これまで『日本を変革する』というテーマで4回の記事を書いた。今回はそのまとめを書いていこうと思う。
第1回では『家族を変革する』で子供中心の家庭から夫婦中心の家庭へという提案をした。これは以前に書いた『21世紀はセックス革命の時代』とも関わっている。
日本はこれまでセックスにはあまり触れないようにして社会を築いてきた。よく言われるのは「子供の教育上良くない」という理由でいろいろな変革を日本社会は拒否してきた。それは日本社会が大人を基準に社会を構築するのではなく、子供を基準に社会を構築しようとする傾向が強いことを表している。
また、セックスは人間に自然に備わっている本能なので、なにも教えなくても自然にできるものだという勝手な思い込みがあり、そのためもあって性教育も疎かだし、セックスに関する必要な正しい情報も少ない。大人になれば食欲があるように性欲があって、セックスライフが生活の重要な一部分であるにも関わらず、日本人のセックスライフは貧しいものになっている。
さらに個人のあり方が日本の子供中心の家庭によって大きく阻害されている。日本の親子関係がそれだ。日本の親子関係の問題を最もよく表しているのが毒親だ。成人した子供であっても親が子供を独立した個人として認めずに、自分の影響下・支配下に置こうとする。子供は経済的に自立することではじめてその呪縛から解放されるのだが、親はその支配をなかなか手放そうとしない。そもそも、なぜ親はそうなってしまうのかというと、親自体が独立した個人として人格的な成長ができていないからだ。人間は孤独な存在であること、独立した存在であることを受容できていないからだ。これが個人だけにとどまるならば個人の問題として済む話だが、この傾向は展開されて、「日本人は皆同じ」という異常な同調圧力へと拡大されてしまうのが問題なのだ。
なので、まず、家族のあり方から変えねば、日本の根本は変わらないと思う。
次に、『市場を真っ当なものにする』ことを提案した。日本の経済は市場経済で資本主義だと多くの人は思っている。しかし、実際は違う。日本人は資本主義のルールをねじ曲げて特異な市場経済に変えてしまっている。
これは日本の儒教と似ている。幕末の儒学者、横井小楠は儒教を根本的に学ぶ中で日本の儒学が本来の儒教の姿をねじ曲げてしまっていることに気づいた。本来の儒教では禅譲といって能力主義だったはずが、日本の儒教では血縁主義になっていた。本来の儒学ではそれは大間違いであるのに、日本の儒学者たちはそのことを黙認してしまっていた。結局、日本では歪められた儒教が定着してしまっていた。そのことを指摘した横井小楠は日本人からは社会を根本から破壊する過激派と危険視されてしまう。
現在の日本の資本主義もそれと同じだ。市場経済・資本主義と銘打っていても、実際はかなり歪められたものになっている。最たるものが規制だ。新規参入を阻むために規制を設けて既得権益層が安定して利益を上げられるように歪めた市場にしてしまっている。その結果、日本経済は世界経済からどんどん遅れをとっている。不合理なことばかりやっているから当然そうなる。
国内のくだらぬ規制を撤廃して市場原理が正常に機能するように市場を真っ当なものにすることが解決策だ。市場原理が正常に機能するようなれば、日本の企業は自然と淘汰されて大企業と個人商店の2つに二極化すると思う。
3つめが『分権とネットワーク』だ。これまでの日本は工業国モデルで中央集権型のツリー構造だった。戦後の高度経済成長期はそれで良かった。しかし、知識社会へ移行するためには中央集権型のツリー構造では現実に対応しきれない。まず、中央集権型から地方分権型に変える必要がある。幹を作るときには中央集権型は優れているが、幹を作り終わったあとの枝葉をその地域に張り巡らせるときには地方分権型の方が優れているからだ。今の日本は枝葉を作る段階にある。
さらにシンプルなツリー構造だけでは真に豊かにはなれない。ツリーを横断するネットワークの活躍がそこには必要だ。(それは大脳のシナプスに似ている。言語とはまさにツリーを横断するネットワークだ。)問題はネットワークを張り巡らせるには時間が必要なことだ。あ、それと個人個人の一個人の能力の高さも必要だが、それこそインターネットがそれを可能にすると思う。時間を作るためには労働時間を定時できっちり終わらせることとテレビを見ないことだ。日本人の共通感覚を養うためにテレビは共通の話題として役立ってきた。しかし、多様な個人の生き方を認める社会なのだから、共通の話題はそれほど必要としない。ニュースを見る必要はあるが、バラエティを見る必要はない。可処分時間をネットワークのための時間や個人の能力を高める学習の時間に使うべきだと思う。
最後の4つめが『記録と蓄積』だ。とにかく、日本人は意思決定過程を記録するというのが苦手だ。その根底には道理で物事を決めることが苦手だというのがある。集団心理で雰囲気で物事を決めている。それは無謬性とイジメの心理だ。考えてみれば愚かな話だ。人間は完璧ではない、間違いをときには犯す。それを受け入れて、振り返って修正していくためにも、道理で考え、その記録を残し、後日検証して、改善していくという当たり前のことができていない。だから、それを改善するためには記録することだ。そして、振り返って改善してゆく。ひと言でいえば、PDCAサイクルだ。ちなみに、政治や社会のチェックを行うのがジャーナリズムだ。ジャーナリズムを正常に機能させるためには、ジャーナリズムは独立した存在でなければならない。ジャーナリズムにはお金を払おう。ただし、ジャーナリズムに対しても無批判であってはならないので、自分の目でよく確かめることを怠ってはならない。
以上、4つの提案を行った。こうやって並べると新しい日本のグランドデザインが見えてこないだろうか?まず、日本的家族の呪縛から解放して個人を確立する。歪んだ規制を撤廃して市場経済を正常に機能させる。中央集権型から地方分権にして頭脳を地方に分散する。同時にネットワークを張り巡らせて硬直したツリーを補完する。そして、記録して振り返ってシステムを改善してゆく。これらが21世紀の日本が進むべき道だと思う。