2013年6月22日土曜日

原紗央莉『本名、加藤まい~私がAV女優になった理由~』

 
 
原紗央莉『本名、加藤まい~私がAV女優になった理由~』を読んだ。
 

この本は2009年から2011年にかけてAV女優として活躍していた原紗央莉の自伝である。まず、最初に断っておこう。「彼女がAV女優になったのには辛い過去があって仕方なくAV女優になった」というようなお涙頂戴的な人情ばなしをこの本に期待してはいけないということだ。彼女には他人に同情してほしいというような女々しい気持ちは一切ない。そんなものに対しては彼女は怒って蹴りを入れるくらいだろう。では、この本には一体何が書かているのか?

ここに書かれているのは彼女の決意であり宣言なのだ。世界中を敵に回しても自分の足で立ち、どんなに向かい風が強くとも、たとえそれが身を切り刻む嵐であっても、まっすぐに前を見据えて突き進んでゆくという強い強い決意なのだ。しかも、「来るなら来い!受けて立つ!」といった敵に対して堂々と胸を張って生きてゆくという、まるで獅子の宣言なのだ。確かにこの本を執筆したときの彼女はたかだが21歳の小娘に過ぎない。だが、ひとの決意に年齢は関係ない。他人から見れば他愛のない理由かもしれないし、考え方も稚拙かもしれない。しかし、未熟ながらも本人がそのときどきを本気で生きて真剣に考えて下した決断なのだ。万一、間違っていたとしても、おとしまえは自分でつけるし、その覚悟は既にしてある。
そう、この決断は戦士の決断なのだ。

普通のひとは自分がAV女優であることを隠す。親にも隠すし、友だちにも隠すかもしれない。本名なんて隠して当たり前だ。本名を知られて故郷で後ろ指なんて指されたくない。何年かAV女優として働いて幾らかのまとまったお金を稼いだら、あとは引退して世間にバレないように群衆にまぎれるだけ。小賢しいと言われようがかまやしない。稼いだお金を数えながら、チョロっと舌を出してニンマリするだけ。賢く生きようではないか。普通はそう考える。ところが、原紗央莉は違う。小賢しく立ち振舞おうなんてこれっぽっちも考えない。彼女はAVで裸やセックスを人前に晒すだけではない。本名まで世間に晒す。しかも、その晒し方が尋常ではない。本にして晒す。しかも、文章の中に晒すのではない。本のタイトルという一番目につくところにデカデカと出して晒す。彼女は気でも狂ったのか?それともヤケクソなのか?もしかしてドMなのか?いや、そうではない。彼女は正気だ。しかも、とことん本気だ。彼女は自分の選択に胸を張っていたいのだと思う。陰でコソコソとAV女優をして稼ぐなんて気はサラサラない。「陰でコソコソとAV女優をしてるって?コソコソしてねぇよ!あたしの選んだ選択になんか文句あっか?」と言ってバーンと本名を叩きつけたのだ。言っておくが、これは開き直りではない。むしろ、性分だと思う。曲がったことができない、不器用と言われようがまっすぐにしか生きられない彼女の性分なのだと思う。

この性分がこの本を彼女に書かせたのだと思う。もちろん、「仕事の企画として勧められたから」というのもあるだろう。しかし、そんなものはあくまで表面的な事象に過ぎない。彼女の心の中で執筆へと突き動かしたものはもっと別で、それは個人的な動機からだと思う。では、その個人的な動機とは何なのか?それには「この本は誰に向けて書かれたのか?」について考えてみる必要がある。まず、この本は誰かに分かってもらいたいという気持ちで書かれたものではないと思う。おそらく、自分自身に向けて自分自身のためだけに書かれたものだと思う。では、いったい彼女は自分に対して何が言いたかったのか?そして、何をしたかったのだろうか?それを解き明かすには、彼女の置かれた状況について考えなければならない。彼女もAVという仕事が世間でどのように評価され、AV女優が世間からどういう目で見られるかは十分に知っている。それなのになぜ本名を晒してまでこのような本を書いたのか?下手をすれば、AV女優というレッテルが一生ついてまわるかもしれない危険があるのに。なぜか?それは「自分にウソをついて生きていけるだろうか?」という問いにすべてが集約されていると思う。そう自分に問うたときの彼女の答えは”否”だと思う。「自分が自分にウソをついて生きていくことはできない。そんなことをすれば自分の意思に自分が飲み込まれてしまう」と感じ取ったのではないかと思う。「自分の意思に自分が飲み込まれてしまう」とはどういうことか?これを説明することは少々難しい。私たちの人格を構成している要素は言語で、人格は言語で構成されたOSのようなものだと思う。だが、OSは心の表層に過ぎない。心にはもっと奥がある。それは無意識のことを言っているのか?いや、無意識よりももっと深層だ。心の最深部には未だコトバにならない意思のうねりのようなものがある。あるいは、言い方を変えれば精神のエネルギー、魂のマグマといったようなものがあると思う。それは私たち生物を創造的進化に促すものと同じであり、ベルクソンのいう精神のエネルギーそのものだと思う。その精神のエネルギーが自分自身である人格と対立してぶつかったとき、大波が小舟を粉々に叩き潰してしまうように意思のうねりがちっぽけな人格を破壊してしまうのだと思う。おそらく、彼女は本能的にそれを感知したのだと思う。では、どうすれば自らが自らを破壊せずに生きられるのか?答えは1つしかない。つまり、人格と精神エネルギーが一致するしかないのだ。もし、心と魂が一致していれば、たとえたった一人で世界中を敵に回しても負ける気はしない、おそらく、そのように感じ取ったのではないかと思う。その意思の顕れとして打ち立てられたのがこの本というモニュメントだと思う。そう、この本はモニュメントなのだ。彼女の意思が結晶したモニュメントなのだ。彼女の人格とエネルギーを一致させるためにモニュメントが必要だったのだ。

私が感動するのは彼女の意思の強さだ。といっても世間一般にいわれる意思の強さではない。自らをも灼き尽くすかもしれないほど強力な生命のエネルギーに感動するのだ。世界中を向こうにまわしても勝てると思わせる強力な意思力。何ごとも直接的でかつ不器用で、ときにはあっけないほどに忍耐力もなさそうだけれど、何者の力が掛かっても動かしがだい底力というか、まるで恒星のような存在力のある人間、それが原紗央莉だと思う。現代は情報化社会が進むにつれて人々は知的になった一方で、どんどん小賢しくなったとも言える。みんな、小粒になってしまい、野性味は失われ、かつては燃えるようだった生命力も穏やかな蛍光灯のような弱々しい光に変わってしまった。そんなときに現れたのが原紗央莉だった。彼女はセックスの女王というよりはむしろセックスの虎だ。そして、ガツンと一発世間の男どもにパンチを喰らわす。

「あたしがAV女優原紗央莉だ!文句あっか?」

2013年6月21日金曜日

ラリー・カハナー『AK-47 世界を変えた銃』 


かの有名な突撃銃AK-47について書かれた本です。

目次
第1章 祖国を守る
第2章 AKとM16の対応パート1
第3章 パンドラの箱
第4章 アフリカのクレジットカード
第5章 ラテン・アメリカのカラシニコフ文化
第6章 アメリカを訪れたカラシニコフと彼の銃
第7章 国連も認めたほんとうの大量破壊兵器
第8章 AKとM16の対決パート2
第9章 AKをもう一度売り込む
エピローグ AK最後の?日
     



私はガンマニアでもミリタリーファンでもなく、通常のライフルとアサルトライフル(突撃銃)の違いさえ知らなかったので大変参考になりました。AK-47についてはさいとう・たかをの漫画『ゴルゴ13』ではしばしばゴルゴの持つM-16とこのAK-47が対決する話があるので名前は知っていましたが・・・。

AK-47Ⅱ型
※バナナ型の弾倉が見た目の特徴なんでしょうね。

さて、AK-47の特徴としては、よく知られた事実ですがAK-47は劣悪な環境にあってもメンテナンスを必要とすることなく、すぐに実戦に使えるというのが大きな魅力です。例えば長期間に渡って泥沼の中に埋まっていてもそのまま弾倉を装填すれば撃つことができるそうです。米国のM16ではそうはいきません。M16はメンテナンスを必要とし、劣悪な環境下では故障を起こしやすいそうです。ベトナムなど過酷な条件ではたいへん扱いにくいようです。

なぜそのような違いが生じるのかというとAK-47は構造がとてもシンプルだからだそうです。真理がシンプルなものであるのと似ていますね。それだけ合理的にできていると見ることもできると思います。そのため操作も簡単なようで少年兵でも1時間も訓練すればすぐにAK-47を撃つことができるようになるそうです。ですので、少々手荒に扱っても壊れないしメンテナンスも必要としない、操作も簡単で誰でもすぐに使えるということで非常に重宝されたようです。さらに使うものにとっての利点はAK-47の価格がとても安いことです。安いので誰もが簡単に大量に購入することができるそうです。

そのため、AK-47は様々な戦場で活躍してきました。ベトナム、アフリカ、中南米、アフガニスタン・・・。この本では世界各国でAK-47が使われた歴史を負っているので、近代の戦争・紛争の歴史も同時に追うことができます。まあ、逆に言えば、それだけAK-47が頻繁に使われてきたということなのでしょう。驚いたことに国によっては国旗にAK-47のシルエットを入れているところもあるくらいです。

この本ではAK-47の生みの親についてもその生涯を追跡しています。AK-47の設計者ミハイル・カラシニコフは第二次世界大戦でナチスドイツと戦って負傷し、ナチスに負けないライフルを開発して祖国ソ連を守ろうと決意して生まれたのがAK-47だったそうです。彼は元々は銃の設計について専門の教育を受けたわけではなくて、いわゆるたたき上げで銃の設計に携わるようになったそうです。そのため、予備知識がなかったのが幸いして先入観にとらわれることなく合理的に銃を開発できたのではないでしょうか。また、他の銃からもその優れた点をどんどん取り入れたそうです。専門教育を受けたわけではないので、他からどんどん良いところは取り入れようという一種の謙虚さだったのだと思います。そうやって開発されたのがAK-47です。彼は祖国に貢献したい一心だったので開発した当時はまったく金儲けには興味が無かったそうです。ところが、冷戦が終焉してアメリカに招かれてM16の開発者であるユージン・ストナーに会ってみるとM16のライセンス料で大金持ちになっているのを見て大変驚きます。M16が1丁売れるごとに1ドルがストナーに入るそうです。凄い契約ですね。一方、カラシニコフですが、彼にとって残念だったのはAK-47はすでに共産圏の国に無償で製造方法についても提供されていたので彼には一銭もお金が入らなかったそうです。しかし、AK-47の普及のおかげでカラシニコフの名前も有名になり、ウィスキーの名前にカラシニコフと付けたりしてちょっとした商売にしたそうです。それだけAK-47が世界的に普及したということでしょうね。

この本を読んで知ったものにTV映画『44ミニッツ』があります。実際にロサンゼルスであった銀行強盗を元にした映画なのですが、たった二人の犯人たちがAK-47を持っていて数十人の警官と撃ち合いになったのですが、警官の装備している銃では歯が立たなかったという恐ろしい話です。突撃銃の破壊力や有効性がこの映画を見るとよく分かります。

拳銃や散弾銃とは違って一定の距離をとった間での戦闘では突撃銃はとても有効な武器なのでしょう。ただ、もっと遠距離の狙撃になるとライフルの方が有効なのではないでしょうか。私は専門家ではないので間違っているかもしれませんが。

米国では銃による事件が跡を絶ちません。早く銃規制をすればいいのにと思うのですが、全米ライフル協会などの団体がそれを許さないのでしょう。2013年4月に銃規制強化の法案が否決されたとき、オバマ大統領は強い口調で「恥ずべき日だ」と非難しました。私も同感です。そんな米国ですが、銃規制を描いた名作映画に『ニューオーリンズ・トライアル』があります。ジャンルは法廷ものですが、とても参考になると思います。


2013年6月20日木曜日

フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(訳:村上春樹)

 
 
ちょっと前に読んだ小説ですが、最近、レオナルド・ディカプリオ主演で映画が公開されたようですので感想を書いておこうと思います。それはスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』です。ちなみに読んだのは村上春樹訳の方です。


私自身は『グレート・ギャツビー』は有名なので名前は知っていましたが、あらすじとかを読んでみたのですが、あまり興味が持てなくて読んでいませんでした。さらに後に村上春樹が名作だと言っているいうことで読まなくちゃいけないかなあという気持ちになったりしたのですが、それでも読んでいませんでした。それからさらにウィキペディアで解説を読むと「英語で書かれた20世紀最高の小説で2位」と書かれてあったのでますます読まなくちゃという気になり、とうとう本を購入したのですが、それから随分長い間積読になってしまい、ようやく最近になって読んだというのが実情です。

さて、「読んだ感想は?」と言うと「小説のいわんとすることは分かるけど、しかし、世間で言われるほど高く評価されるほどの小説だろうか?」というのが正直な私の評価です。世間の評価というのは案外あてにならないなあというのが率直な感想です。ただ、私自身が気づいていない良さがあるのかもしれないという一抹の不安も少しありますが・・・。


さて、ストーリーはとてもシンプルで、貧しい青年ギャッツビーが好きな女性デイジーのハートを射止めるために無理して金持ちに成り上がるのですが、デイジーたちが住むハイソサエティーな連中との間に育ちの違いからギャップが生じるといった感じです。結局、ギャッツビーの夢は叶えられずに挫折するのですが、そのギャッツビーを傍らで見ていた友人のニックがギャッツビーの純愛に感動しつつ、ハイソサエティーに対して厭世観というか達観みたいなものを得て、デイジーたちの見せかけだけのハイソサエティーを捨て去るというような話です。

この物語の重要な点は2つあって、1つは金持ちたちに対する批判、もう1つはニックの得た達観です。金持ち批判については当時のアメリカ社会を知っていることが大事でそこまでに至る歴史と当時の状況というのを知っていないとこの金持ち批判はいまひとつ伝わってこないのではないかと思います。それから、もう一方の重要なポイントである達観ですが、これはフィッツジェラルドの後の世代で流行ったサリンジャーなどに代表される超絶主義に通じるものがあるのだと思います。いや、超絶主義までいくと行き過ぎになってしまうかもしれません。村上春樹などは適度な距離感を大事にしているのだと思いますから、超絶主義のようにあまり世間から乖離してしまうのも彼のリアリズムに反するのだと思います。程良い距離感。それが村上春樹の表面的なオシャレさだったり、深層におけるリアリズムだったりするのだと思います。

この作品はロシア文学のような深い感動を得られるという物語ではありません。しかし、作品の舞台が1920年代のちょっと古いアメリカですが、現代の社会に対しても十分に通じる世界観とかニヒリズム的な態度やクールなリアリズムがあるのだと思います。読後にクールな余韻が残るのがこの作品の魅力なんでしょうね。


『グレート・ギャツビー』をより深く理解するためには当時のアメリカ社会を知っておいた方が良いので、下記にアメリカ社会を知るための参考文献を挙げておきます。いずれも資本主義やアメリカ社会を考える上でとても参考になる本だと思います。


2013年6月19日水曜日

アニミズムとシャーマニズム

久しぶりに宗教について再び考えてみます。(前回、宗教について考えた記事はここを参照して下さい。)

さて、宗教とは何でしょうか?この問いに対して私なりの見解を述べてみます。今回は歴史的な経緯としてどのように宗教が生まれてきたかをおおざっぱに考えます。ただし、これから述べる見解は私の推測であって、学術的な裏付けはありません。


1.アニミズムとシャーマニズム

まず、遥か昔、文明社会が生まれる以前の人間社会には、最初はアニミズムとシャーマニズムがあったと考えています。

アニミズムとは精霊信仰のことで自然の中などいろんなところに精霊が存在するという考えで、次第に精霊を神秘的なものとして敬うようになっていったのだと思います。現代人の私たちも雄大な自然を見たりするとそこに何かしらの神々しさを感じたりしますが、アニミズムはそのような人間の基本的な感覚がもとになって形成されたのだと思います。

次にシャーマニズムですが、実はシャーマニズムとは何なのかはよく分かりません。シャーマニズムはシャーマンという専門家が行なっていたもので人を呪ったり癒したりしていたようです。例えば呪医(メディスンマン)といわれるように治療師であったり、黒魔術師といわれるように破壊者でもあったりしたようです。ただし、それはシャーマンが生活するための生業に過ぎず、シャーマンが実際に何をしていたのかはよく分かりません。学者の研究で共通して分かっているのはシャーマンは脱魂と憑依という技術を持っていたらしいということだけです。それらが本当は何を意味するのかよく分かりません。しかも同時代に生きた周囲の普通の人々でさえ、シャーマンが何をしているのか、シャーマニズムが何なのかよく分からなかったようです。

いずれにしろ、話を整理すると、文明社会が出現する以前は宗教と呼ばれるようなものとしてはアニミズムとシャーマニズムの2つがありました。ところが、人類社会が文明社会に変化したときにそれらも大きく変容していったようです。そのとき、いわゆる宗教が出現したのだと思います。


2.アニミズムから宗教へ

さて、人類社会が文明社会に変化したとき、アニミズムは一神教や多神教など神を崇拝したり信仰したりする宗教へと変わっていきました。都市化した文明社会ではアニミズムは次第に体系化されて、多神教や一神教に収斂していったのだと思います。例えば、インドのヒンドゥー教や古代オリエントの多神教、あるいはユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教のように洗練されていったのだと思います。しかし、文明社会の周縁ではアニミズムが残ったところもあります。例えば、日本の神道がそうです。神道はアニミズムに近い形で残りました。あるいはアメリカインディアンの精霊信仰はアニミズムの原形を非常に色濃くとどめていると思います。

基本的には宗教はこのように神を崇拝するものだと思います。


3.シャーマニズムの衰退

では、アニミズムが宗教に変わったとき、シャーマニズムは何に変わったのでしょうか?実はあまり変わらなかったといえるかもしれません。というのもアニミズムと違ってシャーマニズムは継承者が少数でしたし、治療師などの特殊な技術の専門家でしたのでそのままの形態で残る場合が多かったようです。ただし、文明化が進むにつれて次第にシャーマニズムは減少していったようです。当時の人々の間でよく言われていたのは昔のシャーマンに比べると文明化が進むにつれてシャーマンの力が弱くなっていったそうです。そのため、シャーマニズムは人々に必要とされなくなり、次第に衰退していったようです。


4.仏教とは何か?

ところで、仏教とは何なのでしょうか?

日本では仏様を崇拝する宗教のように勘違いする人もいるかもしれませんが、本来の仏教は仏様を神のように崇拝するものではありません。そういう意味では仏教はアニミズムから発展していった宗教とは違うと思います。

では、一体仏教とは何から発展したものでしょうか?確かに仏教は釈迦が突然変異的に始めた宗教と見ることもできるでしょう。しかし、私はそうではなくて仏教も過去の継承から生じたものではないかと考えています。釈迦という天才が何の脈絡もなく仏教という知の体系を突然に創り出すというのは少しおかしいと思うのです。何らかの歴史的な過去からの知の継承があるのではないかと。では、一体それは何なのか?実はシャーマニズムが変容した結果、仏教に変化したのではないかと私は考えています。文明化が進んだときアニミズムが体系化されて宗教に変容したように、シャーマニズムも体系化・言語化されて仏教という形態になったのではないかと思っています。まあ、そのような歴史的な痕跡は実際にはないと思います。あえて極端なことを言えばバラモン教の神秘主義をさらに変化させて生まれてきたのが仏教といえるかもしれません。

では、シャーマニズムから変容したものは仏教だけでしょうか?世の中には神秘主義と言われるものがありますが、私が思うに神秘主義といわれるものもシャーマニズムから変容したものではないかと考えています。すべての神秘主義がそうというわけではありませんが、神秘主義のいくつかは、極端な言い方をすれば、シャーマニズムが変容して神秘主義になったと言えると思います。そういう意味では仏教は神秘主義の1つだと思います。あるいは、言い方を変えると神秘主義の中でもシャーマニズムを最もよく継承しているのは仏教ではないかと思います。


5.宗教と神秘主義

さて、宗教というと私たち日本人は仏教や神道を想像してしまいます。しかし、上述したように一般に宗教と呼ばれるようなものと仏教は随分違いますし、神道も宗教以前のアニミズムに近いもので一般に言われる宗教とは少しニュアンスが違います。

繰り返しますが、一般的にいって宗教とは神を崇拝するものです。人間が持っているアニミズムの感覚が残って洗練されて神を崇拝し信仰するようになったものが宗教だと思います。それが一神教の場合もあれば、多神教の場合もあるのでしょう。しかし、いずれにしても神を崇拝するという意味では同じだと思います。

ところが、仏教はそれとは違います。神を崇拝するわけではないからです。現代人は仏教も一緒くたにして宗教とひと括りにして言いますが、それはあまり正しくないと思います。仏教は本質的には神秘主義です。

ただし、ややこしいのは宗教の中にも神秘主義といわれるものがあります。例えばイスラム教の中にはスーフィズムと呼ばれる神秘主義があります。どうもイスラム教に限らず他の宗教でも突き詰めてゆくと往々にして神秘主義に辿り着く場合があるようです。果たしてそれらは宗教なのでしょうか?それとも神秘主義なのでしょうか?実際、それらをどちらに判別すればよいのか分からないことが多いと思います。

それから、読者の中には「神秘主義も宗教の1つに過ぎない」という意見もあると思います。それはその通りで、そのようにカテゴライズする考え方もアリだと思います。ただ、私が言いたいのは宗教の起源を考えたとき、アニミズムとシャーマニズムの2つがあり、アニミズムからは神を崇拝・信仰する宗教が生まれ、シャーマニズムからは神秘体験を基本とする神秘主義や仏教が生まれたのだということです。このように2つの流れがあるのに多くの人はこの2つの違いを無視して混同してしまっていると思うのです。

6.宗教と哲学

さて、ようやく哲学の話です。宗教と哲学には密接な関わりがあります。哲学の起源をギリシャ哲学とする見方がありますが、そのギリシャ哲学も後にイスラム教神学に取り入れられたり、さらにキリスト教神学に取り入れられたりして神学としてある意味高度化されます。それらは一神教的な存在論ではありますが、高度な哲学をそこに構築しました。また、仏教などは中観や唯識などのように独自の哲学を積み上げてゆきました。このように哲学はかつては宗教だったとさえいえるかもしれません。その中には古の賢人たちの知恵が詰まっています。確かにそれらをそのままの形で使うことは出来ないでしょう。しかし、それらをまったく参考にしないのはちょっと勿体無いと思います。ですから、哲学を学ぶために宗教を知っておくことは決してムダではないと思います。



2013年6月2日日曜日

雑感 華原朋美から日本経済の行く末まで

華原朋美を久しぶりに見た。90年代をしんみりと思い出したりした。小室哲哉やケイコを思い出したり、直接関係ないけど中森明菜を思い出したりした。それとエヴァンゲリオンを思い出したりした。

日本のテレビ文化・・・。「テレビの時代は終わった」と言っても消えてなくなる訳ではない。映像メディアやテレビ放送文化はこれからも残る。テレビに携わる人たちは質の良い作品を作ってほしいものだ。といってもテレビ文化が衰退した原因のひとつはテレビ局にお金が集まらなくなったからだろう。

テレビ局にお金が集まらなくなった理由はスポンサーである日本の企業の経済力が弱くなったからだろう。端的に言えば日本経済が衰退したからだ。そして、おそらくそれは回復する見込みは少ない。結局、少ない予算の中で良い作品を作るしかないと思う。

良い作品って何か、真剣に考えないといけないなあ。それにしても日本のテレビの歴史ってまとめた本ってないのだろうか?日本のテレビの歴史を考えたとき、思い浮かぶのって大橋巨泉だったりする(笑)。いや、他にもっとあるとは思うんだけど。

日本のインターネットの歴史を振り返ったときアルファブロガーって記述に残るんだろうなあ。池田信夫とか切り込み隊長とかfinalventとかきっこさんとか小飼弾とか竹熊健太郎とか。ツイッターになると津田大介とか東浩紀とか。橋下徹とかも残るかもしれない。

私は音楽は全然詳しくないんだけど、日本の歌謡史に華原朋美も『I'm proud』で残ると思う。中森明菜いくつかの曲で残ると思う。AKB48も残るんだろうけど、後世の歴史家がどのように評価するかは分からない。演歌って残るのかな?

日本は明治以後はアジアの中で経済成長した方だと思う。その頃は女工哀史とかで有名な紡績業とか軽工業で成長した。その後、世界は恐慌でブロック経済になり戦争になる。戦後は日本は再び経済成長してゆく。自動車や家電など製造業で大躍進する。そして、今、それらは失われ衰退しつつある。

英国などは二度の世界大戦でボロボロになった。第二次世界大戦以後はイギリス病といわれるほど衰退したし、その後も目立った回復はなく、金融ビッグバンなど自国企業はなくて場所だけ貸すというウィンブルドン方式をしたりした。米国は戦前は恐慌だったが、戦争で復活し戦後は世界の覇権を握るまでに。

しかし、その後の米国経済は日本の製造業に脅かされることになる。自動車産業まで日本に奪われることになる。当時は不買運動が起こり、日本車をハンマーで壊したりする映像も流れたりした。大規模なリストラが行われたりした。日本は米国の企業を買収したり、米国の一等地を買ったりした。

しかし米国は復活した。ITと金融だった。金融によってWTOに加盟した中国に投資され工場が建設された。そして、中国は世界の工場になった。また、ITは世界中に広まりインターネットが世界を繋げ、そして世界を変えた。米国はITと金融という知識産業で復活した。同時に中国も製造業で目覚めた。

しかし、その一方で日本は衰退した。なぜなら製造業が中国に奪われたからだ。いや、奪われつつある。家電はすでに中国に奪われた。あるいはサムスンの韓国に。自動車はかろうじてまだ日本は勝っている。しかし、それも電気自動車が普及したときどうなるか分からない・・・。

ところで米国もITと金融で復活したとはいえ、富は少数に集中することになった。製造業の場合は工員に広く分散するが、ITや金融の場合は優秀な個人が富を手にすることになるので富は拡散しない。結果、貧富の差が拡大した。富をどう再分配するかが米国の問題として残っている。

さて、日本だが、とりあえず、自動車産業だけは残っている。しかし、それも製造業の法則から考えれば、工場は海外に移転するのが合理的になると思う。その方が安く生産することができるからだ。結局、自動車産業も海外の企業に抜く抜かれる関係なく、海外に工場を移転せざるをえないと思う。

そうなると日本国内は衰退せざるをえない。家電も自動車も無くなれば、日本は貧しくならざるをえない。それは昔から言われていたことだ。日本は資源が乏しく加工して付加価値を生み、それを海外に売って利益を生み出す貿易立国だと。輸出が無くなったとき、日本は衰退せざるをえない。

日本が衰退するのは仕方がないと私は思う。確かに座して衰退を待つのではなく何か挽回策を講じようとするのは分かる。とはいえ、かつての経済大国に復活できるような方策はまず無いと思う・・・。ただ、これまで蓄積してきた資産が日本にはある。それを有効に活用して延命することだと思う。

今、日本の経済について「あーしろ、こーしろ」と意見提言がある。それらは多少の効果を発揮するかもしれない。しかし、先程も言ったようにかつての経済大国に返り咲くほどの大きな挽回策とはなりえない。何が言いたいかというと日本のポテンシャルを見極めて「この程度かな」と落ち着くことだと思う。

落ち着いたとき、近代文明の中で日本は子供から大人に成熟できるのではないかと思う。市民社会が成熟するのではないかと思う。民主主義が定着するのではないかと思う。文化が大人になるのではないかと思う。自民党の政治家はオジサンであって大人ではない。大人の政治家はこれから出現する。