2010年8月15日日曜日

未来のライフスタイル

とりあえず、ツイッターを元にした下書です。後日、修正するつもりです。

1.2つのライフスタイル
私は文明には悪い点もあれば、良い点もあると思う。逆に、今はほとんど無くなってしまったが、文明の逆、野生の生き方、未開社会の生き方にも良い点もある。もちろん、悪い点もある。私が考えているのは、人間は文明も野生も、その両方を往復するように生きる生き方、ライフスタイルが良いのではないかと考えている。人生をデザインするとき、人生の時期によって、その2つを行ったり来たりする生活ができればいいんじゃないかと思う。

2.人類社会にとって真の問題は人口である
ただ、今はどんどん自然破壊が進んでいるので、そういうのは難しくなっている。詰まるところ、、人類の人口過多に問題があると思う。将来、世界の人口が百億に迫ると言われている。そんなに多くは無理だと思う。人類は人口をもっと縮小して地球上の文明圏を縮小すべきだと思う。土地を自然に還すべき。ただ、そのために少子化が必要だが、中国の産児制限はやはりヒューマニズムからいうとちょっと問題じゃないかと思う。中国政府としては苦肉の策だろうけど。やはり、自主的に人々が人口減に努めるべきだと思うが、それはなかなか難しいんだろうなあ・・・。いずれにしても、地球は周期的に氷河期を繰り返しており、今は氷河期の中休みである間氷期にあたる。再び氷河期が来れば、人口は激減するだろう。ただ、人類は減少しても絶滅することはないと思うけど。

3.里山というライフスタイル
それと日本は文明と野生の中間点にある。文明は中国、野生はアメリカ先住民。日本はその中間にあって独特の日本文明を築いた。天皇制なんて、世界の王権と比較すると、かなり変わった王権だ。あれは文明と野生の中間だから、あんな変わった王権になったと思う。携帯電話など日本のガラパゴス化が指摘されたりするけど、文明と野生の中間ということで、日本独特の中間的な文明を構築すること、そういう意味でのガラパゴス化だったら、面白いと思う。アーミッシュの人々みたいに文明の否定にはならないと思うけど、もう少し自然寄り野生寄りの文明を築けると思う。その中間的な文明の例として、里山があると思う。『未来少年コナン』のハイハーバーみたいなものだと思う。地下にはハイテク機器が隠されているかもしれないけど。

4.野生のライフスタイル
ただ、中間じゃなくて、完全な野生生活も私には魅力があると感じられる。平原インディアンみたいなティーピーでの狩猟生活に憧れる。最初の5年間は文明で生活して次の5年間は野生で生活する、みたいなのを繰り返すのが出来たらいいなあと思う。そういう文明と野生の往復ができたらいいと思う。もちろん、野生生活は野獣に襲われる危険があるかもしれないけど、それでも充実した生を得られるので良いと思う。文明社会での放浪者は人間の尊厳を踏みにじるけど、野生では気ままな暮らしができると思う。インドなどで底辺の階級が物乞いをしたり、虐げられたりすのって理不尽だと思う。でも、野生ならそういうのはない。それに狩猟採集生活は労働時間は文明社会よりも短い。1日4時間以下。羨ましい(笑)。それに狩猟採集生活は意外と楽しいと思う。狩猟なんてけっこう面白いと思う。まあ、こっちも殺られるリスクはあるけど。それに獲物に対する敬意も払うし。

5.人類社会の行方
まあ、文明社会はこれからもどんどん便利な機器を生み出してゆくとは思う。とりあえず、エネルギー開発と、生存圏の拡張で宇宙への進出が期待される。けど、生活の質自体はこれ以上の進歩はあまりないんじゃないだろうか。(不老不死になるのは、たぶん、不可能だと思う。)そういう意味では、文明と野生の往復生活って良いんじゃないかと思うのだが・・・。文明社会が築いてきた文化って、果たしてどれだけ価値のあるものかは疑問に思う。文明も野生もどちらも等価かもしれない。むしろ、野生生活は文明生活よりは持続可能という点では人間にとって普遍的な生き方だと思う。今までの文明は周囲の自然環境を滅ぼして、ついには文明自体も滅んでいる。今は国際分業によって、世界中から物資を供給している。でも、過去の文明が地域だったのが、今は世界規模に広がっただけで、世界規模で地球環境を滅ぼしたとき、文明も滅ぶことになるのではないだろうか。

2010年6月13日日曜日

世界の大学学費

世界の大学学費について調べてみました。日本、米国、英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、アイルランドです。ただし、あくまでネットで調べたものであり、あくまで目安です。文系と理系ではやはり違ってきますし、為替の変動によってもしょっちゅう変わるでしょう。ただ、やはり、大学の学費はどこも高額ですね。米国では貧しい人は兵役に行くことによって大学に入りますが、なるほど、そうでもしなければ、なかなか学費は賄えないのだと思います。確か、日本でも映画を見るよりも1回あたりの授業料の方が高かったと思います。当たり前でしょうけど、授業をサボってアルバイトするよりも授業料の方が高いです。戦後の日本で最も上昇した物価の中に大学の授業料が上げられていたことが何年か前にあったと思いますし。ただ、世界的に大学のレジャーランド化は進んでいるとは言いますが、それでも海外の大学は勉学が大変なのだろうと思います。ちなみに非英語圏ではありますが、ドイツは確か大学の学費は無料だったと思います。まあ、高い学費に見合った教育を大学が行えているかという問題もありますが。ただ、今後は大学は主に理系もしくは理系に準じる勉強をするところになるでしょう。文学部などの廃止はその流れでしょう。大学を卒業すれば、それなりに社会で実際に役立つ技術を身につけられるようになる、ならなければならないと思います。もちろん、役立たない学問はダメだと言っているわけではありません。ただ、そういう学問は、ごく限られた一部の大学と大学ではなしに私塾的なところに場所を移すと思います。大学は単に卒業したという飾りではなく、実用的な技術を身につける場になると思います。そういう意味で、大学まで行って勉強するのは理系的になると思います。哲学などの知的好奇心を満足させるのは私塾的なものになるのではないでしょうか。また、技術の進歩が早い分野では社会人の受け入れが多くなるかもしれませんね。今までの単調な学習プロセスとは違った多様な学習プロセスになるのではないでしょうか。

アレハンドロ・アメナーバル監督『アレクサンドリア』(原題『AGORA』)

 









 
 
1.はじめに
たまには映画の案内でもしようということで、映画を紹介します。といっても、まだ見たわけではないのですが、面白そうだなあという期待を込めての紹介です。それは私の好きな英国人女優レイチェル・ワイズが主演している歴史映画『AGORA』です。AGORA(アゴラ)といっても池田信夫氏のアゴラではありません。まあ、意味はどちらもアゴラ(都市国家の広場、議論の場)から持ってきたのでしょうけどね。

以下、ネタばれを含みます。

『AGORA』公式サイトhttp://www.agorathemovie.com/



2.ヒュパティアを襲った悲劇
この映画でレイチェル・ワイズは古代エジプトの哲学者で数学者の女性ヒュパティアを演じています。古代エジプトといってもプトレマイオス朝以来、エジプトはヨーロッパの文明圏でクレオパトラもアフリカ系ではなく基本的にはヨーロッパ系であって、おそらくヒュパティアもヨーロッパ系じゃないかと思います。ヨーロッパ系といっても、要はギリシャ文明ってことですが。で、ヒュパティアですが、ローマの支配下にあった古代エジプトがキリスト教が勢力を増すにつれて非キリスト教系の人たちを圧迫してゆくのですが、ヒュパティアも非キリスト教系のひとりであり、ついに暴徒と化したキリスト教徒がヒュパティアをぎゃく殺してしまいます。私の記憶では、確か、ある日、ヒュパティアが街中を歩いているとキリスト教徒が嫌がらせに石を投げてきて、それを避けるためにヒュパティアが近くの教会の中に避難するのですが、実はそこにキリスト教徒たちが待ち構えていて一斉にヒュパティに飛びかかってナマスに切り刻んで殺したそうです。その後、キリスト教徒たちはバラバラになったヒュパティアの肉片を剣や槍に突き立てて、「それ見たことか!キリスト教に従わぬ者はこうなるんだぞ!」と街中を練り歩いたそうです。いや、かなり恐ろしい話ですね。漫画『デビルマン』で殺された牧村美樹が暴徒と化した人間に殺された挙句、バラバラの死体を槍などに突き刺して練り歩いたのを実際にやったような感じです。でも、まあ、ここまで残酷かはともかく、歴史の中では異教徒をぎゃく殺するというのはよくあったと思います。なお、ウィキペディアではカキの貝殻で肉をそぎ落として殺したとあります。いずれにしてもなんとも残酷な話です。そんなわけでキリスト教徒が悪者扱いなので上映に際してはちょっとだけ物議を醸したのかもしれません。

3.一神教の未来
ところで、キリスト教ですが、どうでしょう、一昔前と比べれば、随分、その勢力は落ちたと思います。おおむね、自然な勢力の低下ですが、それだけではなしに、欧州ではこの20年くらいで宗教から脱却しようとしたんじゃないかと思います。このまま行けば、キリスト教は消滅するところまでは行かないまでも、かなり縮小するんじゃないでしょうか。ただ、そのかわりと言うか、中東からの移民など貧困層にイスラム教が普及しているんじゃないかと思います。一神教という宗教形態から見れば、イスラム教の方が遥かに分かりやすいような気もします。キリスト教はどうもヨーロッパの土着信仰と混合して、一神教としてはちょっと分かりにくくなったんじゃないかと思います。ヨーロッパにおけるキリスト教の馴染み方がどうも一神教というよりは土着信仰的な気がします。ともかく、イスラム教の方がこれからのグローバルな宗教としては強いと思います。

4.ヒュパティアの時代
さて、ヒュパティアですが、とても理知的な女性だったようですし、実際にとても美人だったそうです。舞台になったアレクサンドリアはとても興味深い都市で、当時の世界最高の学術研究所ムセイオンがあったり、アレクサンドリア図書館があったりとギリシャの知の最後の砦といったところだと思います。ただ、ヒュパティアの虐殺をきっかけに迫害を恐れた学者たちはアレクサンドリアを捨てて逃げ出してしまうようです。また、ギリシャ哲学の系譜で言えば、アレクサンドリアはプロティノスを生んだ場所と言えると思います。プロティノスはプラトンの正当な継承者じゃないでしょうか。アリストテレスは例のラファエロが描いたアテネの学堂のようにプラトンとは対照的な哲学だったと思います。プラトンが天を指さしているのに対して、アリストテレスは地を指さしています。まあ、アリストテレスの哲学は形式論理的というか、近代科学的だったのではないでしょうか。それに対してプラトンはイデアなどちょっと神秘的な色合いのある哲学でした。その神秘的な色合いのプラトン哲学を受け継いだのがプロティノスだと思います。で、ヒュパティアの哲学はどういったものだったのかは分かりませんが、ヒュパティアはプラトン、アリストテレス、プロティノスの哲学について言及したり書簡を交わしたりしたそうなので、ギリシャ哲学の系譜上にあるのだろうと思います。また、彼女は実用的な天文学や数学もやっており、かなり理知的な女性だったようです。そんな聡明な女性が虐殺されるのはなんとも痛ましい話です。ちょっと記憶が定かではありませんが、読んだ歴史書の解説では、ヒュパティアがキリスト教に簡単に改宗するのを由としなかったためであり、その一方で、キリスト教徒がキリスト教の普及にやっきになっていたために改宗しないヒュパティアを目の敵にしたというのではないかという推測だったと思います。ウィキでもヒュパティアは主知主義的な傾向で理知的であったために、「不条理ゆえに我信ず」的なキリスト教徒にはヒュパティアの言動は教義に反するなど頭に来たのかもしれません。まあ、映画では、たぶん、また違った描かれ方をしていると思いますし、私の記憶違いもあるかもしれませんので、正確なところは各自で文献で調べて下さい(笑)。ところで、アレクサンドリアを逃れた当時の学者たちは東方に流れたようで、後にこれによってもイスラム教の哲学化に大きく寄与したのだと思います。さらにそれがキリスト教に逆輸入されてキリスト教神学になります。今では近代哲学以前の哲学、すなわち、神学はあまり顧みられないでしょうけど、そこにはなかなか興味深い思惟が数多く残されていると思います。

5.レイチェル・ワイズについて
さて、話は変わりますが、レイチェル・ワイズについて少しだけ。レイチェル・ワイズといえば、『ハムナプトラ』がメジャーな作品かもしれません。私的に良かった作品としては、ジュード・ロウと共演した『スターリングラード』や米国の銃社会を批判した法廷劇『ニューオリンズ・トライアル』や『ナイロビの蜂』があります。『ファウンテン』も、内容は分かりにくかったですが、なかなか綺麗でした。私的なお奨めは、ちょっと微妙ですが、『スターリングラード』でしょうか。どれも面白い作品なのですが、彼女が主役として活躍して、飛び抜けて面白い作品というのが実はあまりないのではないかと思います。でも、美人だからスクリーンに出ているだけでいいです(笑)。(ところで、米国映画は『ニューオリンズ・トライアル』など銃の所持を批判したり、医療制度を批判したりする映画をたくさん作るのですが、いざ、それを法制化しようとしても、なかなかうまく実現しませんでした。今回、オバマ大統領になって、まだまだ他の先進国と比べると不十分とはいえ、医療制度がやっと改革されました。)

6.『AGORA』日本公開予定?!
さて、たくさん書きかましたが、『AGORA』日本の公開予定は、・・・あれ?
未定のようです。

2010年6月6日日曜日

知の学習形態について

今後の知の学習形態について、ちょっと考えてみようと思います。といっても、実は「こうなるんだ」という確定的な考えではなくて、「たぶん、こんな感じだけど、また違ってくるかもしれない」的な緩い想像の段階です。ちなみに、ここでいう知は、まあ、哲学的思想的な人文知です。

1.知の遍歴の寓話
たとえ話です。まず、知に興味を持った若者を仮に読者Pとします。読者Pはまず自分が興味を持った哲学に近い哲学を専門とするA先生を訪ねます。読者PはA先生の講義(講話)に2年間参加してA先生の哲学を学びます。読者PはA先生から多くを学んでA先生に感謝しているのですが、それだけでは満足できずに、今度はA先生の所で学んでいるうちに興味を持ったB先生の所に行って学びます。読者Pは今度はB先生について5年間学びます。ところで、読者PはA先生やB先生のところで学習しながらも、自分では仕事をしながら、その合間に学習していました。さて、読者Pは満足できるほど学んで学習意欲を満足したのとそろそろ仕事が忙しくなったのを理由にこれ以上の知の学習を中断します。それから10年ほどは読者Pは仕事に邁進して生活基盤を築きます。10年経った頃、読者Pは再び学習意欲に狩られます。実生活の中での経験を通して、今まで学んだ知だけでは不十分だと感じたからです。また、忙しかった仕事も一段落したので、再び学び始めることにします。読者Pは仕事に邁進した10年の間も本格的な学習はできなかったものの、A先生やB先生とは親交は結んでいたので、すぐに再び彼らのところで学習し始めます。そして、すぐにC先生の存在を知って、今度はC先生のところで学び始めます。読者PはC先生のところで3年間学び、大いに学習意欲を満たされたのでした。

そんなとき、読者Pは自分よりも若いD先生に出会って、自己紹介でこれまでの学習遍歴を話し合いました。読者PはA先生で2年、B先生で5年、C先生で3年の間、それぞれ学んだことを言いました。一方、D先生はI先生で5年、J先生で3年、K先生で3年学んだと言いました。J先生とK先生はとても高名で知られる先生でした。D先生はずっと学び続けてきた人で、先生方からも高く評価されて、若くしてそのまま自分も先生になったのでした。読者PもD先生も学んできた先生から互いの知の内容がおおよそ検討がついて、すぐに自分たちが近しい知の学習者であることが分かり、すぐに打ち解けました。そして、二人はとても仲の良い生涯の親友になりました。

2.大学の知と市井の知の違い
大学の知は専門細分化して、その狭い範囲の専門分野の中では非常に精緻に知が極められています。一方、市井の知は確かに専門分野はありますが、大学の知と比較すれば、その精緻さでは劣るかもしれません。なぜなら、大学ではその専門分野を仕事として、そればかり集中して研究できるからです。一方、市井の知はそういうわけにはいきませんから、どうしても精緻さでは劣ってしまいます。しかし、その一方で、大学の知は専門細分化してしまったために、全体的な知に対してはリアリティを欠如してしまっているかもしれません。自分の専門分野だけで全体を把握しようとするからです。自分の専門分野だけで世界を説明しようとしてもちょっと無理があるからです。あるいは、自分の専門分野以外の専門分野には、また、別の専門家がいて、そこでは自分の専門分野だけでは通用しないのが分かっているからです。そのため、専門分野の外へ出ようとしなくなります。タコツボ化の弊害のひとつです。それに対して市井の知はトータリティを重視します。もちろん、専門分野も重視しますが、それだけではなくて、全体として役立てられる知であるように考えます。市井の知において、誰に学んだかが重要になります。専門分野は大切ですが、専門もその人の解釈によって様々な見解が生まれます。ですが、誰に学んだかが分かれば、その固有性が明確になり、解釈の方向性やその人の知の全体性がつかめるからです。先程のたとえ話で、誰に学んだかの知の系譜が重要なのはこのためです。それから、先生というのは知の技術者であると同時に人格者でなくてはならないと思います。その先生がどのような知の技術を持っているかは、その人に就いて学ばなければ分からないかもしれません。しかし、先生が人格者かどうかは、単に人付き合いの中から察することができます。人にものを教えるという先生というのは技術も大切ですが、それ以外に人格も大切だと思います。極端なことを言えば、技術は大したものでなくても、人格が良ければ、その先生に学んで良かったと考えられるかもしれませんから。ともかく、大学の知はアカデミズムというツリー状に階層化された知の体系の中に専門分野というタコツボの中に位置づけられてしまいますが、市井の知はリゾーム状のネットワーク的な知の体系の中に先生というノードに位置づけられると思います。学習者はそのネットワークを知を求めて点々と移動してゆくのではないでしょうか。

3.何をもって満足するのか?
実はこの知のネットワーク構造は武術の世界に似ているところがあります。武術も各流派に分かれて、先生が道場主になっており、先生も若い頃に別の先生に学んで先生になったりしています。ところで、武術の先生は何をもって先生として認められるのかというと武勇伝にその根拠を求めたりします。まあ、他流試合で勝ったとかなんとかです。強いことと試合に勝つことは似ていますが、微妙に違いもあります。宮本武蔵の武者修行は強くなるための修行というよりは、自分が一番強んいんだということを示すためにあちこちで試合する旅になっています。強くなるための修行と試合に勝って強いことを示すことは違いますよね。知の探求も人から認められることや自分が先生になることが目的ではないと思います。目に見えないけれど自分の知的好奇心を満足させる知を得ることが知の探求の目的のひとつではないでしょうか。何をもって自分を満足させるかは、他人ではなく、あくまで自分自身の中にあると思います。

4.人文知の行方
大学から人文知が限りなく減らされています。でも、それは仕方ないことです。大学には税金が使われています。私学も補助金という形で税金がいくらかは使われています。社会にとって役立つ人材を養成するためだから大学に税金が使われるのです。人文知は直接的には社会に役立ちません。人文知は社会に直接役立つ専門知識ではないからです。ですので、税金に余裕があればそんな人文知に税金を使っても良いかもしれませんが、余裕がないなら、やはり、社会に有用な専門知識の学習のために税金は使うべきです。それに人文知の学習インフラはこれまでの大学での知の蓄積とネットの発達によって、どんどん手に入れやすくなっています。ウィキペディアやグーグルブックスやウィキブックスが充実すれば、著作権の切れた古典的なテキストは無料でネットで読むことができるようになります。最低限、自己学習できる環境は整います。まあ、確かに直接、先生に就いて学習するのが良いのですが、大学という枠でなくても、それは市井の知でやれなくはないと思います。なので、知は社会に直接役立たなくても、純粋に知的好奇心を満たすためだけでも良いと思います。もちろん、可能であればなにか社会に直接役立つ人文知であっても構いませんが、社会に直接役立つことを無理に目指す必要はないと思います。人間のいくつかの欲求の中のひとつである知的好奇心を満たすためだけでも良いと思います。大学には大した学習意欲もなくて単に資格を取るためだけ来る人たちもいます。ですが、市井の知には、真に学びたい人たちだけが来れば良いと思います。こう書くと堅苦しく聞こえるかもしれませんが、実際は学ぶ意欲があれば、その内実は楽しい知になると思います。大学のように学習意欲のない者を客寄せするために無理にレジャーランドにする必要はないのです。市井の知は金儲けが一番の目的ではなく、真に知を求める者たちだけが集えば良いと思います。もし、その知に満足しなければ、黙ってその先生の元を去り、別の先生のところへ学びに行けば良いのですし、また、いつまでもその先生のところに居てもいいし、ある程度、その先生で満足すれば去って行ってもいいと思います。あくまで自己の知の完成が第一の目的であって、お金や権威が目的ではないと思います。

5.その他いろいろ
知の学習において、書物による学習も大事ですが、フェイストゥフェイスの学習も大事だと思います。学校教育では、悪く言えば、権威によって上位の先生から下位の生徒へ押しつけるところがあります。例えば、教科書の読書体験と通常の個人的な読書体験の違いに表れています。教科書は絶対正しい的な押し付けがありますが、通常の読書では著者と読者の対等な対話で読者は著者に対して真理を探求する者の心として懐疑を抱くことができます。個人的な読書体験ではそういう著者と読者の対等関係を築けます。ところが、学校教育では懐疑を差し挟む余地がなく、上から下への押し付けが多くなってしまうと思います。さて、知の学習はそういった学校教育と比べると実はそれほど輪郭が明確ではありません。学校教育では先程書いたように上から下への押し付けである一方で、これは正しいとこれは間違っているなどの輪郭が明確です。ですが、知は実はそう単純には、あるいは、そう荒くは輪郭を明確にできないところがあります。そうなると、学校教育のようなスタイルでは真に知の学習を伝達することが難しくなります。そういう輪郭の明確でない微妙な知の伝達にはどうしても生徒や先生の様子やニュアンスをうかがえるフェイストゥフェイスが重要になってくると思います。なので、市井の知のフェイストゥフェイスで学べる学びの場が大切になってくると思います。それと先生はやはりある程度の期間教えられる専門分野が必要だと思います。それが範囲が広く深いほど優れた先生ということになるのかもしれません。まあ、あくまで、ひとつの尺度に過ぎませんが。ところで、最近はYouTubeで映像を見られるので講義を見ることもできますし、驚いたのはインド人がスカイプのTV電話を使ってインドに居ながら、アメリカの子供の家庭教師をしているのもありました。まあ、アメリカ人の子供の礼儀作法がなっていないのを嘆いていましたが(笑)。他にもネットに教材を用意するなど、ともかく、ネットを使った教育がどんどん浸透しているようです。中途半端になってしまいましたが、ちょっと今回はいったんここで筆を置きます。

2010年6月5日土曜日

管新首相誕生について

1.民主党代表選について
菅直人が新首相に決まった。国会での首班指名の前の民主党代表選挙で、菅が291票に対して樽床が129票と、対抗馬の樽床氏が予想外の善戦だった。どうも樽床の票は小沢グループの票らしい。どうやら小沢はまだ政界を引退しないらしい。だが、彼には後継者はいるのだろうか?小沢の政治的な目的も二大政党が達成されたのでほぼ果たされたのではないだろうか?あるいは、さらなる目標として日本の国防について変えたいのだろうか?ともかく、民主党内が反小沢と小沢グループで分裂しているかのようなマスコミの誘導があるが、政権与党になればある程度派閥に分かれるのは自然な流れだろう。

2.民主主義として必要な手続き
ただ、代表選挙は茶番であるのを嘲笑する向きもあるが、民主主義の手続きとして必要なものだ私はと思う。ただ、意外な無名の対抗馬・樽床の善戦には別の意味があったと思う。とはいえ、小沢も二大政党制を最優先するだろうから、自由党の頃のように党を割ることはないと思う。だが、少数政党が増えているのでつけ入られる隙がないとは言い切れないとは思う。

3.公明党の不気味
それにしても、首班指名で公明党の議席数が多いのには改めて驚いた。大手新聞社の広告にも出ているし、その社会的影響力の大きさにやや引いてしまう。幸福実現党もその巨大さにある意味で焦りがあるのかもしれない。いずれにしても、宗教が政治に口出しするのは好ましくない。もう今の時代は政治は信仰ではなく理性で考えるべきだ。宗教を否定するつもりはないが、宗教は団体ではなく、個人の救済であるべきではないだろうか。

4.菅直人の弱点
さて、菅直人といえば、「未納三兄弟」が思い出される(笑)。その後の四国遍路での坊主頭は意外な一面を見た思いがある。政治家としてはちょっと変わった発想だと思う。60年代的な何かヒッピー的なものを漂わせているのかもしれない。ともかく、例の「未納三兄弟」の発言にあったように失言のリスクがこの人にはある。ただ、それは管自身も分かっているようで、記者会見での発言はずいぶん慎重になっていた。また、イラ管と言われるように短気な一面もあって、短気を起こさないようにも注意していた。今までのような失敗は許されない。総理となったからには発言は慎重にならねばならない。まあ、当然のことだろう。

5.民主党のリスク
ただ、民主党にとって最も注意しなければならないのは、管政権が短期で終わってしまうことだ。もし、短命政権で終わってしまうと民主党の政権担当能力が国民に問われることになる。そのときは民主党に代わって自民党による政権交代になる可能性がある。逆にいうと、管政権時代に組閣を二度はするつもりで長期に政権運営しなければ国民の信用は得られないだろう。民主党としても組閣が二回あれば、閣僚に抜擢されるチャンスも高くなるわけだから、挙党一致で協力しやすくなるのではないだろうか。

6.管新政権の課題
そして、管政権の最大課題は何よりも経済政策だろう。国家予算の縮小と増税。それをソフトランディングするにはインフレにすることだろう。小泉政権の時の竹中平蔵のように、誰を経済政策の担当にするかだが・・・。また、増税や予算削減は国民の不満が高まる。その反発を外らすために敵が必要になる。経団連などの大企業や霞ヶ関の官僚が”敵”として標的にされるかもしれない。管には薬害エイズで見せた官僚を切り崩した厚生大臣時代の実績がある。だが、それでも日本の財政危機を乗り越えるのは至難の技だろう。国民の理解はなかなか得られないだろう。だが、税収の落ち込みは尋常ではない。今までのような規模の国家予算を続けるのはいくらなんでも無理がある。そんなことを続ければ、ギリシャの財政危機以上の、日本の経済破綻が待っているだろう。もはや日本は経済大国ではない。日本は変わらなければならない。

7.民主党内の不安要素
また、民主党内にも不安はある。小沢グループの動向だ。ただ、先にも触れたが二大政党を崩すことはないだろう。ただ、党内での権力争いは新人の育成にもなるだろう。そうなれば、かつての自民党のような層の厚みが民主党にも出てくることだろう。老兵もそう簡単に新人に席を譲ってやることもあるまい。

8.社民党の暗い将来
ところで、社民党は普天間を強調していた。だが、選挙対策だろうが、野党では意味がない。普天間が踏み絵になっては社民党の将来は暗い。社民党は沖縄県民とよく話し合って連立に参加する道を開くべきだと思う。共産党のような道を歩んでも、票は共産党に流れるし、党員も離れてゆくだろう。

9.野党の反応
それにしても、管新総理を批判する野党の舌鋒がぬるい。彼らは自分たちの主張がないのだろうか?それとも、最初ということで批判を控えているのだろうか?古い政治家は習慣的に批判がましく言っている者も中にはいたが、批判の内容が貧弱だった。そう考えれば、鳩山退陣のタイミングは良かったのかもしれない。「なぜ、この時期に辞任するのか?」と鳩山辞任の理由がいまひとつ分からなかったが、結果論だが、これで良かったのかもしれないとも思える。だが、やはり、総理大臣がこの程度の批判に耐えられず、辞任するのは政治の脆弱さとして問題だと思う。確かに普天間問題は大きな問題で決して無視できない問題ではあるが、だからといって、県外移設できなかった責任を辞任するまで責める意識は国民には無かったと思う。「移設先をどうするか、米軍基地をどうするか?」は国民にとっても、どう対処すれば良いか名案は無かったのだから。だから、やはり、鳩山辞任は鳩山個人の資質によるところが大きく、この時期の辞任は責任感の薄さや粘りの弱さであって、政治家の資質として脆弱に過ぎると思う。

10.沖縄の今後
きっこのブログを読んだ。沖縄への思いと社民党への期待が書かれていた。気持ちは分からなくはないが、罷免されても政権離脱までする必要はなかったのではないか?社民党の課題は沖縄だけではないだろう。閣僚として罷免されても政権に関わる道を取るのが、ひいては沖縄のためにもなったのではないか?米軍基地の問題は米国を相手に戦わなければならない。そのためには日米安保を見直さねばならない。それは簡単には行かない。米国との長期の交渉が必要だ。米国にとって沖縄はアジアへの戦略拠点であって、日本の安全保障などではない。当たり前だが、日本は自分で自分を守る専守防衛を当然とすべきだ。管が記者会見で沖縄の米軍基地について、「ある意味で腰を据えて取り組まねばならない」というのは、日米安保の見直し、もしくは、破棄へ向けての長期的な取り組みを考えているのではないかと思う。日本の財政難で費用負担をできないので基地を日本に返せと言えばいい(笑)。嫌なら費用負担しろと。日本を囲む軍事的情勢は決して良いものではない。中国は世界第二位の軍事費を持っているし、ロシアはかつての超大国で軍事大国だ。また、北朝鮮という乱暴で何をするか分からない国がすぐ近くにある。拉致など普通なら考えられないことで、狂気の沙汰だ。が、だからといって米国に頼るもの違うだろう。自分の国は自分で守ると考えるべきではないだろうか。誰かに頼るなどというのは何か違うのではないかと思う。それに、そもそも日本は島国で海上での小競り合いはあっても、陸続きでの陸上での国境争いはないのだから、他国と比べれば安全な方だろう。同じ島国のアイスランドも軍隊を持っていない。沖縄に対して時間はかかるけれども、いつかは米軍基地を無くすという道筋を見せるべきだと思う。永久に沖縄に基地を置き続けるというのではあまりにも沖縄の負担が大き過ぎる。そのためにも交渉のテーブルに米国をつけるべきだと思う。

11.まとめ
いずれにしろ、管新政権の課題は日本経済だと思う。財政再建と経済回復だ。だが、これは険しい道であり、日本自身が産業構造の転換など大きく変わらなければならないと思う。

12.言論と表現の自由
イルカ漁を批判した映画「ザ・コーヴ」の上映を抗議のために中止したらしい。この対応は間違っている。表現の自由や言論の自由を守るために戦うべきだと思う。批判はしても上映そのものを禁止にするのはおかしい。上映を中止しろという団体もそうだし、迷惑がかかるからと自主的に中止する映画館も間違っている。以前、日教組の集会所のホテルを右翼団体が街宣車によって抗議活動することによってホテル側から集会を中止したことがある。このホテルの対応も間違っている。言論の自由は守られるべきだ。それを妨害する者に対しては断固として戦うべきだと思う。暴力によって言論の自由が脅かされてはならない。戦うという選択肢があることを忘れてはならない。そして、自分たちの自由が脅かされるときは戦わなければならない。戦いを回避するために自由を奪われても良いというのは間違っている。言論の自由を脅かされまいとする戦いは正義が自分たちにあるのだから、戦うのが恐くとも戦うべきだ。それを見ている社会は社会正義の側に当然味方するものだ。暴力に屈して正義を曲げて悪をはびこらせてはならない。