2010年5月30日日曜日

社民党の政権離脱について

1.もし、朝鮮半島で有事が起これば・・・
社民党は政権離脱したのか・・・。う~ん、福島党首の道理は分からなくはないが・・・。だが、もし、いったん朝鮮半島で紛争が起これば、実際に現実的な米軍の抑止力の有る無しは別にして、米軍基地を高く評価する論調が占めるだろう。そうなれば、本土の日本国民は沖縄の米軍基地を是と考えることになるかもしれない。

2.社民党には沖縄という踏み絵が出来てしまった・・・
また、社民党は今回の件で沖縄の踏み絵が出来てしまったために、今後、連立政権に組み入れられる可能性が極めて低くなる。自民党はもとより民主党とも連立政権を組めなくなる。つまり、今後、半永久的に政権に関わることがなくなるかもしれない。社民党は再び消滅の危機に見舞われることになるのではないだろうか?

3.沖縄県民の思い
また、沖縄県民は社民党の政権離脱をどう考えるだろうか?もはや民主党には頼れないし、自民党は論外だ。琉球王国の頃のように独立でもするしかないが、基地があるのに独立できるはずもない。社民党に頼っても政権を担当できないのなら意味はない。そうなると沖縄に希望はなくなる・・・。沖縄県民は社民党の政権離脱を望んだのだろうか?

4.名と実
確かに社民党にとって政権離脱はリスクが高いとはいえ、党是の政策で沖縄を守れないのであれば、「何のための政党か?!」ということになり、「政権離脱も止むなし!」という考えとも言える。だが、連立政権内から沖縄の政策に口出しするのと、野党の立場から口出しするのでは重みが違う。閣僚を辞任して連立政権にとどまって政策に社民党の意見を反映するという、名より実もあったのではないか?

5.今後の社民党
沖縄の件で社民党がどんなに人気を得たとしても、今後、社民党が全国的に激増することはありえないだろう。むしろ、政権離脱は万年野党の無力さに逆戻りするものであり、支持者からの失望を買うのではないだろうか?もし、社民党が政権担当能力のない、単なる不平分子の吸収剤という役割なら、それも良いだろうが・・・。もともと社民党は政権に大した期待はなかったのかもしれない。元々、少数野党であり、数は僅かだが堅実な支持者によって支えられていた。再び、万年野党として、実に非力だが、その役割を果たすことで少数の支持者の満足を得るのかもしれない。そのことによって少数だが存続できるのかもしれない。だが、政権を取れる可能性のない政党に投票する国民は少ない。

2010年5月29日土曜日

日本の財政危機

1.日本の財政危機
朝からあまり良い話ではないが、そう遠くない未来に日本は未曾有の経済危機に見舞われる可能性が出てきたと思う。ギリシャの財政危機は他人事ではない。いや、ギリシャ以上の危機に日本は陥る可能性があると思う。そうなれば、日本は否応なしに大きく変わることになる・・・。何がトリガーになるかは分からない。日本が自らそのトリガーを引くことはないだろう。いつものように黒船来航よろしく、米国か中国による外圧がトリガーとなると思う。日本が経済危機を向かえたときに取りうる政策は、大規模な増税とハイパーインフレが考えられる。

2.増税とインフレ、そして、国家予算の縮小
例えば、消費税は現在の5%から15%~20%になるだろう。物価も2倍くらいになるのではないか。例えば、7万円のノートパソコンは14万円になるだろう。インフレになれば給与も上がるだろうが、物価に見合った上昇になるかは分からない。いずれにしろ、日本人の消費マインドは完全に変わる。金融資産が目減りする。土地などは逆にインフレで利益を生むだろう。資産は海外に分散しておくのが良いかもしれない。ただ、アルゼンチンで銀行が凍結されたように、海外に資産を退避させても安全というわけにはならないが・・・。国家予算も大きく縮小されるだろう。現在の歳出80兆円が歳入に見合った数値になるだろう。おそらく、半分以下(30兆円台)に縮小されるだろう。

3.危機対策
さて、このような危機に対して、どういった対策が可能だろうか?資金があれば、インフレに対処する方法で土地などの固定資産に変えておくの良いかもしれない。ただし、当然、リスクはある。資金がない場合は、どうするか?なかなか難しい・・・。

4.日本が様変わりする
日本人の生活やマインドは大きく様変わりするだろう。貧富の差が拡大するどころか、多くの貧困層が生まれるだろうし、現在の貧困層はますます生存が困難になるだろう。消費マインドは完全に冷え込むだろうし、多くは生活費で手一杯になるだろう。政治や税金に関心や不満が高まるかもしれない。ネットの世界も様変わりするかもしれない。ライブドアが韓国企業に買収されたように、現在、無料で提供されているブログなどの日本のIT企業がそのまま存続できるかは分からない。日本のIT企業は倒れ、外資系だけが残るかもしれないし、日本は魅力のない市場となって日本から撤退するかもしれない。そうなれば、音楽や映画や文学などのエンターテイメントなどの娯楽産業は縮小すると思う。アートも同様だろう。また、ネットを活用してできるだけお金をかけずにコンテンツを入手する人が増えるだろう。若者などはそうするだろう。ともかく、貧しい国で娯楽産業が大きくならないのと同じ状況だと思う。これまでの日本は経済大国という自負があったが、今度は逆に20年も経済低迷を放置し続けた無能な日本として、負け組的な惨めさを日本のイメージとして持つことになるかもしれない。かつて90年代にロシアが経済危機に陥って大変なモラルハザードを起こしたが、日本もそうなる可能性を否定できない。

2010年5月28日金曜日

東浩紀『論壇時評5月号』(朝日新聞連載)を読む

1.感想の前に・・・
宮崎県の口蹄疫の件でふるさと納税が増えているらしい。宮崎県が大変苦労しているのは分かる。しかし、自分が住んでいる地域で日常的に利用している公共の費用を賄うのが地方税だ。それを利用している地域に支払わないのは、受益と負担から言えば、間違っている。ふるさと納税は不見識な施策だと思う。

2.論壇時評の感想
東浩紀の朝日新聞論壇時評を読んだ。内田樹の米軍基地全部撤去を評価していたのは正しいと思う。また、国語力や討論力を説いていた。ただ、正しさの追求ではなく、議論の場において詭弁によって自論を通すとも受け取られる。若者がますます何が正しいかが分からなくなっているのを反映しているかの様だ。

3.「売れるから正しい」ではなく、「正しいから正しい」
「多くの人が賛成するから、正しい」のでもないし、「売れるから、正しい」のでもない。「正しいから、正しい」のだと思う。若者は何が正しいかが分からなくなってきているのだと思う。危険なことだと思う。確かにいつの時代もそういうのはあったが、今はそれが多くなってきていると感じられる。もしかしたら、もう少し、階層化するのかもしれない。大衆とインテリというような分離が起こるのかもしれない。かつては一億総中流と言われたが、知的水準において、もう少し階層化が進むのかもしれない。教育がもっと高度な教育の私立と大衆的な教育の公立に分かれるかもしれない。

(ところで、東浩紀の論壇時評では、ネットということが大きな要素だ。東浩紀はネットを評論する評論家という意味ではない、うまく言えないのだが、ネット評論家という趣きがある。だが、ツイッターによって浮上してきた他の有名人とも東浩紀はちょっと違う。元々、彼はネットに近い位置にいた。)

ともかく、当面は正しさの追求よりは、弁論術的な討論力が若者のニーズになるだろうと思う。私のような年寄りは「自分に理や正しさがあれば、たとえ、どんなに多くの人に反対されようとも、我が道を行く」だったのだが、今の若者はネットに多くを依存するので孤独には弱いのかもしれない。まあ、その代わり、今の若者はネットには敏感に反応して、対応が迅速なのかもしれない。何にでも良い面もあれば、悪い面もあるだろう。だが、正しい正論よりも詭弁による邪道がまかりとおれば、衆愚に陥る。欧州ではネオ排外主義が人気を高めているらしい。おそらく、大衆の動きだろう。

4.Androidの普及とグーグルによる進化の加速
話は違うが、Androidがどんどん普及しているように感じられる。携帯端末に限らず、iPadのようなタブレットやテレビのような家電にはAndroidがOSとして普及する可能性が高いのではないか。そして、いつものように普及によってグーグルに直接的な利益はない。グーグルの出現によって多くの技術が無料で人々に提供された。競合他社もグーグルに対抗するために価格を下げたりもした。そういう意味でグーグルはネットの普及や進歩に大きく貢献した。グーグルによってネットの進歩が加速したといえる。もし、グーグルがいなければ、進歩はもっと遅かっただろう。ただ、グーグルは日本にちょっと距離を置いているのかもしれないと感じるときがある。グーグルには、もう少し積極的に日本で展開してほしいと思う。日本は人口1億2千万で13億の中国や3億の米国に比べれば小さいが、それ以外の国と比べれば、まあまあ大きい方だ。今後の日本の可能性は限られているが、それでも全く無視しても良いほど小さいものでもないだろう。ただ、どうも政策や国民の動向など、最近の日本人には不合理な行動や思考が多いように感じられる。細部はともかく、大枠で間違ってなければ良いと思うのだが、その大枠が間違ってないかと思う時がある。民主主義や自由な社会、個人主義や世界市民を意識することが多くなったように思う。日本が経済大国に復活することがなくても、それなりに日本は良い社会になれると思うのだが・・・。経済成長下で築かれた今までの慣習が無効になっても、互いに規範などで束縛することなく自由でいられると思うのだが・・・。

2010年5月25日火曜日

哨戒艦沈没事件について

1.本当に北朝鮮の仕業だろうか?
例の韓国哨戒艦沈没事件だが、私は必ずしも北朝鮮によるものだとは思っていない。なぜなら、合理的な理由がないからだ。確かに突発的なもので北朝鮮の仕業によるものなのかもしれない。だが、どうも自分でも納得できない。なぜかというと周囲の対応が何か変だ。

2.米国の世界戦略
米国の世界戦略の優先順位でいえば、先のイラク戦争に続いて標的となるのはイランだ。イスラエルを支援する強い影響力を持つユダヤ人が米国に多いからだ。イスラエルがイランから核攻撃を受ける脅威を取り除くために、米国は次の標的としてイランを視野に入れていると思う。だが、もう一方で北朝鮮も標的として考えている。いわゆるブッシュの言った悪の枢軸だ。だが、米国の本当の狙いは北朝鮮ではなく中国だと思う。北朝鮮はその前段階だと思う。また、中国を標的とする大義名分は中国の民主化だ。中国をいくつかに分割するのが狙いではないだろうか。北朝鮮と韓国の間で戦争を起こすことになるのではないか。そのとき同盟軍として米国と日本が参戦するのではないだろうか。中国は最後まで戦争に反対するだろう。朝鮮戦争が起これば、日本も北朝鮮からのミサイル攻撃の対象になるだろう。米国から兵器のオファーがあるかもしれない。TMDなどだ。グーグルマップから北朝鮮の地図が消えて久しい。また、中国も地図情報を政府が取り締まり始めた。地理情報は戦争で極めて重要だ。ちなみに日本は毛利さんが米国に強力したおかげでミサイルでピンポイント攻撃できるだろう。

3.北朝鮮の背景
北朝鮮は武器の輸出の多い国だ。実際は中国の武器を売っている。中国が直接販売するわけに行かなかったので、汚れ役の北朝鮮が売っていたのだ。だが、昨今は中国の武器輸出が目覚ましい。世界の工場になって武器の製造にも拍車がかかったのかもしれない。

4.オバマ政権の後が・・・
オバマ大統領は有権者の期待に応えてイラクから米軍を撤退させる公約だった。だが、その一方でアフガンは増派している。軍需企業には場所は変われど売上は変わらずというわけだ。オバマが米国に新たな医療制度を導入した点は高く評価できるが、軍事には妥協も多い。確かにオバマは核兵器削減に尽力してはいる。だが、それはイランへの核拡散を防ぐ意味合い、イランへの牽制という意味合いもある。それは米国の利害に一致しているから核兵器削減に動いているとも見れる。ノーベル平和賞を受賞したオバマが確固たる理由も無しに戦争を起こすことはまずないと思う。だが、オバマの次の政権は分からない。おそらく、共和党が政権を取るだろうから、どこかで戦争を起こす可能性が高い。そのとき、その標的となるのが、イランか北朝鮮のどちらかになるのではないか。ただし、イランに十分な核兵器があると分かれば、米国もそう簡単に戦争できないのではないだろうか。イスラエルが核攻撃の標的となることを恐れるからだ。いくら迎撃の精度が上がったとしても、やはり、完璧というわけにはいかないだろう。それに核攻撃の手段はいろいろあるだろう。そうなると北朝鮮を先に標的にする可能性もある。先のイラク戦争ではラムズフェルドの高速な進撃によって極めて早くバグダットを陥落させた。その代償にイラク軍も温存されて各地での戦闘が残ることになった。今度、北朝鮮で戦争が起こったとき、米軍が試したいと思っているのは戦術核だろう。

5.東アジアの位置
東アジアは極東地域という世界の最果てにある。世界の中心を米国や欧州とすれば、日本は辺境だ。核のゴミ捨て場にするには最適の位置にある。六ケ所村がその例だ。広島・長崎に核攻撃したのもそういった立地条件もあったと思う。そして、北朝鮮に対して実戦で戦術核の威力を試したいはずだと思う。ただし、戦後のこともあるから戦術核は使わないかもしれない。おそらく、朝鮮半島は統一するのが国際世論が一致するところになるだろう。だが、それに対して中国は介入したがるだろう。中国に介入させないためにも、米国は韓国に北朝鮮を落とさせたいはず。当然、中国軍の介入を許さないだろう。北朝鮮を落とすことで中国を包囲することになる。まあ、国際分業の時代だから、あまり意味はないのだが、軍人の戦略的観点では地理的優位を重視するだろう。ところで、かつての朝鮮戦争で日本は朝鮮特需となったが、今度の朝鮮戦争ではむしろ逆で戦費が国家財政を圧迫する可能性が高い。少し書いたがミサイル防衛のために、役にも立たない戦域ミサイル防衛や迎撃ミサイルを物量作戦で日本海側に並べるかもしれない。いずれにしろ、莫大なコストがかかっても利益は生まないだろう。下手をすれば、財政破綻の引き金になるかもしれないのではないだろうか?それに対テロのために厳戒態勢を強いられることになるかもしれない。原発など各要衝を厳重にテロから守る警備が必要になるかもしれない。また、様々なサイバー攻撃もありえる。

6.中国はグーグルに勝てるか?
話は違うが、グーグルのデータセンターは地球で最も巨大なコンピュータになっているのではないだろうか。これを凌ぐコンピュータシステムを持っている国はないのではないだろうか。もはや一企業ではグーグルに太刀打ちできないのではないだろうか?もしも、将来的にグーグルに対抗できる存在があるとしたら、中国ではないだろうか?中国が国家プロジェクトとして総力を上げて、グーグルを凌ぐデータセンターを作ることでしかグーグルを凌ぐシステムを作る所はないのではないだろうか?そしてグーグルと中国の間でサイバー戦争が起こるかもしれない。例えば、先のキム・ヨナの件で、2ちゃんが韓国からサイバー攻撃を受けて、あえなくダウンした。だが、中国が経済成長して、先の韓国のように日本のサイトを中国が狙えば、その規模の巨大さからいって簡単に日本のサーバはダウンするのではないだろうか。極端な話、中国のサイバー攻撃によって、日本の各主要コンピュタがダウンして、都市機能までもがダウンするかもしれない。もっとも、日本企業が中国の傘下に置かれて、国内から攻撃を受ける内部撹乱によってダウンさせられるかもしれない。(金融システムにおいてシステムのロバスト性は信用問題だ。)

7.日本経済の衰退
話は違うが、日本という市場は旨みがなくなりつつあるのかもしれない。楽天が社内公用語を英語にしたり、ユニクロの社員が外国人が多いのは、結局、グローバルな時代において世界の中で競争して勝てる企業ということなのかもしれない。結局、日本は製造業にも知識産業にも参入できず、停滞したままだ。消費税も15%以上という話が出始めている。そうなれば、世間の雰囲気は大きく変わるだろう。税金の無駄遣いや政治に国民はもっと真剣になるかもしれない。また、もっと窮屈になるだろう。なぜなら、無駄をしなくなるからだ。今でさえ起業が少ないのがもっと萎縮するだろう。それが日本の国民性だ。日本ではシリコンバレーは生まれなかった。日本からはグーグルやアップルは生まれない。日本が知識産業に乗れなかったのも、そういう日本の土壌に原因がある。日本では無理なのだろう。いや、むしろ、世界でも希で米国だけが可能なのだろう。米国を悪く言っても、その米国に勝てないのだ。

8.文明社会の歪み
だが、米国とて良いことばかりではない。産業構造が製造業からサービス業にシフトしたために歪みが生じている。不法移民に対する強い取締など変なことが起こっている。囚人を作り出して、それに群がるサービス業だ。華やかなIT等の高度サービス産業の陰で下位のサービス業では変な事が起こっている。

9.北朝鮮での戦争の可能性
とにかく、数年後に対北朝鮮で戦争が起こることを想定して、いろいろと準備しておいた方がいいかもしれない。私は年齢的には戦争に行くことはまずないが、戦争民間会社とやらで戦地に必ずしも行かないとは限らないだろう。だが、戦術核は無くても劣化ウラン弾でガンや異常児が増えるだろうな・・・

10.民主的な議会のない中国
日本政府と比べると中国政府は米国と互角に渡り合っていると思います。中国は民主的な議会がなく、独裁体制ですから、意思決定力は頑強です。民主主義国は、大統領制であっても、どうしても良くも悪くも議会に左右されますからね。

ツイッターの人気動向について調べてみた

ツイッターの人気動向についてGoogleを使って調べてみました。過去1年間の話題になった頻度を表したグラフです。上のグラフが「ツイッター」で調べた結果で、下のグラフが「twitter」で調べた結果です。おおよそ、上は日本の動向、下は米国の動向と見ることができると思います。今日のニュースでツイッター上での第3者による「つぶやき広告」を禁止する方針をツイッターが打ち出しました。それだけツイッターに対する注目が高まっているのかもしれません。ツイッターはどこまで浸透するのでしょうか。ツイッターは手軽なコミュニケーションツールですが、その一方で口コミというマーケティングツールの側面も強くあります。ブログの場合は一方的な発信が多くなりますが、ツイッターの場合は双方向のやり取りがブログよりは多くなると思います。今後、ツイッターがどのような展開をするのか興味深いですね。


2010年5月23日日曜日

普天間問題その3

憎むべきは米国ではないでしょうか?世論は5月末決着ではなく先送りに傾いていたけど、鳩山首相は5月末決着にこだわった。おそらく、米国と約束していたのではないか。なぜなら、日米合意のテンポが早い。問題はなぜ米国に主導権を握られるのか。弱みでもあるのか?

問題点を日本政府に押しつけるのでは、今までと同じ。問題点をオープンにすべきでは?すなわち、「なぜ、日本はこうも米国の言いなりにならないといけないのか?」庶民感覚で言えば(笑)、「米国の責任者、出てこい!」と言いたくなる。まあ、米国としては日本国内のことは政府と国民でやるのが筋だが。

まあ、結局、日米安保に行き着くのだろうけど・・・。ただ、どうも、日本がこうも簡単に米国の言いなりになるのは何か強力な弱味を握られているのだろうかと思いたくなる。ただし、陰謀論的な不明確な憶測で済ませるのではなく、明確な理由としてはっきりとオープンにすべきではないかと思う。

米国は良い面もあれば悪い面もある。学ぶべき面もあるし、逆に軽蔑すべき面もある。一概にどちらか一方だとは言えない。だが、基地の件については、米国はあまりに傲慢に過ぎる。米国にとって、日本の米軍基地はアジアの戦略拠点という位置づけであって、真の意味で日本を守るというものではない。

最近の東アジア情勢はどうもキナ臭い。米国がオバマ政権の間は東アジアでの紛争はないだろうが、その後の米政権(おそらく共和党政権になると思うが)では、東アジアで紛争が起こるかもしれない。今はその下準備中という感じがしないでもない。米ソ冷戦のように、今度は米中冷戦の代理戦争があるかも。

米国のやり方も強引だが、それでも建前があったと思う。だが、今の中国のやり方は前近代的な大国が小国を圧迫するようなやり方ではないだろうか。中国はあちこちで小国を圧迫している。そこには建前はなく、力のゴリ押しだ。そして、中国はますます強くなっている。いつかは超大国同士が衝突するだろう

「米国と中国のどちらかを選べ」という究極の選択かもしれない(笑)。もっとも中国の巨大資本に日本は内側から支配されるかもしれないが。いずれにしろ、日本経済の復活はありえないだろう。日本は縮退して小国化すると思うが、そのとき、荒廃した国土しか残ってなければ、目も当てられない。

沖縄の基地移転もどこも喜んで受け入れるところはないだろう。米国も日本国内以外のテニアンは受け入れないだろう。もし、移転するなら、政府は候補地を3つほど上げて、国民の同意をうかがうという方法もあった。政府がどれか1つを決めれば角が立つが、候補地3つから国民に選ばせば良かった。

3つの候補地はうちに来ては困るというアピールを国民にすることになっただろう。候補地を選んだ責任は国民自身ということになる。自らは責任を負おうとしない国民や先送りにする政府はどちらもどちらではないのか?そうなれば、じゃあ、何が一番問題なのかとなれば、米国だということに気づく。

また、米国内でテニアンを奨めるロビイストはオバマ政権の足を引っ張りたい共和党支持者だろう。オバマの支配力が問われており、日本も米国に反抗したとなれば、オバマ政権はますます支持率が下がるからだ。まあ、日本がそれを利用するのは自由だが。

いずれにしろ、沖縄の米軍基地は矛先を日本政府に向けるのではなく、米国に向けるべきだろう。ただ、中国の脅威もあるが、所詮、例のガス田での敗北が象徴しているように日本は勝てない。だったら、基地はあっても無意味ゆえ、基地は要らない。なぜ、米国の世界戦略のために基地を置く必要があろうか。

先のツイート、「沖縄の米軍基地は矛先を」→「沖縄の米軍基地問題の矛先」っていう意味。

ただし、日本は本土はともかく国境付近や航行において不利を強いられることになるだろう。まあ、侵略されるってことはないけど、資源や交通が脅かされる可能性は高い。でも、それよりも中国資本によって日本企業が買い占めされて、内側から支配されることの方が問題なのではないだろうか。

ただし、それは別に中国のルール違反ではなく、自由競争の結果であって、強者が弱者を駆逐する資本主義の自然な成り行きで、何も中国を非難するには当たらないだろう。おごれる者は久しからず、というものだろう。

中国がもっと民主化すればいいのだが、中国の中央政府のやり方はそうじゃない。徐々に民度が上がればいいが、国家の中枢が「検閲を是」とするようなナショナリズムでは、いずれその歪みは国民へと伝播して、弱者へとしわ寄せが押し付けられると思う。中国が超大国になるとき、弱者になるのは日本だ。

中国との市民レベルの交流では民主化されているように感じても、いざ、国権が発動されるとき、果たしてどのくらい民主化されているかは疑問だ。果たして、自由を守るために戦えるだろうか?その辺りは欧米の市民は自由を守るための意思は強い。アジアは自ら勝ち取るという感覚が少ないのではないか?

2010年5月18日火曜日

福嶋亮大×浅田彰「『神話が考える』をめぐって」

昨日、京都造形大で福嶋亮大さんの『神話が考える』の講演があり、浅田彰さんとも対談されたようです。

右のURLはまとめ記事です。 http://togetter.com/li/21816

これを元に少し感想を述べてみます。

『神話が考える』では事実性や近接性を出すために、作品においていろいろな工夫がされているのですが、それは置いといて(笑)、まず、「事実性」は「事実らしさ」であって「事実」ではないということは注意しなければいけないと思います。それが分かっているという前提でちょっと話します。

浅田彰が「クールな学会発表にしたい」と言って「モダニズムのクールさにこだわりたい」と言ったのは、この『神話が考える』に対するひとつの浅田のスタンスとして意味があると思います。要は、例の4象限の図ですが、浅田はモダンの側に立つということを言っているのだと思います。浅田がこの4象限図を見て、エリート主義的な設計といったのは、極端に言えば、「エリートが愚民をコントロールする」といった類の考えをこの4象限から嗅ぎとったからだと思います。これは、極端に喩えれば、建国神話で大衆をコントロールするといったものでしょうか。『精霊の守り人』みたいな。そういう見方をすれば、福嶋の小さな神話が人々に意味を与えるというのも、建国神話がある昔から行われていたと言えると思います。でも、ヘロドトスから始まる歴史は神話のようなフィクションではなく、事実に基づいた史実を残そうとしたので、今から神話に向かうのは逆行ではないかと思います。

また、福嶋は本の中でリベラル民主主義が唯一の社会体制であることを前提としていますが、果たして本当にそうなのかという疑問もあります。実際、多くの異なる社会体制が世界にはあるわけですし、リベラル民主主義も今後私たちが思っているようなものとは違ったものになる可能性もあると思います。その福嶋の大前提に疑義を呈したのが、浅田の最後の発言「歴史が終わったのか、ポモは正しいのかとガチでやるべきだったのかもしれない」という言葉だと思います。そんなこと、浅田彰に言われたら、ビビっちゃいますよね(笑)。

神話と歴史をフィクションとノンフィクションと見れば、真正性が浮かび上がってきます。昨今の「アウシュビッツや南京事件は無かった」とする一部の見方なども関わってくるのではと思います。『神話が考える』とレヴィ=ストロース繋がりですが、小田亮さんが真正性について語っていたと思います。

小田亮さんのサイト→http://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/index.html

印象に残った言葉としては福嶋の「半分穴が空いている現実」や「半現実」という言葉。これについては拙論http://www.neoaca.com/reviewを参照していただければと思います。また、浅田の「世界が悪い場所になっている」という言葉。確かにそうで、看過できないと思いつつもどうにも出来ないという難しさがあります。

ネオアカの経緯

ちょっと、ここで『雑誌ネオアカ』の経緯というか背景について、若干、説明させていただきます。

雑誌ネオアカはネット上での出会いがきっかけで発行されました。出会った場所は2ちゃんねるの哲学板でした。ネオアカの理念や使命についてはhttp://www.neoaca.com/abouthttp://www.neoaca.com/mission1を参照して下さい。

それで、出会った場所が哲学板であったので、自然とネオアカ初号の対象読者層は、最初から特に強く意識したわけではなく、ちょっと無意識的なんですけど、哲学板を想定したものになってしまいました。ただ、サイトを公開して3週間くらい経過しましたが、哲学板でのネオアカに対する反応はほぼ皆無に近い状態です(笑)。この点は大いに反省しなければなりませんね。何が悪かったのか?(←「全部!」という声が聞こえてきそうですが(笑))公開する前は、あまり長文は避けようと考えていました。というのも、普段でも長文のレスは嫌われるので、できるだけ短くしないと哲学板の読者は読んでくれないと考えたからです。ですので、文章をできるだけ短くしようと努力することにしました。でも、なかなかうまくできませんでした。ただ、ネオアカが読まれなかった原因はもう1つあると考えていて、それは哲学板のユーザがツイッターに移行してしまって減少したからではないかと考えています。実際、ネオアカの登場に関係なく、哲学板のレス数は極端に減少したと思います。

ところで、話は変わりますが、広い意味で、ネオアカには「知の探求」や「世界を良くしよう」という目的があります。これは、別に、ネオアカに限らず、知を研究されていている方々は、みなさん、同じだと思います。中国武術の世界に「武林是一家」という言葉があるのですが、この意味は少林拳や蟷螂拳など武術を学ぶ流派はそれぞれ違っても、「切磋琢磨して強くなろう」という目的は、皆、同じなので、たとえ流派が違っても武術家同士は、皆、家族のように仲良しだ、仲良くしようという考えです。私は知の世界も、この武林是一家と同じで、目的は「知の探求」や「世界を良くしよう」という目的は同じなのだから、知林是一家ではないですが、皆、仲良くして、互いに切磋琢磨したり、助け合ったりできるものだと考えています。とはいえ、武術の世界でも他流派との諍いは多いのも事実です。何かと言うと互いの武勇を競って「どちらが強いのか?」などと喧嘩のような試合をしたりします。そういう喧嘩は良くないと私は思います。ですが、切磋琢磨する意味で試合というのも無益ではないと思います。そういう意味での試合なら向上のために良いと思います。知の世界においても、批判というのは互いの向上に役立つものだと思います。とはいえ、批判されて学ぶことも多い一方で、人間は感情を持っていますから、不愉快なことも多いと思います。武術では、「礼に始まり、礼に終わる」ようにして、試合に遺恨を残さないようにします。試合中は一生懸命戦うけれど、試合が終わったらオフサイドの精神で互いに向上に努める学友同士といったところです。ですから、批判において手抜きするのは試合で手抜きするようなもので相手に失礼かもしれません。しかし、いったん、試合が終わったら、試合のことは、全部、水に流して、互いの健闘を称えるものだと思っています。ここで、最初の2ちゃんねる哲学板の話に戻りますが、本来なら、ネオアカの記事で批評さえていただいた方々に礼を言うのが礼儀だと考えていたのです。

ですが、2ちゃんのユーザを対象読者層に想定してしまったために、感謝の言葉を早々に言ってしまうと、プロレス的というか、祭的というか、そういう盛り上がりに欠けてしまうのではないかと愚考してしまいました。そういう理由もあって、実は最初に、批評させていただいた方への感謝の言葉を挿入する予定だったものを編集の段階でいったん削ることにしました。そこで、ここで改めて、お礼を申し上げさせていただきます。東浩紀さん、斉藤環さん、宮台真司さん、酒井泰斗さん、本当にありがとうございました!!!

それから、私の書いたレビューで引用させていただいたiwatamさんは、私が勝手に引用させていただいただけですので、特に私どもと関係あるわけではありません。iwatamさんのサイトで公開されてい文書がフリーでしたので引用させていただいた経緯もあります。一応、iwatamさんには引用させていただく件に関してはご本人に連絡させていただきました。iwatamさんからはフリーなので自由に使っていい旨のお話をいただいています。ただ、私の解釈が間違っているかもしれませんので、iwatamさんのサイトを合わせて読まれることをお奨めします。

iwatamさんのサイト『ネット世代の心の闇を探る』
http://iwatam-server.sakura.ne.jp/kokoro/index.html

iwatamさんを引用した記事レビュー『神話が考える』
http://www.neoaca.com/review

以上、とりあえず、思いつくままに書いてみました。ちょっと長くなってしまって申し訳ありませんでした。

2010年5月8日土曜日

オタクの話

確かに「純文学は真面目に考え、アニメは最初から真面目に考えようとしない」というのはあります。私もガンダムを題材にガンダムオタクの人に真面目な話をしたら、「たかがガンダムにそんな意味をくみ取るなんて」と呆れられてしまった経験がありますね。

その人は私より詳しくガンダムを知っているのに「じゃあ、あなたはそんな他愛も無いガンダムに夢中になっているのはムダではないの?他愛も無いと思われていることにも、実は大切な意味があるから、世間から他愛もないと見なされているものでも自分は一生懸命取り組むんじゃないの?」と思ったのですが

ところで、その人はガンダムオタクだったけど、一方でミリタリーマニアでした。もともと、『ガンダム』は富野由悠季がハインラインの『宇宙の戦士』(←端的に言えば保守系)を批判的に捉えて創作したはずのものでした。それなのに、結果的には、『ガンダム』は保守系の作品として捉えられるという皮肉

なので、「小説は真面目に、アニメは遊び半分で」という批評を看過していると、先のような歪められた形で通ってしまう。まあ、物語の解釈は人それぞれなので、それも仕方ないことではあるのですが・・・。でも、「そうじゃないんだよ」という情報も必要だと思います。

ただし、オタク的なものが逆流するのはどうかとは思います。オタク的なものがそれまでの伝統文化を破壊するのってあります。ただ、生命の進化と一緒でそれも自然淘汰なのかもしれませんが、でも、やはり、年寄りの自分としては(笑)、ひと言、言いたくなります(笑)。歳取るのって嫌ですね。

そういう意味では「生物の絶滅を防ぐ」という行為は進化論に反した行為かもしれません。実際、昆虫の世界ではどんどん新しい種が生まれては消えていっているとか。未だに知られていない種類の昆虫がたくさんジャングルにはいるらしいし。

話を戻すと「アニメを正当に評価しない」という日本の体質は昔からあって、例えば、浮世絵とかもそうじゃないかと思います。西洋で芸術として高く評価されたから、逆に浮世絵の芸術性が日本でも認められたわけで、西洋で認められていなければ、単なる好事家の枕絵になっていたかもしれません。

今でも日本の浮世絵収集家、あ、春画収集家と言った方がいいのかも、は、江戸時代からのオタクの系譜といっていいのかもしれません。そうなると「アニメを正当に評価しない」という日本の体質は伝統文化なのかもしれません(笑I)。あ!それじゃあ、いけない!

それと『宇宙の戦士』の映画版『スターシップ・トゥルパーズ』も原作の『宇宙の戦士』を批判的に捉えて、皮肉った内容になっているのですが、これが映画を見た人には皮肉と気づかない人がけっこういました。先に言ったガンダムオタクの人もその一人でした。「どこが皮肉なの?」と真顔で聞かれて吃驚

思わず絶句したのですが、いざ、説明しようとした私も「あれ?あれって皮肉じゃあなかったのかしら?」と自分に自信が持てなくなってしまいました(笑)。案外、あれを作ったアメリカ人の方が平和な考えをしているのかもしれません。ちょっと悩んでしまいました。

なので、個人や市民、国や政府は分けて考えないといけないと思います。ただ、いざとなったら、普段は善い人なのに悪いことをしちゃうという場合もあります。普段は虫も殺せぬ優しい人なのに、いざ、戦争に行くと一生懸命働いちゃう感じだと思います。

なので、個人レベルの思考と国レベルの思考など様々な階層があるのだと思います。なので、私は中国を批判してますが、それは国レベルであって個人レベルではありません。個人は別だと思います。国レベルの話は拙論『日本の未来戦略』参照http://www.neoaca.com/critique

GoogleVoiceについて

グーグルのサービス「Goggles」は画像内のテキストを翻訳できるらしい。翻訳したい画像の文字をキャプチャして翻訳するらしい。そういえば、YouTubeでもキャプションを翻訳するサービスがあったような気がする。キャプチャとキャプションは微妙に違うかな・・・。

また、グーグルは街を丸ごと超高速のブロードバンドにする事業もやっている。電話もテレビも情報のラインはこれ1本で済むということなのだろうか。が、それもあるが、電話をタダにする話もあったように思う。グーグルボイスだ。

電話といえばスカイプがあったと思うが、グーグルボイスはもっと凄いらしい(笑)。←ありがちな言い方だなあ。ともかく、最大の特徴は意味を理解してくれるようになるだろうことだ。もし、意味を理解してくれるようになったら、本当に凄いと思う。←また、ありがちな表現をしてしまった。

コマンド入力が音声入力に変わる、なんてことじゃない。おそらく、同時翻訳が可能になるのではないだろうか。それが実現すると凄いと思う。人と人を隔てるものに、言葉の壁がある。つまり、言語の違いだ。もし、グーグルが自動で自然な同時通訳が可能になれば、意思の疎通が今よりも遥かに容易になる。

それはすなわち国境の壁を崩すことに成功するということではないだろうか?国と国がいがみ合うとき、相手のことをよく知らないことが大きな原因のひとつだと思う。自動同時通訳で異なる言語でも簡単にコミュニケーションが可能になれば、ともかくお互いをよく知ることが可能になる。

そして、ネットがあるから、距離の隔たりは関係なくなっている。つまり、本当に容易に外国人とコミュニケーションが可能になる。昔、エスペラント語、世界共通言語を作って異なる言語同士でもコミュニケーションを図りやすくしようという運動があった。ちなみに、考えた人はポーランド人医師だ。

だが、グーグルが自動同時通訳を作れば、エスペラントは要らなくなる。それに人々は自分の母国語を守ることも可能になる。いくら便利にするためとはいえ、世界の言語を1つの同じものにするわけにはいかないだろう。自分たちの文化もあるのだし。それらを守ることがグーグルの同時通訳なら可能になる。

グーグルボイスが意味をつかみ出すために、どうやら大量にデジタル化したグーグルブックスのデータが役立つらしい。なるほど、あれだけ大量のテキストデータがあれば、意味を取り出すことに役立てられるのかもしれない。意味ほど難しいものはないのに、グーグルはそれを可能にしてしまうかもしれない。

ところで、グーグルはアメリカから生まれた。そのアメリカは見方を変えれば亡命者の国だ。皆、自分の故郷の国を喪失して、自分の暮らす新たな国としてアメリカにやってきた。以前の国への反省からアメリカは世界に先駆けて良い国であろうとする国といえるかもしれない。世界の国の中で最も新しい国だ。

アメリカは国という組織形態の中で過去の伝統を引きずらない新しさを取り入れられる国だ。だが、国という組織形態に縛られていることは他の国と変わりはない。国という組織の限界だ。そこにグーグルとう新しい組織形態が芽吹いた。

グーグルはほどんどネットそのものになろうとしている。グーグルパブリックDNSもそのひとつの表れではないだろうか。そして、ネットには国境はない。アメリカから芽吹いたグーグルはその根をネットに沿って広げ、グーグルは世界を包み込んで、グーグルは世界中に存在しようとしている。

グーグルの自動通訳によって国境の壁は消え、国家の違いも形骸化するかもしれない。もちろん、国はそれぞれ、その国独自の国家体制・社会体制を敷けばいい。だが、そこに住まう人でその体制が気に入らなければ、移動すれば良くなるのではないか。実際、二重国籍はどんどん増えている。

21世紀において、国家に代わる新しい組織形態としてグーグルが生まれたのではないか。21世紀の人類社会では、国家は存在するが、人々は国家を選択可能になるのではないか。そうなれば、国民を抑圧するような国家権力は半ば無効化されるのではないだろうか。

そんなグーグルが巨大な国家権力である中国と衝突したのは必然だと言える。グーグル対中国。そして、その間に挟まれている日本。日本の未来はどこにあるのだろう?拙論『日本の未来戦略』を参照していただきたい!(笑)←手前味噌だなあhttp://www.neoaca.com/critique

2010年5月7日金曜日

普天間問題その2

普天間基地移設問題について。徳之島が移設に反対を表明するのは理解できる。だが、沖縄にこれ以上基地を押し付けるのは不公平だろう。基地問題は日本全体の問題だ。鳩山だけに責任を押しつけるのは間違っていると思う。

しかし、鳩山が徳之島と話し合いたいというのに、徳之島が話し合いを拒否するのは民主主義の精神に反するのではないか。問題に対して話し合いをするのが民主主義だろう。その話し合いを拒否するのは民主主義の精神に反するようにも感じる。

したがって、基地問題が日本全体の問題なのだから、国民投票にすべきではないだろうか?まず、地理的条件から候補地を徳之島以外に、あと2つ追加する。そして、3つの候補地から国民投票によって選ぶというのは、どうだろうか?地元の利益を優先するのはどこも同じだ。基地問題は国の問題だ。

3つの候補地から国民全体がその中から選べば、国民自身にも選んだ責任を感じられるようになるだろう。日本全体の問題なのだから、その責任を国民一人一人が感じるべきではないのか?それが民主主義というものではないだろうか?

鳩山ひとりに基地問題の責任を負わせて国民は知らん顔をするのは、民主主義ではないだろう。この問題が政府と候補地が話し合って決められるような問題ではないだろう(もちろん、受け入れる候補地があれば別だが、まず無いだろう)。そうであれば、国民投票で決めて然るべき問題ではないだろうか。

徳之島の町長のように「話し合いを拒否して後は知らない。沖縄だけが苦しめばいいだろう」というのでは不公平だろう。もし、国民投票で3候補地が決まれば、地元の首長は基地が地元に来ることによる、日本のデメリットをアピールせざるをえないのではないだろうか?

また、もし、国民投票が規定の投票率に達しない場合は、政府に決定権が委ねられたとしてしまえばいいではないか。棄権した者は決定できなかったというのはあるだろう。いずれにしても、基地問題は日本全体の問題として考えるべきではないだろうか?それが民主主義ではないのだろうか。

もちろん、これまでツイートした考えは、基地を国外に移設できなかった場合の話しだが。

2010年5月5日水曜日

ひろゆき×勝間和代から日本のIT企業まで

ひろゆきと勝間の対談が話題になっているらしい。


1.勝間和代について
私は勝間女史に関しては特に興味はない。強いて言えば、良いキャリアを持っているのに、やっていることは啓発セミナーになっているのではないかと思う。例えば、経営コンサルの大前研一は経営コンサルの合間に人材育成のために経営セミナーをやっている感じがするのに対して、勝間女史は啓発セミナーを主業務としてやっているように感じられる。そして、内容は啓発セミナーであって、経営セミナーではないのではないかと思う。良いキャリアなのに不思議だ

2.ひろゆきについて
ひろゆき氏はある種のリアリズムを基づいた経営哲学によって会社を運営していると思う。それは旧来の日本には余り無かった経営スタイルであるため、批判も多いが良い面もある。荒っぽく言えば、アメリカ的な自由な雰囲気がある。氏を批判するのは自由だし、氏が自分の思うままに会社運営するのも自由だ。

3.2ちゃんについて
ただ、今はひろゆき氏の2ちゃんもニコ動も劣勢ではないかと思う。ツイッターとUSTにその地位を脅かされているのではないだろうか。ツイッターのコメントがUSTに反映されるのは大きい。また、若者の2ちゃん離れも大きい。2ちゃんはひと世代前は辛辣な辛口コメントが多かったが、今はコミュニケーション不全の若者が多いのではないか。つまり、極端に言えば、話ができない相手が多くて、コミュニケーションが成立しなくなったのではないだろうか?ある種、ユーザの傾向が変わったのかもしれない。また、ニコ動も弾幕というコメントは2ちゃんのような辛口コメントだったからこそ、有意義だったが、それが凡庸な悪態になったのではユーザが興ざめしてしまう。そして、ログインや入場制限がユーザに制限をかけてしまっている。たしかにツイッターもログインが必要だが、これを窓口に議論は継続できる。

4.劣勢の日本のIT企業
ところで、動画共有サービスは日本発のものが少ないと思う。ニコ動やGyaOやアメーバビジョンがあるが、その他はあるのだろうか?動画検索しても引っ掛かるのは海外のサイトが多いのではないか?日本では動画共有サイトを運営する日本企業が育たなかったのかもしれない。先日、ライブドアが韓国企業に買収される発表があった。先述したように2ちゃんもニコ動もツイッターやUSTに押されている。検索サイトはGoogleやYahooだ。ブログではてなやアメーバは日本企業だが、FC2やライブドアは外資だ。日本ではIT企業は育たなかったかもしれない。ウェブでは、意外と中国や韓国のIT企業が強い。日本は若者が企業して大きくしたIT企業があまり育たなかったかもしれない。しかし、IT産業が大きくなった今、これから起業しても、買収されることはあっても、そこが基幹になる可能性は低い。日本のIT企業は尽く外資のIT企業に乗っ取られるかも。もし、中国と米国が対立したとき、日本のIT企業が中国系に独占されていれば、日本からグーグルを追い出すかもしれない。そのとき、日本は百度を選択させられるかもしれない。百度は、当然、中国政府が言論統制しているのだから、日本も中国の言論統制下に置かれるかもしれない。だが、考え方によって同じかもしれない。もし、野中広務の言うことが真実なら、今までの自民党政権下では、官房機密費という税金を自民党に有利になるように世論操作するために政治評論家にバラまかれていたことになる。中国が検閲によって言論統制するように、日本は評論家によって世論操作していた。アジア人は中央政府の統制下におかれることを是とする国民性があるのかもしれない。もし、欧米なら、官房機密費で世論操作していたとバレようものなら、極めて大きなスキャンダルになると思う。中国の言論統制や日本の世論操作が、それほど騒がれないのは、アジア的気質があるからかもしれない。中国政府の言論統制を他人事と思っていると、知らぬ間に自分たちもその統制下に置かれていることになるかもしれない。それは北朝鮮の国民と同じような立場になるということだ。もし、私が中国政府なら、百度を、実質的な国家管理下に置き、アジアのグーグルにして、アジア全体の言論統制に使うだろう。

日本ではIT産業を上手に育てられなかった。そして、ウェブの言論プラットフォームは米国か中国の企業に委ねられるかもしれない。両者が対立したとき、日本はどうなるだろうか・・・。

2010年5月4日火曜日

『ゲーデル的脱構築』について

ネットを散見していたら、2、3日前からゲーデルが話題になっていたみたい。「ゲーデル的脱構築」とかが俎上に上がっていた。私の記憶では、当時でもおおむねスルーされたような気がする。ただし、それでも気持ちだけは分かるから、それをどう繋げるかをみんなで思案していたんじゃないかと思う。

ゲーデルの不完全性定理については自己言及型パラドックスによって感覚的な理解がしやすいと思う。また、対角線論法による説明でも昨今は理解しやすくなったと思う。そもそも不完全性定理のおおよそ意味するところを理解しているからこそ、グレッグ・イーガンのSF小説が面白いと感じるのでは。

ソーカル事件に過剰反応し過ぎだと私は思う。もっと自由に科学から概念を借用して使っていいと思う。確かに詭弁に利用されたり、誤用するリスクはあるのだけど、そのリスクを避けるために、思考の自由をそぎ落としてしまうのは、やはり、もったいないと思う。真偽・真贋はある程度自己責任で判断。

また、科学は仮説を立てて試行錯誤するのだから、そこには失敗が数多く含まれている。見方を変えれば、ニセ科学は失敗を成功と勘違いしているとも言えるかもしれない。とにかく、科学を真理だけだと崇拝するのはちょっと違うと思う。

科学者の頭の中では、1つの正しい仮説の前に99の間違った仮説があったかもしれない。「科学は絶対に正しい」的な感覚はその1つの正しい仮説の部分しか見ていないかもしれない。それは氷山の一角で、その下には99の間違った仮説があったかもしれないのだ。科学者の方が平気で間違ったことを言う。

ゲーデルが神の存在を云々することは特に不思議ではない。それは存在論だからだ。物理学などはもろに存在論だろう。哲学は存在論を構築できなかった。神学は神概念で存在論を構築したが、人々の中で「神が死んだ」感覚では意味を為さなかった。

世界の4大論理学者にゲーデルの他にアリストテレス、フレーゲ、タルスキがいる。タルスキはポーランドの数学者だ。ゲーデルはオーストリア出身でウィーン学団と関わりがある。一方、タルスキはポーランド数学に属する。拙コラムを参照のことhttp://www.neoaca.com/column

万が一、勘違いするかもしれないから言っておくと、「ゲーデル」と「ゲーデル的脱構築」は分けて考えないといけない。で、「ゲーデル的脱構築」は、まあ、雰囲気的な言葉であって、そこに深い意味を求めても仕方ない。そこに意味が無いと知って怒るのも分からないでもないが、やや不粋ではある。

「数学を形式的に矛盾のない体系にする」というヒルベルトの試みがあったのだが、ゲーデルの不完全性定理によって数学の無矛盾の体系化は不可能であることが分かった。不完全性定理に従えば、数学は不完全なのだ。これは「数学には矛盾がない」という世界観に対してコペルニクス的転回を迫られた。

つまり、「数学は矛盾がない完全な体系」ではなく、「数学は、それ自身では無矛盾を示せない不完全な体系である」という大きな数学観の転換を迫られた。

次に、脱構築だが、脱構築とは何かというとテキストの読み替えだ。あるテキストは、通常、Aという内容に読める。しかし、脱構築(あるいは誤読)するとBという内容に読めてしまう(あるいは読んでしまう)。そのとき、場合によっては、Aだと思っていたのが、反対の反Aに読めてしまうものもある。

それが先程の「数学は無矛盾で完全だと思っていたのが、実はそうではなくて不完全だった」という不完全性定理に脱構築が似ているように感じてしまう原因だと思う。脱構築はAをAとは違うBと読み替える作業だけど、たまにAと反対の反Aと読める場合もあるということ。←とても荒っぽく言えば、だが。

良い例が思い浮かばないけど、脱構築じゃなくて誤読で言えば「情けは人のためならず」という言葉がある。本来は「情けは人のためになるから、人に情けをかけなさい」という意味だった。ところが、誤読して「情けをかけると人は怠けるので、人に情けをかけるのは良くない」という反対の意味に捉えられた

「ゲーデル的脱構築」とは、まあ、今、言ったようなそんなニュアンスが含まれている。ただし、別の捉え方も可能なんだけど、それは割愛する。いずれにしても、「ゲーデル的脱構築」というのは、あまり深い意味のない言葉で掘り下げても仕方がない言葉だと思う。

当時はまだ分かり易いテキストもなく、ゲーデルは難解だったから、柄谷が曖昧な意味で、かつ不正確な表現で「ゲーデル的」と使ってしまったとしても、あまり責める気にはなれない。たぶん、当時もそれを承知で話半分で聞いていた人もけっこういたと思う。真面目に悩んだ人もいたかもしれないが(笑)。

ちなみに、「脱構築」はDeconstructionである。一方、似た単語にDestructionがある。これは「破壊」である。というわけで、手前味噌ですが(笑)、こちら、破壊哲学もよろしく!→http://www.neoaca.com/

追記

東浩紀がGW頃からツイッターで話題になっている「ゲーデル的」について言及していた。まあ、おおむね、氏の言っていることが分かる。私が5月4日に言及したことと同じような感じだと思う。今回、話題の流れを傍観していて思ったのは、意味の継承がなされず、途中で断絶しているということだ。

いくつかの原因がある。意味が断絶してしまったこととソーカル事件の影響がある。しかし、ソーカル事件はもったいないことをしていると思う。思考の自由を自ら奪ってしまっていると思うからだ。ちょっと危うい理解で使っても良いと思うし、その方が却ってニセ科学などに対する警戒心を高めると思う。

意味の断絶が問題。たぶん、東浩紀自身、まだ、一読者だった頃から感じていたことではないかと思う。断絶は90年代半ば頃にはすでに始まっていたと思う。←ちょっと時期を特定するのは自信がないが。それがネットによってはっきりとさらけ出されたと思う。全然、伝わっていなかった、・・・と。

ゼロアカのときに「文学の全体性の回復」みたいな話になっていたと思うが、それとも少し関係してくると思う。意味の断絶を修復して、再び、全体性を回復するというのがあると思う。実は『神話を考える』を読んでいても、意味が断絶しているのをちょっと感じていた。

まあ、私が歳をとって単に過去の事情を少し知っているだけなんだが(笑)。今の若者たちが過去の経緯を知らないのを単に無知と言ってしまうのも、ちょっと酷な気もする。それなりに長い歴史があって、それを若者に知ってて当然というのもちょっと可哀想かなという気がしないでもない。

だが、大きな断絶があって、まるで過去と現在が別世界になってしまっているのには戸惑ってしまう。しかも、あらぬ方向に話が進んでいく。まあ、それを「新しい」と言うのかもしれないが。でも、それを進歩とは思えない。歴史の勉強が必要ではないだろうか。でも、解釈の違いが出てくるんだろうなあ。

昨日、「スコラ坂本龍一の音楽学校」という番組をNHKでやっていた。「若い芽を摘む会」の会長を自認していた坂本龍一が教育に熱心だったのには、皮肉ではなしに感動した。これも意味の継承に努めていると言えると思う。それにしてもミュージシャンは音楽が楽しそうで羨ましい。

あ。「若い芽を摘む会会長」と言っても、要は「厳しい師匠」という意味で、それは後進の育成に熱心だということと同意なので、現在、教育熱心なのと矛盾はしない。スラムダンクの安西監督が「白髪鬼だったのが、優しくなった」みたいなものだと思う。それにしても、教授はカッコいいと思ってしまう。

こんなことを言うと怒られちゃうかもしれないけれど、今の若者は現代アートを云々する前に、現代アートを理解する素地ができていないんじゃないかと思う。近代人のような古いモダンな素地(足場)があって、現代アートを受け止められるのではないかと感じられる。若者はポストモダンなのでそれがない。

『神話が考える』のモダンとポストモダンの区分けに相当するのかもしれない。もう少し、意味の断絶も含めて、その辺りを突っ込んだレビューを書き加える必要があるかな。あ。『神話が考える』の現時点の感想はこちら。http://www.neoaca.com/review


ゲーデルの話題で意味の断絶の話をしたけれど、これはゲーデルの話題に限らず、多くの分野に及んでいると思う。上の世代から今の若者に継承されずに断絶したものは多い。ちょっと気になるのは、メディアに対する不信がある。今の若者はメディアに対する不信があるが、普通の人もいるが、極端な人も多い

ネットが普及したことによって、新聞やテレビなどの従来のマスメディアに対する不信が声高に言われた。これは批判だから、まあ、別に良いのだけれど、効果が効きすぎて、本当に従来のマスメディアをまったく信用しなくなっている人が出はじめている。それはちょっと違うと思う。

「これは絶対に真実しか言わないメディア」「あそこは全部ウソしか言わないメディア」と極端に分けるのではなく、自分自身で判断して疑わしいとグレーに判断した方がいいと思う。確かにメディアによって偏りがある。だから、その偏りを承知していれば、差し引いて考えればいいのではないかと思う。

例えば、Newsweekなんて保守寄りだったと思う。競合はTIMEだったんじゃないかな?斬新な内容も多いけど、眉唾の怪しげな記事も平気でもっともらしく載せていた。そういうのを承知して自分で判断すればいいと思う。そして、自分だけでは確実な判断はできないのだから、あくまで疑うだけだ。

できたら、2つの相反する記事にあたる方が全体を俯瞰しやすい。昔なら右と左の両方を見れば、大体、分かりやすかったと思う。まあ、読売新聞と朝日新聞の両方を見るようなものかもしれない。それぞれ傾向(偏り)がある。ところが、どちらかを絶対に正しいと思い込んでしまうと偏って不正確になるかも

だが、ときに決断を迫られるときには両方を選択できないので、1つの行動を選ばなけれならない。そのときにはそれまで積み重ねた経験を総合して判断すればいいと思う。ずいぶん、当たり前のことを書いていると思う。ところが、昨今、良識派や穏健派というのが言論から見られなくなったと感じる。

東西冷戦が終結してグローバリズムが進行したとき、日本は新しい将来像を立てるべきだったが、それができなかった。旧来の体制が強固だったのもあるし、新しい将来像を定めることができなかったのもある。いま、中国に追い抜かれて、はじめて自分たちが足踏みしていたことを実感しているのではないか?

上の世代は旧来の思考を引きずったまま新しいモデルを持てなかった。そのため、言論な中身は停滞した。一方、若者はそんな空疎な言論と実際の現実のズレを見て、言論が無意味で不要だと思ってしまった。言論と現実がリンクしていないとき、言論なんて不要だと思ってしまったのではないか。

そして、将来像を見失った言論はモデルがないため迷走して良識を失っていったのかもしれない。言論が連続性を持っていれば、なだらかな繋がりが保たれるだろうから、良識派や穏健派が残ったのかもしれないが、今やそれは見当たらない。念のためだが、保守は名前こそ保守だが別に良識と関係ない。

ちょと話が長くなりすぎた・・・。ともかく、これ以上の断絶を防ぎ、良識を取り戻すべきだと思う。もちろん、個人は自由で良いのだから、別に良識とやらに囚われる必要はないし、良識に縛るようなことがあってはならない。だが、社会の中にまったく良識派が存在しないのも、いささか問題だと思う。


ゲーデルの不完全性定理の一般的な理解は自己言及型パラドックスで良いと思う。例の「『クレタ人は嘘つきだ』とクレタ人は言った」というやつ。もし、このクレタ人が言ったことが本当なら、『』内は真実になるので、その結果、クレタ人は嘘つきだという結論になる。が、それだと言った人は嘘つきで矛盾

また、クレタ人が嘘つきだとすると、このクレタ人が言っていることも嘘になるので、『』内の話は嘘になるから、結果、クレタ人は正直者という結論になる。しかし、それだと最初のクレタ人は嘘つきだという前提と矛盾してしまう。こういうのを自己言及型パラドックスという。

自分自身で自分が矛盾していないことを証明できないというのが、なんとな~く分かるような気がしませんか?この自分である定理をpとすると、pが矛盾していないことを証明するにはpを含む、より大きな定理が必要になる、らしいです。「クレタ人は嘘つき」だの喩え話の場合は人間を持ってくるのかな?

でも、pより大きな定理をqとしても、そのqが自己矛盾していないのを証明するためには、qよりももっと大きな定理を持ってこなければならない。こうなると、延々とp<・・・と続いてゆく。すると、最後には「数学には数学自身が無矛盾であることを証明できない」ということになる。

だいたい、こんな感じが一般的な理解だったんじゃないかと思う。ウィキを見ると自己言及型パラドックスを使って不完全性定理を説明することをちょっと否定的に書いてある。ただ、これは日本で最初に不完全性定理がポピュラーになったときも言われたことだと思う。でも、一般的にはこの理解で良いと思う

でも、ちょっと自信はない(笑)。間違っているかもしれない(笑)。私はおおざっぱだし、あまり頭が良い方ではない。むしろ、悪い方に入る。実はネオアカのブックレビューを加筆したんだけど、そのとき、本文をちょっと読み直したら、稚拙な文章で恥ずかしくなった。

普天間問題その1

普天間問題は難しい問題だ。沖縄県民の気持ちは分かる。また、日本のどの県も喜んで米軍基地を受け入れる所はないだろう。沖縄はアジアの火薬庫と言われるほど大規模な戦力になっている、と聞いたことがある。米国の国防戦略からすれば、アジアの一大軍事拠点である沖縄は手放せないだろう。

しかし、日本としては独立国としては米軍基地を許容出来ないのも分かる。同盟といっても日本は第2次大戦の敗戦国という被支配国という立場に過ぎない。だが、日本の立場からすれば、米軍基地に引き上げてもらうのが、やはり、筋だろう。だが、地政学的要件を考えると微妙ではある。

米国と中国という2大超大国の中間地点に日本はいる。中国の立場からすれば、中国は太平洋を挟んで米国と対峙したい、というのが本音だろう。ところが、巨大な米軍基地を置く日本は中国の喉元に突きつけられた刃になる。中国の戦略としては、日本を中国の属国にして米国への防波堤にしたい所だろう。

米国としては、逆に日本は中国への防波堤になりうる。日本はアジアへ睨みを効かせるための米国の不沈空母になる。故に米国は簡単に日本の米軍基地を手放すとは考えにくい。米国が極度に財政難に陥って中国に援助してもらう見返りに日本を譲るということはあるかもしれないが、その可能性はゼロに近い。

もし、「日本は米国と中国のどちらにつくか?」という二者択一を迫られたとき、日本は米国につくのが良いと思う。米国も問題は多いが、中国よりはまだ自由がある。中国のやり方は全体主義的で自己中心的な中華思想が強い。言わば、中華帝国だ。チベットやウイグルでは少数民族が呑み込まれている。

ちなみに軍事費では米国が圧倒的1位で中国が2位だ。日本は6位くらいに位置する。単純比較だが、軍事費で日本は中国に劣っている。中国が経済的に急成長する前なら日本から米軍基地撤退も良かったが、現時点では軍事バランス的によく検討しなければならない。慎重に考えねばならない。

では、米軍基地を日本に置くとして、どこが適切か?確かに沖縄が地理的に適地なのだろう。が、歴史的背景を考えると先の戦争で沖縄が受けた戦災は看過できない。その沖縄にずっと負担を負わせ続けることはあまりに不公平だ。だが、仮に他県に移しても、今度はそこが半永久的な米軍基地になってしまう。

民主党は米軍基地の移設を謳った。しかし、自民党は米軍基地の移設はまったく唱えなかった。「米国の支配下にいることを甘んじろ」というのでは、たとえ、現実的だとしても感心しない。そういう意味では、たとえ失敗しても民主党の挑戦に分があると思う。だが、では、具体的にどうするかが問題だ。

北マリアナ諸島のテニアン島で米軍が許諾するなら、それも良いだろう。だが、やはり、アジアからは遠くなってしまう。今後、米国が見据えるであろう中国からはかなり離れてしまう。いや、アジア全体から遠くなる。テニアンではアジアの辺境になってしまう可能性がる。

沖縄以外に米軍基地を置く場所は難しい。過疎化している日本海側のどこかに置いてはどうかと思わないではないのだが、たぶん、難しいだろう。米軍基地問題は本当に難しい。

実現可能かどうかは分からないが、日本の領海のどこか戦略的に適切な場所に人工の巨大な島を作れないものかと思う。石油掘削基地を何十倍、何百倍にしたような巨大な人工の島を作れないものだろうか?そこを特区にして政府直轄地にして米軍と自衛隊の基地にできないものだろうか。

たとえ、すぐに建設できないにしても、百年、二百年の計画を立てて、三百年後には米軍基地を人工島に移設できるような長期計画を立てられないものだろうか?そうすれば、米軍基地を他県に移すこともなく、沖縄県民も今すぐというわけには行かなくとも、いつかは米軍基地が無くなるという希望を持てる。

人工島案は突拍子もない奇抜な案ではあるけれど、石油掘削基地ができるなら、まったっく不可能ではないのではないかと思えるのだが、しかし、あくまで素人考えのため、専門家からは鼻で笑われる考えかもしれない。だが、沖縄県民に我慢を強いるしかないというのはそれはそれで無能無力の感が大きい。

以上、普天間問題でいろいろと考えてはみたものの、これといって名案は私には考えられなかった。普天間問題は本当に難しい。なお、ここで示した案の背景にあるのは、ネオアカで提示した拙論『日本の未来戦略』が元になっています。http://www.neoaca.com/critique

2010年5月2日日曜日

ミドルセックス大学哲学科の件

話は違うがミドルセックス大学哲学科の件。経済的余裕があるのであれば、残した方が良いと思う。だが、財政難でどうしても避けられないのだとしたら、どこか学部を取り壊すしかないのだろう。そのとき、どの学部を潰すのか・・・

ミドルセックス大学にどういった学部があるのか知らないが、哲学科よりは神学部を潰した方が良いように、医学部よりは哲学科を潰す方が良いと、普通は考えてしまう。やはり、社会にとって貢献できる学部を残すべきだとは思う。また、需要がある所が残るだろう。哲学科に学生が集まっているのだろうか?

だから、どこを潰して、どこを残すかをよく話し合わねばならないと思う。そのとき、相対評価が重要になってくると思う。なぜなら、どこかを潰さなければ成り立たないという台所事情があるだろうからだ。だから、あまり事情を知らない部外者が興味本位で意見するのはちょっと気がひける。

また、本当に潰さない努力をしたかどうかもある。全職員の給料を下げるという方法もあるだろう。ただ、哲学科を嫌いだから狙い撃ちしたというわけではあるまい。文学部なんて名前を変えるか潰されるかは、とっくの昔に終わっているかと思っていた。

ともかく、このように大学から人文系の知がどんどん追い出されるのは目に見えているし、また、学生も人文系を学ぼうとは思わないだろう。嫌いだからではなくて、社会に出たときに専門的に役立たないからだ。それは仕方ないだろう。だから、ある程度、大学から退去させられても仕方ないと思う。

だからといって、知が断絶してしまってもいいというわけではない。確かに大学から追われれば、学問のクオリティは下がるだろう。でも、市井でも何とか、知が生き残る道はあると思うし、探さねばならないと思う。

椹木野衣の書評『神話社会学』を読んで

それから、椹木野衣による『神話が考える』の書評を読んだ。あ、村上裕一の書評も読んだ。やはり、書評し辛いと思う。1つは難解なんだが、単に難解なだけじゃなくて分かりづらいんじゃないかと思う。

ある意味、ニューアカの功罪の1つかもしれない。一般論として、昨今のこの手の論文はどうも引用過多じゃないだろうか?とはいえ、それはニューアカに罪があるのではなくて、昨今のが無茶な引用が多いと思える。いや、まあ、私の不勉強な所為かもしれないのだが・・・。

それと『神話が考える』に絞って言えば、連載時の『神話社会学』で扱っていた問題系がすっぽり抜け落ちているためではないかと思う。いや、記述しているが、私が理解できない所為かもしれない(爆)←言い訳すると実はつい先日買ってきて、読み始めたばかりなのだ。

1つ前のツイートで言っている問題系とは、『神話が考える』の第1章「ポストモダンの公私」のことを言っていて、それは最後の「おわりに」でその解決案が示されていると思うんだけど、ちょっとこれが私には分かりづらい。連載されていた『神話社会学』の方が分かりやすかったと勝手に思っている。

一応、断っておくと、これは著者が悪いのではなくて、私の勉強不足に由来している。この辺りのことをよく知らないのだが、ただし、「じゃあ、知っている人はあれで分かったのだろうか?」という疑問も実は少しある。もう少し、内容に踏み込んだ書評を誰か書いてくれないかと思う。

そういえば、浅田彰がAAAの紹介で「神話社会学的な構造分析」と書いていた。ちゃんと「神話社会学」と書いていたので、連載時から読んでいたのかもしれない。だったら、浅田彰に書いてもらいたいものだと思う。そうすれば、本を読むより、分かり易いかもしれない(爆)だが、その逆もありうる(恐)

ところで、構造社会学は便利な言葉だと思う。後藤和智氏など数値化を求める人たちに対して有効だし、実際、改めて自分たちがやっている分析が構造分析だということに気づかされたと思う。←大げさに言えば。それに「この分析は神話社会学です」というのは憚られるが、「構造社会学です」なら言い易い。

東浩紀『一般意志2.0(5月号)』(『本』連載)を読む

講談社の情報誌『本』に連載の東浩紀「一般意志2.0」の5月号分を読んだ。面白かった。同時に危うい話ではある。しかし、グーグルの可能性(恩恵とリスク)を考えると、このような試論も決して悪いものではないと思った。ただし、やはり、このような思想は危険には違いないので注意して読みたい。

危ういと感じる根源は、おそらく、東浩紀の人間観にあるのだと思う。極論すれば、「オタクがオタクのままでいられる社会システムを作る」というのが「人間が未成熟なままでいい」と受け取られるからだと思う。そして、「そういった未成熟な人間=動物を管理・支配する」というのが環境管理に思える。

私としては「可能な限り成長を促す」方向でありたいと思う。一方、東は「実際には成長できない動物がいるのだから、そういった動物でも快適に暮らせる社会を作る方が現実的ではないか」という理屈かもしれない。それには一理あるが、それを全面に出すと動物化を助長する恐れがあると思う。

だから、まずは可能な限り成長を促すように努力すべきだと思う。話は変わるが、ネットの出現で人間や社会は大きく変わろうとしている。私たちは歴史の転換点に立っている。動物化もその変化の1つだと思う。

「一般意志2.0」の中で東浩紀がネット(orグーグル)によって一般意志が実現可能になったと言っていた。一方、私も拙論「日本の未来戦略」の中でグーグルによってアナーキズムが実現可能になったと言った。(http://www.neoaca.com/critique)

面白いことにグーグルによって、今まで実現が不可能だと考えられていた近代思想の幾つかが再び甦る可能性が出てきている。グーグルを普通の企業と区別すべきではないかと考える証左の1つではないかと思う。同時にマイクロソフトに次いでアップルまでも囲い込み戦略になりつつある。初志は何処へ。

余談だが、ちなみに、東浩紀の「一般意志2.0」と対をなすように、私は「特殊意志2.0」を提唱している(笑)。詳しくは、以下のネオアカのホームページを見てほしい。http://www.neoaca.com/about

もう少し言うと、一般意志2.0が数学的存在なら、特殊意志2.0は量子的存在だ。『攻殻機動隊S.A.C.2nd』に「個別の11人」というのが出てくるが、あれに近いものかもしれない。特殊意志2.0は個別の自由意志の集合だからだ。http://www.neoaca.com/about

2010年5月1日土曜日

坂上秋成『文芸時評5月号』(週刊読書人)を読む

週刊読書人連載の坂上秋成の文芸時評(5月)を読んだ。以下、その感想を書こうと思います。


1.私小説からブログへ
まず、坂上が言うにはネットの普及で<私>の社会的機能が低下したそうで、私小説という技法が通用しなくなってきたらしい。ネットの不特定多数の刹那的なコミュニケーションによって<私>がかき消され、匿名的集団的な声に圧倒されるという趣旨らしい。坂上のいうネットって、ツイッターや2ちゃんのことではないだろうか?私は別の意味で確かにネットの普及によって私小説は難しくなったとは思う。それは何かと言うとブログだ。例えば、性的マイノリティたちのブログは大きな社会的反響を呼び、彼らの社会的な認知度を高めたと思う。ブログには彼らの内面が吐露されている。ブログは日本では日記として扱われることが多い。日記はれっきとした私小説のひとつと言えると思う。ブログにああも細かく個人の内面を吐露してしまっては、わざわざ文芸誌の私小説を買うのももったいなく感じてしまう人もいると思う。日本での初期のブログの普及はそれこそ、そういった私小説的な読み、ちょっとエキセントリックな個人のプライベートを読む楽しみではなかったか?そういう意味で私小説としてはブログに大きく侵食されたと思う。ところで、日記文学の伝統というのがある。古くは土佐日記や更級日記、近代でも永井荷風の『断腸亭日乗』や石川啄木の『ローマ字日記』がある。中には自宅と愛人宅で別々に日記を書いていた文人もいる(笑)。しかし、考えてみれば、日記は誰にも見せられない内面の吐露だったのに、今ではブログとして世界中に公開しているのだから、世の中も変わったものだ。<私>というものの概念が変わりはじめたのかもしれないが、でも、たぶん、今のところ、そうではないと思う。

2.私の埋没と精神構造の変化?
坂上秋成の文芸時評に戻ろう。文章の構成はよく整理されて読みやすくなったと感じた。ただ、取り上げている作品が、まあ、順当なのかもしれないが、意外性がなく、若いのにどこか先達に媚びているように感じられなくもなかった。いや、まあ、単に作品が良かったのかもしれないから、これは分からない。ただ、最後の結びに関しては疑問に感じる。「<私>の内面そのものが時代遅れの概念として処理されるのみ」とあるが、ちょっと「?」である。いや、その前の文章から疑問なのだが。どうも、よく分からないが、大勢の声に自分の声が埋もれることによって、私が埋没してしまうことを言っているのかもしれない。話は変わるが、ツイッターの使い方は日本人も外国人(米国人)も同じなのだろうか?例えば、フォローしている人物の人数などは日本人も外人も同じだろうか?実は日本人はフォローしている人数が異様に多いのではないかと感じることがある。実際に統計を取ったわけではないから実際の所は分からないが。以前、富野由悠季が「今どきの若者は友人の数が多過ぎる」といって「そんなのは友人とは言わない!」と怒っていたことがあった。同じ志を持つ親友は本当は得難いものだ。再び話は変わるが、以前、TVのインタビューで「茶髪にすることによって自分が軽くなる」といっていた一般人がいた。「ああ、なるほど」と当時は思った。今、もし、大勢の声に埋没する自分を感じていて、そこに自分が消えていくように感じているのだとしたら、それはその茶髪の軽さと似ていると思う。いや、似ているのではないかと思う。もちろん、それとは違う面もあるかもしれない。だが、おおむね、似たような方向にあるのではないだろうか。そうそう思い出した。昔見た大人と若者の対話番組で特徴的だったのが、大人は「俺はこう思う」と力説しているのに対して、若者は「普通はこう思う」と言っていた。何が言いたいかというと、案外、大人の方が自己主張があって、若者の方が波風を立てない当たり障りのない普通を目指していたことだった。世代論的には団塊の世代は大勢の中で目立つためには自己主張が強くなったという論もあるだろうけど、それでも若者にどこか窮屈さを感じたのもあった。話がとんでもなくズレてしまった。ともかく、ネットの大勢の声も金太郎飴の如く、割と誰も同じに感じられることがある。←あ、若者の場合ね。言ってみれば、無個性に感じられる。いや、別に「無理して個性的にしろ」というつもりはない。ただ、それでも規格のように、皆、同じに感じてしまう。ある意味、教育の成果なのかもしれない。よく分からないのだが、「今どきの若者は孤独だなあ」と感じるときがある。だが、その一方で「今どきの若者は孤独に対する耐性が無いなあ」と感じるときもある。心の構造自体は今も昔も変わっていないだろう。でも、何か変わったんだろうなと感じるときがある。携帯やネットが普及し始めたときに、それは感じていた。何かがそっちの方へ流れ込み始めたと。不思議な言い方になるが、ネットに繋がることによって人は孤独ではなくなったんだが、彼らの心の内はずっと孤独になったと感じる。ATフィールドの範囲とか周波数とか色調とかが変わったんじゃないかと(笑)いや、まあ、男っていうのは戦って強くなるから、本当は戦わなくちゃいけないんだが、今の若者はどうもそれをスルーできてしまう仕組みがあって、結局、個として強くならないんじゃないだろうか?ただし、女性は違って、女性は日常生活で強くなる。そのため男よりも大人だったりする。だんだん、話が逸れてしまった・・・。ともかく、「時代遅れの<私>がネットの出現で、最新の<私>にアップデートされて良くなった」とは思えない。むしろ、その逆だ。だから、変わったのだとしても、あまり好ましくない方向に変わったと思う。そういう意味で坂上の結びの言葉には疑問を差し挟むこととする。

3.文学脳とSF的感性
ついでに、坂上のITツールに関する感性はやはり文学脳ではないかと感じる。いや、実生活ではITツールも今どきの若者よろしく器用に使いこなしているんじゃないかと思うのだが、いざ、文章にすると、文学部的な言葉の雰囲気に引っ張られて、文学脳的なITツールの捉え方になってしまうのだと思う。でも、それではSF文学をポジティブに評するには、SF的、理系的感性に欠けていると言わざるをえないだろう。それでは、まともにSFを論じることができないのではないか?支障をきたすのではないか?ITツールの延長にドラえもんや鉄腕アトムを考えてみればいい。ドラえもんや鉄腕アトムに「君たちは非人間だ。機械に過ぎない」と面と向かっていえるだろうか(笑)←いや、ちょっと悪ふざけが過ぎるか。ともかく、「道具はお友達」や「道具は手足の延長」くらいに考えた方がいい。神話にだって、そのとき、登場した新しい道具をけっこう大切に描いている。もっと、ポジティブになれないだろうか。もちろん、全肯定しろというわけではない。だが、どうも・・・。コホン。この辺でやめておこう。ちょっとまとめたかったが、ダラダラと書き流しすぎた。あ、それと坂上のいうネットは日本の中だけのネットに過ぎない。日本のネット文化は他国と比べてちょっと特殊だということを頭の片隅に置いておいた方がいいと思う。まあ、アジア圏は日本に似ているのかもしれないが。

とまあ、そんなわけで坂上秋成の書いた文芸時評でこんなにたくさんツイートしてしまった。きっと坂上君の時評が私をインスパイアしてくれたのだろう。そういう意味では有意義な時評であったと思う。感謝である。