2013年6月29日土曜日

フィリップ・K・ディック『ユービック』

 

今回はフィリップ・K・ディックの『ユービック』を取り上げます。なお、最初にお断りしておきますが、ネタバレで話しますので未読の方はご注意下さい。
 

さて、この物語は読んでいる最中は謎に満ちていましたが、読み終わってみれば、物語はとてもシンプルで「なあんだ、そういうことか!」と言った感じになります。しかし、よくよく考えてみると、この作品には実にユニークなディック特有の世界観や人間観が詰まっています。読み終わって全体を振り返ったとき、「なるほど!作者のディックが言いたかったのはそういうことか!」と大きくうなずくことになります。

まず、あらすじは次のようなストーリーです。超能力者と超能力者の超能力を無効にする力を持った不活性者たちがいる未来社会です。そこでは超能力者が超能力を使って社会に悪影響を働きかけるという問題のある社会です。そのため、悪い超能力者を捕まえることを専門とする会社があり、日夜、超能力者と戦っています。さて、超能力者を捕まえる会社で働く主人公チップは超能力者を狩るために不活性者たちを月に集結します。しかし、事前に超能力者たちに察知され、超能力者たちが仕掛けた爆弾でチップと不活性者たちは多大な損害を負います。チップたちのチームは半数を失い、残りの半数の多くは負傷します。チップたちは這々の体で地球に帰ります。ところが、帰ってきた地球では妙な現象が起こるのことに気づきます。それは時間退行現象といってその名の通り彼らの周囲の物の時間が退行してゆきます。(←この辺は本書でご確認下さい。)そして、一人ひとりが死んでゆくのです。彼らは逃げまわった挙句、チップの勤める会社の社長ラシターに救われます。一体、何が起こっているのでしょうか?実はチップたちは超能力者の仕掛けた爆弾でやられてしまい、生き残っていたと思っていたが、実は大怪我のために半死状態でコールドスリープされていたのです。しかし、コールドスリープされた人たちは、夢を見ているような状態で意識があり、その意識の世界をまるで現実の世界のように暮らしているのです。ところが、半死者たちの中にも特殊能力を持った者がいて、そいつはチップたちの意識を惑わす特殊能力を持った半死者だったのです。そのため、半死者となっていたチップたちは襲われ、時間退行現象という能力者の術中にはまってしまったのでした。しかし、この時間退行現象に対抗するものが1つだけありました。それがユービックだったのです。ユービックとはスプレーで、唯一時間退行現象を無効にすることができる力を持っています。ただし、だからといってユービックで敵の半死者を倒すことはできません。単に時間退行現象を相殺するだけの力です。結局、チップたちはこの意識の世界でも超能力者と戦った現実世界と同じように狩ったり狩られたりする者としての戦いが繰り広げられるのでした。

さて、この作品で描かれた世界観はひとことで言うと捕食的世界です。それは地球の生物たちを見ても分かるように生き物たちは基本的に捕食の関係にあります。例えば、蚊を食べるトンボ、トンボを食べる小鳥、小鳥を食べる鷲というように様々なところに食物連鎖があります。そして、人間の世界も超能力者と不活性者というように捕食の関係になっているのです。また、私たちの資本主義社会も似ていると思います。市場というフィールドで繰り広げられるのは企業たちの競争です。そこでも企業同士で捕食的世界が繰り広げられています。企業は利益を上げることに血眼になり、ついには企業合併で他の企業を飲み込んでしまいます。あるいは、競合相手を廃業に追い込んだりします。資本主義社会における企業も捕食的世界を生きているのです。この作品ではそういった資本主義の未来社会でも新たに超能力者を加えた捕食的な世界になっており、さらに半死状態の世界までもが食うか食われるかの捕食的世界を演じているのです。どこまでも続く捕食的世界・・・。人間はいつまでも、たとえ半死状態になっても、この捕食的世界で食うか食われるかを生き続けねばならないのです。

さて、このような捕食的な世界を生きる人間はどのような人間なのでしょうか?答えは簡単で大き過ぎもせず、小さ過ぎもしない、等身大の大きさの人間なのだと思います。なんのことか分かりにくいかもしれませんね。簡単に言えば本作の主人公チップや社長のラシターのような普通の人たちです。アメリカ社会で働く普通の人々といった方が良いかもしれません。ここで少しアメリカ社会について考えてみましょう。例えば、世界で一番労働時間の長い国はどこか分かりますか?もしかしたら、日本と答えた方もいるかもしれませんが、正解はアメリカです。アメリカは世界の人々から拝金主義だの資本主義の権化だのと嫌われることが多いですが、実は世界で一番の働き者の国でもあるのです。とはいえ、世界で一番の働き者でありたいなどとアメリカ国民は望んでいないかもしれませんが。ともかく、どんどん仕事をできるような環境にするためか、アメリカの大都市はどんどん眠らなくなっているみたいで、いわば24時間営業になりつつあるようです。それだけ人々はローテーションを組んでこまめに働いているのではないでしょうか?でも、そんなに働くと誰しもくたびれてきますよね。ヨレヨレの服みたいに肉体だけでなく、精神もくたびれてくるのではないでしょうか?ディックの小説に出てくる人たちも実はそういった人たちが多いのではないでしょうか?くたびれているとは言っても行き詰まったということではなくて、それでも仕事を滞らないように回してゆくという感じでしょうか。ディックの小説は主にパルプ・マガジンと呼ばれる娯楽誌に掲載されることが多かったそうです。読者は仕事で疲れているので、あまり深く考えずに軽く読んで楽しめるような読み物が多かったと思います。ですから、大衆小説と同じで出てくる登場人物がみんな読者たちと同じ等身大の人間で人情とちょっとしたロマンスと冒険があるような話が多かったのではないでしょうか。そういった人々が活躍する場を現代社会ではなくSFに置き換えたのがディックの小説のように感じます。ディックの人間観はそういった現代社会で忙しく働いて色褪せた日常生活を送る普通の人々なのです。ディックの人間観が最もよく表れていると私が思うのは、ディックの他の作品になるのですが、『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』の序文で述べられた文章です。(ちなみにこの『三つの聖痕』はディック的要素が万遍なく詰まったディック小説です。)以下、序文です。

つまりこうなんだ結局。人間が塵から作られたことを、諸君はよく考えてみなくちゃいかん。たしかに、元がこれではたかが知れとるし、それを忘れるべきじゃない。しかしだな、そんなみじめな出だしのわりに、人間はまずまずうまくやってきたじゃないか。だから、われわれがいま直面しているこのひどい状況も、きっと切りぬけられるというのが、わたしの個人的信念だ。わかるか?

この序文にディックの人間観がよく表れていると思います。ハードボイルドのように格好つけることもなく、深刻ぶることもなく、ときに俗物的な面もさらしたり、惨めな気持ちでへこんでしまったり、笑顔で話しながら頭の片隅でちゃっかりと金銭の計算をしていたり、ひとりよがりなロマンスの妄想をしたり、ディックに出てくる人間はごくありふれたアメリカの労働者の姿なんだと思います。

これは他の作家と比較してみるとより鮮明に分かると思います。例えば、サイバーパンクの雄ウィリアム・ギブスンとは明らかに違います。ギブスンの場合、主人公たちはアウトローでアナーキストです。個人の力で組織に立ち向かうハッカーです。『ニューロマンサー』のケイスや『カウント・ゼロ』のボビーのような電脳カウボーイです。ところが、ディックの場合、主人公は組織に属するサラリーマンです。ギブスンの主人公が青年や少年だったら、ディックの主人公は『電気羊』のデッカードのようにくたびれた中年です。俳優で喩えたら前者がキアヌ・リーブスで後者がブルース・ウィリスです。私としては、できればギブスンの描く格好いいアウトローになりたかったものですが、現実にはそうも行かず(笑)、そうなると仕事に忙しく追われるディックの描くくたびれた中年になるのが現実で、(才能のある若者は是非ギブスンの方を目指して下さい。)、私たちに近いそういった登場人物に共感するかもしれません。もちろん、パルプ・マガジンの需要として読者が共感しやすくするためにわざとそういった人物を描くようにしたのかもしれませんが。

ともかく、SFで描かれる未来は輝かしいユートピアか恐ろしいディストピアになりがちで、そこで描かれる人間像もどちらか一方に偏ったタイプの人間になりがちです。しかし、ディックの描く人間は、どんなにテクノロジーが発達した未来になっても、現代社会を生きる私たちと同じように仕事と生活に追われるという、まるで現代人である私たちと同じ人間の姿なのです。そして、目の前の困難に対して、ちっぽけな力しか持たない人間がそのちっぽけな力にも関わらず、自分でやれるだけのことはやるという、宇宙や神から見たら愚かでちっぽけな存在に過ぎないのだけれど、それでも精一杯に一生懸命に生きる人間の姿なのです。

さて、この『ユービック』はフィリップ・K・ディックの入門書としては最も適した作品のひとつだと思います。非常に分かりやすくディックの世界を堪能できると思います。ディックの他の作品と共通する世界観や人間観が描かれていると思います。もちろん、SF的要素も十分に楽しめると思います。ですので、SFが苦手という方もディックの小説をまだ読んだことがないという方も、是非、『ユービック』を一読してみて下さい。

あ、それから、この『ユービック』だけでディックのすべての面が捉えられるというわけではありません。ディックにはもっと奥深い他の側面があって、それは哲学的だったり、サイケデリックであったり、神学的であったり、神秘主義的であったりします。いわゆる幻視者としてのディックです。それは『聖なる侵入』に代表されるヴァリスシリーズやインタビュー集『ラスト・テスタメント』の世界です。これらについても、このブログで追々取り上げてゆきたいと思います。

2013年6月28日金曜日

基地問題における鳩山由紀夫に対する評価について

最近、鳩山由紀夫に関連して思ったことをここに書いておく。また、自分の方針を一部変更したこともここに記す。世間の一般的な反応をやや腹立たしく思ったために言葉が荒々しくなったことを断っておく。

(なお、文中の沖縄米軍基地問題は正しくは普天間基地県外移設問題なのだが、方向性としては基地撤退には違いないので、分かりやすく考えるために米軍基地撤退として考えた。そもそも県外移設すらできないのなら、米軍基地撤退など到底無理な話だろう。ともかく、ここで話しているのは大筋の話だ。言葉の正確さを保っていたのでは話は膨大な量に膨らんでしまう。ともかく、大筋の話だ。)

まず、鳩山由紀夫に対する世間と私の評価について書かなければならないが、その前に私の立場を書いておく。私は基本的には米軍基地は日本から撤退すべきだと考えている。理由は日本は独立国であり、基本的に独立国は他国の軍隊の駐留を認めるべきではないからだ。自分の国は自分の国の軍隊で守る、これが大原則だ。ただし、場合によっては駐留を認めるという例外はあるだろう。例えば、アフガン戦争のときにカザフスタンは基地を米軍に貸した。そのような場合は許されるが、平時に常駐するというのはありえない。歴史的経緯で言えば、第二次世界大戦で日本は米国の敵国であり、敗戦したために米軍が駐留したのが発端だった。それは理解できる。しかし、あれから50年以上も経過しており、なおかつ近隣諸国と友好関係も結んでいるのに米軍が常駐しなければならない理由はない。実質的には防共のために米軍を常駐させたのだが、それは理由にならない。独立国がどのような政治体制を敷くかは独立国の自由だ。まして日本は共産化することはもはやあり得ない。したがって、米軍が日本に駐留する正当な理由はない。

さて、上記のように私の立場を明確にした上で、次に鳩山由紀夫について私の評価を述べる。鳩山由紀夫の方向性としては沖縄米軍基地を撤退させる方向で動いていた。普天間基地県外移設を公言して真剣に取り組んでいた。しかし、国のトップである首相の鳩山由紀夫にも県外移設は実現できなかった。彼は県外移設を実現すると公言したにも関わらず、実際には実現できなかったために責任をとって辞任した。その後、彼のあとを継いだ首相たちはどうだったか?菅直人にしろ、野田佳彦にしろ、沖縄米軍基地問題に真剣に取り組もうとはしなかった。米軍基地撤退が現実に実現できるとは考えなかったからだ。もちろん、自民党に政権交代して安倍晋三が首相になってからは、米軍基地容認の立場だから撤退どころの話ではない。こうなってみると、誰が一番米軍基地撤退に向けて真剣に取り組んだかというと鳩山由紀夫以外にいないという結論になる。

ちなみに、ここで、「いや、社民党や共産党が米軍基地撤退を訴えている」と主張する意見があるかもしれない。しかし、これは意味がない。なぜなら、米軍基地撤退を実現するためには、その前に実現しなければならないことがあるのだが、残念ながら彼らはそれを絶対にクリアーできない。それは彼らが政権与党になることだ。しかし、社民党や共産党が政権与党になることは絶対にありえない。米軍基地撤退よりも彼らが政権与党になる方が実現可能性が低い。もちろん、連立して政権与党に入る可能性はある。しかし、それとて与党に横から口出しするのが関の山で実質的な決定権は彼らにはない。これは社民党が実証済みだ。社民党は県外移設を主張したがまったく受け入れられず連立与党から離脱するハメになった。したがって、彼らがいくら米軍基地撤退を訴えても、実際にそれを実現する力は彼らにはないのだ。実績がそれを証明している。すなわち、彼らは評価の対象外だ。もちろん、彼らが米軍基地撤退を訴えるのは自由だ。しかし、それを私が支持政党を選択する指標の1つに加えることはもはやない。なぜなら、不可能なことは指標に入れても仕方ないからだ。

私が腹立たしく思うのは米軍基地撤退派が鳩山由紀夫を低く評価することだ。自民党のような反対派が鳩山由紀夫を低く評価するのは理解できる。なぜなら、米軍基地を本気で撤退させようとしたからだ。反対派とは真逆の方向だ。ところが、撤退派の人まで鳩山由紀夫を低く評価する。これは不当な評価だと思う。上記でも述べたように最も米軍基地撤退に尽力した政治家は鳩山由紀夫だけなのに、それをまるで恩を仇で返すようにして彼を低く評価するのだ。彼らは「他の政治家ならきっと米軍基地撤退をできたはずだ」と考えているのかもしれない。ところが、そんな政治家はどこにも存在していない。どこにも存在していない者と比較して鳩山由紀夫を低く評価している。実に間違った考え方だと思う。

さらにおかしなことがある。沖縄県民だ。沖縄県民は基地撤退にあれだけ尽力した鳩山由紀夫を非難しておきながら、その後の選挙で基地容認派の自民党を選択しているのだ。これは明らかに沖縄県民は米軍基地容認を選んだことになる。鳩山由紀夫にダメ出ししておきながら、その直後に真逆の基地容認に転ずる。結局、「撤退を試みたけどダメだった。仕方ないので容認派に転ずる」という思考のプロセスがあったのだろう。つまり、沖縄県民は基地容認という現実的な選択をしたということだろう。

私は原理的に、かつ、心情的には沖縄米軍基地は撤退すべきだと考えている。しかし、それは現実的ではないということが鳩山由紀夫の試みで分かった。もはや米軍基地撤退は大きく世界情勢が変わらない限り、変わることはないだろうと思う。政治は現実的に考えて取り組まねばならないと考えている。したがって、米軍基地撤退に関して、もはや、私の政策課題にこれを組み込むことはしない。実現不可能なことは政策課題に入れても仕方がないからだ。支持政党を選ぶときの政策課題に米軍基地問題を加えることはもはやない。また、私は民主党を支持しているので、民主党のマニフェストに米軍基地撤退を明記するようなことはしてほしくない。加えるとしても、それはかなり先の課題として加えるにとどめてもらいたい。先というのはおそらく10年20年ではないだろう。もっともっとずっと先ではないかと思う。いつになるのかは分からない。なぜなら、日本国内の事情で変わることはないからだ。変わるとすれば、米国や他の諸外国の事情で変わるだろう。残念だが、日本に米軍基地撤退を決める実質的な決定権はない。

私は長い間、米軍基地撤退派であり、口先だけでなく、実現すべく実際に試みたいとずっと思っていた。そして、そのチャンスが鳩山由紀夫首相のときに巡ってきた。しかし、残念ながら、そのチャンスは活かせなかった。基地問題は一歩も進まなかった。彼を応援したけれどダメだった。かつて私は試みもせずに諦めるのはおかしいと思っていた。何もせずに最初から諦めるひとに批判的だった。だが、私の場合は鳩山由紀夫を応援することで基地撤退を試みたけどダメだったということだ。何もせずに諦めたわけでなく、やってみたけれどダメだったという試みた事実がある。つまり、私が基地撤退が不可能だと判断する理由は、何もせずに想像で判断したのではなく、実際に試みてみた上での判断だ。想像ではなく、事実に基づく判断だということだ。

したがって、今後、私は基地撤退に関しては現実的には不可能だという立場に立とうと思う。もちろん、積極的な容認ではなく、仕方なく消極的に容認せざるをえないという立場だ。もし、鳩山由紀夫を貶す基地撤退派のひとが私を説得するつもりならば、鳩山由紀夫以上の実績を上げた政治家で実際の事例を上げて説得してほしいと思う。この世には存在しないのにそれを持ち出してきて、鳩山由紀夫より優れていると主張するのはナンセンスだ。誰だって鳩山由紀夫の欠点を並べることは容易だろう。だが、彼らは存在しない架空の政治家をいくら持ち出したって仕方がないではないか。架空の政治家では欠点を上げることすらできないではないか。政治はそういう夢想家といつまでも付き合ってはいられない。政治は現実と向き合わねばならない。私のことを撤退を諦めたと言って非難するだろうか?だが、実現できないことをいつまでも言うのは不平不満を述べて自分のストレスを解消をしているのと変わらない。寝言を言っているのと同じだ。政治はそんな寝言にいつまで付き合ってはいられない。説得するつもりがないのも結構だ。いつまでも少数野党でいればいいだけの話だ。説得するつもりなら実績を作ることだ。だが、万年少数野党では実績の作りようがない。したがって、実質的にはこの議論は終わっている。

長くなったので私の主張していることが伝わらないかもしれない。そこで、繰り返しになるが、結論をもう一度書いておこう。つまり、結論とはこうだ。私は考え方としては米軍基地撤退派であり、基地問題に対してとった鳩山由紀夫の行動を高く評価している。同時に鳩山由紀夫を低く評価する基地撤退派は現実が見えていない人たちであり、不当に低い評価だと考えている。また、私としては、基地撤退を試みたがそれが成し得ないことが鳩山由紀夫という事例で分かったので、今後はその経験を踏まえて基地撤退は現状では不可能と考え、私の政策課題から外すこととする。以上。

ちなみに、原発に関しても、近々、方向修正しなければならないかもしれない。私の立場は時間をかけて徐々に脱原発を進めるという脱原発派だ。だが、官邸前デモの脱原発派に対する世間の評価はどんどん下がってきているのではないかと思う。評価が下がる理由は選挙後も彼らが自分たちの主張を修正することも推進派と意見を擦り合わせることもしなかったからだと思う。頑なに自分たちの主張だけを押し付けたと思う。しかし、自分たちだけの意見を一方的に押し付けるのはおかしい。民主主義においては異なる意見と折衷案を見出して妥協しなければならないはずだ。それなのに、彼らは自分たちの主張を一歩も譲らない。これでは世間の評価が下がるのも頷ける。もちろん、これは推進派にも言えることだ。だが、推進派は少なくとも妥協する姿勢は見せている。もちろん、上辺だけだとは思うが。だが、それでも民主主義の手続きは踏んでいる。したがって、脱原発派は選挙結果を踏まえて、表現を変えるか、主張を修正するか、すべきだと思う。

(おおげさに言えば、私の言っていることが正しいかどうかは後世の歴史家が評価してくれると思う。後世の評価において当時の人々がいかに愚かだったかということはよくあることだ。ま、現実を変えられなかったという点では私もその愚かな人々とまったく同じなので、愚かさには大した変わりはないんだがね・・・。それにしても、先のことを考えると憂鬱だ。次の参院選では民主党は惨敗して党存続の危機に陥るだろうからだ。だが、その結果、迎える日本の政治はどうか。自民党が圧倒的多数で第二政党が公明党になるだろう。実質的な自民党一党独裁政権だ。しかも、それに対抗する野党も保守系がほとんどでリベラル政党は日本の中では少数派になってしまうと思う。私のようなリベラル政党支持派にはなんとも嘆かわしい話ではないか。)

2013年6月27日木曜日

蒼井そら『ぶっちゃけ蒼井そら』


蒼井そらの『ぶっちゃけ蒼井そら』を読みました。


ぶっちゃけ、ごくフツーの女の子がごくフツーに仕事して、ごくフツーに仕事を通して成長してゆくというごくフツーの働く女性の物語でした。ただし、フツーと違うのは彼女の仕事がAV女優という、ただ一点です。この本はそんな蒼井そらの生い立ちからAVデビュー、さらにAV界のトップアイドルに成長する現在に至るまでの道のりを描いた自伝的エッセイです。さらに自伝だけでなく、彼女のセックス観や恋愛観、人生観までも飾ることなく率直に語られています。

一般に女性がセックス産業やポルノ産業で働くというと多くのひとは「苦海に身を沈める」というような眉をひそめるイメージがありますが、彼女の語り口からはそのような暗さは一切なく、むしろ明るく前向きで自分が一歩一歩前進して成長してゆくのを楽しんでいるという、喜んで学ぶという姿勢が感じられます。その明るさに無理をしているところは感じられず、いろいろと工夫して努力はしていますが、ひたむきというよりはむしろマイペースで頑張っているという感じがします。

そして、AV女優特有の悩みや葛藤も逃げることなく率直に語られています。それは家族との関係や恋人との関係です。家族や恋人にAV女優であることを打ち明けてAV女優という仕事を認めてもらうまでの悩みやAV女優の仕事を続けながら恋人とセックスしてゆくことの悩みなどです。これらの悩みはAV女優たち全員の悩みでもあると思います。これらの悩みに対して万人向けの普遍的な解答というわけではありませんが、蒼井そらという個人としての解答を提示していると言えるでしょう。もちろん、すべてに完璧な解答を出しているわけではなくて、どうしても答えの出ない矛盾もあります。しかし、彼女は無理に矛盾を歪めることをせずに矛盾は矛盾のままに、矛盾を抱えながらAV女優の仕事をしてゆくという、とても健全な自覚を持って取り組んでいます。

そんな彼女の姿勢を見ているとビジネス書でよくある、現場のたたき上げから成功していったビジネスマンたちのサクセスストーリーと似たものを感じます。そういったビジネスマンたちは仕事でどんな苦難があっても明るく前向きで諦めることなく頑張り、それでいてお客様に感謝するという謙虚な気持ちをいつも持っていたりします。彼らは誤って自分を高く評価し過ぎることはなく、他人が驚くほど自分を客観視しており、自分の利点を生かして仕事をし、自分の欠点を冷静に見つめています。蒼井そらはそういった仕事で成功するタイプと多くの共通点を持っていると感じさせます。

さて、アダルトビデオは映画と違って幻想をできる限り持続させようと努めます。確かに映画も感情移入できるように幻想を持続させようとはします。しかし、最終的にそこから引き出されるのは物語から一歩引いた客観的な視点です。映画は観客を没入させると同時に映画を見終わったときには観客が客観的な視点を獲得できるように支援しています。ところが、アダルトビデオは違います。アダルトビデオは観客がどこまでも性的に酔い痴れられるように幻想をできる限り持続させようとします。そのため、AV女優たちはアダルトビデオの外でも性的な対象としてのAV女優を演じることになります。インタビューや販売促進会でもAV女優として振る舞うことを要求されます。現実のリアルな人間ではなくて、AV女優という現実には存在しない人間を演じさせられます。このため、現実と幻想を見誤ったユーザーから淫乱や売女などという事実とは異なる罵声を浴びせられたりします。しかし、アダルトビデオが幻想をできる限り持続させることを目的としているので、商売上、それにはあまり大きな声で反論してきませんでした。そのため、AV女優と一般視聴者の間にはある種の情報の非対称が生じることになりました。これはAV女優に限ったことではなくて、セックスワーカーたちにも昔から付きまとってきた問題でした。その非対称が見えざる壁となって、周囲の無理解と間違った認識を生み、これまでAV女優たちやセックスワーカーたちに数多くの悲劇をもたらしてきました・・・。彼女たちは侮辱され蔑まれて人格や人間性を否定され深く傷つけられてきました。私は思います。もう、そろそろそんな哀しい悲劇は止めにしませんか?と。人類の歴史は愚かさの繰り返しですが、一方で確かに進歩してきた面もあると思います。人類は愚かさの中で少しずつですが、前進して問題を解決してきました。ですから、この性にまつわる問題も決して解決できない問題ではないと私は思うのです。そう考えるとこの本は今まで語られてこなかったAV女優側からの情報なのです。今までは聞こえてこなかった壁の向こうからの声です。そこで語られているのはAV女優を演じている偽りの声ではなくて、人間としての真実の声なのです。この蒼井そらの本は、可愛らしい女の子の小さな小さなひと声ですが、しかし、非対称の情報の壁に穴を穿つ、ひとつの大きな突破口ではないかと思います。

2013年6月26日水曜日

ぼくの魂の舗装道路の上で

日本の政治について考えていたら、とても憂鬱な気持ちになってしまった。それというのも、このまま進めば日本はとんでもなく自由のない無慈悲な国になるのではないかと思えたからだ。それはSFが描くところのディストピアそのものではないかと思えてくる。ジョージ・オーウェルが描いたディストピア小説『1984年』のような全体主義国家を思い描いてしまう。人々は一党独裁の下、理性も感情も党に支配され、個としての意識は失われ、ただ党への熱狂的な崇拝だけになる。そして次のような狂ったスローガンを酔い痴れるように声高に叫ぶ。
戦争は平和である。
自由は屈従である。
無知は力である。
「自分たちがそんな風になるなんて、そんなバカなことはありえない」と人々は笑うかもしれない。だが、支配が完全なとき、人々は支配されていることに気づかないものだ。しかも現実の世界は子供じみたSF小説と違って、おそろしく周到で極めて狡猾である。私たちが気付かぬうちに私たちの心を捕らえているかもしれない。彼らは巧みに忍び寄り狡知に長けたやり方で私たちの心を裏側から支配するかもしれない。例えば誰に教えられるわけでもなく、次のようなスローガンをいつの間にか心の奥深くに刷り込まれているかもしれない。
負け組には生きる資格がない。
負け組が自殺するのは自業自得だ。
たとえ毎年3万人の人間が自殺しようが、支配された人々はまるで痛痒を感じなくなっているかもしれない。もしも乗っていた電車で人身事故が起きたとしても仕事に遅れることを舌打ちするだけで死者が出たことを気にも止めないかもしれない。もはや私たちの頭の中は仕事と自分のことだけで一杯になり、理性や感情はシステムに支配され、隣人がいつの間にか減っていても一向に気にもかけず、ただシステムが電子的に動かす数字に一喜一憂し、口座の預金残高が増えることだけに喜びを感じる、そんな風になっているかもしれない。

そんな恐ろしい未来を想像すると、とてもじゃないがやりきれない陰鬱な気持ちになる。今日はそんな狂った気分を反映するようなマヤコフスキーの詩を記しておこう。そして、私の妄想が妄想のままであり続け、決して現実にはならないようにと目を閉じて静かに祈ろう・・・。
踏みつけられたぼくの魂の
舗装道路の上で
狂人たちは歩きながら
ぎこちない文の踵をよじる。
都市たちは
絞め殺され、
雲の首吊り紐の結び目には
塔たちが
頸をかしげて
凍てついたところを、
ぼくはただ一人で行く。
十字路で
警官たちが
磔刑にされたと
泣きわめくために。


マヤコフスキー 『ぼく』

2013年6月25日火曜日

小林弘忠『歴代首相』

 
小林弘忠『歴代首相』を読んだ。


この本は日本の初代首相・伊藤博文から第58代首相・福田康夫まで総勢58名の歴代首相について書かれた本です。日本の政治を考えるとき、「日本の政治の歴史、特に時の宰相である最高権力者について知っていなければ!」という思いでこの本を買いました。最初は「戦前と戦後で分けて考えた方がいいかな?」とも思ったのですが、第二次大戦の敗戦があるとはいえ、やはり政治は繋がっており、戦前も無視できないなということで初代首相から書かれたこの本が値段も手頃だったので丁度良いということで選びました。

この本は各首相について生い立ちから始まり、どのようにして首相の座に登りつめ、首相となってからはどのような政治を行い、首相を辞めた後、どのように人生を締めくくったかまでを簡略に描いています。そういった訳で各々の首相のエピソードも興味深く読めるのですが、ただし読み進めるうちに、私が当初期待していたものとはちょっと違うなということが分かってきました。私が最初に期待したものというのは、時の最高権力者が如何に責任を持ってどのような考えで日本をその方向へ導こうとして政治を執ったのかというものでした。ところが、読み進めてゆくうちにどうやら日本の首相というのはそういう独裁的な日本をリードしてゆく最高権力者ではないというものでした。確かに歴代首相の中には独裁者に近い権力を集約した人も何人かはいます。しかし、それはいわゆる独裁者とはちょっとニュアンスが違います。

ちょっと他の国の例を考えてみましょう。かつての英国などは国王がいて国王が責任を持って国を統治していました。彼は統治において独裁的である一方で統治者としての責任感もあるわけです。(←そのうち議会制ができて国王の権力は失墜してしまいますが。)ところが、日本はどうかというと、例えば江戸時代を考えると天皇という国王がいるのですが、実質的な支配者としては将軍がいて彼が国を支配・統治しているわけです。ところが実際には、その下に老中がいて、彼らが実際の政治を仕切っているわけです。つまり、日本はピラミッドの頂点に為政者がいて、為政者が責任を持って統治するというスタイルになっていないのです。さて、話を本の時代に戻すと、戦後の日本は民主主義になったので、形式的には独裁者がいないスタイルになったかもしれないけれど、戦前の日本は大日本帝国なんていうイカメしい名前だからさぞや独裁者が威張って闊歩してたのかなと思って読むと、どうもそうではないのです。日本の首相は初代の伊藤博文のときから独裁者的ではないのです。構造的には共和制だった頃のローマのように元老院がいて執政官が選ばれて執政官が政治を執るというのに形は近いと思います。ただし、日本の場合は執政官たる首相の権威は低く、むしろ矢面に立たされる兵隊的下っ端的な感じでさえあります。

この執政官と元老院の関係は天皇とそれを陰で操る上皇に似ているのですが、かといって背後である上皇のように独裁者がいるかというと、どうもそうでもないのです。首相を支えている背後の人たちもいずれも独裁者的な側面がないのです。せいぜい山県有朋が独裁者に近いのですが、彼でさえ決定的に独裁者かというと独裁者ほどに強引な政治は執っていないように思えます。そうやって見てみると、どうも彼らには統治者としての責任感が欠如しているように思えるのです。もちろん、私は独裁者が良いといっている訳ではありません。しかし、どの首相も調整役であって、自らの考えを持ってリードしてゆく為政者には見えなかったのです。これは首相だけの責任ではなくて、首相を支える周囲にも責任があるとは思います。東京裁判でも連合国側は戦争の責任が誰にあるのかを巡って裁判をしたのですが、誰が戦争の最高責任者なのか分からず困ったのではないでしょうか?確かに東条英機だという見方はあると思います。しかし、彼は独裁者だったかというとどうもニュアンスが違う。東条は引き算思考の小役人で小さなことで周囲を締め上げていたとは思います。しかし、それは独裁者とは違います。石原莞爾も裁判の中で言っていますが、「自分にはいくらかの戦略はある。しかし、東条はこれっぽちも戦略を持ち合わせていない。皆無である。意見を持っていないものとは論争しようがない」と皮肉を込めつつも的確に東条のことを言い当てていると思います。そうやって見てゆくと日本の政治には君主のような支配者・統治者いなかったのではないかと思えてきます。日本の歴史を振り返ってみてパッと思いつくのは天皇親政をやろうとした後醍醐天皇くらいでしょうか。あとは織田信長が独裁者に相当するかもしれませんが、ただ彼の場合、本能寺で斃れたので統治者たらんとしたかどうか少し疑問です。とにかく、日本にはアメリカ大統領のようなリーダーはいなかったし、成立しなかったのではないかと思います。当人とそれを支える周囲というのがいなかったように思います。

なぜ、そうなったのでしょうか?私は日本人が騎馬民族でなかったからではないかと睨んでいます。世界の文明に目を向けてみると文明の支配者は多くが騎馬民族です。人類はその発展において農業という植物の飼い慣らしをしてきました。次に遊牧という動物の飼い慣らしをしてきました。そして、動物を飼い慣らす経験をした騎馬民族は今度はそれをヒトに応用してヒトを飼い慣らす文明を築いたのです。ところが、極東の島国・辺境日本は騎馬民族が支配者にはなりませんでした。そのことは中国の後宮のように宦官がいないことからも明らかです。宦官は去勢の技術が発達した結果、生まれた技術です。去勢は遊牧において動物を飼い慣らす技術から発展したものです。ところが、日本には宦官はいませんでした。そのため『源氏物語』に見られるように天皇の女たちに光源氏が手を出したりできたわけです。つまり、日本人は騎馬民族ではないためか、人を飼い慣らすこと人を支配することにあまりにも慣れていない節があります。極東の島国という辺境だからこそ起こった特殊な事情だと思います。

それにしても「ヒトがヒトを支配する」というのはあまり愉快な考えではありません。しかし、文明を支えていたのは農業に従事する奴隷だったという事実を見過ごすことはできません。また、従順になれない奴隷は兵士として軍隊に送られました。軍隊に送られて兵士として活躍するか、早めに間引かれるかのどちらかだったのではないでしょうか。時代が進むにつれて奴隷制も無くなりますが、それはヒューマニズムに目覚めたからというわけではなくて、他人に強制されて働く奴隷よりも自らの意思で働く労働者の方がよく働くという理由で奴隷制が無くなったという面もあります。このように文明とはヒトがヒトを支配する歴史だったという見方もあるのです。話は違いますが、シェークスピアの作品にもそのような人間観があってアメとムチでヒトを操るという場面が見られます。シェークスピア嫌いの人がいますが、彼らはそういうのをみて「人間とはまるで家畜のようなそんな単純なものではない」という思いでシェークスピアを嫌うのだと思います。ちなみに私もそういう人間観は好きではありません。しかし、厳然たる事実として文明社会とはそういう側面があるのも否定はできないと思います。

さて、何の話でしたでしょう?そうそう、日本の最高権力者に支配や統治する権限が与えられておらず、その責任感がないという話でした。いや、制度として権限は与えられているのだけれど、実際には歴史的な習慣のためか、それが機能していないという話でした。ならば、制度を大統領制にしろという意見があると思いますが、おそらく、制度を変えても日本人の習慣としてそれを機能しないものにしてしまうと思います。ここまで来ると日本人の精神構造の問題ではないかとさえ思えてきます。河合隼雄が指摘していましたが、日本人の精神構造と西洋人の精神構造は違うそうです。簡単に喩えて言えば、日本人がユング的であるのに対して西洋人はフロイト的であるそうです。確かに日本人の大衆の無意識はユングの集合的無意識に通じるものがあるような気がします。しかし、そうなってしまうと日本人はとことん政治に向かない民族だと思います。ある意味、日本人は支配される側でこそ力を発揮する民族なのかもしれません。組織の歯車としてよく働くが、少々頭が堅くて融通の効かない、しかし実際的な技術にかけては右に出るもののない優秀なエンジニア、(実際、世界で活躍する日本人ってそういう技術者が多くありませんか?)それが日本人に最もふさわしい姿なのかもしれません。え?私ですか?私は違います。私は日本人の中では変わり種の異端児ですから(笑)。ともかく、そうはいっても日本も独立国家なのですから、日本の首相は自己の信念に基いて自らの意思と責任をもって国を統治してほしいものだと思います。

えーと、随分、本の内容とは違う話になってしまいました。以上の記述は私が本を読みながら考えたまったく別のこと、妄想の話です。とにかく、現在の日本の政治を考えるためにも、大人の常識として日本の歴代の首相は知っておいた方が良いと思いますよ。

※文中で述べた日本人の精神構造については下記の本を参考になさって下さい。