2010年5月18日火曜日

福嶋亮大×浅田彰「『神話が考える』をめぐって」

昨日、京都造形大で福嶋亮大さんの『神話が考える』の講演があり、浅田彰さんとも対談されたようです。

右のURLはまとめ記事です。 http://togetter.com/li/21816

これを元に少し感想を述べてみます。

『神話が考える』では事実性や近接性を出すために、作品においていろいろな工夫がされているのですが、それは置いといて(笑)、まず、「事実性」は「事実らしさ」であって「事実」ではないということは注意しなければいけないと思います。それが分かっているという前提でちょっと話します。

浅田彰が「クールな学会発表にしたい」と言って「モダニズムのクールさにこだわりたい」と言ったのは、この『神話が考える』に対するひとつの浅田のスタンスとして意味があると思います。要は、例の4象限の図ですが、浅田はモダンの側に立つということを言っているのだと思います。浅田がこの4象限図を見て、エリート主義的な設計といったのは、極端に言えば、「エリートが愚民をコントロールする」といった類の考えをこの4象限から嗅ぎとったからだと思います。これは、極端に喩えれば、建国神話で大衆をコントロールするといったものでしょうか。『精霊の守り人』みたいな。そういう見方をすれば、福嶋の小さな神話が人々に意味を与えるというのも、建国神話がある昔から行われていたと言えると思います。でも、ヘロドトスから始まる歴史は神話のようなフィクションではなく、事実に基づいた史実を残そうとしたので、今から神話に向かうのは逆行ではないかと思います。

また、福嶋は本の中でリベラル民主主義が唯一の社会体制であることを前提としていますが、果たして本当にそうなのかという疑問もあります。実際、多くの異なる社会体制が世界にはあるわけですし、リベラル民主主義も今後私たちが思っているようなものとは違ったものになる可能性もあると思います。その福嶋の大前提に疑義を呈したのが、浅田の最後の発言「歴史が終わったのか、ポモは正しいのかとガチでやるべきだったのかもしれない」という言葉だと思います。そんなこと、浅田彰に言われたら、ビビっちゃいますよね(笑)。

神話と歴史をフィクションとノンフィクションと見れば、真正性が浮かび上がってきます。昨今の「アウシュビッツや南京事件は無かった」とする一部の見方なども関わってくるのではと思います。『神話が考える』とレヴィ=ストロース繋がりですが、小田亮さんが真正性について語っていたと思います。

小田亮さんのサイト→http://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/index.html

印象に残った言葉としては福嶋の「半分穴が空いている現実」や「半現実」という言葉。これについては拙論http://www.neoaca.com/reviewを参照していただければと思います。また、浅田の「世界が悪い場所になっている」という言葉。確かにそうで、看過できないと思いつつもどうにも出来ないという難しさがあります。