2013年6月26日水曜日

ぼくの魂の舗装道路の上で

日本の政治について考えていたら、とても憂鬱な気持ちになってしまった。それというのも、このまま進めば日本はとんでもなく自由のない無慈悲な国になるのではないかと思えたからだ。それはSFが描くところのディストピアそのものではないかと思えてくる。ジョージ・オーウェルが描いたディストピア小説『1984年』のような全体主義国家を思い描いてしまう。人々は一党独裁の下、理性も感情も党に支配され、個としての意識は失われ、ただ党への熱狂的な崇拝だけになる。そして次のような狂ったスローガンを酔い痴れるように声高に叫ぶ。
戦争は平和である。
自由は屈従である。
無知は力である。
「自分たちがそんな風になるなんて、そんなバカなことはありえない」と人々は笑うかもしれない。だが、支配が完全なとき、人々は支配されていることに気づかないものだ。しかも現実の世界は子供じみたSF小説と違って、おそろしく周到で極めて狡猾である。私たちが気付かぬうちに私たちの心を捕らえているかもしれない。彼らは巧みに忍び寄り狡知に長けたやり方で私たちの心を裏側から支配するかもしれない。例えば誰に教えられるわけでもなく、次のようなスローガンをいつの間にか心の奥深くに刷り込まれているかもしれない。
負け組には生きる資格がない。
負け組が自殺するのは自業自得だ。
たとえ毎年3万人の人間が自殺しようが、支配された人々はまるで痛痒を感じなくなっているかもしれない。もしも乗っていた電車で人身事故が起きたとしても仕事に遅れることを舌打ちするだけで死者が出たことを気にも止めないかもしれない。もはや私たちの頭の中は仕事と自分のことだけで一杯になり、理性や感情はシステムに支配され、隣人がいつの間にか減っていても一向に気にもかけず、ただシステムが電子的に動かす数字に一喜一憂し、口座の預金残高が増えることだけに喜びを感じる、そんな風になっているかもしれない。

そんな恐ろしい未来を想像すると、とてもじゃないがやりきれない陰鬱な気持ちになる。今日はそんな狂った気分を反映するようなマヤコフスキーの詩を記しておこう。そして、私の妄想が妄想のままであり続け、決して現実にはならないようにと目を閉じて静かに祈ろう・・・。
踏みつけられたぼくの魂の
舗装道路の上で
狂人たちは歩きながら
ぎこちない文の踵をよじる。
都市たちは
絞め殺され、
雲の首吊り紐の結び目には
塔たちが
頸をかしげて
凍てついたところを、
ぼくはただ一人で行く。
十字路で
警官たちが
磔刑にされたと
泣きわめくために。


マヤコフスキー 『ぼく』