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』

 
新房昭之監督・虚淵玄脚本の『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』の感想を書きます。

以下、ネタバレになります。


あらすじは、まず、ほむらが故意に心を閉ざして心的空間に仮想世界を構築します。その仮想世界はまどかが存在する世界でその中でほむらはまどかたちと暮らしています。ひと言で言えば、いわゆる夢を見ている状態です。物語はこの夢の中で夢とは知らずに暮らしているほむらの視点で始まります。ほむらはいつものように魔女を退治して暮らしていましたが、次第にその世界の不自然さに気づいてゆき、その世界が現実の世界でないことに気付いてゆきます。そして、巴マミと闘ったりするなど葛藤を経た後、ほむらはその世界が夢の世界であり、その夢は自分の夢であることに気づきます。その結果、ほむらは本当はまどかがいないことを再認識して絶望して、いわゆる魔女になってしまいます。本来ならまどかが神になった後の世界では魔法少女が魔女になることはありませんが、ここはかつての世界に擬した仮想世界なので魔女になることも可能です(*1)。そのとき、神まどかがほむらの救済に降臨してきます(*2)。ところが、実はこの瞬間をこそほむらは待っていたのでした!夢の中のほむらは絶望して魔女になりますが、この世界を作った現実のほむらはそれすら予想してこのことを計画していたのです。では、現実のほむらの真の狙いは何でしょうか?ほむらの真の狙いは神まどかと接触することで神まどかから人間まどかの情報を抜き出すことだったのです。そうやって抜き出した人間まどかの情報を、今度は人間ほむらの存在の上に上書きすることで人間まどかを復活させることが真の狙いだったのです。その結果、時間遡行により世界はほむらの狙い通りに書き換えられました。書き換えられた世界では、本来なら転校してくるのはほむらのはずだったのですが、まどかの人間情報が存在ほむらに上書きされたので、転校してきたのは人間まどかでした。つまり、ほむらの願い通り、人間まどかは復活したのです。しかし、それではほむらはどうなったのでしょうか?ほむらはまどかが存在することと引き換えに、もはや人間としては存在できなくなりました。では、今、目の前にいるほむらは何者なのでしょうか?実は目の前にいるほむは人間ではなく、悪魔なのです。つまり、ほむらは悪魔となってしまい、現実世界では悪魔の化身としてしか現れることができなくなりました。さらにまどかは神の断片であるために、ともすれば天に還ろうとしてしまいます。ほむらは人間まどかをこの現実世界にとどめるためには物質世界への執着をまどかに促さなければならなくなりました。それはまるで執着心を誘う悪魔の囁きに似ています。こうして神と悪魔は完全に隔たってしまいました。しかも神と悪魔はいずれ対決せざるをえない日が来ることの予感を残します・・・。

以上のように、ほむらはまどかを愛するがゆえにまどかを人間として復活させ、その代償としてほむらはまどかとは再び一緒に暮らせない、神と悪魔として完全に隔てられてしまうという、ほむらにとっては最大の不幸を背負うことになったのです。自分は最大級の不幸になっても愛する者の幸せのために犠牲になる、それがこの物語に描かれたほむらの愛の形です。

さて、ここからは少し余談の話をします。

この物語を見ると悪魔、すなわち堕天使サタンについて思い起こしてしまいます。堕天使サタンは元々は天使長ルシファーでした。しかもただの天使ではなく、天使の中で最も位階の高い天使であり、最も神に近い天使でした。天使の中でも知恵と力が最大の最強天使であり、神の最も良き理解者でした。しかし、そのルシファーがなぜか天界を追われ、堕天使サタンになってしまうのです。ルシファーが堕天使となってしまう理由は諸説あるようですが、特にこれといって定まった説があるわけではないようです。そういう意味では、この『叛逆の物語』はほむらがまどかを愛するがゆえに人間まどかの復活の代償に堕天使となってしまうという、ルシファー堕天使説の1つとして面白く見ることができると思います。アダムとイブに仕えるのを不満としたためにルシファーは堕天使となってしまったという説よりは、神を愛するがゆえに神の断片を人間として復活させるために悪魔に身を貶めるというほむら堕天使説の方が情緒があってなかなか味わい深いものがあると言えるかもしれません。

それから遮蔽されたソウルジェムという構造が私には興味深かったです。というのも私は旧約聖書の次のような一節を想起したからです。
神は闇をもて己れの隠処となし給う。
まわりを取り巻くは、深き水の暗さと大空の密雲のみ
しかし、その闇の中は内的光に満ち溢れているという構造です。つまり、一見、暗黒の黒雲に閉ざされたように見えても、その黒雲の中は光に溢れているというものです。まあ、この節は存在の原初の神の姿を描いたものですが、ほむらが悪魔となったその姿も表面は暗黒雲に覆われてはいるものの、その核にはまどかへの愛という光が溢れていると考えれば、堕天使論としてはなかなか面白いなあと思います。

それと似たような表現に漫画で岡野玲子の『陰陽師』があります。おそらく、ここでは魔王サタンに相当する物質の王(=大物主?)のことを言っているのだと思いますが、以下に引用します。

真の闇に光はない
真の闇を進むのに手に光を持つ必要はない
自らの光を覆い隠し鎮々と降りる
私の内なる光はいかなる闇にも溶け込むことはない
私の内なる光は罔両を焼き尽くす
嵐のように横暴な太古の闇 生命を生み出す豊潤な花開く闇
闇の闇・・・ 根の根・・・ 底の底
結晶体のごとき純粋な闇に我が根を結び
私は闇に君臨する
私の姿は堅く覆い隠されている
私は闇を行軍する戦車
私は大地の底深く結合する隠者
闇の世界で私の顔を見る者は焼滅する
覆いの中は晴明そのものだからだ
ゆえに私は堅く瞑し、肌のすべてを覆い隠す
私は夜行する新月
あらゆる死が私の前に
あらゆるはじまりが私の後に
闇に棲まう罔両は私の降下夜行する様に凛然とし震えあがる
私は根の根 底の底・・・ 星の種に着床する
すべての種子は闇の中で発芽する
闇が物質を生み出すのだ
闇の中でおれの存在が父として必要ならば
身を解き放ってすべての父になろう
存在が必要でないなら、おれは堅く押し黙って小さな種のままでいよう

それぞれ岡野玲子『陰陽師』第11巻から部分的に抜粋しました。とても詩的であり、地の底の魔王や物質の王など悪魔や魔というものについて考えるのにとても良い豊かなイメージを喚起してくれると思います。昨今、とかく悪を単純に悪いものとして徹底的に攻撃して叩き潰してしまう風潮が強いですが、悪というものを深く考えるとなかなかそう単純には割り切れないものがあると思います。悪の哲学なんていうのもありますし、悪と美はけっこう深い所で結びついていたりもします。ちなみに岡野玲子は作品の中ではそれを粋美と言っています。いろいろな意味で悪を単純化せずに少し掘り下げて探ってみるのはけっこう有意義なことだと思います。

さて、それから、今作におけるキュウべぇですが、TV版では『ファウスト』におけるメフィストフェレスのような役割でしたが、今作ではやや趣きが変わって、メフィストというよりは、科学(=サイエンス)といった面が強くなったと思います。まあ、TV版でも科学であったと言えばそうなのですが・・・。ただ、今回はキュウべぇはハッキリと敗北を認めていると私には思えました。というのも、愛というものに対する無理解を露呈しましたし、人間の不合理な情愛からは手を引くとまで言っているからです。これは科学の敗北だと私には思えました。それと神とキュウべぇの力関係はアーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』のオーバーマインドとオーバーロードのような差に思えました。超科学のキュウべぇも超越神のまどかには到底およばないのではないかと。「観測さえできれば神をも捕捉できる」とキュウべぇは言っていましたが、果たして実際のところそうだったのかどうか私には疑問です。いや、まあ、こんなところで物語に反抗しても仕方ないのですが(笑)。不確定性原理では運動量と位置は同時には観測できませんので、果たしてキュウべぇに神まどかを正確に観測できたかどうか疑問です。とはいえ、キュウべぇ自体は科学よりも、より進んだ超科学であるとするなら、もしかしたら可能だったのかもしれませんが。しかし、もしキュウべぇがまどかにとって代わって神となってしまえば、エネルギーを収集するという欲望も必要性も無くなってしまうと思うのですがね。神は何も望まなくてもすべての存在が神のもの、いや神そのものなのだから。

随分、突拍子もない話に脱線してしまいました。ところで、物語とは直接関係のない、アニメの表現としても、この作品はとても面白い作品だと思います。抽象的・前衛的な表現で闇に落ちた魔女などよく象徴的に表現していたと思いますし、素早いアクションシーンなども迫力良く、よく描いていたと思います。私は素人なので正確には分かりませんが、もしかしたら、けっこうコストがかからずに描けたのではないかと思ったりもします。アニメ製作的に製作コストはどうだったのかちょっと気になるところです。もし、この推測が当たっていたならば、低コストでも良質な表現が可能だという良い事例になるのではないかと思います。

さて、ともかくも、この作品はほむらの愛がとても切ない愛だというのが最大の見せ場なのだと思います。自分を犠牲にしてでも人間まどかを復活させるという愛。まどかへの愛が最も強いにも関わらず神と悪魔として二人は永遠に引き裂かれ、さらに深く愛しているにも関わらず神と悪魔として戦わねばならない運命に陥るというのがとても切ないラブストーリーなのだと思います。TV版では善悪二元論だった世界がまどかが神になることで善一元論になる世界でした。この新作『叛逆の物語』では善一元論の世界になぜ悪魔が存在するようになったかを描いた物語だと言えると思います。そして、この世界が終わるとき、すべてが終わるとき、まどかとほむらはやっと出会えるのでしょうね、きっと・・・。


(*1)実際にはソウルジェム内の暗黒物質を外部に漏らさないように閉じ込めた為らしいですが、魔法的な理屈の辻褄合わせはあまり気にしなくて良いと思います。

(*2)実際には閉じられた内部からもまどかは使者を使って救済の手を差し伸べています。本来なら何者も閉ざされた内部に侵入することは不可能なはずですが、外壁を飛び越えて閉じられた内部に侵入できるのは神だからなせる技なのでしょう。

2013年10月12日土曜日

半藤一利『幕末史』

 
今回は半藤一利の『幕末史』を取り上げます。


最近の私の興味は日本の近代史に向けられています。キッカケはNHKの大河ドラマ『八重の桜』と宮崎駿監督のアニメ『風立ちぬ』の2つです。『八重の桜』はもろに幕末の話ですので、今回、『幕末史』を取り上げる尤もな理由です。このドラマの優れている点は1つは幕末を会津という負け組の視点から描いていること、2つめは銃という近代兵器をポイントに描いていること、さらに3つめは明治維新で終わるのではなく西南戦争以降まで描いていることの3点です。幕末・明治維新を倒幕派の視点のみで描いたのでは正しい歴史認識は得られないと思います。負け組からの視点も描くべきだと思います。また、銃という近代兵器の重要性も描かなければ、本当に幕末・明治維新を描いたことにははならないと思います。これは兵器だけに限らず、西洋がもたらした近代技術すべてに関わることですし、さらに言えば近代技術だけでなく近代国家・近代文明を日本がいかに受容したかに関わることだと思います。そして、明治維新を江戸城開城や箱館戦争までではなく西南戦争まで描くことが本当に明治維新を描いたことになると思います。日本は近代文明に触れて大きく転換したのですが、単に権力者が交代しただけでなく、日本全体が大きく変わったということを見るためにはそこまで描かなくてはならないと思います。さて、もう一方の理由、『風立ちぬ』からなぜ日本の近代史に興味を持つようになったかというと、第二次大戦後の日本の経済成長において日本の技術力がその復活の底力としてありましたが、その基礎を築いたのが実は戦時中の軍事技術の技術開発にありました。零戦などもそうですし、それら戦時中に活躍した航空技術者たちが戦後に自動車産業に移って、その高い技術力で今度は自動車を開発したことが原動力になっています。では、戦前はどうだったのか?いや、そもそも幕末までの日本は農業国だったはずが、明治維新以後は一体どうやって近代国家になり、近代技術を取り入れ、さらに成長していったのかという疑問が生まれました。それに幕末の頃は西洋列強に植民地にされるのではという危惧があったのですが、それを日本はどのように免れたのか?また、他の植民地のように主だった産業が西洋人によって支配されるという危険を日本はどうやって免れたのか?農業国だった日本がどうやって資本主義経済体制を構築し動き出させることができるようになったのか?技術や経済にわたる数々の疑問が生まれてきました。さらになぜ日本は戦争に突っ走ったのかという日本の政治に対する疑問も生じました。まあ、いずれも私の日本近代史に対する無知が根底にあるのですがね(苦笑)。ともかく、様々な疑問に動かされて日本の近代史に興味を持ったわけです。そこでまず、日本が近代化する起点となった幕末・明治維新に興味の対象が絞られたという訳です。まあ、随分と前置きが長くなってしまいましたが、以上のような理由で本書を読むことになりました。

さて、本書についてですが、幕末史の概略を通して知るには最適の入門書だと思います。ペリー来航から西南戦争までが描かれています。もちろん、それ以前のアヘン戦争にも触れていますし、西南戦争で終わるのではなく、山県有朋の軍部統帥権まで描いているので次の時代を決定づける重要な足がかりまで描かれています。幕末史は大筋ではこの本で描かれた著者の歴史認識が妥当だと思われます。著者の半藤氏は学者ではありませんので、学者的な緻密さには欠けるかもしれませんが、逆に大局的な視点ではおおむね半藤氏の視点は正しいものと私には思われます。半藤一利といえば『昭和史』が有名ですが、この『幕末史』も実に良い本だと思います。また、別の機会に取り上げたいと思っている氏の著作で『山県有朋』があります。これも間違いなく重要な本で、日本が戦争に突き進んでいった理由を知るには欠かせない一冊です。ともかくも、日本の近代化はこの幕末から始まりました。是非、一度、この『幕末史』を読んでみることをお薦めします。

幕末についてはいろいろと語りたいことがあるのですが、どうも断片的になってしまいそうで、うまくまとめることができなさそうです。そのうちにメモ的に書き連ねるかもしれません。

2013年9月29日日曜日

福島武夫『造船王国の新しい選択』

 
今回は福島武夫の『造船王国の新しい選択』を取り上げます。


この本は1996年に発行された本ですので、現在の世界の造船業界の状況とは若干違っていると思います。また、この本を読むまで私は日本の造船は韓国に追いぬかれて既に廃れてしまったものと勘違いしていました。しかし、実際はそうではありませんでした。熾烈な価格競争の中を日本の造船は粘り強く頑張ってきたことが分かります。さて、この本では、国内の主要な造船会社である三菱重工業、石川島播磨重工業、川崎重工業、日立造船、三井造船、住友重機械工業、NKK(日本鋼管)の7社が取り上げられています。これら7社が、戦後、如何にして熾烈な競争の中を生き残ってきたかを克明に描いています。また、序章では幕末から現在に至るまでの日本の造船の歴史を簡略に説明しています。日本の造船の歴史を概略的に知るにはこの本はとても良い本だと思います。

さて、近年における日本の造船が生き残ってこられた理由は何かというと大きく2つが上げられると思います。1つは低価格競争ではなく高度な技術力で特殊な船を作ることで差別化を図ったのだと思います。もう1つは造船以外の分野、プラントや陸機、あるいは航空宇宙産業などでシェアを伸ばしたのだと思います。これらによって低価格な韓国の造船会社に対抗してきたのだと思います。世界市場における造船のシェアは19世紀末から20世紀中頃までは英国がダントツの1位だったようです。それが1956年に日本が建造量で英国を抜いて世界一位になったそうです。その後も長い間の日本が一位の座を守ってきたそうです。

日本の造船の歩みを振り返ってみると幕末に造船に目覚め、国防の観点から国策的に造船に力を入れ、その後、第一次世界大戦のときに造船ブームが到来して大きく飛躍します。この時、船成金が生まれていますね。その後は逆に反動不況で苦しみます。そして、太平洋戦争で造船所がフル稼働しますが敗戦でボロボロになります。しかし、朝鮮戦争で復活してついには1956年に世界一位になります。日本を世界一位に導く下地を作った人物として戦艦大和を作った西島亮二とその後継者である真藤恒がいます。西島亮二によって構築された合理的で効率的な日本的生産方式です。戦後、真藤恒が働いていた元呉海軍工廠であるNBC造船所には数多くの見学者が来たそうで、トヨタのカンバン方式やビル建設に影響を与えたと言われています。そういった経緯もあり、その後も日本の造船は韓国の台頭に悩みながらも世界市場になんとか食らいついてゆきます。

ところで疑問に思ったことが1つあります。それは米国の造船です。太平洋戦争のときに米国は世界でダントツの海軍大国だったと思います。そして、今もそうだと思います。米国にはたくさんの造船所があるはずです。しかし、世界市場のシェアでは米国はほんのわずかしか占めていません。どうしてなのでしょう?残念ながら米国の造船史の本がありませんでしたので、私の推測になるのですが、造船も他の製造業と同じで低価格競争にさらされます。日本が韓国に追い抜かれたように後発国の方が人件費が安く有利です。おそらく、米国の造船も熾烈な低価格競争にさらされたのだと思います。そこで米国の造船がとった対策は専門的な高度な技術で差別化を図ることだったのではないかと思います。ただし、日本のような特殊な船ではなくて、軍艦という分野に特化したのではないかと思います。すなわち、米国の造船は軍需産業に特化したのではないかと思います。これはロシアにも言えることだと思います。冷戦時代にロシアも数多くの軍艦を作ってきたのは間違いないでしょう。そういう意味ではロシアも数多くの造船所を抱えているはずです。冷戦崩壊後、ロシアでは軍需工場を民需工場に転換するようにしてきましたが、それでも限界があって、多くは軍需産業として残っているのではないでしょうか。ですから、世界のシェアが少ないからといって米国やロシアが造船の技術力が劣っているとは一概には言えないと思います。むしろ、技術的には軍艦の方がはるかに高い技術力を必要としているので高度な技術力を持っていると思います。ただ、その一方で安く早く量産するといったような技術はやはり市場競争にさらされていないので、官営的な造船では培われないと思います。そういった違いがあるのではないでしょうか。

さて、現在の造船のシェアですが、少し異変が起こっているようです。韓国と日本だけでなく、そこに中国が割り込んできているようです。そして、いずれは中国がトップになることが予測されています。今までの流れから言えば、当然と言えば当然ですよね。ただ、懸念される点があります。それは造船能力が高まれば、自然とその国の海軍力も高まるということです。このまま推移すれば、おそらく何年か何十年か先には中国が米国を抜いて世界でトップの海軍力を持つようになるのではないでしょうか。現在も制海権を巡って中国は様々な海域でもめています。そのような中国が世界第一位の海軍力を持つことは非常に懸念される事態だと思います。しかし、中国に対抗できる国はおそらく米国くらいです。将来が危ぶまれます。だからといって日本が軍備増強に走るなんてことは決してしないことです。軍備増強は国の経済や財政を圧迫します。国力が上の中国に軍事力で対抗しようとしても、かえって日本を弱めてしまうでしょう。日本は軍事力ではなく、中国を取り囲む周辺の諸外国と協力して外交力で道理をもって中国に対抗してゆくべきなのだと思います。

それにしても、今後の世界は資源大国のロシア、世界の工場である中国、そして金融やITなど先端技術でリードする米国、この3国が世界の超大国として世界をリードしてゆくのではないでしょうか。もちろん、EUもそこにいくらかの存在感を示すとは思います。やはり、先進国ですからね。もちろん、中東もそれなりに力を増してくるでしょう。ただし、既得権益の壁が強く、その歩みはまだまだ遅いのではないかと思います。一方、日本はこれら超大国に挟まれた位置にいます。西には中国、東には太平洋を隔てて米国、北にはロシアです。地理だけでなく内実はどうでしょうか?昨今の日本の産業は後退につぐ後退です。日本が先端をゆく産業はどんどん減っています。家電も半導体も敗退しています。造船も後退しつつあります。自動車産業がかろうじて残っていますが、工場が海外移転して次第にウェイトが海外になってゆくでしょうし、電気自動車が普及したとき果たして日本の自動車産業が世界をリードできるかどうかは分かりません。したがって、日本はどんどん弱い国になってゆくでしょう。一方で中国はますます強くなってゆき、圧倒的な力の差を見せつけることでしょう。戦後の日本は中国を見下していたところがありましたが、今後は中国を巨人を見上げるように変わると思います。超大国と比べれば日本は小国です。世界全体で見れば日本は中位の大きさですが。ただ、日本はそれら超大国と張り合っても仕方ありません。日本は日本なりの幸せを追求するしかないと思います。日本は成熟した文明国になりつつあります。先進国としては政治や文化などまだまだ至らない点は多々ありますが、それでも社会インフラも整っているのでかろうじて先進国足り得ています。これからは日本にとって幸せな生き方とは何かを考えて、虚勢を張ることなく幸せな社会を作ってゆくのが良いと私は思います。陽はまた昇るとばかりに経済大国足らんと過当な競争を日本人に強いても日本社会がギスギスするばかりで仕方ないと思います。安定した慎ましやかな国を目指してはどうでしょうか?さらにこれだけグローバル化が進んだ世界になってきたのですから、国という小さな枠組みに囚われず、一個人は世界市民であるという認識を持って、大きな枠組みで世界を捉えるべきではないでしょうか?国という区分は次第に意味が小さくなってゆくべきなのだと思います。

もちろん、資本主義ですから競争は必要でしょう。しかし、それは先端技術などの一部の世界で十分ではないでしょうか。日本の環境を見ると国内的にはそんなに競争を必要としないような気がします。また、日本が、今後、活躍できる専門分野としてはiPS細胞などのバイオテクノロジーかもしれません。他の分野はちょっと厳しいような気がします。もちろん、今まで蓄積してきた技術力があるから一概に他はダメだとは言えませんが、全体的には前進しているというよりは後退しているのではないでしょうか。ところが、いわば日本は後退戦なのに日本の政治は貧富の差を拡大する方向に動いているように見えます。それは日本をわざわざ住みづらい国にしているように思えて仕方ありません。経済大国の夢を捨てきれず昔の夢を追おうとするあまり、かえって貧富の差を拡大している。そんなように思えます。それに競争を強いることで昔の本当の奴隷以上に今の労働者は働いていると思います。奴隷には財産の所有や行動の自由や自由時間がありませんでしたが、今の労働者も多くの時間が労働に奪われて実質的には昔の本物の奴隷以上に自由がないと言えるかもしれません。確かに奴隷よりは労働者の方が生産性が上がったでしょう。しかし、それは労働者の人生の犠牲の上に成り立っています。果たしてそれが良い生き方なのでしょうか?いったい金持ちたちにとっても、貧富の差が拡大して社会の大多数が貧しい人たちになったとき、そのような日本社会で暮らすことが本当に住み良い社会に感じられるとは思えません。日本は経済大国を目指すのではなく、中位の国を目指すべきではないでしょうか。

さて、随分、造船とはかけ離れた話になってしまいました。しかし、この本をきっかけに日本の造船の歴史や造船に限らず日本の近代技術の歴史についてたくさんの本に目を通すことになり、大変、充実した読書体験になりました。それらについてはまた追々、このブログで取り上げてゆきたいと思います。



2013年8月21日水曜日

前間孝則『技術者たちの敗戦』


今回は前間孝則の『技術者たちの敗戦』を取り上げます。


まず、著者の前間孝則氏はノンフィクション作家で主に日本の主要産業の技術開発史を扱った著書を数多く書かれている方です。前間氏自身も元は石川島播磨重工の航空宇宙事業本部の技術開発事業部でジェットエンジンの設計を20年間やっておられたそうです。そういった点では技術に関してもけっこう深いところまで理解できる書き手であり、技術開発史を研究するのにはもってこいの人物ではないかと思います。しかも本書によるとかなりの本好きで読みたい本を徹夜で読み耽って翌日はとろんとした目つきで会社に出社したり会社を休んだりしたそうで(笑)、技術者としては珍しく文科系的な読書人なところもあるようです。そんな前間氏のこの著書は氏のこれまでの技術開発史に関する数々の著作物の要約といった趣きの著書ではないかと思います。ところで世間では零戦の設計者である堀越二郎を主人公とした宮崎駿のアニメ『風立ちぬ』が大ヒットしています。それと合わせてこの本を読んでみると、より一層日本がいかにして技術大国になりえたかというのが分かってくるかと思います。そういった戦後の日本の経済的繁栄をもたらした日本の技術開発史を知るために、この本を入り口にして前間氏の一連の著作を読まれることを強くお薦めします。

さて、最初にこの本の帯文と表紙カバーの文を紹介しておきましょう。

日本の戦後復興の原動力となった20代~30代の技術者たちはどのように敗戦を迎え、廃墟から立ち直ったのか? 引用:『技術者たちの敗戦』
驚くべきことに、戦時中の技術開発は20代から30代の若手技術者によって行われた。彼らは情報遮断と原材料の不足など極めて厳しい状況のなかで、開発に熱中し、破れたりとはいえ、多くの成果を成し遂げたのである。戦後、GHQによって航空が禁止されたため、航空機産業の多くの技術者は自動車産業に移り、今日、アメリカをも脅かすようになった自動車産業の基礎をつくりあげた。また、国鉄の技師、島秀雄は、材料がなくなり、機関車がつくれなくなった戦争末期、将来を見据え、電車のブレーキ、台車、パンタグラフなどの研究を部下に命じたのだった。これが後に、新幹線の開発へと開花していく。この技術者たちの不屈の物語はこれからの日本の進むべき道に大きな示唆を与えるはずである。 引用:『技術者たちの敗戦』
これらの文章からも分かるようにこの本では戦前生まれの日本の技術者たちが戦時中にどのように技術開発に取り組み、そして戦後どのように活躍していったかを簡潔に描いたノンフィクションです。この本で取り上げられている技術者は全部で6人で、零戦の堀越二郎と曾根嘉年、新幹線の島秀雄、石川島播磨重工の真藤恒、レーダー開発の緒方研二、ホンダの中村良夫です。本書を読んでみると彼らの生き様や人柄はそれぞれユニークで、いわゆる一般の実直でまじめ一筋の技術者像とはちょっと違った装いが感じられます。島秀雄などは大正ロマンの影響を受けて育ったためかかなり自由な気風が感じられますし、中村良夫は技術者であった一方で文芸同人誌を発刊したり、ドイツ人技術者たちのパーティではハイネの詩を暗誦したりと教養の高さというか文化程度の高さを感じます。ちなみに文化程度が高いというのは何も高尚であることを自慢するという意味ではなくて、自由で柔軟な思考の持ち主であり、それは合理的な思考でもあり、一方で人間性の豊かさをも兼ね備えていると私は考えています。特に雑誌『モーターファン』に掲載された彼の「告別の辞」はなかなかダダイスティックであり、前衛芸術の精神もよく理解していたのではないかと思わせます。戦時中の頭の固い日本の軍人たちとは大違いです。ただ、この本で取り上げられた技術者たちはある意味特殊なのかもしれません。彼らと違って日本の多くの技術者たちはやはりその道一筋的なお堅いひとが大多数の占めているのかもしれませんし、日本社会自体がそういった傾向が強いと思います。自由で柔軟な思考に欠けることがしばしばです。むしろ、当時の東大のようなエリート校や軍需産業の方が上司もさん付けで呼ぶなどかなり自由な気風があったようにさえ感じられます。また、この本で語られているB29のエピソードからも如何に日本が自由で柔軟かつ合理的な思考が欠けているかが伺えると思います。大切なのは大局を見据えた戦略的思考と柔軟で合理的な自由な思考なのではないでしょうか。

さて、この本ではいろいろな点で示唆に富んだ指摘がなされています。読者のみなさんは是非読んで確かめて下さい。私が印象に残った文をメモ代わりに少し取り上げておきます。

かつての航空技術者たちは、先の岡本のように、「航空機よりどのくらい技術程度を落として設計すればちょうどいいのかわからなかった」という。その頃、自動車に求められていた水準はかなり低かったので、航空機のセンスで設計すると、あまりに上等なものができて過剰品質になり、値段がベラボウに高くなるのだった。
先の米戦略爆撃調査団のレポートを踏まえつつまとめられたアメリカの「第二次大戦と科学技術」と題するレポートでは次のように結論づけられている。「1945年の時点の日本のレーダー研究は、イギリスおよびアメリカに3~4年の遅れがあったと考えられる。日本はマグネトロン(磁電管)の設計においてオリジナリティを発揮したが、陸海共別々に製作しており、その製品性能は米英のものに比して劣っていた。(中略)結論として、日本の新兵器開発に関する戦時研究体制に学ぶべきものは、ほとんど無い」
最後に日本の近代史に関していうと、やや本道から外れたルートかもしれませんが、日本の近代史に関する研究では、主に明治維新から戦時中までを描いた山口昌男の歴史三部作が極めてユニークで面白いです。そこで主役になるのは経営者と文化人でした。それに対して前間孝則氏の著作は戦時中から戦後にかけて活躍した技術者たちの歴史を扱った一連の著作です。技術者たちが活躍する場や基礎を作ったのは山口昌男が描いた戦前の経営者や戦争でした。前間氏の出身である石川島播磨重工も元はといえば東京石川島造船所で渋沢栄一と浅からぬ関係がありますからね。渋沢栄一については山口昌男『敗者の精神史』で取り上げられています。そういった意味で山口・前間両氏の一連の著作から日本の近代史をもう一度捉え直すことは極めて意義のあることだと私は思います。

今、世界は東西冷戦が終わり、ネットによって相互に繋がって、さらなるグローバル化が進んでいます。資源のない国日本がグローバルな競争で生き抜くには科学技術の力が大きな鍵を握っています。いえ、もはや国という小さな枠組みに囚われることなく、一個人の力量として科学技術の知識が大きな鍵を握っていると思います。そういった現代において私たちは過去の先人たる日本の偉大な技術者たちから多くのことを学ぶことができると思います。