2013年5月13日月曜日

雑感 ヘイトスピーチから経済体制の違いまで

とりとめもなく思ったことをメモしておこう。

ヘイトスピーチ法制化の件。私自身はヘイトスピーチを法律で規制することには反対だ。理由は言論の自由、表現の自由が損なわれるのではないかと危惧するからだ。何らかの形で法律で規制されれば、法の解釈が拡大されることによって自由な言論や自由な表現が規制されてしまうかもしれない。それに何をもってヘイトスピーチと規定するかもかなり難しい。そう簡単に線引できるものではないと思う。線引が難しいものほど解釈があやふやで拡大解釈の原因になりやすいと思う。したがって、ヘイトスピーチを法律で規制することには反対だ。

では、どうやってヘイトスピーチを止めさせるのか?以前、ツイッターでつぶやいたが、フィリップ・K・ディックの小説『ユービック』ではエスパーに対して反エスパー部隊を組織してエスパー狩りを行なっている。これと同じでネット右翼に対しても反ネット右翼を組織してヘイトスピーチに対抗すればよいと考える。在特会に対するレイシストをしばき隊がその対抗勢力だということだ。

私は人間というものは誰しも問題を抱えていると思っている。しかし、それと同時に人間は少しずつではあるが、問題を解決する能力を持っていると思う。問題が出てきてもそれを何とか解決してゆくのではないかと信じている。今から30年前を考えると、同性愛や性同一障害は決して日本社会で認められたものではなかった。少なくとも私が住んでいた地域社会は異端視していたし、彼らの権利を認めていなかった。しかし、LGBTの運動によって今やストレートな人たちと同じ権利が認められつつある。もし、LGBTたちがデモなど規制されたら、社会に認知されることはなかったのではないか。しかし、30年前には彼らを見る社会は決して理解があったとは言い難い。長い時間をかけて彼らはやっと権利を認めさせることに成功したのだ。だから、どんなにエキセントリックに見えても言論の自由や表現の自由を阻害してはいけないと思う。ヘイトスピーチの規制はそれらを阻害するかもしれない。それくらい、最初は異端視されたのだ。これは善い、これは悪いと簡単に見極めできるものではない。問題を乗り越えられると信じて、問題が表出することを恐れてはいけない。

人種の件。日本人というと単一民族という潜在的なイメージが今でも強いと思う。しかし、実際にはアイヌ民族もいるし、琉球人もいる。朝鮮系日本人もいるし、中国系日本人もいるだろう。大事なことはそれぞれ民族固有の文化を尊重することだ。例えば、日本に帰化したロシア人がいたとする。彼をロシア系日本人とする。当然、彼は日本人だ。しかし、母語はロシア語になる。文化もロシア文化だ。このように日本人だからといって、必ずしも母語が日本語で伝統文化が日本文化とは限らないのだ。彼を日本に同化させる必要はない。文化に優劣はない。それぞれの文化を尊重すべきであり、彼がどの文化を選択するかは個人の自由だ。このように考えると、オバマ大統領の演説を思い出す。

黒人のアメリカ、白人のアメリカ、ラテン系のアメリカ、アジアのアメリカなどない。
あるのはアメリカ合衆国だけだ

日本ももはや単一民族ではない。いや、人類学的には単一民族ではなかったのだ。ますますグローバル化する世界、日本もそろそろ古いイメージを捨てるときだ。(モンゴル・ツングース系の日本人、いわゆる大和民族は大和系日本人と言った方が良いのかもしれない。不勉強で知らないのだけど、学術的にはちゃんとした呼び名があるのかな?)

国語と日本語。日本の日本語教育は特殊で日本語といわず、国語と言う。確かに日本語と言わずに国語と言った方がその内容に沿うように感じる。というのも国語は単なる日本語教育ではないからだ。国語には思想が込められていると感じる。それは日本の思想だ。日本の教育は日本語教育と謳いつつ、その実、思想教育をしているとさえ見ることができる。まあ、国語という思想教育はそんなに悪いものではないように感じる。けれども、果たしてそれが正しいことかどうかはやや疑問が残る。もし、どうしても日本思想の教育をしたいのであれば、むしろ、日本語と日本思想を分けて教育しても良いのではないか。私自身は国語は好きな科目だった。だから、英語教育のように無味乾燥な日本語教育になってしまうのは勿体ないと感じる。しかし、国語を日本語教育かという違和感もある。ここはよく再考したほうがいいと思う。

相変わらず、在特会に端を発する思考が多い。しかし、在特会の問題自体はそろそろ収束するのではないかと思っている。というのもレイシズム反対などのアンチ在特会の市民運動がどんどん大きくなっていると感じるから。どう見たって在特会はチンピラかヤクザだし、どう考えたって在特会が悪でレイシストをしばき隊が正義だ。在特会たちネット右翼がカウンター運動で消滅させられるのも時間の問題ではないかと思う。いや、そう期待している。私も在特会のデモをYouTubeで見るたびに中指を突き立てて「在特、帰れ!」と叫びたくなる衝動に駆られる。早く在特会の問題を片付けて、自民党の憲法改正問題に取り組みたいものだ。いや、まあ、私の勝手な思考の話なんだけどさ。

それから、経済体制について、基本的なことだけど改めて書いておこう。

右翼・左翼  → 統制経済
リベラル    → 市場経済
保守     → 市場経済?(それとも統制経済?)
右翼がナチスのような国家社会主義の場合、統制経済になる。戦前の日本は自由主義経済の市場経済だったが、戦時になると日本も統制経済になった。また、左翼は社会主義だから当然計画経済であり、すなわち、国家が統制する統制経済だ。一方、リベラルは市場が決定する市場経済だ。保守はどうか?現状の経済体制を容認するなら市場経済になるのかな?やや、曖昧ではある。というのも保守の言動を聞くと企業を統制しようという意見が多いように見受けられるからだ。いずれにしても、市場経済を否定できないのではないか?まず、市場経済を受け入れて、それをどう修正・制御してゆくかが大切なのではないか。(文系アカデミズムが資本主義に批判的なのは仕方がないとしても、批判をさらに超えて市場経済に否定的になってしまい、その結果、市場経済のシステム修正を怠ってしまったのではないか?米国に比べて日本の市場経済の仕組みが遅れているように感じられる。問題が生じたとき、米国は制度を修正したのに対して、日本は人事を修正したのではないか。つまり、組織の責任者が責任をとって辞めるという慣習だ。しかし、本当は制度を修正すべきだったのではないか。)

2013年5月12日日曜日

回答

長文になりそうなので、ブログに書きました。

ツイッターでのお問い合わせの回答です。


まず最初は小さな例からお話します。例えば、こんな話があります。アップルコンピュータ社の創業者スティーブ・ジョブスとスティーヴン・ウォズニアックは当初ブルー・ボックスという擬似ダイアルトーンの装置を作って売っていました。これは擬似ダイアルトーンを発生させてタダで電話をかけられる装置なのですが、こういった装置は使えば違法になります。当然といえば当然ですよね。しかし、作ったり売ったりする分には不法ではありませんでした。なので、彼らは当初はこれでビジネスをやっていたわけです。

一方、日本では、金子勇という人がファイル共有ソフトWinnyを開発しましたが、別にソフト自体は違法ではないにも関わらず、言わばソフトを使って悪用されることが多いからという理由で逮捕されています。技術には何ら違法性がないにも関わらずです。それを悪用されると困るからという、芽は小さいうちに潰せという感覚で逮捕してしまいました。

その後、これらはどうなったでしょうか?アップルコンピュータは世界的な大企業に成長しました。一方、日本ではファイル交換などのソフト開発は大きく出遅れました。技術開発をして逮捕されてはかないませんからね。何が言いたいかと言うと、つまり、アメリカでは自由の幅が広く進歩しやすいが、日本では秩序を乱す恐れがあるため「あれをやってはいけない、これもやってはいけない」と自由の幅が狭く、その結果、進歩の歩みが遅いということです。

他にも、急成長していたライブドアの社長堀江貴文が2006年に逮捕されましたが、その後、ネットの世界で日本のIT産業は成長したでしょうか?ブログも動画サイトもSNSも日本の企業よりは外国の企業の方が多くなっていませんか?

これはITの話だけではありません。歴史を振り返ってみれば、様々な分野において同じようなことが言えるのではないでしょうか?日本では到底発達しなかったが、アメリカではどんどん発達していったものが多いのではないでしょうか?例えば、男女平等やウーマンリブに見られる女性の権利の拡大、同性婚などLGBTなど性的マイノリティーの人権、ジャズやヒップホップなど新しい音楽ジャンルの創造、ディズニーが普及させた商用アニメーション、Xスポーツなど新しいスポーツの開発、T型フォードの生産革命によって金持ちの乗り物から大衆の乗り物に変わった自動車、ライト兄弟に始まりボーイングによって商用旅客機に至る飛行機の開発、アポロ11号に見られる生存圏の拡大である宇宙開発、そして、今、こうやって書いているインターネットやツイッターやブログなどなど。様々な分野(科学技術に限らず、人権、文化など多岐にわたる分野)でアメリカが切り拓いてきたもので現代文明は溢れかえっています。日本はどちらかと言うと新しいものに継ぎ足すことをやっているだけで自分たちで新しいものを作り出すこと切り拓くことは少ないと思います。

もちろん、アメリカもこれらを何の苦もなく作り出したとは思いません。人権などは闘争の歴史と言った方がいいでしょう。今でも同性婚には反対の州が多いでしょうし・・・。しかし、彼らは自由を得るために闘ってきました。自由を手に入れるために大きな犠牲、大きな代償を払ってきた歴史があります。だからこそ、自由の大切さをよく理解しています。彼らは最初から与えれたものを自由だと思っていません。自由とは戦って手に入れるものだと思っているのではないでしょうか?ところが、日本ではそうなりませんでした。自由を得るために闘っても闘いそのものが日本社会では認められなかったのではないでしょうか?

結局、日本ではなぜそうなったかというと「秩序を乱すから、不自由であっても我慢しろ」ということだと思います。不自由を乗り越えて自由に生きようとしても社会がそれを許さず、小さいうちに自由の芽を摘み取ってしまうのだと思います。そこがアメリカと日本の差であり、今後も人類の文明をリードしてゆくのは、日本ではなくアメリカだろうと私が考える理由です。

まあ、随分、極端に書いてしまいましたが、実際はここまで極端ではないと思います。けれども、極端に書くことによって私の言わんとすることが伝わればと思い、あえて極端に書きました。


2013年5月1日水曜日

私の好きなAV女優

ちょっと思うところがあって私の好きなAV女優を列挙しておこうと思います。

ところで、なぜ私は彼女たちが好きなのか、その理由をいろいろ考えてみたとき、それは彼女たちの思い切りの良さにあると思い至りました。もちろん、彼女たちの持っている美しさや性的魅力や人間的魅力も彼女たちが好きな理由ではありますが、それよりもむしろ作品における彼女たちの思い切りの良さが私の固定観念を払いのけてくれたというのが最も大きな理由であると考えています。彼女たちの表現は私の想像を上回るものでした。彼女たちの思い切りの良さがブロックバスターしてくれたのです。喩えて言えば、優れたアートに出会ったときに目が開かれて一挙に視野が拡がったような覚醒感に似ています。そんなわけで私は彼女たちに大変感謝しています。


日本のAV女優
  1. 高井桃
  2. 小澤マリア
  3. 原紗央莉
  4. 立花里子
  5. 花井メイサ
  6. 小向美奈子
  7. 風間ゆみ


 米国のポルノ女優
  1. Jennifer White
  2. Kagney Linn Karter
  3. Jenna Haze
  4. Asa Akira
  5. Sasha Grey
  6. Vanessa Blue
  7. Sarina Valentina
  8. Eva Lin
  9. Yasmin Lee
  10. Annie Sprinkle


2013年4月29日月曜日

雑感 ~大雑把な見取り図~

自分の考えを整理するために大雑把にまとめました。

1.政党の件

ツイッターにも書いたけど政党のカラーは

自民党  保守    経済成長重視型
民主党  リベラル  社会福祉重視型

で良いんじゃないだろうか?

私は二大政党制が好ましいと思う。
なぜなら、選択肢のない一党独裁は良くない。


2.日本経済の件

世界の工場はおおざっぱに言うと次のように変遷してきた。

イギリス → アメリカ → 日本 → 中国

現在、日本は世界第3位の経済大国だ。
日本の経済を支えていたのは自動車と電機だった。今、電機が競争力を失いつつある。
自動車も電気自動車に変わったなら、どうなるか分からないし、工場の海外移転はこれからも進むだろう。

アメリカが日本に製造業を奪われても経済大国第1位の地位を保てたのはなぜかというと、
おおまかに言ってIT産業と金融という知識産業で製造業よりも高い利益を得たからだ。

製造業 → 知識産業

日本も産業を製造業から知識産業に転換するしかないだろう。
しかし、知識産業は狭き門だ。
それは少数の勝ち組と多数の負け組という世界だ。
アメリカがそうであるように中間層が減って少数の富裕層と多数の貧困層に二極化してゆく。

1億総中流 → 富裕層と貧困層の二極化


3.経済成長か、社会福祉か

(1)経済成長には高い競争力の企業が必要
経済成長するためには競争力のある企業が育たなければならない。
今後の成長を考えれば、製造業の既存企業ではなく、知識産業の新興企業であるはずだ。
ただし、新興企業は政府が支援して成長するものではない。
市場の競争の中から生き残って育ってくるものだ。
政府がやれるのは直接的な新興企業の育成ではなく、環境整備くらいだ。

電機や自動車の製造業 → ITや金融やバイオテクノロジーなどの知識産業
経済成長を牽引するのは企業であって政府ではない


(2)これまでの政府の経済成長策
これまでの政府の経済成長策は有効需要に基づく公共投資だった。
しかし、日本に競争力のある産業がなければ、いつまでも続かない。

経済成長≠公共投資


(3)社会福祉政策の必要性
日本企業の国際競争力は低下の一途をたどっており、企業も個人も経済力の低下が著しい。
経済成長と銘打ったバラマキが果たして個人にどこまで届くのか甚だ疑問である。
むしろ、直接、社会福祉として個人に支援の手を伸ばすべきではないだろうか。

もちろん、経済成長政策が成功するなら、全体の底上げにつながる。
しかし、今すぐに日本から競争力の新産業が生まれるかというとその可能性は低いと私は思う。
すぐには新産業が生まれずにいつになるかもわからない経済成長を待つよりも、
すぐにでも必要な個人への支援を社会福祉という形で行うべきではないか。
すなわち、経済成長よりも社会福祉を重視するべきではないか?

経済成長を待つよりも社会福祉で個人を支援すべきではないか?


4.財政問題
ブログのメニューでも取り上げている通り、日本の財政は極めて逼迫している。
財政問題を解決するには単純に言えば、増税かインフレしかない。
もちろん、増税とインフレを両方同時に行うことも可能だ。
他にも、経済成長や歳出削減もある。
しかし、前節で述べたように経済成長はすぐにはのぞめない。
また、歳出削減はどこを減らすか問題だ。
いずれにしても国民の負担は増える。

財政問題の解決方法 : 増税、インフレ、歳出削減、経済成長


そして、増え続ける社会保障費を軽減するために年金制度を変えなければならい。
ただでさえインフレは高齢者の負担になるが、社会保障費の削減はさらに負担を倍加する。
だが、先延ばしすれば、そのリスクは若い世代により大きな負担となって返ってくる。

年金問題の先送りは若い世代にもっと大きくなってハネ返ってくる

5.まとめ
まとめると日本が生き残る道は日本の産業構造を製造業から知識産業に転換しなければならない。ただし、知識産業における新産業創出は企業努力であって、政府ができることは環境などの周縁的なサポートに過ぎない。つまり、経済成長を推進するのは政府ではなく企業だ。政府がやれるのは、延命措置的な意味での公共投資か社会福祉しかない。一方で日本の財政問題は深刻で先送りすればするほど後の世代の負担が大きくなる。


6.感想とか意図とか
できるだけ分かりやすい構図にするために話をかなり極端にしました。大雑把な見取り図にしないと問題点が見えにくくなり、日本がどういった針路に進むべきかがウヤムヤになってしまうからです。政党の掲げる政策はどうしても総花的になります。本来はジャーナリズムが各政党の政策を読み取ってエッジを際立たせるべきですが、日本のジャーナリズムはそうしません。結局、日本の議論は田原総一朗的に結論が出ないまま、整理もまったくされないまま、カオス状態で終わってしまいます。針路を見極めるためには、枝葉末節は切り捨てて、できるだけ単純化していいと思います。無党派層や政治に無関心な層が増えるのも見取り図がまったく見えないからだと思います。見取り図さえ見えれば、有権者はどちらを選ぶか、自分の好みどちらかというのは見えてくると思います。

2013年4月25日木曜日

細田守監督『おおかみこどもの雨と雪』

 
 
遅ればせながら、細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』をようやく見たので感想を書いておきます。以下に感想を断片的に列挙してゆきます。



1.メタモルフォーゼ
まず、アニメの基本的な表現でメタモルフォーゼというのがありますが、この作品では人間から狼へ変身するというメタモルフォーゼがスマートに描かれていて「さすがアニメならでは表現だなあ」と感心しました。実写では不自然だったり、気味悪かったりするメタモルフォーゼがアニメでは微笑ましく楽しく見ることができました。

2.CG技術
山とか雨水とか霧とかのCG技術が私には不思議とリアルに感じられました。作品を観ていたときに「これはCGだ」と分かるのですが、だからといって「CGだってバレてるからダメ」というわけではありませんでした。CGだと分かるのですが、その描写が私には妙にリアルに感じられたのです。観ていたとき「これは実写を混ぜているんだろうか?」と思ったくらいです。おそらく、効果として使っている部分のCGだと思うのですが、それがなぜか現実に感じたものと同じようにリアルに感じさせました。たぶん、今までも使われてきたCG技術で特に変わった技術を用いていないのではないかと思うのですが、コンピュータの処理能力の向上でしょうか、なぜかリアルに感じました。

3.シングルマザーの子育ての大変さ
シングルマザーの子育てと言っても花の子育ては狼人間の子育てなので普通の人間の子育てとはちょっと違いますが、それでもそういった特殊な設定にすることでかえってシングルマザーの子育ての大変さが浮き彫りになったように思います。特にシングルマザーが社会から孤立してしまう環境というのが見えるのですが、ただ、この作品の主人公・花はそれを眉間にシワを寄せて苦労するというのではなく、苦労しながらも楽しく子育てしているので孤立することによる陰鬱なイメージを和らげていました。(それから、子供たちが部屋をおもいっきり散らかしたり、あるいは、雪が冷蔵庫と家具の隙間に座ったりと子供らしさが微笑ましかった。いや、子育てしている親としては大変だと思うけど(笑)。)

4.学校
学校という場が同調圧力などヒトを一定の枠にはめ込んでしまうのが見えました。雨が学校に馴染めなかったり、上級生にいじめられたりする場面は狼人間に限らず、普通の人間にもあることです。また、雪が他の女の子と趣味嗜好が違うのも同調圧力の一種だと思います。帰国子女にそういった趣味嗜好の違いがあるケースがあると思います。このように学校教育は規範ができる反面、自由な精神が阻害されてしまいます。果たして学校教育というのは本当に良い教育なのでしょうか?

5.農家
この作品は数あるアニメ作品の中では比較的リアルな農家を描いた作品だったのではないでしょうか。多くの作品は牧歌的に、あるいはエコロジカルに描いたりする作品が多いと思います。宮崎駿などはそういったイメージが強いです。しかし、それに比べて本作は比較的リアルな農家を描いていたと思います。

6.物語の分析
さて、いよいよ作品分析です。この物語の主軸について考えます。先に答えを言うと、この物語は異類婚姻譚を混じえた魔法昔話の一種で、魔法昔話の現代的な変形だと思います。

まず、異類婚姻譚とは何でしょうか?異類婚姻譚とは人間と人間以外との生き物が結婚するお話で、例えば日本の昔話で言えば人間と鶴が結婚する『鶴の恩返し』などがそうです。異類婚姻譚は人間にはない異類の特殊なパワーが話のポイントになります。おそらく、動物が持つ特殊能力がそういったお話を発想させるのだと思います。例えば、犬は人間には聞こえない犬笛を聞くこともできるし、人間には分からない微かな臭いも犬は嗅ぎ分けられます。動物と深く関わって生きていた昔の人たちは動物には人間にない特殊な力を持っているとたびたび感じたことでしょう。

次に魔法昔話ですが、魔法昔話の典型的なパターンは人間社会で生きてゆくのに行き詰まった者が絶望の果てに森に迷い込んで死にそうになるのですが、そこで魔女や魔法使いから魔法の不思議なパワーを授かり、再び人間社会に戻ってその不思議なパワーを使って成功するという話が多いです。実は異類婚姻譚も動物のパワーという不思議なパワーを授かって、その不思議なパワーで成功するという場合もありますので、異類婚姻譚も一種の魔法昔話に分類されるかもしれません。

さて、本作『おおかみこどもの雨と雪』ですが、これら魔法昔話に当てはめて考えるとどうなるでしょうか?魔法昔話の典型例で考えれば、普通なら

絶望して死にかける→魔法を手に入れる→魔法によって成功する

というのが典型パターンのはずですが、この『雨と雪』の場合はちょっと違います。魔法のパワーを手に入れるのですが、それが実生活に役立つことはほとんどありません。この物語を異類婚姻譚と考えても同じです。狼の特殊能力は人間の生活にはほとんど役立ちません。せいぜい裏の畑が野生動物に荒らされなくなるくらいです。近所の農家がイノシシに畑が荒らされているのに花の畑だけがイノシシに荒らされないで済むのはイノシシが狼人間がいるのを恐れて花たちの畑に近づかないからだと思います。しかし、実生活で役立つのせいぜいそれくらいで、それ以外は特殊能力はほとんど役立ちません。かえって正体がバレる原因になりかねません。つまり、現代社会においては魔法や動物の特殊能力は昔話の主人公たちを成功させたようには役立たなくなっているのです。かつて魔法は富や名声をもたらしましたが、現代では無意味な代物になっているのです。

さて、雪と雨は狼人間のままでは社会に受け入れられません。彼らには人間として生きるか、狼として山に住むかのどちらかしかありません。結局、雪と雨はそれぞれ違った選択をします。どちらが良い悪いではありません。彼らにとって生きやすい世界、生きたい世界を選んだだけです。この辺りは人間社会と動物世界のどちらにも軍配を上げておらず、ある意味でフェアな見方かもしれません。例えば宮崎駿を考えてみると、近代文明を捨てて中世社会に逆戻りするような選択をする作品が多いです。『天空の城ラピュタ』とか『未来少年コナン』とかです。まあ、文明に対して批判的であるのは良いのですが、現代文明をまるごと否定して、時代に逆行して中世社会に果たして戻れるのかという疑問はあります。しかし、本作では現代文明を真っ向から否定はしません。文明も自然もどちらにも進むべき可能性が残されています。

ただもし、あえて良し悪しがあるとすれば、それは異類を受け入れられない現代社会が悪いと私は思います。シングルマザーが孤立する社会、あるいはシングルマザーを同じ規格に同調させようとする社会、あるいは同調圧力のある学校やよそ者をすんなりとは受け入れられない農村社会とか、これらは多様性を認めない了見の狭い社会、狭量な社会です。もちろん、狭量な社会の側にも言い分はあります。異分子は社会の規範を守らず、社会に迷惑など神経を逆なでする負担をかけるからです。確かに同質の者同士が規範を守る社会は同質の者たちにとっては住みやすい社会かもしれません。しかし、そうではない自由な精神をもった自由な生き方をする者にとっては規範に縛られた社会は非常に住みにくい社会です。この作品に対して批判的である人たちには、規範に縛られた不自由さのためにストレスを抱えており、逆に花のように自由に生きている人たちに対してヤッカミにも似たような否定的な意識が働いているように私には感じられます。「花のような自由な生き方は現実にはありえない。日本社会では花のような自由な思想や振る舞いは許されるわけがないのだ」というような考えが無意識に働いているように感じられます。ある意味、思考の手足を縛られた自由にものを考えられない不幸な人たちなのかもしれません。

さて、話をまとめると、この『おおかみこどもの雨と雪』という作品は魔法昔話の一種かもしれないが、かつての魔法昔話が魔法によって成功する話だったのが、現代社会では魔法はもはや成功の足しにはならず、逆に社会に居場所がなくなってしまう原因にもなりかねない、役立たずでやっかいな代物というように捉えることができると思います。人間社会が高度にシステマティックに組み上げられているのとは対照的に、狼人間のプリミティブなパワーは実生活に役立つことは何ひとつないのです。しかし、狼人間たちは狼に変身して大地をおもいっきり駆けまわったり、スリリングな狩りを楽しんだりと生き物に本来備わった能力を全開で発揮することができます。狼人間の特殊能力は生きている実感とでもいうようなプリミティブな悦び、原初的な悦びを彼らにもたらしてくれます。人間は文明を築いて生きやすい環境を作ってきましたが、そういった悦びをなくして果たして本当に生きる意味があるのかと狼人間は私たち人間に問いかけているように私には感じられます。狼人間には人間社会で生きるという道以外に生きる実感を得るために山に還るという選択肢がありました。しかし、私たち人間には狼に変身して山に還るという選択肢はありません。生きる実感を取り戻すためにはどうすれば良いのか、私たちはよく考えなければならないと思います。

7.駆けまわることの楽しさ
さて、最後にこの作品で印象的なものがあります。それは駆けまわることの楽しさです。私の個人的な体験ですが、私は田舎育ちで犬も飼っていましたのでこの感覚はよく分かります。冬に犬を連れて近くの田んぼに行って一緒に駆け回ったことが何度もあるからです。駆けまわるときの犬の楽しそうなことといったらありません。犬が本当に活き活きとしているのです。目がキラキラと輝き、ハアハアという息から充実感が滲み出ています。全力で地面を蹴って駆けること、肉体を躍動させることがどんなに楽しいか犬もよく分かっています。雨と雪、そして花も雪の中を駆けまわって最後に笑って地面に寝っ転がりますが、本当に笑いがこみ上げ来るくらい駆けることが楽しいのです。この作品では、他にも狩りをすることの楽しさを描いた場面もあります。狩りをすることも駆けることと同様に、いえ、もしかしたら、それ以上に楽しいかもしれません。ここではこれ以上説明しませんが、狩り、狩猟の楽しさを知るためには動物文学を読むことをお勧めします。バイコフやシートン、あるいはトルストイにそういった狩猟の楽しさを伝える作品があります。



追記
文章全体を書き終わって改めて考え直してみたら、オーソドックスに見れば、この物語は魔法昔話というよりは異類婚姻譚の一種といった方が正確だと思う(爆)。もう面倒だから文章を書き換えないけど(苦笑)。