2013年7月6日土曜日

マシュー・リーン『ボーイングvsエアバス』

 

今回はマシュー・リーンの『ボーイングvsエアバス』を取り上げます。

この本は戦争を挟んで航空機がどのように発達し、その後、2つの航空機メーカー、ボーイングとエアバスに収斂してゆくかを描き、さらにこの2社がライバルとして如何に競ってきたかを綴ったノンフィクションです。


現在、旅客機と言えば、ボーイングとエアバスの2大メーカーが主流になっています。その2大メーカーがどのように成長し、なぜ生き残ることができたかをその足跡を綿密に追うことによって見事に浮かび上がらせています。また、旅客機とは何なのか、人々が必要としている旅客機とはどのようなものなのかということも彼らが歩んできた足跡を辿ることで自然と分かるようになっています。

ところで、日本の航空機産業はどうだったのでしょう?日本は家電と自動車で世界第二位の経済大国にのし上がりましたが、航空機だけは世界のトップ企業を育てることには成功しませんでした。日本は戦時中は零戦という優れた戦闘機を作ることに成功したにも関わらず、戦争に負けたことによって戦後は戦勝国側から航空機の製造を長らく制限されて、制限を解除されたときには時既に遅く、世界の航空機メーカーから技術力を大きく引き離されて、世界に太刀打ちできる航空機メーカーを育てることができませんでした。なぜ、戦勝国は敗戦国の航空機製造を制限したのでしょうか?その理由は航空機が戦争にとって極めて大きな役割を果たすからです。第二次世界大戦ではっきりと示されたのは戦艦に象徴されるような大艦巨砲主義の時代は終わったということでした。代わりに台頭したのが、空母から出撃した戦闘機による攻撃や爆撃機による高高度からの空爆、絨毯爆撃でした。それゆえに戦勝国は敗戦国が二度と反撃できないように敗戦国の航空機を生産する能力を抑えようと考えたのです。その結果、日本は占領期間を終えて自衛隊を持った後も、自前で戦闘機を作ることはできず、米国から戦闘機を購入するということを長らく続けることになったのです。しかも購入したのは米国の最新鋭の戦闘機ではなしに1つ前の世代のいわば古いタイプの戦闘機だったのです。ともかく、そうした経緯によって日本の航空機産業は長らく低迷することになったのでした。

そうやって日本を含めた敗戦国側の航空機産業を抑制して、戦勝国側の航空機メーカーは順風満帆で成長していったのでしょうか?実はそうではありません。戦勝国の航空機メーカーは航空機メーカー同士で熾烈な争いを繰り広げました。米国にはボーイングのほかにダグラスやロッキードなど手強い競合企業がたくさんありました。欧州も同様で各国間の航空機メーカーで争っていました。そうした激しい競争の中からボーイングが旅客機として抜きん出た企業に成長してゆくのです。一方、欧州のエアバスはボーイングに負けじと欧州各国の航空機メーカーを統合してコンソーシアムという組織体にすることでボーイングに対抗してきました。このように彼らはぬるま湯の中で成長したわけではなくて、激しい競争の中でたゆまぬ努力をし続け、時には合従連衡を重ねたりしながら、2社は育っていったのです。

さて、航空機同士の競争となると私たちはつい、より速く、より大勢の人たちを運ぶことができるというのが競争に勝つ要件かと考えてしまうかもしれません。しかし、実際はそうではありませんでした。例えば、コンコルドです。コンコルドは旅客機で音速の壁を超える初めての超音速旅客機です。しかし、音速の壁を超えるのは技術的に極めて至難の業でした。非常な苦労の末、膨大な開発費と長い時間をかけて開発したコンコルドでしたが、機内は狭くて決して快適とは言えず、さらに燃費が悪い上に航続距離もとても短いなどビジネスとしては極めて不経済な代物でした。結局、コンコルド以後は超音速旅客機は開発されることはなくなってしまいます。コンコルドはより速くを追求しても成功しなかったという失敗事例になってしまいました。では、より大勢の人たちを運ぶというのはどうだったでしょうか?こちらは簡単に想像がつきます。より大きな機体にして客席を増やしても実際に客が乗らなかった場合、空っぽの空席で飛んでいることになります。高い燃料費がかかっているのに空席ばかり運んでいたのではビジネスになりません。乗客で席が埋まってこそ旅客機はビジネスになるのです。したがって、航空機メーカーの競争はいかにビジネスとして優れているかであって、飛行機の能力として速いとか大勢の載せられるとかいった単なる技術力にあるのではなかったのです。(ただし、もちろん、技術力に意味がないと言っているわけではありません。ビジネスに成功するにしても、それを支える技術力が必ず必要だからです。ただ、ビジネスの要件を満たしていなければ、たとえ高い技術力があっても企業は生き残れないのです。)

それから、この本を読むと大きな商談をまとめるビジネスマンたちが次々に登場してきます。航空機販売ですから、一機だけでも極めて高いお金が動くのは間違いありません。しかも、その一機が糸口になって次々に商談が広がっていったりします。そういう男たちの生き様も少し垣間見ることができてけっこう面白かったりします。

さて、私たちの時代は飛行機が当たり前になってしまいました。ちょっと音がするなと思って空を見上げたら飛行機が飛んでいたというのが当たり前の時代です。夜空を見上げてもチカチカと点滅する光が動いているのが見えて飛行機が飛んでいるのだなとすぐに分かります。ライト兄弟が初飛行に成功したのが1903年です。それからたかが110年です。あるいは、ボーイング29、つまり、B29が東京を空爆し、広島・長崎に原爆を落としたのが今から約70年前です。ほんの少しばかりの時間で飛行機が飛ぶのが当たり前になってしまいました。そして、世界の大空を飛んでいる旅客機の多くがこのボーイングとエアバスです。これだけたくさんの飛行機が空を飛んでいるのに見かける旅客機はこの2社がほとんどです。凄いことです。今後もこの2大航空機メーカーが2強であり続けるのかどうかは分かりません。新たな航空機メーカーが対等に競い合える競合企業として熾烈な争いに加わるかもしれません。しかし、たとえ第三のメーカーが加わったとしても、この2社がそう簡単にトップの地位から転げ落ちるとは考えにくいと思います。当分はこの2社が世界の空を支配するのは間違いないと思います。そういう意味では、ボーイングとエアバス、この2社についてどのような歴史を持った企業なのか、知っておくのは悪くはないと思います。

ちょっと文章の締めが上手く締まりませんでしたね。ここはひとつプロの方に締めてもらうことにしましょうか。そう、私たちの世代でジェット旅客機と言えば、城達也のジェットストリーーム♪です(笑)。では、最後までごゆっくりとお楽しみ下さい。


尚、飛行機とアメリカの関わりを描いた歴史書に下記のものがあります。飛行機に焦点を当てて別の角度から見たアメリカ、広い視点から見たアメリカという点で興味深く読める本です。是非、読んでみて下さい。

※なお、この『ボーイングvsエアバス』は2000年に刊行された本です。したがって、若干、現状とは異なっているかもしれませんのでご注意下さい。

2013年7月5日金曜日

キャンベル-ケリー&アスプレイ『コンピューター200年史』

 

今回はマーチン・キャンベル-ケリーとウィリアム・アスプレイの『コンピューター200年史』を取り上げます。


この本はタイトルのように200年にわたるコンピュータの歴史を追った本です。19世紀のチャールズ・バベッジの階差機関から始まり、エッカート、モークリーのENIACを経て、現代のパソコンからインターネットの出現に至るまでのコンピュータの歴史を様々な経路を辿りながら描いた歴史書です。

私たちの時代はインターネットの普及という革命的な激変がありました。よく言われるように、いわゆるIT革命ですが、IT革命というだけではまだ言い足りないくらいです。まさに本当の革命といっていいくらい、私たちの生活を大きく変えました。そして、そこで主役になったのがコンピュータです。コンピュータなくしてはインターネットはありえませんでした。その昔、各家庭の中にモーターがいくつあるかでその家の文明度が計れると言われたことがありました。なぜかというとモーターは様々な家電に使われていたからです。今やCPUが家の中にいくつあるかでその家の文明度が決まるかもしれません。もはやコンピュータは私たちの生活に無くてはならないものです。しかし、そんなコンピュータの歴史を私たちは知っているでしょうか?確かにコンピュータの世界はドッグ・イヤーと言われるように普通の時間よりも4倍早く時間が進むと言われています。それだけ目まぐるしく進歩してゆきます。また、ムーアの法則と言われるようにCPUの性能は18ヶ月で2倍になると言われています。それだけ性能自体も一世代前とは比べ物にならないほど短い時間で良くなります。そのため、私たちはついつい短いスパンでの変化に気を取られがちです。そのため、コンピュータの歴史という長いスパンではあまり意識してこなかったように思います。コンピュータがこれだけ私たちの生活に必要不可欠な道具であるにも関わらずです。そういう意味でこの本を読んでおくのは極めて有意義なことだと思います。コンピュータの歴史を知ることでコンピュータの全体像が浮かび上がってきます。そして、コンピュータの歴史という全体像を知ることでコンピュータを俯瞰して捉えることができるようになり、今まで見えなかったことが見えるようになると思います。

さて、読んでいて面白かったのはコンピュータは英米で発達したという点です。最初は英国で発達し、後に米国で急速に普及します。つまり、近代化と歩調を合わせるように発達していったのだと思います。まあ、当然といえば当然なのですが。最初は対数表の計算が必要でコンピュータを必要としました。なぜなら、世界の海を支配した大英帝国が正確な航海表を必要としたからでした。そして、手形交換所の煩雑な計算もコンピュータを必要とした理由に加わります。つまり、資本主義がコンピュータを必要としたのです(*1)。また、コンピュータが普及した大きな要因は事務機器の機械化にありました。事務機器の機械化を好んで進めたのが米国で米国は何に対しても機械化好きなようでした。もちろん、米国が近代工業化してゆくのとコンピュータの発達がちょうど重なったこともあると思います。(ただ、初期のコンピュータの発達の歴史は単線的なものではなくて、様々な方面からそれぞれ発達してきたと思います。)事務機器の機械化で飛躍的な発展を遂げたのがIBMです。元々は文房具の会社でしたからね。それが元となってメインフレームとして事務機器に長らく強い影響力を残しています(*2)。とにかく、最初に世界の工場といわれた英国で発達し、第二次世界大戦後に工業国としてトップに立った米国で発展・普及していったのです。もちろん、戦争も大きく影響はしています。何より弾道の計算がコンピュータの開発が急がれた理由ですし、ENIACの開発にフォン・ノイマンが加わったのも戦争の影響からですし、英国でEDSACが作られたのもチューリングの暗号解読機ボンベという下地があったからだと思います。また、リアルタイムシステムの開発も元はと言えば戦闘機のパイロットを養成するためのシミュレータの開発が始まりでした。こうやって見てみると資本主義と戦争がコンピュータを発達させたと言っていいかもしれません。(ただ、それだけではなしに思考のスタイルも関係しているように私には思えます。極端な言い方ですが、英米哲学だからこそコンピュータが発達したのではないかと思えます。逆に大陸哲学、構造主義ではコンピュータは発達しなかったのではないかと思えます。この辺りはまた別の機会に考えてみたいと思います(*3)。)

さて、一方、ソ連ではどうだったかという疑問はありますが、本書では分かりません。本書ではまったくソ連は出てきません。ただ、ソ連はFAXですら使用するのを禁止したという話を聞いたことがあります。FAXによって危険思想が伝播してゆくのを恐れたらしいのです。そんなことを考えると今のインターネットなど到底不可能だと思ってしまいます。現在でも多くの強権的な国の政府がSNSを使うことを嫌がっているのを考えるとソ連がFAXを禁止したのも分かる気がします。ただ、ソ連の科学技術は進んでいた面もあったと思います。ロケットや戦闘機などを見ると凄いなあと感心します。制御工学が発達していたのでしょうか?それにソ連水爆の父のサハロフ博士なんて人もいますから、決して劣っていたわけではないと思います。しかし、やはり、経済体制にムダが多かったのではないでしょうか。物資が不足して常に行列ができているにも関わらず、その裏では物々交換は恒常的に行われていたというのですから、経済体制に問題があったのではないかと思います。ただ、別に経済が世界で一番でなくても、多少、経済的にルーズでも、ブータンのいうGDH(国民総幸福量)のように幸福度が高ければ良かったとは思いますが。

随分、話が脱線してしまいました。あ、そういえば、コンピュータの発展は英米における統計学の発展とも関係がありそうな気がします。この辺りも一度調べてみる必要がありますね。

とにかく、本書はコンピュータの歴史ですが、コンピュータサイエンスの歴史ではなくて、産業の面から見たコンピュータの歴史といった方が近いかと思います。しかし、コンピュータの歴史の全体を俯瞰するという意味では本書は最適だと思います。確かに個々の細かい要素、例えば、ハードウェアの発達史やソフトウェアの発達史、CPUの発明やENIAC開発秘話、暗号解読の歴史など様々なコンピュータに関係する要素があるとは思いますが、それはまた個々のプロットとして別に勉強すればよいと思います。とにかく、全体像を掴むという意味では本書を読んでおいて損はないと思います。(ただ、少々、読みにくくはありました。より整理された本があればそちらも読んでみたいと思います。)

(*1)資本主義の起源は株式会社であり、株式会社の起源は胡椒を求めるためにイタリア商人たちが出資して航海に出したのがはじまりでした。つまり、大航海時代を可能にしたのは株式会社制度でした。そして、英国を大英帝国にまで押し上げたのはインドでの交易でした。さらに言えば、インドの木綿を織る自動織機の開発が産業革命の始まりでそこから蒸気機関を動力とする発明が生まれますし、バベッジの階差機関も自動織機から発想を得ているといえなくもないと思います。

(*2)昨今はすべてPCもしくはクラウドに置き換わったかもしれませんが、現状はよく知りません。

(*3)1946年にメーシー会議(通称サイバネティクス会議)というのがあって、そこでフォン・ノイマンとノーバート・ウィナーがそれぞれ講演をしているのですが、二人の講演は非常に対照的だったそうです。ノイマンはいわゆるノイマン型コンピュータの話をしたのですが、ウィナーはサイバネティクスの話をしたそうです。現在、コンピュータはノイマン型で進んでいるのですが、(この後に「限界自体はチューリングが計算可能性として既に示しているわけで」と書こうと思ったのですが「あれ?違ったっけ?」となり実際はどうだったかを忘れてしまったので、急いで調べてみたのですが分からず手元に本もなく時間もないのでまた後日改めて勉強し直すということで、とりあえず、ここは読み飛ばして下さい。トホホ。(T_T))、今後はウィナーの言っていたサイバネティクスに可能性があるかもしれません。といってもまったく未知なのですが(爆)。ともかく、英米哲学的な思考スタイルでないものの可能性としてサイバネティクスのようなものもあるかもしれません。いや、サイバネティクスだけに限らず他にも別のタイプの非ノイマン型コンピュータがあるかもしれません。そして、まだ別の知の可能性があるのかもしれません。・・・あわわ。話がこんがらがってきました。真空管のような私の頭ではもはや限界・・・。やはり、この話はまた別の機会で・・・。

2013年7月4日木曜日

エドワード・エブスタイン『ビッグ・ピクチャー』

 
今回はエドワード・エブスタインの『ビッグ・ピクチャー』を取り上げます。


この本はハリウッドの映画産業のビッグ・ピクチャー(=全体像)を描いたノンフィクションです。この本には様々な事柄が書かれていますが、大きく分けて2つあると思います。1つはハリウッドの6大スタジオ(バイアコム←パラマウント、ディズニー、フォックス、ソニー、ワーナー、ユニバーサル)が成り立つに至った経緯、特に現在の地位を築いた立役者、すなわち経営者たちについて描いています。もう1つは興行収入が減る中で今度はケーブルTVやDVDなどホーム・エンターテイメントで収益を上げるようになるといった映画産業が変容してゆく過程が描かれています。もちろん、これらだけではなく様々な映画業界の情報が詰め込まれていますので、映画ファンのちょっとした豆知識としても使えます。

映画に興味のある方はもちろんのことTVのドラマに興味のある方も是非読んでおくことをお薦めします。なぜなら、有料・無料を問わずテレビ番組の主要な商品の半分は映画とドラマです。スポーツやニュース、あるいはバラエティなど他にも人々を惹きつける商品はありますが、やはり、強い吸引力を持つのは映画やドラマだと思います。そして、今やテレビは世界中のどの国も持つようになりました。かつては後進国と言われた国も今や新興国となって飛躍的な経済発展を遂げ、各家庭に1台は必ずテレビを持つようになりました。いえ、テレビだけでなくパソコンやスマートフォンの普及を考えれば、先進国とあまり変わらなくなりつつあると言っていいと思います。しかし、テレビの歴史が浅い国ではコンテンツがありません。つまり、テレビがあるところ、それだけ映画やドラマを買ってくれる市場があるということです。そういった世界市場という視野を持ち、なおかつ実際に売れる販売網を持って、そして何より視聴者の要望に十分応えられるだけの高いクオリティを持った作品を作り続けているのはハリウッドの6大スタジオをおいて他にはありません。ストーリー性においても映像のクオリティにおいても俳優の演技においてもハリウッドは他国のスタジオとは比較にならないほど優れていると思います。むしろ、それが当たり前過ぎて、このような指摘は何を今更という感じの方が強いかもしれません。それくらいハリウッドの映画産業の実力とブランドは浸透しているのだと思います。(今、韓国ドラマが世界進出に頑張っています。日本でも韓流がブームになりましたし、中国でも韓国ドラマは人気があるようです。さらに欧州の一部の国でもちょっとした人気があるようで、ハリウッドで作られた海外ドラマに対抗しるうるドラマ作りをやっているのが韓国だと思います。日本のドラマも世界市場で売れるような良い作品を作って欲しいものです。ただ、少し前までは東アジアでは日本のドラマは人気が高かったと思います。また頑張って欲しいものです。)

ただし、注意してもらいたいのは、私は何もビジネスについて知りたいからこの本に興味を持ったのではありません。私が興味を持っているのは物語です。どういうことかというと、大昔、物語は語り部によって人々に語り継がれてきましたが、それが紙の発明や印刷技術が出現したとき、書物へと形を変えて文学に発展してゆきました。そして、映像技術が発明されて今度は映画に変貌を遂げました。そう、映画やドラマはかつて語り部によって語り継がれてきた物語が映像技術によって映画に姿を変えたものなのです。もちろん、音声媒体と文字媒体と映像媒体ではそれぞれ違いがあります。例えば、文字媒体である文学は人々の内面を表現するのに極めて優れた形態だと思います。やはり、人々の内面を描くのは文学の方が適しているでしょう。しかし、視覚的イメージをダイレクトに伝えるのは映画の方が優れていると言わざるを得ないと思います。このようにそれぞれの媒体で表現に得意・不得意があると思います。いずれにせよ、私たちが物語を受け取る媒体として映画という選択肢が1つ増えたわけです。そして、今や私たちが物語に触れる媒体としては映画は無視できない存在になりました。、いえ、無視できないどころか、むしろ映画がメインになりつつあると言えるかもしれません。そうやって私たちの頭の中に簡単に入ってくる物語ですが、物語は私たちの精神に非常に大きな影響を与えます。場合によってはその人の人生すら変えてしまうことがあります。ですから、その物語がどのように作られているのかなど、物語についてよく知っておきたいと考えるのは当然だと思います。商業目的で作られているのですから、サブリミナル効果ではありませんが、私たちが気付かないうちに無意識に何か良からぬものを刷り込まれているかもしれません。実際、ハリウッド映画ではアメリカ的価値観を知らず知らずのうちに刷り込まれていると思います。ただし、それらすべてが悪いものではなくて、逆にアメリカの方が自分たちの国よりも優れている、自分たちの国の方が遅れていると気付かせてくれる場合もあると思います。同性愛の受容だとか人種差別の無さだとかです。いずれにせよ、少なからず私たちに影響を与える物語について、その内実を知りたいのです。だから、ハリウッドの内実を描いたこの本に興味があるのです。

物語という観点から世界を捉えてみましょう。まず、物語には様々な形態があります。小説や映画があります。日本では漫画もありますし、アニメは映画に含めて良いかもしれません。それから演劇もありましたね。かつての物語の広がりは今と比べれば限定的だったかもしれません。しかし、今ではグローバル化が進み、どんな国でも各家庭にTVがあって、そこでは映画やドラマが流れるようになって、世界共通で同じ映画や同じ海外ドラマを楽しむ時代になってきています。物語にもグローバル化の波が押し寄せているのだと思います。そんな中でハリウッドは娯楽としての映画も作りますし、かといって低俗なものばかりではなくて、アカデミー賞作品のように人々を真剣に考えさせるとても良質な作品も作っています。そして、それらをビジネスとして立派に成り立たせています。他国では国の補助なしでは映画が作れない国もあるのに、です。凄いことです。凄いぞ、アメリカです(笑)。ただ、日本でもハリウッドに負けない分野があります。それはアニメです。商業アニメで成功しているのはアメリカと日本だけです。ディズニーと日本アニメです。特に日本アニメは広く世界に浸透しています。ただし、今後も日本アニメがその地位を維持できるかどうかは分かりませんが。漫画の衰退が少し気になるところです。一方、文学については未知数だと私は思います。内面の探求という意味では文学は衰退しつつある、もしくは、これ以上深くは進展するのは難しいような気がしています。というのも、グローバリズムの普及によって世界中のいたる所が現代文明で覆い尽くされようとしていますが、そのためにかえって豊かな精神文化が破壊されていると思うからです。物語の中でも文学というものは内面への旅です。その内面があまり豊かではなくなりつつあると思います。しかし、そうではない、単に物語という観点では物語は爆発的な拡散はしていると思います。TVや映画の普及で今まで物語に触れてこなかった人たちにも物語は届くようになったと思います。

ところで、物語は無限にできるものなのでしょうか?書店に行けば、山のように小説の新刊書が積まれています。まるで物語の洪水です。しかし、私たちはそういった洪水のような物語をただ単に無作為に受容していれば良いのでしょうか?それとも何らかの体系的な受容の仕方というものがあるのでしょうか?それは好きなジャンルを読むということでしょうか?あるいは名作といわれるものを片っ端から読めば良いのでしょうか?物語は私たちの精神に深く影響するというのに意外とその受容の仕方は定まっていないように私には感じられます。しかし、じゃあ、無限にある物語をどのように読めば良いというのでしょう?私はそのヒントは語り部だった頃の昔にあると考えています。語り部たちは聴衆に物語を語って聞かせますが、単に1つの物語だけではなくて、複数の物語をセットで語って聞かせます。聴衆は複数の物語を知ることで、そこから基本的な生活の知識を得たり、道徳を養ったり、人格を形成するのに役立てていると思います。物語をまったくバラバラに受容するのではなくて、ある程度まとまった物語を受容することで人格マトリクスに影響を及ぼしていると思います。ということは私たちもある程度まとまった物語をセレクトする必要があるのではないでしょうか。人格を形成する上で基本となる物語のセットをセレクトする必要があるのではないでしょうか。物語の元型となるものがあって、それを現代の生活にマッチするものに変形して現代人に伝えてゆくということが要るのではないでしょうか。まったくの無作為でバラバラに物語を受容するのではなくて、核となる物語のセットがあって、そこから先は各人が自分の好みにあった物語を吸収してゆくというのが良いような気がします。一見、それは文学全集を作ることと思われるかもしれません。しかし、文学全集とは明らかに違う点があります。文学全集はあくまで文学に主眼が置かれています。しかし、物語の元型は人格マトリクスに主眼を置いてのセレクトです。むしろ、元型といった時点で自然と人格マトリクスに沿った基本形が浮かび上がってくると思います。ここでいう元型とはユングが用いているような意味での元型です。言い換えれば、ゲーテが見た様々な植物の中の元型である原植物のことです。あるいは、プロップなどは物語の元型が見えていたからこそ、その時代その時代で付加された装飾を剥ぎとって魔法昔話の元型である『魔法昔話の起源』に辿り着くことが出来たのではないでしょうか。レヴィ=ストロースの『神話論理』も元型を探し求めた結果、あのような構造に至ったのではないでしょうか。いずれにしても、まだ明確な形で掴み出せるほど物語の元型をあぶり出すまでには至っていません。しかし、猶予もあまりありません。なぜなら世界はどんどん文明化されて豊かな精神文化の基盤が根こそぎ失われつつあるからです。いわゆるヴェイユのいう根こぎが完成されつつあるからです。しかし、まだそういった根、わずかでも足場があるうちに物語のセットを提示できれば、人々の心に深く受容される可能性は高いと思います。しかし、まったく足場が失われてしまえば、そう簡単には受容されない恐れがあります。私たちは急がねばならないのです。

さて、話が分散してしまいました。特に先程のセンテンスなどは意味がよく分からなかったかもしれません。しかし、物語という観点から映画を捉え、物語という観点から世界を捉えたとき、ハリウッド映画のいるポジションは人々に与える影響力の大きさから非常に重要なポジションに立っており、私たちは自分たちの精神文化を考える上で決して無視できない存在なのだということを知っておくべきだと思います。もちろん、ハリウッド映画の大部分は他愛もない娯楽作品です。しかし、その影響力は計り知れないものがあります。よく考えてみて下さい。日本のアニメだってそうでしょう。他愛のない日本アニメが私たちの精神にどれだけ大きな影響を与えてきたか、決して見過ごせるものではありません。そして、それは、今、グローバルな規模で起こっているのです。ただし、それは逆に言えば、もしも豊かな物語を提供することができるのならば、私たちの精神文化を今よりももっと豊かなものにすることができるチャンスでもあるのです。

さて、以上のように考えると、ハリウッド映画は物語産業の重要な柱であり、この本はそのハリウッドの映画産業の基本を知るのに欠かせない重要な一冊です。是非、読んでおくことをお薦めします。

2013年7月3日水曜日

デビッド・ヴァイス『Google誕生』

 
 
今回はデビッド・ヴァイス『Google誕生』を取り上げます。
 
本書はGoogleが起業してから2005年くらいまでの約10年間の軌跡を追った伝記です。Googleについて書かれた本はたくさんありますが、この本はその中でも比較的初期に書かれたもので、また最もまとまって書かれた本だと思います。さて、Googleを起業したのはラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンの二人です。どちらも両親がエンジニアや科学者であるため早くから知的環境で育っています。そのため物事を道理で考える癖がついており、出会った頃の二人は互いに議論ばかりしていたそうです。そんな彼らがスタンフォード大学の大学院生だった頃に研究のために作った検索エンジンが非常に優れたものでみんなから重宝されてとうとう起業にまで至ります。Googleの検索は他の検索エンジンを寄せ付けない極めて優れたものでした。ネットを使うときに検索は無くてはならない絶対に必要なものでしたので投資家も彼らに目をつけます。しかし、それを収益に結びつける方法がありませんでした。そのため、Googleが起業したての頃はベンチャー企業によくあるように経営は大変で、ラリーとサーゲイの二人はGoogleの投資家を如何に満足させるかに苦労したようです。しかし、彼らは投資家たちを競わせるように駆け引きで切り抜けていきました。そうしているうちに広告という収益を上げる方法を見つけてGoogleの大躍進が始まりました。もちろん、投資家も大喜びです。

さて、本書を読むとGoogleが普通の企業とは全然違うことが分かります。この頃のGoogleは形態こそ企業の体裁をとっていますが、果たしてこれは企業なのかと疑問に思えてきます。Googleの内部はまるで大学院生の研究所といった方がいいかもしれません。やることなす事すべて前例のない度肝を抜くことばかりです。そして、Googleが見ているのはちっぽけなものではありません。彼らが見据えているのは人類とか世界といった大きなものです。決して米国の消費者とか米国内といった目先の小さなものだけに囚われていません。(←いえ、これだって決して小さい訳ではありませんし、決してこれらを軽視している訳でもありませんが。)それにしても、東西冷戦が終わってグローバリゼーションが始まり、地球が資本主義で覆われたとき、資本主義の象徴である米国企業の最先端において、今度は企業とはいえないような新しい形態の組織体が芽吹いてきたわけです。それがGoogleでした。何か歴史の皮肉を感じさせます。(ただし、ラリー・ペイジがCEOになってからのGoogleは普通の企業へと変貌しつつあるようで、私としては非常に残念です。しかし、Googleがその設立当初から持っている「邪悪になるな」という良心はまだ失っていないと私は思っています。)

とにかく、Googleの起源を知りたければ、この本を読むに限ります。もちろん、この本に書かれていない初期の歴史もあるとは思います。ですが、基本的な歴史はこの本で十分に知ることができると思います。なお、この本が書かれた後の歴史も必ず必要になってくるので、この本の続きが待たれます。この本で書かれたことはまだほんの始まりに過ぎないのです。本当の変化はこれからなのです。なので私たちはGoogleから目が離せません。なぜならGoogleを見ることは未来を見ることなのですから。

追記
Googleの検索を支えている技術はラリー・ペイジが考案したページランクシステムという仕組みです。私も仕組みはよく分かりませんが、結局、ページランクシステムを有効にするにはすべてのページを読み込まねばならず、Googleは世界中のインターネットのすべてのページをクローリングという言わば定期的な巡回でダウンロードしています。その量は極めて膨大です。そこでGoogleが考え出したのがパソコンのボードを積み上げてラックのようにして、さらにそれをいくつもコンテナの中に並べてどんどん増やしてゆくというデータセンターという大規模システムです。いわゆるクラウドのハードウェアの部分に当たります。スーパーコンピュータが処理能力の性能を上げるというスケールアップをしているのに対して、データセンターではコンテナを増やすことで処理能力を上げるというスケールアウトをしているわけです。言ってみれば物量作戦です。しかし、このデータセンターが大きく私たちの生活を変えました。ネットが私たちとデータセンターを繋ぐのです。データセンターと繋がることで私たちは強力な性能を持ったコンピュータを個人で持つことを可能にしたのです。さらに端末もパソコンだけでなく、スマートフォンやタブレットに増えました(*1)。さらにGoogleGlassやアイ・ウォッチなんてものも今後は出てくるかもしれません。そのようにしてGoogleは私たちの生活を変えました。そして、Googleはその膨大なデータセンターにありとあらゆる情報を入力して私たちが利用できるようにしようとしています。(*2)人類がこれまで築いてきたすべての情報です。すべての書物、すべての音楽、すべての映画、さらに膨大な遺伝子情報から最新の研究データまで、さらには企業の情報システムを丸ごとなど、ありとあらゆる情報を収納し整理して私たちが使えるようにしようとしています。今まで入手できなかったり見えなかったりした情報をGoogleが私たちに提供することで人類が進歩することを加速しているのです。しかも、その多くは無償で提供されています。今では多くのIT企業が無償でサービスを提供することを当たり前のようにやっています。しかし、これほど大規模に無償での提供を最初に始めたのはGoogleです。他は誰もやらなかったことです。もし、Googleが無償で提供をやらなかったらどうなっていたでしょうか?現在のような便利なネットの世界になっていたでしょうか?それとも他の企業がやっていたでしょうか?それは分かりません。しかし、Googleが無償提供をやったことで大きな穴が穿たれて、多くのIT企業がGoogleに続いて無償提供を始めたのは歴史的事実です。世界を大きく変えたのです。私たちは感謝する必要はありませんが、その事実は知っていてもいいのではないでしょうか。そして、技術は薬にもなれば毒にもなります。ITも同様です。例えば、昨今の米国の戦争で使われる無人機は遠隔操作で使われています。これもIT技術の応用と言っていいでしょう。無人機の活用が果たして是か非かは今のところ分かりません。しかし、そういったことも踏まえた上で私たちはGoogleの行く末を見続ける必要があると思います。


(*1)アップルが開発したiPhoneがこのスマートフォンに相当します。逆に考えるとアップルが果たした役割や歴史的位置づけが分かると思います。アップルはあくまで端末を発明したのであってデータセンターそのものを発明したわけではありません。しかもアップルはiPhoneを使って消費者の囲い込みをやろうとしています。それに比べてGoogleのAndroidはオープンソースで無償で提供されています。オープンソースであるために改変が容易で様々な利用を可能にしています。GoogleとAppleのいずれが人類社会に大きく貢献したのか分かるのではないでしょうか。

(*2)昨今ではGoogleに限らず多くのIT企業がデータセンターで私たちにサービスを提供しています。ただし、データセンターの恩恵を最初に私たちにもたらしたのはGoogleです。確かにASPなど似た概念はありましたが、実際に利用可能なものとして普及させたのはGoogleです。
 

2013年7月2日火曜日

アレックス・アベラ『ランド 世界を支配した研究所』

 

今回はアレックス・アベラの『ランド 世界を支配した研究所』を取り上げます。


この本はRAND研究所について、その成り立ちから現在に至るまでを描いたノンフィクションです。RANDというのは「Research and Development」(研究と開発)の略に由来した名称で主に米国の国防に関わる研究をしているシンクタンクです。米国の軍事的覇権を構築するのに多大な功績を残した知る人ぞ知る研究所です。特徴としてはすべてを数値化して合理的にするという“合理性の帝国”とも言われた徹底した姿勢です。そして、何よりも特筆すべきはRANDの中心的人物で希代の戦略家アルバート・ウォルステッターの存在です。

多くの日本人は彼のことを知らないかもしれませんが、彼こそは核の戦略家と呼ばれ、今日の核の世界の基礎を築いた人物のひとりです。本書はRAND研究所の歩みを描いたものではあるのですが、これをウォルステッターの歩みと言い換えてもいいくらいウォルステッターはRANDを語る上で欠かせない中心的人物なのです。ただ、このウォルステッターは筋金入りのタカ派ではあるものの、なかなかユニークな人物でもあります。というのも、元々、彼は数学者でした。学生の頃の彼はニューヨーク市立大学シティカレッジの数理論理学の学生で、彼の論文を見たアインシュタインは「私がこれまで読んだものとしては、数理論理学の最も明快な外挿法である」と誉めて、自宅に彼を招いたというエピソードもあるくらいなのです。その一方で、彼には現代アートをこよなく愛する芸術愛好家としての側面もありました。彼自身、絵を描いたりしていたようですし、モダンアートの最新作のチェックはもちろんのこと、芸術史家マイヤー・シャピロの助手を務めたり、ル・コルビジェが東海岸に来たときにはガイド兼ドライバーをしたこともあったそうです。しかし、彼にはもう1つ隠された過去があって、これは随分後になって明らかになったのですが、実は学生の頃、彼は共産主義の分派集団「革命労働者党同盟」という地下組織に所属していたことがあったそうです。この集団は新トロッキー主義の集団だったようです。いずれにしても彼のこんな過去がもしバレていたアメリカの安全保障の要職に就くことなど絶対になかったでしょう。しかし、幸か不幸かまったくバレることなく、彼はRANDの要職を全うします。アメリカにとってこれは絶対にプラスだったと私などは思います。これについては面白いエピソードがあります。赤狩りの頃、ハリウッドを追われた脚本家夫婦をウォルステッターの自宅に泊めたのですが、案の定、FBIが嫌がらせの電話を夜中にしてきたのです。FBIは電話で「何をたくらんでいるんだ?」とか「誰とわるだくみをしているんだ?」とか当人に関わる周囲の人物に誰彼と関係なく詰問して嫌がらせするわけです。このFBIからの嫌がらせを恐れて周囲の人々が当人たちから離れてゆくように仕向けるわけですね。(フィリップ・K・ディックの小説『アルベマス』にも似たようなシーンがありましたね。)ところが、ウォルステッターはおもむろに電話に出ると「二人は私の友人です。あなたの質問に答える必要はありません。もうこれで十分質問に答えているでしょう。二度と電話しないで下さい」と堂々と言ってのけたのでした。核という国家の最高機密を扱う人間がFBIに逆らったのです。しかも、彼は、昔、共産主義の地下組織に属していたという過去があるにも関わらずです。なかなか大胆というか、怖いもの知らずというか、それにもまして国家権力などに囚われない自由な精神というか、彼の役職を考えるとなかなか不思議なメンタリティに感じられます。しかし、彼は別に二重人格とか表裏があるいうわけでは決してありません。むしろ、まっすぐな人格だったようにさえ感じられます。そういう人物がいったいどのような思想に基いて核の世界を築いたのか、非常に興味深いと思いませんか?この本はそういう疑問を解きほぐしてくれるので、そういう点でもこの本は読むに値する文献だと思います。

さて、この本は他にも面白い言及がなされています。例えば、マッドサイエンティストの象徴にもなっているハーマン・カーンについても書かれています。スタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情』で狂気の科学者ストレンジラブ博士のモデルとなった人物です。また、RANDが設立されるきっかけになったのは実は東京大空襲にあったことや、ベトナム戦争時の国防長官として有名なマクナマラとRANDとの関わりなどについても書かれています。さらにかの悪名高きネオコンとの関係についても書かれています。このように、この本はアメリカの知られざる中枢を知るには欠かせない一冊だと思います。是非、読んでみて下さい。

追記
アメリカにはウォルステッターのように歴史に残る優秀なテクノクラートというのがいます。彼以外にも、記事の中でも出てきましたが、ロバート・マクナマラがいます。マクナマラはベトナム戦争の失敗があるためにアメリカ国内では随分低い評価をされているようですが、優秀さという点では彼ほど優秀なテクノクラートはいなかったのではないでしょうか?しかも単に頭の良い優秀さだけでなく、その軍曹風な風貌とは裏腹に知的な教養人であり、人格的にもとても優れた人物だったと思います。だからと言って、彼が指揮したベトナム戦争が許されるわけではありませんし、その指揮において間違いも犯しています。ベトナムに兵力を逐次投入して多大な犠牲を出したのはマクナマラの責任ではあるでしょう。しかし、予算改革など彼が残した業績は極めて優れたものだったと言わざるをえないと思います。また、国防長官を辞職した後は世界銀行の総裁になって貧困の撲滅に尽力したとも言われています。ともかく、20世紀のアメリカの覇権を築くにあたっては優れたテクノクラートがアメリカにはいたのです。日本人はまだまだ多くのことを彼らから学ぶことができると思います。

余談ですが、分析哲学をアカデミズムという狭いフィールドで学ぶよりは、ウォルステッターやマクナマラのような人物がどのように思考し、どのように行動したか、そして、その結果、どのような結果になったかを学ぶ方がより実践的な分析哲学になるのではないかという気が私にはしています。学問としての分析哲学は、所詮、狭い枠組みの中でのゲームに過ぎないように私には感じられるのです。もちろん、それはそれで優れた思考の軌跡であり、学問的には一定の価値があるとは思います。しかし、極端に言えば、結局はアカデミズムという狭い世界での勝った負けたのゲームにしか過ぎないのではないでしょうか。実験室の中のような不自然に純粋に保たれた空間ではなくて、すべてが入り乱れて何が起こるか分からないリアルな世界において分析哲学的な思考を実践に結びつけて役立ててゆくためには、むしろ彼らの軌跡を追う方が役立つのではないでしょうか。