2010年5月1日土曜日

坂上秋成『文芸時評5月号』(週刊読書人)を読む

週刊読書人連載の坂上秋成の文芸時評(5月)を読んだ。以下、その感想を書こうと思います。


1.私小説からブログへ
まず、坂上が言うにはネットの普及で<私>の社会的機能が低下したそうで、私小説という技法が通用しなくなってきたらしい。ネットの不特定多数の刹那的なコミュニケーションによって<私>がかき消され、匿名的集団的な声に圧倒されるという趣旨らしい。坂上のいうネットって、ツイッターや2ちゃんのことではないだろうか?私は別の意味で確かにネットの普及によって私小説は難しくなったとは思う。それは何かと言うとブログだ。例えば、性的マイノリティたちのブログは大きな社会的反響を呼び、彼らの社会的な認知度を高めたと思う。ブログには彼らの内面が吐露されている。ブログは日本では日記として扱われることが多い。日記はれっきとした私小説のひとつと言えると思う。ブログにああも細かく個人の内面を吐露してしまっては、わざわざ文芸誌の私小説を買うのももったいなく感じてしまう人もいると思う。日本での初期のブログの普及はそれこそ、そういった私小説的な読み、ちょっとエキセントリックな個人のプライベートを読む楽しみではなかったか?そういう意味で私小説としてはブログに大きく侵食されたと思う。ところで、日記文学の伝統というのがある。古くは土佐日記や更級日記、近代でも永井荷風の『断腸亭日乗』や石川啄木の『ローマ字日記』がある。中には自宅と愛人宅で別々に日記を書いていた文人もいる(笑)。しかし、考えてみれば、日記は誰にも見せられない内面の吐露だったのに、今ではブログとして世界中に公開しているのだから、世の中も変わったものだ。<私>というものの概念が変わりはじめたのかもしれないが、でも、たぶん、今のところ、そうではないと思う。

2.私の埋没と精神構造の変化?
坂上秋成の文芸時評に戻ろう。文章の構成はよく整理されて読みやすくなったと感じた。ただ、取り上げている作品が、まあ、順当なのかもしれないが、意外性がなく、若いのにどこか先達に媚びているように感じられなくもなかった。いや、まあ、単に作品が良かったのかもしれないから、これは分からない。ただ、最後の結びに関しては疑問に感じる。「<私>の内面そのものが時代遅れの概念として処理されるのみ」とあるが、ちょっと「?」である。いや、その前の文章から疑問なのだが。どうも、よく分からないが、大勢の声に自分の声が埋もれることによって、私が埋没してしまうことを言っているのかもしれない。話は変わるが、ツイッターの使い方は日本人も外国人(米国人)も同じなのだろうか?例えば、フォローしている人物の人数などは日本人も外人も同じだろうか?実は日本人はフォローしている人数が異様に多いのではないかと感じることがある。実際に統計を取ったわけではないから実際の所は分からないが。以前、富野由悠季が「今どきの若者は友人の数が多過ぎる」といって「そんなのは友人とは言わない!」と怒っていたことがあった。同じ志を持つ親友は本当は得難いものだ。再び話は変わるが、以前、TVのインタビューで「茶髪にすることによって自分が軽くなる」といっていた一般人がいた。「ああ、なるほど」と当時は思った。今、もし、大勢の声に埋没する自分を感じていて、そこに自分が消えていくように感じているのだとしたら、それはその茶髪の軽さと似ていると思う。いや、似ているのではないかと思う。もちろん、それとは違う面もあるかもしれない。だが、おおむね、似たような方向にあるのではないだろうか。そうそう思い出した。昔見た大人と若者の対話番組で特徴的だったのが、大人は「俺はこう思う」と力説しているのに対して、若者は「普通はこう思う」と言っていた。何が言いたいかというと、案外、大人の方が自己主張があって、若者の方が波風を立てない当たり障りのない普通を目指していたことだった。世代論的には団塊の世代は大勢の中で目立つためには自己主張が強くなったという論もあるだろうけど、それでも若者にどこか窮屈さを感じたのもあった。話がとんでもなくズレてしまった。ともかく、ネットの大勢の声も金太郎飴の如く、割と誰も同じに感じられることがある。←あ、若者の場合ね。言ってみれば、無個性に感じられる。いや、別に「無理して個性的にしろ」というつもりはない。ただ、それでも規格のように、皆、同じに感じてしまう。ある意味、教育の成果なのかもしれない。よく分からないのだが、「今どきの若者は孤独だなあ」と感じるときがある。だが、その一方で「今どきの若者は孤独に対する耐性が無いなあ」と感じるときもある。心の構造自体は今も昔も変わっていないだろう。でも、何か変わったんだろうなと感じるときがある。携帯やネットが普及し始めたときに、それは感じていた。何かがそっちの方へ流れ込み始めたと。不思議な言い方になるが、ネットに繋がることによって人は孤独ではなくなったんだが、彼らの心の内はずっと孤独になったと感じる。ATフィールドの範囲とか周波数とか色調とかが変わったんじゃないかと(笑)いや、まあ、男っていうのは戦って強くなるから、本当は戦わなくちゃいけないんだが、今の若者はどうもそれをスルーできてしまう仕組みがあって、結局、個として強くならないんじゃないだろうか?ただし、女性は違って、女性は日常生活で強くなる。そのため男よりも大人だったりする。だんだん、話が逸れてしまった・・・。ともかく、「時代遅れの<私>がネットの出現で、最新の<私>にアップデートされて良くなった」とは思えない。むしろ、その逆だ。だから、変わったのだとしても、あまり好ましくない方向に変わったと思う。そういう意味で坂上の結びの言葉には疑問を差し挟むこととする。

3.文学脳とSF的感性
ついでに、坂上のITツールに関する感性はやはり文学脳ではないかと感じる。いや、実生活ではITツールも今どきの若者よろしく器用に使いこなしているんじゃないかと思うのだが、いざ、文章にすると、文学部的な言葉の雰囲気に引っ張られて、文学脳的なITツールの捉え方になってしまうのだと思う。でも、それではSF文学をポジティブに評するには、SF的、理系的感性に欠けていると言わざるをえないだろう。それでは、まともにSFを論じることができないのではないか?支障をきたすのではないか?ITツールの延長にドラえもんや鉄腕アトムを考えてみればいい。ドラえもんや鉄腕アトムに「君たちは非人間だ。機械に過ぎない」と面と向かっていえるだろうか(笑)←いや、ちょっと悪ふざけが過ぎるか。ともかく、「道具はお友達」や「道具は手足の延長」くらいに考えた方がいい。神話にだって、そのとき、登場した新しい道具をけっこう大切に描いている。もっと、ポジティブになれないだろうか。もちろん、全肯定しろというわけではない。だが、どうも・・・。コホン。この辺でやめておこう。ちょっとまとめたかったが、ダラダラと書き流しすぎた。あ、それと坂上のいうネットは日本の中だけのネットに過ぎない。日本のネット文化は他国と比べてちょっと特殊だということを頭の片隅に置いておいた方がいいと思う。まあ、アジア圏は日本に似ているのかもしれないが。

とまあ、そんなわけで坂上秋成の書いた文芸時評でこんなにたくさんツイートしてしまった。きっと坂上君の時評が私をインスパイアしてくれたのだろう。そういう意味では有意義な時評であったと思う。感謝である。