2010年8月22日日曜日

クリストファー・ノーラン監督『インセプション』

 









 
 
1.はじめに
クリストファー・ノーラン監督、レオナルド・ディカプリオ主演の映画『インセプション』の解釈・感想を以下に書きます。なお、完全ネタバレで書きますので、未見の方はご注意下さい。また、例によって思いついたままに書き流しているのでまとまった文章になっていません。『インセプション』についてはちゃんとした文章をいつか書きたいと思いますが、とりあえず、物語の核心部分だけ先にこのブログに書いておきます。



2.2つの物語タイプ ~「現実と幻想の区別ができる物語」と「現実と幻想の区別ができない物語」~
 

最近、現実とバーチャルの区別がつかない人がますます増えている。その原因はテクノロジーの進歩によって本物とニセモノの区別がつかないほどに、ニセモノが本物に似せて作られ始めたからだ。私たちの身の周りにもニセモノがあふれかえっている。花に見せかけた造花や木製の壁に見せかけてプリントされた木目柄の壁紙などだ。私たちの周りはニセモノであふれている。映画では、それをもっと発展させたものがある。例えば、映画『ブレードランナー』だ。『ブレードランナー』に出てくる人工の蛇は普通に見ただけでは本物かニセモノかは判別できない。蛇から剥がれた一枚のウロコを顕微鏡で拡大して見たとき、そのウロコに製造番号が記されているのを発見して初めて、その蛇がニセモノだと分かるのだ。それがアンドロイドになると判別はもっと厄介だ。フォークト=カンプフ感情移入度測定法でも100%間違いなく完璧に人間かアンドロイドかを判別できるわけではない。本物かニセモノかの区別が非常に難しくなってきている。


 
『ブレードランナー』では物が本物かニセモノかの判別が難しかった。だが、物ではなく、この世界そのものが本物かニセモノかの判別が難しいという作品がある。それは『マトリックス』だ。『マトリックス』ではここが現実世界なのか電脳世界なのか普通の人には分からない。電脳世界が本物の世界と寸分違わぬように作られているため、電脳世界に繋がれている人々には、そこが現実世界なのか、電脳世界なのかが分からなくなっているのだ。人々は電脳世界を唯一の現実世界と信じて暮らしている。


 
このような現実と幻想の区別がつきにくいという設定は『荘周胡蝶の夢』で見られる典型的な世界設定だ。『荘周胡蝶の夢』とは、自分が蝶になって野原を愉快に飛びまわる夢を見ていたら、次の瞬間、「ハッ」と目が覚めたときには人間の荘周になっていたというものだ。荘周はそれを顧みて、自分が蝶になった夢を見ていたんだと最初は思ったのだが、実は今こそが夢を見ている状態であって、蝶が荘周になっている夢を見ているのではないかと考えることもできると気づく。「果たして自分は荘周なのか、それとも蝶なのか、真実の姿はどちらなのか?」という疑問に頭を悩ませる。結局、どちらが真実の自分の姿なのかをハッキリと区別することはできないという結論に至る。以上、「どちらが夢でどちらが現実かを明確に区別することはできない」というのが、一般によく使われる『荘周胡蝶の夢』の喩え話の意味だ。(*1)

ここで注意しなければならないのは、『荘周胡蝶の夢』では自分が人間なのか蝶なのかはどんなに深く考えても最終的に判別できないのだが、『マトリックス』や『ブレードランナー』では本物とニセモノは極めてよく似ているものの、それでも最終的には本物かニセモノかはギリギリ判別できるという設定になっている点だ。例えば、『マトリックス』ではネオやモーフィアスのように覚醒したわずかの人々が現実世界か電脳世界かを判別できるし、『ブレードランナー』ではデッカードやエンジニアたちは本物か人工物かをギリギリ判別できる。つまり、『荘周胡蝶の夢』と『マトリックス』では現実と幻想の区別が最終的には判別できるか判別できないかで大きく異なる。すなわち、『荘周胡蝶の夢』と『マトリックス』では、2つの異なる物語タイプとして区別される。さて、では、この『インセプション』はどちらのタイプの物語だろうか?この『インセプション』も実は『マトリックス』や『ブレードランナー』と同じで現実か夢かは非常に判別が難しいけれども、最終的にはギリギリ判別できるというタイプの物語に当てはまる。そして、どうやって現実か夢かを判別できるかがこの映画の鍵になっている。(*2)

3.『インセプション』のあらすじ
さて、前置きはこの位にして、まず『インセプション』のあらすじついて簡単に説明しておこう。主人公のコブは他人の夢に侵入して情報を盗み出す産業スパイである。他人の夢から情報を抜き取ることをエクストラクト(抜き取り)というが、コブの通常の仕事はこのエクストラクトばかりだ。だが、コブは大企業の社長サイトーから、エクストラクトではなく、インセプションの依頼を受ける。インセプションとは、エクストラクトとは逆に、アイディアを他人の潜在意識に植え付けることをいう。特定のアイディアを潜在意識に植え付けることによって、その人が他人から与えられたアイディアとは気づかずに、そのアイディア通りに行動してしまうというものだ。例えば、「タバコが嫌いになる」というアイディアを植え付けられれば、タバコを吸うのを止めるというように。ただし、注意しなければならないのは、潜在意識に植え付けられたアイディアは植物のように成長してゆくので、「タバコが嫌いになる」というアイディアを植え付けられた人はタバコを止めるだけでなく、タバコを吸っている人も嫌いになって、仕舞いにはタバコを吸っている人に殴りかかるようになってしまうかもしれない。植え付けられたアイディアがどのように成長して、その人を変えてしまうかまったく分からないのだ。このようにインセプションは危険な任務であって普通は引き受けない。ところが、コブはサイトーからライバル会社の社長に「自ら会社を潰す」というアイディアを植え付けるインセプションを依頼される。最初、コブはこの依頼を断ろうとするが、サイトーの示した条件に釣られて依頼を引き受けてしまう。その条件とはコブが米国に帰れるというものだった。実はコブは妻殺しの嫌疑をかけられて、国外逃亡を余儀なくされていたのだ。米国にはコブの子供たちが暮らしており、コブはどうしても子供たちの元に帰りたかったのだ。そこでサイトーは巨大な権力を行使してコブの罪を帳消しにして、コブを米国に帰すという。コブは危険と知りつつも、この任務に取り組むことにする。

4.夢の構造
さて、『インセプション』の設定で重要なものに夢の構造がある。『インセプション』で描かれている夢の世界は階層構造になっている。どういうことかというと、『インセプション』では、現実と夢の世界の2つしか世界が存在しないというわけではなくて、夢の世界は階層的に幾つもの世界が折り重なって存在しているという設定になっている。どうしてそうなるかというと、夢の中で再び眠りについて、さらに夢を見ることによってもう一つ別の夢の世界に入ってゆくというのだ。夢の中で夢を見ることによって、階下を下るようにドンドンと潜在意識の奥深くへと潜っていけるという設定になっている。

さらに気をつけなければならないのは現実と夢の世界では時間の流れるスピードが違う点だ。現実での1分間は夢の世界での20分に相当する。そして、夢の中の夢、最初の夢を第1階層とすると、夢の中の夢は第2階層になるが、第2階層ではさらに時間のスピードが遅くなる。現実では1分間のはずが、第1階層では20分間になり、第2階層では400分間になる。このように階層を下れば下るほど輪をかけて時間の流れるスピードが遅くなる。このように、まるでゲームのような特殊な設定を生かして、この物語は観客を楽しませるスリリングな展開が繰り広げられる。設定はこの他にも、キックや虚無、潜在意識の防疫反応や心の武装化などたくさんあるが、ここでは省く。



5.コブの抱える3つの問題
次に、主人公であるコブについて説明する。コブは機知によって危機を脱出する、いわゆるオデュッセウス型の英雄だ。情報を抜き取るときに機知を働かせてターゲットをうまく欺くのだ。ただし、ヘマも多い(笑)。例えば、ここが夢だとバラして相手の信用を得る作戦『チャールズ』はサイトー相手に一度失敗している(笑)。とはいえ、推測だが、数々の産業スパイで成功しているのだから、コブはなかなかの腕前なのだろう。

だが、そんな彼にも問題(弱点)が3つある。1つは、どうしても騙せない相手がいる。それは自分自身の潜在意識の投影である妻モルだ。相手は妻モルの姿を取っているが、その中身は実は自分自身だ。コブがいかにターゲットを欺くのが上手だといっても、自分自身を欺くことはできない。モルにはコブの知っている情報がすべて筒抜けでお見通しなのだ。だから、コブの機知もモル相手には通用しない。この映画はそんなコブがどうやって自分自身である妻と戦うかも物語の見所になっている。ところで、なぜ、妻であるモルがコブの邪魔をするのかはコブのモルへの罪悪感に原因がある。モルへの罪悪感が潜在意識となってモルの姿形をとって現れるのだ。では、その罪悪感の原因は何か?コブがモルに罪悪感を抱く理由は妻の死に深く関わっており、映画の終盤で明かされる。ともかく、潜在意識である妻モルはコブの仕事の邪魔をする最大の敵、最大の弱点になっている。

さて、2つめの弱点は夢の世界に長く居すぎたために、コブにとって現実と夢の境界が曖昧になっていることだ。「夢を見ているときは、ここが夢の中だと気づかない」というように、長らく現実と夢の間を行ったり来たりしていると、どちらが現実でどちらが夢なのか分からなくなってくるというのだ。コブはこれを避けるためにトーテムという自分だけが知っている掌サイズの小さな物体を用意している。この物体の微妙な感触を覚えておくことでここが現実か夢かを見分けるというのだ。映画の中でコブは小さな独楽を使って、その独楽が回り続けるか否かで、ここが現実か夢かを判別する。だが、それでもコブはここが現実か夢かで悩み続けて、しばしば独楽を回して自分が居る場所が現実であることを確認している。

そして、3つめの弱点、それは「もう一度、妻と一緒に暮らしたい」という願望だ。端的に言えば、死んでしまった妻への未練だ。コブは死んでしまった妻への罪悪感があると同時に、本当はもう死んでしまっているが、それでも愛している妻ともう一度一緒に暮らしたいと秘かな願望をいだいている。普通ならそんなことは不可能だ。死んだ人は甦らない。だが、夢の中でなら、それが可能だ。夢の中でなら妻を克明に再現することで、もう一度一緒に暮らすことができる。コブは現実と夢が混同するリスクを知りながらも、秘かに夢の中で妻を再現していた。だから、その所為もあって、仕事中の夢の中なのに、妻が、突然、現れたりする混乱を起こしていたのだ。だが、コブには愛する妻との間で生まれた子供たちを現実の世界に残してもいる。そのため、コブは子供たちと一緒に暮らしたいという願望がある一方で、夢の世界であっても、もう一度妻と一緒に暮らしたいという互いに相反する願望を抱えているのだ。子供たちのいる現実の世界で暮らすか、妻のいる夢の世界で暮らすか?実は、この映画は「この2つの願望のどちらを選択するか?」という葛藤の物語でもある。そして、その選択は心の最も深い深層部である虚無でコブに突きつけられる・・・。

6.『インセプション』の読解で最重要問題は何か?
さて、いよいよ、この映画で最も重要な問題について考えるが、最も重要な問題とは何か?まず、それを画定する。まず、作戦である次期社長のロバートに会社を潰す意志を芽生えさせるというインセプションには成功している。つまり、作戦自体は成功なので、これは最重要問題ではない。では、最重要の問題は何か?映画を見終わったなら、それが何かすぐに分かると思う。映画を見終わったとき、観客が一番に考えたのは、あの独楽は止まったのかどうか、すなわち、コブは現実の世界に戻れたのかどうかだ。したがって、「コブがサイトーを虚無から救い出して、現実の世界に戻れたか戻れなかったのか?」が最重要問題である。そして、「もし、戻れたのだったら、その証拠なり、そう確信させるものは何か?」というのが最重要問題から導かれる解答になる。(もちろん、その逆の「戻れなかったのなら、その証拠は何か?」というのもありえるが、戻れたか戻れなかったかのどちらか一方の論証にあればいい。)

7.『インセプション』のクライマックスはどこか?
さて、では、最重要問題の解答は何か?コブは現実に戻れたのか?戻れたのなら、それはどこで分かるのか?ここで、問題を考えるために映画を振り返ってみる。映画の冒頭シーンにもあったように、虚無の世界でコブが年老いたサイトーと再会したところまでは間違いない。そして、コブが自分自身にも言い聞かせるようにサイトーを説得して、サイトーが拳銃を握ろうとした瞬間にこの場面の映像は途絶える。次の瞬間、突然、コブが飛行機の座席で目を覚まして現実らしき世界に戻る。その後の映像はややスローモーションでどこか現実感がない。コブは空港で入国手続きを済ませて、あれよあれよという間に自宅に戻って子供たちと再会を喜ぶ。コブが現実か夢かを確かめようとテーブルの上で回した独楽が回り続ける中、映画は終わる。独楽は、若干、揺らいだ音を立てるが、独楽の回転が止まったかどうかは分からない・・・。

コブが機内で目を覚ました後の場面からはコブが現実に戻れたかどうかは分からない。なぜなら、独楽が確実に止まったわけではないし、子供たちの顔が映画の中ではじめて登場するが、それが戻れた証拠とは言えないだろう。単に、夢の中と知らずにコブの自らの意志で子供たちの顔を見ただけかもしれないからだ。つまり、機内で目を覚ました以降の場面から、コブが現実に戻れたかどうかを確信できる証拠はない。

では、ノーラン監督はコブが戻れたかどうかは観客の自由な判断に委ねたのか?戻れたかどうか、どちらの判断も可能で観客は宙ぶらりんな状態に投げ出されたのか?もし、そう考える観客がいたとしたら、その観客はこの映画を単なるアクションが連続するアクション映画としてしか見ていない。この映画が心に訴えかけてくる心情的な核心を見逃していることになる。もっと具体的に言えば、この映画のクライマックスの意味を分かっていない。そもそも、この映画のクライマックスはどこか?それが分かると自ずとこの最重要問題の答えも導かれる。(*4)

この映画のクライマックスはどこか?それは虚無の世界でのコブとモルの対峙だ。ヒーローとヒロインの最後の対峙だ。この対峙の後、虚無でサイトーと再会して映画が終わるまでの場面は問題の投げかけであって、その問題を解く鍵はこのクライマックスで示されている。このクライマックスが理解できていれば、この後の問題の答えも自ずと分かってくるのだ。

8.クライマックスの意味
第3階層でロバートを殺されたコブたちは再びロバートを生き返らせるために虚無へ行くことにする。このとき、アリアドネはモルのことでコブを心配するが、コブは即座に「モルはロバートと一緒にいる」と答える。驚くアリアドネをよそにコブは続けて「なぜなら、モルは一緒にいたいから」と答える。コブはなぜそこまでモルの気持ちが分かるのか?考えてみれば、簡単なことだ。このモルは妻といっても実際にはコブの潜在意識の投影だ。モルはコブ自身でもあるのだから、モルの考えていることも分かるというものだ。しかも、第3階層まで潜っているので、いわば深層意識の奥深くにいるのだ。つまり、心の奥深くにいるのだから、いわゆる本心、表層意識に邪魔されずに、プリミティブな自分自身の願望をコブ自身が自覚しやすいのだ。意識も無意識も分け隔てるものはなく、より一体となった覚醒した意識に近づいてもおかしくない。

さて、虚無へ潜ったコブとアドリアネはビルの高層でモルと対峙する。コブの言った通りの場所にモルはいたのだ!これも先述の通りでモルは自分自身なのだから、コブにも分かるというものだ。このとき、コブはもう一人の自分であるモルとぶつかり合う。モルはコブを誘う。「この世界で一緒に暮らしましょう」と。そう、コブは今までも自分の夢の中にモルを再現して、モルに罪悪感を抱きながらも、一緒に暮らすことを夢見ていたではないか。その潜在的な願望が潜在意識の化身であるモルから誘われたからといって不思議ではない。むしろ、必然といえる。このような形でコブは自分自身の願望を真正面から突き詰められる。果たして、コブの出した結論は?

9.幻想のモルと本物のモルのどちらを選ぶか?

 コブは自分が残るかわりにロバートの居場所を教えろとモルに要求する。モルは喜んでロバートの居場所を教える。だが、コブはまんまとモルを欺くことに成功する。確かにコブは虚無に残るが、それはモルと一緒に暮らすためではなくて、落ちてくるサイトーを救うためだった。コブは自分の潜在意識であるモルを欺くことに成功する。オデュッセウス型英雄のコブが相手を欺く中でも最も困難な自分自身を欺くことに成功したわけだ。コブはモルをしげしげと見つめながら、モルの誘いを断った理由を語り始める。コブは言う。「君は完全で美しい。だが、本物のモルとは違う。本物のモルは完全だけど欠点もあるひとだったんだ。自分の潜在意識は君を本物に似せてはいるけれど、やはり、本物とは違う。自分が愛しているのは完全だけど欠点もある本物のモルなんだ。君にはすまないけれど、自分が愛しているモルではない」と。ここには人間の複雑な感情がある。見た目の美しさなら、夢のモルの方が本物のモルよりも上かもしれない。なぜなら、夢は現実を美化してしまうからだ。しかし、コブは見た目の美しさだけでモルを愛しているわけではない。コブは欠点もある本物のモルを愛していた。これはどういうことか?これは若い頃の恋愛と熟年の夫婦愛に置き換えて考えてみれば分り易い。若い頃の恋愛は恋人の外見的な美しさに惹かれたりするが、夫婦愛になれば見た目の美しさではなく、相手の人間性や二人で共有してきた時間の中で経験を共にしてきた相手に愛着がある。夫婦愛は表面上の見た目の美しさを超えて、相手の本質や共有した経験があることにこそ惹かれるのだ。夫婦愛は見た目に左右される薄っぺらい愛ではなく、もっと深くて強い愛に支えられている。したがって、コブを現実に引き戻す原動力は見た目の美しさで惑わす幻想ではなく、本質的な夫婦愛なのだ。コブはそのことを自覚したとき、幻想の世界に浸るのではなく、子供たちのいる現実に戻ることを強く意識したのだと思う。(*5)

10.見た目では現実と夢の違いが分からなくなっている!
さて、クライマックスで「夢の中でモルと一緒に暮らしたい」という幻想を克服したコブは、今度は見る陰もなく年老いたサイトーに再会する。コブは年老いたサイトーに昔の約束を思い出させるように説き聞かせる。そして、元の世界に戻るために勇気を出して飛ぶんだと説得する。そして、次の瞬間、突如、機内の中で目を覚ます。目覚めたコブが見た周囲の世界はどこか非現実的だ。そう感じられる原因は映像にある。というのも、音声がなく、映像も少しスローモーションになっているからだ。また、年老いたサイトーと再会した場面からいきなり機内の場面に変わったことも原因のひとつに挙げられる。物語が強引に断ち切られたように、あまりにも突然なのだ。私たちが夢からハッと目覚める体験そのままだ。そのため、観客は目覚めたコブがいる世界が現実の世界なのか夢の世界なのか分からない。観客は「ここは現実なのか?」と戸惑う。今までコブがトーテムの独楽を必死になって回して現実か夢かを確認していたが、今度は観客が同じ目に会う。この文章の冒頭で『ブレードランナー』や『マトリックス』を例に出して、本物とニセモノの区別がつかない程似ているという話をした。今まさに観客は夢と現実の区別がつかない状態に置かれている。観客はどうすれば夢と現実を区別することができるのか?

11.試される観客
夢と現実を区別する証拠を探すためにラストシーンについて検証してみよう。ここが現実ではないかと思えそうな点がラストシーンには2つある。1つはコブが子供たちと再会して、この映画で初めて子供たちの顔が写る場面だ。この点からここが現実だと主張する意見があるかもしれない。だが、虚無においてモルがコブに子供たちの顔を見るように促した場面があったことを思い出してもらいたい。これはどういうことかというと、夢の中であってもコブは子供たちの顔を見ようと思えば見られるのだ。つまり、このラストシーンで子供たちの顔が写ったからといって、必ずしも現実とは限らないということだ。ここはまだ夢の中かもしれない。もう1つはトーテムの独楽だ。独楽の動きから現実か夢か分かるだろうか?ラストシーンで独楽は揺らいだ音を出すものの、独楽が止まるところまでは写されていない。独楽が揺らいだ音をたてただけではここが現実だと確証するわけにはいかない。以上のように、子供の顔や独楽だけではここが現実だと確信するわけにはいかない。つまり、ラストシーンからは現実か夢かは判別できない。では、ここが現実か夢の中かどうすれば、判別することができるだろうか?

だが、物語を少しさかのぼって考えてみれば、そんなに迷うことはない。よく考えてみれば、コブは幻想のモルを克服しているのだ。「夢の中でモルと一緒に暮らしたい」という執着心をコブは克服している。少なくともコブ自身は現実に戻ろうと強く願っていたのだ。そして、現実に戻って子供たちと暮らすことを切に願っていたのだ。そういったコブの強い意志がある限り、コブが自らの意志で夢の中にとどまることはありえない。確かにコブがいくら努力しても現実に戻ることに失敗する可能性はあるだろう。だが、コブの意志自体は現実に戻ることを目指しているのだ。つまり、推測ではあるけれど、コブは現実に戻ろうと精一杯努力したであろうと考えられる。だから、ラストシーンはおそらく現実だと私たち観客は確信できるのだと思う。

さて、話をまとめよう。現代は本物かニセモノか、現実かバーチャルかが判別しにくい時代になっている。特に映像はコンピュータグラフィックスの発達で本物かCGか分からなくなっている。見た目では本物かニセモノか分からなくなっており、人々の中には現実と虚構を区別できない者も出始めている。そして、テクノロジーは本物とニセモノの区別をますます分かりにくいものにしている。この映画でもコブが機内で目覚めた後の世界は現実か夢なのか映像からは判別できないようになっている。だが、物語の意味を考えれば、コブが現実に帰れたであろうことは明白である。いや、よしんば帰れなかったのだとしても、コブが幻想を打破して現実に戻ろうとしたことだけは間違いないだろう。そして、コブが幻想を打破できた中心にあるのは、見た目の美しさに惑わされない、妻への本当の愛なのだ。本当の愛というと語弊があるかもしれない。深い愛というべきかもしれない。恋愛から始まって夫婦愛へと熟成されたような、深められた愛といえるかもしれない。彼が愛しているのは外見がただ若くて美しいだけのモルではなく、モルの心、モルの本質を愛しているのだ。あるいは、二人で積み重ねて共有した経験を伴なっているという固有性、その固有性を持つ妻モルを愛しているのだ。簡単にいえば、長年連れ添うことによって愛着を持つ妻を愛しているのだ。現代は目に見えるものだけが信じられる時代と言われている。逆に言えば、目に見えないものは信じられない時代である。物事の本質や愛は目に見えるものではない。だが、目に見えないものであっても、それらを強く感じとることによってその存在を強く確信することができる。そして、この映画では現実と夢を区別するものとして、それら目に見えない本質や愛が現実と夢を分かつモノとなっている。この映画でノーラン監督はコブが機内で目覚めてから以降の映像で観客がここが現実か夢かを判別できるかどうかを試している。観客が映像に惑わされることなく、ここが現実だと確信することができるかどうか、そして、確信できる理由が見た目ではない強い愛であるということに気づくかどうかを試している。


見た目、視覚効果から考えれば、ここは現実というよりは夢の世界に近いのではないかと類推させられます。しかし、視覚効果だけでは判断できません。一般的に、映画では、たとえそこが現実であってもこのような視覚効果はよく使われることなので、映画の最後のシーンまで追ってみなければ最終的な判断はできないでしょう。では、最後のシーンはどうなっているでしょうか?コブは子供たちと再会を喜びます。子供たちを抱き上げる前にコブがテーブルの上で回した独楽が回り続けています。そして、最後に少しだけ揺らいだ音をたてたところで映画は終ります。結局、このラストシーンだけではここが現実か夢なのかはハッキリと断定することはできません。では、この映画は、結局、ここが現実なのか夢なのか、コブは現実世界に戻れたのか、それとも、夢の中の虚無の世界に落ちたままなのかを観客の判断に委ねたのでしょうか?いいえ、そうではありません。監督はこの映画ではっきりとしたメッセージを残していると思います。なぜ、監督はラストシーンの視覚効果として、このように現実と夢の区別が難しくなるような映像にわざわざしたのでしょうか?それはニセモノが本物と見紛うばかり作られているために、見た目では判断できないということを寓話として入れたのだと思います。では、本物かニセモノかを判断するものは一体なんでしょうか?それは見た目ではなく、物事の本質を見る目です。(*3)

以上のように、この映画は現実と幻想が非常に似通って区別が難しくなってしまったけれど、物事の本質を見極めれば、それが現実か幻想かの判別は可能だと言っていると思います。さらに、見た目の美しさに魅惑されるような薄っぺらな恋愛ではなく、相手の人間性や積み重ねた時間によって培われた夫婦愛こそが深くて強い大切な愛なんだと教えてくれていると思います。この映画のラストシーン(機内でコブが目覚めてから、子供たちを抱き上げて、独楽が回っているシーン)で監督は観客が現実と幻想を見極められるか試しています。そして、見極められるためには物語の核心である夫婦愛に対する理解がなければなりません。物語の設定がSFやアクションで満たされていますが、意識の階層を深く潜った心の最深部、冒険の最後の最後、物語の核心部分で人間の情緒(深い夫婦愛)を扱った文芸的な心に触れる作品になっていると思います。SFと文芸が見事に融合した良質の物語だと思います。



(注)
(*1)一般に『荘周胡蝶の夢』のたとえ話は本文の理解(←夢と現実の区別がつかない。違いはない。)で良いのですが、『荘子』の説くところの『荘周胡蝶の夢』の本来の意味とは違います。本来の意味では「人間になろうと蝶になろうと、姿かたちがどのように変わっても本質は変わらない」ということを説いています。ただし、もう1つ付け加える意味があって、荘子はシャーマニズムの影響を強く受けているので、シャーマニズムが説いている世界認識で、この世界は「この世」の他にも別の世界である「あの世」がたくさんあって、「この世」も「あの世」も共に現実であるということも言っていると思います。

(*2)現実とバーチャルの区別がつかない人にはこの映画は試金石になっていると思います。というのは、現実とバーチャルの区別のつかない人はそれこそこの映画の虚無世界に落ち込んだように、映画のどの世界が現実でどの世界が夢かが分からなくなってしまっています。物語の枝葉末節に囚われるのではなく、物語の核を掴むことができれば、この映画のどの世界が現実でどの世界が夢かの区別がはっきりと掴むことができます。そして、それはうわべの見た目(視覚)ではなく、本質的な意味を知ることでその区別ができるということを自覚します。

(*3)逆に言うと、見た目に惑わされる人は、このラストシーンの見た目に、意識的にか無意識的にかは分かりませんが、影響を受けて、コブは現実世界に戻れなかったと判断してしまいます。

(*4)判断を観客に委ねる作品に『ゆれる』があります。どちらにも解釈できる作品です。なるほど、どちらにも解釈できるようにうまく作れているという意味では技術的に優れている。だが、観客からすれば、「それがどうした?」となります。どちらの解釈もできるし、どちらか一方でもそれなりに意味はあるけれども、両方可能で意味が増えるかというとそうでもないでしょう。1+1=2であって、1+1が3にも4にも増えるというわけではないでしょう。単にテクニックとして上手にできましたという話ではないでしょうか。確かに技術的には優れているけれども、物語としては意味はありません。

(*5)「コブはモルと夢の世界で暮らしたがっている」というのは第3階層でのコブとアリアドネの対話からも推測できる。コブはアリアドネにモルはロバートと一緒にいると言います。モルはコブと一緒にいたいからです。言い換えると、潜在意識のモルのこの願望はコブの願望でもあるのです。コブはモルと一緒にいたいのです。ちょっと冷めた目で見ると、コブが一人でミッションのクリアーを難しくしているだけで一人芝居しているように見えるかもしれませんね(笑)。

細かいツッコミですが、「コブはモルを欺けないので?」はという疑問があります。ですが、このとき、コブはサイトーが落ちてくるから虚無に残るつもりでいました。ですから、「コブが虚無に残る」という言葉はモルと一緒に残るという意味ではなくて、サイトーを連れて帰るために残るという意味だったのです。ですから、コブはモルにウソをついたわけではありませんでした。


(*6)ラストの虚無の世界におけるサイトーとコブの年齢差について推測を書いておきます。海辺のサイトーの屋敷で再会したサイトーとコブですが、サイトーは明らかに極めて高齢の老人になっています。一方、海岸から拾い上げられたコブはやつれてはいますが、老人になっているわけではないと思います。この二人の年齢差はどうやって生じたのでしょうか?おそらく、サイトーは弾丸による傷が原因で第1階層で死んでいます。一方、コブは夢を見ることで虚無世界に行ってサイトーが落ちてくるのを待っていました。ですから、順番から言えばコブが先でサイトーが後のはずです。ですが、年齢差から考えれば、サイトーが長く虚無にいて、コブが後から虚無に来たと推測できます。何故でしょうか?おそらく、コブは夢を見る状態で虚無にいましたが、第1階層で水中に車で転落したときに水死してしまったのではないかと思います。もしくは、他の第2、3階層で死んでしまった。死んでしまうことによって、夢で虚無にいた状態から、サイトーのように死んで虚無に落ちてきた状態に変わったのではないでしょうか?言ってみれば、最初、虚無にいた状態がリセットされて、死んで再び虚無に落ちてきたのです。そういったプロセスがあったためにサイトーはコブよりも早く虚無にいたわけです。サイトーはすでに弾丸の傷で死んでいるので、水死することもありません。コブよりもいち早く虚無に落ちているのです。その僅かな時間差が虚無で拡大されてサイトーが老人になるまでの時間差となって現れたのだと思います。ですから、サイトーは虚無の中で老人になるまでの一生分の時間を過ごしたことになります。機内で目覚めたときの茫然としたサイトーの表情はその過酷な長い年月が年輪のように押し寄せて、眠る前の精気のある顔から目覚めた後の苦難の旅を経た後のような微妙な表情に変わったのだと思います。この辺りの実に繊細な渡辺謙の演技はとても優れていると私は思います。


2010年8月18日水曜日

来るべき戦争への備え

ざっと思いついたまま書いたので、まだ下書きのような段階で文章の体をなしていません。後日、文章を整理して書き直したいと思いますが、とりあえず、未完成ですが、文章をアップしておきます。

1.緊迫する東アジア情勢
何やら北朝鮮がきな臭い。例の哨戒艦沈没事件に始まって、先日の米韓合同演習、そして、今回の軍用機墜落である。北朝鮮を中心にこの東アジア地域で何か良からぬことが起こる前兆が見られる。

2.犯人は誰か?
まず、北朝鮮に関して言えば、北朝鮮が韓国との間で戦争を起こしても利益はないだろう。北朝鮮は確かに国際社会に何かと問題を突きつけるが、それは国際社会から何らかの援助を得るための、言わば、「ダダをこねている」に過ぎない。これは綱渡り外交と言えるだろうが、今のところ、うまく行っていると思う。だが、実際に戦争を起こせば、そうはいかなくなる。北朝鮮がいくら中国の後ろ盾があるからといって、西側諸国と戦争して勝てるはずがないのは分かっているからだ。だから、哨戒艦沈没事件から今回までの一連の北朝鮮の動きは軍部のはねっ返り連中の暴走だとしても、北朝鮮中央政府、つまり、金正日が仕掛けたものだとは考えにくい。では、誰が画策したのか?

3.中国の脅威
中国の経済成長が目覚ましい。ついに2010年の第一四半期のGDPにおいて、中国は日本を抜いて世界第2位の地位に着いた。だが、実は中国はGDP以外にも軍事費において米国に次ぐ第2位の高いの軍事費をかけている。軍事費の点から見れば、中国は米国に次いで世界第2位の軍事力を持つ国と言える。ただ、実際には、かつての超大国ロシアがあるので、中国の軍事力はロシアよりも下かもしれない。だが、たとえそうであっても、世界第3位の軍事力を保持しているであろうことは確実だろう。ちなみに、日本は世界第6位の軍事費である。ただし、専守防衛の観点から組織された軍事力であるために、その戦闘力は偏った傾向があると思われる。

4.世界の覇権
米国も中国も超大国であり、世界の覇権を握ろうと意識していることは間違いない。ゆえに高い軍事力を持つ国を看過することはありえない。つまり、ここ最近の北朝鮮を中心としたきな臭い動きは米国と中国が対立しているために生じている前哨戦ではないかと思う。この東アジア地域で有事が起こるとすれば、まず間違いなく北朝鮮だろう。今まで悪評を立てながら利益を引き出してきた北朝鮮の綱渡り外交が米国につけ入られる弱点となってしまったと思う。

5.北朝鮮の兵器ビジネス
そもそも北朝鮮が悪評を立てた1つの要因は中国の兵器を中国に代わって世界に販売したことにある。さすがに中国自身が兵器を販売するのは国際社会から非難を浴びるだろうし、ひいては国連安保理の常任理事国を務めている地位さえ、その権力基盤を弱められない恐れがある。そこで、北朝鮮を代理に立てて、兵器を販売していたのだ。北朝鮮はすでにならずもの国家としての悪い地位を得ていたので、これ以上、特にマイナス点を増やしてもさほど変わらないと開き直っているので平気というわけだ。

6.中国にとっての北朝鮮という防衛ライン
また、中国としては、北朝鮮はお荷物ではあるものの、社会主義国の防衛ライン、国防の防衛ラインとして、北朝鮮を譲るわけにはいかないというのも大きい。確かに、歴史的に見れば、朝鮮半島は様々な国家に分裂しては合併し、合併しては分裂するという繰り返しだった。だから、何も韓国と北朝鮮が1つになる必要はないと見る見方もあるだろう。

7.朝鮮半島の統一
だが、同じ言語を使う同じ民族という観点からすれば、韓国と北朝鮮は1つに統一されるのが一番自然であるように思う。韓国の人口が5千万人、北朝鮮の人口が2千万人で合わせて7千万人の人口の国になると思われる。韓国と北朝鮮が統一されて統一朝鮮が実現すれば、日本の約3分の2の人口を持つ、日本と国力がほぼ均衡するであろう国が生まれる。ただ、かつてドイツが西ドイツと東ドイツが統一したときのように、統一当初は北朝鮮の未発達の社会インフラを整備するために一時的に国力が衰えるものと思う。だが、安い北朝鮮の労働力によって、いずれは活力を取り戻すのではないかと思う。そうなれば、東アジアでは日本と統一朝鮮はほぼ拮抗した国力を持つ国家になるのではないかと思う。確かにストックという面では日本はまだまだ金持ち国家だが、フローという面で見れば、統一朝鮮を侮れないと思う。日本は右肩下がりの斜陽傾向にあるからだ。

8.中国から見た沖縄の戦略的位置
さて、中国はチベットもウイグルも中国に無理矢理取り込んできた。そのやり方は大量に漢民族を送り込んで、時間をかけてチベットやウイグルを漢民族の国にするというやり方だ。そして、教育によって、チベットもウイグルも元々中国だったと国民に信じこませるというものだ。いま、中国の歴史学者の中には、沖縄に対して、沖縄は中国のものだという極めて悪辣な主張をしているものもでてきた。彼らのやり方はチベットやウイグルと同じで、中国のものだと主張して侵略して、侵略すれば、漢民族を大量に送り込んで、そこに住む人々を根こそぎ漢民族に変えてしまうというものだ。ただ、この沖縄に関してはあまりにも無理がある主張だ。あえて否定するまでもなく、ムチャクチャな主張だといって退けてよいと思う。ただ、なぜ、中国がこの小さな島国である沖縄に目をつけるかというと、それは上海という中国の経済上の中心都市のほぼ海上ど真ん中に沖縄があるからだ。さらに、中国で経済発展している場所は沿岸部であり、その沿岸部のど真ん中に沖縄があると見ることもできる。つまり、沖縄は中国の安全保障上の最も危険な位置、最も他国に軍事拠点を置かれたくない場所に位置しているのだ。

そして、ご存知のように沖縄にはアジアの火薬庫と言われるアジア最大の軍事基地、米軍基地がある。中国の国防から見れば、中国の喉元にいつでも突き立てられる刃を突きつけられているという状態にあるのだ。ゆえに中国の国防関係者からすれば、沖縄をなんとか中国の領土として、逆に他国からの侵略を防ぐ防波堤にしたいくらいなのだ。ゆえに無理筋の「沖縄は中国のものだ」という主張をするのだ。

9.米国から見た沖縄の戦略的位置
一方、逆の立場である米国にすれば、沖縄は中国を抑える上でなくてはならない軍事拠点になる。沖縄にアジア最大の軍事拠点をおけば、中国も東南アジアも抑えられる。現代の長い航続距離を考えれば、インド洋にさえ手が届くかもしれない。米国の国防にとって沖縄は経済発展するアジアを抑えるための、なくてはならない軍事拠点となりつつある。

10.日本にとっての沖縄
「日本にとっても沖縄の米軍基地は抑止力である」という見方をする者もいる。だが、それは100%そうだとは言い切れない。そもそも自国の防衛を他国に任せて100%安心ということはありえない。自国の防衛は自国で守るのが当然なのだ。駐留している米軍がいつ日本に銃口を向けないとも限らない。米国の利益に反するとき米軍は米国の利益を優先して日本に反旗を翻すのは当然だと思う。だから、国防という観点からいえば、自国のことは自国の軍隊で防衛するのが一番良いのだ。だが、日本の民意としては米軍基地を信頼する者も少なからずいるだろう。米軍もそれに加勢するだろう。本土の国民は自分たちに不利益がない限り、沖縄の米軍基地を撤退させるまでの民意を示せないだろう。沖縄の市民たちは自分たちの惨状を伝えるために米軍基地に対して行動を起こすか、本土において訴えを実力行使で起こすかのいずれかでしか本土の国民に不満を伝えることはできないと思う。ゆえに以上を勘案すれば沖縄の米軍基地はまず撤退することはありえないと思う。

11.アメリカ大統領を凌ぐ軍需産業とユダヤ財閥
ところで、米国のオバマ大統領の支持率が下がっている。そして、国防省ともあまり良い関係になっていない。むしろ、国防関係はオバマ政権とは違った方向に進もうとしているようにさえ思える。違った方向とは共和党が指示するようなタカ派的な方向だ。米国の巨大な軍需産業やユダヤ資本、暗躍するロビイストなどの力は強大で、大統領すら凌駕するのではないかと思える。結局、アメリカの真の主は大統領ではなく、巨大な財閥なのではないかと思う。そして、かつてブッシュ大統領が唱えた悪の枢軸3国イラク、イラン、北朝鮮への攻撃準備が着々と進んでいるのではないかと思う。今はイラクは無いので、イランか北朝鮮だ。万一だが、今度の中間選挙でオバマ大統領は負けるかもしれない。いや、負けなくとも、ほぼ死に体の無力な政権になるのではないかと思う。そして、オバマ大統領の後はおそらく共和党が政権を取るだろう。そうなれば、確実にイランか北朝鮮で戦争がある。北朝鮮というものの、実際には、その背後についている中国を牽制したものになる。ユダヤとしてはイスラエルを援護するためにも先にイランを叩きたいと考えているだろう。だが、さすがにイラクのように国際世論が簡単に納得するとは思えない。今の状況からは米国がイラン戦争に持ってゆくのは極めて難しいだろう。むしろ、北朝鮮との戦争の方がたやすく状況を作れると思う。昨今の哨戒艦沈没事件などはむしろ米国の画策ではないかと疑える。

12.イランで戦争が起こった場合
さて、日本はどうするか?まず、もし、イランで戦争が起こった場合。イランは日本への石油の供給国としてサウジアラビアと並んで大切な国だ。日本としてはイラン戦争後にイランの石油を手中に収められれば良いが、まずそれは無いだろう。イラン戦争で勝利してもイランの石油を手に入れるのは米国や英国だろう。そう考えれば、日本はイランと戦争しても何ら良いことはない。むしろ、イランで戦争が起こらないように尽力する方が良い。とはいえ、日本の国際政治の力は弱い。ほぼ米国に巻き込まれるのを座して待つのが関の山だろう。トルコあたりが仲介の利を得るかもしれない。だが、さすがに今度日本がイラン戦争に加担すれば、日本を標的としたテロが確実に起こるだろう。それは覚悟しなければならない。原発や地下鉄は重点的に警備しなければならないだろう。

13.北朝鮮で戦争が起こった場合
次に、北朝鮮で戦争がある場合だ。おそらく、韓国と北朝鮮が敵対する関係になって、戦争を起こすことになるだろう。戦争が起これば、比較的短時間に、1週間もかからずに北朝鮮は陥落すると思う。ただ、米国がどの程度派兵するかは分からない。韓国も同じ民族同士での殺し合いをどこまで望んでいるかも分からない。また、日本が派兵することを過去の侵略の歴史から、韓国をはじめ近隣アジア諸国は望まないだろう。ゆえに日本から派兵してもごく少数にとどまると思う。むしろ、日本は北朝鮮からのミサイル攻撃に備えることになると思う。一応、北朝鮮は核保有国だ。攻められれば、核兵器を使うと脅すのはまず間違いない。ただ、その矛先が朝鮮半島に向かうかは疑問だ。朝鮮半島に核攻撃をすれば、自分で自分の足元を掘り崩すに等しい。核汚染が自らにも降りかかるからだ。となれば、矛先は米軍基地のある沖縄や米軍の補給基地である日本に向けられることになる。核ミサイルではなく、単なるミサイルを撃ち込むことで脅すことがありえるだろう。実際、もし、核ミサイルを使用すれば、国際世論は一挙に北朝鮮を攻撃することにGOサインを出すだろうから、北朝鮮が核攻撃をすることは自殺行為になる。せいぜい脅すために、その実効性を示すという意味でミサイル攻撃がある。ただし、第三国によって、あたかも北朝鮮から核ミサイルが撃たれたようにして、日本に核攻撃を加える可能性はある。もし、日本の東京に核攻撃を加えることに成功すれば、アジアの経済・金融の中心都市は上海に確実にシフトするだろう。アジア経済の中心は確実に中国にシフトする。ただし、今のまま行けば、何も日本を攻撃しなくとも、自然にアジアの中心は上海に移るから、わざわざ攻撃しなくても良いかもしれない。ともかく、東京のような人口密集地に核攻撃したことがバレれば世界中からの非難はものすごいものとなるだろうから、まず、核攻撃することはありえない。むしろ、軍事の専門家は戦術核という、威力の小さな核を実戦で試したいのではないかと思う。北朝鮮の山岳地帯の軍事拠点や小さな要塞都市に対して戦術核を秘密裏に使うかもしれない。

14.北朝鮮に絡む中国とロシア
ただ、中国としては社会主義国の北朝鮮、まあ、名目上の社会主義国ではあるのだけれど、それを失うのをよしとはしないだろう。できるだけ、戦争は避けたいはずだ。また、たとえ、戦争になっても、韓国と統一されることをさけて、別の国家を樹立することを画策するかもしれない。だが、そうはいっても、韓国や北朝鮮の民意、国際世論からすれば、朝鮮半島は一国に統一されるのが筋になるだろう。中国としては戦後、北朝鮮に米軍基地が置かれるのを最も嫌うかもしれない。沖縄のほかにも中国を囲い込む米軍基地ができてしまうからだ。ただ、この点はロシアも嫌がるだろう。極東でのロシアの軍事的優位が弱められてしまうからだ。そういう意味ではロシアは中国と共闘するかもしれない。

15.北朝鮮戦争後の米国の次なるターゲットは中国!
北朝鮮が陥落して韓国と統一されれば、今度は米国の戦略の矛先としては中国になる。米国の戦略としては、中国を3つ以上に分割したいのだと思う。そもそも13億人が1国で統制するというのが無理がある。それゆえに巨大な国家が誕生してしまうのだ。例えば、中国を10国に分割すれば、日本が10個できるようなものだ。しかも、内陸部にゆくほど中国は貧しくなるから、日本が10個できるといっても、日本ほどの経済力があるわけではない。あくまで人口が日本と同じくらいというだけだ。だが、それでも1億人程度の人口なら、国民の不満を極力少なくする統治が可能ではないかと思う。どのような分割の仕方かは分からないが、米国はあまりにも巨大な中国を複数の国に解体することで、米国に対抗する巨大国家をこの世界から無くそうとするだろう。見方を変えれば、欧州のようなものだ。たとえば、欧州大陸がドイツ1国で統一されるようなもので、それは良くないだろう。そして、欧州の英国のような立場にあるのが、日本ということになる。日本はかつて満州事変と日中戦争によって中国を直接侵略することによって中国を退け、支配しようとした。だが、もはや侵略はありえない。だが、英国のように大陸が複数の拮抗した国に分かれているのを最善策とするように、日本も中国が複数の国に分かれているのをよしとする戦略が良いのではないかと思う。

16.日本は戦争を回避すると同時に戦う準備をせよ
以上のような戦略を踏まえた上で、次のアメリカ大統領が決まる頃には戦争の可能性が高まるから、その準備をした方が良いと思う。もちろん、平和に尽力するのが最も良いことであり、戦争が起これば、少なくとも死者が出るのだから、不幸になる人間が生まれるのは間違いない。そうならないように、平和外交に努めるのが最善ではありつつも、避けられない戦争をいかに戦うかの準備も怠るべきではない。準備せずに戦いに巻き込まれれば、不幸な犠牲を多大に出して最悪の事態を招く場合もあるだろう。そうならないように、戦うことになった場合の準備も今から準備しておくべきだと思う。

日本の国防について

1.「自分のことは自分で守る」という大原則
国防において、「自国のことは自国の軍隊で守る」というのが大原則だと思う。なぜなら、軍隊は自国の利益のために働くのであって、他国の利益のために働くのではないからだ。もし、他国の守るために軍隊が働いているのであれば、それは他国を守ることが自国の利益になるから働いているのであって、決して他国のためというのが理由ではない。逆に言えば、自国の利益になるなら、その軍隊は他国を攻撃することさえあるだろう。ゆえに、自国の防衛は自国の軍隊で行うのが大原則だと思う。

2.米軍基地が置かれた経緯
そういうわけで、日本の場合、日米同盟を結んで日本に米軍基地があるが、これは上記の原則に反する。そもそも日本の米軍基地は第二次世界大戦の敗戦国である日本を監視するために日本に置かれた。中ソに対する防共とするために日本が朝鮮半島のように南北に分断されなかったと言われている。したがって、日本の国益と米国の国益が一致するために米軍基地が置かれたというわけではない。米国の一方的な国益(世界戦略)のために日本に米軍基地が置かれたと言っていい。

3.抑止力としての米軍基地?
米軍基地を抑止力として見る見方がある。だが、それは米国の国益と日本の国益が一致している間だけという条件付きだ。下手をすれば、日本の国益に反しても米国側につかなければならなくなる。さらに、米国の国益に日本が反する行動を取った場合は米軍から攻撃を受ける可能性すら否定できない。米軍基地を抑止力というが、それは日本が攻撃される可能性を含んだ諸刃の剣だということを忘れてはならない。独立国は自分たちの自由意志を阻むような他国の軍隊を自国内に置くことは非常に問題だと思う。ゆえに、国防の大原則として、自国内には自国の軍隊しか置くべきでない。

4.日本の政党の国防方針
日本の各政党の国防方針は大きく2つあると思います。1つは自民党の日米同盟を基軸にした米軍基地容認派です。もう1つは共産党の憲法九条を基軸とした軍隊を持たない非戦派です。しかし、この2つ以外の最もオーソドックスな国防方針が本来はあってしかるべきだと思います。それは自国のことは自国の軍隊で守る自主独立派があって良いと思います。元々、どこの国の軍隊も専守防衛で自国のことを守れるだけの自国の軍隊を持てば良いと考えるのがオーソドックスな国防方針だと思います。他国に軍隊を派兵するというのは米国など限られていいます。現代では国連の要請による派兵はあるかもしれませんが、基本的には国の国防指針は他国を侵略してやろうなどという過剰な軍備ではなく、専守防衛に必要な分だけだと思います。よって、日本には、この3番目の最もオーソドックスな国防指針が欠けていると思います。

5.憲法九条と軍隊
もし、軍隊を持たないというのが方針ならば、まず、米軍基地を撤退させて、次に自衛隊を解散するのが手順でしょう。しかし、実際に、現実問題として、軍隊無しで良いでしょうか?領空侵犯などありますし、北朝鮮による拉致などもあります。現実には軍隊を持たないというのは難しいのではないでしょうか?そうなると、軍隊はやはり持つしかないと思います。そして、軍隊を持つならば、それを正しく使うことが求められます。なぜなら、軍隊はその国で最大の暴力機関であり、正しく使わなければ危険だからです。確かに憲法九条の理念は素晴らしいものかもしれませんが、現実に軍隊を持っているならば、九条が軍隊を正しく使うことの妨げになってはいけません。九条を杓子定規に捉えるあまり、軍隊を間違って使ってしまっては、反って九条の理念に反することになると思います。そのことをよく注意しなければならないと思います。日本は米国と同盟して他国に派兵してきました。憲法九条が論争の焦点になって、派兵することの意味、正義や国益についてはあまり議論されてこなかったのではないでしょうか。本来、最も議論すべきことをよく考えないといけないと思います。

6.米軍基地について
以上のように、「自国のことは自国の軍隊で守る」ということに従えば、米軍基地は日本から撤退させるべきです。確かに、米軍基地が日本の絶対的な味方であると仮定すれば、米軍基地の戦力が日本から無くなれば、日本全体の戦力は低下するでしょう。しかし、米軍基地が日本の絶対的な味方であるというのは仮定であって、必ずしもそうとは限りません。したがって、米軍基地が無くなれば、米軍基地から攻撃されるというリスクも無くなるわけです。そして、米軍基地が無くなって抑止力が低下しても、「自国のことは自国の軍隊で守る」ので良いのです。それが自然な国の姿だと思います。

7.まとめ
3つの国防指針
①米軍基地を置いて、日本軍と米軍で日本を守る。(→自民党)
②米軍基地も日本軍も廃して、絶対平和主義で日本を守る。
(→共産党など)
③米軍基地を廃して、日本軍だけで日本を守る。(→?)

自民党以外で政権を担いたい政党は③の「自国のことは自国の軍隊だけで守る」という国防指針をマニフェストとして提示すべきだと思います。最もオーソドックスな国防指針が日本の政党に存在しないのはおかしいと思います。

米軍基地を撤退させるのは日米安保の破棄が必要であり、日本の極めて大きな政策転換になります。そう簡単に撤退させるわけには行かないでしょうから、③を取る政党は米軍基地撤去の具体的なロードマップを提示してほしいと思います。


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2010年8月15日日曜日

セクサロイドの問題

とりあえず、ツイッターを元にした下書です。後日、修正するつもりです。

1.ヒト型ロボットの最も有効な可能性、それはセクサロイド!
日本の新産業の可能性についてだけど、日本のヒト型ロボット技術ってとても進んでいると思う。本当はロボットは別にヒト型でなくても良いんだけどね。ただ、例えば、原発事故が起こったとき、ヒトが放射能汚染で入れない場所で作業するのに、ヒト型ロボットは役に立つと思う。でも、惑星探査などで活躍するロボットは別にヒト型である必要はない。戦闘機などはヒトが乗らない方が高速で高い旋回率を出せるのではないだろうか?軍用ロボットの活躍が期待される。ヒト型ロボットで一番役に立つ可能性が高いのは、ズバリ、セクサロイドだと思う(笑)。

2.本物の人間以上に快楽をもたらすセクサロイド
人とまったく同じ寸分たがわぬヒト型ロボットを作り出すかもしれない。いや、場合によっては、ヒトでは不可能は動きをロボットなら可能にするかもしれない。つまり、ヒトとセックスするよりも、ロボットとセックスする方が気持ちが良くなるかもしれない。さらに受け応えも期待通りにプログラムできる。セクサロイドなら、夫婦喧嘩することなく、自分の望む通りの、欲望の沿うリアクションをするようにプログラムできる。う~む、今でさえ、現実の女性より、2次元が良いというオタクがいるくらいだから、精密なセクサロイドができたら、結婚する男性が減るかもしれない。人口を減らすには良いかも(笑)

3.セクサロイドの問題点
実はスピルバーグ監督の『A.I.』ですでにセクサロイドは描かれている。また、押井守の『イノセンス』では幼女タイプのセクサロイドも描かれている。東浩紀の他人に迷惑をかけなければ児童性愛も良いのであれば、幼女タイプのセクサロイドは許されることになるのではないのか?が、それで良いのか?例えば、児童性愛者が街で見かけた児童に欲情して、それと同じセクサロイドを作って、そのセクサロイドと自宅でセックスしているとしたら、それは許されるのだろか?いや、児童に限らず、例えば、有名女優と外見が同じセクサロイドを作ったとき、許されるのか?女優の場合は著作権を主張するかも(笑)でも、まあ、ロボット開発が進歩すれば、いずれ、精密なセクサロイドは登場すると思う。高額ならお金持ちのみが購入するだろうし、レンタルビデオ店でセクサロイドのレンタルをするかもしれない。風俗店からは職が奪われるとセクサロイドに対する反対運動が起こるかもしれない。倫理的に問題は多いが、実用に耐えうる精巧なセクサロイドを開発すれば、大きな新産業になるかもしれない。世界の風俗店がセクサロイドに置き換わるかもしれない。病気の感染の恐れもないし、売春ほどの倫理の問題もない。セクサロイドはおもちゃで遊んでいるのと同じ扱いになるかもしれないからだ。人と違って、セクサロイドなら24時間稼働可能だろう。セクサロイドが登場すれば、売春やレイプが減るかもしれない。産児制限の国では、人口減少にも貢献するかもしれない。まあ、セクサロイドを利用する男性の人権はともかく、女性の人権はセクサロイドによって守られると考えるかもしれない。

以上、セクサロイドについていろいろと思考実験してみました。

未来のライフスタイル

とりあえず、ツイッターを元にした下書です。後日、修正するつもりです。

1.2つのライフスタイル
私は文明には悪い点もあれば、良い点もあると思う。逆に、今はほとんど無くなってしまったが、文明の逆、野生の生き方、未開社会の生き方にも良い点もある。もちろん、悪い点もある。私が考えているのは、人間は文明も野生も、その両方を往復するように生きる生き方、ライフスタイルが良いのではないかと考えている。人生をデザインするとき、人生の時期によって、その2つを行ったり来たりする生活ができればいいんじゃないかと思う。

2.人類社会にとって真の問題は人口である
ただ、今はどんどん自然破壊が進んでいるので、そういうのは難しくなっている。詰まるところ、、人類の人口過多に問題があると思う。将来、世界の人口が百億に迫ると言われている。そんなに多くは無理だと思う。人類は人口をもっと縮小して地球上の文明圏を縮小すべきだと思う。土地を自然に還すべき。ただ、そのために少子化が必要だが、中国の産児制限はやはりヒューマニズムからいうとちょっと問題じゃないかと思う。中国政府としては苦肉の策だろうけど。やはり、自主的に人々が人口減に努めるべきだと思うが、それはなかなか難しいんだろうなあ・・・。いずれにしても、地球は周期的に氷河期を繰り返しており、今は氷河期の中休みである間氷期にあたる。再び氷河期が来れば、人口は激減するだろう。ただ、人類は減少しても絶滅することはないと思うけど。

3.里山というライフスタイル
それと日本は文明と野生の中間点にある。文明は中国、野生はアメリカ先住民。日本はその中間にあって独特の日本文明を築いた。天皇制なんて、世界の王権と比較すると、かなり変わった王権だ。あれは文明と野生の中間だから、あんな変わった王権になったと思う。携帯電話など日本のガラパゴス化が指摘されたりするけど、文明と野生の中間ということで、日本独特の中間的な文明を構築すること、そういう意味でのガラパゴス化だったら、面白いと思う。アーミッシュの人々みたいに文明の否定にはならないと思うけど、もう少し自然寄り野生寄りの文明を築けると思う。その中間的な文明の例として、里山があると思う。『未来少年コナン』のハイハーバーみたいなものだと思う。地下にはハイテク機器が隠されているかもしれないけど。

4.野生のライフスタイル
ただ、中間じゃなくて、完全な野生生活も私には魅力があると感じられる。平原インディアンみたいなティーピーでの狩猟生活に憧れる。最初の5年間は文明で生活して次の5年間は野生で生活する、みたいなのを繰り返すのが出来たらいいなあと思う。そういう文明と野生の往復ができたらいいと思う。もちろん、野生生活は野獣に襲われる危険があるかもしれないけど、それでも充実した生を得られるので良いと思う。文明社会での放浪者は人間の尊厳を踏みにじるけど、野生では気ままな暮らしができると思う。インドなどで底辺の階級が物乞いをしたり、虐げられたりすのって理不尽だと思う。でも、野生ならそういうのはない。それに狩猟採集生活は労働時間は文明社会よりも短い。1日4時間以下。羨ましい(笑)。それに狩猟採集生活は意外と楽しいと思う。狩猟なんてけっこう面白いと思う。まあ、こっちも殺られるリスクはあるけど。それに獲物に対する敬意も払うし。

5.人類社会の行方
まあ、文明社会はこれからもどんどん便利な機器を生み出してゆくとは思う。とりあえず、エネルギー開発と、生存圏の拡張で宇宙への進出が期待される。けど、生活の質自体はこれ以上の進歩はあまりないんじゃないだろうか。(不老不死になるのは、たぶん、不可能だと思う。)そういう意味では、文明と野生の往復生活って良いんじゃないかと思うのだが・・・。文明社会が築いてきた文化って、果たしてどれだけ価値のあるものかは疑問に思う。文明も野生もどちらも等価かもしれない。むしろ、野生生活は文明生活よりは持続可能という点では人間にとって普遍的な生き方だと思う。今までの文明は周囲の自然環境を滅ぼして、ついには文明自体も滅んでいる。今は国際分業によって、世界中から物資を供給している。でも、過去の文明が地域だったのが、今は世界規模に広がっただけで、世界規模で地球環境を滅ぼしたとき、文明も滅ぶことになるのではないだろうか。