2020年7月19日日曜日

個人の問題

日本人の個人の問題について考えている。といっても、考えがまとまっていないので、つらつらと思いついたことを書いてみる。たぶん、夏目漱石の個人主義なんかも遠くは関連しているかもしれない。

男女の違いについて私は下図のような仮定を考えている。


男性は円形で、女性は四角形だ。

これらを重ね合わせると、重なる部分と重ならない部分が生じる。



そして、重ならない部分は互いに理解しがたい部分になる。
たまに相手のことを包摂してしまう場合もあるかもしれない。

しかし、それは一面的な部分であって、全体としてはどちらかがどちらか一方に完全に把握されてしまうことは人間の場合無いと思う。この図は分かりやすくするために平面で描いているが、人間はもっと多次元で多面的だから様々な局面でこういう分かり合えない部分が多数存在すると思う。

それでも男女がパートナーシップで暮らしていけるのは愛があるからかもしれない。愛は互いの溝を埋めるブリッジのようなものだと思う。愛は溝を埋めることはできないが、溝の一時的に乗り越えることは可能にする。


ただし、日本では愛は誇張され過ぎているかもしれない。人間の内面には、様々な力がある。欲望などは強い力だ。金欲、物欲などだ。性欲も強い。食欲なんてのはあまり弱いと困る。そういった力の中で比較すると愛は微力だ。経済活動では欲望が大きな原動力になっているが、それに比べて愛はそんなに大きな原動力になっていない。

しかし、注意しなければいけないのは、愛は大切だということ。「愛は偉大で最も強い力」だと誤認してしまうと、放っておいても愛が作用して人々を救ってくれると勘違いしてしまう。しかし、実際は愛は微力なので忘れられがちだ。だからこそ、愛の大切さを説いて、愛を喚起してやらねばならないと思う。(ちなみに日本人に愛は馴染んでいない。昔は慈悲がそれに相当したし、愛は仏教用語でいう渇愛で斥ける対象でさえあったと思う。せいぜい情をかける程度だと思う。ギフトとしての愛なんてほとんど定着していないんじゃないかとさえ思う。)

男女間の溝なんて持ち出してしまったが、自己と他者でも同じような図式で捉えられると思う。自己と他者にも乗り越えられない溝があるのだ。だからこそ、個人には自由意思があると思うし、個人を個人たらしめているのはこの自由意思だとさえ思う。

じゃあ、個人はなにものとも繋がっていないのかというと、そこはちょっと微妙だと思う。キリスト教的に考えれば個人の魂は神とつながっていると思えるし、インド的に考えればブラフマンとアートマンでつながっているとも思えるし、仏教的に考えれば真如と阿頼耶識はつながっているとも思える。あるいは輪廻で生きとし生けるもののすべての魂はつながっているとも思える。ただし、親子で魂はつながってはいないのだけは確かだ。日本では母子でまるで魂がつながっているかのように錯覚していないだろうか。魂は孤独なものであることをもっと自覚した方がいいと思う。で、愛という微力なものが人々にブリッジをかける。とても微力だが。

話題を変える。

個人のセクシャリティを花に喩える。人間のセクシャリティは子どものときは種であって、どのような花が咲くかは分からない。大人に成長したときに花が開花してはじめてその人がバラの花だったり百合の花だったりタンポポだったりと分かる。つまり、レズビアンだったりゲイだったりトランスだったりクィアだったりする。しかし、親は自分と同じ花を咲かせると勘違いしやすい。しかし、セクシャリティの場合、親が桜の花だったとしても、子どもは百合の花を咲かせることはよくあることだ。むしろ、親も子どもも同じ桜の花を咲かせる方が希な気がする。さて、問題は親が桜で子どもが百合だったとき、親が子どもに「おまえも桜になれ」と強制することだ。まあ、ムチャクチャで不幸なことを親の誤認から始めてしまうわけだ。親として子どもを愛しているならば、子どものありのままを受け入れて成長・応援してやることが親の愛だと思う。レズでもゲイでもトランスでもクィアでもだ。セクシャリティという一面だけを捉えても、親子でも、男女の相違のように、自己と他者は異なり、溝が存在する。

話題を変える。

「らしさ」についてだが、「男らしく」とか「女らしく」の「らしさ」だが、今は亡き森毅さんが良いことを書いておられた。「男らしく」や「女らしく」ではなく、「自分らしく」ありなさいということを言っておられた。自分を何か型にはめるのなんておかしいと思う。ましてや、自分を他人から「○○らしくありなさい」と規定されてしまうなんてまっぴらごめんだ。

話題を変える。

日本人は自由意思を軽視しがちだし、人権もあまり考えたことがない。もっとも、人権を完成されたものと考えるのもちょっと問題だとは思う。私はけっこう気をつけているつもりだが、それでも気づかぬうちに差別してしまっているなんてことがある。(人権はまだまだ過渡期に思う。)人権を踏みにじるのは許されないが、過ちをあまりに強く非難するのもどうかと思う。人間は誰しも過ちを犯すものだからだ。(「ひと誰か過たざらん。誤りてひとこれを能く改むる」だっけ。)それと、よく言われるように、日本人は同調圧力が強い。「日本人は皆同じ」だと思っているフシがある。これは大きな間違いだし、これは多くの不幸を生むと思うので早く止めてほしい。「酒を飲んだらハメをはずして腹を割って話して仲良くなる」なんてのも止めてほしい。何なんだろう、この田舎者的発想は。酒を飲まないトランプ夫妻を居酒屋に誘って親密さをアピールってのもそれに由来するのだろうけど、日本人、訳わからん。それと、海外で大きな事故があったとき、ニュースの最後で事故に巻き込まれた日本人の有無を言うのも、半分、どうかと思う。問い合わせの要不要の情報として流しているのかもしれないが、半面、日本人が巻き込まれていなければ「良かった」となるのだろうか?日本人以外の人命はどうでもいいのかと。

話題を変える。

私が子供の頃は戦争を引きずった大人が近くにいたものだった。それは戦争を深く反省していたことと、戦後の焼け野原から日本の復興のために必死に働いていることだった。日本の敗戦はそういった大人のメンタルに深く突き刺さっていた。それは元来物事を深く考えない日本人を深く考えさせる原動力となった。しかし、経済成長で次第にそういった陰や深みは薄れっていった。決定的だったのはバブルが日本人のメンタルを堕落させた。まあ、全部が全部とは言わないが。バブルによって日本はもう一段ステップアップするチャンスがあったが、そのチャンスをものにできなかったと思う。結局、日本人のメンタルはそれ以降浅薄なものになってしまったと思う。そして、学校教育が日本的集団心理を再生産する場となってどんどん日本的集団心理に適応した人間を培養していったと思う。会社も社会も学校の延長になってしまった。あとはあらゆる場面でその繰り返し。

以上、ここまでフリーライティングで書いてみた。で、日本人のメンタルを変えるには『日本を変革する1』で書いたように家族から変えなければならないと思う。親子であっても互いに独立した個人であることを認識する。カギとなるのはセクシャリティだと思う。『21世紀はセックス革命』と書いたように、こんな日本人でさえもセクシャリティは多様に発現すると思う。そのとき、軋轢が生じて、人々は改めて物事の本質について考えるようになると思う。そして、それは戦いになる場合もあると思う。それは単純化していえば、保守vsリベラルの戦いになる。戦いを嫌いだが、戦いを避けてばかりではいけない。自由を得るためには戦わなければならない。ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん、だ。

2020年7月11日土曜日

日本を変革する(5)まとめ

これまで『日本を変革する』というテーマで4回の記事を書いた。今回はそのまとめを書いていこうと思う。

第1回では『家族を変革する』で子供中心の家庭から夫婦中心の家庭へという提案をした。これは以前に書いた『21世紀はセックス革命の時代』とも関わっている。

日本はこれまでセックスにはあまり触れないようにして社会を築いてきた。よく言われるのは「子供の教育上良くない」という理由でいろいろな変革を日本社会は拒否してきた。それは日本社会が大人を基準に社会を構築するのではなく、子供を基準に社会を構築しようとする傾向が強いことを表している。

また、セックスは人間に自然に備わっている本能なので、なにも教えなくても自然にできるものだという勝手な思い込みがあり、そのためもあって性教育も疎かだし、セックスに関する必要な正しい情報も少ない。大人になれば食欲があるように性欲があって、セックスライフが生活の重要な一部分であるにも関わらず、日本人のセックスライフは貧しいものになっている。

さらに個人のあり方が日本の子供中心の家庭によって大きく阻害されている。日本の親子関係がそれだ。日本の親子関係の問題を最もよく表しているのが毒親だ。成人した子供であっても親が子供を独立した個人として認めずに、自分の影響下・支配下に置こうとする。子供は経済的に自立することではじめてその呪縛から解放されるのだが、親はその支配をなかなか手放そうとしない。そもそも、なぜ親はそうなってしまうのかというと、親自体が独立した個人として人格的な成長ができていないからだ。人間は孤独な存在であること、独立した存在であることを受容できていないからだ。これが個人だけにとどまるならば個人の問題として済む話だが、この傾向は展開されて、「日本人は皆同じ」という異常な同調圧力へと拡大されてしまうのが問題なのだ。

なので、まず、家族のあり方から変えねば、日本の根本は変わらないと思う。

次に、『市場を真っ当なものにする』ことを提案した。日本の経済は市場経済で資本主義だと多くの人は思っている。しかし、実際は違う。日本人は資本主義のルールをねじ曲げて特異な市場経済に変えてしまっている。

これは日本の儒教と似ている。幕末の儒学者、横井小楠は儒教を根本的に学ぶ中で日本の儒学が本来の儒教の姿をねじ曲げてしまっていることに気づいた。本来の儒教では禅譲といって能力主義だったはずが、日本の儒教では血縁主義になっていた。本来の儒学ではそれは大間違いであるのに、日本の儒学者たちはそのことを黙認してしまっていた。結局、日本では歪められた儒教が定着してしまっていた。そのことを指摘した横井小楠は日本人からは社会を根本から破壊する過激派と危険視されてしまう。

現在の日本の資本主義もそれと同じだ。市場経済・資本主義と銘打っていても、実際はかなり歪められたものになっている。最たるものが規制だ。新規参入を阻むために規制を設けて既得権益層が安定して利益を上げられるように歪めた市場にしてしまっている。その結果、日本経済は世界経済からどんどん遅れをとっている。不合理なことばかりやっているから当然そうなる。

国内のくだらぬ規制を撤廃して市場原理が正常に機能するように市場を真っ当なものにすることが解決策だ。市場原理が正常に機能するようなれば、日本の企業は自然と淘汰されて大企業と個人商店の2つに二極化すると思う。

3つめが『分権とネットワーク』だ。これまでの日本は工業国モデルで中央集権型のツリー構造だった。戦後の高度経済成長期はそれで良かった。しかし、知識社会へ移行するためには中央集権型のツリー構造では現実に対応しきれない。まず、中央集権型から地方分権型に変える必要がある。幹を作るときには中央集権型は優れているが、幹を作り終わったあとの枝葉をその地域に張り巡らせるときには地方分権型の方が優れているからだ。今の日本は枝葉を作る段階にある。

さらにシンプルなツリー構造だけでは真に豊かにはなれない。ツリーを横断するネットワークの活躍がそこには必要だ。(それは大脳のシナプスに似ている。言語とはまさにツリーを横断するネットワークだ。)問題はネットワークを張り巡らせるには時間が必要なことだ。あ、それと個人個人の一個人の能力の高さも必要だが、それこそインターネットがそれを可能にすると思う。時間を作るためには労働時間を定時できっちり終わらせることとテレビを見ないことだ。日本人の共通感覚を養うためにテレビは共通の話題として役立ってきた。しかし、多様な個人の生き方を認める社会なのだから、共通の話題はそれほど必要としない。ニュースを見る必要はあるが、バラエティを見る必要はない。可処分時間をネットワークのための時間や個人の能力を高める学習の時間に使うべきだと思う。

最後の4つめが『記録と蓄積』だ。とにかく、日本人は意思決定過程を記録するというのが苦手だ。その根底には道理で物事を決めることが苦手だというのがある。集団心理で雰囲気で物事を決めている。それは無謬性とイジメの心理だ。考えてみれば愚かな話だ。人間は完璧ではない、間違いをときには犯す。それを受け入れて、振り返って修正していくためにも、道理で考え、その記録を残し、後日検証して、改善していくという当たり前のことができていない。だから、それを改善するためには記録することだ。そして、振り返って改善してゆく。ひと言でいえば、PDCAサイクルだ。ちなみに、政治や社会のチェックを行うのがジャーナリズムだ。ジャーナリズムを正常に機能させるためには、ジャーナリズムは独立した存在でなければならない。ジャーナリズムにはお金を払おう。ただし、ジャーナリズムに対しても無批判であってはならないので、自分の目でよく確かめることを怠ってはならない。

以上、4つの提案を行った。こうやって並べると新しい日本のグランドデザインが見えてこないだろうか?まず、日本的家族の呪縛から解放して個人を確立する。歪んだ規制を撤廃して市場経済を正常に機能させる。中央集権型から地方分権にして頭脳を地方に分散する。同時にネットワークを張り巡らせて硬直したツリーを補完する。そして、記録して振り返ってシステムを改善してゆく。これらが21世紀の日本が進むべき道だと思う。


2020年7月5日日曜日

日本を変革する(4)記録・蓄積

日本を変革するシリーズの最後です。最初、家族を変えるから始まり、市場を変える、日本の構造を変えると続きました。最後は、それを永続的なもの、持続可能なものにするための方策です。それは記録すること、そして、その記録を蓄積することです。

(1)意思決定過程を記録する

日本に一番欠けているものは意思決定過程を記録しないことです。ひと言で言えば、公文書管理がなっていません。なぜそうなるかは簡単です。物事を空気で決めるからです。もし意思決定過程を記録に残してしまうと責任の所在がハッキリしてしまうからです。道理がなくて空気で決めているので、意思決定過程を記録してしまうと、もろに責任が当人に降りかかるからです。

物事を空気で決めてしまうのは、いくつか理由があります。一つは日本人は議論ができない。議論をケンカだと思っている。物事を道理で決めるためには議論が必要なのにそれができないのです。もう一つは物事を道理で考えることがとても苦手です。日本人は抽象的に考えるのが苦手なので、道理で考えるのも苦手です。ロジックを積み上げるのが苦手なのです。さらに物事の大小が区別できない。具体的なものなら大小が区別できるが、抽象的なものになると大小の区別ができない。しかも、大小の区別ができないから枝葉末節にこだわる。枝葉末節を大なるものと勘違いしている。さらにそれが枝葉末節であると他人から指摘されても、議論が苦手なので他人の意見を受け入れられない。自説を曲げられない。ロジックの組み上げは共同作業のはずなのに、まるで勝敗を決める将棋の対戦でもしているかと勘違いしている。そのため、議論そのものが成り立たない。以上のような傾向があるから、日本人は空気で物事を決めるのが良いと思っていて、それを実践している。

そして、空気で物事を決めてしまうと、意思決定過程を記録するのが困難になる。なぜなら、そこにロジック、道理がないからです。日本人の意思決定は、ただなんとなく、その場のモヤモヤ~っとした雰囲気で決まっただけなのですから。なので、記録ができないのです。

さらに、議論の行方を黙ってうかがっている人の中には損得勘定を働かせている者もいます。黙って議論を見守り、自分の得になりそうな機会があれば、自分の損得勘定を他者に悟られないように注意しながら、議論の方向をそれとなく自分が得になる方向に向かうように促したりします。こういうたちの悪い輩が黙っている者の中には隠れています。

さて、こういった問題は教育の問題だと思います。学校教育で複数人における議論と意思決定過程の記録をする訓練をしておくべきです。なんでも良いのですが、例えば10人の昼食費1万円が与えられたときに何を食べるかを意思決定させる練習をするのです。同じものなのか、バラバラなのか、あるいは、みんな同じ店か、ばらばらに買いに行くかすべて自由です。どういった選択をしてもかまいません。ただ、議論とそれを記録するということだけはしっかりやる。

私の周囲の大人たちを見ていても複数人での意思決定が苦手だと感じます。大抵、遠慮がちです。ここでの遠慮がちは美徳ではありません。空気をうかがっているのです。合理的な選択や自由意思を尊重しようという気配はありません。日本人が気にしているのは集団心理です。極端な言い方をすると、自分が集団からいじめられないように周囲に気を配っているのです。これは人間の心理というよりは、サルの心理に近いです。彼らは道理が大切なのではなく、ボス猿のご機嫌が大切なのです。

(余談ですが、日本人の心理には、『浦島太郎』の古来からいじめがセットされていて、現在も学校教育がそれを培養しています。日本人がより良く変わるためには、いじめを克服する必要があると思います。)

(2)データを蓄積する

さて、記録を習慣化できれば、あとはそれを持続することです。そうすれば、記録がどんどん蓄積されていきます。そして、記録を振り返ることで何らかの知見が得られるはずです。ところが、日本人は記録を蓄積することが苦手です。日本人の生き方は刹那的です。「今が良ければ良い、明日のことは知らない」という人が意外と多いです。

なぜそうなるのか?日本人は記録というよりは書類を作っていると感じています。つまり、極端に言えば、お役所に必要な書類を作っているのです。お役所に必要な面倒な書類作成だと思っているのです。だから、面倒な仕事は増やしたくない。お役所が要求する書類だけ作っていればいいという感覚です。

それともう1つ、日本人は物は重視しますが、情報や知識、そして人間を軽視しています。情報や知識は抽象的な部類に入るようで物のように大切に扱われません。そして、人間。人物は複雑です。人物は物ではありません。人格は複雑なソフトウェアです。日本人の人物評、人間観察力は単線的で浅いです。人間を軽く見ています。個人の自由意思や人権を軽視しています。日本人の大切なものは、物とお金です。知識や個人を軽視しています。世界が知識社会に移行したとき、日本はついて行けませんでしたが、理由は簡単で、知識を軽視したからです。日本の没落の原因のひとつがそこにあります。

話が脱線しましたが、繰り返しになりますが、記録を蓄積し、時々、振り返れば、そこから新しい知見が得られると思います。後はPDCAサイクルでシステムが改善されていくと思います。なので、徹底的にデータを蓄積していくことです。

まとめ
変革の方策はとてもシンプルです。記録すること。そして、その記録を蓄積することです。そして、時々、それらを振り返って改善してゆくことです。



2020年6月28日日曜日

NEWS2020.06


6月2日(火)
トランプ米大統領、反ファシスト「アンティファ」をテロ組織に指定すると発言
アンティファについては、以前、シャーロッツヴィルで車で突っ込んだ極右に対して、一斉に警棒みたいな棒で反撃したデモ参加者たちを見たことがある。このとき車に轢かれた女性が死亡したはず。今回のニュース、日本では「どっちもどっち」的な捉えられ方をするかもしれないが、明らかに極右が悪いと思う。極右が暴力を行使するために、対抗策としてアンティファも暴力で反撃するしかないのだと思う。それに、今回暴動を起こしているのは本当にアンティファだろうか?別の主義思想団体では?CNNを襲うなんて、トランプ支持者ではないのか?それにしても暴力を煽るトランプは酷い。このような人物が大統領とは・・・。また、日本の大手メディアと日本の大衆については言い出すと長くなるのでここでは言及しないが、浅はかな人ほどこういうニュースでネトウヨ化が進行する。

6月5日(金)
知らない間にYouTubeでまじめな性に関する動画が増えていることに気づいた。まじめと言っても学問的とかではなくて、当事者による啓蒙動画が増えていると思う。これはスゴイことだと私なんかには思える。もちろん、それはありえないことではない。日本は無意識の国だ。見えない縛りがあって、無意識に人々はその見えない縛りを超えないように生きている。ところが、YouTubeがお金になることもあって、無意識であるがゆえに無頓着にそういった縛りを簡単に超えてしまえる。これは日本人の性に関する意識を大きく変える可能性がある。日本の学校教育は性教育を疎かにしてきたが、これを大きく改善する力を秘めている。こういう性の啓蒙動画がどんどん増えて日本人の性意識を変えて欲しいと思う。そして、改めて思う。YouTube、スゴイ!

ところで、YouTuberの共通点は、みんな、歯がキレイ!歯が白い!たぶん、みんな、ホワイトニングしているんだろうなぁ。

6月7日(日)
マル激トーク・オン・ディマンド 第1000回『ようやく見えてきたコロナの正体』

児玉龍彦氏によるコロナの話は理路整然としていて大変勉強になった。さらに現在の日本の科学技術や行政に対する評価は必見の内容だった。同時にそれは恐るべき内容でもあった。そして、児玉氏によるビデオニュースの評価には涙がこみ上げるほど感動した。「自分の足で立つ。自分の頭で考える。これを次の世代に」という言葉、まさに「これだ!」と思った。

いろいろなキーワードが印象に残った。曝露量、フィードバック、分散型などなど。専門家会議で正解は最初は少数意見だがフィードバックでだんだんそれが正解だと分かってくるという話も面白かった。空気を読むような日本の会議で問題を解決する正解が生まれるはずがない。分散型システムが問題を解決しようと失敗を恐れずにいろいろ試行錯誤してやっと結果が得られるのだと思う。もちろん、試行錯誤の中では、ダメなものもたくさん出てくるが、その中から良いものが出てくる。これは市場原理にも合致すると思う。まさに市場経済の分散型システムの強みだと思う。失敗は山ほど出てくるだろうけれど、失敗なくして成功はない。クラウドファンディングの話が出てくるのも偶然ではないと思う。

先端研が最初に取り組んだものが、徐々に他の機関にも拡がっていくというのも面白かった。ビデオニュースのような取り組みも(大変失礼な言い方で申し訳ないが)小さな小石のような取り組みかもしれないが、それが波紋のように波及して大きな波を起こして相転移のようにして日本を大きく変える可能性だってある。

やっぱり、失敗を恐れてはいけないし、失敗をあげつらう文化も良くない。過程をしっかり残してそれを検証して、新たに問題解決に生かしてゆく、ま、PDCAなんだけど、そのためにも意思決定の過程をちゃんと公文書で残して検証できるようにしていくべきなんだと思う。フィードバックという言葉はそういう問題解決のルーチンを端的に言い当てていると思う。

結局、データ主義なんだろうなあ。ハラリの『ホモ・デウス』で言っているデータ教の範疇だと思う。この話を突き詰めてゆくとAIが人間の知性をいつか上回ると思う。でも、この流れは止められないと思うし、止める方向に向かうのも間違っていると思う。でも、ホーキング博士の懸念も払拭できない。あるいは恐竜が絶滅したように人類も絶滅する運命かもしれない。人間だけが永遠不滅なんて虫が良い考えかもしれないからだ。そして生命はAIにその役割をバトンタッチするのかもしれない。世界を経験するという役割、喜びと苦痛に満ちた生という経験・・・。宇宙の終焉、ビッグクランチへ向かう折り返し点くらいで交代するのかも。

日本、中国批判声明に参加拒否 香港安全法巡り、欧米は失望も
安倍政権の対応としては驚きはない。もちろん、私としては批判声明に日本も参加してほしかった。ところで、ネトウヨたちはもはや超大国・中国を批判するだけの気概はないのかもしれない。そして、いっそう韓国を攻撃するようになるかもしれない。しかし、一人当たりのGDPで日本は韓国に抜かれた。サムスンやLGの活躍、5Gの特許数や米国大学への留学数を見ても韓国が日本を上回っていると思う。YouTubeで韓国の人たちのチャンネルを見ても日本よりオシャレだったり先進的じゃないかと思うことが多い。近い将来、日本のネトウヨは歪んだ優越感を失うことになるかもしれない。

6月8日(月)
10兆円「白紙委任」変わらず 政府、予備費半額の大枠明示
この国、ヤバい・・・。なにもかも腐っている・・・。

6月14日(日)
検察を市民社会が絶えず監視しなければならない理由
数年来のマル激の視聴者である私としては、おさらい的な内容の話だったが、しかし、とても大切なこと。日本人はフローとストックでいうと、フロー重視でどんどん忘れていってしまう。しかし、こういう構造的な問題はときどき思い出して、まだ問題として残っていることを再認識しないと忘れてしまう。ま、昨今の黒川問題でいやが上にも思い出さされた問題ではあるが。

ただ、気になるのは「市民社会が監視する」とあるが、具体的にその目になるのはジャーナリズムだ。第4の権力。そして、情報の真偽を常に気にしなくてはいけない今の時代、単純に白黒の判断を下せないもどかしさと不安。常に懐疑的にならざるをえないシンドさ。その上、忙しい日常生活の中で効率良く情報を摂取しなければならない時間の無さ。いっそ、自分がピックアップしたニュースをストックしておいて人工知能にアドバイスしてもらいたい(苦笑)。「あなたはこの間までニュース界隈でこんなことを考えていたんですよ」と。なんか良い方法はないものか・・・。

6月16日(火)
性的少数者だからと解雇するのは違法 米最高裁が初の判断 
今の米国最高裁でこのような判決が出たことに驚く。嬉しい驚き。

れいわ・山本代表、都知事選出馬を表明 五輪中止、10万円給付を公約
山本太郎氏の支持層は低所得者層いわゆる下層だと思う。経済政策はMMT。私はMMTには懐疑的。10万円給付などは下層が喜びそうな政策。基本的には下層ターゲットのポピュリズムだと思う。それが悪いとは言わない。民主主義なのだから自分を支持してくれそうな層にフィットする政策を提示するのは当然ではある。ただ、私自身は日本のバーニー・サンダース的な草の根運動と堅実な政策を提示する宇都宮健児氏を支持する。反小池陣営からは山本太郎が立候補することで票が割れると非難する声があるが、そういう面も多少あるとは思うが同時に支持層は案外違う気もするが、いずれにしろ当人の自由で当人なりの考えに基づいて立候補するのだからそれは致し方ないと思う。ただ、私は都民ではないので投票できないのだが。

北朝鮮が南北連絡事務所を爆破か 韓国
なんとまあ・・・。いくらなんでもやりすぎだろう。

河井案里氏秘書に有罪判決 連座制適用対象の量刑判断
この事件、選挙資金の配分が10倍違うし、あからさまに買収しろという選挙資金としか読めないわけで・・・。

「技術的不備」イージス・アショア事実上撤回 安倍政権の求心力低下不可避
なんだろう?瓦解?

6月17日(水)
中印が係争地で衝突 インド兵20人死亡
核保有国同士の衝突って怖い。まあ、カシミール紛争ではパキスタンも加わって核保有国の3ヶ国での衝突でもう怖すぎるんだが・・・。

まもなく逮捕へ……河井克行・案里夫妻の“買収問題” 東京地検特捜部は全貌を解明できるか
東京高検検事長が黒川弘務から林眞琴に代わったので、さてどこまでやるのかに注目が集まる。

政府・与党、検察定年延長の特例削除へ 公務員法改正案は廃案
なんかもう、腐敗しているとしか・・・。

山尾氏、国民に入党届
立憲と国民の合併話もあるから、それも計算に入れてのことなのかもしれないが。それにしても、保守かリベラルかは大事な違いだと思うのだが、とはいえ、そもそも立憲自身が保守だとも言えるわけで、もう日本は総じて保守ばっかりなんだよなと。ま、日本国民が保守ばっかりだから仕方ないんだろうけど。やはり、日本ではリベラルは少数派なんだろうなあ。共産党も根っこは保守だからねぇ。やれやれ・・・。

立憲・須藤参院議員が離党届 都知事選で山本太郎氏応援
須藤元気の支持層は山本太郎の支持層と似たような層なんだと思う。だから、須藤氏の生き残り策としてはれいわ新選組に合流したいのだろうと思う。ただ、経済政策は彼らは財政出動型なんだと思うが、財源問題があるわけで、彼らはMMTを裏付けとするんだろうけど、私は甚だ危うい考えだと思っていて、むしろ日本の財政破綻を心配している。避けられないだろうけど・・・。それにしても、節操の無さを感じる。まあ、生き残るために必死なんだろうけど。ただ、昔からなんだと思う。幕末でも、みんな、節操がないもの。尊皇攘夷が一夜にして開国に変わっちゃう国だからね。みんな、命がけで「攘夷!、攘夷!」って言ってて、切った張ったしてたのにさ。もし、このときの意思決定過程を書いたら、もうムチャクチャだったと思う。複雑系的な意思決定過程だったりしてさ(笑)。それは哲学じゃなくて、大脳内の何らかの変化だよね。モヤモヤ~とした(笑)。

6月21日(日)
人種差別と収束しないコロナに対する怒りがトランプのアメリカを変え始めている
米国の人種差別について大変勉強になった。トランプ大統領と軍との経緯、デモの段階的経緯など勉強になった。また、身分証明書の出し方など驚かされた。また、最高裁判決の解説も大変勉強になった。

米国の最高裁については下記の本を読むと勉強になる。判事が随分入れ替わったので、ちょっと古くなってしまったけれど、それでもこれまでの経緯を掴むのに参考になると思う。長くて読むのが大変だけど、でも面白く読めると思う。


6月25日(木)
菅原前経産相を不起訴処分に 香典問題、起訴猶予か
結局、検事長が黒川弘務から林眞琴に代わっても同じか・・・。ガッカリだ。

6月28日(日)
ポストコロナが問う、日本は外国人と共生できる国なのか
先日、見知った人から工場で外国人が解雇されたという話を聞いたばかりだったので、タイムリーな話だった。そのときは外国人が解雇されたことをさも当たり前に受け止める感じに日本人って薄情だと思ったものだ。とはいえ、私自身、何もできないのだが・・・。それにしても日本に来る外国人が減っている話は驚いたが、同時にさもありなんという感じだった。経済的にも制度的にも日本は魅力のない国になりつつあるし、そのうち出稼ぎに行く日本人も増えるだろうが、外国人にこんな酷い仕打ちをしておいて、そのときどんな気持ちで行くことになるのかと考えないのだろうか。

今月のまとめ
国内政治では、河井夫妻逮捕が私にとって一番大きいニュースだった。黒川検事長定年延長問題で検察と安倍政権との軋轢がどのように進展するか注目していたが、その後、菅原一秀議員の香典問題が不起訴処分になったので検察に対して落胆した。

海外問題では、BLM運動(Black Lives Matter)が世界中に広まったことが大きなニュースだった。そして、いろんな物議を醸した。驚いたことは白人警官の中には白人至上主義者がいて、家に強盗が入ったと通報した黒人女性が駆けつけた警官に射殺されて、こういうことが起こるのはよくあるらしく、黒人が警官を呼ぶのはリスクがあるという話に驚いた。また、日本の在日コリアに対する差別に言及するツイートもあったりして、私自身、在日コリア差別について勉強不足で勉強せねばと反省した。

嬉しいニュースとしては、米国最高裁の判決で性的少数者を理由に解雇するのは違憲という判決が出たことだった。トランプ大統領になって保守派の判事が増えたので、せっかくオバマ大統領が進めたLGBTQ政策が後退するのを心配していたので、この判決は嬉しかった。

イージス・アショア停止の件も驚いた。走り出したら止まらない日本で、珍しくストップをかけた。すっかり忘れていた話だったので、寝耳に水のような不意打ち感があったが、この件は大きいと思う。

山尾志桜里女史や須藤元気氏の動きに落ち着かない感じでなにやらムズムズしたが、山本太郎の令和新選組が存在感を増しているのを感じる。民主党が立憲民主党と国民民主党に分裂して、しかも曖昧なまま、再び合流話が出たり引っ込んだりと落ち着かない中で、山本太郎の令和新選組はそれなりにある一定の層に訴えるものがあると思う。

都知事選が始まったが、まず立候補者が宣伝目的で立候補しているのが目につく。とはいえ、宇都宮健児氏も選挙が支持者を増やす運動と捉えるならば、彼らのような立候補も民主主義としては否定できないとも思う。でも、宣伝目的は邪な野心には違いないので無視したいところ。

北朝鮮問題。どうも北朝鮮国内で政権の交代があったのではないかと思う。金正恩の健康問題が取りざたされていたし、金与正に政権が渡ったのではないだろうか?金正日から金正恩に政権が移行したときも北朝鮮は軍事行動に出たし、おそらく、北朝鮮国内の反乱を恐れてのことだと思う。独裁者が怖いのは国外の敵ではなく、国内の反乱勢力だから。それにしても、ソ連の書記長が死んだときにクラシックが流れるのをちょっと思い出した。

香港の安全法問題。周庭さんが心配。カナダにでも移住してほしい。それにしても、世界が中国を止められなくなりつつある。中国の覇権が強大になりすぎて。

日本の国家財政が心配。10兆円も白紙委任するとか信じられない。経済指標は悪いのに株価だけは上がったりするが、世論調査の支持率低下と株価が連動しているのは明白。日本経済・日本の国家財政の将来を考えると背筋が寒い。

ビデオニュースの1000回がとにかく印象に残った、というか感動した。とにかく、「自分の足で立つ。自分の頭で考える。次世代にこれを伝える」、これがすべての答えだと強く思った。

コロナは東京では再び広がりつつあるようだ。私の住んでいる地方では今のところ収束しつつある。ただし、都市圏から再びもたらされるリスクはある。ただ、人々は外出が増えるなど日常を取り戻しつつある。それとマスクが手に入りやすくなった。ただし、まだコロナ以前ほど安くはない。ちなみに、個人的には月前半はコロナの影響で人員が減ったため、却って仕事が多忙を極めた。月後半になって人員が元に戻って落ち着いたが、先月の落ち込みに対する反動もあって仕事は例年よりは忙しかった。なので、過労でかなり体調を悪くした。来月は少し落ち着いてほしいものだ。

なにもかもが停滞している感じがしたが、YouTubeだけは賑やかな感じがした。もっともYouTuberたちもコロナでネタがないとこぼしていたりするのだが、見ている方はYouTubeに人が集まっていることに変わりはないと感じている。

安倍政権やトランプ政権が進歩を止めてしまっている感じる。一方、中国の経済力が世界を変えているが、共産党政権の全体主義も力を増しているので『1984』のようにならないか今後が心配だ。

日本を変革する(3)地方分権とネットワーク

日本を変革するシリーズの第3弾。前々回は家族を変革し、前回は企業を変革するだった。今回は地方分権とネットワークがテーマとなる。

(1)中央集権から地方分権へ

1990年代半ばあたりから言われていることだが、国を中央集権から地方分権に変える。集中型から分散型に変えることだ。ずっと言われてきたように道州制の導入だ。税の配分を中央に集中させるのではなく、地方に分散する。そして、分散するのは、お金だけではない。政治もエネルギーも食料も地方に分散する。

ただし、分散型システムは中央集権型システムよりは非効率ではある。中央ではなく、地方が意思決定していかなくてはならない。地方議会が意思決定して差配していかなくてはならない。ふざけた地方議会ではすぐに立ちいかなくなるし、不正が横行することもあるだろう。質の高い人材が地方で求められる。そういった人材をスカウトするか、地方で育てていかなければならない。

今までは良くも悪くも中央に任せていれば良かった。責任も中央にあった。しかし、これからは自分たち自身に責任がある。豊かになるのも、落ちぶれるのも自分たち次第だ。今までは国が集めたお金を地方にばら撒いていた。しかし、これからはそうではない。自分たちで集め、自分たちで配分していくべきだ。

これまでは中央から地方へトップダウンのツリー構造だった。これからは地方ごとにトップをおく分散型のツリー構造にする。簡単に言えば、英米の連邦制のようなものだ。


(2)ネットワークを育てる

経済的な豊かさを向上させるには市場原理に則って競争しなければならない。しかし、市場は万能ではない。市場原理に則れば、すべてが良くなり、満足な暮らしが手に入るというわけではない。地方分権では、市場ではなく、社会を育てなければならない。社会を育てるのは行政のようなツリー構造のものではない。様々なコミュニティや拠点が横断的に繋がるネットワークが適している。具体的には、大学であったり、NPOであったり、宗教法人だったりする。もちろん、小さな自治体が拠点になることもあるだろうし、文化施設のもたらす一時的なコミュニティが拠点にあることもあるだろう。いずれにしても、多様なコミュニティや拠点がゆるやかに繋がるネットワークが地方分権には適している。地方行政や地方議会がツリーだとするならば、様々なコミュニティがネットワークだ。そういったネットワークを増やしていくことだ。

そして、忘れてはならないのが、チェック機能や情報発信機能を担うジャーナリズムだ。権力が不正を働かないように常にチェックしなければならないし、地域の埋もれやすい情報をしっかりと発信するのもジャーナリズムの役割だ。民主主義社会を機能させ、より良く改善していくサイクルはPDCAと同じで、そこでチェック機能を果たすジャーナリズムの存在が欠かせないのだ。

(3)時間が必要だ。

さて、上記を実現するために日本にとって一番何が必要かというと、それは時間だ。日本人は兎角、枝葉末節にこだわる。些末なことに高い完成度を求める。そのため、多くの時間を失ってきた。会社人間と言われたように、日本人は会社が人生そのものだった。会社が日本人の多くの時間を奪ってきた。しかし、これからは違う。会社は人生の一部でしかない。会社のために使う時間はキッチリと限定すべきだ。そして、自由にできる時間を作ることで、その時間を会社以外のことに使うべきだ。つまり、社会を育てる時間に充てるのだ。

また、会社勤めをしていない若者や主婦はテレビを見ないことだと思う。共通の話題としてテレビ番組の話題を取り上げることが多い。(特にバラエティ。)しかし、マスを意識した日本のテレビ番組はあまりに幼稚で低俗すぎる。昨今のテレビ離れは良いことで、もっと時間を有意義なものに使うべきだ。

まとめ

今までは国がトップのツリー構造で、会社も産業のツリー構造の一部だった。日本は全体的にツリー構造だった。しかし今後は、まず中央集権から地方分権に変える。次に様々なネットワークを育てるのだ。つまり、日本をツリー構造から地方分権と多様なネットワークに変えるのだ。しかし、そのためには、可処分時間が必要だ。そこで重要になってくるのが残業を減らすこととテレビを見ないことだ。

余談
余談になるが、『21世紀の生存戦略』で私は人間知について書いたが、自分自身を知るためにまず最初にすることは、自分のログを残すということだ。自分自身の観察記録を残すのだ。そして、自分の傾向をデータ的に知ることで、次はこうしたらいいとか改善策を考えられる。そしてそれを試してみて上手く行かなかったら、また別の方法を考える。この繰り返しだ。つまり、PDCAサイクルだ。これは自分自身を知るためだけでなく、ビッグデータや科学的実験など幅広く応用されると思う。ハラリのいうデータ主義も要はログを残すことに等しい。なので、まず最初の一歩はログを残すことだ。すべてはそこから始まると言っても過言ではない。