2020年6月13日土曜日

日本を変革する(1)夫婦中心の家庭へ

私はこれまで『21世紀はセックス革命の時代』、『21世紀は格差社会の時代』、『21世紀の生存戦略』の三本の記事を書いてきた。(それと万人向けではない個人的な推奨として『仏教のすすめ』も書いた。)セックス革命では人々の性が大きく変わると予想した。格差社会では格差が生じる問題と対策を論じた。生存戦略ではこれからを生き抜くための個人の生存戦略を提示した。これらは日本のみならず世界的な視野で書いた。それで、これからはしばらく日本を対象として、日本を変革するための方法を提示しようと思う。

日本を変革するためには、まず、第一に日本の家族を変革しなければならないと思う。

(1)子供中心の家庭から夫婦中心の家庭へ

日本の家庭は子供中心の家庭だと言われる。実際にそうだと私も思う。例えば、大人になれば人間には性欲があって夫婦はセックスするものだが、子供にはその事実がひたすら隠されている。つまり、夫婦が寝室に入って睡眠するだけでなくセックスしていることは隠されている。子供はセックスがいかなるものかを知らなくて、おぼろげに大人たちが何かをしていることさえも知らないし知らされない。睡眠しているだけでなく、大人たちが愛を交わしていること、愛を交わすことの必要性・重要性を教えられずにいる。これは家庭だけでなく社会にまで拡大されている。家の外で、公共の場で、社会で、恋人たちがキスしたり抱擁したりすることを隠そうとする。大人であれば、人間であれば、当然行われる行為、性欲を満たし愛を交わす行為であるはずなのに、それがあたかも悪いことでもあるかのように隠されている。社会は子供のためだけのものではない。社会は大人と子供のためのものだ。いや、積極的に言えば成人した人間のためにある。子供はまだ未熟であり、成長の途中にあるからだ。なのに、その成長の途中にある子供に合わせて日本は社会を作ってしまっている。本来ならば、基本的には成長した大人のための社会にすべきだ。

だから、家庭を子供中心の家庭から夫婦中心の家庭へ変えるのが良いと考える。そこで重要になるのが寝室だ。夫婦は寝室で寝る。子供は子供部屋で寝る。夫婦の寝室に子供は、例えば夜9時以降入ってはいけない。子供には、大人になれば夫婦は寝室で愛を交わす夜の営み、セックスがあること、それが必要なことを上手に教えなければいけない。一方、親は子供の性の開花に合わせて適切に性教育を行った方が良い。(もちろん、性教育を専門家に任せるのも選択肢としてはあると思う。)また、子供がどのような性を開花させても親は子供の応援をすべきだと思う。ただし、親子であっても、性はプライベートなことなので、親にとっても子供にとっても、とても慎重にデリケートに扱わなければいけないが・・・。

ともかく、大人になれば人間には性欲がありセックスするということを家庭に組み込み、子供にもちゃんと教えるべきだと思う。

(2)親子関係と人権の尊重と魂の孤独

もう1つは日本の家族は親子の距離の近さがある。とにかく親子の距離が近い、近すぎる。親はまるで子供を自分の所有物か、自分の一部と思っているフシがある。子供は自分と独立した人間であるのが当たり前なのに、まるでそうではないかのように近しいものとして扱う。ひとによっては親は子供の自由意思や選択の自由を頭ごなしに否定することさえある。親が「細く長く生きるライフスタイル」であるのに対して、子供は「太く短く生きるライフスタイル」を選択したいと思っているのに、親は子供に自分と同じ「細く長く生きるライフスタイル」を無理強いしたりするなんてことがざらにある。どんなライフスタイルを選択するのも子供の自由のはずなのに、だ。どうも親は子供を自分の分身とでも思っているようだ。こういったことは親が子供との距離を近いものと考えていることに原因があると思う。

私の提案としては、人権というラインを引くことが解決策だと思う。たとえ親子であっても人権をナイガシロにすることは許されない。個人の自由意思の尊重、選択の自由の尊重などだ。これは子供だけでなく親に対しても適用される。子供に人権があるように、親にも人権がある。互いの人権を尊重すべきだ。

親子の間に人権のラインを引くことをすごく他人行儀だと考えるかもしれない。しかし、私は親が子供の人権を踏みにじることの方が問題だと思う。日本人は子供の自由意思を軽んじる傾向が強い。例えば「失敗するのが目に見えているから、正しい方向に導いてやるのだ」というパターナリズムがまかり通る。しかし、私は失敗のリスクをサジェストしながら、子供に選択の自由を与えるべきだと思う。「失敗するのは良くない」と考えるのが違うと思う。失敗を経験することも大事だからだ。また、納得することも大事だからだ。ま、これは一例に過ぎない。愛はギフト、みかえりを求めずにただ与えることであって、みかえりを求めて与えるのは交換だ。親が子供を愛するならば、みかえりを求めずに与えることを学ばねばならない。親の意思を子供に押しつけるのは愛ではない。それは支配欲だ。子供は独立した人間であり自由意思を持った存在であり、親の一部ではない。支配してはならない。子供が糸の切れた凧のようにさ迷っても、それが子供の自由意思ならば子供の自由意思を尊重すべきだ。もちろん、子供が救いを求めてきたら親の愛でもってサジェストしたりサポートしたりすればいいが。

ともかく、日本人の親は子供との距離が近い人が多い。そういった親は人権というラインを引いて、子供との距離をとるべきだ。

ひとによっては親が子供の内面を傷つけるようなことを平気で言う人もいる。もっと酷くなれば毒親になる。たとえ親子であっても相手の心を傷つけるようなことを言っていいはずがない。ところが、日本人は子供の心を傷つけることに無頓着な親が多い。すべては親子関係の距離が極めて近いという認識に基づいている。しかし、これは間違った認識だ。実際は人間の魂は孤独なものだ。それぞれの魂は繋がってはいない。繋がっていないものが近づきすぎればそこに衝突や摩擦が生じるのは当たり前の話だ。日本人は魂の孤独と向き合うことを恐れている。その恐怖と不安が親子の魂はつながっているという誤った認識、願望になっている。その結果、近すぎる距離は摩擦や衝突を起こす。


まとめ
日本を変革するためには、まず、日本の家庭を子供中心から夫婦中心に変える。そして、家庭生活にはセックスを組み込む。具体的には夫婦だけの寝室を作る。家では落ち着いてセックスできないのでラブホテルを利用するという夫婦がいるが、家で落ち着いてセックスできる環境を作る。

ちなみに英国のコンドームメーカーが50カ国で夫婦間での年間のセックス回数をアンケート調査した結果、日本は最下位の50位で年間約45回だった。49位は年間約90回であり、1位は110回くらいだった。つまり、日本人の夫婦は世界の夫婦と比べると年間のセックス回数が約半分なのだ。日本だけ異常に回数が少ないのだ。労働時間の長さが影響もしているがそれでも日本よりも労働時間が長い国でも日本の倍以上セックスしている。家庭で夫婦が同じベッドで寝ないことも大きな要因だと思う。日本は戦後に布団で寝る文化が生まれたが、布団は基本的に一人寝用だ。一方、世界ではベッドや寝台の文化で夫婦はともに寝る。子供が入れない夫婦の寝室がないのも日本の特徴だろう。日本では親子で川の字になって寝る。夫婦のセックスは子供がいない隙きにチャチャッと済ませるなんてことになっていないだろうか?二人だけの寝室でじっくりと愛を交わすセックスなんて無くて、とにかく子供がいない隙きに性欲を処理してしまうなんてことになっていないだろうか?そもそも日本人はセックスを悪しきものと考えていないだろうか?日本人の性への理解が性悪説になっていないだろうか?日本のアダルトビデオを見ると女性を侮辱する内容が世界のポルノに比べると著しく多くないだろうか?セックスに対する基本的な理解やエロスの複雑さを日本人は理解していないのではないだろうか・・・。

次に親子関係に距離をとる。具体的には人権というラインを引く。子供の人権を尊重する。子供の自由意思や選択の自由を尊重する。子供に親の意思を無理強いしてはならない。親の孤独の埋め合わせとして子供を利用してはならない。親は自分の魂の孤独と自分自身で向き合うべきだ。

私が好きな映画に『リンカーン』があるのだが、私がこの映画が好きなのはリンカーンと夫人との喧嘩のシーンがあるからだ。いつもは夫人に優しいリンカーンが極めて大事な状況で夫人を突き放す場面があるのだ。それは魂の孤独にまつわる話で、たとえ夫婦であっても魂の孤独からは逃れられないことを知るのには格好の材料だからだ。リンカーン夫婦に夫婦愛がないわけではない。むしろ、夫婦愛があるからこそ、相手を信じているからこそ、突き放すという、これは映画を見てみない分からない極めて絶妙な場面があるのだ。夫婦は人生の同じ時間を過ごすが、親子はズレた人生の時間を過ごす。つまり、子供には子供の人生がある。日本の親子の距離はもっと離れていてしかるべきだと思う。

2020年6月6日土曜日

仏教のすすめ


1.別の生き方ー文明社会批判

私は文明社会だけが人間の唯一の生き方だと決めてしまうのはリスクが高いと思っている。人間の価値観は1つではないと思うからだ。人間は様々な価値観で自分が好きなように生きていっていい。日本国憲法でも前文で個人の幸福の追求は自由だと謳っている。それに生物は植物や動物、昆虫や細菌など様々に異なった形態で生存戦略をとっている。たとえ環境が大きく変化しても、いずれかの種が変化に対応できるだろう。生物は多様な生存戦略をとることで生物全体が絶滅するリスクは軽減している。だから、人間も文明社会だけが唯一の生き方だとは決めつけない方がいいと思う。

もちろん、文明社会も単一の文明社会とは限らない。欧米型もあれば中国型もあるだろう。イスラム型やアフリカ型、インド型や東欧型もあるかもしれない。様々な文明社会があってもいい。(とはいえ、グローバル化によって文明社会はどれも似たようなものに収斂しつつあるのだが・・・。)ただし、個人の自由でそれらを選択できればなお良い。世界人権宣言では個人の自由が謳われているが、実際にそれが世界の隅々で実践されているかは分からない。

ともかく、話を戻すと、文明社会だけが唯一の生き方だとは決めつけない方がいい。では、文明社会以外にどんな生き方があるのか?

2.仏教のすすめ

文化人類学者のレヴィストロースは未開社会にも文明社会に匹敵する人間のあり方を提示した。文明社会が絶対ではなく、未開社会という生き方もあることを示すことで文明社会を相対化した。だから、文明社会から離れて、ソローのような森の生活を選択するのもありだと思う。私自身は仏教のような生き方を推奨したい。

ここで話は随分飛ぶが、おおまかにいって、農業が興って人々が文明を築き始めたときに今日でいう宗教が生まれたと私は考えている。それ以前は狩猟採集生活でアニミズムとシャーマニズムが人々の精神生活を占めていたと思っている。ただし、アニミズムは当時の人々にも理解できた一方で、シャーマニズムは当時の人々にさえもよく分からないものとして捉えられていたと思う。シャーマニズムはシャーマンにしか分からなかった。いや、シャーマンさえもその全体像を把握しているものは少なかったのではないかと思える。おそらく、シャーマニズムは探求の途上にあったのではないかと思うのだ。それが比較的整理されたのが仏教ではないかと私は考えている。つまり、仏教はシャーマニズムの継承者ではないかと考えている。

ところで、日本では仏教は大きく誤解されていると私は思っている。日本で仏教というと「悟りを開く」ということだと多くのひとは考えると思う。「悟りを開く」ことで「心の平安を得る」というのが単純化された図式ではないかと思う。でも、それは本来の仏教とは随分違うのではないかと私は思う。人間である限り、苦悩やストレスからは完全には逃れられないと思う。

私の考える仏教は、人間には魂があって魂が身体に宿っていると考えていると思う。そして、魂が身体から離れるとき、すなわち、死ぬとき、一般人は魂が輪廻に絡め取られるのだが、修行者は魂が輪廻に刈り取られずに、魂が輪廻から解放されるようにする、いわゆる解脱するというのが、仏教の目標ではないかと思う。だから仏教では解脱するために様々な修行をする。これは他の宗教が生前の行いによって魂が天国へ行くか地獄に落ちるかに似てはいるが、仏教はそれとは大きく異なると私は考えている。いずれにしろ、仏教は、人間には魂があり、魂が輪廻から解放されることを目指すものだと思う。

3.文明と自然の往還

話がさらに脱線するが、動物は自然環境に適応するように生まれついている。一方、人間は文明を構築することで環境を大きく変えてしまった。仏教の考え方を適用すれば、現在の畜産における家畜の惨状はいずれ輪廻転生した人間たちにもはね返ってくる。そういう意味では、ヴィーガンは案外仏教的な考え方に近いとも言える。ともかく、動物が動物のままで幸福に生を全うすることを考えると、たとえ弱肉強食であっても自然環境で暮らすのが幸せではないかと思う。人間が地球全部をわがものとして文明で覆い尽くすのは誤りであり傲慢ではないかと思う。動物たちが自然に暮らせるように地球の半分くらいの土地を野生のままに残すべきではないかと思う。現在のアマゾンのように。私は南米大陸かアフリカ大陸かオーストラリア大陸か、いずれか1つの大陸を自然に戻すべきだと思っている。もちろん、その土地で生まれ育ち暮らしている人たちにとっては許しがたいことだと思えるだろうけれど・・・。

ただ、仮にそういった自然大陸を作ったとき、文明社会から離れて、そこで再び狩猟採集での暮らしをひととき選ぶ人たちも出てくると思う。もちろん、そこでの暮らしは命がけだし、実際に生命を落とす人たちも出てくると思う。しかし、それでも生の活力を求めて自然大陸での暮らしを選ぶ人たちが出てくると私は確信している。日本人は里山的な農村暮らしが自然な生き方だと思いがちだが、真に自然な生き方とは農業が興る以前の狩猟採集時代だ。真に自然な生き方は農業ではない。狩猟生活こそ自然な生き方だ。

4.まとめ

随分、支離滅裂になってしまった。言いたいことは2つだ。まず、大前提として文明社会が人間の生き方のすべてではないということ。文明社会とは別の生き方として、一つは仏教の生き方があるし、他にも自然の中で狩猟採集生活を生きる生き方がある。これら別の生き方は個人の生き方であり、個人の選択の自由だ。私は別の生き方として仏教を推奨する。

個人は文明と自然の往還が可能だと考える。もちろん、文明社会をより良きものにするために尽力することも可能だ。ただし、それは個人の生き方であって、宗教団体を作って文明の中に小さな共同体を作ることではない。文明社会をより良きものにするのは一市民としてだが、一個人の生き方としては仏教や狩人を選択もできるということだと思う。文明と自然を融合しようとしても難しく(←これまで融合しようとして人は宗教団体や思想団体、あるいは思想的な農村を作っては失敗を繰り返してきた。自然な生き方として農業にこだわる人が多いが、何度も言うが農業は決して自然な生き方ではないと思う。)、文明と自然を分離して、個人は文明と自然を往還すればいいと私は思う。

英国の哲学者にしてSF作家のオラフ・ステープルドン(1886-1950)が1930年に書いた小説『最後にして最初の人類』の中で、文明と自然との往還を描いた箇所が物語の最後の方にあります。著者の視座の遠く未来まで見通せることに脱帽です。こんな偉大な先人が、しかも1930年にいたことに驚きます。

2020年5月31日日曜日

NEWS2020.05

5月4日
緊急事態宣言延長 首相、14日をめどに解除前倒し検討
緊急事態宣言が延長されるとのこと。14日に再度検討とのこと。

5月5日
安倍首相会見「PCR検査は本気で増やそうとしている」緊急事態宣言を5月末まで延長

神保さん、頑張ってはるなあ。

5月8日(金)
国の借金、過去最大1114兆円 19年度末、赤字国債増え続ける
2019年度末時点での国の借金(国債、借入金、政府短期証券)が過去最大とのこと。あわわ。

5月9日(土)
コロナに負けない免疫力をつけるために

今回は免疫の話。たいへん勉強になった。ワクチンの具体的なイメージが少しは分かってとても良かった。ネットで見た新型コロナウイルスについての中国人医師の意見で、この新型コロナウイルスを乱破ウイルスと呼んでいて、今回、話を視聴して、やはり、ステルスや忍者などをイメージした。私の変なイメージで遊撃隊(ゲリラ戦術)を想起した。三国志の姜維が少数精鋭部隊で敵の大部隊を内部で引っかき回して撹乱するのを思い出した。それと、ウイルスによる絶滅の可能性の話も面白かった。恐竜がウイルスで絶滅した説を思い出した。巨大な恐竜vsミクロなウイルスの戦い。

それにしても数値化して考えるのが大事なんだが、日本人ってここまで不勉強になったかと思った。テレビの影響が大きい。他の先進国でももちろん不勉強なひとは大勢いるだろうけど、でも、なんか日本は際立っているように感じてならない。そもそも検索上位にくるトピックとかも、日本だけなんか幼稚なものだったりするし、なんかヤバいなって思う。変な話、ネットは基本はパソコンで見た方がいいと思う。スマホメインだとちゃんと読まないんじゃないかなあ。

岩田健太郎「よく走る人ほど風邪ひきやすい訳」
こちらも免疫の話。免疫を上げるのって実質的には難しいんだなあ。栄養ドリンクが意味無いことが分かって勉強になった。

5月14日(木)
39県の緊急事態宣言を解除へ。安倍首相が表明「感染拡大を防止できるレベルにまで抑え込むことができた」
さて、世間はどのように動くだろうか?商売をやっている人は待ちかねた解除で一斉に商売を始める傾向が強いと思う。一方、消費者は待ちかねた人々もいるだろうけど、多くは慎重な姿勢をとるひとが多いのではないか。生産者と消費者で若干意識の違いが生じると思う。感染者が出てクラスターが発生すればその地域は再び萎縮するし、そういうことがなければ徐々に日常に戻っていくと思う。ただし、有意な統計データがないので、どのように推移していくかは実際に時間が経過しないと分からない。

5月16日(土)
検察庁法の改正案はどこに問題があるのか

今回の改正案の問題点が分かりやすく解説されていて大変勉強になった。それにしても権力の腐敗に終わりはない。たとえ政権交代されても次の政権がこれらの権限を利用して悪事を働かない確証はなく、日本の行末が恐ろしい。

せやろがいおじさんによる解説もこれまでの経緯を考える上で分かりやすい。


コロナの緊急事態宣言が特定地域を除いて解除されて、さてこれからどうなるかという時期に検察庁法改正なんて、やっぱり火事場泥棒じゃないかと思う。これが日本政府のやり方か・・・。

5月18日(月)
首相、検察庁法改正案の今国会成立を断念 世論反発受け
とりあえず見送りになって良かった。しかし、広島の案件は今後どうなるのだろう?

5月21日(木)
政権急転、黒川検事長を処分 スピード辞職で幕引き図る
まさかの急な展開に驚く。仮に黒川検事長に捜査の手が入れば枕を高くして寝られない人たちが出てくる可能性がある。そのためにスピード辞職かと穿った見方をしたくなる。しかし、組織なんで第2、第3の黒川が出てこないとも限らない。というか、人事上、そうなっている可能性の方が高い。それにしもて黒川はよりによってなぜこんな時期にこの面子で麻雀なんてしたのか不思議だ。また、文春がここまで影響を与えたとなると文春も権力から睨まれることになるかもしれない。

国会(立法府)で決めた法律を内閣(行政府)が勝手に解釈変更してねじ曲げてしまったのが黒川検事長の定年延長だったのだろう。それを法の番人である司法が問題視するのは役目上当然の話(←というか内閣の解釈変更が違法であってそれは取り締まりの対象だろう)で、内閣は事後的に法律にしようとしたが多くの反対にあって断念して、そこへきて賭け麻雀が発覚してあっけなく幕切れとなったという話。ただし、今後もこの続きはありうるかもしれない点に注意がいる。

5月23日(土)
今週のマル激の最後で黒川検事長辞職に関する話を聴いていて思ったのだが、政府と検察との権力闘争の結果、黒川が身を引いた可能性もあるのかなあとも思った。というのも、先週見送りになった検察庁法改正案は人事権が内閣に握られてしまうことになり、それは検察の独立性を脅かすものであり、つまりは検察の権力を大きく削ぎ落とすものになってしまう。さすがに検察はそれを容認できない。検察OBも含めて検察庁法改正案に猛反発が起こった。黒川も出身母体である検察から裏切り者として睨まれることには不安もあるだろう。政府と検察の両方から綱引きになり、結局、自ら身を引いたという可能性も確かにあるかもしれない・・・。いずれにしても政府と検察との権力闘争という構図には違いあるまい。果たしてそこに正義や善はあったのだろうか?そもそも、そんな権力闘争に明け暮れている場合かと思う。いや、そんな古臭い権力闘争がいまだに起こるのは旧態依然の体制が残っているからだろうが。欧米の先進国からすれば、政治や社会のシステムがものすごく置いてけぼりになった状態なんじゃなかろうかと思う。でもまあ、そもそも安倍内閣が権力を自分たちに集中しようとし過ぎることが根本原因ではある。三権分立さえ破りかねない。実際、定年延長では破っているわけだし。

5月24日(日)
香港"民主の女神"アグネス・チョウさん「国家安全法は危険」中国全人代で審議
アグネスさんとか、もう香港からカナダなどの外国に逃げた方がいいと思う。とても残念だけどあまりに危険になると思う。有名人だから中国もそう簡単に手は出さないとは思うけど、組織の下部までそういった管理が行き届くとは限らない。とても残念だけどここまでが限界じゃないかと思う。生命を賭けて香港の民主社会のために頑張ってこられたとは思うけど、生命が危険にさらされるのはあまりに忍びない。

5月25日(月)
緊急事態宣言の全国解除を安倍首相が表明。「“日本モデル”わずか1カ月半でほぼ収束させることができた」
PCR検査の数が少ないので、実態がよく分からないのが心配。ただ、ウイルスは弱毒化しているのかもしれない。日本モデルと言ってしまうのはさすがにどうかと思う。これからどうなるんだろう。第2波の心配や海外からの流入の心配など心配の種は尽きない。

まとめ
月前半はコロナ一色だった。緊急事態宣言の延長、続いて比較的感染者が少ない地域から解除、そして最後には全国解除へという流れだった。私の肌感覚では人々は徐々にコロナから意識が離れている感じだが、感染者が増えた地域では再びロックダウンかもという危機感も頭の片隅にはあるという感じ。神保さんの首相への質問がとても印象的だった。不思議なのはPCR検査が増えない謎は謎のままだった。一体全体なぜなんだろう?月後半は検察庁法改正案問題だった。結局、黒川検事長の賭け麻雀であっけなく幕切れになった。この事件は政治家と検察との権力闘争の構図とも見て取れる。そして内閣が国会で定められた法解釈を勝手に閣議決定で変えてしまうという三権分立を平気で破っていることにも驚かされた。そして広島の河井案里議員の事件が今後どうなるかウォッチしなければなるまい。月の最後に、香港の民主派運動が中国の国家安全法によって終わりそうで残念な幕切れになりそう。生命の安全を願う。

事情を詳しく知らないのだが、リアリティー番組の出演者で20代前半の女子プロレスラーの木村花さんという方がSNSの誹謗中傷がもとで自殺されたらしい。ネット時代になって有名人に対する誹謗中傷が酷いことになっているらしい。ちょっとネトウヨを想起する。ネトウヨ気質とでもいうのか。ただ、実際のネトウヨは年齢層が高い人が多いので少しイメージと違うかもしれない。頭の固い偏った昭和な価値観の中の一部の人がネトウヨになりやすいのかもと思ったりもする。「あれしちゃダメ、これしちゃダメ」的な考え方をする人は古い人に多い。話がズレた。ともかく、有名人の死は日本では思いのほか大きく影響する。志村けんの場合もそうだ。日本は政治や社会に興味がある人より、芸能に興味がある人がかなり多いのだろう。検索上位ワードも世界と日本では随分傾向が違うようだし。芸能とリンクしている”世間”という日本的モノサシはヨロシクナイのでは?”世間”に対してはもっと無関心であった方が良いように思うのだが・・・。要はテレビを見ない方が良い気がする。



2020年5月30日土曜日

21世紀の生存戦略

私はかつて『日本の未来戦略』という小論を書いた。あれから10年が経過した。今回はその続きに近いものを提案しようと思う。それは個人レベルの生存戦略だ。『日本の未来戦略』では日本の生存戦略を提示した。今回は個人の生存戦略を提示したい。21世紀に個人が生き生きと生きていくための生存戦略だ。

1.専門知

第一に個人は得意分野、特技を究めることだ。つまり、その人その人の専門的な特技を養うことだ。技術者であってもいいし、職人であってもいい。その人が他の人よりも抜きん出ているものを磨き上げることだ。知識社会的な言い方でいえば、専門知を磨くことだ。逆な見方をすれば人間の能力には限界があるから、すべての事柄、知全体に精通した全知全能にはなれない。知全体の大きさは人間の能力を遥かに超えるものだ。いずれかの部分的な知に特化してその部分知を究めることだ。それが専門知だ。


2.全体知

次に必要なのは全体知だ。先程の「人間の能力には限界があり、全知全能にはなれない」という言葉とは矛盾するようだが、細々とした専門的な細部は知らなくていいので、おおまかな知の全体像を掴むことだ。これは昔風にいえば教養になる。あるいは、もっと限定していえば、人格形成に関わる教養ということになるかもしれない。ただし、私が考えているものはそれとは少し違う。私は人間の全体知は二段階あって、マトリックスとライブラリーというように捉えている。

マトリックスとはその人の人格を形成している主要な知を想定している。思想に近いといえるかもしれない。しかし、それは思想とは少し違う。思想というような首尾一貫したものではない。脳のメインメモリに格納されている知というものに近い。一方、ライブラリーは脳の補助記憶に格納されている知だ。普段はそんなに使われないが知識としては知っていて、ノートなど外部記憶を見れば思い出して使えるような知だ。これは様々なジャンルの本を読むことで積み足していける。(とはいえ、どこかで記憶の限界があるとは思うが。)

なぜ、マトリックスと思想を区別するのかというと、現実への対応の仕方が違うからだ。私は現実は人間の知を超えるものだと思っている。人間がいくら頑張っても人間の知が現実を囲い込んで、現実を人間があたかも全知全能の神であるかのように把握・掌握できるとは思っていないからだ。傲慢なインテリになるとまるで三国志の諸葛孔明のようにすべてを見通せるような気になるかもしれない。しかし、残念ながら、人間の知よりも現実の方が上回っている。現実と理論がズレるとき、間違っているのは現実ではなく理論だ。まして、知に思想や人格など首尾一貫性を持ち込むと現実に対応しずらくなる。もちろん、可変で可塑的なマトリックスだとしても限界はある。人間にとって現実は未知であったり不可知であったりするからだ。しかし、マトリックスは思想と比べれば、もっと柔軟に対応できると思う。マトリックスをできるだけ広げれば広げるほど厚みを増せば増すほど現実というボールをレシーブするときの足場が広く堅牢になると思う。とはいえ、それも同じ次元であればの話で、次元が異なればマトリックスもまったく役に立たないなんてことはよくある。だから、人間は現実に対して謙虚になった方が良い。所詮、人間は神にはなれない。

とはいえ、それでも私は、人間は「ホモ・ラーニング(学ぶ生きもの)」だと思うので、限られた時間と能力を最大限活用して、知を学び続けて、人間が捉えうる全体知たるマトリックスとライブラリーをより豊かなものにしつづけていくと思う。生きている限り・・・。

3.人間知(ヒューマン特性)

人間はただ単に学ぶだけでは生きられない。生活しなければ生きられない。だから、現実には生活しながら学ばなければならない。しかし、人間はコンピュータではない。電源を入れてデータをロードすれば学ぶ、なんて風にはできていない。学習に集中できるときもあれば、集中できないときもある。体調が良い日もあれば悪い日もある。人間はマシーンではない。さらに人間は合理的にはできていない。認知科学でいえば、エコンとヒューマンのような違いがある。人間は機械と比べると人間の特性がある。

私たちは人間でありながら、限られた資源と時間の中で効率良く学ばねばならない。そのためには人間の特性をよく知らねばならない。しかも、人間の特性といってもかなりの個人差がある。他人に最適な方法が自分にも通用するとは限らない。結局のところ、「汝自身を知れ」ということに行き着く。自分自身をよく知って、自分に合ったやり方を見い出さねばならない。そして、生活に合わせたり、あるいは生活を最適化したりしながら、試行錯誤を重ねて自分に合った学びの方法を発見し実践していかねばならない。(巷でいうライフハックに似ている。)

4.まとめ

21世紀の生存戦略は3つだ。1つめは専門知を身につけること、2つめは全体知(マトリックスとライブラリー)を積み重ねること、3つめは人間知(ヒューマン特性)を把握することで自分の能力を最大限引き出して専門知と全体知を学習してゆくことだ。つまり、人間である自分自身を知ることだ。この三位一体が21世紀を生きる個人の生存戦略の主要な柱となる。


2020年5月23日土曜日

21世紀は格差社会の時代

1.21世紀は格差社会の時代

21世紀は格差社会の時代になると思う。なぜそう思うかの理由は単純で、経済学者トマ・ピケティが『21世紀の資本』で言っている通りだと思うからだ。経済は通常ならば格差が生じて当たり前で、戦争後の僅か数十年がr<gとなる特別な期間であって、通常はr>gとなるからだ。

そして、そこで問題になるのもピケティが指摘している通りで、世襲資本主義であり、タックスヘイブンで課税逃れが起こることだ。それに対する処方箋もピケティが指摘している通りで国際的な包囲網を構築するしかない。しかし、これが困難なこともピケティが指摘している通りだ。しかし、困難であっても国連のような国際機関を創設してなんとか包囲するしかないと私は思う。しかし、そんなものが構築されるには長い時間を要してしまい、構築される頃にはどうしようもない格差で手も足も出ないかもしれない。


2.日本の不公正を是正する

市場経済自体は大きくは間違っていないと思う。問題は不公正な市場である場合が問題だ。日本に話を限定すると、日本の場合は規制が市場を不公正なものにしている。よく言われるように、規制によって新規参入を阻み、既得権益層だけで利益を享受していることが日本では往々にしてよくある。特に中小企業などで不合理な経営をしているのに、なぜか経営が成り立っているなんてことがよくある。それは規制によって新規参入を阻むことで、経営者が高い利益を貪っているからだ。同じ業界での他国の状況を比べてみると分かる。他国では大企業化していて合理化されていて、品質もコストも労働条件も良いというすべてにおいて良好な業界が、日本ではまったく逆で品質もコストも労働条件も悪いのに経営者だけが利益を上げているなんてケースがある。合理的な意味での経営努力なんてものはなく、旧態依然の業態でありながら、新規参入をさせないことで、消費者は仕方なくその商品を買わざるをえない状況を作り、利益を生み出している。そして、デービッド・アトキンソンさんが言っているように日本は中小企業の割合が大きすぎる。そういった中小企業が不合理・非効率でも成り立つのは規制で守られているからだ。21世紀にもなって日本は何をやっているんだかと思う。

日本はそういう不公正な市場を正さねば、世襲資本主義が蔓延ってしまう。正当な競争の結果、格差が生じるなら諦めもつくが、はなから不公正な競争によって生じた格差ならば到底許すことはできない。日本の格差を是正するのはまず不公正な業界を正していくことから始まると思う。不公正を正していけば、結果的に日本の企業は二極化すると思う。極端な言い方をすれば、中小企業を解体されて、大企業に収斂するか、職人やエンジニアなどの専門性を持ったフリーランスになるかの2つになると思う。大企業は効率性が求められるので細かいことには限界がある。一方、フリーランスは細かい対応は可能だが量的な限界がある。互いが補い合う関係になると思う。

少し見方を変えれば、日本は災害大国でもあるので、分散型社会が適していると思う。工業社会の頃は中央集権で幹線で結ぶことで効率を良くすることができたかもしれない。しかし、これからは分権・分散することで効率や便利さが多少犠牲になるかもしれないが、それぞれが独立してやっていくことになると思う。それは経済だけでなく、政治も社会もそうなると思う。いや、そうなって欲しいと思う。

3.まとめ

市場経済自体は悪いものではないと思う。そして、原理的に格差が生じてしまうのも仕方がないといえば仕方がない。それは国際的な包囲網で是正するしかない。日本に限定すれば、市場に不正を持ち込むことで不当に利益を上げることだ。日本の解決策は市場を公正にすることだ。

20世紀はブルジョアとプロレタリアートの戦いと形容されがちだが、21世紀は特権階級と市民との戦いといえると思う。2つは似ているようで違う。20世紀は社会主義の実験が行われて多くの失敗を経験した。21世紀は市場経済を否定するのではない。しかし、市場経済は完璧ではないから修正はこれからも必要だ。市場経済そのものを否定するものではない。21世紀はグローバルに展開した市場経済を公正にすることだ。世界の富裕層がタックスヘイブンなどの抜け道を使って納税から逃れて不正に資産を貯め込んだり、日本の特権階級のように規制によって不公正な市場を作り出して不当に利益を貪ったりすることを正すことだ。21世紀の課題はグローバルな市場経済システムを公正なものにすることだ。