2013年7月25日木曜日

新海誠『言の葉の庭』

 
新海誠監督の『言の葉の庭』を観ましたので感想を書きます。


久しぶりに素晴らしいアニメを観ました。見終わった後の清々しさは久しぶりでした。まず、あらすじを書いておきます。物語は16歳の高校生の男子と学校に通えなくなった高校の女教師との葛藤と恋の物語です。主人公の秋月孝雄は16歳にしては非常に大人びた少年です。すでに将来は靴職人になることを決めて黙々と靴職人目指して頑張っています。一方、もう一人の主人公雪野由香里は仕事によるストレスでトラウマを抱えてしまい仕事に行けずに朝から公園でビールを飲んでいるという生きることに行き詰った大人の女性です。彼女は自分と孝雄を比較して自分のことを成長していないと嘆き卑下している節があります。ただ、ひとの心は傷つきやすく脆いものだとしたら、そんなに卑下することもないだろうと私は思ったりします。日本社会は一人ひとりが経済活動に従って動いており、社会全体もそれに伴って全体運動していますので、いったんそこからはみ出してしまうととても居心地の悪いところなのでしょう。しかし、果たしてそれが正しいことなのかどうなのか。かつては企業戦士となって働くことで自己実現を行うというのがサラリーマンの既定の路線でした。しかし、企業の競争は激しくなり生存競争だけになりつつあって他を蹴落として自己の生存のみを優先するような経済活動で、果たして自己実現などが可能かどうかとても疑問に思います。

さて、孝雄は靴職人を目指しているので学校教育を煩わしく感じており、雨の日の午前中は休んで公園で靴の絵を描いています。学校に行きつつも勉強を半ば無意味と捉えており、いわば片足はドロップアウトしている感じです。一方、雪野は休職しており、味覚障害まで起こして現時点では完全にドロップアウトしています。そんな二人が出会って心を通わせます。心を通わせるといっても最初は恋ではなかったと思います。ドロップアウトした者同士が分かり合える共感が彼らの心を通わせたのでしょう。アウトサイダーである者同士の共感と言っていいかもしれません。そして、アウトサイダーであることは社会からのはみ出し者であり、どこか痛みを持っており、それは互いを繊細にします。そして、互いの心の繊細さに触れたとき、二人は次第に近しい気持ちになります。

ところが、ふとしたきっかけで雪野の正体を孝雄が知ってしまいます。孝雄は雪野の繊細な心を知っていたため、そして、既に彼女に恋し始めていたため、彼女をここまで追い詰めた先輩に手を上げて彼女の仇を討ちます。雪野は孝雄の仇討ちを知りませんが、どこかで何かを感じたのでしょう、そのあと二人はより一層近い関係になります。そして、雪野の自宅に訪れたときこれまでにない幸せを感じ、孝雄は恋愛にまで想いが高まります。それに対して雪野は恋愛なのかどうかは分かりません。二人でいることがこれまでになく幸せであることは確かです。そして、孝雄によって傷ついた心が癒されたのも確かです。二人は最後に互いの心を吐露して抱き合います。そして、雪野は実家に帰って教師として再出発し、孝雄は大人に成長することで今度は雪野を迎えに行こうと決意を固めて物語は終わります。

物語自体はさほど珍しくないと思います。確かに主人公の孝雄がとても大人であることに驚きますが、それ以外は特に珍しくないと思います。また、雪野のような心を病んだ教師は現在多くいると聞きます。多くの教師が学校生活で精神的に傷ついて休職しているというニュースを聞いたことがあります。おそらく雪野のようなケースは決して珍しくないのでしょう。ちょっと社会の暗いところを描いてあって新海誠にしては珍しいような気もします。

さて、ここからが本題です。この作品で特筆すべき点について言及します。それは自然の情景を描いた映像です。この作品は物語も確かに魅力的なのですが、それ以上に自然の描写がとても素晴らしいものになっています。雨に濡れた自然の描き方がこれまでのアニメにない素晴らしさでした。普段は動きのない情景が天気を雨にすることによって大きく変わります。自然や事物が雨に濡れることで色彩が際立って見えたり、風に揺れる木々や雨粒が心象風景として見事に浮かび上がってきます。雨に打たれて蒸気を発した空気が最早いつもとは違っています。

かつて日本文学は自然の情景を取り入れるのがたいへん優れていたと思います。しかし、それを映像化するのは非常に困難でした。なぜなら、実際の映像を撮ってもそれは日常的な情景であって、文脈に沿った印象を乗せた情景にはならないからです。ところが、それをこの作品は見事に描くことに成功しています。アニメ化することによって描きたい情景を見事にイメージどおりに描いているのです。いわば撮影では不可能なベストショットをアニメで見事に描いているのです。新海誠は元は文学部の国文学専攻だったはずです。日本の文学は伝統的に自然を描くことが多く、そして上手です。俳句にも必ず季語を入れて自然の移り変わりを表現するように日本独特の自然観があるからです。ただし、西洋だって自然観はあります。私は西洋の博物学が描く博物誌などに挿入されている動植物画は素晴らしいと思いますし、西洋の庭園のその自然のままにしようとする姿勢は良いと思います。それに対して日本の庭園は刈りこんで人工的にしてしまいがちです。おそらく、日本の場合、自然のままに任せると荒れ放題に自然が成長してしまうからだと思います。ところが、欧州は違います。例えば、ドイツなどは森を残しています。いったん森を伐採してしまうと二度と生えない気候になってしまったからです。また、英国ではナショナルトラストとして湖北地方など自然を残す運動があります。そうまでしないと自然を残せないからです。一方、日本は国立公園として自然を残そうとしていますが、山を削って自然を破壊すること甚だしいと思います。今回のウナギにしても絶滅を心配するよりもウナギの高騰を心配している始末です。日本人の感覚として自然は放っておけば勝手に再生するものと思っているようです。しかし、例えばオーストラリアでは山火事がいったん起これば二度と森は再生しない地域だってあります。それだけ日本の自然環境は恵まれているとも言えるのかもしれません。しかし、日本は戦後の経済成長の中で自然をとことん破壊してきました。今後、どこまで再生できるのかは分かりません。以前、吉本隆明が若い歌人が自然を詠んだ短歌が減ったと言っていたことがありました。それだけ日本人の中から自然に対する感性が失われたのだと思います。なぜかといえば都市化が進んで自然に触れる機会が減少したからだと思います。ながながと書いてきましたが、このアニメではそういった日本の自然に対する感覚がかつては文学であったのが、このアニメでは映像として見事に描かれていると思います。

風に揺れる枝、雲の中を走る稲妻、雨水のはね具合や波紋の広がり具合、とても素晴らしい表現でした。これはどのようなアニメ技法で描かれたのか素人の私には分かりません。CGなのかセル画風に手描きで描かれたものなのか、それともまったく別の技法なのか。いずれにしてもとても素晴らしい動く自然描写でした。実写では出せないアニメならではの表現でアニメにした甲斐があるというものです。実は、私は以前にこのような自然を描いたアニメ作品を期待したことがありました。それはディズニーアニメの『ポカホンタス』です。『ポカホンタス』の頃、CGが出始めた頃で水面の波紋や風に揺れる枝などコンピュータを使った自然な表現ができるのではないかと期待したことがありました。今回、そのときの期待以上の映像、自然な表現にさらにひとの感性を上乗せした素晴らしい映像を見ることができて本当に嬉しかったです!大げさな言い方かもしれませんが、アニメという表現ではあるものの、新海誠監督は自然を愛でるという日本文学の伝統の良き継承者なのかもしれません。

ありがとう、新海誠監督!

追記
自然には穏やかな自然もあれば、荒々しい自然もあります。アンドレ・ジッドが小説『田園交響楽』の中で自然とはベートーベンの田園交響曲のように美しいものだと言った反面、世界にはそうでないものもあると言いました。天国の楽園のような穏やかな自然だけでなく、石を裏返したときにムカデやダンゴムシがうじゃうじゃと這い出してきたり、動物の腹を切り裂いたら内臓がドバっとそのグロテスクな姿を見せたりします。表面は美しい曲面であっても、その中身はグロテスクな内臓だったりします。今回、この作品ではどちらかといえば、自然の美しい面ばかりを表現していたと思います。しかし、それは自然の一面に過ぎません。今度は是非もう1つの自然の面、荒々しかったり、グロテスクだったりする、魑魅魍魎が蠢くような自然の陰の部分を是非表現してほしいものだと思います。今作がとても素晴らしかったので、これは次回作への期待です。

2013年7月24日水曜日

牧野克彦『自動車産業の興亡』


今回は牧野克彦『自動車産業の興亡』を取り上げます。
  

今日の世界経済を考える上で自動車産業を抜きにしては考えられないほど極めて重要なリーディング産業であると言っていいでしょう。大きな雇用と利益を生む自動車産業は国を支える基幹産業であり、国家さえもその存在を無視できないものだと思います。(実際、米国は大統領がビッグ3のトップを連れて日本を訪れたこともありますからね。)そこで1886年に自動車が開発されてから現在に至るまでの百数十年間に生まれてきた約2500社の自動車メーカーの歴史について知っておくのは決してムダではないと思います。この本はそういった世界の自動車メーカーが生まれては消えていった興亡の歴史が図表や数値を交えて丁寧に描き出されています。また、著者自身が自動車メーカーに約40年間勤めた、いわば業界の内側の人間ですので、外側からうわべだけを見て知っているのと違って業界内部にも通じた深い見識に裏付けられた本だと思います。戦後の日本経済を支えてきた製造業は自動車と家電の二本柱ですが、今、家電は中国がその安い人件費を武器に世界の工場となって以来、日本を追い越しつつあります。もう一方の柱である自動車産業においても中国の生産台数はすでに世界一になっています。今後の日本の自動車産業の行く末を考える上でも、また日本経済の行く末を考える上でも自動車産業の歴史について知っておくことは極めて重要だと思います。この本はそういった自動車産業の歴史を知るのに最適な本だと思います。是非、ご一読することをお薦めします。

まず、自動車は欧州で発明されます。最初は蒸気自動車が発明されました。1769年にフランスでベルギー人によって3輪車が試作されました。意外なことに電気自動車もこの頃発明されます。1883年にフランスとイギリスでそれぞれ電気自動車が発明されました。ガソリン自動車はというと、まず1876年にドイツでガソリンエンジンが発明され、1885年に自転車にガソリンエンジンを搭載したオートバイを試作し、1886年に4輪車に搭載した自動車が試作されました。これらを開発したのはダイムラーとマイバッハというエンジニアでした。そう、あのダイムラーベンツのダイムラーです。そして、これとはまったく別に1886年に4サイクルエンジンを載せた3輪車を開発した人物がいました。それがベンツでした。自動車の発明にダイムラーやベンツが既にいたのですね。その後、ガソリン自動車が生き残ってゆくのですが、それには道路や石油という条件が整うまでに少し時間がかかりました。また、自動車レースがそれに大きく貢献しています。

さて、自動車の普及をおおまかに追ってみましょう。最初に欧州で発明された自動車ですが、初期の世界の生産台数は2万台程度でした。欧州では自動車は高級品でした。それを変えたのがアメリカのヘンリー・フォードです。コンベアー生産方式によってT型フォードの大量生産を可能にしました。そして、欧州では一部の富裕層しか買えなかった自動車でしたが、米国では一般大衆にも買えるようにしました。その結果、右図のように1900年から1980年までの間、アメリカが世界の自動車の生産の大半を担っています。世界大恐慌と第二次世界大戦の時期はさすがに生産は落ち込みますが、それ以外はほぼ順調に生産台数を伸ばして行きます。

一方、欧州はというと戦争のたびに生産を落としています。欧州の場合、特徴的なのは自国内ですべての自動車部品を賄うということが少なく、他国にわたって部品を揃えていたため、いったん欧州内のどこかで戦争が起こると部品が滞り、その結果、生産が思うように行かなかったようです。こういった違いもあってますますアメリカが自動車大国になったわけです。その間、アメリカ国内では競争が激しくビッグ3と言われるフォード、GM、クライスラーが台頭してゆきます。この自動車大国アメリカのダントツでのトップの地位は日本が自動車産業に参戦してくる1980年まで続きます。

日本の自動車産業は戦後に伸びて行きます。戦前もあったのですが、戦前は軍用車に限られていたようです。日本がアメリカを追い越すのはトヨタのリーン生産方式、いわゆるカンバン方式によって作られた高い品質によるものでした。元々、リーン生産方式はアメリカのデミング博士に由来するらしいです。また、自動車が小型化することにアメリカの自動車メーカーが対応できなかったのも大きな要因でした。その後、日米自動車摩擦が起こります。結局、アメリカの政治圧力に負けて日本が自主規制することでアメリカの自動車メーカーは倒産を免れ、その間にアメリカの自動車メーカーが技術を向上させて日本に追いついたそうです。

それから後に今度はグループ化の波が押し寄せます。世界の自動車メーカーはある程度のグループに組み替えられます。その結果、GM、フォード、ダイムラー・クライスラー、トヨタ、ルノー、VWの6大グループに分けられます。本書は2003年に刊行された本ですのでここまでの歴史ですが、しかし、その後も再編成されて、現在では、トヨタ、GM、VW、ルノー、現代自動車の5大グループになってしまいました。韓国の現代自動車が食い込んできました。


ところで、英国では自動車メーカーが発達しませんでした。というより出遅れてしまいました。英国は産業革命発祥の地でありながら、どうしてでしょう?それはすでに発達した産業が既得権益を守ったがために新興企業である自動車産業の発達を阻害したといえるのではないでしょうか。例えば、赤旗法という規制がありました。1830年頃、英国は既に蒸気自動車を開発してロンドンを蒸気バスが走っていました。しかし、蒸気バスはエンジンが蒸気機関ですから黒煙を排出するので住民からは嫌われていました。また、すでに発達していた乗合馬車は蒸気バスに仕事を奪われるのではないかとたいへん恐れていました。そこで1865年に乗合馬車の団体は議会に働きかけて自動車の前方55メートル先で赤旗を持った警告者が自動車を通ることを付近の通行者に警告しなければならないという赤旗法を通してしまったのです。考えたら、バカバカしい法律ですよね。しかし、そのことによって英国では自動車の普及が妨げられてしまったのです。ドイツやフランスで自動車の開発が進んだことに危機感を抱いて1896年になって赤旗法はやっと廃止されました。また、第二次世界大戦後、ドイツやフランスの工場が破壊されたために英国の自動車産業は一時期伸びるのですが、次第に復興した欧州大陸のメーカーに抜かれてゆきます。現在では英国の国産メーカーは外国のメーカーに吸収合併されて、独立した英国の自動車メーカーはとうとう無くなってしまいました。

今度は日本の自動車メーカーの国内でのシェアを見てみましょう。トヨタは比較的シェアを維持し続けていますが、日産は新規参入組に押されて20%近くシェアを下げています。一方、新規参入組でシェアを伸ばしたのはホンダとスズキです。マツダと富士重工はシェアを落とし、三菱やダイハツはほぼ横ばいです。この図は1995年までですので、現在はもう少し日産のシェアは回復しているのではないでしょうか。瀕死のクライスラーをアイアコッカが建て直したようにカルロス・ゴーンが官僚体質だった日産を改革して経営を建て直しましたからね。




今度はアメリカ市場での各自動車メーカーのシェアを見てみましょう。右図のようになります。フォードやクライスラーはほぼ横ばいですが、GMがかなりシェアを落としています。そして、その落とした分を勝ち取ったのが日本の自動車メーカーです。GMがシェアを落とした原因は様々ありますが、まず1つ挙げられるのは内製率が80%と非常に高かった点があります。トヨタの内製率が30%ですので極めて高いことが分かると思います。同時にUAW(全米自動車労働組合)との確執がありました。内製率が高いことからもそれを外注しようとすれば労働組合と対立するのは目に見えていますよね。これらのためにGMは非常に非効率な生産になったのだと思います。他にも人気車が無いとかRV車に出遅れたなど要因は多々あります。例えば最新鋭のロボットを工場に導入したけれど故障が多くてまったく使いものにならなかったという大失敗もあったようです。先日、デトロイトが財政破綻しましたが、大きな原因はGMの低迷にあると言えるでしょう。


さて、最後に現在の世界の自動車産業の趨勢を見ておきます。2012年のデータですが、世界の自動車メーカーの販売台数ランキングと国別の自動車生産台数と国別の自動車販売台数です。



















日本のトヨタや日産・ルノーはよく頑張っています。ホンダもよく食らいついています。ですが、世界の生産台数と販売台数を見てみて下さい。かつては自動車の世界最大の市場はアメリカでした。アメリカが最も多く生産して最も多く購入していました。しかし、今では中国が世界最大の自動車市場になりました。中国に世界各国から来た自動車メーカーが工場を建てて自動車を作り、そして、作られた自動車を中国が買っています。世界経済にとって、とても象徴的だと思います。日本もいずれ自動車工場のほとんどが中国に移転してしまい、移転した工場は中国を本拠地としてしまうでしょう。また、電気自動車がガソリン自動車にとって変わる時代が到来したとき、電気自動車はこれまでのガソリン自動車とは違って家電のように部品の調達が垂直統合から水平分業に変わるのではないでしょうか。そうなれば、ますます日本の自動車産業は苦しくなると思います。日本がこの世界の潮流に逆らっても仕方ないのではないでしょうか。むしろ、日本としては製造業から知識産業に新たに産業構造の転換を図るべきなのだと思います。

いずれにしても、自動車産業の歴史を知る上でこの本を読むことを強くお薦めします。

2013年7月14日日曜日

遠藤誉『中国動漫新人類』


今回、取り上げるのは遠藤誉の『中国動漫新人類』です。


感想としては非常に面白い本でした。これは単に中国における日本アニメの受容のされ方を知るだけでなく、現代の中国を知るには欠かせない本だと思いました。この本が出版されたのは2008年ですので、現在は、若干、状況が変わっているかも知れません。しかし、八〇后と言われる1980年代以降の生まれで日本の動漫(アニメや漫画)に親しんできた中国の若者たちのルーツを知るには欠かせない一冊であることに変わりはありません。日本と中国の間には懸案となっている問題がいくつかありますが、それらの問題を考えるためにもこの本で書かれていることはとても重要だと思います。是非一度読むことを強くお薦めします。

この本はタイトル『中国動漫新人類』とあるように日本のアニメや漫画が大好きな中国の若者について書かれた本です。しかし、彼らは日本のアニメが大好きな一方で愛国主義教育によって抗日戦争という史実を知り日本を嫌う反日という別の側面も持っています。相反する2つの感情を中国の若者たちは内に抱えもっています。この本はそれらについて見事に描いています。この本は内容的には前半と後半に大きく分かれており、前半は日本アニメが中国で愛されるようになった経緯や状況などが様々な立場の人たちへのインタビューによって多角的に丁寧に描かれています。後半は反日に至った経緯について緻密に調べられて描かれています。前半が社会学的とすれば、後半は歴史的な話になっています。

読んでいる途中で分かったのですが、著者の遠藤誉氏がかなりの高齢であることに気づきました。巻末にある著者紹介を読んでみると1941年中国長春市生まれとあり納得しました。この本は2007年頃から雑誌に掲載されたようなのですが、ということは、つまり、この本を執筆していたときに遠藤氏は既に60代後半だったということになります。その歳でよくアニメとかに理解を示せるなあと驚きました。同時に彼の歴史認識に対しても実際にその時代を生きた現実を知っている方だなあというのも分かりました。彼の家族に起こった悲劇を読んで久しぶりに過去の戦争の悲惨さを思い出しました。教科書の知識として日中戦争を知った若者と実際にその時代を生きて肌でその時代を知っている人とでは歴史認識がちょっと違いますからね。後半の歴史の話を読み始めた最初は私にはやや退屈に感じられたのですが、読むに従ってとても興味深い内容であることが分かってきました。この本が単に中国における日本アニメの人気が高いことを取り上げるといった、ひとつの社会現象を捉えたというだけでなく、もう一歩踏み込んで過去の歴史的な背景まで描いていることでグッと深みが増しています。サンフランシスコにおける華僑の人権運動の話を読むに至っては中国で起こっていた反日デモに対する理解をかなり深めることができました。

さて、この本では中国で日本アニメが普及した要因のひとつを海賊版にあると考えています。海賊版が出回っているために小遣いの少ない子供たちの誰もが手に入れやすかった。それに比べて米国のアニメは著作権が厳しく海賊版が出回りにくかった。また、日本ではあまり見られないCVDというファイル形式も安易に動画のコピー・再生を容易にした。アニメであってもこのファイル形式だどパソコンなどで簡単に再生できるようで比較的簡単に普及したようです。それに翻訳の問題も台湾や香港から入ってくることで日本とカルチャーギャップがあっても内容を理解しやすかったし、さらにも名門大学の学生が日本アニメを好きなあまり競って翻訳したことも大きかった。また、中国政府が日本のアニメをたかがアニメや漫画ということで軽く見なして海賊版が普及することを黙認していた。それに比べると米国のアニメに対してはどうもイデオロギー的に警戒していたらしい様子が窺える。そして何より、中国で普及した一番の要因は日本アニメの面白さが中国の若者たちを魅了したことでした。当たり前ですが、これが日本アニメが普及した一番の原動力になっています。『鉄腕アトム』や『ドラえもん』、『スラムダンク』や『セーラームーン』、果ては『クレヨンしんちゃん』まで幼児から青年、幼児の母親まで幅広い視聴者に受け入れられた。しかも単に面白い娯楽というだけでなく、また米国のような政治的イデオロギーではなくて、もっと普遍的な、ヒューマニズムなど精神的な意味での思想としてじわじわと無意識下に浸透するように受け入れられていったようです。それは私たち日本人にも分かる感覚だと思います。アニメを見て感動したことのある人なら分かると思います。

ところで、面白かったのは中国政府高官の話です。興味深い内容でしたので、ちょっと長いですけど以下に引用します。
日本のアニメというのは特に思想性とか目的のようなものがないんですよ。思想性とか、宗教性とか、他の文化圏の人間を説得しよう、あるいは感化しようといった、意図的な中身、目的性といったものがありません。ただ、若者が喜ぶものを作っているという感じですね。しかし、アメリカのアニメは違う。アメリカのアニメには思想性とか目的性があります。すなわち、アメリカ社会が持っている民主主義とか、人権主義とか、あるいは平等といった、要するにアメリカ社会が持っている価値基準のようなものを、アニメの中に含ませているんですよ。これをクオリティの高い映像で芸術作品のように見せて、うっとりさせ、次第にその思想性を浸透させていく。その意味では、日本のアニメよりずっと思想性と目的性を持っていると私は思っています。日本は何かにつけて、アメリカのような戦略性に乏しい国でしょう。経済が繁栄すればいい、それによって国民が幸せになればいいと思っているという傾向はありますね。それはそれで良いことですよ。ただ、アメリカの言いなりになり過ぎて、そこに自尊心がないようにお思います。現代の日本は国家戦略といった大局的視点を持ち得ない国でしょう。アメリカは違います。あそこは英雄主義にしろ、世界のアメリカという社会思想にしろ、確固たる戦略を持った国だから、アニメの中に、その思想性が自然に忍び込んでいるんですよ。だから、もし危険性ということを言うならば、どんなに量が少なくとも、アメリカの方が日本よりもっと高いんですよ。
実に的確に日本と米国を捉えていると私などは思います。ここには日本と米国の特徴が見事に捉えられています。ひと言でいえば、日本には戦略性がなく、米国は明確に戦略を持っているということに尽きると思います。戦略があることが良いことなのどうなのか、それがアニメなどコンテンツが普及することに吉と出るか凶と出るかは難しい問題です。しかし、グローバルに展開しようとする場合、戦略を持っていた方が成功している例が多いのではないでしょうか。日本アニメのような例はむしろ稀なように思います。(ところで、話はそれますが、実際、戦後すぐの頃、米国のCIAは米国文化を日本に植えつけるように情報操作しています。日本のアメリカナイズは米国の戦略によって半ば意図的に行われた結果なのです。)

さて、日本アニメが中国に普及した結果、事態はさらに進展していきます。まず、あまりの普及に驚いた中国政府が日本アニメの放送を制限しようとしました。放映時間に制限を加えたのです。しかし、海賊版が深く浸透してしまったために、もはや放映時間の制限だけでは日本アニメの普及を食い止めることができなかったようです。そこで中国政府は中国でアニメの制作を奨励します。日本アニメに取って代わるために国産アニメを国策として進めたのです。ところが、これも上手く行かなかったようです。日本アニメに比べて国産アニメは映像も内容もクオリティが低かったからです。さらにマーケティングの問題もあってうまく行かなかったようです。ただし、今後はどうかは分かりません。私の考えですが、経済成長と共に中国でもクリエイターたちが育って、いずれは日本アニメを追い越す日も来るのではないでしょうか?実際、これまでも中国映画や香港映画は質の高い作品を作ってきたと思います。ヒューマンドラマでも単なる娯楽作品でもいずれの場合でもそれなりに質の高い作品を世に送り出してきた実績があると思います。ならば、アニメや漫画もクリエイターさえ育てば質の良い作品を作るようになるのではないでしょうか。日本アニメがいつまでも一部のオタクにしか受けないような偏った作品ばかりを作っている間に中国はより質の高いアニメ作品を作って日本を追い越す日が来ないとは言えないと思います。

さて、本書の後半は日本アニメ大好きと反日という相反する2つの感情を抱えた若者たちの心情を理解するために歴史の話になります。後半と言ってもページ数としては第5章と第6章くらいですので量的には少ないのですがね。そこには憤青(憤怒青年)と言われるネットに起源を持つ愛国民族主義者たちの話や江沢民の世界反ファシズム戦争勝利記念大会での演説の話、サンフランシスコの台湾華僑が世界抗日戦争史実維持聯合会という団体でロビー活動した結果、従軍慰安婦問題をナチ戦争犯罪情報公開法に加えるようになったという話や南京大虐殺が人権侵害問題としてアメリカで取り上げられるようになった話など非常に興味深い話がたくさん詰まっています。これは非常に勉強になりましたし、従軍慰安婦問題や南京大虐殺を含めた日本の戦争について改めて勉強しなければという気を起こさせてくれました。昨今、橋下徹大阪市長の従軍慰安婦発言が問題となりましたが、日本の国内にだけ目を向けるのではなく、世界にもこの問題で目を向ける必要があるのだなと改めて思い知らされました。

最後に繰り返しになりますが、アニメに関心のある方、中国に関心のある方はこの本は読んでおいた方がいいと思います。その理由を述べる前にざっと世界の状況を見渡してみます。米国のハリウッドは映画産業で確固たるブランドを築きました。それは娯楽作品でも芸術作品でもいずれにおいても高いクオリティを実現しているというちゃんとした実力を持ったブランド力があるからです。さらにグローバリゼーションでかつては発展途上国だった多くの国でインフラ整備が進んでテレビが普及する中、不足するコンテンツを補うものとして米国はTVドラマの販売を広げています。そこではハリウッドの映画スタジオが撮る高品質なTVドラマを売り込んでいます。それは別に米国だけではありません。韓国も韓流ドラマやK-POPで娯楽産業を国家戦略として売り出しています。今のところ、韓流ドラマは東アジアだけでなく、欧州や中東の一部でも受け入れられているので成功していると言っていいでしょう。そして、中国は国産アニメを着々と作り続けています。米国のピクサーを真似た3Dアニメも既に作っていますし、携帯電話で読める漫画やアニメも既に出ています。では、日本のアニメはどうでしょうか。私は以前から日本のアニメもグローバルコンテンツとして十分に世界に通用すると思っています。実際に世界中の子供たちが視聴しているでしょう。最近はクールジャパンの名目で日本政府も日本アニメの普及に努めているとは思います。しかし、あくまで限られた視聴者だと思います。それに著作権やブランド力に至ってはハリウッドのシステムには遠く及びません。まだまだ体制が不十分だと思います。ですが、何よりもコンテンツそのものに何かが足りないと私は思っています。喩えて言えば、富野由悠季監督の『機動戦士ガンダム』はそれまでは子供向けだったアニメを青年でも楽しめるようにアニメの視聴者の年齢を押し上げたと思います。言わば、子供向けと限られていた壁を突破して、さらに広い市場を切り開いたと思います。今、日本アニメはグローバルに展開することを夢見ていますが、ガンダムのような今までの常識を破るような突破する何かが必要なのではないでしょうか。そこには意識した明確な戦略が必要ではないかと思います。私はアニメを「たかがアニメ、所詮はアニメ」とは考えていません。アニメも立派な表現形態のひとつであって文学や映画のように人々の心に深く訴える作品、人々に深く考えさせる作品、人々の心を強く感動させる作品を創り出すことができるメディアだと思っています。文学に世界文学があるように、アニメもまた世界で高く認められる精神性の高い表現ができるものだと思っています。単なる子供向けのものだとは考えていません。アニメが子供向けのものだと誰が決めたのでしょうか?そんなものは言うなれば『銀河英雄伝説』において帝国軍が必ずイゼルローン回廊を通って攻めてくるものと決めてかかっている固定観念と同じではありませんか。アニメが子供だけに限られた表現形態だと決っているわけではありません。アニメの可能性はもっと幅の広いものです。アニメの可能性はまだ十分には開かれていません。アニメの真の発動はこれからだと私はそう確信しています。

最後にあとがきを読んでいたら著者の関係者への感謝の言葉の中に柳瀬博一氏の名前が載っていました。柳瀬さんと言えば『文化系トークラジオLife』のUSTREAM放送でよくお見かけする博識でバランスの良いセンスをお持ちの編集者の方ではありませんか。この素晴らしい本の編集に携わっていたとは驚くとともに納得もしました。さすがにセンスが良いと。歳をとると男性はだんだん硬直しがちで、柔軟な思考や鋭敏な感覚を持ち続けること、若い頃のセンスに加えてバランスの良さを加えたセンスを維持しつづけることが非常に難しくなると思います。私自身は不器用でそういうカッコイイおじさんになれなかったのですが、私が若い頃にそういう人が一人だけ近くにいたので他のオジサンと比較できたので、そういう歳のとり方ができるんだと知ることができました。歳をとると男性は女性以上に若者から邪険にされたりするので、せめてカッコイイおじさんになってあまり邪険にされないオジサンになりたかったですね(寂寥・・・)。

それと参考までに目次を掲載しておきます。
第1章 中国動漫新人類―日本のアニメ・漫画が中国の若者を変えた!
  中国清華大学の「日本アニメ研」が愛される理由
  『セーラームーン』で変身願望を実現した中国の少女たち
  『スラムダンク』が中国にもたらしたバスケブーム
  なぜ日本の動漫が中国の若者を惹きつけるのか
  意図せざる?知日派?の誕生―中学3年生から見えてくる日本動漫の影響度
  『クレヨンしんちゃん』にハマる中国の母娘
  日本にハマってしまった「哈日族」たち

第2章 海賊版がもたらした中国の日本動漫ブームと動漫文化
  初めて購入してみた海賊版
  「たかが動漫」と、野放しにした中国政府
  動漫の消費者は海賊版が育てた
  仮説:「タダ同然」のソフトが文化普及のカギ
  中国における動漫キャラクターグッズの巨大マーケット
  日本動漫の中国海賊版マーケット
  進化する海賊版製作方法―DIY方式と偽正規版
  中国政府の知財対策と提訴数
  日本アニメの字幕をつくる中国エリート大学生たち

第3章 中国政府が動漫事業に乗り出すとき
  中国のコスプレ大会は国家事業である
  中国の大学・専門学校の75%がアニメ学科を
  国家主導のアニメ生産基地の実態
  アニメ放映に関する国家管理―許可証制度
  『クレヨンしんちゃん』盗作疑惑の背景に見えてくるもの
  中国政府は、日本動漫をなぜ「敵対勢力」と位置づけたのか?
  ゴールデンタイムにおける外国アニメ放映禁止令が投げかけた波紋
  日本アニメ放映禁止に抗議して、地下鉄爆破宣言をした大学生
  日本アニメの多くは、実は中国で制作されている?
  アメリカも崩せない中国ネット監視の壁

第4章 中国の識者たちは、「動漫ブーム」をどう見ているのか
  北京大学文化資源研究センター・張頤武教授の見解
  『日本動漫』の作者・白暁煌氏の見解
  中国美術出版社の林陽氏の経験
  ある政府高官の、日本動漫に関する発言―中国はいずれ民主化する

第5章 ダブルスタンダード―反日と日本動漫の感情のはざまで
  清華大学生の日本動漫への意識と対日感情
  ネット上での日本動漫と対日感情に関する議論
  中国人民大学の「日本動画が中国青年に与える影響」に関する報告書

第6章 愛国主義教育が反日に変わるまで
  なぜ愛国主義教育が強化されるようになったのか
  「抗日戦争」と世界反ファシズム戦争との一体化
  台湾平和統一のために「抗日戦争」協調路線を展開
  台湾系アメリカ華僑華人社会と、中国政府の奇妙な関係
  華僑華人・人権保護団体が巻き起こした慰安婦問題
  ネットで暴れる民族主義集団―憤青
  日中の戦後認識のズレは、どこから来るのか
  ―アメリカに負けたのであって、中国に負けたとは思っていない日本

第7章 中国動漫新人類はどこに行くのか
  日本動漫が開放した「民主主義」
  ウェブににじむ若者の苦悩―「親日は売国奴ですか?」
  中央電視台が温家宝のために敷いた赤絨毯―「岩松看日本」
  精神文化のベクトル、トップダウンとボトムアップ
  中国が日本に「動漫」を輸出する日


2013年7月8日月曜日

堀内一史『アメリカと宗教』

 
 
今回は堀内一史の『アメリカと宗教』を取り上げます。


私たちがアメリカについて考えるとき決して外してはならないのがアメリカの宗教です。アメリカと宗教は切っても切れない関係にあります。一見、アメリカは世界で最初の民主主義国で科学と合理主義の塊であり、宗教とは無縁の国だと考えがちです。しかし、実際のアメリカはそうではありません。英国のピューリタン(清教徒)がアメリカに入植して以来、この国は極めて宗教的な国です。

多くの日本人がそうだと思うのですが、普段、目にするアメリカに関する情報、例えば、アメリカの映画、アメリカの音楽、アメリカのニュースなどから、私たちはアメリカという国は極めて先進的で自由なリベラルな発想をする国だと考えがちです。確かにそれは間違っていないと思います。しかし、それはアメリカの顔の半分に過ぎません。もう半分の顔は、あまり目立って報道されませんが、極めて地味で保守的で信心深い、リベラルからは程遠い宗教的な顔を持っています。

保守とリベラル・・・。そうです。アメリカは共和党と民主党の二大政党制の国ですが、保守を支えている人たちの多くは、つまり、共和党を支えている人たちの多くは実はこの宗教的な人たちなのです。そして、宗教と政治が顕著に結びついているのは共和党を支えている宗教右派と言われる人たちなのです。近年のアメリカでは共和党と民主党が代るがわる政権の座に就いていますが、それだけこの国の宗教的な人たちの力は根強いのです。もちろん、リベラルを支えている人たちの中にも宗教的な人たちがいないわけではありません。最近は宗教左派というのも存在します。しかし、どちらかと言えば、彼らは宗教的な思想信条は個人の問題として捉えて政治とは切り離して考える人たちが多いのではないでしょうか。ところが、宗教右派の人たちはそれとは違って、自分たちの宗教的な思想信条を政治を使って社会に大きく反映させようとしているのではないでしょうか。例えば「人々はもっと慎ましやかに禁欲的に生きねばならない。ハリウッド映画のような性的に破廉恥で乱れた生活など断じて許されない。もっと政治に積極的に関与して人々を正しい道に導かなければならない」と考えるような人たちではないかと思います。つまり、極めて保守的な考え方をする人たちです。そして、その保守的思想の根底にあるのが彼らの宗教です。一般に保守というと、単純に自国を愛するという愛国心に支えられたナショナリズムが多いと思います。しかし、アメリカの場合は、そういったシンプルなナショナリズムもあるのはありますが、むしろ多くの保守はその根底に宗教がある保守だと思います。

この本はそういったアメリカの宗教について歴史を追いながら見事に読み解いています。アメリカを本当に理解するためには、アメリカの宗教に対する理解が絶対に欠かせません。そういう意味では、この本はアメリカを理解するためには欠かせない一冊です。


さて、ここでいう彼らの宗教とは何でしょうか?確かにアメリカは移民の国であり、様々な種類の宗教が入り乱れています。しかし、その中でも最も影響力のあるのはキリスト教です。しかも、ピューリタンとして入ってきたものですから、キリスト教の中でも、元はプロテスタントです。そのプロテスタントとして入ってきた宗教が歴史の時間の流れの中で様々に変化・分化して、さらに様々な紆余曲折を経て、現在では多様な宗派として林立しています。例えば、バプテスト派教会、メソジスト派教会、長老派教会などのように分かれています。ただし、これだけではなしに、この分化以外に主流派、福音派、黒人教会などというようにも分かれています。その結果、南部バプテスト連合(福音派)や合同メソジスト教会(主流派)といったように様々な宗派に分かれています。中には米福音ルター派教会(主流派)なんていうのもあります。さらに近年では宗派に囚われないメガチャーチなるものも存在します。このように宗派は非常に複雑に分化しています。この本ではそういった複雑な変遷が鮮明に描かれています。また、この本では、スコープス裁判など歴史的なポイントとなる事件や問題もちゃんと押さえられています。

私たち日本人はアメリカというと資本主義の権化で欲望を全面的に肯定する欲深い国だと考えているかもしれません。しかし、アメリカの宗教という別の側面を知るとそのイメージとのあまりの違いに驚かされると思います。実はアメリカを支えているのは資本主義や合理精神とは別のもう1つものがあって、それが極めて禁欲的で保守的な宗教であることに気付かされると思います。アメリカを知るためにはアメリカの宗教を知る必要があります。この本はアメリカの宗教を知る入門書として最適な一冊だと思います。一読することを強くお薦めします。

なお、自分の整理のためですが、下記に各宗派についてのメモ書きと本書の図表を抜粋しておきます。

バプテスト派教会
バプテスト派教会は人口比で17.2%を占めるプロテスタント最大の教会。さらに、この中の南部バプテスト連合は保守的な福音派に属するプロテスタントで最大規模の教派である。また、米バプテスト教会USAはリベラルな主流派に属する。バプテスト派教会の特徴は洗礼が全身を水に沈める浸礼であること、信仰告白を重視して幼児洗礼をみとめないこと、教会の独立性が極めて高いことであるらしい。

メソジスト派教会
メソジスト派教会はバプテスト派教会に次ぐ信徒数を誇る。特徴は個人の信仰の自由意思を尊重し、悔い改めれば誰でも救われるという救済観、キリストの十字架上の死による代理贖罪を強調する、幼児洗礼も認めることらしい。

その他、ルター派教会、ペンテコステ派教会、長老派教会、回復派教会、米国聖公会、ホーリネス派教会、会衆派教会、など様々な教会・教派がある。

さらに、教会毎に分類するのではなく、政治との関連で分類する見方がある。それが主流派と福音派である。端的に言えば、主流派は世俗に寛容なリベラルであり、福音派は聖書や教義に厳格な保守である。ただし、近年は宗教左派に福音派左派が存在するので、宗教的態度としては保守であっても政治的にはリベラルであるので、必ずしも一般に考えられる保守とは限らない。

主流派
主流派とは多数派という意味での主流派ではない。宗教的・歴史的な意味で主流派という名前になったようだが、その由来はよく分からない。とりあえず、福音派ではない人々と定義するのが分かりやすい。特徴としては概して寛容である。また、隣人愛の実践として社会福祉に強い関心を持つ。聖書の内容を絶対視せず、解釈を加えてゆくことが多く、神学的にはほぼリベラルである。元は概ね共和党支持だったが、1980年以降は民主党に支持が傾いている。ただし、近年は信徒数の減少に歯止めがかからない状況とのこと。

福音派
基本的には神学的な意味での保守派である。ただし、実態は極めて多様である。しかもプロテスタント固有の信仰様式ではなく、カトリックにもまたがっており、教派にも囚われることなく、諸教派に福音派は存在する。例えば、ブッシュ大統領は主流派の合同メソジスト教会に属するが、福音派の信仰を持っている。実にややこしい。福音派の多くは政治的には保守で共和党を支持する傾向が強い。ただし、政治的にはリベラルな福音派も少数ながら存在する。なお、福音派の特徴は外部団体との協力には消極的で社会への奉仕よりは福音を拡大しながら自らの信仰を深めることに強い関心を持っているらしい。近年は信徒数が増える傾向にあるらしい。

原理主義
原理主義者は福音派の中のさらに保守的傾向の強い人たちである。

以上のように非常に入り組んでいて複雑であり、しかも時々刻々と変化するため彼らの位置づけは必ずしも固定的ではなく、流動的である。いつなん時、これらのポジションが変化するか分からないと思います。












2013年7月6日土曜日

マシュー・リーン『ボーイングvsエアバス』

 

今回はマシュー・リーンの『ボーイングvsエアバス』を取り上げます。

この本は戦争を挟んで航空機がどのように発達し、その後、2つの航空機メーカー、ボーイングとエアバスに収斂してゆくかを描き、さらにこの2社がライバルとして如何に競ってきたかを綴ったノンフィクションです。


現在、旅客機と言えば、ボーイングとエアバスの2大メーカーが主流になっています。その2大メーカーがどのように成長し、なぜ生き残ることができたかをその足跡を綿密に追うことによって見事に浮かび上がらせています。また、旅客機とは何なのか、人々が必要としている旅客機とはどのようなものなのかということも彼らが歩んできた足跡を辿ることで自然と分かるようになっています。

ところで、日本の航空機産業はどうだったのでしょう?日本は家電と自動車で世界第二位の経済大国にのし上がりましたが、航空機だけは世界のトップ企業を育てることには成功しませんでした。日本は戦時中は零戦という優れた戦闘機を作ることに成功したにも関わらず、戦争に負けたことによって戦後は戦勝国側から航空機の製造を長らく制限されて、制限を解除されたときには時既に遅く、世界の航空機メーカーから技術力を大きく引き離されて、世界に太刀打ちできる航空機メーカーを育てることができませんでした。なぜ、戦勝国は敗戦国の航空機製造を制限したのでしょうか?その理由は航空機が戦争にとって極めて大きな役割を果たすからです。第二次世界大戦ではっきりと示されたのは戦艦に象徴されるような大艦巨砲主義の時代は終わったということでした。代わりに台頭したのが、空母から出撃した戦闘機による攻撃や爆撃機による高高度からの空爆、絨毯爆撃でした。それゆえに戦勝国は敗戦国が二度と反撃できないように敗戦国の航空機を生産する能力を抑えようと考えたのです。その結果、日本は占領期間を終えて自衛隊を持った後も、自前で戦闘機を作ることはできず、米国から戦闘機を購入するということを長らく続けることになったのです。しかも購入したのは米国の最新鋭の戦闘機ではなしに1つ前の世代のいわば古いタイプの戦闘機だったのです。ともかく、そうした経緯によって日本の航空機産業は長らく低迷することになったのでした。

そうやって日本を含めた敗戦国側の航空機産業を抑制して、戦勝国側の航空機メーカーは順風満帆で成長していったのでしょうか?実はそうではありません。戦勝国の航空機メーカーは航空機メーカー同士で熾烈な争いを繰り広げました。米国にはボーイングのほかにダグラスやロッキードなど手強い競合企業がたくさんありました。欧州も同様で各国間の航空機メーカーで争っていました。そうした激しい競争の中からボーイングが旅客機として抜きん出た企業に成長してゆくのです。一方、欧州のエアバスはボーイングに負けじと欧州各国の航空機メーカーを統合してコンソーシアムという組織体にすることでボーイングに対抗してきました。このように彼らはぬるま湯の中で成長したわけではなくて、激しい競争の中でたゆまぬ努力をし続け、時には合従連衡を重ねたりしながら、2社は育っていったのです。

さて、航空機同士の競争となると私たちはつい、より速く、より大勢の人たちを運ぶことができるというのが競争に勝つ要件かと考えてしまうかもしれません。しかし、実際はそうではありませんでした。例えば、コンコルドです。コンコルドは旅客機で音速の壁を超える初めての超音速旅客機です。しかし、音速の壁を超えるのは技術的に極めて至難の業でした。非常な苦労の末、膨大な開発費と長い時間をかけて開発したコンコルドでしたが、機内は狭くて決して快適とは言えず、さらに燃費が悪い上に航続距離もとても短いなどビジネスとしては極めて不経済な代物でした。結局、コンコルド以後は超音速旅客機は開発されることはなくなってしまいます。コンコルドはより速くを追求しても成功しなかったという失敗事例になってしまいました。では、より大勢の人たちを運ぶというのはどうだったでしょうか?こちらは簡単に想像がつきます。より大きな機体にして客席を増やしても実際に客が乗らなかった場合、空っぽの空席で飛んでいることになります。高い燃料費がかかっているのに空席ばかり運んでいたのではビジネスになりません。乗客で席が埋まってこそ旅客機はビジネスになるのです。したがって、航空機メーカーの競争はいかにビジネスとして優れているかであって、飛行機の能力として速いとか大勢の載せられるとかいった単なる技術力にあるのではなかったのです。(ただし、もちろん、技術力に意味がないと言っているわけではありません。ビジネスに成功するにしても、それを支える技術力が必ず必要だからです。ただ、ビジネスの要件を満たしていなければ、たとえ高い技術力があっても企業は生き残れないのです。)

それから、この本を読むと大きな商談をまとめるビジネスマンたちが次々に登場してきます。航空機販売ですから、一機だけでも極めて高いお金が動くのは間違いありません。しかも、その一機が糸口になって次々に商談が広がっていったりします。そういう男たちの生き様も少し垣間見ることができてけっこう面白かったりします。

さて、私たちの時代は飛行機が当たり前になってしまいました。ちょっと音がするなと思って空を見上げたら飛行機が飛んでいたというのが当たり前の時代です。夜空を見上げてもチカチカと点滅する光が動いているのが見えて飛行機が飛んでいるのだなとすぐに分かります。ライト兄弟が初飛行に成功したのが1903年です。それからたかが110年です。あるいは、ボーイング29、つまり、B29が東京を空爆し、広島・長崎に原爆を落としたのが今から約70年前です。ほんの少しばかりの時間で飛行機が飛ぶのが当たり前になってしまいました。そして、世界の大空を飛んでいる旅客機の多くがこのボーイングとエアバスです。これだけたくさんの飛行機が空を飛んでいるのに見かける旅客機はこの2社がほとんどです。凄いことです。今後もこの2大航空機メーカーが2強であり続けるのかどうかは分かりません。新たな航空機メーカーが対等に競い合える競合企業として熾烈な争いに加わるかもしれません。しかし、たとえ第三のメーカーが加わったとしても、この2社がそう簡単にトップの地位から転げ落ちるとは考えにくいと思います。当分はこの2社が世界の空を支配するのは間違いないと思います。そういう意味では、ボーイングとエアバス、この2社についてどのような歴史を持った企業なのか、知っておくのは悪くはないと思います。

ちょっと文章の締めが上手く締まりませんでしたね。ここはひとつプロの方に締めてもらうことにしましょうか。そう、私たちの世代でジェット旅客機と言えば、城達也のジェットストリーーム♪です(笑)。では、最後までごゆっくりとお楽しみ下さい。


尚、飛行機とアメリカの関わりを描いた歴史書に下記のものがあります。飛行機に焦点を当てて別の角度から見たアメリカ、広い視点から見たアメリカという点で興味深く読める本です。是非、読んでみて下さい。

※なお、この『ボーイングvsエアバス』は2000年に刊行された本です。したがって、若干、現状とは異なっているかもしれませんのでご注意下さい。