2012年9月22日土曜日

宗教について

前回の記事で「日本人の無意識、特に若者の無意識はオウム真理教事件がトラウマとなって内への探求を忌避するようになってしまった」というような話を書きました。また、オウム真理教だけでなく、すべての宗教に対して拒否反応をハッキリと持つようになったとも思います。そこで今回は宗教についてちょっと話しておこうと思います。

今の若者の宗教に対する反応を見ていると宗教というだけで思考停止状態になって聞く耳を完全に閉ざす拒絶反応を示すようになったと思います。しかし、宗教というだけで何もかもすべてを拒絶するのはちょっともったいないなと私などは思います。

というのも哲学の成り立ちを考えると宗教が果たした役割は大きく、これまで蓄積されてきた思索の軌跡はとても参考になると思うからです。そこにはたくさんのアイデアが詰まっています。ところが、今の若者は宗教というだけで無意味で無価値なものとして、それらをまったく参考にすることなく簡単に切り捨ててしまいます。私などからすれば、それはあまりにもったいなく、もう少し視野を広げられればなあと思います。

また、今の若者の「宗教とは何か」というような宗教に対する認識もかなり浅薄・偏狭・卑小なものになっていると思います。明らかに間違った認識を持っている人も数多くいます。まあ、宗教というだけで思考停止状態になるのですから、そうなるのも当然ですが。

ここまでこの記事を読んだ人は私が「宗教を擁護したりして、何か特定の宗教の勧誘でもしようとしているのではないか?」と疑う人がいるかもしれません。しかし、話はまったく逆で、むしろ宗教を突き放して捉えることで宗教を客観視しようというのが私の考えです。私は自分が特定の宗教に入信することはまずないとけっこう自信を持って思っています。そういう自信があるからこそ宗教を恐れずに見つめることができるのかもしれません。

ところが、今の若者はそうではないように思います。自己が脆弱であるために宗教に侵食されるかもしれず、そのためにあえて宗教を卑小なものと矮小化して捉えて切り捨てることで自己が侵食されるのを防いでいるように思えます。しかし、それは誤った宗教に対する認識をもとにしており、万一、それが破られればかえって宗教に入信してしてしまう危険があると思います。また、対象を矮小化することで逃避するような癖は宗教以外にも用いるようになってしまい、物事を客観的に見ることから次第に遠ざかってしまうようになるのではないかと思います。

確かに宗教には悪い面がたくさんあります。しかし、良い面・参考になる面もあると思います。悪い宗教があるからといって、すべての宗教を捨ててしまうのはあまりにもったいないと思います。ですので、宗教を恐れずに、また鵜呑みにすることもなく、もう少し注意深く耳を傾けてみては?と思います。

それから最後に、日本の若者が宗教を卑小に捉えるのは単に恐れから来る防衛反応ばかりでなく、ある感性が欠如しているからではないかと思います。それは何かというと詩的感受性です。日本の若者は詩の感性が大きく欠如するようになってしまったと思います。詩を読んでも詩に感応する若者がどんどん減ったと思います。そのため宗教に対しても多くの若者は感応することが無くなったのだと思います。そして、宗教に対してどんどん無理解になったのだと思います。