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2013年6月22日土曜日

原紗央莉『本名、加藤まい~私がAV女優になった理由~』

 
 
原紗央莉『本名、加藤まい~私がAV女優になった理由~』を読んだ。
 

この本は2009年から2011年にかけてAV女優として活躍していた原紗央莉の自伝である。まず、最初に断っておこう。「彼女がAV女優になったのには辛い過去があって仕方なくAV女優になった」というようなお涙頂戴的な人情ばなしをこの本に期待してはいけないということだ。彼女には他人に同情してほしいというような女々しい気持ちは一切ない。そんなものに対しては彼女は怒って蹴りを入れるくらいだろう。では、この本には一体何が書かているのか?

ここに書かれているのは彼女の決意であり宣言なのだ。世界中を敵に回しても自分の足で立ち、どんなに向かい風が強くとも、たとえそれが身を切り刻む嵐であっても、まっすぐに前を見据えて突き進んでゆくという強い強い決意なのだ。しかも、「来るなら来い!受けて立つ!」といった敵に対して堂々と胸を張って生きてゆくという、まるで獅子の宣言なのだ。確かにこの本を執筆したときの彼女はたかだが21歳の小娘に過ぎない。だが、ひとの決意に年齢は関係ない。他人から見れば他愛のない理由かもしれないし、考え方も稚拙かもしれない。しかし、未熟ながらも本人がそのときどきを本気で生きて真剣に考えて下した決断なのだ。万一、間違っていたとしても、おとしまえは自分でつけるし、その覚悟は既にしてある。
そう、この決断は戦士の決断なのだ。

普通のひとは自分がAV女優であることを隠す。親にも隠すし、友だちにも隠すかもしれない。本名なんて隠して当たり前だ。本名を知られて故郷で後ろ指なんて指されたくない。何年かAV女優として働いて幾らかのまとまったお金を稼いだら、あとは引退して世間にバレないように群衆にまぎれるだけ。小賢しいと言われようがかまやしない。稼いだお金を数えながら、チョロっと舌を出してニンマリするだけ。賢く生きようではないか。普通はそう考える。ところが、原紗央莉は違う。小賢しく立ち振舞おうなんてこれっぽっちも考えない。彼女はAVで裸やセックスを人前に晒すだけではない。本名まで世間に晒す。しかも、その晒し方が尋常ではない。本にして晒す。しかも、文章の中に晒すのではない。本のタイトルという一番目につくところにデカデカと出して晒す。彼女は気でも狂ったのか?それともヤケクソなのか?もしかしてドMなのか?いや、そうではない。彼女は正気だ。しかも、とことん本気だ。彼女は自分の選択に胸を張っていたいのだと思う。陰でコソコソとAV女優をして稼ぐなんて気はサラサラない。「陰でコソコソとAV女優をしてるって?コソコソしてねぇよ!あたしの選んだ選択になんか文句あっか?」と言ってバーンと本名を叩きつけたのだ。言っておくが、これは開き直りではない。むしろ、性分だと思う。曲がったことができない、不器用と言われようがまっすぐにしか生きられない彼女の性分なのだと思う。

この性分がこの本を彼女に書かせたのだと思う。もちろん、「仕事の企画として勧められたから」というのもあるだろう。しかし、そんなものはあくまで表面的な事象に過ぎない。彼女の心の中で執筆へと突き動かしたものはもっと別で、それは個人的な動機からだと思う。では、その個人的な動機とは何なのか?それには「この本は誰に向けて書かれたのか?」について考えてみる必要がある。まず、この本は誰かに分かってもらいたいという気持ちで書かれたものではないと思う。おそらく、自分自身に向けて自分自身のためだけに書かれたものだと思う。では、いったい彼女は自分に対して何が言いたかったのか?そして、何をしたかったのだろうか?それを解き明かすには、彼女の置かれた状況について考えなければならない。彼女もAVという仕事が世間でどのように評価され、AV女優が世間からどういう目で見られるかは十分に知っている。それなのになぜ本名を晒してまでこのような本を書いたのか?下手をすれば、AV女優というレッテルが一生ついてまわるかもしれない危険があるのに。なぜか?それは「自分にウソをついて生きていけるだろうか?」という問いにすべてが集約されていると思う。そう自分に問うたときの彼女の答えは”否”だと思う。「自分が自分にウソをついて生きていくことはできない。そんなことをすれば自分の意思に自分が飲み込まれてしまう」と感じ取ったのではないかと思う。「自分の意思に自分が飲み込まれてしまう」とはどういうことか?これを説明することは少々難しい。私たちの人格を構成している要素は言語で、人格は言語で構成されたOSのようなものだと思う。だが、OSは心の表層に過ぎない。心にはもっと奥がある。それは無意識のことを言っているのか?いや、無意識よりももっと深層だ。心の最深部には未だコトバにならない意思のうねりのようなものがある。あるいは、言い方を変えれば精神のエネルギー、魂のマグマといったようなものがあると思う。それは私たち生物を創造的進化に促すものと同じであり、ベルクソンのいう精神のエネルギーそのものだと思う。その精神のエネルギーが自分自身である人格と対立してぶつかったとき、大波が小舟を粉々に叩き潰してしまうように意思のうねりがちっぽけな人格を破壊してしまうのだと思う。おそらく、彼女は本能的にそれを感知したのだと思う。では、どうすれば自らが自らを破壊せずに生きられるのか?答えは1つしかない。つまり、人格と精神エネルギーが一致するしかないのだ。もし、心と魂が一致していれば、たとえたった一人で世界中を敵に回しても負ける気はしない、おそらく、そのように感じ取ったのではないかと思う。その意思の顕れとして打ち立てられたのがこの本というモニュメントだと思う。そう、この本はモニュメントなのだ。彼女の意思が結晶したモニュメントなのだ。彼女の人格とエネルギーを一致させるためにモニュメントが必要だったのだ。

私が感動するのは彼女の意思の強さだ。といっても世間一般にいわれる意思の強さではない。自らをも灼き尽くすかもしれないほど強力な生命のエネルギーに感動するのだ。世界中を向こうにまわしても勝てると思わせる強力な意思力。何ごとも直接的でかつ不器用で、ときにはあっけないほどに忍耐力もなさそうだけれど、何者の力が掛かっても動かしがだい底力というか、まるで恒星のような存在力のある人間、それが原紗央莉だと思う。現代は情報化社会が進むにつれて人々は知的になった一方で、どんどん小賢しくなったとも言える。みんな、小粒になってしまい、野性味は失われ、かつては燃えるようだった生命力も穏やかな蛍光灯のような弱々しい光に変わってしまった。そんなときに現れたのが原紗央莉だった。彼女はセックスの女王というよりはむしろセックスの虎だ。そして、ガツンと一発世間の男どもにパンチを喰らわす。

「あたしがAV女優原紗央莉だ!文句あっか?」

2013年6月21日金曜日

ラリー・カハナー『AK-47 世界を変えた銃』 


かの有名な突撃銃AK-47について書かれた本です。

目次
第1章 祖国を守る
第2章 AKとM16の対応パート1
第3章 パンドラの箱
第4章 アフリカのクレジットカード
第5章 ラテン・アメリカのカラシニコフ文化
第6章 アメリカを訪れたカラシニコフと彼の銃
第7章 国連も認めたほんとうの大量破壊兵器
第8章 AKとM16の対決パート2
第9章 AKをもう一度売り込む
エピローグ AK最後の?日
     



私はガンマニアでもミリタリーファンでもなく、通常のライフルとアサルトライフル(突撃銃)の違いさえ知らなかったので大変参考になりました。AK-47についてはさいとう・たかをの漫画『ゴルゴ13』ではしばしばゴルゴの持つM-16とこのAK-47が対決する話があるので名前は知っていましたが・・・。

AK-47Ⅱ型
※バナナ型の弾倉が見た目の特徴なんでしょうね。

さて、AK-47の特徴としては、よく知られた事実ですがAK-47は劣悪な環境にあってもメンテナンスを必要とすることなく、すぐに実戦に使えるというのが大きな魅力です。例えば長期間に渡って泥沼の中に埋まっていてもそのまま弾倉を装填すれば撃つことができるそうです。米国のM16ではそうはいきません。M16はメンテナンスを必要とし、劣悪な環境下では故障を起こしやすいそうです。ベトナムなど過酷な条件ではたいへん扱いにくいようです。

なぜそのような違いが生じるのかというとAK-47は構造がとてもシンプルだからだそうです。真理がシンプルなものであるのと似ていますね。それだけ合理的にできていると見ることもできると思います。そのため操作も簡単なようで少年兵でも1時間も訓練すればすぐにAK-47を撃つことができるようになるそうです。ですので、少々手荒に扱っても壊れないしメンテナンスも必要としない、操作も簡単で誰でもすぐに使えるということで非常に重宝されたようです。さらに使うものにとっての利点はAK-47の価格がとても安いことです。安いので誰もが簡単に大量に購入することができるそうです。

そのため、AK-47は様々な戦場で活躍してきました。ベトナム、アフリカ、中南米、アフガニスタン・・・。この本では世界各国でAK-47が使われた歴史を負っているので、近代の戦争・紛争の歴史も同時に追うことができます。まあ、逆に言えば、それだけAK-47が頻繁に使われてきたということなのでしょう。驚いたことに国によっては国旗にAK-47のシルエットを入れているところもあるくらいです。

この本ではAK-47の生みの親についてもその生涯を追跡しています。AK-47の設計者ミハイル・カラシニコフは第二次世界大戦でナチスドイツと戦って負傷し、ナチスに負けないライフルを開発して祖国ソ連を守ろうと決意して生まれたのがAK-47だったそうです。彼は元々は銃の設計について専門の教育を受けたわけではなくて、いわゆるたたき上げで銃の設計に携わるようになったそうです。そのため、予備知識がなかったのが幸いして先入観にとらわれることなく合理的に銃を開発できたのではないでしょうか。また、他の銃からもその優れた点をどんどん取り入れたそうです。専門教育を受けたわけではないので、他からどんどん良いところは取り入れようという一種の謙虚さだったのだと思います。そうやって開発されたのがAK-47です。彼は祖国に貢献したい一心だったので開発した当時はまったく金儲けには興味が無かったそうです。ところが、冷戦が終焉してアメリカに招かれてM16の開発者であるユージン・ストナーに会ってみるとM16のライセンス料で大金持ちになっているのを見て大変驚きます。M16が1丁売れるごとに1ドルがストナーに入るそうです。凄い契約ですね。一方、カラシニコフですが、彼にとって残念だったのはAK-47はすでに共産圏の国に無償で製造方法についても提供されていたので彼には一銭もお金が入らなかったそうです。しかし、AK-47の普及のおかげでカラシニコフの名前も有名になり、ウィスキーの名前にカラシニコフと付けたりしてちょっとした商売にしたそうです。それだけAK-47が世界的に普及したということでしょうね。

この本を読んで知ったものにTV映画『44ミニッツ』があります。実際にロサンゼルスであった銀行強盗を元にした映画なのですが、たった二人の犯人たちがAK-47を持っていて数十人の警官と撃ち合いになったのですが、警官の装備している銃では歯が立たなかったという恐ろしい話です。突撃銃の破壊力や有効性がこの映画を見るとよく分かります。

拳銃や散弾銃とは違って一定の距離をとった間での戦闘では突撃銃はとても有効な武器なのでしょう。ただ、もっと遠距離の狙撃になるとライフルの方が有効なのではないでしょうか。私は専門家ではないので間違っているかもしれませんが。

米国では銃による事件が跡を絶ちません。早く銃規制をすればいいのにと思うのですが、全米ライフル協会などの団体がそれを許さないのでしょう。2013年4月に銃規制強化の法案が否決されたとき、オバマ大統領は強い口調で「恥ずべき日だ」と非難しました。私も同感です。そんな米国ですが、銃規制を描いた名作映画に『ニューオーリンズ・トライアル』があります。ジャンルは法廷ものですが、とても参考になると思います。


2013年6月20日木曜日

フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(訳:村上春樹)

 
 
ちょっと前に読んだ小説ですが、最近、レオナルド・ディカプリオ主演で映画が公開されたようですので感想を書いておこうと思います。それはスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』です。ちなみに読んだのは村上春樹訳の方です。


私自身は『グレート・ギャツビー』は有名なので名前は知っていましたが、あらすじとかを読んでみたのですが、あまり興味が持てなくて読んでいませんでした。さらに後に村上春樹が名作だと言っているいうことで読まなくちゃいけないかなあという気持ちになったりしたのですが、それでも読んでいませんでした。それからさらにウィキペディアで解説を読むと「英語で書かれた20世紀最高の小説で2位」と書かれてあったのでますます読まなくちゃという気になり、とうとう本を購入したのですが、それから随分長い間積読になってしまい、ようやく最近になって読んだというのが実情です。

さて、「読んだ感想は?」と言うと「小説のいわんとすることは分かるけど、しかし、世間で言われるほど高く評価されるほどの小説だろうか?」というのが正直な私の評価です。世間の評価というのは案外あてにならないなあというのが率直な感想です。ただ、私自身が気づいていない良さがあるのかもしれないという一抹の不安も少しありますが・・・。


さて、ストーリーはとてもシンプルで、貧しい青年ギャッツビーが好きな女性デイジーのハートを射止めるために無理して金持ちに成り上がるのですが、デイジーたちが住むハイソサエティーな連中との間に育ちの違いからギャップが生じるといった感じです。結局、ギャッツビーの夢は叶えられずに挫折するのですが、そのギャッツビーを傍らで見ていた友人のニックがギャッツビーの純愛に感動しつつ、ハイソサエティーに対して厭世観というか達観みたいなものを得て、デイジーたちの見せかけだけのハイソサエティーを捨て去るというような話です。

この物語の重要な点は2つあって、1つは金持ちたちに対する批判、もう1つはニックの得た達観です。金持ち批判については当時のアメリカ社会を知っていることが大事でそこまでに至る歴史と当時の状況というのを知っていないとこの金持ち批判はいまひとつ伝わってこないのではないかと思います。それから、もう一方の重要なポイントである達観ですが、これはフィッツジェラルドの後の世代で流行ったサリンジャーなどに代表される超絶主義に通じるものがあるのだと思います。いや、超絶主義までいくと行き過ぎになってしまうかもしれません。村上春樹などは適度な距離感を大事にしているのだと思いますから、超絶主義のようにあまり世間から乖離してしまうのも彼のリアリズムに反するのだと思います。程良い距離感。それが村上春樹の表面的なオシャレさだったり、深層におけるリアリズムだったりするのだと思います。

この作品はロシア文学のような深い感動を得られるという物語ではありません。しかし、作品の舞台が1920年代のちょっと古いアメリカですが、現代の社会に対しても十分に通じる世界観とかニヒリズム的な態度やクールなリアリズムがあるのだと思います。読後にクールな余韻が残るのがこの作品の魅力なんでしょうね。


『グレート・ギャツビー』をより深く理解するためには当時のアメリカ社会を知っておいた方が良いので、下記にアメリカ社会を知るための参考文献を挙げておきます。いずれも資本主義やアメリカ社会を考える上でとても参考になる本だと思います。