2013年6月30日日曜日

中沢新一『チベットのモーツァルト』

今回は中沢新一の『チベットのモーツァルト』を取り上げます。

私とこの本との出会いは1989年頃です。浅田彰を知ったのと同じタイミングで数学者の森毅経由で中沢新一のことを知りました。私が最初にを買った中沢新一の本は『虹の理論』でした。次に買ったのが河出文庫から出たばかりの『イコノソフィア』です。そして、その次に買ったのがこの『チベットのモーツァルト』と『雪片曲線論』でした。中沢新一の本はどの本も面白くて、当時は本当に夢中になって読みました。いえ、今でもたまに開いては読み返すことがあります。

さて、この『チベットのモーツァルト』ですが、中沢新一の処女作なのですが、本当に内容がいっぱい詰まった中身の濃~い本です。作家は処女作が最高傑作だとよく言いますが、中沢新一の場合も、もしかしたら、この『チベットのモーツァルト』を超えるような著作は希有なのではないでしょうか?また、私は単行本で買ったので分かりますが、中沢新一の本は装丁がどれも洒落ていてカッコイイです。もし、これから本を買われる方は可能であれば、是非、単行本で購入されることをお薦めします。

目次
本の調律
孤独な鳥の条件―カスタネダ論
チベットのモーツァルト―クリステヴァ論
極楽論
風の卵をめぐって
病のゼロロジック―暴力批判論
マンダラあるいはスピノザ的都市
夢見の技法
丸石の教え
視覚のカタストロフ―見世物芸のために
着衣の作法 脱衣の技法
ヌーベル・ブッディスト
砂漠の資本主義者


さて、内容ですが、どの章も極めて難解です。現代思想に関してある程度の基礎知識を必要とします。ですが、ガチガチの論理による読み難さはありません。むしろ、知性の知的センスを要求されます。感受性の鋭さと言い換えてもいいかもしれません。非常にソフトでしなやかな文章で三段跳びで石の上をポン、ポン、ポンとジャンプしながら軽快に飛び移ってゆくような高速な論理展開です。また、美しい伸びのある優美な文章でもあります。ですが、そこで展開されている知はデジタルで強靭です。彼以外の知性と彼を比べたら、真空管と量子コンピュータとの差があるくらい知性の差を感じます。内容は現代思想という最先端の知性とチベット密教という東洋の叡智がクロスしたもので私にはたいへん魅力的に感じられましたが、昨今の日本ではあまり受けないかもしれません。書かれた当時はまだチベット密教を感性として分かる下地が日本人にはかろうじてあったかもしれませんが、今の日本は完全に近代化されたので、そういう感性は根こそぎ抜き取られて根絶やしになってしまったと思います。しかし、現代思想について言及された部分だけを取り出して読んでもそこには天才的な閃きがあると思います。是非、読んでみることをお薦めします。

なお、どの章もお薦めなのですが、あえて選ぶとすれば、『チベットのモーツァルト-クリステヴァ論』と『病のゼロロジック-暴力批判論』でしょうか。『極楽論』も本人が細野晴臣との対談本『観光』で一番出来が良かったと言っていたのでお薦めかもしれません。しかし、クリステヴァ論と暴力批判論は現代思想にとって極めて重要な論考になっていると思いますので是非読んでみることをお薦めします。ここで言及されていることを現代の哲学者は何ひとつ超えられてはいません。いえ、むしろ、後退しているくらいです。一見、現代思想のテキストは流行の旬が過ぎたように思われるかもしれませんが、案外、ここに書かれているのは流行とは関係のない哲学にとって普遍的な内容だと思います。

さて、最近の若者からは中沢新一は宗教的な内容を含むために低く評価されているかもしれません。ですが、現代思想の部分だけを取り上げてみても、他の論客は彼の足元にも及ばないと思います。喩えて言えば浅田彰が秀才だとしたら、中沢新一は天才です。ただし、天才とバカは紙一重というように彼にもちょっとそんな面があると思います。彼の知性の速さが彼を軽薄に見せてしまうのかもしれません。また、実際、彼の知性をまったく理解できない人たちがいるのも事実です。なぜ、そうなるのかは上手くは説明できませんが、ドゥルーズが人間の知性を科学と哲学と芸術の3つのベクトルに分けましたが、彼らには芸術という方面への感受性が欠けているのではないかと思います。彼らはとても論理的でニュートン力学のように明晰なのですが、しかし、もし彼らが昔に生まれていたら、果たして彼らは無限という概念を創出しえただろうか、あるいは、詩というものを創出できただろうかと少し疑問に思います。なにかそういった方面への知覚や感受性が彼らには欠けているのではないかと思います。ともかく、こんな話をしてもあまり生産的ではありません。それよりも、むしろ、私たちのアンテナの感度を上げて彼の知性が描くなめらかで優美な軌跡を感じ取ることができるように耳を澄ました方が良いと思います。扉はまだ開かれてはいません。感性の扉を開いてドアを押し広げたとき、私たちの目の前にはこれまで見たことのない色鮮やかで生気に溢れた世界があることにはじめて気づくと思います。