日本を変革するシリーズの最後です。最初、家族を変えるから始まり、市場を変える、日本の構造を変えると続きました。最後は、それを永続的なもの、持続可能なものにするための方策です。それは記録すること、そして、その記録を蓄積することです。
(1)意思決定過程を記録する
日本に一番欠けているものは意思決定過程を記録しないことです。ひと言で言えば、公文書管理がなっていません。なぜそうなるかは簡単です。物事を空気で決めるからです。もし意思決定過程を記録に残してしまうと責任の所在がハッキリしてしまうからです。道理がなくて空気で決めているので、意思決定過程を記録してしまうと、もろに責任が当人に降りかかるからです。
物事を空気で決めてしまうのは、いくつか理由があります。一つは日本人は議論ができない。議論をケンカだと思っている。物事を道理で決めるためには議論が必要なのにそれができないのです。もう一つは物事を道理で考えることがとても苦手です。日本人は抽象的に考えるのが苦手なので、道理で考えるのも苦手です。ロジックを積み上げるのが苦手なのです。さらに物事の大小が区別できない。具体的なものなら大小が区別できるが、抽象的なものになると大小の区別ができない。しかも、大小の区別ができないから枝葉末節にこだわる。枝葉末節を大なるものと勘違いしている。さらにそれが枝葉末節であると他人から指摘されても、議論が苦手なので他人の意見を受け入れられない。自説を曲げられない。ロジックの組み上げは共同作業のはずなのに、まるで勝敗を決める将棋の対戦でもしているかと勘違いしている。そのため、議論そのものが成り立たない。以上のような傾向があるから、日本人は空気で物事を決めるのが良いと思っていて、それを実践している。
そして、空気で物事を決めてしまうと、意思決定過程を記録するのが困難になる。なぜなら、そこにロジック、道理がないからです。日本人の意思決定は、ただなんとなく、その場のモヤモヤ~っとした雰囲気で決まっただけなのですから。なので、記録ができないのです。
さらに、議論の行方を黙ってうかがっている人の中には損得勘定を働かせている者もいます。黙って議論を見守り、自分の得になりそうな機会があれば、自分の損得勘定を他者に悟られないように注意しながら、議論の方向をそれとなく自分が得になる方向に向かうように促したりします。こういうたちの悪い輩が黙っている者の中には隠れています。
さて、こういった問題は教育の問題だと思います。学校教育で複数人における議論と意思決定過程の記録をする訓練をしておくべきです。なんでも良いのですが、例えば10人の昼食費1万円が与えられたときに何を食べるかを意思決定させる練習をするのです。同じものなのか、バラバラなのか、あるいは、みんな同じ店か、ばらばらに買いに行くかすべて自由です。どういった選択をしてもかまいません。ただ、議論とそれを記録するということだけはしっかりやる。
私の周囲の大人たちを見ていても複数人での意思決定が苦手だと感じます。大抵、遠慮がちです。ここでの遠慮がちは美徳ではありません。空気をうかがっているのです。合理的な選択や自由意思を尊重しようという気配はありません。日本人が気にしているのは集団心理です。極端な言い方をすると、自分が集団からいじめられないように周囲に気を配っているのです。これは人間の心理というよりは、サルの心理に近いです。彼らは道理が大切なのではなく、ボス猿のご機嫌が大切なのです。
(余談ですが、日本人の心理には、『浦島太郎』の古来からいじめがセットされていて、現在も学校教育がそれを培養しています。日本人がより良く変わるためには、いじめを克服する必要があると思います。)
(2)データを蓄積する
さて、記録を習慣化できれば、あとはそれを持続することです。そうすれば、記録がどんどん蓄積されていきます。そして、記録を振り返ることで何らかの知見が得られるはずです。ところが、日本人は記録を蓄積することが苦手です。日本人の生き方は刹那的です。「今が良ければ良い、明日のことは知らない」という人が意外と多いです。
なぜそうなるのか?日本人は記録というよりは書類を作っていると感じています。つまり、極端に言えば、お役所に必要な書類を作っているのです。お役所に必要な面倒な書類作成だと思っているのです。だから、面倒な仕事は増やしたくない。お役所が要求する書類だけ作っていればいいという感覚です。
それともう1つ、日本人は物は重視しますが、情報や知識、そして人間を軽視しています。情報や知識は抽象的な部類に入るようで物のように大切に扱われません。そして、人間。人物は複雑です。人物は物ではありません。人格は複雑なソフトウェアです。日本人の人物評、人間観察力は単線的で浅いです。人間を軽く見ています。個人の自由意思や人権を軽視しています。日本人の大切なものは、物とお金です。知識や個人を軽視しています。世界が知識社会に移行したとき、日本はついて行けませんでしたが、理由は簡単で、知識を軽視したからです。日本の没落の原因のひとつがそこにあります。
話が脱線しましたが、繰り返しになりますが、記録を蓄積し、時々、振り返れば、そこから新しい知見が得られると思います。後はPDCAサイクルでシステムが改善されていくと思います。なので、徹底的にデータを蓄積していくことです。
まとめ
変革の方策はとてもシンプルです。記録すること。そして、その記録を蓄積することです。そして、時々、それらを振り返って改善してゆくことです。
2020年7月5日日曜日
2020年6月28日日曜日
NEWS2020.06
6月2日(火)
トランプ米大統領、反ファシスト「アンティファ」をテロ組織に指定すると発言
アンティファについては、以前、シャーロッツヴィルで車で突っ込んだ極右に対して、一斉に警棒みたいな棒で反撃したデモ参加者たちを見たことがある。このとき車に轢かれた女性が死亡したはず。今回のニュース、日本では「どっちもどっち」的な捉えられ方をするかもしれないが、明らかに極右が悪いと思う。極右が暴力を行使するために、対抗策としてアンティファも暴力で反撃するしかないのだと思う。それに、今回暴動を起こしているのは本当にアンティファだろうか?別の主義思想団体では?CNNを襲うなんて、トランプ支持者ではないのか?それにしても暴力を煽るトランプは酷い。このような人物が大統領とは・・・。また、日本の大手メディアと日本の大衆については言い出すと長くなるのでここでは言及しないが、浅はかな人ほどこういうニュースでネトウヨ化が進行する。
6月5日(金)
知らない間にYouTubeでまじめな性に関する動画が増えていることに気づいた。まじめと言っても学問的とかではなくて、当事者による啓蒙動画が増えていると思う。これはスゴイことだと私なんかには思える。もちろん、それはありえないことではない。日本は無意識の国だ。見えない縛りがあって、無意識に人々はその見えない縛りを超えないように生きている。ところが、YouTubeがお金になることもあって、無意識であるがゆえに無頓着にそういった縛りを簡単に超えてしまえる。これは日本人の性に関する意識を大きく変える可能性がある。日本の学校教育は性教育を疎かにしてきたが、これを大きく改善する力を秘めている。こういう性の啓蒙動画がどんどん増えて日本人の性意識を変えて欲しいと思う。そして、改めて思う。YouTube、スゴイ!
ところで、YouTuberの共通点は、みんな、歯がキレイ!歯が白い!たぶん、みんな、ホワイトニングしているんだろうなぁ。
6月7日(日)
マル激トーク・オン・ディマンド 第1000回『ようやく見えてきたコロナの正体』
児玉龍彦氏によるコロナの話は理路整然としていて大変勉強になった。さらに現在の日本の科学技術や行政に対する評価は必見の内容だった。同時にそれは恐るべき内容でもあった。そして、児玉氏によるビデオニュースの評価には涙がこみ上げるほど感動した。「自分の足で立つ。自分の頭で考える。これを次の世代に」という言葉、まさに「これだ!」と思った。
いろいろなキーワードが印象に残った。曝露量、フィードバック、分散型などなど。専門家会議で正解は最初は少数意見だがフィードバックでだんだんそれが正解だと分かってくるという話も面白かった。空気を読むような日本の会議で問題を解決する正解が生まれるはずがない。分散型システムが問題を解決しようと失敗を恐れずにいろいろ試行錯誤してやっと結果が得られるのだと思う。もちろん、試行錯誤の中では、ダメなものもたくさん出てくるが、その中から良いものが出てくる。これは市場原理にも合致すると思う。まさに市場経済の分散型システムの強みだと思う。失敗は山ほど出てくるだろうけれど、失敗なくして成功はない。クラウドファンディングの話が出てくるのも偶然ではないと思う。
先端研が最初に取り組んだものが、徐々に他の機関にも拡がっていくというのも面白かった。ビデオニュースのような取り組みも(大変失礼な言い方で申し訳ないが)小さな小石のような取り組みかもしれないが、それが波紋のように波及して大きな波を起こして相転移のようにして日本を大きく変える可能性だってある。
やっぱり、失敗を恐れてはいけないし、失敗をあげつらう文化も良くない。過程をしっかり残してそれを検証して、新たに問題解決に生かしてゆく、ま、PDCAなんだけど、そのためにも意思決定の過程をちゃんと公文書で残して検証できるようにしていくべきなんだと思う。フィードバックという言葉はそういう問題解決のルーチンを端的に言い当てていると思う。
結局、データ主義なんだろうなあ。ハラリの『ホモ・デウス』で言っているデータ教の範疇だと思う。この話を突き詰めてゆくとAIが人間の知性をいつか上回ると思う。でも、この流れは止められないと思うし、止める方向に向かうのも間違っていると思う。でも、ホーキング博士の懸念も払拭できない。あるいは恐竜が絶滅したように人類も絶滅する運命かもしれない。人間だけが永遠不滅なんて虫が良い考えかもしれないからだ。そして生命はAIにその役割をバトンタッチするのかもしれない。世界を経験するという役割、喜びと苦痛に満ちた生という経験・・・。宇宙の終焉、ビッグクランチへ向かう折り返し点くらいで交代するのかも。
日本、中国批判声明に参加拒否 香港安全法巡り、欧米は失望も
安倍政権の対応としては驚きはない。もちろん、私としては批判声明に日本も参加してほしかった。ところで、ネトウヨたちはもはや超大国・中国を批判するだけの気概はないのかもしれない。そして、いっそう韓国を攻撃するようになるかもしれない。しかし、一人当たりのGDPで日本は韓国に抜かれた。サムスンやLGの活躍、5Gの特許数や米国大学への留学数を見ても韓国が日本を上回っていると思う。YouTubeで韓国の人たちのチャンネルを見ても日本よりオシャレだったり先進的じゃないかと思うことが多い。近い将来、日本のネトウヨは歪んだ優越感を失うことになるかもしれない。
6月8日(月)
10兆円「白紙委任」変わらず 政府、予備費半額の大枠明示
この国、ヤバい・・・。なにもかも腐っている・・・。
6月14日(日)
検察を市民社会が絶えず監視しなければならない理由
ただ、気になるのは「市民社会が監視する」とあるが、具体的にその目になるのはジャーナリズムだ。第4の権力。そして、情報の真偽を常に気にしなくてはいけない今の時代、単純に白黒の判断を下せないもどかしさと不安。常に懐疑的にならざるをえないシンドさ。その上、忙しい日常生活の中で効率良く情報を摂取しなければならない時間の無さ。いっそ、自分がピックアップしたニュースをストックしておいて人工知能にアドバイスしてもらいたい(苦笑)。「あなたはこの間までニュース界隈でこんなことを考えていたんですよ」と。なんか良い方法はないものか・・・。
6月16日(火)
性的少数者だからと解雇するのは違法 米最高裁が初の判断
今の米国最高裁でこのような判決が出たことに驚く。嬉しい驚き。
れいわ・山本代表、都知事選出馬を表明 五輪中止、10万円給付を公約
山本太郎氏の支持層は低所得者層いわゆる下層だと思う。経済政策はMMT。私はMMTには懐疑的。10万円給付などは下層が喜びそうな政策。基本的には下層ターゲットのポピュリズムだと思う。それが悪いとは言わない。民主主義なのだから自分を支持してくれそうな層にフィットする政策を提示するのは当然ではある。ただ、私自身は日本のバーニー・サンダース的な草の根運動と堅実な政策を提示する宇都宮健児氏を支持する。反小池陣営からは山本太郎が立候補することで票が割れると非難する声があるが、そういう面も多少あるとは思うが同時に支持層は案外違う気もするが、いずれにしろ当人の自由で当人なりの考えに基づいて立候補するのだからそれは致し方ないと思う。ただ、私は都民ではないので投票できないのだが。
北朝鮮が南北連絡事務所を爆破か 韓国
なんとまあ・・・。いくらなんでもやりすぎだろう。
河井案里氏秘書に有罪判決 連座制適用対象の量刑判断
この事件、選挙資金の配分が10倍違うし、あからさまに買収しろという選挙資金としか読めないわけで・・・。
「技術的不備」イージス・アショア事実上撤回 安倍政権の求心力低下不可避
なんだろう?瓦解?
6月17日(水)
中印が係争地で衝突 インド兵20人死亡
核保有国同士の衝突って怖い。まあ、カシミール紛争ではパキスタンも加わって核保有国の3ヶ国での衝突でもう怖すぎるんだが・・・。
まもなく逮捕へ……河井克行・案里夫妻の“買収問題” 東京地検特捜部は全貌を解明できるか
東京高検検事長が黒川弘務から林眞琴に代わったので、さてどこまでやるのかに注目が集まる。
政府・与党、検察定年延長の特例削除へ 公務員法改正案は廃案
なんかもう、腐敗しているとしか・・・。
山尾氏、国民に入党届
立憲と国民の合併話もあるから、それも計算に入れてのことなのかもしれないが。それにしても、保守かリベラルかは大事な違いだと思うのだが、とはいえ、そもそも立憲自身が保守だとも言えるわけで、もう日本は総じて保守ばっかりなんだよなと。ま、日本国民が保守ばっかりだから仕方ないんだろうけど。やはり、日本ではリベラルは少数派なんだろうなあ。共産党も根っこは保守だからねぇ。やれやれ・・・。
立憲・須藤参院議員が離党届 都知事選で山本太郎氏応援
須藤元気の支持層は山本太郎の支持層と似たような層なんだと思う。だから、須藤氏の生き残り策としてはれいわ新選組に合流したいのだろうと思う。ただ、経済政策は彼らは財政出動型なんだと思うが、財源問題があるわけで、彼らはMMTを裏付けとするんだろうけど、私は甚だ危うい考えだと思っていて、むしろ日本の財政破綻を心配している。避けられないだろうけど・・・。それにしても、節操の無さを感じる。まあ、生き残るために必死なんだろうけど。ただ、昔からなんだと思う。幕末でも、みんな、節操がないもの。尊皇攘夷が一夜にして開国に変わっちゃう国だからね。みんな、命がけで「攘夷!、攘夷!」って言ってて、切った張ったしてたのにさ。もし、このときの意思決定過程を書いたら、もうムチャクチャだったと思う。複雑系的な意思決定過程だったりしてさ(笑)。それは哲学じゃなくて、大脳内の何らかの変化だよね。モヤモヤ~とした(笑)。
6月21日(日)
人種差別と収束しないコロナに対する怒りがトランプのアメリカを変え始めている
米国の最高裁については下記の本を読むと勉強になる。判事が随分入れ替わったので、ちょっと古くなってしまったけれど、それでもこれまでの経緯を掴むのに参考になると思う。長くて読むのが大変だけど、でも面白く読めると思う。
6月25日(木)
菅原前経産相を不起訴処分に 香典問題、起訴猶予か
結局、検事長が黒川弘務から林眞琴に代わっても同じか・・・。ガッカリだ。
6月28日(日)
ポストコロナが問う、日本は外国人と共生できる国なのか
今月のまとめ
国内政治では、河井夫妻逮捕が私にとって一番大きいニュースだった。黒川検事長定年延長問題で検察と安倍政権との軋轢がどのように進展するか注目していたが、その後、菅原一秀議員の香典問題が不起訴処分になったので検察に対して落胆した。
海外問題では、BLM運動(Black Lives Matter)が世界中に広まったことが大きなニュースだった。そして、いろんな物議を醸した。驚いたことは白人警官の中には白人至上主義者がいて、家に強盗が入ったと通報した黒人女性が駆けつけた警官に射殺されて、こういうことが起こるのはよくあるらしく、黒人が警官を呼ぶのはリスクがあるという話に驚いた。また、日本の在日コリアに対する差別に言及するツイートもあったりして、私自身、在日コリア差別について勉強不足で勉強せねばと反省した。
嬉しいニュースとしては、米国最高裁の判決で性的少数者を理由に解雇するのは違憲という判決が出たことだった。トランプ大統領になって保守派の判事が増えたので、せっかくオバマ大統領が進めたLGBTQ政策が後退するのを心配していたので、この判決は嬉しかった。
イージス・アショア停止の件も驚いた。走り出したら止まらない日本で、珍しくストップをかけた。すっかり忘れていた話だったので、寝耳に水のような不意打ち感があったが、この件は大きいと思う。
山尾志桜里女史や須藤元気氏の動きに落ち着かない感じでなにやらムズムズしたが、山本太郎の令和新選組が存在感を増しているのを感じる。民主党が立憲民主党と国民民主党に分裂して、しかも曖昧なまま、再び合流話が出たり引っ込んだりと落ち着かない中で、山本太郎の令和新選組はそれなりにある一定の層に訴えるものがあると思う。
都知事選が始まったが、まず立候補者が宣伝目的で立候補しているのが目につく。とはいえ、宇都宮健児氏も選挙が支持者を増やす運動と捉えるならば、彼らのような立候補も民主主義としては否定できないとも思う。でも、宣伝目的は邪な野心には違いないので無視したいところ。
北朝鮮問題。どうも北朝鮮国内で政権の交代があったのではないかと思う。金正恩の健康問題が取りざたされていたし、金与正に政権が渡ったのではないだろうか?金正日から金正恩に政権が移行したときも北朝鮮は軍事行動に出たし、おそらく、北朝鮮国内の反乱を恐れてのことだと思う。独裁者が怖いのは国外の敵ではなく、国内の反乱勢力だから。それにしても、ソ連の書記長が死んだときにクラシックが流れるのをちょっと思い出した。
香港の安全法問題。周庭さんが心配。カナダにでも移住してほしい。それにしても、世界が中国を止められなくなりつつある。中国の覇権が強大になりすぎて。
日本の国家財政が心配。10兆円も白紙委任するとか信じられない。経済指標は悪いのに株価だけは上がったりするが、世論調査の支持率低下と株価が連動しているのは明白。日本経済・日本の国家財政の将来を考えると背筋が寒い。
ビデオニュースの1000回がとにかく印象に残った、というか感動した。とにかく、「自分の足で立つ。自分の頭で考える。次世代にこれを伝える」、これがすべての答えだと強く思った。
コロナは東京では再び広がりつつあるようだ。私の住んでいる地方では今のところ収束しつつある。ただし、都市圏から再びもたらされるリスクはある。ただ、人々は外出が増えるなど日常を取り戻しつつある。それとマスクが手に入りやすくなった。ただし、まだコロナ以前ほど安くはない。ちなみに、個人的には月前半はコロナの影響で人員が減ったため、却って仕事が多忙を極めた。月後半になって人員が元に戻って落ち着いたが、先月の落ち込みに対する反動もあって仕事は例年よりは忙しかった。なので、過労でかなり体調を悪くした。来月は少し落ち着いてほしいものだ。
なにもかもが停滞している感じがしたが、YouTubeだけは賑やかな感じがした。もっともYouTuberたちもコロナでネタがないとこぼしていたりするのだが、見ている方はYouTubeに人が集まっていることに変わりはないと感じている。
安倍政権やトランプ政権が進歩を止めてしまっている感じる。一方、中国の経済力が世界を変えているが、共産党政権の全体主義も力を増しているので『1984』のようにならないか今後が心配だ。
日本を変革する(3)地方分権とネットワーク
日本を変革するシリーズの第3弾。前々回は家族を変革し、前回は企業を変革するだった。今回は地方分権とネットワークがテーマとなる。
(1)中央集権から地方分権へ
1990年代半ばあたりから言われていることだが、国を中央集権から地方分権に変える。集中型から分散型に変えることだ。ずっと言われてきたように道州制の導入だ。税の配分を中央に集中させるのではなく、地方に分散する。そして、分散するのは、お金だけではない。政治もエネルギーも食料も地方に分散する。
ただし、分散型システムは中央集権型システムよりは非効率ではある。中央ではなく、地方が意思決定していかなくてはならない。地方議会が意思決定して差配していかなくてはならない。ふざけた地方議会ではすぐに立ちいかなくなるし、不正が横行することもあるだろう。質の高い人材が地方で求められる。そういった人材をスカウトするか、地方で育てていかなければならない。
今までは良くも悪くも中央に任せていれば良かった。責任も中央にあった。しかし、これからは自分たち自身に責任がある。豊かになるのも、落ちぶれるのも自分たち次第だ。今までは国が集めたお金を地方にばら撒いていた。しかし、これからはそうではない。自分たちで集め、自分たちで配分していくべきだ。
これまでは中央から地方へトップダウンのツリー構造だった。これからは地方ごとにトップをおく分散型のツリー構造にする。簡単に言えば、英米の連邦制のようなものだ。
(2)ネットワークを育てる
経済的な豊かさを向上させるには市場原理に則って競争しなければならない。しかし、市場は万能ではない。市場原理に則れば、すべてが良くなり、満足な暮らしが手に入るというわけではない。地方分権では、市場ではなく、社会を育てなければならない。社会を育てるのは行政のようなツリー構造のものではない。様々なコミュニティや拠点が横断的に繋がるネットワークが適している。具体的には、大学であったり、NPOであったり、宗教法人だったりする。もちろん、小さな自治体が拠点になることもあるだろうし、文化施設のもたらす一時的なコミュニティが拠点にあることもあるだろう。いずれにしても、多様なコミュニティや拠点がゆるやかに繋がるネットワークが地方分権には適している。地方行政や地方議会がツリーだとするならば、様々なコミュニティがネットワークだ。そういったネットワークを増やしていくことだ。
そして、忘れてはならないのが、チェック機能や情報発信機能を担うジャーナリズムだ。権力が不正を働かないように常にチェックしなければならないし、地域の埋もれやすい情報をしっかりと発信するのもジャーナリズムの役割だ。民主主義社会を機能させ、より良く改善していくサイクルはPDCAと同じで、そこでチェック機能を果たすジャーナリズムの存在が欠かせないのだ。
(3)時間が必要だ。
さて、上記を実現するために日本にとって一番何が必要かというと、それは時間だ。日本人は兎角、枝葉末節にこだわる。些末なことに高い完成度を求める。そのため、多くの時間を失ってきた。会社人間と言われたように、日本人は会社が人生そのものだった。会社が日本人の多くの時間を奪ってきた。しかし、これからは違う。会社は人生の一部でしかない。会社のために使う時間はキッチリと限定すべきだ。そして、自由にできる時間を作ることで、その時間を会社以外のことに使うべきだ。つまり、社会を育てる時間に充てるのだ。
また、会社勤めをしていない若者や主婦はテレビを見ないことだと思う。共通の話題としてテレビ番組の話題を取り上げることが多い。(特にバラエティ。)しかし、マスを意識した日本のテレビ番組はあまりに幼稚で低俗すぎる。昨今のテレビ離れは良いことで、もっと時間を有意義なものに使うべきだ。
まとめ
今までは国がトップのツリー構造で、会社も産業のツリー構造の一部だった。日本は全体的にツリー構造だった。しかし今後は、まず中央集権から地方分権に変える。次に様々なネットワークを育てるのだ。つまり、日本をツリー構造から地方分権と多様なネットワークに変えるのだ。しかし、そのためには、可処分時間が必要だ。そこで重要になってくるのが残業を減らすこととテレビを見ないことだ。
余談
余談になるが、『21世紀の生存戦略』で私は人間知について書いたが、自分自身を知るためにまず最初にすることは、自分のログを残すということだ。自分自身の観察記録を残すのだ。そして、自分の傾向をデータ的に知ることで、次はこうしたらいいとか改善策を考えられる。そしてそれを試してみて上手く行かなかったら、また別の方法を考える。この繰り返しだ。つまり、PDCAサイクルだ。これは自分自身を知るためだけでなく、ビッグデータや科学的実験など幅広く応用されると思う。ハラリのいうデータ主義も要はログを残すことに等しい。なので、まず最初の一歩はログを残すことだ。すべてはそこから始まると言っても過言ではない。
(1)中央集権から地方分権へ
1990年代半ばあたりから言われていることだが、国を中央集権から地方分権に変える。集中型から分散型に変えることだ。ずっと言われてきたように道州制の導入だ。税の配分を中央に集中させるのではなく、地方に分散する。そして、分散するのは、お金だけではない。政治もエネルギーも食料も地方に分散する。
ただし、分散型システムは中央集権型システムよりは非効率ではある。中央ではなく、地方が意思決定していかなくてはならない。地方議会が意思決定して差配していかなくてはならない。ふざけた地方議会ではすぐに立ちいかなくなるし、不正が横行することもあるだろう。質の高い人材が地方で求められる。そういった人材をスカウトするか、地方で育てていかなければならない。
今までは良くも悪くも中央に任せていれば良かった。責任も中央にあった。しかし、これからは自分たち自身に責任がある。豊かになるのも、落ちぶれるのも自分たち次第だ。今までは国が集めたお金を地方にばら撒いていた。しかし、これからはそうではない。自分たちで集め、自分たちで配分していくべきだ。
これまでは中央から地方へトップダウンのツリー構造だった。これからは地方ごとにトップをおく分散型のツリー構造にする。簡単に言えば、英米の連邦制のようなものだ。
(2)ネットワークを育てる
経済的な豊かさを向上させるには市場原理に則って競争しなければならない。しかし、市場は万能ではない。市場原理に則れば、すべてが良くなり、満足な暮らしが手に入るというわけではない。地方分権では、市場ではなく、社会を育てなければならない。社会を育てるのは行政のようなツリー構造のものではない。様々なコミュニティや拠点が横断的に繋がるネットワークが適している。具体的には、大学であったり、NPOであったり、宗教法人だったりする。もちろん、小さな自治体が拠点になることもあるだろうし、文化施設のもたらす一時的なコミュニティが拠点にあることもあるだろう。いずれにしても、多様なコミュニティや拠点がゆるやかに繋がるネットワークが地方分権には適している。地方行政や地方議会がツリーだとするならば、様々なコミュニティがネットワークだ。そういったネットワークを増やしていくことだ。
そして、忘れてはならないのが、チェック機能や情報発信機能を担うジャーナリズムだ。権力が不正を働かないように常にチェックしなければならないし、地域の埋もれやすい情報をしっかりと発信するのもジャーナリズムの役割だ。民主主義社会を機能させ、より良く改善していくサイクルはPDCAと同じで、そこでチェック機能を果たすジャーナリズムの存在が欠かせないのだ。
(3)時間が必要だ。
さて、上記を実現するために日本にとって一番何が必要かというと、それは時間だ。日本人は兎角、枝葉末節にこだわる。些末なことに高い完成度を求める。そのため、多くの時間を失ってきた。会社人間と言われたように、日本人は会社が人生そのものだった。会社が日本人の多くの時間を奪ってきた。しかし、これからは違う。会社は人生の一部でしかない。会社のために使う時間はキッチリと限定すべきだ。そして、自由にできる時間を作ることで、その時間を会社以外のことに使うべきだ。つまり、社会を育てる時間に充てるのだ。
また、会社勤めをしていない若者や主婦はテレビを見ないことだと思う。共通の話題としてテレビ番組の話題を取り上げることが多い。(特にバラエティ。)しかし、マスを意識した日本のテレビ番組はあまりに幼稚で低俗すぎる。昨今のテレビ離れは良いことで、もっと時間を有意義なものに使うべきだ。
まとめ
今までは国がトップのツリー構造で、会社も産業のツリー構造の一部だった。日本は全体的にツリー構造だった。しかし今後は、まず中央集権から地方分権に変える。次に様々なネットワークを育てるのだ。つまり、日本をツリー構造から地方分権と多様なネットワークに変えるのだ。しかし、そのためには、可処分時間が必要だ。そこで重要になってくるのが残業を減らすこととテレビを見ないことだ。
余談
余談になるが、『21世紀の生存戦略』で私は人間知について書いたが、自分自身を知るためにまず最初にすることは、自分のログを残すということだ。自分自身の観察記録を残すのだ。そして、自分の傾向をデータ的に知ることで、次はこうしたらいいとか改善策を考えられる。そしてそれを試してみて上手く行かなかったら、また別の方法を考える。この繰り返しだ。つまり、PDCAサイクルだ。これは自分自身を知るためだけでなく、ビッグデータや科学的実験など幅広く応用されると思う。ハラリのいうデータ主義も要はログを残すことに等しい。なので、まず最初の一歩はログを残すことだ。すべてはそこから始まると言っても過言ではない。
2020年6月20日土曜日
日本を変革する(2)市場を真っ当にする
前回は日本を変革するためには家族を変えなければいけないと提言した。子供中心の家庭から夫婦中心の家庭に変えること、夫婦のセックスを家庭で行われる当たり前のこととして夫婦のプライベートな寝室をセッティングすることを提案した。また、親子関係において人権を導入して個人の自由意思や選択の自由を尊重することを提案した。親といえども子供を尊重してズケズケと立ち入らないような距離感をしっかりとることを提案した。というわけで、前回は家族がテーマだった。で、今回はガラリと変わって、企業がテーマとなる。
(1)大企業と個人商店の二極化へ
大企業に求められるのは効率だ。大量生産することによって単価を著しく下げることができる。しかし、それでは市場の需要すべてに応えることはできない。しかし、大企業が需要のすべてに応える必要はない。8割の需要に応えられればよい。残りの2割は他のより小さな企業、個人商店に任せればよい。小さな企業は効率は悪いが細かい要望には応えられる。しかし、多くの需要に応えられるだけのキャパシティはない。だが、元々、2割が最大限なのでそれで問題はない。大企業と個人商店はこのような相補関係にある。
「ちょっと待って!その個人商店というのは中小企業に相当するのではないか」という声が聞こえてくるかもしれない。ところがそうではない。日本の中小企業は新規参入を規制によって阻むことで、生産性が低くても、また細かな専門性がなくても生き残っていけるようになっている。市場の競争原理が働かないからだ。結局、その犠牲になっているのは消費者だ。消費者は中小企業の不満足な商品やサービスでも他に選択肢がないのでそれで我慢しなければならないからだ。ちなみに中小企業の従業員も犠牲者だ。大企業ならもっと合理化されて負担の少ない労働条件であるはずなのに、小さいがために一人当たりにかかる負担は大きくなってしまう。結局、儲かっているのは中小企業の経営者だ。規制によって競争がないので経営者としても手腕を問われないし鍛えられない。安い労働力を使役して儲けを出している。こんな不公正なことはない。
現在、ITや3Dプリンタなど技術革新によって個人の技術者や職人で扱える機械が増えてきている。そして、専門性は個人や小さなチームでこそ洗練・深化されてゆくものだ。すなわち、個人商店であっても十分に市場で通用するだけの環境が整いつつある。物量面では大企業に敵わないかもしれないが、少量であれば中小企業に負けないだけの力がある。そもそも不満足な商品やサービスしか提供できない中小企業がのさばれば、社会が進歩するはずがない。あぐらをかいたツケは、結局、社会にまわってくるのだ。それに比べて、個人が専門性を追求してそれで生業が成り立つならば、それは生き生きとした社会になる。みんな、組織に縛られて不自由に生きるよりは、個人が自由に生きられる方を望む。たしかに個人商店は風が吹けばすぐに倒れる不安定なものに見える。しかし、ネットワーク化されれば、あるいはブロックチェーンによってあたかも一つの組織であるかのように疑似組織化されれば、それほど不安定なものにはならないだろう。むしろ、かなり柔軟な対応が可能になり、変化に即応しやすくなる。大型戦艦の時代から空母というプラットフォームから発進した多数の戦闘機の時代に変わったように。
まとめると、不公正な規制で守られた中小企業を解体して、それらの人々を、大企業もしくは個人商店に収斂させてゆくのだ。
(2)市場を真っ当なものにする
かつて工業国だった日本の産業構造は垂直統合型だった。大企業の系列によって下請け、孫請と工場はツリー構造を成していた。しかし、最初は海外に工場が移転して次第に国内工場は骨抜きになり、しまいにはボロボロになってしまった。そして、いつしか本体である大企業までも外国企業に買収される始末となった。アップルのように技術とデザインだけ残して生産は中国で行うというようなファブレス化して大きな利益を出しながら生き残る企業もあるが、日本の企業には真似できなかった。なぜ真似できなかったのか?まず、デザインに関してはセンスが無かった。なぜそうなったかはデザインを軽視してきたからに他ならない。日本人は機能重視でデザインを軽視する傾向が強い。生活を生き生きとしたものにするためにデザインは重要なんだが、日本人の生活は全然生き生きしていない。次に技術を継承できなかった。なぜか?本質を見極める目、戦略を立てる目が無かった。じゃあ、何をしていたか?日本人は組織の中で席次争いをしていた。周りの空気を読んでできるだけ美味しい想いができるように雰囲気で意思決定していた。そんなことだから、高度な技術を究めてゆくなんてことはできなかったのだ。それから、もう一つ。失敗を容認できなかった。市場は試行錯誤と失敗の繰り返しだ。その中から成功がほんの僅か生まれる。ところが、日本人は少しの失敗を許さない。一度失敗したら落伍者の烙印が押される。今回は失敗したが、また次があるとはなかなかならない。これは市場原理に反する。しかし、それが日本ではまかり通る。これでは少しも良くならないし、いずれ競争に負ける。さらに、上記でも指摘したように規制によって公正な競争が阻まれている。これでは市場原理が真っ当に働かない。
戦後、高度経済成長を経験したときに投げかけられた疑問は「本当に市場経済で良いのか?市場経済では格差が拡大して貧富の差がさらに広がるのではないか?本当は資本主義ではなく社会主義の方が持続可能な経済体制なのではないか?」といった疑問だった。しかし、実際の日本の市場は公正な市場ではなく、規制によって制限された不公正・不公平な市場だった。右肩上がりのときはその非効率は見えにくかった。しかし、いったん下り坂になるとそれがいかに日本経済を、日本社会を歪めているかが分かる。いや、日本の中に住んでいる人には見えないのかもしれない。なぜなら不公正が日常になってしまっているからだ。
いまや日本の国家財政がボロボロであるように、日本の産業もボロボロだ。そして、その原因は日本自身にある。日本が進歩しようとしなかったからだ。なぜ、進歩できなかったかというと、市場を歪めてしまったからだ。結果、世界との競争に負けた。さらに国内では市場が歪んだままだから、格差がまだら模様に偏在することになった。
解決策は単純で、日本の市場を真っ当なものにすることだ。そして、普通にフェアに競争することだ。そうすれば、おのずと市場に合わせて日本の産業構造が変化してゆく。中小企業を守るなどといって市場を歪めて、結局は自分たちの首を絞めている。政府は個人を守りこそすれ、法人を守る必要はないのだ。市場原理によって不合理なもの(規制に守られた中小企業)は早々に退場させて、より合理的なもの(大企業と個人商店)に入れ替えるべきなのだ。日本は市場を規制で歪めるから、個人も経済も社会もダメになってしまうのだ。
まとめ
日本の企業を大企業もしくは個人商店に二分化する。言い換えれば、規制に守られた非効率な中小企業を退場させる。現代は組織に縛られない生き方を望む者が増えたはずだ。そして、個人でもやっていける環境(←ITや3Dプリンタなど)が整ってきた。
次に日本の市場から不合理な規制を無くし、フェアな競争原理が働くように市場を正すことだ。なんなら市場を監視する公的機関を設けてもよい。ただし、中小企業の経営者は既得権益を守るために政治家に働きかけたりするだろう。政治はそういったものをはねつけるだけの力が必要になる。おそらく、それはネットを介した市場の力がそういった力になると思う。なぜなら、非効率な中小企業を退場させた方が市場としては合理的でかつ利益を生むからだ。市場は万能ではないが、市場の力が正しく発動すればこのような不合理は排除できると思う。日本では、市場はまだ真価を発揮していない。
(1)大企業と個人商店の二極化へ
大企業に求められるのは効率だ。大量生産することによって単価を著しく下げることができる。しかし、それでは市場の需要すべてに応えることはできない。しかし、大企業が需要のすべてに応える必要はない。8割の需要に応えられればよい。残りの2割は他のより小さな企業、個人商店に任せればよい。小さな企業は効率は悪いが細かい要望には応えられる。しかし、多くの需要に応えられるだけのキャパシティはない。だが、元々、2割が最大限なのでそれで問題はない。大企業と個人商店はこのような相補関係にある。
「ちょっと待って!その個人商店というのは中小企業に相当するのではないか」という声が聞こえてくるかもしれない。ところがそうではない。日本の中小企業は新規参入を規制によって阻むことで、生産性が低くても、また細かな専門性がなくても生き残っていけるようになっている。市場の競争原理が働かないからだ。結局、その犠牲になっているのは消費者だ。消費者は中小企業の不満足な商品やサービスでも他に選択肢がないのでそれで我慢しなければならないからだ。ちなみに中小企業の従業員も犠牲者だ。大企業ならもっと合理化されて負担の少ない労働条件であるはずなのに、小さいがために一人当たりにかかる負担は大きくなってしまう。結局、儲かっているのは中小企業の経営者だ。規制によって競争がないので経営者としても手腕を問われないし鍛えられない。安い労働力を使役して儲けを出している。こんな不公正なことはない。
現在、ITや3Dプリンタなど技術革新によって個人の技術者や職人で扱える機械が増えてきている。そして、専門性は個人や小さなチームでこそ洗練・深化されてゆくものだ。すなわち、個人商店であっても十分に市場で通用するだけの環境が整いつつある。物量面では大企業に敵わないかもしれないが、少量であれば中小企業に負けないだけの力がある。そもそも不満足な商品やサービスしか提供できない中小企業がのさばれば、社会が進歩するはずがない。あぐらをかいたツケは、結局、社会にまわってくるのだ。それに比べて、個人が専門性を追求してそれで生業が成り立つならば、それは生き生きとした社会になる。みんな、組織に縛られて不自由に生きるよりは、個人が自由に生きられる方を望む。たしかに個人商店は風が吹けばすぐに倒れる不安定なものに見える。しかし、ネットワーク化されれば、あるいはブロックチェーンによってあたかも一つの組織であるかのように疑似組織化されれば、それほど不安定なものにはならないだろう。むしろ、かなり柔軟な対応が可能になり、変化に即応しやすくなる。大型戦艦の時代から空母というプラットフォームから発進した多数の戦闘機の時代に変わったように。
まとめると、不公正な規制で守られた中小企業を解体して、それらの人々を、大企業もしくは個人商店に収斂させてゆくのだ。
(2)市場を真っ当なものにする
かつて工業国だった日本の産業構造は垂直統合型だった。大企業の系列によって下請け、孫請と工場はツリー構造を成していた。しかし、最初は海外に工場が移転して次第に国内工場は骨抜きになり、しまいにはボロボロになってしまった。そして、いつしか本体である大企業までも外国企業に買収される始末となった。アップルのように技術とデザインだけ残して生産は中国で行うというようなファブレス化して大きな利益を出しながら生き残る企業もあるが、日本の企業には真似できなかった。なぜ真似できなかったのか?まず、デザインに関してはセンスが無かった。なぜそうなったかはデザインを軽視してきたからに他ならない。日本人は機能重視でデザインを軽視する傾向が強い。生活を生き生きとしたものにするためにデザインは重要なんだが、日本人の生活は全然生き生きしていない。次に技術を継承できなかった。なぜか?本質を見極める目、戦略を立てる目が無かった。じゃあ、何をしていたか?日本人は組織の中で席次争いをしていた。周りの空気を読んでできるだけ美味しい想いができるように雰囲気で意思決定していた。そんなことだから、高度な技術を究めてゆくなんてことはできなかったのだ。それから、もう一つ。失敗を容認できなかった。市場は試行錯誤と失敗の繰り返しだ。その中から成功がほんの僅か生まれる。ところが、日本人は少しの失敗を許さない。一度失敗したら落伍者の烙印が押される。今回は失敗したが、また次があるとはなかなかならない。これは市場原理に反する。しかし、それが日本ではまかり通る。これでは少しも良くならないし、いずれ競争に負ける。さらに、上記でも指摘したように規制によって公正な競争が阻まれている。これでは市場原理が真っ当に働かない。
戦後、高度経済成長を経験したときに投げかけられた疑問は「本当に市場経済で良いのか?市場経済では格差が拡大して貧富の差がさらに広がるのではないか?本当は資本主義ではなく社会主義の方が持続可能な経済体制なのではないか?」といった疑問だった。しかし、実際の日本の市場は公正な市場ではなく、規制によって制限された不公正・不公平な市場だった。右肩上がりのときはその非効率は見えにくかった。しかし、いったん下り坂になるとそれがいかに日本経済を、日本社会を歪めているかが分かる。いや、日本の中に住んでいる人には見えないのかもしれない。なぜなら不公正が日常になってしまっているからだ。
いまや日本の国家財政がボロボロであるように、日本の産業もボロボロだ。そして、その原因は日本自身にある。日本が進歩しようとしなかったからだ。なぜ、進歩できなかったかというと、市場を歪めてしまったからだ。結果、世界との競争に負けた。さらに国内では市場が歪んだままだから、格差がまだら模様に偏在することになった。
解決策は単純で、日本の市場を真っ当なものにすることだ。そして、普通にフェアに競争することだ。そうすれば、おのずと市場に合わせて日本の産業構造が変化してゆく。中小企業を守るなどといって市場を歪めて、結局は自分たちの首を絞めている。政府は個人を守りこそすれ、法人を守る必要はないのだ。市場原理によって不合理なもの(規制に守られた中小企業)は早々に退場させて、より合理的なもの(大企業と個人商店)に入れ替えるべきなのだ。日本は市場を規制で歪めるから、個人も経済も社会もダメになってしまうのだ。
まとめ
日本の企業を大企業もしくは個人商店に二分化する。言い換えれば、規制に守られた非効率な中小企業を退場させる。現代は組織に縛られない生き方を望む者が増えたはずだ。そして、個人でもやっていける環境(←ITや3Dプリンタなど)が整ってきた。
次に日本の市場から不合理な規制を無くし、フェアな競争原理が働くように市場を正すことだ。なんなら市場を監視する公的機関を設けてもよい。ただし、中小企業の経営者は既得権益を守るために政治家に働きかけたりするだろう。政治はそういったものをはねつけるだけの力が必要になる。おそらく、それはネットを介した市場の力がそういった力になると思う。なぜなら、非効率な中小企業を退場させた方が市場としては合理的でかつ利益を生むからだ。市場は万能ではないが、市場の力が正しく発動すればこのような不合理は排除できると思う。日本では、市場はまだ真価を発揮していない。
2020年6月13日土曜日
日本を変革する(1)夫婦中心の家庭へ
私はこれまで『21世紀はセックス革命の時代』、『21世紀は格差社会の時代』、『21世紀の生存戦略』の三本の記事を書いてきた。(それと万人向けではない個人的な推奨として『仏教のすすめ』も書いた。)セックス革命では人々の性が大きく変わると予想した。格差社会では格差が生じる問題と対策を論じた。生存戦略ではこれからを生き抜くための個人の生存戦略を提示した。これらは日本のみならず世界的な視野で書いた。それで、これからはしばらく日本を対象として、日本を変革するための方法を提示しようと思う。
日本を変革するためには、まず、第一に日本の家族を変革しなければならないと思う。
(1)子供中心の家庭から夫婦中心の家庭へ
日本の家庭は子供中心の家庭だと言われる。実際にそうだと私も思う。例えば、大人になれば人間には性欲があって夫婦はセックスするものだが、子供にはその事実がひたすら隠されている。つまり、夫婦が寝室に入って睡眠するだけでなくセックスしていることは隠されている。子供はセックスがいかなるものかを知らなくて、おぼろげに大人たちが何かをしていることさえも知らないし知らされない。睡眠しているだけでなく、大人たちが愛を交わしていること、愛を交わすことの必要性・重要性を教えられずにいる。これは家庭だけでなく社会にまで拡大されている。家の外で、公共の場で、社会で、恋人たちがキスしたり抱擁したりすることを隠そうとする。大人であれば、人間であれば、当然行われる行為、性欲を満たし愛を交わす行為であるはずなのに、それがあたかも悪いことでもあるかのように隠されている。社会は子供のためだけのものではない。社会は大人と子供のためのものだ。いや、積極的に言えば成人した人間のためにある。子供はまだ未熟であり、成長の途中にあるからだ。なのに、その成長の途中にある子供に合わせて日本は社会を作ってしまっている。本来ならば、基本的には成長した大人のための社会にすべきだ。
だから、家庭を子供中心の家庭から夫婦中心の家庭へ変えるのが良いと考える。そこで重要になるのが寝室だ。夫婦は寝室で寝る。子供は子供部屋で寝る。夫婦の寝室に子供は、例えば夜9時以降入ってはいけない。子供には、大人になれば夫婦は寝室で愛を交わす夜の営み、セックスがあること、それが必要なことを上手に教えなければいけない。一方、親は子供の性の開花に合わせて適切に性教育を行った方が良い。(もちろん、性教育を専門家に任せるのも選択肢としてはあると思う。)また、子供がどのような性を開花させても親は子供の応援をすべきだと思う。ただし、親子であっても、性はプライベートなことなので、親にとっても子供にとっても、とても慎重にデリケートに扱わなければいけないが・・・。
ともかく、大人になれば人間には性欲がありセックスするということを家庭に組み込み、子供にもちゃんと教えるべきだと思う。
(2)親子関係と人権の尊重と魂の孤独
もう1つは日本の家族は親子の距離の近さがある。とにかく親子の距離が近い、近すぎる。親はまるで子供を自分の所有物か、自分の一部と思っているフシがある。子供は自分と独立した人間であるのが当たり前なのに、まるでそうではないかのように近しいものとして扱う。ひとによっては親は子供の自由意思や選択の自由を頭ごなしに否定することさえある。親が「細く長く生きるライフスタイル」であるのに対して、子供は「太く短く生きるライフスタイル」を選択したいと思っているのに、親は子供に自分と同じ「細く長く生きるライフスタイル」を無理強いしたりするなんてことがざらにある。どんなライフスタイルを選択するのも子供の自由のはずなのに、だ。どうも親は子供を自分の分身とでも思っているようだ。こういったことは親が子供との距離を近いものと考えていることに原因があると思う。
私の提案としては、人権というラインを引くことが解決策だと思う。たとえ親子であっても人権をナイガシロにすることは許されない。個人の自由意思の尊重、選択の自由の尊重などだ。これは子供だけでなく親に対しても適用される。子供に人権があるように、親にも人権がある。互いの人権を尊重すべきだ。
親子の間に人権のラインを引くことをすごく他人行儀だと考えるかもしれない。しかし、私は親が子供の人権を踏みにじることの方が問題だと思う。日本人は子供の自由意思を軽んじる傾向が強い。例えば「失敗するのが目に見えているから、正しい方向に導いてやるのだ」というパターナリズムがまかり通る。しかし、私は失敗のリスクをサジェストしながら、子供に選択の自由を与えるべきだと思う。「失敗するのは良くない」と考えるのが違うと思う。失敗を経験することも大事だからだ。また、納得することも大事だからだ。ま、これは一例に過ぎない。愛はギフト、みかえりを求めずにただ与えることであって、みかえりを求めて与えるのは交換だ。親が子供を愛するならば、みかえりを求めずに与えることを学ばねばならない。親の意思を子供に押しつけるのは愛ではない。それは支配欲だ。子供は独立した人間であり自由意思を持った存在であり、親の一部ではない。支配してはならない。子供が糸の切れた凧のようにさ迷っても、それが子供の自由意思ならば子供の自由意思を尊重すべきだ。もちろん、子供が救いを求めてきたら親の愛でもってサジェストしたりサポートしたりすればいいが。
ともかく、日本人の親は子供との距離が近い人が多い。そういった親は人権というラインを引いて、子供との距離をとるべきだ。
ひとによっては親が子供の内面を傷つけるようなことを平気で言う人もいる。もっと酷くなれば毒親になる。たとえ親子であっても相手の心を傷つけるようなことを言っていいはずがない。ところが、日本人は子供の心を傷つけることに無頓着な親が多い。すべては親子関係の距離が極めて近いという認識に基づいている。しかし、これは間違った認識だ。実際は人間の魂は孤独なものだ。それぞれの魂は繋がってはいない。繋がっていないものが近づきすぎればそこに衝突や摩擦が生じるのは当たり前の話だ。日本人は魂の孤独と向き合うことを恐れている。その恐怖と不安が親子の魂はつながっているという誤った認識、願望になっている。その結果、近すぎる距離は摩擦や衝突を起こす。
まとめ
日本を変革するためには、まず、日本の家庭を子供中心から夫婦中心に変える。そして、家庭生活にはセックスを組み込む。具体的には夫婦だけの寝室を作る。家では落ち着いてセックスできないのでラブホテルを利用するという夫婦がいるが、家で落ち着いてセックスできる環境を作る。
ちなみに英国のコンドームメーカーが50カ国で夫婦間での年間のセックス回数をアンケート調査した結果、日本は最下位の50位で年間約45回だった。49位は年間約90回であり、1位は110回くらいだった。つまり、日本人の夫婦は世界の夫婦と比べると年間のセックス回数が約半分なのだ。日本だけ異常に回数が少ないのだ。労働時間の長さが影響もしているがそれでも日本よりも労働時間が長い国でも日本の倍以上セックスしている。家庭で夫婦が同じベッドで寝ないことも大きな要因だと思う。日本は戦後に布団で寝る文化が生まれたが、布団は基本的に一人寝用だ。一方、世界ではベッドや寝台の文化で夫婦はともに寝る。子供が入れない夫婦の寝室がないのも日本の特徴だろう。日本では親子で川の字になって寝る。夫婦のセックスは子供がいない隙きにチャチャッと済ませるなんてことになっていないだろうか?二人だけの寝室でじっくりと愛を交わすセックスなんて無くて、とにかく子供がいない隙きに性欲を処理してしまうなんてことになっていないだろうか?そもそも日本人はセックスを悪しきものと考えていないだろうか?日本人の性への理解が性悪説になっていないだろうか?日本のアダルトビデオを見ると女性を侮辱する内容が世界のポルノに比べると著しく多くないだろうか?セックスに対する基本的な理解やエロスの複雑さを日本人は理解していないのではないだろうか・・・。
次に親子関係に距離をとる。具体的には人権というラインを引く。子供の人権を尊重する。子供の自由意思や選択の自由を尊重する。子供に親の意思を無理強いしてはならない。親の孤独の埋め合わせとして子供を利用してはならない。親は自分の魂の孤独と自分自身で向き合うべきだ。
私が好きな映画に『リンカーン』があるのだが、私がこの映画が好きなのはリンカーンと夫人との喧嘩のシーンがあるからだ。いつもは夫人に優しいリンカーンが極めて大事な状況で夫人を突き放す場面があるのだ。それは魂の孤独にまつわる話で、たとえ夫婦であっても魂の孤独からは逃れられないことを知るのには格好の材料だからだ。リンカーン夫婦に夫婦愛がないわけではない。むしろ、夫婦愛があるからこそ、相手を信じているからこそ、突き放すという、これは映画を見てみない分からない極めて絶妙な場面があるのだ。夫婦は人生の同じ時間を過ごすが、親子はズレた人生の時間を過ごす。つまり、子供には子供の人生がある。日本の親子の距離はもっと離れていてしかるべきだと思う。
日本を変革するためには、まず、第一に日本の家族を変革しなければならないと思う。
(1)子供中心の家庭から夫婦中心の家庭へ
日本の家庭は子供中心の家庭だと言われる。実際にそうだと私も思う。例えば、大人になれば人間には性欲があって夫婦はセックスするものだが、子供にはその事実がひたすら隠されている。つまり、夫婦が寝室に入って睡眠するだけでなくセックスしていることは隠されている。子供はセックスがいかなるものかを知らなくて、おぼろげに大人たちが何かをしていることさえも知らないし知らされない。睡眠しているだけでなく、大人たちが愛を交わしていること、愛を交わすことの必要性・重要性を教えられずにいる。これは家庭だけでなく社会にまで拡大されている。家の外で、公共の場で、社会で、恋人たちがキスしたり抱擁したりすることを隠そうとする。大人であれば、人間であれば、当然行われる行為、性欲を満たし愛を交わす行為であるはずなのに、それがあたかも悪いことでもあるかのように隠されている。社会は子供のためだけのものではない。社会は大人と子供のためのものだ。いや、積極的に言えば成人した人間のためにある。子供はまだ未熟であり、成長の途中にあるからだ。なのに、その成長の途中にある子供に合わせて日本は社会を作ってしまっている。本来ならば、基本的には成長した大人のための社会にすべきだ。
だから、家庭を子供中心の家庭から夫婦中心の家庭へ変えるのが良いと考える。そこで重要になるのが寝室だ。夫婦は寝室で寝る。子供は子供部屋で寝る。夫婦の寝室に子供は、例えば夜9時以降入ってはいけない。子供には、大人になれば夫婦は寝室で愛を交わす夜の営み、セックスがあること、それが必要なことを上手に教えなければいけない。一方、親は子供の性の開花に合わせて適切に性教育を行った方が良い。(もちろん、性教育を専門家に任せるのも選択肢としてはあると思う。)また、子供がどのような性を開花させても親は子供の応援をすべきだと思う。ただし、親子であっても、性はプライベートなことなので、親にとっても子供にとっても、とても慎重にデリケートに扱わなければいけないが・・・。
ともかく、大人になれば人間には性欲がありセックスするということを家庭に組み込み、子供にもちゃんと教えるべきだと思う。
(2)親子関係と人権の尊重と魂の孤独
もう1つは日本の家族は親子の距離の近さがある。とにかく親子の距離が近い、近すぎる。親はまるで子供を自分の所有物か、自分の一部と思っているフシがある。子供は自分と独立した人間であるのが当たり前なのに、まるでそうではないかのように近しいものとして扱う。ひとによっては親は子供の自由意思や選択の自由を頭ごなしに否定することさえある。親が「細く長く生きるライフスタイル」であるのに対して、子供は「太く短く生きるライフスタイル」を選択したいと思っているのに、親は子供に自分と同じ「細く長く生きるライフスタイル」を無理強いしたりするなんてことがざらにある。どんなライフスタイルを選択するのも子供の自由のはずなのに、だ。どうも親は子供を自分の分身とでも思っているようだ。こういったことは親が子供との距離を近いものと考えていることに原因があると思う。
私の提案としては、人権というラインを引くことが解決策だと思う。たとえ親子であっても人権をナイガシロにすることは許されない。個人の自由意思の尊重、選択の自由の尊重などだ。これは子供だけでなく親に対しても適用される。子供に人権があるように、親にも人権がある。互いの人権を尊重すべきだ。
親子の間に人権のラインを引くことをすごく他人行儀だと考えるかもしれない。しかし、私は親が子供の人権を踏みにじることの方が問題だと思う。日本人は子供の自由意思を軽んじる傾向が強い。例えば「失敗するのが目に見えているから、正しい方向に導いてやるのだ」というパターナリズムがまかり通る。しかし、私は失敗のリスクをサジェストしながら、子供に選択の自由を与えるべきだと思う。「失敗するのは良くない」と考えるのが違うと思う。失敗を経験することも大事だからだ。また、納得することも大事だからだ。ま、これは一例に過ぎない。愛はギフト、みかえりを求めずにただ与えることであって、みかえりを求めて与えるのは交換だ。親が子供を愛するならば、みかえりを求めずに与えることを学ばねばならない。親の意思を子供に押しつけるのは愛ではない。それは支配欲だ。子供は独立した人間であり自由意思を持った存在であり、親の一部ではない。支配してはならない。子供が糸の切れた凧のようにさ迷っても、それが子供の自由意思ならば子供の自由意思を尊重すべきだ。もちろん、子供が救いを求めてきたら親の愛でもってサジェストしたりサポートしたりすればいいが。
ともかく、日本人の親は子供との距離が近い人が多い。そういった親は人権というラインを引いて、子供との距離をとるべきだ。
ひとによっては親が子供の内面を傷つけるようなことを平気で言う人もいる。もっと酷くなれば毒親になる。たとえ親子であっても相手の心を傷つけるようなことを言っていいはずがない。ところが、日本人は子供の心を傷つけることに無頓着な親が多い。すべては親子関係の距離が極めて近いという認識に基づいている。しかし、これは間違った認識だ。実際は人間の魂は孤独なものだ。それぞれの魂は繋がってはいない。繋がっていないものが近づきすぎればそこに衝突や摩擦が生じるのは当たり前の話だ。日本人は魂の孤独と向き合うことを恐れている。その恐怖と不安が親子の魂はつながっているという誤った認識、願望になっている。その結果、近すぎる距離は摩擦や衝突を起こす。
まとめ
日本を変革するためには、まず、日本の家庭を子供中心から夫婦中心に変える。そして、家庭生活にはセックスを組み込む。具体的には夫婦だけの寝室を作る。家では落ち着いてセックスできないのでラブホテルを利用するという夫婦がいるが、家で落ち着いてセックスできる環境を作る。
ちなみに英国のコンドームメーカーが50カ国で夫婦間での年間のセックス回数をアンケート調査した結果、日本は最下位の50位で年間約45回だった。49位は年間約90回であり、1位は110回くらいだった。つまり、日本人の夫婦は世界の夫婦と比べると年間のセックス回数が約半分なのだ。日本だけ異常に回数が少ないのだ。労働時間の長さが影響もしているがそれでも日本よりも労働時間が長い国でも日本の倍以上セックスしている。家庭で夫婦が同じベッドで寝ないことも大きな要因だと思う。日本は戦後に布団で寝る文化が生まれたが、布団は基本的に一人寝用だ。一方、世界ではベッドや寝台の文化で夫婦はともに寝る。子供が入れない夫婦の寝室がないのも日本の特徴だろう。日本では親子で川の字になって寝る。夫婦のセックスは子供がいない隙きにチャチャッと済ませるなんてことになっていないだろうか?二人だけの寝室でじっくりと愛を交わすセックスなんて無くて、とにかく子供がいない隙きに性欲を処理してしまうなんてことになっていないだろうか?そもそも日本人はセックスを悪しきものと考えていないだろうか?日本人の性への理解が性悪説になっていないだろうか?日本のアダルトビデオを見ると女性を侮辱する内容が世界のポルノに比べると著しく多くないだろうか?セックスに対する基本的な理解やエロスの複雑さを日本人は理解していないのではないだろうか・・・。
次に親子関係に距離をとる。具体的には人権というラインを引く。子供の人権を尊重する。子供の自由意思や選択の自由を尊重する。子供に親の意思を無理強いしてはならない。親の孤独の埋め合わせとして子供を利用してはならない。親は自分の魂の孤独と自分自身で向き合うべきだ。
私が好きな映画に『リンカーン』があるのだが、私がこの映画が好きなのはリンカーンと夫人との喧嘩のシーンがあるからだ。いつもは夫人に優しいリンカーンが極めて大事な状況で夫人を突き放す場面があるのだ。それは魂の孤独にまつわる話で、たとえ夫婦であっても魂の孤独からは逃れられないことを知るのには格好の材料だからだ。リンカーン夫婦に夫婦愛がないわけではない。むしろ、夫婦愛があるからこそ、相手を信じているからこそ、突き放すという、これは映画を見てみない分からない極めて絶妙な場面があるのだ。夫婦は人生の同じ時間を過ごすが、親子はズレた人生の時間を過ごす。つまり、子供には子供の人生がある。日本の親子の距離はもっと離れていてしかるべきだと思う。