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2010年5月8日土曜日

オタクの話

確かに「純文学は真面目に考え、アニメは最初から真面目に考えようとしない」というのはあります。私もガンダムを題材にガンダムオタクの人に真面目な話をしたら、「たかがガンダムにそんな意味をくみ取るなんて」と呆れられてしまった経験がありますね。

その人は私より詳しくガンダムを知っているのに「じゃあ、あなたはそんな他愛も無いガンダムに夢中になっているのはムダではないの?他愛も無いと思われていることにも、実は大切な意味があるから、世間から他愛もないと見なされているものでも自分は一生懸命取り組むんじゃないの?」と思ったのですが

ところで、その人はガンダムオタクだったけど、一方でミリタリーマニアでした。もともと、『ガンダム』は富野由悠季がハインラインの『宇宙の戦士』(←端的に言えば保守系)を批判的に捉えて創作したはずのものでした。それなのに、結果的には、『ガンダム』は保守系の作品として捉えられるという皮肉

なので、「小説は真面目に、アニメは遊び半分で」という批評を看過していると、先のような歪められた形で通ってしまう。まあ、物語の解釈は人それぞれなので、それも仕方ないことではあるのですが・・・。でも、「そうじゃないんだよ」という情報も必要だと思います。

ただし、オタク的なものが逆流するのはどうかとは思います。オタク的なものがそれまでの伝統文化を破壊するのってあります。ただ、生命の進化と一緒でそれも自然淘汰なのかもしれませんが、でも、やはり、年寄りの自分としては(笑)、ひと言、言いたくなります(笑)。歳取るのって嫌ですね。

そういう意味では「生物の絶滅を防ぐ」という行為は進化論に反した行為かもしれません。実際、昆虫の世界ではどんどん新しい種が生まれては消えていっているとか。未だに知られていない種類の昆虫がたくさんジャングルにはいるらしいし。

話を戻すと「アニメを正当に評価しない」という日本の体質は昔からあって、例えば、浮世絵とかもそうじゃないかと思います。西洋で芸術として高く評価されたから、逆に浮世絵の芸術性が日本でも認められたわけで、西洋で認められていなければ、単なる好事家の枕絵になっていたかもしれません。

今でも日本の浮世絵収集家、あ、春画収集家と言った方がいいのかも、は、江戸時代からのオタクの系譜といっていいのかもしれません。そうなると「アニメを正当に評価しない」という日本の体質は伝統文化なのかもしれません(笑I)。あ!それじゃあ、いけない!

それと『宇宙の戦士』の映画版『スターシップ・トゥルパーズ』も原作の『宇宙の戦士』を批判的に捉えて、皮肉った内容になっているのですが、これが映画を見た人には皮肉と気づかない人がけっこういました。先に言ったガンダムオタクの人もその一人でした。「どこが皮肉なの?」と真顔で聞かれて吃驚

思わず絶句したのですが、いざ、説明しようとした私も「あれ?あれって皮肉じゃあなかったのかしら?」と自分に自信が持てなくなってしまいました(笑)。案外、あれを作ったアメリカ人の方が平和な考えをしているのかもしれません。ちょっと悩んでしまいました。

なので、個人や市民、国や政府は分けて考えないといけないと思います。ただ、いざとなったら、普段は善い人なのに悪いことをしちゃうという場合もあります。普段は虫も殺せぬ優しい人なのに、いざ、戦争に行くと一生懸命働いちゃう感じだと思います。

なので、個人レベルの思考と国レベルの思考など様々な階層があるのだと思います。なので、私は中国を批判してますが、それは国レベルであって個人レベルではありません。個人は別だと思います。国レベルの話は拙論『日本の未来戦略』参照http://www.neoaca.com/critique

2010年5月7日金曜日

普天間問題その2

普天間基地移設問題について。徳之島が移設に反対を表明するのは理解できる。だが、沖縄にこれ以上基地を押し付けるのは不公平だろう。基地問題は日本全体の問題だ。鳩山だけに責任を押しつけるのは間違っていると思う。

しかし、鳩山が徳之島と話し合いたいというのに、徳之島が話し合いを拒否するのは民主主義の精神に反するのではないか。問題に対して話し合いをするのが民主主義だろう。その話し合いを拒否するのは民主主義の精神に反するようにも感じる。

したがって、基地問題が日本全体の問題なのだから、国民投票にすべきではないだろうか?まず、地理的条件から候補地を徳之島以外に、あと2つ追加する。そして、3つの候補地から国民投票によって選ぶというのは、どうだろうか?地元の利益を優先するのはどこも同じだ。基地問題は国の問題だ。

3つの候補地から国民全体がその中から選べば、国民自身にも選んだ責任を感じられるようになるだろう。日本全体の問題なのだから、その責任を国民一人一人が感じるべきではないのか?それが民主主義というものではないだろうか?

鳩山ひとりに基地問題の責任を負わせて国民は知らん顔をするのは、民主主義ではないだろう。この問題が政府と候補地が話し合って決められるような問題ではないだろう(もちろん、受け入れる候補地があれば別だが、まず無いだろう)。そうであれば、国民投票で決めて然るべき問題ではないだろうか。

徳之島の町長のように「話し合いを拒否して後は知らない。沖縄だけが苦しめばいいだろう」というのでは不公平だろう。もし、国民投票で3候補地が決まれば、地元の首長は基地が地元に来ることによる、日本のデメリットをアピールせざるをえないのではないだろうか?

また、もし、国民投票が規定の投票率に達しない場合は、政府に決定権が委ねられたとしてしまえばいいではないか。棄権した者は決定できなかったというのはあるだろう。いずれにしても、基地問題は日本全体の問題として考えるべきではないだろうか?それが民主主義ではないのだろうか。

もちろん、これまでツイートした考えは、基地を国外に移設できなかった場合の話しだが。

2010年5月4日火曜日

『ゲーデル的脱構築』について

ネットを散見していたら、2、3日前からゲーデルが話題になっていたみたい。「ゲーデル的脱構築」とかが俎上に上がっていた。私の記憶では、当時でもおおむねスルーされたような気がする。ただし、それでも気持ちだけは分かるから、それをどう繋げるかをみんなで思案していたんじゃないかと思う。

ゲーデルの不完全性定理については自己言及型パラドックスによって感覚的な理解がしやすいと思う。また、対角線論法による説明でも昨今は理解しやすくなったと思う。そもそも不完全性定理のおおよそ意味するところを理解しているからこそ、グレッグ・イーガンのSF小説が面白いと感じるのでは。
 
ソーカル事件に過剰反応し過ぎだと私は思う。もっと自由に科学から概念を借用して使っていいと思う。確かに詭弁に利用されたり、誤用するリスクはあるのだけど、そのリスクを避けるために、思考の自由をそぎ落としてしまうのは、やはり、もったいないと思う。真偽・真贋はある程度自己責任で判断。

また、科学は仮説を立てて試行錯誤するのだから、そこには失敗が数多く含まれている。見方を変えれば、ニセ科学は失敗を成功と勘違いしているとも言えるかもしれない。とにかく、科学を真理だけだと崇拝するのはちょっと違うと思う。

科学者の頭の中では、1つの正しい仮説の前に99の間違った仮説があったかもしれない。「科学は絶対に正しい」的な感覚はその1つの正しい仮説の部分しか見ていないかもしれない。それは氷山の一角で、その下には99の間違った仮説があったかもしれないのだ。科学者の方が平気で間違ったことを言う。

ゲーデルが神の存在を云々することは特に不思議ではない。それは存在論だからだ。物理学などはもろに存在論だろう。哲学は存在論を構築できなかった。神学は神概念で存在論を構築したが、人々の中で「神が死んだ」感覚では意味を為さなかった。

世界の4大論理学者にゲーデルの他にアリストテレス、フレーゲ、タルスキがいる。タルスキはポーランドの数学者だ。ゲーデルはオーストリア出身でウィーン学団と関わりがある。一方、タルスキはポーランド数学に属する。拙コラムを参照のことhttp://www.neoaca.com/column

万が一、勘違いするかもしれないから言っておくと、「ゲーデル」と「ゲーデル的脱構築」は分けて考えないといけない。で、「ゲーデル的脱構築」は、まあ、雰囲気的な言葉であって、そこに深い意味を求めても仕方ない。そこに意味が無いと知って怒るのも分からないでもないが、やや不粋ではある。

「数学を形式的に矛盾のない体系にする」というヒルベルトの試みがあったのだが、ゲーデルの不完全性定理によって数学の無矛盾の体系化は不可能であることが分かった。不完全性定理に従えば、数学は不完全なのだ。これは「数学には矛盾がない」という世界観に対してコペルニクス的転回を迫られた。

つまり、「数学は矛盾がない完全な体系」ではなく、「数学は、それ自身では無矛盾を示せない不完全な体系である」という大きな数学観の転換を迫られた。

次に、脱構築だが、脱構築とは何かというとテキストの読み替えだ。あるテキストは、通常、Aという内容に読める。しかし、脱構築(あるいは誤読)するとBという内容に読めてしまう(あるいは読んでしまう)。そのとき、場合によっては、Aだと思っていたのが、反対の反Aに読めてしまうものもある。

それが先程の「数学は無矛盾で完全だと思っていたのが、実はそうではなくて不完全だった」という不完全性定理に脱構築が似ているように感じてしまう原因だと思う。脱構築はAをAとは違うBと読み替える作業だけど、たまにAと反対の反Aと読める場合もあるということ。←とても荒っぽく言えば、だが。

良い例が思い浮かばないけど、脱構築じゃなくて誤読で言えば「情けは人のためならず」という言葉がある。本来は「情けは人のためになるから、人に情けをかけなさい」という意味だった。ところが、誤読して「情けをかけると人は怠けるので、人に情けをかけるのは良くない」という反対の意味に捉えられた

「ゲーデル的脱構築」とは、まあ、今、言ったようなそんなニュアンスが含まれている。ただし、別の捉え方も可能なんだけど、それは割愛する。いずれにしても、「ゲーデル的脱構築」というのは、あまり深い意味のない言葉で掘り下げても仕方がない言葉だと思う。

当時はまだ分かり易いテキストもなく、ゲーデルは難解だったから、柄谷が曖昧な意味で、かつ不正確な表現で「ゲーデル的」と使ってしまったとしても、あまり責める気にはなれない。たぶん、当時もそれを承知で話半分で聞いていた人もけっこういたと思う。真面目に悩んだ人もいたかもしれないが(笑)。

ちなみに、「脱構築」はDeconstructionである。一方、似た単語にDestructionがある。これは「破壊」である。というわけで、手前味噌ですが(笑)、こちら、破壊哲学もよろしく!→http://www.neoaca.com/

追記

東浩紀がGW頃からツイッターで話題になっている「ゲーデル的」について言及していた。まあ、おおむね、氏の言っていることが分かる。私が5月4日に言及したことと同じような感じだと思う。今回、話題の流れを傍観していて思ったのは、意味の継承がなされず、途中で断絶しているということだ。

いくつかの原因がある。意味が断絶してしまったこととソーカル事件の影響がある。しかし、ソーカル事件はもったいないことをしていると思う。思考の自由を自ら奪ってしまっていると思うからだ。ちょっと危うい理解で使っても良いと思うし、その方が却ってニセ科学などに対する警戒心を高めると思う。

意味の断絶が問題。たぶん、東浩紀自身、まだ、一読者だった頃から感じていたことではないかと思う。断絶は90年代半ば頃にはすでに始まっていたと思う。←ちょっと時期を特定するのは自信がないが。それがネットによってはっきりとさらけ出されたと思う。全然、伝わっていなかった、・・・と。

ゼロアカのときに「文学の全体性の回復」みたいな話になっていたと思うが、それとも少し関係してくると思う。意味の断絶を修復して、再び、全体性を回復するというのがあると思う。実は『神話を考える』を読んでいても、意味が断絶しているのをちょっと感じていた。

まあ、私が歳をとって単に過去の事情を少し知っているだけなんだが(笑)。今の若者たちが過去の経緯を知らないのを単に無知と言ってしまうのも、ちょっと酷な気もする。それなりに長い歴史があって、それを若者に知ってて当然というのもちょっと可哀想かなという気がしないでもない。

だが、大きな断絶があって、まるで過去と現在が別世界になってしまっているのには戸惑ってしまう。しかも、あらぬ方向に話が進んでいく。まあ、それを「新しい」と言うのかもしれないが。でも、それを進歩とは思えない。歴史の勉強が必要ではないだろうか。でも、解釈の違いが出てくるんだろうなあ。

昨日、「スコラ坂本龍一の音楽学校」という番組をNHKでやっていた。「若い芽を摘む会」の会長を自認していた坂本龍一が教育に熱心だったのには、皮肉ではなしに感動した。これも意味の継承に努めていると言えると思う。それにしてもミュージシャンは音楽が楽しそうで羨ましい。

あ。「若い芽を摘む会会長」と言っても、要は「厳しい師匠」という意味で、それは後進の育成に熱心だということと同意なので、現在、教育熱心なのと矛盾はしない。スラムダンクの安西監督が「白髪鬼だったのが、優しくなった」みたいなものだと思う。それにしても、教授はカッコいいと思ってしまう。

こんなことを言うと怒られちゃうかもしれないけれど、今の若者は現代アートを云々する前に、現代アートを理解する素地ができていないんじゃないかと思う。近代人のような古いモダンな素地(足場)があって、現代アートを受け止められるのではないかと感じられる。若者はポストモダンなのでそれがない。

『神話が考える』のモダンとポストモダンの区分けに相当するのかもしれない。もう少し、意味の断絶も含めて、その辺りを突っ込んだレビューを書き加える必要があるかな。あ。『神話が考える』の現時点の感想はこちら。http://www.neoaca.com/review


ゲーデルの話題で意味の断絶の話をしたけれど、これはゲーデルの話題に限らず、多くの分野に及んでいると思う。上の世代から今の若者に継承されずに断絶したものは多い。ちょっと気になるのは、メディアに対する不信がある。今の若者はメディアに対する不信があるが、普通の人もいるが、極端な人も多い

ネットが普及したことによって、新聞やテレビなどの従来のマスメディアに対する不信が声高に言われた。これは批判だから、まあ、別に良いのだけれど、効果が効きすぎて、本当に従来のマスメディアをまったく信用しなくなっている人が出はじめている。それはちょっと違うと思う。

「これは絶対に真実しか言わないメディア」「あそこは全部ウソしか言わないメディア」と極端に分けるのではなく、自分自身で判断して疑わしいとグレーに判断した方がいいと思う。確かにメディアによって偏りがある。だから、その偏りを承知していれば、差し引いて考えればいいのではないかと思う。

例えば、Newsweekなんて保守寄りだったと思う。競合はTIMEだったんじゃないかな?斬新な内容も多いけど、眉唾の怪しげな記事も平気でもっともらしく載せていた。そういうのを承知して自分で判断すればいいと思う。そして、自分だけでは確実な判断はできないのだから、あくまで疑うだけだ。

できたら、2つの相反する記事にあたる方が全体を俯瞰しやすい。昔なら右と左の両方を見れば、大体、分かりやすかったと思う。まあ、読売新聞と朝日新聞の両方を見るようなものかもしれない。それぞれ傾向(偏り)がある。ところが、どちらかを絶対に正しいと思い込んでしまうと偏って不正確になるかも

だが、ときに決断を迫られるときには両方を選択できないので、1つの行動を選ばなけれならない。そのときにはそれまで積み重ねた経験を総合して判断すればいいと思う。ずいぶん、当たり前のことを書いていると思う。ところが、昨今、良識派や穏健派というのが言論から見られなくなったと感じる。

東西冷戦が終結してグローバリズムが進行したとき、日本は新しい将来像を立てるべきだったが、それができなかった。旧来の体制が強固だったのもあるし、新しい将来像を定めることができなかったのもある。いま、中国に追い抜かれて、はじめて自分たちが足踏みしていたことを実感しているのではないか?

上の世代は旧来の思考を引きずったまま新しいモデルを持てなかった。そのため、言論な中身は停滞した。一方、若者はそんな空疎な言論と実際の現実のズレを見て、言論が無意味で不要だと思ってしまった。言論と現実がリンクしていないとき、言論なんて不要だと思ってしまったのではないか。

そして、将来像を見失った言論はモデルがないため迷走して良識を失っていったのかもしれない。言論が連続性を持っていれば、なだらかな繋がりが保たれるだろうから、良識派や穏健派が残ったのかもしれないが、今やそれは見当たらない。念のためだが、保守は名前こそ保守だが別に良識と関係ない。

ちょと話が長くなりすぎた・・・。ともかく、これ以上の断絶を防ぎ、良識を取り戻すべきだと思う。もちろん、個人は自由で良いのだから、別に良識とやらに囚われる必要はないし、良識に縛るようなことがあってはならない。だが、社会の中にまったく良識派が存在しないのも、いささか問題だと思う。


ゲーデルの不完全性定理の一般的な理解は自己言及型パラドックスで良いと思う。例の「『クレタ人は嘘つきだ』とクレタ人は言った」というやつ。もし、このクレタ人が言ったことが本当なら、『』内は真実になるので、その結果、クレタ人は嘘つきだという結論になる。が、それだと言った人は嘘つきで矛盾

また、クレタ人が嘘つきだとすると、このクレタ人が言っていることも嘘になるので、『』内の話は嘘になるから、結果、クレタ人は正直者という結論になる。しかし、それだと最初のクレタ人は嘘つきだという前提と矛盾してしまう。こういうのを自己言及型パラドックスという。

自分自身で自分が矛盾していないことを証明できないというのが、なんとな~く分かるような気がしませんか?この自分である定理をpとすると、pが矛盾していないことを証明するにはpを含む、より大きな定理が必要になる、らしいです。「クレタ人は嘘つき」だの喩え話の場合は人間を持ってくるのかな?

でも、pより大きな定理をqとしても、そのqが自己矛盾していないのを証明するためには、qよりももっと大きな定理を持ってこなければならない。こうなると、延々とp<・・・と続いてゆく。すると、最後には「数学には数学自身が無矛盾であることを証明できない」ということになる。

だいたい、こんな感じが一般的な理解だったんじゃないかと思う。ウィキを見ると自己言及型パラドックスを使って不完全性定理を説明することをちょっと否定的に書いてある。ただ、これは日本で最初に不完全性定理がポピュラーになったときも言われたことだと思う。でも、一般的にはこの理解で良いと思う

でも、ちょっと自信はない(笑)。間違っているかもしれない(笑)。私はおおざっぱだし、あまり頭が良い方ではない。むしろ、悪い方に入る。実はネオアカのブックレビューを加筆したんだけど、そのとき、本文をちょっと読み直したら、稚拙な文章で恥ずかしくなった。

普天間問題その1

普天間問題は難しい問題だ。沖縄県民の気持ちは分かる。また、日本のどの県も喜んで米軍基地を受け入れる所はないだろう。沖縄はアジアの火薬庫と言われるほど大規模な戦力になっている、と聞いたことがある。米国の国防戦略からすれば、アジアの一大軍事拠点である沖縄は手放せないだろう。

しかし、日本としては独立国としては米軍基地を許容出来ないのも分かる。同盟といっても日本は第2次大戦の敗戦国という被支配国という立場に過ぎない。だが、日本の立場からすれば、米軍基地に引き上げてもらうのが、やはり、筋だろう。だが、地政学的要件を考えると微妙ではある。

米国と中国という2大超大国の中間地点に日本はいる。中国の立場からすれば、中国は太平洋を挟んで米国と対峙したい、というのが本音だろう。ところが、巨大な米軍基地を置く日本は中国の喉元に突きつけられた刃になる。中国の戦略としては、日本を中国の属国にして米国への防波堤にしたい所だろう。

米国としては、逆に日本は中国への防波堤になりうる。日本はアジアへ睨みを効かせるための米国の不沈空母になる。故に米国は簡単に日本の米軍基地を手放すとは考えにくい。米国が極度に財政難に陥って中国に援助してもらう見返りに日本を譲るということはあるかもしれないが、その可能性はゼロに近い。

もし、「日本は米国と中国のどちらにつくか?」という二者択一を迫られたとき、日本は米国につくのが良いと思う。米国も問題は多いが、中国よりはまだ自由がある。中国のやり方は全体主義的で自己中心的な中華思想が強い。言わば、中華帝国だ。チベットやウイグルでは少数民族が呑み込まれている。

ちなみに軍事費では米国が圧倒的1位で中国が2位だ。日本は6位くらいに位置する。単純比較だが、軍事費で日本は中国に劣っている。中国が経済的に急成長する前なら日本から米軍基地撤退も良かったが、現時点では軍事バランス的によく検討しなければならない。慎重に考えねばならない。

では、米軍基地を日本に置くとして、どこが適切か?確かに沖縄が地理的に適地なのだろう。が、歴史的背景を考えると先の戦争で沖縄が受けた戦災は看過できない。その沖縄にずっと負担を負わせ続けることはあまりに不公平だ。だが、仮に他県に移しても、今度はそこが半永久的な米軍基地になってしまう。

民主党は米軍基地の移設を謳った。しかし、自民党は米軍基地の移設はまったく唱えなかった。「米国の支配下にいることを甘んじろ」というのでは、たとえ、現実的だとしても感心しない。そういう意味では、たとえ失敗しても民主党の挑戦に分があると思う。だが、では、具体的にどうするかが問題だ。

北マリアナ諸島のテニアン島で米軍が許諾するなら、それも良いだろう。だが、やはり、アジアからは遠くなってしまう。今後、米国が見据えるであろう中国からはかなり離れてしまう。いや、アジア全体から遠くなる。テニアンではアジアの辺境になってしまう可能性がる。

沖縄以外に米軍基地を置く場所は難しい。過疎化している日本海側のどこかに置いてはどうかと思わないではないのだが、たぶん、難しいだろう。米軍基地問題は本当に難しい。

実現可能かどうかは分からないが、日本の領海のどこか戦略的に適切な場所に人工の巨大な島を作れないものかと思う。石油掘削基地を何十倍、何百倍にしたような巨大な人工の島を作れないものだろうか?そこを特区にして政府直轄地にして米軍と自衛隊の基地にできないものだろうか。

たとえ、すぐに建設できないにしても、百年、二百年の計画を立てて、三百年後には米軍基地を人工島に移設できるような長期計画を立てられないものだろうか?そうすれば、米軍基地を他県に移すこともなく、沖縄県民も今すぐというわけには行かなくとも、いつかは米軍基地が無くなるという希望を持てる。

人工島案は突拍子もない奇抜な案ではあるけれど、石油掘削基地ができるなら、まったっく不可能ではないのではないかと思えるのだが、しかし、あくまで素人考えのため、専門家からは鼻で笑われる考えかもしれない。だが、沖縄県民に我慢を強いるしかないというのはそれはそれで無能無力の感が大きい。

以上、普天間問題でいろいろと考えてはみたものの、これといって名案は私には考えられなかった。普天間問題は本当に難しい。なお、ここで示した案の背景にあるのは、ネオアカで提示した拙論『日本の未来戦略』が元になっています。http://www.neoaca.com/critique

2010年5月2日日曜日

椹木野衣の書評『神話社会学』を読んで

それから、椹木野衣による『神話が考える』の書評を読んだ。あ、村上裕一の書評も読んだ。やはり、書評し辛いと思う。1つは難解なんだが、単に難解なだけじゃなくて分かりづらいんじゃないかと思う。

ある意味、ニューアカの功罪の1つかもしれない。一般論として、昨今のこの手の論文はどうも引用過多じゃないだろうか?とはいえ、それはニューアカに罪があるのではなくて、昨今のが無茶な引用が多いと思える。いや、まあ、私の不勉強な所為かもしれないのだが・・・。

それと『神話が考える』に絞って言えば、連載時の『神話社会学』で扱っていた問題系がすっぽり抜け落ちているためではないかと思う。いや、記述しているが、私が理解できない所為かもしれない(爆)←言い訳すると実はつい先日買ってきて、読み始めたばかりなのだ。

1つ前のツイートで言っている問題系とは、『神話が考える』の第1章「ポストモダンの公私」のことを言っていて、それは最後の「おわりに」でその解決案が示されていると思うんだけど、ちょっとこれが私には分かりづらい。連載されていた『神話社会学』の方が分かりやすかったと勝手に思っている。

一応、断っておくと、これは著者が悪いのではなくて、私の勉強不足に由来している。この辺りのことをよく知らないのだが、ただし、「じゃあ、知っている人はあれで分かったのだろうか?」という疑問も実は少しある。もう少し、内容に踏み込んだ書評を誰か書いてくれないかと思う。

そういえば、浅田彰がAAAの紹介で「神話社会学的な構造分析」と書いていた。ちゃんと「神話社会学」と書いていたので、連載時から読んでいたのかもしれない。だったら、浅田彰に書いてもらいたいものだと思う。そうすれば、本を読むより、分かり易いかもしれない(爆)だが、その逆もありうる(恐)

ところで、構造社会学は便利な言葉だと思う。後藤和智氏など数値化を求める人たちに対して有効だし、実際、改めて自分たちがやっている分析が構造分析だということに気づかされたと思う。←大げさに言えば。それに「この分析は神話社会学です」というのは憚られるが、「構造社会学です」なら言い易い。

2010年5月1日土曜日

坂上秋成『文芸時評5月号』(週刊読書人)を読む

週刊読書人連載の坂上秋成の文芸時評(5月)を読んだ。以下、その感想を書こうと思います。


1.私小説からブログへ
まず、坂上が言うにはネットの普及で<私>の社会的機能が低下したそうで、私小説という技法が通用しなくなってきたらしい。ネットの不特定多数の刹那的なコミュニケーションによって<私>がかき消され、匿名的集団的な声に圧倒されるという趣旨らしい。坂上のいうネットって、ツイッターや2ちゃんのことではないだろうか?私は別の意味で確かにネットの普及によって私小説は難しくなったとは思う。それは何かと言うとブログだ。例えば、性的マイノリティたちのブログは大きな社会的反響を呼び、彼らの社会的な認知度を高めたと思う。ブログには彼らの内面が吐露されている。ブログは日本では日記として扱われることが多い。日記はれっきとした私小説のひとつと言えると思う。ブログにああも細かく個人の内面を吐露してしまっては、わざわざ文芸誌の私小説を買うのももったいなく感じてしまう人もいると思う。日本での初期のブログの普及はそれこそ、そういった私小説的な読み、ちょっとエキセントリックな個人のプライベートを読む楽しみではなかったか?そういう意味で私小説としてはブログに大きく侵食されたと思う。ところで、日記文学の伝統というのがある。古くは土佐日記や更級日記、近代でも永井荷風の『断腸亭日乗』や石川啄木の『ローマ字日記』がある。中には自宅と愛人宅で別々に日記を書いていた文人もいる(笑)。しかし、考えてみれば、日記は誰にも見せられない内面の吐露だったのに、今ではブログとして世界中に公開しているのだから、世の中も変わったものだ。<私>というものの概念が変わりはじめたのかもしれないが、でも、たぶん、今のところ、そうではないと思う。

2.私の埋没と精神構造の変化?
坂上秋成の文芸時評に戻ろう。文章の構成はよく整理されて読みやすくなったと感じた。ただ、取り上げている作品が、まあ、順当なのかもしれないが、意外性がなく、若いのにどこか先達に媚びているように感じられなくもなかった。いや、まあ、単に作品が良かったのかもしれないから、これは分からない。ただ、最後の結びに関しては疑問に感じる。「<私>の内面そのものが時代遅れの概念として処理されるのみ」とあるが、ちょっと「?」である。いや、その前の文章から疑問なのだが。どうも、よく分からないが、大勢の声に自分の声が埋もれることによって、私が埋没してしまうことを言っているのかもしれない。話は変わるが、ツイッターの使い方は日本人も外国人(米国人)も同じなのだろうか?例えば、フォローしている人物の人数などは日本人も外人も同じだろうか?実は日本人はフォローしている人数が異様に多いのではないかと感じることがある。実際に統計を取ったわけではないから実際の所は分からないが。以前、富野由悠季が「今どきの若者は友人の数が多過ぎる」といって「そんなのは友人とは言わない!」と怒っていたことがあった。同じ志を持つ親友は本当は得難いものだ。再び話は変わるが、以前、TVのインタビューで「茶髪にすることによって自分が軽くなる」といっていた一般人がいた。「ああ、なるほど」と当時は思った。今、もし、大勢の声に埋没する自分を感じていて、そこに自分が消えていくように感じているのだとしたら、それはその茶髪の軽さと似ていると思う。いや、似ているのではないかと思う。もちろん、それとは違う面もあるかもしれない。だが、おおむね、似たような方向にあるのではないだろうか。そうそう思い出した。昔見た大人と若者の対話番組で特徴的だったのが、大人は「俺はこう思う」と力説しているのに対して、若者は「普通はこう思う」と言っていた。何が言いたいかというと、案外、大人の方が自己主張があって、若者の方が波風を立てない当たり障りのない普通を目指していたことだった。世代論的には団塊の世代は大勢の中で目立つためには自己主張が強くなったという論もあるだろうけど、それでも若者にどこか窮屈さを感じたのもあった。話がとんでもなくズレてしまった。ともかく、ネットの大勢の声も金太郎飴の如く、割と誰も同じに感じられることがある。←あ、若者の場合ね。言ってみれば、無個性に感じられる。いや、別に「無理して個性的にしろ」というつもりはない。ただ、それでも規格のように、皆、同じに感じてしまう。ある意味、教育の成果なのかもしれない。よく分からないのだが、「今どきの若者は孤独だなあ」と感じるときがある。だが、その一方で「今どきの若者は孤独に対する耐性が無いなあ」と感じるときもある。心の構造自体は今も昔も変わっていないだろう。でも、何か変わったんだろうなと感じるときがある。携帯やネットが普及し始めたときに、それは感じていた。何かがそっちの方へ流れ込み始めたと。不思議な言い方になるが、ネットに繋がることによって人は孤独ではなくなったんだが、彼らの心の内はずっと孤独になったと感じる。ATフィールドの範囲とか周波数とか色調とかが変わったんじゃないかと(笑)いや、まあ、男っていうのは戦って強くなるから、本当は戦わなくちゃいけないんだが、今の若者はどうもそれをスルーできてしまう仕組みがあって、結局、個として強くならないんじゃないだろうか?ただし、女性は違って、女性は日常生活で強くなる。そのため男よりも大人だったりする。だんだん、話が逸れてしまった・・・。ともかく、「時代遅れの<私>がネットの出現で、最新の<私>にアップデートされて良くなった」とは思えない。むしろ、その逆だ。だから、変わったのだとしても、あまり好ましくない方向に変わったと思う。そういう意味で坂上の結びの言葉には疑問を差し挟むこととする。

3.文学脳とSF的感性
ついでに、坂上のITツールに関する感性はやはり文学脳ではないかと感じる。いや、実生活ではITツールも今どきの若者よろしく器用に使いこなしているんじゃないかと思うのだが、いざ、文章にすると、文学部的な言葉の雰囲気に引っ張られて、文学脳的なITツールの捉え方になってしまうのだと思う。でも、それではSF文学をポジティブに評するには、SF的、理系的感性に欠けていると言わざるをえないだろう。それでは、まともにSFを論じることができないのではないか?支障をきたすのではないか?ITツールの延長にドラえもんや鉄腕アトムを考えてみればいい。ドラえもんや鉄腕アトムに「君たちは非人間だ。機械に過ぎない」と面と向かっていえるだろうか(笑)←いや、ちょっと悪ふざけが過ぎるか。ともかく、「道具はお友達」や「道具は手足の延長」くらいに考えた方がいい。神話にだって、そのとき、登場した新しい道具をけっこう大切に描いている。もっと、ポジティブになれないだろうか。もちろん、全肯定しろというわけではない。だが、どうも・・・。コホン。この辺でやめておこう。ちょっとまとめたかったが、ダラダラと書き流しすぎた。あ、それと坂上のいうネットは日本の中だけのネットに過ぎない。日本のネット文化は他国と比べてちょっと特殊だということを頭の片隅に置いておいた方がいいと思う。まあ、アジア圏は日本に似ているのかもしれないが。

とまあ、そんなわけで坂上秋成の書いた文芸時評でこんなにたくさんツイートしてしまった。きっと坂上君の時評が私をインスパイアしてくれたのだろう。そういう意味では有意義な時評であったと思う。感謝である。

2010年4月24日土曜日

市場の中のネオアカの位置

市場の中でのネオアカの位置について考えてみたいと思います。そこで下図を作成してみました。しかし、この図ですが、実は自分でもちょっと満足していません。単純に分けられないからです。ですので、あくまでこれは1つの極端な目安であって、実際とはちょっと違うと思っています。ですが、まあ、市場をイメージするためにはこういう図は必要だと思います。
さて、ネオアカですが、図では分かりやすくするために大きく書きましたが、実際にはもっと小さいです。前回でも書きましたが、ネオアカはかなりの少数派です。別にニッチを狙ったわけではありません。自分たちの主義思想、ネオアカらしさを考えたら、結果的にニッチになってしまったというのが本当のところだと思います。

ネオアカは

ニューアカに近い位置にいる

と考えています。ネオアカはいわゆる未成熟を是とするオタクではなく、

成熟した大人

を志向しています。この点では

東浩紀系とは対照的

かもしれません。ネオアカは「動物でもよし」とする東浩紀系とは違って、「大人になろう」です。ただし、宇野常寛系ともちょっと違います。今の時代、大人は減少してオタクが増えてしまいましたので、当然、ネオアカは少数派になります。

ただ、まあ、自分たちの主義思想があるので、他に対しては批判的になるかもしれませんが、市場の中で

共存や住み分けは可能だ

と考えています。批判はしますが、存在の否定まではしません。例えば、オタクたちもいつかは大人に成熟する日が来るのではないかと粘り強く期待しています。あるいは、動物化した人間を管理するために、工学的な環境管理を用いたり、擬似宗教によってコントロールしたりといったことを是とはしません。いつかは人間として成長して、しっかりした理性を持つことができると思っています。

最後に但し書きを書いておきます。図ではジャンルによる指標になっていますが、ネオアカは基本的に

ジャンルに対するこだわりはありません!!!

良いと思うものは何でも取り入れます!!!

追記:ずいぶん、オタクを批判的に書いてしまいました。「売れる」ことを考えれば、本当は言ってはいけないことなのかもしれません。でも、ネオアカはあえて言います。そして、そういうことを言えるのがネオアカの強みのひとつです。

2010年4月23日金曜日

ネオアカの数値目標

ネオアカは「売れる」ことを第一目標としてはいません。しかし、読者がまったく要らないというわけでもありません。おそらく、ネオアカのようなスタイルは多くの人に受け入れられるとは思いません。おそらく、かなりの少数派です。

そういうわけでネオアカの読者数の目標としては、

1000人!!!

を目標にしています!

ちょっと高過ぎる目標かもしれませんが、あくまで最終目標です。目標は高いほど良いと言いますしね。ただし、これはあくまで副次的な目標に過ぎません。極端なことを言えば、

ネオアカはたとえ一人の読者がいなくても


我が道を貫くことを良し!!!

と考えています。

2010年4月22日木曜日

ネオアカの政治的立場

ネオアカの政治的立場について語っておこうと思います。

まず、ネオアカは右でも左でもありません。政治に対して無関心でもありません。政治に対して、とても関心があります。税金を払っていますし、社会の一員として社会に参加しているからです。もちろん、一方でアナーキズムな超個人主義的なところもあるので、政治に対してニヒルな面も持ち合わせているかもしれませんが(笑)、右だの左だのの旧来のイデオロギーに囚われもしなければ、ノンポリのように政治に対して子供のような無関心な態度を取るつもりもありません。責任ある大人として政治に関心を持っています。

仮に、主義主張を上げるとすれば、それは

民主主義

です。イメージしている民主主義はけっこう『銀河英雄伝説』を参考にしています。まあ、そればかりじゃありませんが。全体主義や帝国主義には反対の立場をとっています。

2010年4月3日土曜日

ネオアカの方針 その3

ネオアカのポジションについての私の考えを雑談風に考えてみようと思います。

1.指標としての東浩紀
ネオアカのポジションを考えるときに、東浩紀氏のコンテクチュアを指標に考えると明瞭になってきます。というのは、東浩紀のコンテクチュアは、まず第一に「売れる」ということを重視していると思うからです。それ自体は別に悪いことではありません。もちろん、「売れる」ことだけではなしに「正しさ」も同時に成立させることを目指していると思います。「売れさえすれば何でもいい」というわけではなくて、「売れる」と同時に「正しい」という積集合を達成しようとしているのだと思います。ただ、優先順位としては、おそらく、まず「売れる」ということが第一で「正しさ」は第二になっていると思います。また、東浩紀は単に「売れる」ということをスローガンとして掲げているだけではなしに、明確に数値目標として考えています。東浩紀は今までもその目標を明確に数値化しており、1万人の購読者がつくことをその数値目標にしています。コンテクチュアが、実際、どのくらいの数値目標を掲げているのかは分かりませんが、東浩紀は明確な数値目標を持っていると思います。

2.売れるから正しいのか?
さて、ここからはそういった体制に対する懸念について述べます。まず、「売れる」と「正しい」が同時に成り立っている間はまったく問題はありません。ですが、「売れる」ために「正しさ」を犠牲にするようなことがあるとそれは問題です。ただし、ここで勘違いしてはいけないのが、そのような懸念があるなら、最初から「売れる」ことを目的に入れるべきではないという考え方です。しかし、そんなことを言えば、何もできなくなってしまいます。売れなければ、市場では存続できませんからね。国立大学のような公的機関ではないのだから、「売れる」ことはどうしても考慮しなければなりません。だから、売れようと努力すること自体を批判するのはちょっとおかしいと思います。まあ、今どき、それを批判する人はほとんどいないと思いますが・・・。だが、どうしても売れなければ存続できないために、「正しさ」よりも「売れる」ことを優先しやすい。だからこそ、そういったことに注意が必要だと思います。

3.正しいから正しい
そこで、ネオアカはまず第一に「正しいから、正しい」という「正しさ」を第一に考えています。「売れる」ことよりも「正しさ」の方を遥かに重く重視しています。ネオアカの体制を見れば分かりますが、「売れる」ために読者に媚を売ることをしていませんし、コストも極力掛けていません。コストを掛けないことを手抜きと思われるかもしれませんが、今はフリーで用意できる物が多いので、言葉を専門とする批評誌はコストを掛けずとも、そこそこ良質のものができると思います。それにそもそも批評誌で最も大事なものは言葉です。極端に言えば、言葉以外の見せかけの飾りは必要ないと思っています。そんな訳ですから、ネオアカは「売れる」ために「正しさ」を犠牲にするということが起こりにくい体制になっています。

4.正しいとは何か?
ただし、ここで次のような問いが発せられると思います。「正しさとは何のか?単なるおまえの独りよがりではないのか?」という問いがあると思います。確かに「売れるから、正しい」や「多くの人が支持するから、正しい」というのは分かりやすいです。なぜなら、売れた数や支持している人数など数値で明確に示されるからです。ですが、本当にそうでしょうか?当然、答えはノーです。売れたから必ずしも正しいわけではないし、支持する人が多いから必ず正しいわけでもありません。では、何が正しいというのか?「◯◯だから、正しい」という◯◯に当てはまる部分はその時々によって変わると思います。数が多いからという単純な理由で説明できるものではないと思います。逆に言えば、だからこそ、ネオアカが言葉を紡いで「正しさ」を述べる意味があると思うのです。つまり、ネオアカは正しさを追求しており、それはネオアカを読んでもらって、後はネオアカの主張が正しいか間違っているかは読者が各自で判断してもらうしかないと思っています。ですので、ネオアカの存在意義のひとつはそこにあります。

これがネオアカの考える公平批評・攻性批評です。

補足
「売れる」ということについて少し補足しておきます。「売れる」ということは「面白い」や「楽しい」がなければ売れません。この「面白い」や「楽しい」は言ってみれば、文化ですよね。だから、「売れる」ものを作るというのは文化を作るのに似ています。ですから、「売れる」ものを作るのは一種の文化活動みたいなものだと思います。だから、決して「売れる」ことを目指すのは基本的には悪いことでもないし、文化の停滞を招くものでもないでしょう。(市場で商品が売れるのは社会的な価値があるからですからね。)

2010年4月2日金曜日

ネオアカの方針 その2

ネオアカのいう人類知の構築は、乱暴に単純化して言えば、

世界的な教養を構築する

ことです。

いまや世界はネットやグローバリゼーションという国際分業によって1つになりました。しかし、未だに世界の知は言語や文化の違いやその国の教育政策によって分断されたままです。そこで、ネオアカは世界の知の積集合として世界全体・地球全体・人類全体で通用する人類知の構築を目指しています。ただし、世界の知をたった1つにまとめようと言うのではありません。多様性を保ちつつも、1つの共通項を提示できればと考えています。多様性の部分はそれぞれの知の拠点で強化すれば良いと考えており、それだからこそ、多様な知の拠点が存在する意義もあるのだと思っています。

また、今、世界は知の後退局面にあります。世界中をテクノロジーが覆い、文明社会が浸透してきたのに、知はアカデミズムからも追われ、大衆においては知は生活の中から忘れ去られようとしています。このままでは知は大きな断絶を向かえてしまいます。ネオアカは知が少しでも多くのひとに継承されるように努めたいと考えています。

2010年4月1日木曜日

ネオアカの方針 その1

最初ですので、ネオアカの方針について簡単に書いておこうと思います。まず、ネオアカがやろうとしていることは何かを説明します。ネオアカが実現しようとしていることです。ネオアカの主なミッションは全部で3つあります。1つめは人類知の構築です。これがネオアカの主たるミッションになります。2つめは公平な批評です。ネオアカでは市場や国家に左右されない公平な批評を目指しています。3つめは知のネットワーク作りです。これはネオアカ以外の知の拠点との連携です。以下、各ミッションの説明です。

1.新しい知の構築
ネオアカは世界から知がアカデミズムや社会から消滅の危機にあると考えています。同時にネットの出現によって世界はかつてないほどにグローバル化したと考えています。ネオアカはアカデミズムの外部に知の拠点を作ることで知の存続を図り、同時に世界のグルーバル化に対応できる新しい知の構築を目指しています。

2.公平批評
批評は市場や国家の影響にさらされています。売るために批評が歪められている場合があります。ネオアカは公平な批評を模索しています。

3.知の拠点とネットワークの構築
ネオアカは現代という知にとって経済的に厳しい時代に人類の知の系譜が途絶えないように知の拠点を構築して、その拠点をネットワークで繋ぐことによって、知の継承が途絶えないようにすることを目指しています。

詳しくは下記のネオアカのミッションとプロジェクトを読んでいただければと思います。
http://www.neoaca.com/mission1
http://www.neoaca.com/project

さて、ネオアカは以上のようなミッションを掲げ、プロジェクトによってミッションを具体化してゆきます。その中で雑誌の役割としては、新しい知の論文や公平な批評を掲載してゆきます。また、ネオアカの各プロジェクトも雑誌外で進行していますが、雑誌でも途中経過など随時発表してゆくことになると思います。以上がネオアカがやろうとしていることです。