2013年6月24日月曜日

東京都議選の感想

今回の東京都議選の感想です。

私は民主党を支持していたので今回の民主惨敗は残念な結果だった。しかし、結果を見て驚くということはなく、予想した結果だった。まず、今回の選挙について私なりの分析を述べておく。まず、民主党だが、選挙前の様子では民主党を批判はしても支持する声は見受けられなかったので前回の衆院選と同様に議席を大幅に減らすだろうことは予測できた。一方、自民党に関しては株価に陰りは見えるもののアベノミクスに対する世間の評価はプラス評価こそすれマイナス評価はほとんどなかったと思う。したがって、都議選においても前回の衆院選と同様に議席を大幅に増やすだろうことは予測できた。また、維新に関しては橋下慰安婦発言の悪影響で得票を大きく減らすだろうことも予測された通りだった。みんなの党の伸びは橋下慰安婦発言がなければ維新に流れていたはずの票がみんなの党に流れた結果だと思う。唯一、共産党が議席を倍増したのが意外だった。どのような有権者の意思が働いたのかは今のところ明確な答えは得られていない。ただ、これは東京という大都市だから成し得た結果であって国政になるとそうは伸びないだろうと思う。それから、生活の党、社民党、緑の風に関しては議席を確保できないだろうことは選挙する前からおおむね分かっていたのではないだろうか。したがって、投票率が低くなるのも予想できたことだと思う。政治に無関心な層に訴えかけるような話題性が今回の選挙にまったく無かったからだ。こうしたことを踏まえれば、今回の選挙結果は想定の範囲内で驚くことは何もなかった。

ところで、私がなぜ民主党を支持するのかについて理由を述べておこう。私は保守政党とリベラル政党による二大政党制を支持しており、保守政党ではなくリベラル政党を支持している。したがって、自民党ではなく、民主党を支持するという結果になる。もちろん、政策で支持する政党を考えてはいる。そして、今の日本にとって喫緊の政策課題は何と言っても財政問題を抱えた経済政策だと考えている。ただ、そこでとれる経済政策は限られており、実はどの政党が政権を取ってもそう大して大きな違いが生じるとは思っていない。あえて言えば、経済成長重視タイプか社会福祉重視タイプかのいずれかだと思っている。だが、どの政党が政権を取っても、どちらか一方に偏重することはないと思っている。

それ以外の政策については、1つは基本的には今の憲法を変えるべきではないと考えている。言論や表現の自由を規制すべきではないし、個人の自由を制限して国民を縛ったりナショナリズムを強要するような憲法に変えるべきではないと考えている。ただ、9条に関しては自衛隊を軍隊と明記しても構わないとは思っているが、今、それを急いでする理由はないと思っている。逆に変えて欲しいと思うのは天皇制で、私としては天皇制を廃止すべきだと考えている。天皇家の人権のためにも平等な人権のためにも天皇制は廃止した方が良いと考えている。アメリカのように人間はみんな平等であるべきだと思う。ただし、9条改正や天皇制廃止についてはどうしても今すぐに変えてほしいというわけではない。いずれ変われば良いと思っている。したがって、今、何よりも重視すべき政策は経済政策でそれが支持政党を選択する指標となる。

さて、今回の都議選の結果から、次に控えている参議院選挙はこの選挙結果を反映するような結果となるだろうと思う。つまり、自民・公明が大躍進して大幅に議席を増すことが予想される。逆に民主党は大幅に議席を減らすと予想される。そうなれば、自民党が憲法改正に着手して、いよいよ現在の憲法が自民党の憲法改正案に置き換わる日が来ることになるのは目に見えている。だが、私がいくら不満に思おうと有権者が多数決で選んだ結果なのだからどうしようもない。唯一、頼みの綱は米国で、米国政府が自民党が提案している新憲法に難色を示して修正するように働きかけてくれることだけだ。今まで米国を批判してきた日本人のまさに自分勝手な都合の良い頼みごとではあるが・・・。ただ、私の場合は米国を批判しつつも米国の良い点は評価してきたつもりだから、米国に頼ってもそんなに自分勝手だとは思わないが・・・。とはいえ、米国が日本を助ける義理はなく、米国にとって何らかのメリットがあるのであれば難色を示すだろうとは思う。

とにかく、自民党の憲法改正案に大反対している私としては、今回の都議選の結果はいよいよ次の参院選で自民党が大勝する前兆であり、ひいては憲法改悪へ前進してしまったという憂鬱な気持ちがますます募る選挙結果でした。

2013年6月23日日曜日

浅田彰『逃走論』


今回は浅田彰の『逃走論』を取り上げます。

私がこの本を初めて手にとったのは1990年頃ではなかったかと思います。私が浅田彰を知ったのは京都大学の数学者でエッセイストの森毅の文章を読んで知ったのが初めてではなかったかと思います。森毅については高校生の頃、森毅の著書で中公新書から出ていた『数学受験術指南』を父親に薦められて読んで知っており、それ以来、私は森毅のファンになってしまい、なんとなく彼の書いたものを目にしたら読むようになっていました。それで森毅の文章を新聞か何かで見つけては読んでいたのですが、その中のどれかだと思うのですが、具体的にどこで浅田彰の名前を知ったのかは残念ながら忘れてしまいましたが、確かニューアカデミズムという名前と同時に目にしたような気がしています。それから話は少し違いますが、後日になって気付いたのですが、確か高校の国語の先生だったと思うのですが、授業中の雑談で「最近、天才が出たといって世間を騒がしている若者がいるが、頭でっかちなだけで経験のない若者に何ほどのことが分かるのか?!」といった批判的な話をしていたのを覚えており、あれはおそらく浅田彰のことを言っていたのだなと後になって気付いたりしました。まあ、年寄りが若者に嫉妬して批判するみたいな感じでちょっと情けない批判だったのですが、それでもまだ浅田彰を読んでいただけその先生はマシで、最近の教師などは生徒に本を読めといいながら、本人は全然読まんでいないなんてことはザラにあるのではないかと思います。



目次

逃走する文明
ゲイ・サイエンス
差異化のパラノイア
スキゾ・カルチャーの到来
対話 ドゥルーズ=ガタリを読む


マルクス主義とディコンストラクション
ぼくたちのマルクス
本物の日本銀行券は贋物だった
共同討議マルクス・貨幣・言語


ツマミ食い読書術
知の最前線への旅
N・G=レーゲン『経済学の神話』
今村仁司『労働のオントロギー』
広松渉『唯物史観と国家論』
栗本慎一郎『ブタペスト物語』
山本哲士『消費のメタファー』
柄谷行人『隠喩としての建築』
山口昌男『文化の詩学1・2』
蓮実重彦『映画誘惑のエクリチュール』

さて、この『逃走論』ですが、第Ⅰ部は楽しく読むことができました。私の場合、森毅を読んでいたので内容的には第Ⅰ部は森毅的に理解することが容易かったです。第Ⅱ部はこの本で一番難解なパートではないかと思います。特に柄谷行人・岩井克人との三人での共同討議は「よくもまあ、こんな小難しい会話ができるものだ」と感嘆のため息をもらしたものでした。ですので、第Ⅱ部は、後日、大学生になってからじっくり読んだ記憶があります。第Ⅲ部のツマミ食い読書術などは学生にとってとても魅力的な手引きでした。紹介されてある本は片っ端から読みたくなりましたし、当時は現代思想が花盛りだったので書店にも現代思想関連の本がたくさん並んでいました。あの頃の私は本当によく本を買っていましたね。もう、大きな本屋さんへ行くと「あれも欲しい、これも欲しい」で本屋から出るときは財布の中がいつもスッカラカンになっていました(笑)。今となっては楽しい思い出です。そういえば、当時は本を手元にたくさん置いておかない気が済まなかったのでカバンに何冊も本を詰め込んでは持ち運びしていました。読みたくなったらいつでも読めるように読みたくなりそうな本を何冊もカバンに入れていたのです。結局、あれこれ読んでゆくうちに本当に読みたい本が手元になくて何のためにカバンに本をたくさん詰め込んでいたんだと悔しく思うこともしばしばありました。本当に読みたくなった本は自宅の本棚に置いてきたなんてことがしばしばでした。本の重みでカバンの肩紐が食い込んで痛かったのを覚えています。これも今となっては懐かしい思い出です。

ただ、この本ではマルクスがたびたび引用されているので、ソ連が崩壊してしまった今となっては意味のない文章になってしまったのではないかと危惧される人もいるかもしれません。まあ、マルクスは、元々、批判をするだけで「じゃあ、どうするのか?」という実際的な解決策については未熟なままでしたからね。ただ、第Ⅰ部のスキゾキッズの精神だとか第Ⅲ部の読書術だとかは今の若者たちにも十分に役立つと思います。いえ、むしろ今の時代だからこそ逃走論は役立つと言えるかもしれません。なぜなら、これが書かれた当時とは違って、今の時代は大企業の時代ではなく、個人の時代になりつつあるからです。喩えて言えば重厚長大な巨大戦艦の時代から軽薄短小で個々人が活躍する戦闘機の時代になりつつあるからです。そして、個々の戦闘機が活躍する時代こそスキゾキッズたち逃走論の時代ではないでしょうか。私たちはグローバル競争という地球規模の大きなうねりの中で軽やかに、しなやかに、そして、したたかに駆け抜けてゆく。スキゾキッズの本当の冒険はまさにこれから始まるのではないでしょうか。

追記
ちなみに私が浅田彰の本で最初に手にとったのが、島田雅彦との対談集『天使が通る』でした。これが確か1989年か1988年頃だったと思うのですが、今ひとつ記憶が定かではありません。対談の最初の方で漫画『北斗の拳』が参照されていて親しみを覚えたのを覚えています。でも、「卑近な例」として『北斗の拳』が上げられていたので、漫画ばかり読んでいた自分が少し恥ずかしかったという記憶も残っています。とにかく、浅田彰の知識の多さとハイカルチャーでハイセンスな感覚にテキストを読んでいる自分がどこまで理解できているか分からずやや不安でしたが、それでも楽しく読むことできました。

それから、何の雑誌だったかを忘れたので記憶違いかもしれませんが、テーマはマルクスだったのですが、浅田彰と誰かの対談だったのですが、半分以上がマルクスではなく、ケインズの話ばかりでびっくりした記憶があります。しかも「ケインズはゲイだけど、バレリーナの奥さんを貰ってカッコイイ!」みたいな内容で(笑)、「おいおい、テーマはマルクスとちゃうんかい」とツッコミを入れたくなるような対談でした。あのときはまだ冷戦崩壊前でしたが、既に浅田はマルクスをある程度見限っていたのではないかと当時思ったものでした。


2013年6月22日土曜日

原紗央莉『本名、加藤まい~私がAV女優になった理由~』

 
 
原紗央莉『本名、加藤まい~私がAV女優になった理由~』を読んだ。
 

この本は2009年から2011年にかけてAV女優として活躍していた原紗央莉の自伝である。まず、最初に断っておこう。「彼女がAV女優になったのには辛い過去があって仕方なくAV女優になった」というようなお涙頂戴的な人情ばなしをこの本に期待してはいけないということだ。彼女には他人に同情してほしいというような女々しい気持ちは一切ない。そんなものに対しては彼女は怒って蹴りを入れるくらいだろう。では、この本には一体何が書かているのか?

ここに書かれているのは彼女の決意であり宣言なのだ。世界中を敵に回しても自分の足で立ち、どんなに向かい風が強くとも、たとえそれが身を切り刻む嵐であっても、まっすぐに前を見据えて突き進んでゆくという強い強い決意なのだ。しかも、「来るなら来い!受けて立つ!」といった敵に対して堂々と胸を張って生きてゆくという、まるで獅子の宣言なのだ。確かにこの本を執筆したときの彼女はたかだが21歳の小娘に過ぎない。だが、ひとの決意に年齢は関係ない。他人から見れば他愛のない理由かもしれないし、考え方も稚拙かもしれない。しかし、未熟ながらも本人がそのときどきを本気で生きて真剣に考えて下した決断なのだ。万一、間違っていたとしても、おとしまえは自分でつけるし、その覚悟は既にしてある。
そう、この決断は戦士の決断なのだ。

普通のひとは自分がAV女優であることを隠す。親にも隠すし、友だちにも隠すかもしれない。本名なんて隠して当たり前だ。本名を知られて故郷で後ろ指なんて指されたくない。何年かAV女優として働いて幾らかのまとまったお金を稼いだら、あとは引退して世間にバレないように群衆にまぎれるだけ。小賢しいと言われようがかまやしない。稼いだお金を数えながら、チョロっと舌を出してニンマリするだけ。賢く生きようではないか。普通はそう考える。ところが、原紗央莉は違う。小賢しく立ち振舞おうなんてこれっぽっちも考えない。彼女はAVで裸やセックスを人前に晒すだけではない。本名まで世間に晒す。しかも、その晒し方が尋常ではない。本にして晒す。しかも、文章の中に晒すのではない。本のタイトルという一番目につくところにデカデカと出して晒す。彼女は気でも狂ったのか?それともヤケクソなのか?もしかしてドMなのか?いや、そうではない。彼女は正気だ。しかも、とことん本気だ。彼女は自分の選択に胸を張っていたいのだと思う。陰でコソコソとAV女優をして稼ぐなんて気はサラサラない。「陰でコソコソとAV女優をしてるって?コソコソしてねぇよ!あたしの選んだ選択になんか文句あっか?」と言ってバーンと本名を叩きつけたのだ。言っておくが、これは開き直りではない。むしろ、性分だと思う。曲がったことができない、不器用と言われようがまっすぐにしか生きられない彼女の性分なのだと思う。

この性分がこの本を彼女に書かせたのだと思う。もちろん、「仕事の企画として勧められたから」というのもあるだろう。しかし、そんなものはあくまで表面的な事象に過ぎない。彼女の心の中で執筆へと突き動かしたものはもっと別で、それは個人的な動機からだと思う。では、その個人的な動機とは何なのか?それには「この本は誰に向けて書かれたのか?」について考えてみる必要がある。まず、この本は誰かに分かってもらいたいという気持ちで書かれたものではないと思う。おそらく、自分自身に向けて自分自身のためだけに書かれたものだと思う。では、いったい彼女は自分に対して何が言いたかったのか?そして、何をしたかったのだろうか?それを解き明かすには、彼女の置かれた状況について考えなければならない。彼女もAVという仕事が世間でどのように評価され、AV女優が世間からどういう目で見られるかは十分に知っている。それなのになぜ本名を晒してまでこのような本を書いたのか?下手をすれば、AV女優というレッテルが一生ついてまわるかもしれない危険があるのに。なぜか?それは「自分にウソをついて生きていけるだろうか?」という問いにすべてが集約されていると思う。そう自分に問うたときの彼女の答えは”否”だと思う。「自分が自分にウソをついて生きていくことはできない。そんなことをすれば自分の意思に自分が飲み込まれてしまう」と感じ取ったのではないかと思う。「自分の意思に自分が飲み込まれてしまう」とはどういうことか?これを説明することは少々難しい。私たちの人格を構成している要素は言語で、人格は言語で構成されたOSのようなものだと思う。だが、OSは心の表層に過ぎない。心にはもっと奥がある。それは無意識のことを言っているのか?いや、無意識よりももっと深層だ。心の最深部には未だコトバにならない意思のうねりのようなものがある。あるいは、言い方を変えれば精神のエネルギー、魂のマグマといったようなものがあると思う。それは私たち生物を創造的進化に促すものと同じであり、ベルクソンのいう精神のエネルギーそのものだと思う。その精神のエネルギーが自分自身である人格と対立してぶつかったとき、大波が小舟を粉々に叩き潰してしまうように意思のうねりがちっぽけな人格を破壊してしまうのだと思う。おそらく、彼女は本能的にそれを感知したのだと思う。では、どうすれば自らが自らを破壊せずに生きられるのか?答えは1つしかない。つまり、人格と精神エネルギーが一致するしかないのだ。もし、心と魂が一致していれば、たとえたった一人で世界中を敵に回しても負ける気はしない、おそらく、そのように感じ取ったのではないかと思う。その意思の顕れとして打ち立てられたのがこの本というモニュメントだと思う。そう、この本はモニュメントなのだ。彼女の意思が結晶したモニュメントなのだ。彼女の人格とエネルギーを一致させるためにモニュメントが必要だったのだ。

私が感動するのは彼女の意思の強さだ。といっても世間一般にいわれる意思の強さではない。自らをも灼き尽くすかもしれないほど強力な生命のエネルギーに感動するのだ。世界中を向こうにまわしても勝てると思わせる強力な意思力。何ごとも直接的でかつ不器用で、ときにはあっけないほどに忍耐力もなさそうだけれど、何者の力が掛かっても動かしがだい底力というか、まるで恒星のような存在力のある人間、それが原紗央莉だと思う。現代は情報化社会が進むにつれて人々は知的になった一方で、どんどん小賢しくなったとも言える。みんな、小粒になってしまい、野性味は失われ、かつては燃えるようだった生命力も穏やかな蛍光灯のような弱々しい光に変わってしまった。そんなときに現れたのが原紗央莉だった。彼女はセックスの女王というよりはむしろセックスの虎だ。そして、ガツンと一発世間の男どもにパンチを喰らわす。

「あたしがAV女優原紗央莉だ!文句あっか?」

2013年6月21日金曜日

ラリー・カハナー『AK-47 世界を変えた銃』 


かの有名な突撃銃AK-47について書かれた本です。

目次
第1章 祖国を守る
第2章 AKとM16の対応パート1
第3章 パンドラの箱
第4章 アフリカのクレジットカード
第5章 ラテン・アメリカのカラシニコフ文化
第6章 アメリカを訪れたカラシニコフと彼の銃
第7章 国連も認めたほんとうの大量破壊兵器
第8章 AKとM16の対決パート2
第9章 AKをもう一度売り込む
エピローグ AK最後の?日
     



私はガンマニアでもミリタリーファンでもなく、通常のライフルとアサルトライフル(突撃銃)の違いさえ知らなかったので大変参考になりました。AK-47についてはさいとう・たかをの漫画『ゴルゴ13』ではしばしばゴルゴの持つM-16とこのAK-47が対決する話があるので名前は知っていましたが・・・。

AK-47Ⅱ型
※バナナ型の弾倉が見た目の特徴なんでしょうね。

さて、AK-47の特徴としては、よく知られた事実ですがAK-47は劣悪な環境にあってもメンテナンスを必要とすることなく、すぐに実戦に使えるというのが大きな魅力です。例えば長期間に渡って泥沼の中に埋まっていてもそのまま弾倉を装填すれば撃つことができるそうです。米国のM16ではそうはいきません。M16はメンテナンスを必要とし、劣悪な環境下では故障を起こしやすいそうです。ベトナムなど過酷な条件ではたいへん扱いにくいようです。

なぜそのような違いが生じるのかというとAK-47は構造がとてもシンプルだからだそうです。真理がシンプルなものであるのと似ていますね。それだけ合理的にできていると見ることもできると思います。そのため操作も簡単なようで少年兵でも1時間も訓練すればすぐにAK-47を撃つことができるようになるそうです。ですので、少々手荒に扱っても壊れないしメンテナンスも必要としない、操作も簡単で誰でもすぐに使えるということで非常に重宝されたようです。さらに使うものにとっての利点はAK-47の価格がとても安いことです。安いので誰もが簡単に大量に購入することができるそうです。

そのため、AK-47は様々な戦場で活躍してきました。ベトナム、アフリカ、中南米、アフガニスタン・・・。この本では世界各国でAK-47が使われた歴史を負っているので、近代の戦争・紛争の歴史も同時に追うことができます。まあ、逆に言えば、それだけAK-47が頻繁に使われてきたということなのでしょう。驚いたことに国によっては国旗にAK-47のシルエットを入れているところもあるくらいです。

この本ではAK-47の生みの親についてもその生涯を追跡しています。AK-47の設計者ミハイル・カラシニコフは第二次世界大戦でナチスドイツと戦って負傷し、ナチスに負けないライフルを開発して祖国ソ連を守ろうと決意して生まれたのがAK-47だったそうです。彼は元々は銃の設計について専門の教育を受けたわけではなくて、いわゆるたたき上げで銃の設計に携わるようになったそうです。そのため、予備知識がなかったのが幸いして先入観にとらわれることなく合理的に銃を開発できたのではないでしょうか。また、他の銃からもその優れた点をどんどん取り入れたそうです。専門教育を受けたわけではないので、他からどんどん良いところは取り入れようという一種の謙虚さだったのだと思います。そうやって開発されたのがAK-47です。彼は祖国に貢献したい一心だったので開発した当時はまったく金儲けには興味が無かったそうです。ところが、冷戦が終焉してアメリカに招かれてM16の開発者であるユージン・ストナーに会ってみるとM16のライセンス料で大金持ちになっているのを見て大変驚きます。M16が1丁売れるごとに1ドルがストナーに入るそうです。凄い契約ですね。一方、カラシニコフですが、彼にとって残念だったのはAK-47はすでに共産圏の国に無償で製造方法についても提供されていたので彼には一銭もお金が入らなかったそうです。しかし、AK-47の普及のおかげでカラシニコフの名前も有名になり、ウィスキーの名前にカラシニコフと付けたりしてちょっとした商売にしたそうです。それだけAK-47が世界的に普及したということでしょうね。

この本を読んで知ったものにTV映画『44ミニッツ』があります。実際にロサンゼルスであった銀行強盗を元にした映画なのですが、たった二人の犯人たちがAK-47を持っていて数十人の警官と撃ち合いになったのですが、警官の装備している銃では歯が立たなかったという恐ろしい話です。突撃銃の破壊力や有効性がこの映画を見るとよく分かります。

拳銃や散弾銃とは違って一定の距離をとった間での戦闘では突撃銃はとても有効な武器なのでしょう。ただ、もっと遠距離の狙撃になるとライフルの方が有効なのではないでしょうか。私は専門家ではないので間違っているかもしれませんが。

米国では銃による事件が跡を絶ちません。早く銃規制をすればいいのにと思うのですが、全米ライフル協会などの団体がそれを許さないのでしょう。2013年4月に銃規制強化の法案が否決されたとき、オバマ大統領は強い口調で「恥ずべき日だ」と非難しました。私も同感です。そんな米国ですが、銃規制を描いた名作映画に『ニューオーリンズ・トライアル』があります。ジャンルは法廷ものですが、とても参考になると思います。


2013年6月20日木曜日

フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(訳:村上春樹)

 
 
ちょっと前に読んだ小説ですが、最近、レオナルド・ディカプリオ主演で映画が公開されたようですので感想を書いておこうと思います。それはスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』です。ちなみに読んだのは村上春樹訳の方です。


私自身は『グレート・ギャツビー』は有名なので名前は知っていましたが、あらすじとかを読んでみたのですが、あまり興味が持てなくて読んでいませんでした。さらに後に村上春樹が名作だと言っているいうことで読まなくちゃいけないかなあという気持ちになったりしたのですが、それでも読んでいませんでした。それからさらにウィキペディアで解説を読むと「英語で書かれた20世紀最高の小説で2位」と書かれてあったのでますます読まなくちゃという気になり、とうとう本を購入したのですが、それから随分長い間積読になってしまい、ようやく最近になって読んだというのが実情です。

さて、「読んだ感想は?」と言うと「小説のいわんとすることは分かるけど、しかし、世間で言われるほど高く評価されるほどの小説だろうか?」というのが正直な私の評価です。世間の評価というのは案外あてにならないなあというのが率直な感想です。ただ、私自身が気づいていない良さがあるのかもしれないという一抹の不安も少しありますが・・・。


さて、ストーリーはとてもシンプルで、貧しい青年ギャッツビーが好きな女性デイジーのハートを射止めるために無理して金持ちに成り上がるのですが、デイジーたちが住むハイソサエティーな連中との間に育ちの違いからギャップが生じるといった感じです。結局、ギャッツビーの夢は叶えられずに挫折するのですが、そのギャッツビーを傍らで見ていた友人のニックがギャッツビーの純愛に感動しつつ、ハイソサエティーに対して厭世観というか達観みたいなものを得て、デイジーたちの見せかけだけのハイソサエティーを捨て去るというような話です。

この物語の重要な点は2つあって、1つは金持ちたちに対する批判、もう1つはニックの得た達観です。金持ち批判については当時のアメリカ社会を知っていることが大事でそこまでに至る歴史と当時の状況というのを知っていないとこの金持ち批判はいまひとつ伝わってこないのではないかと思います。それから、もう一方の重要なポイントである達観ですが、これはフィッツジェラルドの後の世代で流行ったサリンジャーなどに代表される超絶主義に通じるものがあるのだと思います。いや、超絶主義までいくと行き過ぎになってしまうかもしれません。村上春樹などは適度な距離感を大事にしているのだと思いますから、超絶主義のようにあまり世間から乖離してしまうのも彼のリアリズムに反するのだと思います。程良い距離感。それが村上春樹の表面的なオシャレさだったり、深層におけるリアリズムだったりするのだと思います。

この作品はロシア文学のような深い感動を得られるという物語ではありません。しかし、作品の舞台が1920年代のちょっと古いアメリカですが、現代の社会に対しても十分に通じる世界観とかニヒリズム的な態度やクールなリアリズムがあるのだと思います。読後にクールな余韻が残るのがこの作品の魅力なんでしょうね。


『グレート・ギャツビー』をより深く理解するためには当時のアメリカ社会を知っておいた方が良いので、下記にアメリカ社会を知るための参考文献を挙げておきます。いずれも資本主義やアメリカ社会を考える上でとても参考になる本だと思います。