2010年5月4日火曜日

『ゲーデル的脱構築』について

ネットを散見していたら、2、3日前からゲーデルが話題になっていたみたい。「ゲーデル的脱構築」とかが俎上に上がっていた。私の記憶では、当時でもおおむねスルーされたような気がする。ただし、それでも気持ちだけは分かるから、それをどう繋げるかをみんなで思案していたんじゃないかと思う。

ゲーデルの不完全性定理については自己言及型パラドックスによって感覚的な理解がしやすいと思う。また、対角線論法による説明でも昨今は理解しやすくなったと思う。そもそも不完全性定理のおおよそ意味するところを理解しているからこそ、グレッグ・イーガンのSF小説が面白いと感じるのでは。

ソーカル事件に過剰反応し過ぎだと私は思う。もっと自由に科学から概念を借用して使っていいと思う。確かに詭弁に利用されたり、誤用するリスクはあるのだけど、そのリスクを避けるために、思考の自由をそぎ落としてしまうのは、やはり、もったいないと思う。真偽・真贋はある程度自己責任で判断。

また、科学は仮説を立てて試行錯誤するのだから、そこには失敗が数多く含まれている。見方を変えれば、ニセ科学は失敗を成功と勘違いしているとも言えるかもしれない。とにかく、科学を真理だけだと崇拝するのはちょっと違うと思う。

科学者の頭の中では、1つの正しい仮説の前に99の間違った仮説があったかもしれない。「科学は絶対に正しい」的な感覚はその1つの正しい仮説の部分しか見ていないかもしれない。それは氷山の一角で、その下には99の間違った仮説があったかもしれないのだ。科学者の方が平気で間違ったことを言う。

ゲーデルが神の存在を云々することは特に不思議ではない。それは存在論だからだ。物理学などはもろに存在論だろう。哲学は存在論を構築できなかった。神学は神概念で存在論を構築したが、人々の中で「神が死んだ」感覚では意味を為さなかった。

世界の4大論理学者にゲーデルの他にアリストテレス、フレーゲ、タルスキがいる。タルスキはポーランドの数学者だ。ゲーデルはオーストリア出身でウィーン学団と関わりがある。一方、タルスキはポーランド数学に属する。拙コラムを参照のことhttp://www.neoaca.com/column

万が一、勘違いするかもしれないから言っておくと、「ゲーデル」と「ゲーデル的脱構築」は分けて考えないといけない。で、「ゲーデル的脱構築」は、まあ、雰囲気的な言葉であって、そこに深い意味を求めても仕方ない。そこに意味が無いと知って怒るのも分からないでもないが、やや不粋ではある。

「数学を形式的に矛盾のない体系にする」というヒルベルトの試みがあったのだが、ゲーデルの不完全性定理によって数学の無矛盾の体系化は不可能であることが分かった。不完全性定理に従えば、数学は不完全なのだ。これは「数学には矛盾がない」という世界観に対してコペルニクス的転回を迫られた。

つまり、「数学は矛盾がない完全な体系」ではなく、「数学は、それ自身では無矛盾を示せない不完全な体系である」という大きな数学観の転換を迫られた。

次に、脱構築だが、脱構築とは何かというとテキストの読み替えだ。あるテキストは、通常、Aという内容に読める。しかし、脱構築(あるいは誤読)するとBという内容に読めてしまう(あるいは読んでしまう)。そのとき、場合によっては、Aだと思っていたのが、反対の反Aに読めてしまうものもある。

それが先程の「数学は無矛盾で完全だと思っていたのが、実はそうではなくて不完全だった」という不完全性定理に脱構築が似ているように感じてしまう原因だと思う。脱構築はAをAとは違うBと読み替える作業だけど、たまにAと反対の反Aと読める場合もあるということ。←とても荒っぽく言えば、だが。

良い例が思い浮かばないけど、脱構築じゃなくて誤読で言えば「情けは人のためならず」という言葉がある。本来は「情けは人のためになるから、人に情けをかけなさい」という意味だった。ところが、誤読して「情けをかけると人は怠けるので、人に情けをかけるのは良くない」という反対の意味に捉えられた

「ゲーデル的脱構築」とは、まあ、今、言ったようなそんなニュアンスが含まれている。ただし、別の捉え方も可能なんだけど、それは割愛する。いずれにしても、「ゲーデル的脱構築」というのは、あまり深い意味のない言葉で掘り下げても仕方がない言葉だと思う。

当時はまだ分かり易いテキストもなく、ゲーデルは難解だったから、柄谷が曖昧な意味で、かつ不正確な表現で「ゲーデル的」と使ってしまったとしても、あまり責める気にはなれない。たぶん、当時もそれを承知で話半分で聞いていた人もけっこういたと思う。真面目に悩んだ人もいたかもしれないが(笑)。

ちなみに、「脱構築」はDeconstructionである。一方、似た単語にDestructionがある。これは「破壊」である。というわけで、手前味噌ですが(笑)、こちら、破壊哲学もよろしく!→http://www.neoaca.com/

追記

東浩紀がGW頃からツイッターで話題になっている「ゲーデル的」について言及していた。まあ、おおむね、氏の言っていることが分かる。私が5月4日に言及したことと同じような感じだと思う。今回、話題の流れを傍観していて思ったのは、意味の継承がなされず、途中で断絶しているということだ。

いくつかの原因がある。意味が断絶してしまったこととソーカル事件の影響がある。しかし、ソーカル事件はもったいないことをしていると思う。思考の自由を自ら奪ってしまっていると思うからだ。ちょっと危うい理解で使っても良いと思うし、その方が却ってニセ科学などに対する警戒心を高めると思う。

意味の断絶が問題。たぶん、東浩紀自身、まだ、一読者だった頃から感じていたことではないかと思う。断絶は90年代半ば頃にはすでに始まっていたと思う。←ちょっと時期を特定するのは自信がないが。それがネットによってはっきりとさらけ出されたと思う。全然、伝わっていなかった、・・・と。

ゼロアカのときに「文学の全体性の回復」みたいな話になっていたと思うが、それとも少し関係してくると思う。意味の断絶を修復して、再び、全体性を回復するというのがあると思う。実は『神話を考える』を読んでいても、意味が断絶しているのをちょっと感じていた。

まあ、私が歳をとって単に過去の事情を少し知っているだけなんだが(笑)。今の若者たちが過去の経緯を知らないのを単に無知と言ってしまうのも、ちょっと酷な気もする。それなりに長い歴史があって、それを若者に知ってて当然というのもちょっと可哀想かなという気がしないでもない。

だが、大きな断絶があって、まるで過去と現在が別世界になってしまっているのには戸惑ってしまう。しかも、あらぬ方向に話が進んでいく。まあ、それを「新しい」と言うのかもしれないが。でも、それを進歩とは思えない。歴史の勉強が必要ではないだろうか。でも、解釈の違いが出てくるんだろうなあ。

昨日、「スコラ坂本龍一の音楽学校」という番組をNHKでやっていた。「若い芽を摘む会」の会長を自認していた坂本龍一が教育に熱心だったのには、皮肉ではなしに感動した。これも意味の継承に努めていると言えると思う。それにしてもミュージシャンは音楽が楽しそうで羨ましい。

あ。「若い芽を摘む会会長」と言っても、要は「厳しい師匠」という意味で、それは後進の育成に熱心だということと同意なので、現在、教育熱心なのと矛盾はしない。スラムダンクの安西監督が「白髪鬼だったのが、優しくなった」みたいなものだと思う。それにしても、教授はカッコいいと思ってしまう。

こんなことを言うと怒られちゃうかもしれないけれど、今の若者は現代アートを云々する前に、現代アートを理解する素地ができていないんじゃないかと思う。近代人のような古いモダンな素地(足場)があって、現代アートを受け止められるのではないかと感じられる。若者はポストモダンなのでそれがない。

『神話が考える』のモダンとポストモダンの区分けに相当するのかもしれない。もう少し、意味の断絶も含めて、その辺りを突っ込んだレビューを書き加える必要があるかな。あ。『神話が考える』の現時点の感想はこちら。http://www.neoaca.com/review


ゲーデルの話題で意味の断絶の話をしたけれど、これはゲーデルの話題に限らず、多くの分野に及んでいると思う。上の世代から今の若者に継承されずに断絶したものは多い。ちょっと気になるのは、メディアに対する不信がある。今の若者はメディアに対する不信があるが、普通の人もいるが、極端な人も多い

ネットが普及したことによって、新聞やテレビなどの従来のマスメディアに対する不信が声高に言われた。これは批判だから、まあ、別に良いのだけれど、効果が効きすぎて、本当に従来のマスメディアをまったく信用しなくなっている人が出はじめている。それはちょっと違うと思う。

「これは絶対に真実しか言わないメディア」「あそこは全部ウソしか言わないメディア」と極端に分けるのではなく、自分自身で判断して疑わしいとグレーに判断した方がいいと思う。確かにメディアによって偏りがある。だから、その偏りを承知していれば、差し引いて考えればいいのではないかと思う。

例えば、Newsweekなんて保守寄りだったと思う。競合はTIMEだったんじゃないかな?斬新な内容も多いけど、眉唾の怪しげな記事も平気でもっともらしく載せていた。そういうのを承知して自分で判断すればいいと思う。そして、自分だけでは確実な判断はできないのだから、あくまで疑うだけだ。

できたら、2つの相反する記事にあたる方が全体を俯瞰しやすい。昔なら右と左の両方を見れば、大体、分かりやすかったと思う。まあ、読売新聞と朝日新聞の両方を見るようなものかもしれない。それぞれ傾向(偏り)がある。ところが、どちらかを絶対に正しいと思い込んでしまうと偏って不正確になるかも

だが、ときに決断を迫られるときには両方を選択できないので、1つの行動を選ばなけれならない。そのときにはそれまで積み重ねた経験を総合して判断すればいいと思う。ずいぶん、当たり前のことを書いていると思う。ところが、昨今、良識派や穏健派というのが言論から見られなくなったと感じる。

東西冷戦が終結してグローバリズムが進行したとき、日本は新しい将来像を立てるべきだったが、それができなかった。旧来の体制が強固だったのもあるし、新しい将来像を定めることができなかったのもある。いま、中国に追い抜かれて、はじめて自分たちが足踏みしていたことを実感しているのではないか?

上の世代は旧来の思考を引きずったまま新しいモデルを持てなかった。そのため、言論な中身は停滞した。一方、若者はそんな空疎な言論と実際の現実のズレを見て、言論が無意味で不要だと思ってしまった。言論と現実がリンクしていないとき、言論なんて不要だと思ってしまったのではないか。

そして、将来像を見失った言論はモデルがないため迷走して良識を失っていったのかもしれない。言論が連続性を持っていれば、なだらかな繋がりが保たれるだろうから、良識派や穏健派が残ったのかもしれないが、今やそれは見当たらない。念のためだが、保守は名前こそ保守だが別に良識と関係ない。

ちょと話が長くなりすぎた・・・。ともかく、これ以上の断絶を防ぎ、良識を取り戻すべきだと思う。もちろん、個人は自由で良いのだから、別に良識とやらに囚われる必要はないし、良識に縛るようなことがあってはならない。だが、社会の中にまったく良識派が存在しないのも、いささか問題だと思う。


ゲーデルの不完全性定理の一般的な理解は自己言及型パラドックスで良いと思う。例の「『クレタ人は嘘つきだ』とクレタ人は言った」というやつ。もし、このクレタ人が言ったことが本当なら、『』内は真実になるので、その結果、クレタ人は嘘つきだという結論になる。が、それだと言った人は嘘つきで矛盾

また、クレタ人が嘘つきだとすると、このクレタ人が言っていることも嘘になるので、『』内の話は嘘になるから、結果、クレタ人は正直者という結論になる。しかし、それだと最初のクレタ人は嘘つきだという前提と矛盾してしまう。こういうのを自己言及型パラドックスという。

自分自身で自分が矛盾していないことを証明できないというのが、なんとな~く分かるような気がしませんか?この自分である定理をpとすると、pが矛盾していないことを証明するにはpを含む、より大きな定理が必要になる、らしいです。「クレタ人は嘘つき」だの喩え話の場合は人間を持ってくるのかな?

でも、pより大きな定理をqとしても、そのqが自己矛盾していないのを証明するためには、qよりももっと大きな定理を持ってこなければならない。こうなると、延々とp<・・・と続いてゆく。すると、最後には「数学には数学自身が無矛盾であることを証明できない」ということになる。

だいたい、こんな感じが一般的な理解だったんじゃないかと思う。ウィキを見ると自己言及型パラドックスを使って不完全性定理を説明することをちょっと否定的に書いてある。ただ、これは日本で最初に不完全性定理がポピュラーになったときも言われたことだと思う。でも、一般的にはこの理解で良いと思う

でも、ちょっと自信はない(笑)。間違っているかもしれない(笑)。私はおおざっぱだし、あまり頭が良い方ではない。むしろ、悪い方に入る。実はネオアカのブックレビューを加筆したんだけど、そのとき、本文をちょっと読み直したら、稚拙な文章で恥ずかしくなった。