2024年4月28日日曜日

NEWS2024.04


4月2日(火)


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4月16日(火)


4月18日(木)


4月19日(金)

イランvsイスラエルの件
イランとイスラエルの応酬の件。私はイスラエルが悪いと思う。そもそもガザに対するイスラエルの虐殺は酷い。周囲がいくらい言ってもイスラエルが聞く耳を持たないのは十分に予測がつく。だから、軍事介入が必要だが西側諸国はやらない。イランが裏からそれをやった。それに対するイスラエルの大使館攻撃が発端だ、と私は思っている。実際はもっと複雑なのかもしれないが。ただし、これ以上戦火が拡大しないことは願っている。そしてイスラエルがガザから手を引くことを願っている。

日銀の植田総裁が2023年4月に就任から1年が経過。じわじわと目立たないように政策を変えてきたのだろう。世界は変化するから果たして上手く行くかどうか。

自民党裏金問題の件
自民党が裏金問題で苦しんでいるらしい。しかし、それでリベラル支持が増えるかというとそれは疑わしいと思っている。また、維新なんかは犯罪が多くて相当にヤバい政党だと思うのだが、どうも世間ではそうでもないらしい。米国のトランプ、イスラエルのネタニヤフなど世界でもヤバいひとが権力を握ったりする。ロシアのプーチンや中国の習近平もいたな。

イーロン・マスクがTwitterを買収してからTwitterをだんだん更新しなくなってしまった。更新しないだけじゃなくて閲覧することもどんどん減っていった。たぶん、このまま行くと見なくなっていくと思う。SNSやブログを更新するのが年齢的・体力的にどんどんしんどくなっている。
 
Blogの時代について
Blogが全盛だった時代は書評が大変楽しかった。しかし、YouTubeの時代になってBlogは廃れてしまった。また、マネタイズのために面白いBlogはnoteなど有料サイトに移っていってしまった。Blogの広告収入だけでペイするのは難しいらしい。無料で多くのひとが見られるBlogはオープンソースのような楽しさがあった。ただ、Blogは完全に無くなってしまったわけではなくて、細々と続いているとは思う。考えてみれば、当時は更新頻度が高くてすごかったと思う。個人差はあると思うけれど、一般に読書家が一ヶ月に読める本の冊数は限られていると思う。それなのに有名Blogでは書評が毎日更新されるのは異常だと思う。読書という趣味は地味で地道な趣味なんだが、でも大変楽しい。毎日、発見があったりする。それを読書ノートに書いて今日も一日収穫があったなんて思ったりする。書評はそういった趣味がマネタイズされて儲かるならばなんて楽しいことだろうと思ったものだ。でも、まあ、それは豊かだった時代なら可能だったかもしれない。今はもうそれほど豊かな時代でもないだろう。もちろん、才能があればやっていけるひともいるだろう。まあ、でも、それよりも趣味として読書を単純に楽しむだけで良いのではないかと思う。無理に情報発信しなくても知的欲求を満たせればそれで良いではないかと思う。もちろん、言いたいことがあればBlogでもSNSでもどんどん情報発信すればいい。でも、そうじゃなくてマネタイズのために無理に情報発信するのは自分には合わないと思う。もちろん情報発信にはそれなりに時間や労力などコストがかかっているから有料になるのも仕方ないとも思う。何が言いたかったのか、だんだん分からなくなってきた。ともかく、読書家にとってBlog時代は楽しい時代だった。そういえば、読書サロンなんかにも憧れがあるけれど、これが案外曲者でうまく行かないことが多いのだろうと思う。核になる部分が学生時代からの付き合いがないと難しい気がする。ただ、読書趣味の良いところは一人で十分に楽しいところだ。歳をとってきて、それで十分という思いが強くなってきた。
 
Netflix『ザ・ディプロマット』と『三体』
Netflixの『ザ・ディプロマット』を、今、見返してみると面白い。ちなみに『三体』も配信が始まっている。ハードSFが好きなひとには面白いかも。

『太陽の牙ダグラム』配信再開の件
YouTubeのサンライズチャンネルで『太陽の牙ダグラム』が配信再開した。地球の植民惑星デロイアが地球から独立する話で大変面白い。子どものときはチャンネル争いに負けて見られなくなってしまった。最初の十数話くらい見たのだと思うが、当時はストーリーが暗いという印象が強かった。また、ガンダムを見た後だったのでロボットの戦闘に期待していたのだが、戦闘シーンがあまり面白く感じられなかった。今、見てみると政治的な内容が多くて、そこが大変面白い。アメリカ大陸各国の独立の歴史などを知ってから見ると、多分、面白く感じられると思う。当時、劇場版が出たときだったか、明るいダグラムだったか明るいイデオンだったか、そういうキャッチコピーとスピンオフ的な作品があって、逆に言うと本編は暗いという印象が強かったのだと思う。私は社会人になってからレンタルビデオでボトムズを見て面白いと思ったし、Zガンダムも放映時は途中で見なくなってしまったが、Netflixで見返すことができて、ようやく子どもの頃の宿題が済んだ気がした。ダグラムを見終えたら、もういいかなという気がしているが、劇場版『ドキュメンタリー太陽の牙ダグラム』を見たのと最終話あたりをレンタルで見たので、もういいかという気もしている。とりあえず、『太陽の牙ダグラム』は面白いので見てみて欲しい。

4月25日(木)


4月27日(土)
円安が進んでいるらしい。

中沢新一さんについて
中沢新一さんの新著『精神の考古学』が出版されていた。実は買おうか、買うまいか迷っている。この新刊が出ることは細野晴臣さんのラジオ『Daisy Holiday! 』で聴いて知っていた。ちなみに装丁はブライアン・イーノだそうである。また、レヴィ=ストロースに関する本も出す予定だと言っていた。検索してみたら『構造の奥 レヴィ=ストロース論』というタイトルで出版されていた。さて、実は私は中沢新一さんの著作のファンで中沢さんの著書はほとんど買っていた。初めて買ったのは『虹の理論』だったと思う。そのときは浅田彰さんと島田雅彦さんの対談本『天使が通る』を一緒に買ったと思う。で、『虹の理論』の感想はというと「???」だった。往復書簡のスタイルで書かれた文章はオシャレだったが、バリ島の修行の話はとても謎めいていた。ちなみに『天使が通る』の中で浅田彰さんが中沢新一さんに触れる箇所があって、確かダンテの『神曲』の解釈についてだったと思う。そもそも、この二人を買う動機となったのは数学者の森毅さんのエッセイで触れられていた文章を読んだのきっかけだったと思う。それで『虹の理論』はよく分からなかったが、とりあえず、もう少し読んでみようと思って買ったのが『イコノソフィア』だったと思う。この本を読んで私の脳の回路が開かれたような感覚を味わった。彼の文章はなめらかで優美な曲線を描くのだけれど、思考は次々と小気味よくジャンプしていく感じだった。それで面白くなって立て続けに彼の著作を買って読んだと思う。『雪片曲線論』や『チベットのモーツァルト』を買った。『野ウサギの走り』は書店に無くて少し後になってから入手できたと思う。『雪片曲線論』ではフラクタルや空海の話で大変面白かった。『チベットのモーツァルト』は奥村靫正さんという方が装丁をされていて美しい本に仕上がっていた。内容は難解だったが、どれも興味深い話で内容がものすごく濃かった。「病のゼロロジック」はその後何度も読み返した。それからも『悪党的思考』や『蜜の流れる博士』などを買い、氏の新刊本はどれも買うようになった。『南方熊楠コレクション』全5巻は解題を氏が書いていて毎回とても楽しみにして読んだ。書店に並ぶのを楽しみに待ったものだった。そうそう、夢枕獏氏との対談本『ブッダの方舟』も買ってすぐに喫茶店に入って読み始めて夢中になって4、5時間読んでいたように思う。もちろん、その後も何度も読み返したりした。対談本といえば細野晴臣さんとの対談本『観光』があって、これも楽しくて何度も読み返した。『クレア』という女性誌に連載していた山田詠美さんとの対談も面白かった。とにかく、中沢さんの本は抜群に面白かった。『東方的』『バルセロナ、秘数3』『緑の資本論』『はじまりのレーニン』『フィロソフィア・ヤポニカ』など、どれもこれも本当に楽しい読書体験だった。ところが、オウム事件があって少し変わってしまった。確かに氏は事件が発覚する前の段階でオウムを擁護するような発言はしていた。しかし、それは新興の宗教団体を擁護するような意味での一般的な擁護で、事件が発覚していない段階だったし、宗教学者としては宗教を擁護するのは決しておかしくない発言だったと思う。しかも、オウム真理教が中沢氏を勝手に利用しただけで、中沢氏はむしろ勝手に利用された被害者だったと思う。悪用と言っていい。氏のチベット修行の共著『虹の階梯』は貴重な資料なのにオウムに悪用されたために絶版にされてしまった。本来なら中沢氏は日本にチベット密教ニンマ派を紹介した人物として、日本にチベット密教を紹介した河口慧海氏に次ぐ人物として歴史に名が残る人物になるはずだったと思う。大袈裟に言えば、空海が真言密教を日本に請来した人物だとするならば、中沢新一はチベット密教を日本に請来した人物になるはずだった。ところが、当時の日本社会はオウム真理教だけでなく、その周辺の人物まで血祭りに上げるようなヒステリックな状態にあった。島田裕巳氏などは彼に非はまったく無いのに、スケープゴートにされてしまったと思う。あまりにも非道いとばっちりだった。中沢氏も「宗教学者・中沢新一は死んだ」という文章を書いていたと思う。そんなわけで、オウム事件以後、日本で何かが大きくシフトしてしまった。そして、中沢氏の活動も密度の濃いコアな活動というよりは、進化の過程で生まれてはきたが短期間で絶滅してしまうような、儚い種を追うようなものに変わってしまったように私には思われる。オルタナティブなんだけれど、それはカゲロウのようにすぐに消えていってしまうような儚い存在。そういったものをわざわざ選んでいるような気さえするのだった。私が期待する楽しい読書体験はもっと濃いものだった。南方熊楠であって折口信夫では無かった。吉本隆明やレヴィ=ストロースでも無かった。確か大江健三郎さんだったと思うが、「井筒俊彦の後継者は中沢新一だ」といった文章を朝日新聞に書いていたと思う。私が期待したのもまさにそれだった。井筒俊彦さんの最後の著書『意識の形而上学』のあとがきで『東洋哲学覚書』というシリーズを氏は構想中だったのだが、それが突然の急逝で無くなってしまった。中沢新一さんに私が期待したのはまさにそちらだった。確かにそれは荷が重すぎる期待かもしれない。司馬遼太郎は井筒俊彦氏をとらえて天才が十人集まった人物と評していた。本当に井筒氏のような天才はもう二度と日本からは出ないと思う。ただ、中沢氏はゾクチェンの修行という実体験があるのでそれを補いうるし、さらにその上に新たなステージを提示できるのではないかと淡い期待があった。しかし、日本がそれを許さなかったのだと今では思う。それにしても、中沢氏が70歳を超えていることに驚く。大学も去られたようだ。私も歳をとってしまった。一読者として本当に楽しい読書体験をさせてもらった。人生の残り時間も少なくなってしまった。世界にサヨナラを言う準備をしなければならない。彼の著書に出会えたことは幸福だった。本当に感謝したい。本当にありがとうございました。

清水俊史『ブッダという男』に寄せて
偶然、YouTubeでやっていた仏教がテーマの番組で、佐藤哲朗氏、星飛雄馬氏、岡本直人氏、秋田尚文氏の対談・鼎談をいくつか見た。そこでは清水俊史氏の『ブッダという男』という新書が取り上げられていた。知らなかったのだが、日本仏教ではブッダが輪廻を説かなかったという説が流布しているらしい。ちょっと驚いた。また、日本仏教は妻帯するなど戒律を守っていないという、いつも私が指摘している話も話されていた。それで清水氏を筆頭に彼らはそういった日本仏教に批判的であるらしい。もっともな話である。また、魚川祐司氏という方の『仏教思想のゼロポイント』という本も紹介されていて、清水氏の批判と似たような批判で、もう少しやんわり書いているらしい。頻繁にテーラワーダという上座部仏教が出てきた。知らなかったのだが、どのくらい前からかは分からないが、日本では上座部仏教が浸透しているようだ。そういえば、書店でそれらしき僧侶の写真が表紙になった本が出ていたなあと思う。さて、他にも「悟り無用論」とかもあるらしい。 オウム事件以後、ヨガや仏教は敬遠されがちだったと思ったが、いつの間にか上座部仏教が普及したらしい。(そういえば日本におけるチベット密教はどうなったんだろう?)私のイメージでは、オウム事件の後、しばらく停滞していて、占いとかのスピリチュアルものがだんだんと市場を広げていったが、あまりにも大きくなり過ぎて、問題になって萎んでしまい、その後、女性を中心としたヨガ教室が全国に広がっていったという印象がある。ただ、思うに以前と違ってカルト化せずに、個人個人が自分で勝手に学ぶカルチャー講座化したのかなという気がする。あくまで私の印象なんで間違っているかもしれないが。まあ、悪いことではないだろうという気がする。一方で、日本人はスピリチュアルなものが好きなんだろうなとも思う。ともかく、日本仏教というのは、仏教とは名ばかりで、実際は極楽浄土に行くことを願う信仰の宗教に変わってしまったのだと思う。いつも言っているが、日本人は換骨奪胎して自分たちの都合の良いものに変えてしまう。仏教も変えられてしまったのだと思う。江戸時代の儒教と似ている。幕末の儒家・横井小楠が儒教の文献を調べて、日本の家制度を批判したとき、藩から危険人物だとみなされた話とよく似ている。本来、儒教は能力主義で禅譲があるのに、日本ではそれでは都合が悪いからそれを変えてしまう。日本の儒教は本来の儒教とは真逆のものになってしまった。仏教でもそれと同じことが起こったのだと思う。ただし、問題は日本人の多数派がそれを容認していることだ。それなら、仏教や儒教という看板を下ろしてもらいたいところだが、それでは箔が無くなって商売に差し支えるからそれは嫌だという。実に勝手でいい加減な民族なのだ。ところで、「悟り無用論」だが、YouTubeを見た限りでは業界でどういう文脈なのかはよく分からなかったが、「悟りを開く」というのは日本の仏教だけが特に強調しているような印象がある。本来、仏教の目的は輪廻からの解脱だったと思う。具体的には、死に際してヒトが輪廻にからめ取られるのではなく、輪廻から脱すること、解脱することだと思う。そう、生から死に変わるとき、つまり、死ぬときにだ。そのために四諦八正道があったと思う。瞑想を重視するが、瞑想だけでなく、それ以外も重要だと説いている。で、「悟りを開く」の日本人のイメージは滅諦に近い。しかし、滅諦でめでたしめでたしではなくて、道諦で死ぬまでずっと続いていく。簡単に楽にはなれない。ところで、華厳的には「悟りを開く」は正見に近いかもしれない。禅は無を強調するが、その後の言及があまり無い。ついでに言うと、仏教はエネルギーの言及が少ない。なぜ仏教では妻帯してはいけないのかというとエネルギーを消耗してしまうからだ。本来なら自明過ぎる話で、あまりに自明だから言及が少なかったのかもしれない。嗚呼、独りよがりな説を開陳してしまった。ここらで筆を置くことにしよう。

4月28日(日)
「自民全敗、立民全勝」との見出しが多いが、実際は自民は不戦敗が2で島根だけ1敗だった。立民も圧倒的全勝というよりは共産党の協力があったからこそ勝てたらしい。たとえば東京15区では保守系がそれぞれ票を集めていると思う。それだけ保守の人気が高いのだと思う。本来なら裏金問題という敵失で立民は余裕で当選してもおかしくないのだが、日本の有権者の多くが保守なので、立民は簡単には勝てなかったということだと思う。結局、日本ではリベラルは不人気なのだ。さて、それと今回の選挙では、つばさの党の根本良輔と黒川敦彦が選挙妨害とおぼしき行為に出ており、大変見苦しい街頭演説になっていた。いわゆる炎上商法と同じ類の目立つための手法だろう。本来なら選挙期間中は政策について真面目に考える時間であるはずなのだが、こういった輩によって妨害されてしまって残念だ。ともかく、リベラル派は久しぶりに選挙で勝利したので喜んではいるが、得票を見るとそんなに喜んでもいられないのではないかと私などは思う。日本人は自民党に代わる保守政党を求めている。一時は維新にその可能性を見出したが、大阪万博がうまく行っていないのでやや陰りが見え始めている。また、日本保守党やファーストの会もまだまだ人気が上昇しているわけではない。しかし、時流に乗れば、なんらかの保守政党が第二の自民党として台頭してくる可能性はあると思う。結局、それだけ日本では保守が強いし、層も厚いのだと思う。逆にリベラルは保守を取り込んだと思ったら、いつの間にか保守が分離して減っていくの繰り返しだ。リベラルだけで裾野を広げるということができない。それだけ日本ではリベラルは層が薄いのだ。この傾向はそう簡単には変わらないと思う。リベラルが日本に根付くにはもっともっと時間が必要なのだろう。いや、そもそも日本にリベラルは根付かないのかもしれない。私自身は私の生きている間にリベラルが日本に根付くことをほぼ諦めている。だから、長い目で見守っていくしかないと思っている。