2012年9月24日月曜日

ツリーとリゾーム

ドゥルーズ+ガタリの『哲学とは何か』で読書会をやるつもりなのだけど、その前にちょっとは彼らの主な概念についてちょっと勉強しておかなくちゃいけないなあということで、今回はリゾームについて考えてみようと思います。

で、まず、ツリーとリゾームを視覚的にイメージすると下図のようなものになると思います。左がツリー構造で、右がリゾーム構造です。


 

ツリー構造は枝が整然とした階層構造なのに対して、リゾーム構造は枝が横断的に錯綜したネットワーク構造になっています。

で、まあ、ドゥルーズ・ガタリは「これまでは世の中のいろんな知的構築物はツリー構造が多かった。例えば、知の構造とか組織の構造とか。しかし、それは硬直的な見方の産物であって現実にはそぐわないんじゃないか。現実はもっとリゾーム構造っぽい要素も多いんじゃないか。そこでリゾームで世界を捉え直してみる試みをやってみようか」というようなノリで考えたとき、『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』に結実したって感じでしょうか。いや、まあ、極端な話ですが。

もう少しイメージが伝わりやすいように話を非常に単純化して考えてみます。

まず、ツリー構造的な価値観の社会を考えてみます。例えば、人々が画一的な価値観を持った世界というのを考えてみます。みんながみんな同じような価値観を持った社会です。具体的には、例えば、高学歴・高収入をみんながみんな目指しているとします。みんながみんな東大や一流企業や大蔵省を目指しているとします。(←いやあ、古い世界観ですね。今となっては隔世の感がありますね。)それを図でイメージすると、頂点が1つの山にみんなが登ろうとしているようなもので、下図のような感じでしょうか。






この山はツリー構造な価値観なので、理路整然として価値観が整列しているので、山の傾斜も滑らかなものとなります。非常にシンプルな山です。

次に、リゾーム構造的な価値観の社会を考えてみます。、リゾーム構造にはツリー構造のような階層はなく、結節点にどれだけリンクが集中するかによって価値観の度合いが決まるものとします。結節点のリンクが多いとそれだけ山が盛り上がります。つまり、山がたくさんある多様な価値観の社会になります。もう少し具体的に言うと、人々は東大や一流企業だけを目指すのではなく、アーティストになることを目指したり、パン屋さんになることを目指したりするように様々な理想像を持ちます。それを図でイメージすると下図のような山がたくさんある図になります。















山ばかりで喩えるとちょっとスタティックなので、別なもので喩えると、波が様々に盛り上がっている海面と喩えることもできると思います。人々の欲望はダイナミックに変化するので海面のように時々刻々と盛り上がりが変化するので海面の方が適当な喩えかもしれませんね。


『千のプラトー』(=千の高原)はこのような状態、盛り上がりである高原がたくさんある状態を指しているのだと思います。そして、人々はこの非線形な曲面の最も高い盛り上がり、最大値を志向するのではなくて、人それぞれがたくさんある盛り上がり、極大値をそれぞれ志向するのが良いのではないかと考えているのではないでしょうか。あ、いや、盛り上がりがたくさん出来る状態、多様な価値観がある状態が望ましいと考えているのだと思います。(ところで、ドゥルーズの手法は傾斜を数値計算する非線形最小二乗法に似ていると思います。)

つまり、多様な価値観の社会やフレキシブルな知のあり様を望み、さらに、そのような世界を構築するのにもリゾーム的な手法(←『千のプラトー』はそのような手法で書かれている)によって実装するというのが彼らの考えだと思います。もちろん、これはある一面的な話であって、他にも彼らが込めた意味・意義はたくさんあるとは思いますが・・・。

なお、ひと昔前の日本は硬直的な価値観の社会でした。戦前の日本は北朝鮮のような社会だったかもしれませんが、戦後高度成長期の日本はどちらかといえば画一的な社会だったと思います。その方が製造業中心の工業社会に適した人材育成に向いていたのでしょうね。しかし、価値観が画一的な社会や硬直的な知の世界では少数派である自由な精神の持ち主は息詰まってしまうので、スキゾフレニックなゲリラ戦を仕掛けるような浅田彰の『逃走論』が生まれたのだと思います。もっともその源流は森一刀斎こと森毅にあると思います。異分野の知を自由自在に横断するネットワーク力・社交力や問題に対して太極拳の化勁のようなフレキシブルな身のこなしなど森毅こそ日本の元祖ドゥルージアンだと思います。

2012年9月22日土曜日

宗教について

前回の記事で「日本人の無意識、特に若者の無意識はオウム真理教事件がトラウマとなって内への探求を忌避するようになってしまった」というような話を書きました。また、オウム真理教だけでなく、すべての宗教に対して拒否反応をハッキリと持つようになったとも思います。そこで今回は宗教についてちょっと話しておこうと思います。

今の若者の宗教に対する反応を見ていると宗教というだけで思考停止状態になって聞く耳を完全に閉ざす拒絶反応を示すようになったと思います。しかし、宗教というだけで何もかもすべてを拒絶するのはちょっともったいないなと私などは思います。

というのも哲学の成り立ちを考えると宗教が果たした役割は大きく、これまで蓄積されてきた思索の軌跡はとても参考になると思うからです。そこにはたくさんのアイデアが詰まっています。ところが、今の若者は宗教というだけで無意味で無価値なものとして、それらをまったく参考にすることなく簡単に切り捨ててしまいます。私などからすれば、それはあまりにもったいなく、もう少し視野を広げられればなあと思います。

また、今の若者の「宗教とは何か」というような宗教に対する認識もかなり浅薄・偏狭・卑小なものになっていると思います。明らかに間違った認識を持っている人も数多くいます。まあ、宗教というだけで思考停止状態になるのですから、そうなるのも当然ですが。

ここまでこの記事を読んだ人は私が「宗教を擁護したりして、何か特定の宗教の勧誘でもしようとしているのではないか?」と疑う人がいるかもしれません。しかし、話はまったく逆で、むしろ宗教を突き放して捉えることで宗教を客観視しようというのが私の考えです。私は自分が特定の宗教に入信することはまずないとけっこう自信を持って思っています。そういう自信があるからこそ宗教を恐れずに見つめることができるのかもしれません。

ところが、今の若者はそうではないように思います。自己が脆弱であるために宗教に侵食されるかもしれず、そのためにあえて宗教を卑小なものと矮小化して捉えて切り捨てることで自己が侵食されるのを防いでいるように思えます。しかし、それは誤った宗教に対する認識をもとにしており、万一、それが破られればかえって宗教に入信してしてしまう危険があると思います。また、対象を矮小化することで逃避するような癖は宗教以外にも用いるようになってしまい、物事を客観的に見ることから次第に遠ざかってしまうようになるのではないかと思います。

確かに宗教には悪い面がたくさんあります。しかし、良い面・参考になる面もあると思います。悪い宗教があるからといって、すべての宗教を捨ててしまうのはあまりにもったいないと思います。ですので、宗教を恐れずに、また鵜呑みにすることもなく、もう少し注意深く耳を傾けてみては?と思います。

それから最後に、日本の若者が宗教を卑小に捉えるのは単に恐れから来る防衛反応ばかりでなく、ある感性が欠如しているからではないかと思います。それは何かというと詩的感受性です。日本の若者は詩の感性が大きく欠如するようになってしまったと思います。詩を読んでも詩に感応する若者がどんどん減ったと思います。そのため宗教に対しても多くの若者は感応することが無くなったのだと思います。そして、宗教に対してどんどん無理解になったのだと思います。

2012年9月21日金曜日

内へ向う哲学、外へ向う哲学

前回同様にツイッターで書いたことをここで少しまとめます。

で、以前、ツイッターで

哲学って、内宇宙(→内面・精神)に向う方向と外宇宙(→社会)に向う方向があるんだけど、いま、内面に向う方向はなにか避けられていて、社会に向う方向が大半になっていると思う。
 というようなことを書きました。今回はこれについて少し説明をしておきます。

まず、上記を図でイメージすると下図のようになります。

図が分かりにくいので(笑)、ちょっと解説すると、右側のピンク色の部分が自己、左側の淡黄色の部分が世界です。ピンク色部分の白と黒の目のようなものは目そのもので目をイメージしています(笑)。要は自己の内側と自己の外側を表しています。また、矢印は関心の方向を表しています。右向きの矢印は内側(=自己)への関心を表しています。同様に左向きの矢印は外側(=世界)への関心を表しています。

さて、仮に哲学をおおざっぱに2つに分けると、内へ向う哲学と外へ向う哲学があると思います。内へ向う哲学は自己の内面への関心で「心とは何か?」といったような方向に関心を持っています。自分の内側深くにどんどん探査のソナーを降ろしていって探索・探求するような方向です。

一方、外へ向う哲学は自己の外側の世界への関心で「世界とは何か?」といったような方向に関心を持っています。これは自己の外側の世界への関心ですので、例えば社会に関心を持ったり、もっと広く自分の生きている世界に関心を持ったり、さらに広く宇宙に関心を持ったりします。あるいは、もっと広く射程を広げて、自己も含めた全てである存在そのものに関心を持ったりもします。

そして、それぞれの方向への探求を進めてゆくと、いつの間にか2つ繋がったりする場合もあります。どういうことかというと内へ内へと探求を続けていたのにいつの間にか外と繋がったりします。逆に外へ外へと探求を続けていたのにいつの間にか内と繋がったりします。例えば、内側への探求であったはずの唯心論のように「心があるから世界が存在するんだ」というように内と外が繋がります。あるいは外側の世界の探求であったはずの存在論がいつの間にか自己の心をも包含してしまい、内側への探求と同じ探求になってしまうこともあります。(←まあ、これらは極端な喩えですが。)

何が言いたいかというと、内側と外側のどちらでも良いですが、いずれか一方向への探求であってもそれを極めれば、いつしか内と外の両方の探求へと繋がるということが言いたかったのです。何ごとも極めればそれはすべてに通じるといった感じでしょうか。(←ま、必ずしもそうでない場合もありますが。)

ところで、文学も似たようなところがあって、内側への探求は内面の心の襞を事細かく腑分けして精神分析のように探求するのが純文学に相当すると思います。外側への探求は社会派文学ですね。社会問題に関心を持って社会の暗部に光を当てるような探求をします。文学の関心も概ね内と外の2つがあると言えます。

さて、内と外それぞれへの探求にはどのようなものがあるかちょっと列挙しておきます。まず、内側への探求ですが、精神分析学とか大脳研究があります。ちょっと変わったところでは仏教なんかも内側への探求だと思います。言語の研究は内側へ含めて良いのか迷いますが、個人的には含めたいですね。次に外側への探求ですが、唯物論とか存在論とか宇宙論とかがあると思います。ほとんど物理学の世界ですね。「生命とは何か?」という問いはどちらに属するのか微妙なところです。今のところ遺伝子を含めて生物学は外側の探求ではないかと思いますが、もしかしたら、いつかは内側の探求に繋がるのではないかと思っています。

そろそろまとめると、極端な言い方をすれば、内へ向う哲学は「心とは何か?」という心を研究対象とした心の探求です。一方、外へ向う哲学は「世界とは何か?」とか「存在とは何か?」というように世界や存在を研究対象にしています。言わば、社会や世界、宇宙や存在の探求です。あるいは、その中での人間を研究対象にしています。

以上、おおざっぱで極端な話でしたが、内へ向う哲学と外へ向う哲学のイメージが少しは伝わったでしょうか?ま、あくまで、イメージの話であって厳密な話ではありませんのでツッコミは無しでご勘弁願います。

で、最初のツイートに戻ると
いま、内面に向う方向はなにか避けられていて、社会に向う方向が大半になっていると思う。
とあります。というか、そう書きました。

これは私の感触なのですが、今の若者は内面への探求を忌避しているように感じられます。どうも内面に触れることを恐れているように私には感じられます。もちろん、他人に内面を触れられることは誰だって怖いし嫌なことです。ですが、自分自身で自分の内面に触れることはそうではないはずです。ところが、今の若者は他人に内面を触れられることだけでなく、自分で自分の内面に触れることすら恐れているように私には感じられます。

なぜ、そうなってしまったのか?私の推測では、1995年のオウム真理教事件が原因ではないかと思っています。あの事件が大きなトラウマとなって今の若者たちに自分の内面に触れることを忌避させる無意識が働いているのではないかと思っています。「いやいや、そんなことはない。1995年といえば、アニメ『エヴァンゲリオン』があるじゃないか。あのアニメはロボットアニメとしては内面に触れる唯一のアニメじゃないか。それを思えば若者が内面への探求を無意識に忌避するようになったなんておかしいよ」という意見があるかもしれません。しかし、逆に言えば、だからこそエヴァンゲリオンは若者たちにとって特別なアニメになったのではないでしょうか?今思えば、1995年は極めて特殊な年で歴史の転換点になる年でした。オウム真理教事件だけでなく、阪神淡路大震災やインターネットが始まった年でもありました。この年を境に秋葉原は次第に趣都アキバとなり、オタク文化の隆盛が始まりました。ですので、様々な要因があるので一概に「原因はこれだ!」とは言い難いのですが、それでもオウム真理教事件が日本人の無意識に与えた影響は大きく、若者の内面への探求を忌避させるトラウマになっていると私は思います。

2012年9月20日木曜日

OSとしての哲学

ツイッターでも書いたのだけど「ブログを更新しなきゃいけないなあ」ということで、「さて、では何を書こうか?」ということで、とりあえず、ツイッターで書いたことを少しまとめて書くことにします。
 
で、ツイッターで

哲学って、喩えると、基本ソフト(=OS)みたいなものだと思う。精神を脳というハードウェア上で動くソフトウェアと仮定するとOSは哲学(=意味世界)であり、応用ソフト(=アプリケーション)は政治とか経済とかそれぞれの専門分野みたいなイメージ。ま、必ずしも全てが当てはまる訳じゃないが。
というようなことを書きました。これをちょっと補足しておきます。

上記を図でイメージすると下図のようになります。
このイメージについて解説すると、まず、脳と精神をハードウェアとソフトウェアとして分けます。例えば、まったく同じ遺伝子でまったく同じ脳を持った人間が二人いたとします。その二人が生まれてから異なる環境で異なる育て方をした場合、二人の精神は異なった精神・人格になると思います。人生経験という経験情報が異なる人格にするわけです。というわけで、脳と精神をハードウェアとソフトウェアで分けることにします。

次にソフトウェアである精神を言語面だけに絞って考えます。子供から大人に成長して人格を形成する過程で人は独自の意味体系を作り上げます。言葉にはそれぞれ意味があるわけですから、言葉を使うようになれば、人々はそれぞれ意味を心得ているわけです。本来、同じ言語を使っていれば、その人の言語に限ればほぼ同じような意味体系が構築されるのですが、人はそれぞれ異なった人生経験を経るのでその人の精神の意味体系は他者とは異なった意味体系に育ってゆきます。哲学は意味体系を整理整頓して整然とした意味体系に構築するものだということができます。(ま、この話はあくまでイメージの話なので厳密な話ではありませんので、ツッコミは無しに願います(笑)。)

この意味体系は人がこの世界で日常的に生きるときの基本的な意味付けですのでコンピュータに喩えれば基本ソフト(=OS)に相当すると思います。このOSに対して、人がさらに専門的な知識を身につけたとするとそれはOSに乗っかった上で動く応用ソフト(=アプリケーション)に似ていると思います。ただし、必ずしも基本ソフトと応用ソフトが階層関係にあるとは限りません。応用ソフトが直にハードウェアに乗っかるような体系化された応用ソフトもあるでしょうし、逆に直に専門分野に基本ソフトの意味が表れるものもあると思います。

それに、実際は多くのひとが階層などない混然一体となった意味体系で動いていると思います。しかし、それでは意味体系が秩序立ったものとは感じられず、カオスの中を生きているような不安な感覚に捕らわれてしまうかもしれません。そこで意味体系を秩序立ったものに整理整頓するために哲学が必要に感じられるのだと思います。

また、多くのひとは生きてゆくために仕事をしなければなりませんが、仕事の知識体系は人それぞれの専門分野ということができると思います。ここでの専門分野は社会にとって価値あるものです。一方、哲学は専門分野ではありませんので、お金儲けという意味では価値はありません。しかし、専門分野を含めた意味体系を整理整頓して秩序だったものにするのに、そのベースにある哲学を学ぶことはとても意味のあることだと思います。

さて、ここからはオマケの話です。SF的な想像力での話です。人格がソフトウェアならば、そのソフトウェアを現在のハードウェアから別のハードウェアに移し替えることは可能ではないでしょうか?それは脳から脳へとは限りません。脳からコンピュータへの移し替えも可能ではないでしょうか?脳から脳への移し替えは親から子へとか師から弟子へと口頭や以心伝心で伝えられるものかもしれません。しかし、ご存知のようにそういった継承は百パーセントのコピーではなく、違った継承になってしまいます。しかし、コンピュータ上に人格をAI的に復元可能になれば、人格を整理整頓しておけば、案外、人から人へ継承するよりは人からコンピュータに継承する方が人格の完全な複製になるかもしれません。さらに元の脳よりもコピー先のコンピュータの方が優れたハードウェアであった場合、同じ人格でもより良いパフォーマンスを示すかもしれません。

2010年8月22日日曜日

クリストファー・ノーラン監督『インセプション』

 









 
 
1.はじめに
クリストファー・ノーラン監督、レオナルド・ディカプリオ主演の映画『インセプション』の解釈・感想を以下に書きます。なお、完全ネタバレで書きますので、未見の方はご注意下さい。また、例によって思いついたままに書き流しているのでまとまった文章になっていません。『インセプション』についてはちゃんとした文章をいつか書きたいと思いますが、とりあえず、物語の核心部分だけ先にこのブログに書いておきます。



2.2つの物語タイプ ~「現実と幻想の区別ができる物語」と「現実と幻想の区別ができない物語」~
 

最近、現実とバーチャルの区別がつかない人がますます増えている。その原因はテクノロジーの進歩によって本物とニセモノの区別がつかないほどに、ニセモノが本物に似せて作られ始めたからだ。私たちの身の周りにもニセモノがあふれかえっている。花に見せかけた造花や木製の壁に見せかけてプリントされた木目柄の壁紙などだ。私たちの周りはニセモノであふれている。映画では、それをもっと発展させたものがある。例えば、映画『ブレードランナー』だ。『ブレードランナー』に出てくる人工の蛇は普通に見ただけでは本物かニセモノかは判別できない。蛇から剥がれた一枚のウロコを顕微鏡で拡大して見たとき、そのウロコに製造番号が記されているのを発見して初めて、その蛇がニセモノだと分かるのだ。それがアンドロイドになると判別はもっと厄介だ。フォークト=カンプフ感情移入度測定法でも100%間違いなく完璧に人間かアンドロイドかを判別できるわけではない。本物かニセモノかの区別が非常に難しくなってきている。


 
『ブレードランナー』では物が本物かニセモノかの判別が難しかった。だが、物ではなく、この世界そのものが本物かニセモノかの判別が難しいという作品がある。それは『マトリックス』だ。『マトリックス』ではここが現実世界なのか電脳世界なのか普通の人には分からない。電脳世界が本物の世界と寸分違わぬように作られているため、電脳世界に繋がれている人々には、そこが現実世界なのか、電脳世界なのかが分からなくなっているのだ。人々は電脳世界を唯一の現実世界と信じて暮らしている。


 
このような現実と幻想の区別がつきにくいという設定は『荘周胡蝶の夢』で見られる典型的な世界設定だ。『荘周胡蝶の夢』とは、自分が蝶になって野原を愉快に飛びまわる夢を見ていたら、次の瞬間、「ハッ」と目が覚めたときには人間の荘周になっていたというものだ。荘周はそれを顧みて、自分が蝶になった夢を見ていたんだと最初は思ったのだが、実は今こそが夢を見ている状態であって、蝶が荘周になっている夢を見ているのではないかと考えることもできると気づく。「果たして自分は荘周なのか、それとも蝶なのか、真実の姿はどちらなのか?」という疑問に頭を悩ませる。結局、どちらが真実の自分の姿なのかをハッキリと区別することはできないという結論に至る。以上、「どちらが夢でどちらが現実かを明確に区別することはできない」というのが、一般によく使われる『荘周胡蝶の夢』の喩え話の意味だ。(*1)

ここで注意しなければならないのは、『荘周胡蝶の夢』では自分が人間なのか蝶なのかはどんなに深く考えても最終的に判別できないのだが、『マトリックス』や『ブレードランナー』では本物とニセモノは極めてよく似ているものの、それでも最終的には本物かニセモノかはギリギリ判別できるという設定になっている点だ。例えば、『マトリックス』ではネオやモーフィアスのように覚醒したわずかの人々が現実世界か電脳世界かを判別できるし、『ブレードランナー』ではデッカードやエンジニアたちは本物か人工物かをギリギリ判別できる。つまり、『荘周胡蝶の夢』と『マトリックス』では現実と幻想の区別が最終的には判別できるか判別できないかで大きく異なる。すなわち、『荘周胡蝶の夢』と『マトリックス』では、2つの異なる物語タイプとして区別される。さて、では、この『インセプション』はどちらのタイプの物語だろうか?この『インセプション』も実は『マトリックス』や『ブレードランナー』と同じで現実か夢かは非常に判別が難しいけれども、最終的にはギリギリ判別できるというタイプの物語に当てはまる。そして、どうやって現実か夢かを判別できるかがこの映画の鍵になっている。(*2)

3.『インセプション』のあらすじ
さて、前置きはこの位にして、まず『インセプション』のあらすじついて簡単に説明しておこう。主人公のコブは他人の夢に侵入して情報を盗み出す産業スパイである。他人の夢から情報を抜き取ることをエクストラクト(抜き取り)というが、コブの通常の仕事はこのエクストラクトばかりだ。だが、コブは大企業の社長サイトーから、エクストラクトではなく、インセプションの依頼を受ける。インセプションとは、エクストラクトとは逆に、アイディアを他人の潜在意識に植え付けることをいう。特定のアイディアを潜在意識に植え付けることによって、その人が他人から与えられたアイディアとは気づかずに、そのアイディア通りに行動してしまうというものだ。例えば、「タバコが嫌いになる」というアイディアを植え付けられれば、タバコを吸うのを止めるというように。ただし、注意しなければならないのは、潜在意識に植え付けられたアイディアは植物のように成長してゆくので、「タバコが嫌いになる」というアイディアを植え付けられた人はタバコを止めるだけでなく、タバコを吸っている人も嫌いになって、仕舞いにはタバコを吸っている人に殴りかかるようになってしまうかもしれない。植え付けられたアイディアがどのように成長して、その人を変えてしまうかまったく分からないのだ。このようにインセプションは危険な任務であって普通は引き受けない。ところが、コブはサイトーからライバル会社の社長に「自ら会社を潰す」というアイディアを植え付けるインセプションを依頼される。最初、コブはこの依頼を断ろうとするが、サイトーの示した条件に釣られて依頼を引き受けてしまう。その条件とはコブが米国に帰れるというものだった。実はコブは妻殺しの嫌疑をかけられて、国外逃亡を余儀なくされていたのだ。米国にはコブの子供たちが暮らしており、コブはどうしても子供たちの元に帰りたかったのだ。そこでサイトーは巨大な権力を行使してコブの罪を帳消しにして、コブを米国に帰すという。コブは危険と知りつつも、この任務に取り組むことにする。

4.夢の構造
さて、『インセプション』の設定で重要なものに夢の構造がある。『インセプション』で描かれている夢の世界は階層構造になっている。どういうことかというと、『インセプション』では、現実と夢の世界の2つしか世界が存在しないというわけではなくて、夢の世界は階層的に幾つもの世界が折り重なって存在しているという設定になっている。どうしてそうなるかというと、夢の中で再び眠りについて、さらに夢を見ることによってもう一つ別の夢の世界に入ってゆくというのだ。夢の中で夢を見ることによって、階下を下るようにドンドンと潜在意識の奥深くへと潜っていけるという設定になっている。

さらに気をつけなければならないのは現実と夢の世界では時間の流れるスピードが違う点だ。現実での1分間は夢の世界での20分に相当する。そして、夢の中の夢、最初の夢を第1階層とすると、夢の中の夢は第2階層になるが、第2階層ではさらに時間のスピードが遅くなる。現実では1分間のはずが、第1階層では20分間になり、第2階層では400分間になる。このように階層を下れば下るほど輪をかけて時間の流れるスピードが遅くなる。このように、まるでゲームのような特殊な設定を生かして、この物語は観客を楽しませるスリリングな展開が繰り広げられる。設定はこの他にも、キックや虚無、潜在意識の防疫反応や心の武装化などたくさんあるが、ここでは省く。



5.コブの抱える3つの問題
次に、主人公であるコブについて説明する。コブは機知によって危機を脱出する、いわゆるオデュッセウス型の英雄だ。情報を抜き取るときに機知を働かせてターゲットをうまく欺くのだ。ただし、ヘマも多い(笑)。例えば、ここが夢だとバラして相手の信用を得る作戦『チャールズ』はサイトー相手に一度失敗している(笑)。とはいえ、推測だが、数々の産業スパイで成功しているのだから、コブはなかなかの腕前なのだろう。

だが、そんな彼にも問題(弱点)が3つある。1つは、どうしても騙せない相手がいる。それは自分自身の潜在意識の投影である妻モルだ。相手は妻モルの姿を取っているが、その中身は実は自分自身だ。コブがいかにターゲットを欺くのが上手だといっても、自分自身を欺くことはできない。モルにはコブの知っている情報がすべて筒抜けでお見通しなのだ。だから、コブの機知もモル相手には通用しない。この映画はそんなコブがどうやって自分自身である妻と戦うかも物語の見所になっている。ところで、なぜ、妻であるモルがコブの邪魔をするのかはコブのモルへの罪悪感に原因がある。モルへの罪悪感が潜在意識となってモルの姿形をとって現れるのだ。では、その罪悪感の原因は何か?コブがモルに罪悪感を抱く理由は妻の死に深く関わっており、映画の終盤で明かされる。ともかく、潜在意識である妻モルはコブの仕事の邪魔をする最大の敵、最大の弱点になっている。

さて、2つめの弱点は夢の世界に長く居すぎたために、コブにとって現実と夢の境界が曖昧になっていることだ。「夢を見ているときは、ここが夢の中だと気づかない」というように、長らく現実と夢の間を行ったり来たりしていると、どちらが現実でどちらが夢なのか分からなくなってくるというのだ。コブはこれを避けるためにトーテムという自分だけが知っている掌サイズの小さな物体を用意している。この物体の微妙な感触を覚えておくことでここが現実か夢かを見分けるというのだ。映画の中でコブは小さな独楽を使って、その独楽が回り続けるか否かで、ここが現実か夢かを判別する。だが、それでもコブはここが現実か夢かで悩み続けて、しばしば独楽を回して自分が居る場所が現実であることを確認している。

そして、3つめの弱点、それは「もう一度、妻と一緒に暮らしたい」という願望だ。端的に言えば、死んでしまった妻への未練だ。コブは死んでしまった妻への罪悪感があると同時に、本当はもう死んでしまっているが、それでも愛している妻ともう一度一緒に暮らしたいと秘かな願望をいだいている。普通ならそんなことは不可能だ。死んだ人は甦らない。だが、夢の中でなら、それが可能だ。夢の中でなら妻を克明に再現することで、もう一度一緒に暮らすことができる。コブは現実と夢が混同するリスクを知りながらも、秘かに夢の中で妻を再現していた。だから、その所為もあって、仕事中の夢の中なのに、妻が、突然、現れたりする混乱を起こしていたのだ。だが、コブには愛する妻との間で生まれた子供たちを現実の世界に残してもいる。そのため、コブは子供たちと一緒に暮らしたいという願望がある一方で、夢の世界であっても、もう一度妻と一緒に暮らしたいという互いに相反する願望を抱えているのだ。子供たちのいる現実の世界で暮らすか、妻のいる夢の世界で暮らすか?実は、この映画は「この2つの願望のどちらを選択するか?」という葛藤の物語でもある。そして、その選択は心の最も深い深層部である虚無でコブに突きつけられる・・・。

6.『インセプション』の読解で最重要問題は何か?
さて、いよいよ、この映画で最も重要な問題について考えるが、最も重要な問題とは何か?まず、それを画定する。まず、作戦である次期社長のロバートに会社を潰す意志を芽生えさせるというインセプションには成功している。つまり、作戦自体は成功なので、これは最重要問題ではない。では、最重要の問題は何か?映画を見終わったなら、それが何かすぐに分かると思う。映画を見終わったとき、観客が一番に考えたのは、あの独楽は止まったのかどうか、すなわち、コブは現実の世界に戻れたのかどうかだ。したがって、「コブがサイトーを虚無から救い出して、現実の世界に戻れたか戻れなかったのか?」が最重要問題である。そして、「もし、戻れたのだったら、その証拠なり、そう確信させるものは何か?」というのが最重要問題から導かれる解答になる。(もちろん、その逆の「戻れなかったのなら、その証拠は何か?」というのもありえるが、戻れたか戻れなかったかのどちらか一方の論証にあればいい。)

7.『インセプション』のクライマックスはどこか?
さて、では、最重要問題の解答は何か?コブは現実に戻れたのか?戻れたのなら、それはどこで分かるのか?ここで、問題を考えるために映画を振り返ってみる。映画の冒頭シーンにもあったように、虚無の世界でコブが年老いたサイトーと再会したところまでは間違いない。そして、コブが自分自身にも言い聞かせるようにサイトーを説得して、サイトーが拳銃を握ろうとした瞬間にこの場面の映像は途絶える。次の瞬間、突然、コブが飛行機の座席で目を覚まして現実らしき世界に戻る。その後の映像はややスローモーションでどこか現実感がない。コブは空港で入国手続きを済ませて、あれよあれよという間に自宅に戻って子供たちと再会を喜ぶ。コブが現実か夢かを確かめようとテーブルの上で回した独楽が回り続ける中、映画は終わる。独楽は、若干、揺らいだ音を立てるが、独楽の回転が止まったかどうかは分からない・・・。

コブが機内で目を覚ました後の場面からはコブが現実に戻れたかどうかは分からない。なぜなら、独楽が確実に止まったわけではないし、子供たちの顔が映画の中ではじめて登場するが、それが戻れた証拠とは言えないだろう。単に、夢の中と知らずにコブの自らの意志で子供たちの顔を見ただけかもしれないからだ。つまり、機内で目を覚ました以降の場面から、コブが現実に戻れたかどうかを確信できる証拠はない。

では、ノーラン監督はコブが戻れたかどうかは観客の自由な判断に委ねたのか?戻れたかどうか、どちらの判断も可能で観客は宙ぶらりんな状態に投げ出されたのか?もし、そう考える観客がいたとしたら、その観客はこの映画を単なるアクションが連続するアクション映画としてしか見ていない。この映画が心に訴えかけてくる心情的な核心を見逃していることになる。もっと具体的に言えば、この映画のクライマックスの意味を分かっていない。そもそも、この映画のクライマックスはどこか?それが分かると自ずとこの最重要問題の答えも導かれる。(*4)

この映画のクライマックスはどこか?それは虚無の世界でのコブとモルの対峙だ。ヒーローとヒロインの最後の対峙だ。この対峙の後、虚無でサイトーと再会して映画が終わるまでの場面は問題の投げかけであって、その問題を解く鍵はこのクライマックスで示されている。このクライマックスが理解できていれば、この後の問題の答えも自ずと分かってくるのだ。

8.クライマックスの意味
第3階層でロバートを殺されたコブたちは再びロバートを生き返らせるために虚無へ行くことにする。このとき、アリアドネはモルのことでコブを心配するが、コブは即座に「モルはロバートと一緒にいる」と答える。驚くアリアドネをよそにコブは続けて「なぜなら、モルは一緒にいたいから」と答える。コブはなぜそこまでモルの気持ちが分かるのか?考えてみれば、簡単なことだ。このモルは妻といっても実際にはコブの潜在意識の投影だ。モルはコブ自身でもあるのだから、モルの考えていることも分かるというものだ。しかも、第3階層まで潜っているので、いわば深層意識の奥深くにいるのだ。つまり、心の奥深くにいるのだから、いわゆる本心、表層意識に邪魔されずに、プリミティブな自分自身の願望をコブ自身が自覚しやすいのだ。意識も無意識も分け隔てるものはなく、より一体となった覚醒した意識に近づいてもおかしくない。

さて、虚無へ潜ったコブとアドリアネはビルの高層でモルと対峙する。コブの言った通りの場所にモルはいたのだ!これも先述の通りでモルは自分自身なのだから、コブにも分かるというものだ。このとき、コブはもう一人の自分であるモルとぶつかり合う。モルはコブを誘う。「この世界で一緒に暮らしましょう」と。そう、コブは今までも自分の夢の中にモルを再現して、モルに罪悪感を抱きながらも、一緒に暮らすことを夢見ていたではないか。その潜在的な願望が潜在意識の化身であるモルから誘われたからといって不思議ではない。むしろ、必然といえる。このような形でコブは自分自身の願望を真正面から突き詰められる。果たして、コブの出した結論は?

9.幻想のモルと本物のモルのどちらを選ぶか?

 コブは自分が残るかわりにロバートの居場所を教えろとモルに要求する。モルは喜んでロバートの居場所を教える。だが、コブはまんまとモルを欺くことに成功する。確かにコブは虚無に残るが、それはモルと一緒に暮らすためではなくて、落ちてくるサイトーを救うためだった。コブは自分の潜在意識であるモルを欺くことに成功する。オデュッセウス型英雄のコブが相手を欺く中でも最も困難な自分自身を欺くことに成功したわけだ。コブはモルをしげしげと見つめながら、モルの誘いを断った理由を語り始める。コブは言う。「君は完全で美しい。だが、本物のモルとは違う。本物のモルは完全だけど欠点もあるひとだったんだ。自分の潜在意識は君を本物に似せてはいるけれど、やはり、本物とは違う。自分が愛しているのは完全だけど欠点もある本物のモルなんだ。君にはすまないけれど、自分が愛しているモルではない」と。ここには人間の複雑な感情がある。見た目の美しさなら、夢のモルの方が本物のモルよりも上かもしれない。なぜなら、夢は現実を美化してしまうからだ。しかし、コブは見た目の美しさだけでモルを愛しているわけではない。コブは欠点もある本物のモルを愛していた。これはどういうことか?これは若い頃の恋愛と熟年の夫婦愛に置き換えて考えてみれば分り易い。若い頃の恋愛は恋人の外見的な美しさに惹かれたりするが、夫婦愛になれば見た目の美しさではなく、相手の人間性や二人で共有してきた時間の中で経験を共にしてきた相手に愛着がある。夫婦愛は表面上の見た目の美しさを超えて、相手の本質や共有した経験があることにこそ惹かれるのだ。夫婦愛は見た目に左右される薄っぺらい愛ではなく、もっと深くて強い愛に支えられている。したがって、コブを現実に引き戻す原動力は見た目の美しさで惑わす幻想ではなく、本質的な夫婦愛なのだ。コブはそのことを自覚したとき、幻想の世界に浸るのではなく、子供たちのいる現実に戻ることを強く意識したのだと思う。(*5)

10.見た目では現実と夢の違いが分からなくなっている!
さて、クライマックスで「夢の中でモルと一緒に暮らしたい」という幻想を克服したコブは、今度は見る陰もなく年老いたサイトーに再会する。コブは年老いたサイトーに昔の約束を思い出させるように説き聞かせる。そして、元の世界に戻るために勇気を出して飛ぶんだと説得する。そして、次の瞬間、突如、機内の中で目を覚ます。目覚めたコブが見た周囲の世界はどこか非現実的だ。そう感じられる原因は映像にある。というのも、音声がなく、映像も少しスローモーションになっているからだ。また、年老いたサイトーと再会した場面からいきなり機内の場面に変わったことも原因のひとつに挙げられる。物語が強引に断ち切られたように、あまりにも突然なのだ。私たちが夢からハッと目覚める体験そのままだ。そのため、観客は目覚めたコブがいる世界が現実の世界なのか夢の世界なのか分からない。観客は「ここは現実なのか?」と戸惑う。今までコブがトーテムの独楽を必死になって回して現実か夢かを確認していたが、今度は観客が同じ目に会う。この文章の冒頭で『ブレードランナー』や『マトリックス』を例に出して、本物とニセモノの区別がつかない程似ているという話をした。今まさに観客は夢と現実の区別がつかない状態に置かれている。観客はどうすれば夢と現実を区別することができるのか?

11.試される観客
夢と現実を区別する証拠を探すためにラストシーンについて検証してみよう。ここが現実ではないかと思えそうな点がラストシーンには2つある。1つはコブが子供たちと再会して、この映画で初めて子供たちの顔が写る場面だ。この点からここが現実だと主張する意見があるかもしれない。だが、虚無においてモルがコブに子供たちの顔を見るように促した場面があったことを思い出してもらいたい。これはどういうことかというと、夢の中であってもコブは子供たちの顔を見ようと思えば見られるのだ。つまり、このラストシーンで子供たちの顔が写ったからといって、必ずしも現実とは限らないということだ。ここはまだ夢の中かもしれない。もう1つはトーテムの独楽だ。独楽の動きから現実か夢か分かるだろうか?ラストシーンで独楽は揺らいだ音を出すものの、独楽が止まるところまでは写されていない。独楽が揺らいだ音をたてただけではここが現実だと確証するわけにはいかない。以上のように、子供の顔や独楽だけではここが現実だと確信するわけにはいかない。つまり、ラストシーンからは現実か夢かは判別できない。では、ここが現実か夢の中かどうすれば、判別することができるだろうか?

だが、物語を少しさかのぼって考えてみれば、そんなに迷うことはない。よく考えてみれば、コブは幻想のモルを克服しているのだ。「夢の中でモルと一緒に暮らしたい」という執着心をコブは克服している。少なくともコブ自身は現実に戻ろうと強く願っていたのだ。そして、現実に戻って子供たちと暮らすことを切に願っていたのだ。そういったコブの強い意志がある限り、コブが自らの意志で夢の中にとどまることはありえない。確かにコブがいくら努力しても現実に戻ることに失敗する可能性はあるだろう。だが、コブの意志自体は現実に戻ることを目指しているのだ。つまり、推測ではあるけれど、コブは現実に戻ろうと精一杯努力したであろうと考えられる。だから、ラストシーンはおそらく現実だと私たち観客は確信できるのだと思う。

さて、話をまとめよう。現代は本物かニセモノか、現実かバーチャルかが判別しにくい時代になっている。特に映像はコンピュータグラフィックスの発達で本物かCGか分からなくなっている。見た目では本物かニセモノか分からなくなっており、人々の中には現実と虚構を区別できない者も出始めている。そして、テクノロジーは本物とニセモノの区別をますます分かりにくいものにしている。この映画でもコブが機内で目覚めた後の世界は現実か夢なのか映像からは判別できないようになっている。だが、物語の意味を考えれば、コブが現実に帰れたであろうことは明白である。いや、よしんば帰れなかったのだとしても、コブが幻想を打破して現実に戻ろうとしたことだけは間違いないだろう。そして、コブが幻想を打破できた中心にあるのは、見た目の美しさに惑わされない、妻への本当の愛なのだ。本当の愛というと語弊があるかもしれない。深い愛というべきかもしれない。恋愛から始まって夫婦愛へと熟成されたような、深められた愛といえるかもしれない。彼が愛しているのは外見がただ若くて美しいだけのモルではなく、モルの心、モルの本質を愛しているのだ。あるいは、二人で積み重ねて共有した経験を伴なっているという固有性、その固有性を持つ妻モルを愛しているのだ。簡単にいえば、長年連れ添うことによって愛着を持つ妻を愛しているのだ。現代は目に見えるものだけが信じられる時代と言われている。逆に言えば、目に見えないものは信じられない時代である。物事の本質や愛は目に見えるものではない。だが、目に見えないものであっても、それらを強く感じとることによってその存在を強く確信することができる。そして、この映画では現実と夢を区別するものとして、それら目に見えない本質や愛が現実と夢を分かつモノとなっている。この映画でノーラン監督はコブが機内で目覚めてから以降の映像で観客がここが現実か夢かを判別できるかどうかを試している。観客が映像に惑わされることなく、ここが現実だと確信することができるかどうか、そして、確信できる理由が見た目ではない強い愛であるということに気づくかどうかを試している。


見た目、視覚効果から考えれば、ここは現実というよりは夢の世界に近いのではないかと類推させられます。しかし、視覚効果だけでは判断できません。一般的に、映画では、たとえそこが現実であってもこのような視覚効果はよく使われることなので、映画の最後のシーンまで追ってみなければ最終的な判断はできないでしょう。では、最後のシーンはどうなっているでしょうか?コブは子供たちと再会を喜びます。子供たちを抱き上げる前にコブがテーブルの上で回した独楽が回り続けています。そして、最後に少しだけ揺らいだ音をたてたところで映画は終ります。結局、このラストシーンだけではここが現実か夢なのかはハッキリと断定することはできません。では、この映画は、結局、ここが現実なのか夢なのか、コブは現実世界に戻れたのか、それとも、夢の中の虚無の世界に落ちたままなのかを観客の判断に委ねたのでしょうか?いいえ、そうではありません。監督はこの映画ではっきりとしたメッセージを残していると思います。なぜ、監督はラストシーンの視覚効果として、このように現実と夢の区別が難しくなるような映像にわざわざしたのでしょうか?それはニセモノが本物と見紛うばかり作られているために、見た目では判断できないということを寓話として入れたのだと思います。では、本物かニセモノかを判断するものは一体なんでしょうか?それは見た目ではなく、物事の本質を見る目です。(*3)

以上のように、この映画は現実と幻想が非常に似通って区別が難しくなってしまったけれど、物事の本質を見極めれば、それが現実か幻想かの判別は可能だと言っていると思います。さらに、見た目の美しさに魅惑されるような薄っぺらな恋愛ではなく、相手の人間性や積み重ねた時間によって培われた夫婦愛こそが深くて強い大切な愛なんだと教えてくれていると思います。この映画のラストシーン(機内でコブが目覚めてから、子供たちを抱き上げて、独楽が回っているシーン)で監督は観客が現実と幻想を見極められるか試しています。そして、見極められるためには物語の核心である夫婦愛に対する理解がなければなりません。物語の設定がSFやアクションで満たされていますが、意識の階層を深く潜った心の最深部、冒険の最後の最後、物語の核心部分で人間の情緒(深い夫婦愛)を扱った文芸的な心に触れる作品になっていると思います。SFと文芸が見事に融合した良質の物語だと思います。



(注)
(*1)一般に『荘周胡蝶の夢』のたとえ話は本文の理解(←夢と現実の区別がつかない。違いはない。)で良いのですが、『荘子』の説くところの『荘周胡蝶の夢』の本来の意味とは違います。本来の意味では「人間になろうと蝶になろうと、姿かたちがどのように変わっても本質は変わらない」ということを説いています。ただし、もう1つ付け加える意味があって、荘子はシャーマニズムの影響を強く受けているので、シャーマニズムが説いている世界認識で、この世界は「この世」の他にも別の世界である「あの世」がたくさんあって、「この世」も「あの世」も共に現実であるということも言っていると思います。

(*2)現実とバーチャルの区別がつかない人にはこの映画は試金石になっていると思います。というのは、現実とバーチャルの区別のつかない人はそれこそこの映画の虚無世界に落ち込んだように、映画のどの世界が現実でどの世界が夢かが分からなくなってしまっています。物語の枝葉末節に囚われるのではなく、物語の核を掴むことができれば、この映画のどの世界が現実でどの世界が夢かの区別がはっきりと掴むことができます。そして、それはうわべの見た目(視覚)ではなく、本質的な意味を知ることでその区別ができるということを自覚します。

(*3)逆に言うと、見た目に惑わされる人は、このラストシーンの見た目に、意識的にか無意識的にかは分かりませんが、影響を受けて、コブは現実世界に戻れなかったと判断してしまいます。

(*4)判断を観客に委ねる作品に『ゆれる』があります。どちらにも解釈できる作品です。なるほど、どちらにも解釈できるようにうまく作れているという意味では技術的に優れている。だが、観客からすれば、「それがどうした?」となります。どちらの解釈もできるし、どちらか一方でもそれなりに意味はあるけれども、両方可能で意味が増えるかというとそうでもないでしょう。1+1=2であって、1+1が3にも4にも増えるというわけではないでしょう。単にテクニックとして上手にできましたという話ではないでしょうか。確かに技術的には優れているけれども、物語としては意味はありません。

(*5)「コブはモルと夢の世界で暮らしたがっている」というのは第3階層でのコブとアリアドネの対話からも推測できる。コブはアリアドネにモルはロバートと一緒にいると言います。モルはコブと一緒にいたいからです。言い換えると、潜在意識のモルのこの願望はコブの願望でもあるのです。コブはモルと一緒にいたいのです。ちょっと冷めた目で見ると、コブが一人でミッションのクリアーを難しくしているだけで一人芝居しているように見えるかもしれませんね(笑)。

細かいツッコミですが、「コブはモルを欺けないので?」はという疑問があります。ですが、このとき、コブはサイトーが落ちてくるから虚無に残るつもりでいました。ですから、「コブが虚無に残る」という言葉はモルと一緒に残るという意味ではなくて、サイトーを連れて帰るために残るという意味だったのです。ですから、コブはモルにウソをついたわけではありませんでした。


(*6)ラストの虚無の世界におけるサイトーとコブの年齢差について推測を書いておきます。海辺のサイトーの屋敷で再会したサイトーとコブですが、サイトーは明らかに極めて高齢の老人になっています。一方、海岸から拾い上げられたコブはやつれてはいますが、老人になっているわけではないと思います。この二人の年齢差はどうやって生じたのでしょうか?おそらく、サイトーは弾丸による傷が原因で第1階層で死んでいます。一方、コブは夢を見ることで虚無世界に行ってサイトーが落ちてくるのを待っていました。ですから、順番から言えばコブが先でサイトーが後のはずです。ですが、年齢差から考えれば、サイトーが長く虚無にいて、コブが後から虚無に来たと推測できます。何故でしょうか?おそらく、コブは夢を見る状態で虚無にいましたが、第1階層で水中に車で転落したときに水死してしまったのではないかと思います。もしくは、他の第2、3階層で死んでしまった。死んでしまうことによって、夢で虚無にいた状態から、サイトーのように死んで虚無に落ちてきた状態に変わったのではないでしょうか?言ってみれば、最初、虚無にいた状態がリセットされて、死んで再び虚無に落ちてきたのです。そういったプロセスがあったためにサイトーはコブよりも早く虚無にいたわけです。サイトーはすでに弾丸の傷で死んでいるので、水死することもありません。コブよりもいち早く虚無に落ちているのです。その僅かな時間差が虚無で拡大されてサイトーが老人になるまでの時間差となって現れたのだと思います。ですから、サイトーは虚無の中で老人になるまでの一生分の時間を過ごしたことになります。機内で目覚めたときの茫然としたサイトーの表情はその過酷な長い年月が年輪のように押し寄せて、眠る前の精気のある顔から目覚めた後の苦難の旅を経た後のような微妙な表情に変わったのだと思います。この辺りの実に繊細な渡辺謙の演技はとても優れていると私は思います。