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2013年4月20日土曜日

雑感 ボストン爆弾テロ事件から民主党の独自カラーまで

ボストン爆弾テロ事件。犯人は負け組で社会を逆恨みしての犯行ということか。ただ、犯人の弟の方は医科大学の学生というのなら、明確に負け組とは言えないと思うので、動機が不明瞭に思う。兄の方はどういう境遇なのだろうか?ニュースではチェチェン人と言っているが、実際は他所を転々としている。

犯人たちはスターリン時代にキルギスに強制移住させられたチェチェン人の末裔でキルギスで生まれ、その後、コーカサスのタゲスタン共和国に移り、さらにトルコに移住して、7、8年前に米国に移住してきたらしい。兄は思春期、弟は少年時代に米国に来ていると思う。どちらかというと米国育ちだろう。

よく分からないのは彼らの保護者は誰だろう?両親はロシアにいるし、インタビューに答えている親戚も一緒には住んでいなかったようだし・・・。強制移住といえば、昔、ソ連時代によくポーランド人が中央アジアに強制移住させられていたように思う。記憶違いかもしれないが。

たぶん、イスラムとかアルカイダとかは今回の事件に関係ないんだろう。むしろ、負け組というのがその主な動機になっているのではないだろうか?しかし、負け組勝ち組で区分けする単純な思考が社会の一部に一定量定着したということだろうか。負け組勝ち組と分けるそんな単純なものではないと思うが。

犯人の弟は医科大学に通っていたはずだが、米国の大学はかなり高額の授業料のはずでどこからそんなお金が出ていたのだろうか?裕福だったのか、それとも奨学金だろうか?負け組のイメージとはちょっと違うように感じる。あるいは授業料を払えなくなって退学しそうだったとか?

話は違うが、欧米先進国の若者の失業はどこも深刻で、(スペインは特に酷い)、彼らの鬱積したストレスは相当なものだと思う。ただ、日本は戦後の経済成長があったから今頃、脱工業化の悩みが噴き出してきたけど、欧州などは80年代からじわじわと来ていた悩みではないだろうか?

今の中国はかつての日本のように経済成長の真っ最中で楽しい盛りだと思う。もちろん、経済成長に伴うストレスの多い社会にはなっているだろうけど。一方、日本は急激に他の欧米先進国のような失業の問題が浮上してきたのだと思う。英国などはイギリス病といわれるように戦後からずっと悩んでいるが。

何が言いたいのかというと、以上のように考えると、日本の経済低迷の悩みは欧米先進国からすれば、今までずっと続いてきた悩みであり、日本も同じようにそれに加わりつつあるということだと思う。欧米先進国と同じように生き残りを模索しなければならない。ただし、米国だけは一部例外がある。

それは米国は今だにGDP世界一位であり、その原動力は金融とITだということだ。特殊な産業という例外を除くと、それ以外の職種はどれも低賃金であまり豊かとは言えない。そういう部分では他の欧米先進国と同じで悩みを抱えている。今回のボストン爆弾テロ事件の負け組もその中の一部だと思う。

たぶん、日本は米国の真似は無理だと思う。米国のような世界中の移民を受け入れる多様な社会を日本は真似できないと思うからだ。米国には優秀な人材が集まる。それ相応の報酬も得られるし、言語も英語で共通だし。日本はそうはいかない。また、金融もITも日本が苦手とする分野ではないだろうか。

優秀な個人は世界市場に打って出ればいい。つまり、米国へ行って活躍すればいい。そういう脱出口はある。そういう意味ではアメリカンドリームは素晴らしいと思う。少なくとも他の国にはそういう夢、チャンスは用意されていない。ただし、その一方でフリーフォールといわれるように底なし沼だ。

ある意味、それはハイリスク・ハイリターンなのだろう。日本は緩やかな衰退が自然な落とし所ではないだろうか。元々、日本は近代以前は貧しい国だったのだし。

「政治が悪い」「社会が悪い」といって責任を単純に他に押し付けてしまうのはたやすい。もちろん、機会均等や公平公正な制度を政治に求め続けることは必要だ。でも、なにもかも責任を政治に押し付けるのはどうか。グローバルな市場で競争に勝つための個々の努力は必要だと思う。世界中の人に言える。

いずれにしても、そして、言い古された感は否めないが、価値観の多様性が要ると思う。負け組勝ち組で単純に区分けする考え方はややもすれば、人々に多大なストレスを与える要因になりかねない。実際、経済力は生きる上での制約にもなっているのだが、それ以上に精神的に踏みつけているように思う。

話は違うが、民主党が自民党を破って政権交代を成し得たのは民主党の人気があったからではなく、反自民が強かったからだ。積極的な民主党支持ではなく、反自民の結果から消去法的に民主党に支持が集まったからに過ぎない。今、野党に転落した民主党に必要なのは民主党独自のビジョンだと思う。

今、株価は期待だけで上がっている。しかし、実際の企業業績は良くなっていない。また、政府の要請に応えて自動車業界はボーナスを満額回答した。しかし、エコカー減税で税金で自動車業界を支援したのだから、それを給料に還元しないのでは税金ドロボーになるから政府の要請を断れなかったに過ぎない。

今はアベノミクスが成功しているように思われるかもしれないが、実体経済は決して良くなく、おそらく、その反動がくると思う。そこで話は戻るが、民主党には民主党の独自のカラーを出してもらいたいと思う。

私が考える民主党の独自カラーは社会福祉の充実だ。誰もが景気回復、強い日本経済の復活を望んでいるだろう。しかし、先程も述べたように正直なところ、日本のポテンシャルはそんなに高くない。それよりは社会福祉を充実させた方が良いと考える。景気回復は自民党が掲げればいい。

自民党は景気回復を唱えればいい。しかし、自民党の政策は金持ちや企業優遇で、低所得者層には直接のメリットはない。自民党の論理は景気が良くなれば、低所得者層も底上げされるという論理だ。確かにそういった効果をまったく期待しないではない。しかし、あっても実際にはそれはかなり遅れると思う。

それよりは民主党は社会福祉の充実を打ち出して、直接的に低所得者層の底上げを狙えばいい。確かに広く薄くになってしまうかもしれないが、それでも多少なりとも低所得者層に支援はとどく。自民のやり方ではいつ低所得者層にメリットが還元されるか分からない。むしろ、生活が苦しくなるかもしれない。

以上、述べたことは非常に単純な見立てであり、他の先進国でも見られる傾向だと思う。保守とリベラルで見られる傾向だと思う。日本もそれで良いと私は思う。有権者はそういった単純な2つの選択肢から自分が良いと思う方を選べば良い。景気回復が目の前にチラツキ過ぎて民主党の独自性が出せなかった。

民主党が低所得者層に向けて社会福祉の充実を柱に据えるのは良いとして、問題は民主党の支持基盤だ。公務員と労働組合。彼らはかつては中流だった。しかし、今はどうか?中の上か、ぎりぎり上に位置づけられるか?もし、支持基盤が上に位置づけされるなら社会福祉の充実と支持基盤にズレがあると思う。

多くの経済学者が自分の主張するような政策を実際に政府が行えば、まるで日本の経済が世界一位になるバラ色の未来が到来するかのように言うが、もし、その主張通りに実行してたとえ成功したとしても、実際にはそんな未来はやって来ない。せいぜい少し良くなるだけだ。影響は微々たるものだと思う。

何が言いたいかというと日本のポテンシャルはもはやそんなに高くない。今まで蓄積した資産でなんとか経済大国にしがみついているだけだ。だから、あまり無茶な未来は夢見ない方が良いと思う。そう考えれば、微々たるメリットしかないかもしれないが社会福祉の充実の方が現実的な政策かもしれないのだ。

今、民主党は離党者をどんどん出して風前の灯火状態だ。これは今まで積極的な民主党支持では無かったからだ。積極的な民主党支持を作り出すためにも民主党は独自のカラー独自の政策独自のビジョンを出さなければいけない。それが今ツイートしたような日本経済のビジョン、社会福祉の充実だと私は思う。


2013年4月11日木曜日

雑感 アベノミクスから人文の衰退まで

世間はアベノミクスで騒いでいるけど、あまり感心しない。なぜなら、実体経済が伴っていないからだ。円安になったからといって景気が回復すると本気で考えているのだろうか?安い人件費の新興国の製品と高い人件費の日本の製品が円安くらいで逆転できるだろうか?しかし、株価など期待で上がっている。一方で原材料費のコストも上がっている・・・。

日本経済についての私の見方はNEOACA創刊号で述べたときと変わっていない。むしろ、その後の展開がどうなるかがそろそろ見えてきたのではないかと思う。まず、これまでの流れだが、中国などの新興国に日本の製造業が奪われて経済大国日本が低迷するというのが私の見立てだ。その後はITや金融などの知識産業に移行することで多少の生き残りを図るというのが今後の流れだと思う。ここで「多少の生き残り」と言ったのは、知識産業では勝ち組は少数で負け組は多数になるからだ。つまり、多くの人たちは負け組に入ってしまうだろう。だから、知識産業に移行することは「みんながハッピーになれる最良の選択肢」ではなくて、少なくとも「少人数だけは先進国の高い富を手中に入れられる精鋭になれる」という最低限の選択肢でしかないからだ。

さて、そういった移行は徐々に始まっていると思う。その変化はあまり気付かれないかもしれない。なぜなら、少数の勝ち組しかポツポツと生まれ出ないから目に見えてはっきりと移行したとは感じられないからだ。しかし、ほんの少しずつそういった変化は生じていると思う。その一方で負け組も増え続けていると思う。企業の業績不振から正社員など高賃金労働者は減少するだろうし、財政難から増税か物価高で実質賃金の低下が生じると思う。そういう流れが既に始まっているのではないか。

ここで、今後の人文について考えてみる。

日本の人文は近代が支えてきたところがある。どういうことか?近代以前、つまり、近世までは人文は無きに等しかった。あるにはあったが、体系化されたもの、アカデミズムとして階層化されたものは無かったのではないか。それが近代に入って脱亜入欧、西洋に学べということで西洋の知識がどんどんと取り入れられるようになった。ある意味、輸入だった。今もなおその傾向は続いている。しかし、そういった世界のアカデミズムに日本の人文が知的貢献をしたかというと甚だ疑問である。輸入する一方で新たな知の一角を世界のアカデミズムに築くということは無かったように感じる。

今、日本経済が下降に向かっている中で人文の輸入というのがどうなるかと考えた場合、おそらく、経済の低迷に比例して輸入も低迷してゆくと思う。ただ、世界の人文知自体の生産性が低迷しているので、輸入の減少はそれほど目立たないかもしれない。ところで、日本は昔から実用にはカネを払っても、非実用的な学問にはカネを払わなかった。日本で非実用的な学問が発達しなかった歴史がそれを物語っている。経済が低迷すれば、脱亜入欧のために近代から続いていた惰性的な投資も減らざるを得なくなると思う。つまり、人文アカデミズムの衰退が今後ますます進行すると思う。

さて、話を戻そう。日本経済は衰退する。それが徐々にか急にかは分からない。そのスピード感は人それぞれの立場によって変わると思う。影響を受けやすい人は急に感じるし、影響を受けにくい人は徐々に変わると感じるだろうからだ。しかし、着実に日本経済はかつて貿易立国だった頃と比べて衰退し続けるだろう。経済格差について自由について多くの日本人に苦い思いを突きつけるかもしれない。とはいえ、その不満を政府に向かわせることをしないと思う。今のところ、多くの日本人は不公平感を持っていないように思うからだ。ただ、世代が進めば、生まれながらの経済格差に対して不公平感を抱くようになる可能性はある。だが、現時点では、まだそれはないと思う。

確かに資本主義は完璧ではない。修正すべき箇所はこれからも多々あるだろう。しかし、現時点で資本主義そのものをダメなものとして否定するのは無理があるのではないか?グローバル経済を真っ向から否定する人もいる。しかし、その代替案は果たして合理的に機能する仕組みだろうか?むしろ、否定ではなく、修正が大事ではないだろうか?

ところで、社会システムの補強も要は選択肢を増やすということになるのではないか?確かにただ選択肢を増やせば複雑になる。しかし、それによって個人の自由が保証される。「自分は自分、人は人」だ。もしくは、他人も自分と同じでなければならないというなら同じコミュニティを形成するかだ。

失われた10年、いや、失われた20年ということになるのだろうか?そのように言われてきたけれど、それらの響きには「強さを取り戻す日本経済」、「復活する日本経済」が暗にほのめかされている。しかし、実際はそうではないだろう。もはや復活することはあるまい。歴史を振り返れば、世界の工場は、はじめ英国だった。その次は米国だった。そして、日本に移り、今は中国が世界の工場となった。東西冷戦下では日本が世界の工場になり得たが、東西冷戦が終わって市場が世界規模になったとき、つまり、グローバリゼーションが始まったとき、世界の工場は日本から中国へ移った。大きな流れで言えば、そのような経済潮流になるのではないだろうか。バブル経済とかインターネットの普及という他の要素もあるが、大きな流れとしてはやはりグローバリゼーションだと思う。

とりとめのない話を長々と書いてきたが、これは前振りで(笑)、言いたいことはこの先にある。私が若者だった頃に求めていたモノと今の若者たちが求めるであろうモノは違う。今の若者たちが求めるのは生き残りのための知恵だろう。端的に言えば、それはライフハックだろう。あるいは経営者養成セミナー的な自己啓発だろう。象徴的に言えば、イケダハヤトや勝間和代だろう。別にそれは悪いことではない。そういう目的を持つのは自由だし、そういう生き方もいい。

一方、人文知の生き残りは社会学として社会にコミットしているけれど、それが今の若者の求めている知恵と結びつくかどうかは微妙だと思う。私などは知的好奇心から知への探求があったけど、今の若者が求めているのは生き残る知恵であって、それ以外の知識は不要な余分でしかない。元に知への探究心がない限り、それら不要な余分が実を結ぶことはないと思う。探究心がない限り、消えてゆく雑学として霧散霧消してゆくと思う。結局、若者は効率良く知識を得るために余計が含まれる人文とかに目もくれることなく、最初からライフハックに飛びつくようになると思う。

人文アカデミズムの衰退と若者の人文知への無関心。そうなると人文知はごく少数の趣味人のものになるのではないか。そして、知が更新されることもなくなり、また参入する人数も少ないならば、興味は自ずと過去の蓄積の参照、掘り起こしに向うのではないか。すなわち、歴史である。

もちろん、そうではなくて、現代とコミットして社会と関わってゆく手もある。ただ、それは社会システムの改善や修正であって、革命ではないと思う。それをあたかも革命のように言うのは詐欺ではないかと思う。ほんの少しの修正であっても、その有意義さを説明する方が良いのではないか。

とりとめもなく長々と書いてきたが、私が興味があるのは修正ではなく、歴史の方だ。

ニューアカの頃のような現代思想のムーブメントはもはや起こらないだろう。また、東西冷戦も終わり、社会システムに対する懸念も一応ケリがついたと思う。日本における人文知は趣味として歴史の中にその楽しみを見出すのではないかと、やや寂しい結論ではあるが冷静になって考えれば、そう思う。

・・・病み上がりの午後に想う

2013年3月26日火曜日

文化系トークラジオLife2013年3月号

文化系トークラジオLifeの『論壇のいま、Lifeのこれから』を聴いたので感想とかつらつらと考えたことを書いておきます。

まず、ラジオの主題は2つで、1つは「論壇について」で、もう1つは4月から隔月放送になるLifeについて「これからのLifeをどうするのか」といった内容でした。

面白かったのは大澤聡で、明治・大正・昭和時代の過去の論壇・文壇事情についての話でした。私としては山口昌男の『内田魯庵山脈』で読んでいたので彼の話は大体分かるような気がしたし、それを補完する意味で面白い話だった。

また、『Lifeのこれから』についてはユルイ社会学って感じが結論だったろうか?これについては出演者が社会学者の鈴木謙介と斎藤哲也・速水健朗・仲俣暁生らライターなので、社会学者は専門は社会学だし、ライターの専門は言うなれば考現学なので、その融合となればユルイ社会学という結論はごく当たり前な結論だと思う。

さて、聴いていて不満だったのは「論壇のいま」のパートで、イデオロギー的な、あるいは、政治経済的な今の状況がまったく話題になっていないことだった。唯一、「東西冷戦の終焉」というのが言われたきりで、そこから後の言及がまったく無かった。当たり前だからわざわざ触れなかったのかもしれないが、やはり、前提条件として、今、自分たちが生きている世界の政治体制や経済体制について一応触れておくべきではなかったろうか。

そこで今の状況について、私なりの見立てだが、簡単に書いておくと
・1989年ベルリンの壁崩壊、1991年ソ連崩壊により東西冷戦構造が崩壊した。 

・東西冷戦構造の崩壊によって東側諸国が西側諸国の市場に組み入れられる、いわゆるグローバリゼーションが始まった。そして、2000年に中国がWTOに加盟して、安価な労働力が中国を世界の工場にする。 2012年には中国は日本のGDPを抜いて世界第2位の経済大国になる。

・一方、日本は製造業が中国に奪われて経済力は下降の一途をたどり、失われた10年と言われたが、10年どころか20年も経済成長が1%という低迷を迎える。

・中国は米国と世界を二分する覇権を目指しており、日本は米国と中国という二大超大国の中間という難しい立場に位置する。(さらにロシアを加えることもできる。)

・東アジアに絞れば、日本、韓国、北朝鮮の三国が微妙な関係にある。

・東西構造崩壊に対して日本の論壇は沈黙してしまった。なぜなら日本の論壇は左翼が多く、社会主義の失敗を素直に認められなかったからだ。

・今後の日本の課題は経済大国から失墜して下降をたどる中で、個人や企業や日本社会がどうやってグローバルな大競争時代を生き抜いてゆくか、である。端的に言えば雇用の問題である。ちなみに他の欧米先進国も同じ悩みを抱えている。
かいつまんで言うと以上のようになるが、他にも中東や北アフリカ、EUやロシアも大いに変化しており、言及出来ていないことも多々あるのを断っておく。

ともかく、世界情勢の現状と今後の日本の課題について言及しないで論壇について語っても仕方がないのではないか。論客の見た目とかトークのうまい下手とか内容ではなく、うわべについていくら語っても一番肝心な内容が疎かにはなっては本末転倒ではないか。もちろん、視覚効果やパフォーマンスを不要と言っているわけではない。いろいろな伝達メディアが発達してきたのだから、それらを使うことを否定することはできない。しかし、何よりも肝心な内容がどうでも良いというような扱いではダメだと思う。

さて、総じて今放送の結論としては、打ち上げやピクニックなどサロンやサロンを通じたネットワークが大事だという話だったと思う。それは本記事でも示した山口昌男の『内田魯庵山脈』でも言っていた話だと思う。さらにこれらを推し進めれば、山口昌男が晩年に著した遊民的な生き方を示した敗者学にも通じると思う。

2012年10月30日火曜日

ネオアカ読書会 第1回ドゥルーズ『哲学とは何か』


ドゥルーズ=ガタリ『哲学とは何か』の読書会と目次と資料をブログにアップしておきます。

1.ネオアカ読書会第1回ドゥルーズ『哲学とは何か』



2.目次

目次

序論 こうして結局、かの問は・・・・・・

Ⅰ 哲学
1 ひとつの概念とは何か
2 内在平面
3 概念的人物
4 哲学地理

Ⅱ 哲学 -科学、論理学、そして芸術
5 ファンクティヴと概念
6 見通しと概念
7 被知覚態、変様態、そして概念

結論 カオスから脳へ

3.プレゼン資料
資料は画像をクリックすると新しいウィンドウでプレゼンテーションが開始されます。






4.書籍



以上、どうぞよろしくお願いします。

2012年10月12日金曜日

差異と生命


前回はリゾームについて考えました。今回はドゥルーズの主要な諸概念、差異、反復、イデア、非実在論、強度について考えてみようと思います。しかし、いずれも難解な概念ですので理解は一筋縄ではいきそうもありません。そこで今回は話を分かりやすくするために生命という補助線を引いて考えてみることにします。これらの諸概念は生命について言っている、あるいは、生命からこれらの諸概念を抽出したと考えれば、かなりスッキリした理解が得られるのではないかと思います。ただし、ここで述べる生命ですが、次の仮定を前提条件にします。それは「生命には魂がある」という仮定です。なんだか非科学的な仮定ですが、話を分かりやすくするために今回はあえて用いることにします。
 
(1)差異
さて、まず、ドゥルーズの差異といえば、微分dy/dxが想像されます。微分は限りなく小さい微分量dxやdyを考えます。それら微分量の比を計測することで接線の傾きを導き出します。ドゥルーズの分析はまさに微分的です。各計測点で微分することによって曲面の傾き具合を含めた全体像を浮かび上がらせるような手法です。中沢新一がドゥルーズの分析を「微分係数から大域構造を見る」と言っていますが、まことに言い得て妙です。







さて、ドゥルーズが若い頃に第一線で活躍していた哲学者といえばサルトルです。ドゥルーズ自体はサルトルからは思想的な影響は受けていないようですが、それでもサルトルがその時代を代表する哲学者であったことには違いないと思います。そのサルトルですが、彼の実存主義には有名な「実存は本質に先立つ」というテーゼがありました。行動の前では本質よりも実存が立ち上がるという考えです。例えば、昔、金属バット殺人事件というのがありましたが、普段は金属バットの本質は野球の道具ですが、それがいざ殺人に使われた瞬間、金属バットは人殺しの道具に変わってしまいます。このように本質(野球の道具)が実存(殺人の道具)に取って代わられることを「実存は本質に先立つ」と言います。しかし、では、どの瞬間に本質が実存に取って代わられるのか、それを近代科学的に捉えようとすると動きを連続写真に分解して分析することになるかもしれません。つまり、連続写真の前後の差異を計測することでどの時点で本質が実存に取って代わられるか捉えようとするのです。ドゥルーズは映画を愛しましたが、ドゥルーズの差異というのはこのように動的変化を連続写真に分解することに由来しているのかもしれません。

ちょっと話は逸れますが、下図は階段を下りる裸婦の連続写真とマルセル・デュシャンの『階段を下りる裸体』の図です。写真の発明によって対象を正確に模写することに意味の無くなった画家たちは写真では捉えられない対象の真理を描こうとしました。この『階段を下りる裸体』はそういった意味で階段を下りる裸婦をトータルに一枚の絵で捉えようとした試みと言えるでしょう。この例で言えば、ドゥルーズの差異は各写真での微分係数を析出して対象の全体を捉えるようなものだと思います。







ともかく、ドゥルーズの差異はどこまでも分解・微分して計測しようとする科学的な態度だっと思います。サルトルの実存主義は哲学よりも行動が現実を切り開くと言っているようで、ある意味哲学の敗北を意味しそうですが、ドゥルーズはその行動すら細かく分析することで行動(動的変化)をも哲学の範疇に捉えようとした試みと言えるかもしれません。


ドゥルーズの差異の由来について上記で推測を述べましたが、もう1つの由来があると思います。それは単子(モナド)です。限り無くゼロに近い微分量は言うまでもなく微分の発明者ライプニッツのモナドです。モナドとは何かと考えた場合、モナドとアトムの違いについて考えるとモナドについてイメージが浮かび上がってくると思います。まず、アトムですが、アトムは原子という小さい粒、物質の最小単位です。ところが、モナドの場合、その大きさは、dxやdyと表されるように、まちまちで恣意的でさえあります。アトムは元素の周期表で表されるようにスタティックな単位です。まさにツリー的な位置づけです。それに対してモナドは流動的な単位で一体何なのか、いまひとつ分かりません。しかし、もし1つ似たようなものを上げるとすれば、それは生命の単位ではないでしょうか。例えば、細胞を1つの生命の単位とした場合、その大きさはまちまちです。モナドがまちまちなのと似ています。モナドとは生命の単位として考えられないでしょうか。

ところで、生命はある意味差異の機械だと言えると思います。何故かというと生命体は自己と自己以外とを分別するからです。図にすると下図のようなものです。自己と外部とを区別します。また、外部から物質を取り込んで自己の一部とするか、あるいは、不必要なものとして外部に排出するなど、自己と自己以外に分別しています。まさに、生命は自己と自己以外とに分別する=差異するマシンでもあるのです。ちなみに、これは言語の作用ともよく似ています。言葉Aが浮かび上がった瞬間、表出していませんが非Aも生成しています。逆な言い方をすれば、言葉Aを生成した瞬間、非Aは存在しないものとして殺害されています。このように脳の言語機能も差異のマシンです。










話が混乱してきました(笑)。少し整理すると、ドゥルーズの差異はライプニッツのモナドであり、モナドは生命の最小単位として考えられないかということです。そして、生命そのものもそれ自体差異するマシンではないかと言うことです。

さて、以上で述べたように差異には2つの側面があると思います。1つは科学的な分析としての差異です。もう1つは生命の基本機能としての差異です。以下の文章では後者の生命の基本機能としての差異に関わる概念になります。

(2)反復
差異の次は反復ですが、普通に考えると「ドゥルーズはどうして反復なんて取り上げたの?」という感じが否めませんが、生命という補助線を入れると分かりやすくなるのではないでしょうか。ドゥルーズは「反復とは差異を反復することであり、差異とは反復される差異である」と言います。これは何を言っているのでしょうか?これを聞いて思い当たる具体的なイメージとしては細胞分裂、あるいは、生命体の繁殖です。上図を有機スープの海(非A)とそこに生まれた原初の生命体Aとしますと、生命体Aは細胞分裂して生命体A1と生命体A2に分かれ、さらにそれらがどんどん分裂して増殖してゆきます。あるいは、細胞分裂について考えてみると、下図のように受精卵にどんどん仕切りができて1つだった細胞がどんどん分裂して複数の細胞に分化してゆきます。このように細胞は自己と外界を分け隔てますが、細胞分裂はさらに自己と他者を分け隔てて増殖してゆきます。









つまり、これが「反復とは差異を反復することであり、差異とは反復される差異である」ということの意味です。細胞たちが自己と他者を分け隔てて差異を反復することであり、さらに細胞分裂が展開される反復される差異なのです。フラクタルL-systemのように自己相似的に反復されるのです。

さらにドゥルーズは「世界は1つであり、無限の差異である」とも言っています。もし、世界が生命のない物質だけの世界ならもっとスタティックな分類になったでしょう。しかし、生物が存在することによって世界は多様性に富んだ無限に差異を反復する動的な世界となっていると言えます。生命は植物や動物や細菌など様々な形態をとって生き残りを図っています。例えば、地球を人工衛星から俯瞰して見ている図を想像して下さい。地球という球体を生命が覆っています。まるでシャーレに繁殖する微生物のようです。生命という単位では球体表面である世界は1つであり、同時に様々な形態をとる生命群は生命の無限の差異であると言えるでしょう。








(3)イデア
さて、反復の次はいよいよイデア(=理念)です。ドゥルーズは「イデアは個体以前の差異である」と言います。これは一体どういう意味でしょうか?再び、A非Aの図に戻ります。仮にAを生命体、非Aを有機スープとします。Aと非Aは物質的にはどちらも同じ物質です。なぜなら生命体Aは有機スープから物質を抽出して組成しなおして自らを形成しました。しかし、Aは生命であり、非Aは無生物の物質に過ぎません。同じ物質であるにも関わらず、この違いはどこから生じるのでしょうか?つまり、生物を生物たらしめているものは何か?生命の本質とは何か?生命のイデアとは何か?ということです。

別の言い方をしましょう。自動車の部品(車体やタイヤやエンジン、それと燃料のガソリン)を寄せ集めて組み立てればそれは自動車として動き出します。しかし、生物の場合、部品を寄せ集めてもそれは生物の死体が出来上がるに過ぎません。メアリー・シェリーが描いた『フランケンシュタイン』と同じようにクリーチャーに生命を吹きこまなければ生物としては動き出しません。それでは生物と無生物を分けるものは一体何でしょうか?

ここで、最初の言葉「イデアは個体以前の差異」に戻って、図に基づいて考えてみます。もし、図から物質をすべて取り除いたとします。するとそこに残るものは何でしょうか?通常の3次元空間から物質を取り除いても何も残りません。ただの空っぽの空間だけが残ります。しかし、そこで、物質もろとも3次元空間をも取り除いた空間を考えてみましょう。そこに残った場は3次元空間とは別の次元の世界と考えられます。下図はそこに残った場のイメージです。









そこに残るものこそ、個体以前の差異、生命のイデアと考えられます。すなわち、物質も3次元空間も取り除いた後、別次元の空間に残るものこそ、個体以前の差異、つまり、生命のイデアではないでしょうか。

(4)非実在論
さて、上記で別次元の世界を考えました。それは私達が住む3次元空間の世界ではない世界です。3次元に住む私たちにとっては別次元は日常的な世界には存在しない非実在の世界です。つまり、ドゥルーズの非実在論もこの別次元の世界を言っています。日常的な感覚からすれば、非実在の世界を仮定することは途方もない空想のように思えます。しかし、科学ではけっこうそういった世界を考えたりしています。例えば、数学で扱う虚数です。虚数は実数としては存在しない数です。下図のように、実際には存在しない数・複素数を想定することで私たちの科学は成り立っているところがあります。また、物理学でも3次元以上の次元について実際に存在するのではないかという説もあります。とはいえ、3次元空間しか認識できない私たち人間が別次元については知りようがないので、この話はここではあまり深入りしません。しかし、可能性としては否定できないところがあります。















(5)強度
さて、いよいよ強度です。ですが、強度について考える前に、生命についてもう一度考えてみます。生命は様々な形態をとって生まれてきます。動物や植物や細菌など様々な形に姿を変えてこの世に生まれてきて生き残りをかけて闘います。私たち人間もその中の1つに過ぎません。しかし、すべての生物が生き残るわけではありません。絶滅する生物もいます。逆に新たに出現する新しい種もいたりします。例えば、昆虫について考えてみます。今現在もアマゾンの密林では新しい種類の昆虫が生まれており、その一方でそういった新しい種の昆虫たちも私たちに知られることなく知らぬ間に絶滅しているものもあるそうです。進化というと試行錯誤のすえの完成への道というようなイメージを持っている人もいるかもしれませんが、実際は、むしろ、ランダムにいろいろなタイプの生命形態をこの世に送り出して、その中からうまく生き残ったものだけが環境に適応した生物だったという方が近いのではないでしょうか。つまり、結果として、生き残った生物は環境に適応した合理的な生物であって、絶滅した生物は残念ながら環境に適応できなかった不合理な生物ということになるのではないでしょうか。つまり、あくまで結果論なのです。生命全体として見れば、進化は生き残りをかけた試行錯誤の連続です。合理・不合理に関わらず生命は多様な形態をとってこの世に生まれてきます。失敗も含めて多様な生命を生み出す原理は一体何でしょうか?実はそれこそ生まれいづる可能性の濃さ、潜在性の濃度というべき強度ではないでしょうか?

ドゥルーズは強度について「質・量以前の即自的差異」と言っています。強度は質以前・量以前の差異であり、即自的な差異であるというのです。強度は質や量など実在の測定は不可能なのです。逆に言えば、強度は非実在の空間で考えねばなりません。その異次元の中で、即自的ですので一種のエネルギー場を想定し、その中で濃度が高くなるところが生命が生まれる可能性の高いところではないでしょうか。イメージすると下図のようなエネルギー場を考えて、色の濃い点、濃度の高い箇所が生命が生まれいづる可能性の高い点と言えるのではないでしょうか。(下図でいえば、赤色の濃い部分です。)














このように考えると強度とは非実在空間における潜在性の濃度ということができるのではないでしょうか。(ところで、濃度に濃淡があるイメージは数直線で無限の濃度について考えてみると分かりやすいかもしれません。連続体仮説に従えば、数直線には無限の濃度の濃淡があります。)


(6)人工生命としての概念
さて、差異、反復、イデア、非実在論、そして、強度とドゥルーズの諸概念についてようやく説明し終わりました。ここからはオマケの話です。ここまで生命を補助線に話をしてきました。ここからは脳の世界について少しだけ考えてみます。というのも脳の生み出す世界も実は生命の世界にとてもよく似ているからです。多くの方が「えっ!どういうことですか?」と意外に思われるかもしれません。そこで分かりやすい例としてSF作家グレッグ・イーガンの小説『ディアスポラ』の一節「ワンの絨毯」を取り上げます。「ワンの絨毯」ではある惑星に原生生物がいるのですが、その原生生物の体は一種の電子回路のような構造になっており、その電子回路にはソフトウェアが存在しているというのです。そして、そのソフトウェアは一種の生命世界を形成しており、そこには多様な生命の生態系があり、生物が棲息する世界が繰り広げられているというのです。いわば人工生命の超高度版といったところでしょうか。この話をドゥルーズに結びつけると、ドゥルーズの著書『哲学とは何か』でドゥルーズは哲学とは概念を制作することだと言っています。ドゥルーズのいう概念は上記で述べてきた生命ととてもよく似ていると思うのです。そして、もしその概念がひとり歩きするようになれば、この「ワンの絨毯」の人工生命のような存在になるのではないかと思えるのです。つまり、概念イコール人工生命ではないかと思うのです。もっと飛躍して言えば、「ワンの絨毯」の原生生物がソフトウェアの生命世界を作るように、人間は大脳で概念という人工生命を作り出しているのではないかと思うのです。ただ、まあ、概念が自らの意思をもって一人歩きすることはないのでちょっと違いますが・・・。ただ、大脳というものが3次元空間にフラクタルに展開する神経細胞なのだとしたら、フラクタル次元として3次元をわずかに超えるかもしれず、そこから異次元が流入して、概念が一人歩きすることがあるかもしれませんね。例えば、ミュージシャンが作曲のときに「降りてくる」とか言いますからね(笑)。あるいは、自動筆記とか(笑)。話がオカルトめいてきたので、この話はこの辺りで止めておきます。ただ、この脳や生命世界の話はドゥルーズ=ガタリ最後の著書『哲学とは何か』の最終章に深く関わってくる話です。


さてさて、今回はドゥルーズの主要な諸概念を説明するために「生命には魂がある」という、ややオカルティックな前提条件で話を進めてしまいました。しかし、複素平面に置き換えて分かりやすくするというラプラス変換的な思考法としてご容赦下さい。また、実際、生命についてはまだまだ分からないことが多くあります。iPS細胞の研究で山中教授がノーベル賞をとって世間は騒いでいますが、まだまだ生命については謎が多いです。物理学的な観点からは生命はまだ説明できていません。ですので、推測がオカルト的だからといって否定するのではなく、あらゆる可能性を否定せずにその可能性を追求するという態度が大切ではないでしょうか。そういった中から創造的進化を遂げる概念も生まれてくるかもしれませんからね。もちろん、絶滅する概念もありますが(笑)。(誤解を招かないように言っておくと、ドゥルーズは生き残る生物だけでなく絶滅する生物も含めて生まれてくることが可能な生命を尊重したのだと思います。合理・不合理に関係なく、強度の高まるところリゾームのより集まったところに生まれいづる生命を愛でたのだと思います。)

2012年9月24日月曜日

ツリーとリゾーム

ドゥルーズ+ガタリの『哲学とは何か』で読書会をやるつもりなのだけど、その前にちょっとは彼らの主な概念についてちょっと勉強しておかなくちゃいけないなあということで、今回はリゾームについて考えてみようと思います。

で、まず、ツリーとリゾームを視覚的にイメージすると下図のようなものになると思います。左がツリー構造で、右がリゾーム構造です。


 

ツリー構造は枝が整然とした階層構造なのに対して、リゾーム構造は枝が横断的に錯綜したネットワーク構造になっています。

で、まあ、ドゥルーズ・ガタリは「これまでは世の中のいろんな知的構築物はツリー構造が多かった。例えば、知の構造とか組織の構造とか。しかし、それは硬直的な見方の産物であって現実にはそぐわないんじゃないか。現実はもっとリゾーム構造っぽい要素も多いんじゃないか。そこでリゾームで世界を捉え直してみる試みをやってみようか」というようなノリで考えたとき、『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』に結実したって感じでしょうか。いや、まあ、極端な話ですが。

もう少しイメージが伝わりやすいように話を非常に単純化して考えてみます。

まず、ツリー構造的な価値観の社会を考えてみます。例えば、人々が画一的な価値観を持った世界というのを考えてみます。みんながみんな同じような価値観を持った社会です。具体的には、例えば、高学歴・高収入をみんながみんな目指しているとします。みんながみんな東大や一流企業や大蔵省を目指しているとします。(←いやあ、古い世界観ですね。今となっては隔世の感がありますね。)それを図でイメージすると、頂点が1つの山にみんなが登ろうとしているようなもので、下図のような感じでしょうか。






この山はツリー構造な価値観なので、理路整然として価値観が整列しているので、山の傾斜も滑らかなものとなります。非常にシンプルな山です。

次に、リゾーム構造的な価値観の社会を考えてみます。、リゾーム構造にはツリー構造のような階層はなく、結節点にどれだけリンクが集中するかによって価値観の度合いが決まるものとします。結節点のリンクが多いとそれだけ山が盛り上がります。つまり、山がたくさんある多様な価値観の社会になります。もう少し具体的に言うと、人々は東大や一流企業だけを目指すのではなく、アーティストになることを目指したり、パン屋さんになることを目指したりするように様々な理想像を持ちます。それを図でイメージすると下図のような山がたくさんある図になります。















山ばかりで喩えるとちょっとスタティックなので、別なもので喩えると、波が様々に盛り上がっている海面と喩えることもできると思います。人々の欲望はダイナミックに変化するので海面のように時々刻々と盛り上がりが変化するので海面の方が適当な喩えかもしれませんね。


『千のプラトー』(=千の高原)はこのような状態、盛り上がりである高原がたくさんある状態を指しているのだと思います。そして、人々はこの非線形な曲面の最も高い盛り上がり、最大値を志向するのではなくて、人それぞれがたくさんある盛り上がり、極大値をそれぞれ志向するのが良いのではないかと考えているのではないでしょうか。あ、いや、盛り上がりがたくさん出来る状態、多様な価値観がある状態が望ましいと考えているのだと思います。(ところで、ドゥルーズの手法は傾斜を数値計算する非線形最小二乗法に似ていると思います。)

つまり、多様な価値観の社会やフレキシブルな知のあり様を望み、さらに、そのような世界を構築するのにもリゾーム的な手法(←『千のプラトー』はそのような手法で書かれている)によって実装するというのが彼らの考えだと思います。もちろん、これはある一面的な話であって、他にも彼らが込めた意味・意義はたくさんあるとは思いますが・・・。

なお、ひと昔前の日本は硬直的な価値観の社会でした。戦前の日本は北朝鮮のような社会だったかもしれませんが、戦後高度成長期の日本はどちらかといえば画一的な社会だったと思います。その方が製造業中心の工業社会に適した人材育成に向いていたのでしょうね。しかし、価値観が画一的な社会や硬直的な知の世界では少数派である自由な精神の持ち主は息詰まってしまうので、スキゾフレニックなゲリラ戦を仕掛けるような浅田彰の『逃走論』が生まれたのだと思います。もっともその源流は森一刀斎こと森毅にあると思います。異分野の知を自由自在に横断するネットワーク力・社交力や問題に対して太極拳の化勁のようなフレキシブルな身のこなしなど森毅こそ日本の元祖ドゥルージアンだと思います。

2012年9月21日金曜日

内へ向う哲学、外へ向う哲学

前回同様にツイッターで書いたことをここで少しまとめます。

で、以前、ツイッターで

哲学って、内宇宙(→内面・精神)に向う方向と外宇宙(→社会)に向う方向があるんだけど、いま、内面に向う方向はなにか避けられていて、社会に向う方向が大半になっていると思う。
 というようなことを書きました。今回はこれについて少し説明をしておきます。

まず、上記を図でイメージすると下図のようになります。

図が分かりにくいので(笑)、ちょっと解説すると、右側のピンク色の部分が自己、左側の淡黄色の部分が世界です。ピンク色部分の白と黒の目のようなものは目そのもので目をイメージしています(笑)。要は自己の内側と自己の外側を表しています。また、矢印は関心の方向を表しています。右向きの矢印は内側(=自己)への関心を表しています。同様に左向きの矢印は外側(=世界)への関心を表しています。

さて、仮に哲学をおおざっぱに2つに分けると、内へ向う哲学と外へ向う哲学があると思います。内へ向う哲学は自己の内面への関心で「心とは何か?」といったような方向に関心を持っています。自分の内側深くにどんどん探査のソナーを降ろしていって探索・探求するような方向です。

一方、外へ向う哲学は自己の外側の世界への関心で「世界とは何か?」といったような方向に関心を持っています。これは自己の外側の世界への関心ですので、例えば社会に関心を持ったり、もっと広く自分の生きている世界に関心を持ったり、さらに広く宇宙に関心を持ったりします。あるいは、もっと広く射程を広げて、自己も含めた全てである存在そのものに関心を持ったりもします。

そして、それぞれの方向への探求を進めてゆくと、いつの間にか2つ繋がったりする場合もあります。どういうことかというと内へ内へと探求を続けていたのにいつの間にか外と繋がったりします。逆に外へ外へと探求を続けていたのにいつの間にか内と繋がったりします。例えば、内側への探求であったはずの唯心論のように「心があるから世界が存在するんだ」というように内と外が繋がります。あるいは外側の世界の探求であったはずの存在論がいつの間にか自己の心をも包含してしまい、内側への探求と同じ探求になってしまうこともあります。(←まあ、これらは極端な喩えですが。)

何が言いたいかというと、内側と外側のどちらでも良いですが、いずれか一方向への探求であってもそれを極めれば、いつしか内と外の両方の探求へと繋がるということが言いたかったのです。何ごとも極めればそれはすべてに通じるといった感じでしょうか。(←ま、必ずしもそうでない場合もありますが。)

ところで、文学も似たようなところがあって、内側への探求は内面の心の襞を事細かく腑分けして精神分析のように探求するのが純文学に相当すると思います。外側への探求は社会派文学ですね。社会問題に関心を持って社会の暗部に光を当てるような探求をします。文学の関心も概ね内と外の2つがあると言えます。

さて、内と外それぞれへの探求にはどのようなものがあるかちょっと列挙しておきます。まず、内側への探求ですが、精神分析学とか大脳研究があります。ちょっと変わったところでは仏教なんかも内側への探求だと思います。言語の研究は内側へ含めて良いのか迷いますが、個人的には含めたいですね。次に外側への探求ですが、唯物論とか存在論とか宇宙論とかがあると思います。ほとんど物理学の世界ですね。「生命とは何か?」という問いはどちらに属するのか微妙なところです。今のところ遺伝子を含めて生物学は外側の探求ではないかと思いますが、もしかしたら、いつかは内側の探求に繋がるのではないかと思っています。

そろそろまとめると、極端な言い方をすれば、内へ向う哲学は「心とは何か?」という心を研究対象とした心の探求です。一方、外へ向う哲学は「世界とは何か?」とか「存在とは何か?」というように世界や存在を研究対象にしています。言わば、社会や世界、宇宙や存在の探求です。あるいは、その中での人間を研究対象にしています。

以上、おおざっぱで極端な話でしたが、内へ向う哲学と外へ向う哲学のイメージが少しは伝わったでしょうか?ま、あくまで、イメージの話であって厳密な話ではありませんのでツッコミは無しでご勘弁願います。

で、最初のツイートに戻ると
いま、内面に向う方向はなにか避けられていて、社会に向う方向が大半になっていると思う。
とあります。というか、そう書きました。

これは私の感触なのですが、今の若者は内面への探求を忌避しているように感じられます。どうも内面に触れることを恐れているように私には感じられます。もちろん、他人に内面を触れられることは誰だって怖いし嫌なことです。ですが、自分自身で自分の内面に触れることはそうではないはずです。ところが、今の若者は他人に内面を触れられることだけでなく、自分で自分の内面に触れることすら恐れているように私には感じられます。

なぜ、そうなってしまったのか?私の推測では、1995年のオウム真理教事件が原因ではないかと思っています。あの事件が大きなトラウマとなって今の若者たちに自分の内面に触れることを忌避させる無意識が働いているのではないかと思っています。「いやいや、そんなことはない。1995年といえば、アニメ『エヴァンゲリオン』があるじゃないか。あのアニメはロボットアニメとしては内面に触れる唯一のアニメじゃないか。それを思えば若者が内面への探求を無意識に忌避するようになったなんておかしいよ」という意見があるかもしれません。しかし、逆に言えば、だからこそエヴァンゲリオンは若者たちにとって特別なアニメになったのではないでしょうか?今思えば、1995年は極めて特殊な年で歴史の転換点になる年でした。オウム真理教事件だけでなく、阪神淡路大震災やインターネットが始まった年でもありました。この年を境に秋葉原は次第に趣都アキバとなり、オタク文化の隆盛が始まりました。ですので、様々な要因があるので一概に「原因はこれだ!」とは言い難いのですが、それでもオウム真理教事件が日本人の無意識に与えた影響は大きく、若者の内面への探求を忌避させるトラウマになっていると私は思います。

2012年9月20日木曜日

OSとしての哲学

ツイッターでも書いたのだけど「ブログを更新しなきゃいけないなあ」ということで、「さて、では何を書こうか?」ということで、とりあえず、ツイッターで書いたことを少しまとめて書くことにします。
 
で、ツイッターで

哲学って、喩えると、基本ソフト(=OS)みたいなものだと思う。精神を脳というハードウェア上で動くソフトウェアと仮定するとOSは哲学(=意味世界)であり、応用ソフト(=アプリケーション)は政治とか経済とかそれぞれの専門分野みたいなイメージ。ま、必ずしも全てが当てはまる訳じゃないが。
というようなことを書きました。これをちょっと補足しておきます。

上記を図でイメージすると下図のようになります。
このイメージについて解説すると、まず、脳と精神をハードウェアとソフトウェアとして分けます。例えば、まったく同じ遺伝子でまったく同じ脳を持った人間が二人いたとします。その二人が生まれてから異なる環境で異なる育て方をした場合、二人の精神は異なった精神・人格になると思います。人生経験という経験情報が異なる人格にするわけです。というわけで、脳と精神をハードウェアとソフトウェアで分けることにします。

次にソフトウェアである精神を言語面だけに絞って考えます。子供から大人に成長して人格を形成する過程で人は独自の意味体系を作り上げます。言葉にはそれぞれ意味があるわけですから、言葉を使うようになれば、人々はそれぞれ意味を心得ているわけです。本来、同じ言語を使っていれば、その人の言語に限ればほぼ同じような意味体系が構築されるのですが、人はそれぞれ異なった人生経験を経るのでその人の精神の意味体系は他者とは異なった意味体系に育ってゆきます。哲学は意味体系を整理整頓して整然とした意味体系に構築するものだということができます。(ま、この話はあくまでイメージの話なので厳密な話ではありませんので、ツッコミは無しに願います(笑)。)

この意味体系は人がこの世界で日常的に生きるときの基本的な意味付けですのでコンピュータに喩えれば基本ソフト(=OS)に相当すると思います。このOSに対して、人がさらに専門的な知識を身につけたとするとそれはOSに乗っかった上で動く応用ソフト(=アプリケーション)に似ていると思います。ただし、必ずしも基本ソフトと応用ソフトが階層関係にあるとは限りません。応用ソフトが直にハードウェアに乗っかるような体系化された応用ソフトもあるでしょうし、逆に直に専門分野に基本ソフトの意味が表れるものもあると思います。

それに、実際は多くのひとが階層などない混然一体となった意味体系で動いていると思います。しかし、それでは意味体系が秩序立ったものとは感じられず、カオスの中を生きているような不安な感覚に捕らわれてしまうかもしれません。そこで意味体系を秩序立ったものに整理整頓するために哲学が必要に感じられるのだと思います。

また、多くのひとは生きてゆくために仕事をしなければなりませんが、仕事の知識体系は人それぞれの専門分野ということができると思います。ここでの専門分野は社会にとって価値あるものです。一方、哲学は専門分野ではありませんので、お金儲けという意味では価値はありません。しかし、専門分野を含めた意味体系を整理整頓して秩序だったものにするのに、そのベースにある哲学を学ぶことはとても意味のあることだと思います。

さて、ここからはオマケの話です。SF的な想像力での話です。人格がソフトウェアならば、そのソフトウェアを現在のハードウェアから別のハードウェアに移し替えることは可能ではないでしょうか?それは脳から脳へとは限りません。脳からコンピュータへの移し替えも可能ではないでしょうか?脳から脳への移し替えは親から子へとか師から弟子へと口頭や以心伝心で伝えられるものかもしれません。しかし、ご存知のようにそういった継承は百パーセントのコピーではなく、違った継承になってしまいます。しかし、コンピュータ上に人格をAI的に復元可能になれば、人格を整理整頓しておけば、案外、人から人へ継承するよりは人からコンピュータに継承する方が人格の完全な複製になるかもしれません。さらに元の脳よりもコピー先のコンピュータの方が優れたハードウェアであった場合、同じ人格でもより良いパフォーマンスを示すかもしれません。

2010年8月18日水曜日

日本の国防について

1.「自分のことは自分で守る」という大原則
国防において、「自国のことは自国の軍隊で守る」というのが大原則だと思う。なぜなら、軍隊は自国の利益のために働くのであって、他国の利益のために働くのではないからだ。もし、他国の守るために軍隊が働いているのであれば、それは他国を守ることが自国の利益になるから働いているのであって、決して他国のためというのが理由ではない。逆に言えば、自国の利益になるなら、その軍隊は他国を攻撃することさえあるだろう。ゆえに、自国の防衛は自国の軍隊で行うのが大原則だと思う。

2.米軍基地が置かれた経緯
そういうわけで、日本の場合、日米同盟を結んで日本に米軍基地があるが、これは上記の原則に反する。そもそも日本の米軍基地は第二次世界大戦の敗戦国である日本を監視するために日本に置かれた。中ソに対する防共とするために日本が朝鮮半島のように南北に分断されなかったと言われている。したがって、日本の国益と米国の国益が一致するために米軍基地が置かれたというわけではない。米国の一方的な国益(世界戦略)のために日本に米軍基地が置かれたと言っていい。

3.抑止力としての米軍基地?
米軍基地を抑止力として見る見方がある。だが、それは米国の国益と日本の国益が一致している間だけという条件付きだ。下手をすれば、日本の国益に反しても米国側につかなければならなくなる。さらに、米国の国益に日本が反する行動を取った場合は米軍から攻撃を受ける可能性すら否定できない。米軍基地を抑止力というが、それは日本が攻撃される可能性を含んだ諸刃の剣だということを忘れてはならない。独立国は自分たちの自由意志を阻むような他国の軍隊を自国内に置くことは非常に問題だと思う。ゆえに、国防の大原則として、自国内には自国の軍隊しか置くべきでない。

4.日本の政党の国防方針
日本の各政党の国防方針は大きく2つあると思います。1つは自民党の日米同盟を基軸にした米軍基地容認派です。もう1つは共産党の憲法九条を基軸とした軍隊を持たない非戦派です。しかし、この2つ以外の最もオーソドックスな国防方針が本来はあってしかるべきだと思います。それは自国のことは自国の軍隊で守る自主独立派があって良いと思います。元々、どこの国の軍隊も専守防衛で自国のことを守れるだけの自国の軍隊を持てば良いと考えるのがオーソドックスな国防方針だと思います。他国に軍隊を派兵するというのは米国など限られていいます。現代では国連の要請による派兵はあるかもしれませんが、基本的には国の国防指針は他国を侵略してやろうなどという過剰な軍備ではなく、専守防衛に必要な分だけだと思います。よって、日本には、この3番目の最もオーソドックスな国防指針が欠けていると思います。

5.憲法九条と軍隊
もし、軍隊を持たないというのが方針ならば、まず、米軍基地を撤退させて、次に自衛隊を解散するのが手順でしょう。しかし、実際に、現実問題として、軍隊無しで良いでしょうか?領空侵犯などありますし、北朝鮮による拉致などもあります。現実には軍隊を持たないというのは難しいのではないでしょうか?そうなると、軍隊はやはり持つしかないと思います。そして、軍隊を持つならば、それを正しく使うことが求められます。なぜなら、軍隊はその国で最大の暴力機関であり、正しく使わなければ危険だからです。確かに憲法九条の理念は素晴らしいものかもしれませんが、現実に軍隊を持っているならば、九条が軍隊を正しく使うことの妨げになってはいけません。九条を杓子定規に捉えるあまり、軍隊を間違って使ってしまっては、反って九条の理念に反することになると思います。そのことをよく注意しなければならないと思います。日本は米国と同盟して他国に派兵してきました。憲法九条が論争の焦点になって、派兵することの意味、正義や国益についてはあまり議論されてこなかったのではないでしょうか。本来、最も議論すべきことをよく考えないといけないと思います。

6.米軍基地について
以上のように、「自国のことは自国の軍隊で守る」ということに従えば、米軍基地は日本から撤退させるべきです。確かに、米軍基地が日本の絶対的な味方であると仮定すれば、米軍基地の戦力が日本から無くなれば、日本全体の戦力は低下するでしょう。しかし、米軍基地が日本の絶対的な味方であるというのは仮定であって、必ずしもそうとは限りません。したがって、米軍基地が無くなれば、米軍基地から攻撃されるというリスクも無くなるわけです。そして、米軍基地が無くなって抑止力が低下しても、「自国のことは自国の軍隊で守る」ので良いのです。それが自然な国の姿だと思います。

7.まとめ
3つの国防指針
①米軍基地を置いて、日本軍と米軍で日本を守る。(→自民党)
②米軍基地も日本軍も廃して、絶対平和主義で日本を守る。
(→共産党など)
③米軍基地を廃して、日本軍だけで日本を守る。(→?)

自民党以外で政権を担いたい政党は③の「自国のことは自国の軍隊だけで守る」という国防指針をマニフェストとして提示すべきだと思います。最もオーソドックスな国防指針が日本の政党に存在しないのはおかしいと思います。

米軍基地を撤退させるのは日米安保の破棄が必要であり、日本の極めて大きな政策転換になります。そう簡単に撤退させるわけには行かないでしょうから、③を取る政党は米軍基地撤去の具体的なロードマップを提示してほしいと思います。


より大きな地図で アメリカ軍 を表示

2010年8月15日日曜日

未来のライフスタイル

とりあえず、ツイッターを元にした下書です。後日、修正するつもりです。

1.2つのライフスタイル
私は文明には悪い点もあれば、良い点もあると思う。逆に、今はほとんど無くなってしまったが、文明の逆、野生の生き方、未開社会の生き方にも良い点もある。もちろん、悪い点もある。私が考えているのは、人間は文明も野生も、その両方を往復するように生きる生き方、ライフスタイルが良いのではないかと考えている。人生をデザインするとき、人生の時期によって、その2つを行ったり来たりする生活ができればいいんじゃないかと思う。

2.人類社会にとって真の問題は人口である
ただ、今はどんどん自然破壊が進んでいるので、そういうのは難しくなっている。詰まるところ、、人類の人口過多に問題があると思う。将来、世界の人口が百億に迫ると言われている。そんなに多くは無理だと思う。人類は人口をもっと縮小して地球上の文明圏を縮小すべきだと思う。土地を自然に還すべき。ただ、そのために少子化が必要だが、中国の産児制限はやはりヒューマニズムからいうとちょっと問題じゃないかと思う。中国政府としては苦肉の策だろうけど。やはり、自主的に人々が人口減に努めるべきだと思うが、それはなかなか難しいんだろうなあ・・・。いずれにしても、地球は周期的に氷河期を繰り返しており、今は氷河期の中休みである間氷期にあたる。再び氷河期が来れば、人口は激減するだろう。ただ、人類は減少しても絶滅することはないと思うけど。

3.里山というライフスタイル
それと日本は文明と野生の中間点にある。文明は中国、野生はアメリカ先住民。日本はその中間にあって独特の日本文明を築いた。天皇制なんて、世界の王権と比較すると、かなり変わった王権だ。あれは文明と野生の中間だから、あんな変わった王権になったと思う。携帯電話など日本のガラパゴス化が指摘されたりするけど、文明と野生の中間ということで、日本独特の中間的な文明を構築すること、そういう意味でのガラパゴス化だったら、面白いと思う。アーミッシュの人々みたいに文明の否定にはならないと思うけど、もう少し自然寄り野生寄りの文明を築けると思う。その中間的な文明の例として、里山があると思う。『未来少年コナン』のハイハーバーみたいなものだと思う。地下にはハイテク機器が隠されているかもしれないけど。

4.野生のライフスタイル
ただ、中間じゃなくて、完全な野生生活も私には魅力があると感じられる。平原インディアンみたいなティーピーでの狩猟生活に憧れる。最初の5年間は文明で生活して次の5年間は野生で生活する、みたいなのを繰り返すのが出来たらいいなあと思う。そういう文明と野生の往復ができたらいいと思う。もちろん、野生生活は野獣に襲われる危険があるかもしれないけど、それでも充実した生を得られるので良いと思う。文明社会での放浪者は人間の尊厳を踏みにじるけど、野生では気ままな暮らしができると思う。インドなどで底辺の階級が物乞いをしたり、虐げられたりすのって理不尽だと思う。でも、野生ならそういうのはない。それに狩猟採集生活は労働時間は文明社会よりも短い。1日4時間以下。羨ましい(笑)。それに狩猟採集生活は意外と楽しいと思う。狩猟なんてけっこう面白いと思う。まあ、こっちも殺られるリスクはあるけど。それに獲物に対する敬意も払うし。

5.人類社会の行方
まあ、文明社会はこれからもどんどん便利な機器を生み出してゆくとは思う。とりあえず、エネルギー開発と、生存圏の拡張で宇宙への進出が期待される。けど、生活の質自体はこれ以上の進歩はあまりないんじゃないだろうか。(不老不死になるのは、たぶん、不可能だと思う。)そういう意味では、文明と野生の往復生活って良いんじゃないかと思うのだが・・・。文明社会が築いてきた文化って、果たしてどれだけ価値のあるものかは疑問に思う。文明も野生もどちらも等価かもしれない。むしろ、野生生活は文明生活よりは持続可能という点では人間にとって普遍的な生き方だと思う。今までの文明は周囲の自然環境を滅ぼして、ついには文明自体も滅んでいる。今は国際分業によって、世界中から物資を供給している。でも、過去の文明が地域だったのが、今は世界規模に広がっただけで、世界規模で地球環境を滅ぼしたとき、文明も滅ぶことになるのではないだろうか。

2010年6月13日日曜日

世界の大学学費

世界の大学学費について調べてみました。日本、米国、英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、アイルランドです。ただし、あくまでネットで調べたものであり、あくまで目安です。文系と理系ではやはり違ってきますし、為替の変動によってもしょっちゅう変わるでしょう。ただ、やはり、大学の学費はどこも高額ですね。米国では貧しい人は兵役に行くことによって大学に入りますが、なるほど、そうでもしなければ、なかなか学費は賄えないのだと思います。確か、日本でも映画を見るよりも1回あたりの授業料の方が高かったと思います。当たり前でしょうけど、授業をサボってアルバイトするよりも授業料の方が高いです。戦後の日本で最も上昇した物価の中に大学の授業料が上げられていたことが何年か前にあったと思いますし。ただ、世界的に大学のレジャーランド化は進んでいるとは言いますが、それでも海外の大学は勉学が大変なのだろうと思います。ちなみに非英語圏ではありますが、ドイツは確か大学の学費は無料だったと思います。まあ、高い学費に見合った教育を大学が行えているかという問題もありますが。ただ、今後は大学は主に理系もしくは理系に準じる勉強をするところになるでしょう。文学部などの廃止はその流れでしょう。大学を卒業すれば、それなりに社会で実際に役立つ技術を身につけられるようになる、ならなければならないと思います。もちろん、役立たない学問はダメだと言っているわけではありません。ただ、そういう学問は、ごく限られた一部の大学と大学ではなしに私塾的なところに場所を移すと思います。大学は単に卒業したという飾りではなく、実用的な技術を身につける場になると思います。そういう意味で、大学まで行って勉強するのは理系的になると思います。哲学などの知的好奇心を満足させるのは私塾的なものになるのではないでしょうか。また、技術の進歩が早い分野では社会人の受け入れが多くなるかもしれませんね。今までの単調な学習プロセスとは違った多様な学習プロセスになるのではないでしょうか。

2010年6月6日日曜日

知の学習形態について

今後の知の学習形態について、ちょっと考えてみようと思います。といっても、実は「こうなるんだ」という確定的な考えではなくて、「たぶん、こんな感じだけど、また違ってくるかもしれない」的な緩い想像の段階です。ちなみに、ここでいう知は、まあ、哲学的思想的な人文知です。

1.知の遍歴の寓話
たとえ話です。まず、知に興味を持った若者を仮に読者Pとします。読者Pはまず自分が興味を持った哲学に近い哲学を専門とするA先生を訪ねます。読者PはA先生の講義(講話)に2年間参加してA先生の哲学を学びます。読者PはA先生から多くを学んでA先生に感謝しているのですが、それだけでは満足できずに、今度はA先生の所で学んでいるうちに興味を持ったB先生の所に行って学びます。読者Pは今度はB先生について5年間学びます。ところで、読者PはA先生やB先生のところで学習しながらも、自分では仕事をしながら、その合間に学習していました。さて、読者Pは満足できるほど学んで学習意欲を満足したのとそろそろ仕事が忙しくなったのを理由にこれ以上の知の学習を中断します。それから10年ほどは読者Pは仕事に邁進して生活基盤を築きます。10年経った頃、読者Pは再び学習意欲に狩られます。実生活の中での経験を通して、今まで学んだ知だけでは不十分だと感じたからです。また、忙しかった仕事も一段落したので、再び学び始めることにします。読者Pは仕事に邁進した10年の間も本格的な学習はできなかったものの、A先生やB先生とは親交は結んでいたので、すぐに再び彼らのところで学習し始めます。そして、すぐにC先生の存在を知って、今度はC先生のところで学び始めます。読者PはC先生のところで3年間学び、大いに学習意欲を満たされたのでした。

そんなとき、読者Pは自分よりも若いD先生に出会って、自己紹介でこれまでの学習遍歴を話し合いました。読者PはA先生で2年、B先生で5年、C先生で3年の間、それぞれ学んだことを言いました。一方、D先生はI先生で5年、J先生で3年、K先生で3年学んだと言いました。J先生とK先生はとても高名で知られる先生でした。D先生はずっと学び続けてきた人で、先生方からも高く評価されて、若くしてそのまま自分も先生になったのでした。読者PもD先生も学んできた先生から互いの知の内容がおおよそ検討がついて、すぐに自分たちが近しい知の学習者であることが分かり、すぐに打ち解けました。そして、二人はとても仲の良い生涯の親友になりました。

2.大学の知と市井の知の違い
大学の知は専門細分化して、その狭い範囲の専門分野の中では非常に精緻に知が極められています。一方、市井の知は確かに専門分野はありますが、大学の知と比較すれば、その精緻さでは劣るかもしれません。なぜなら、大学ではその専門分野を仕事として、そればかり集中して研究できるからです。一方、市井の知はそういうわけにはいきませんから、どうしても精緻さでは劣ってしまいます。しかし、その一方で、大学の知は専門細分化してしまったために、全体的な知に対してはリアリティを欠如してしまっているかもしれません。自分の専門分野だけで全体を把握しようとするからです。自分の専門分野だけで世界を説明しようとしてもちょっと無理があるからです。あるいは、自分の専門分野以外の専門分野には、また、別の専門家がいて、そこでは自分の専門分野だけでは通用しないのが分かっているからです。そのため、専門分野の外へ出ようとしなくなります。タコツボ化の弊害のひとつです。それに対して市井の知はトータリティを重視します。もちろん、専門分野も重視しますが、それだけではなくて、全体として役立てられる知であるように考えます。市井の知において、誰に学んだかが重要になります。専門分野は大切ですが、専門もその人の解釈によって様々な見解が生まれます。ですが、誰に学んだかが分かれば、その固有性が明確になり、解釈の方向性やその人の知の全体性がつかめるからです。先程のたとえ話で、誰に学んだかの知の系譜が重要なのはこのためです。それから、先生というのは知の技術者であると同時に人格者でなくてはならないと思います。その先生がどのような知の技術を持っているかは、その人に就いて学ばなければ分からないかもしれません。しかし、先生が人格者かどうかは、単に人付き合いの中から察することができます。人にものを教えるという先生というのは技術も大切ですが、それ以外に人格も大切だと思います。極端なことを言えば、技術は大したものでなくても、人格が良ければ、その先生に学んで良かったと考えられるかもしれませんから。ともかく、大学の知はアカデミズムというツリー状に階層化された知の体系の中に専門分野というタコツボの中に位置づけられてしまいますが、市井の知はリゾーム状のネットワーク的な知の体系の中に先生というノードに位置づけられると思います。学習者はそのネットワークを知を求めて点々と移動してゆくのではないでしょうか。

3.何をもって満足するのか?
実はこの知のネットワーク構造は武術の世界に似ているところがあります。武術も各流派に分かれて、先生が道場主になっており、先生も若い頃に別の先生に学んで先生になったりしています。ところで、武術の先生は何をもって先生として認められるのかというと武勇伝にその根拠を求めたりします。まあ、他流試合で勝ったとかなんとかです。強いことと試合に勝つことは似ていますが、微妙に違いもあります。宮本武蔵の武者修行は強くなるための修行というよりは、自分が一番強んいんだということを示すためにあちこちで試合する旅になっています。強くなるための修行と試合に勝って強いことを示すことは違いますよね。知の探求も人から認められることや自分が先生になることが目的ではないと思います。目に見えないけれど自分の知的好奇心を満足させる知を得ることが知の探求の目的のひとつではないでしょうか。何をもって自分を満足させるかは、他人ではなく、あくまで自分自身の中にあると思います。

4.人文知の行方
大学から人文知が限りなく減らされています。でも、それは仕方ないことです。大学には税金が使われています。私学も補助金という形で税金がいくらかは使われています。社会にとって役立つ人材を養成するためだから大学に税金が使われるのです。人文知は直接的には社会に役立ちません。人文知は社会に直接役立つ専門知識ではないからです。ですので、税金に余裕があればそんな人文知に税金を使っても良いかもしれませんが、余裕がないなら、やはり、社会に有用な専門知識の学習のために税金は使うべきです。それに人文知の学習インフラはこれまでの大学での知の蓄積とネットの発達によって、どんどん手に入れやすくなっています。ウィキペディアやグーグルブックスやウィキブックスが充実すれば、著作権の切れた古典的なテキストは無料でネットで読むことができるようになります。最低限、自己学習できる環境は整います。まあ、確かに直接、先生に就いて学習するのが良いのですが、大学という枠でなくても、それは市井の知でやれなくはないと思います。なので、知は社会に直接役立たなくても、純粋に知的好奇心を満たすためだけでも良いと思います。もちろん、可能であればなにか社会に直接役立つ人文知であっても構いませんが、社会に直接役立つことを無理に目指す必要はないと思います。人間のいくつかの欲求の中のひとつである知的好奇心を満たすためだけでも良いと思います。大学には大した学習意欲もなくて単に資格を取るためだけ来る人たちもいます。ですが、市井の知には、真に学びたい人たちだけが来れば良いと思います。こう書くと堅苦しく聞こえるかもしれませんが、実際は学ぶ意欲があれば、その内実は楽しい知になると思います。大学のように学習意欲のない者を客寄せするために無理にレジャーランドにする必要はないのです。市井の知は金儲けが一番の目的ではなく、真に知を求める者たちだけが集えば良いと思います。もし、その知に満足しなければ、黙ってその先生の元を去り、別の先生のところへ学びに行けば良いのですし、また、いつまでもその先生のところに居てもいいし、ある程度、その先生で満足すれば去って行ってもいいと思います。あくまで自己の知の完成が第一の目的であって、お金や権威が目的ではないと思います。

5.その他いろいろ
知の学習において、書物による学習も大事ですが、フェイストゥフェイスの学習も大事だと思います。学校教育では、悪く言えば、権威によって上位の先生から下位の生徒へ押しつけるところがあります。例えば、教科書の読書体験と通常の個人的な読書体験の違いに表れています。教科書は絶対正しい的な押し付けがありますが、通常の読書では著者と読者の対等な対話で読者は著者に対して真理を探求する者の心として懐疑を抱くことができます。個人的な読書体験ではそういう著者と読者の対等関係を築けます。ところが、学校教育では懐疑を差し挟む余地がなく、上から下への押し付けが多くなってしまうと思います。さて、知の学習はそういった学校教育と比べると実はそれほど輪郭が明確ではありません。学校教育では先程書いたように上から下への押し付けである一方で、これは正しいとこれは間違っているなどの輪郭が明確です。ですが、知は実はそう単純には、あるいは、そう荒くは輪郭を明確にできないところがあります。そうなると、学校教育のようなスタイルでは真に知の学習を伝達することが難しくなります。そういう輪郭の明確でない微妙な知の伝達にはどうしても生徒や先生の様子やニュアンスをうかがえるフェイストゥフェイスが重要になってくると思います。なので、市井の知のフェイストゥフェイスで学べる学びの場が大切になってくると思います。それと先生はやはりある程度の期間教えられる専門分野が必要だと思います。それが範囲が広く深いほど優れた先生ということになるのかもしれません。まあ、あくまで、ひとつの尺度に過ぎませんが。ところで、最近はYouTubeで映像を見られるので講義を見ることもできますし、驚いたのはインド人がスカイプのTV電話を使ってインドに居ながら、アメリカの子供の家庭教師をしているのもありました。まあ、アメリカ人の子供の礼儀作法がなっていないのを嘆いていましたが(笑)。他にもネットに教材を用意するなど、ともかく、ネットを使った教育がどんどん浸透しているようです。中途半端になってしまいましたが、ちょっと今回はいったんここで筆を置きます。

2010年6月5日土曜日

管新首相誕生について

1.民主党代表選について
菅直人が新首相に決まった。国会での首班指名の前の民主党代表選挙で、菅が291票に対して樽床が129票と、対抗馬の樽床氏が予想外の善戦だった。どうも樽床の票は小沢グループの票らしい。どうやら小沢はまだ政界を引退しないらしい。だが、彼には後継者はいるのだろうか?小沢の政治的な目的も二大政党が達成されたのでほぼ果たされたのではないだろうか?あるいは、さらなる目標として日本の国防について変えたいのだろうか?ともかく、民主党内が反小沢と小沢グループで分裂しているかのようなマスコミの誘導があるが、政権与党になればある程度派閥に分かれるのは自然な流れだろう。

2.民主主義として必要な手続き
ただ、代表選挙は茶番であるのを嘲笑する向きもあるが、民主主義の手続きとして必要なものだ私はと思う。ただ、意外な無名の対抗馬・樽床の善戦には別の意味があったと思う。とはいえ、小沢も二大政党制を最優先するだろうから、自由党の頃のように党を割ることはないと思う。だが、少数政党が増えているのでつけ入られる隙がないとは言い切れないとは思う。

3.公明党の不気味
それにしても、首班指名で公明党の議席数が多いのには改めて驚いた。大手新聞社の広告にも出ているし、その社会的影響力の大きさにやや引いてしまう。幸福実現党もその巨大さにある意味で焦りがあるのかもしれない。いずれにしても、宗教が政治に口出しするのは好ましくない。もう今の時代は政治は信仰ではなく理性で考えるべきだ。宗教を否定するつもりはないが、宗教は団体ではなく、個人の救済であるべきではないだろうか。

4.菅直人の弱点
さて、菅直人といえば、「未納三兄弟」が思い出される(笑)。その後の四国遍路での坊主頭は意外な一面を見た思いがある。政治家としてはちょっと変わった発想だと思う。60年代的な何かヒッピー的なものを漂わせているのかもしれない。ともかく、例の「未納三兄弟」の発言にあったように失言のリスクがこの人にはある。ただ、それは管自身も分かっているようで、記者会見での発言はずいぶん慎重になっていた。また、イラ管と言われるように短気な一面もあって、短気を起こさないようにも注意していた。今までのような失敗は許されない。総理となったからには発言は慎重にならねばならない。まあ、当然のことだろう。

5.民主党のリスク
ただ、民主党にとって最も注意しなければならないのは、管政権が短期で終わってしまうことだ。もし、短命政権で終わってしまうと民主党の政権担当能力が国民に問われることになる。そのときは民主党に代わって自民党による政権交代になる可能性がある。逆にいうと、管政権時代に組閣を二度はするつもりで長期に政権運営しなければ国民の信用は得られないだろう。民主党としても組閣が二回あれば、閣僚に抜擢されるチャンスも高くなるわけだから、挙党一致で協力しやすくなるのではないだろうか。

6.管新政権の課題
そして、管政権の最大課題は何よりも経済政策だろう。国家予算の縮小と増税。それをソフトランディングするにはインフレにすることだろう。小泉政権の時の竹中平蔵のように、誰を経済政策の担当にするかだが・・・。また、増税や予算削減は国民の不満が高まる。その反発を外らすために敵が必要になる。経団連などの大企業や霞ヶ関の官僚が”敵”として標的にされるかもしれない。管には薬害エイズで見せた官僚を切り崩した厚生大臣時代の実績がある。だが、それでも日本の財政危機を乗り越えるのは至難の技だろう。国民の理解はなかなか得られないだろう。だが、税収の落ち込みは尋常ではない。今までのような規模の国家予算を続けるのはいくらなんでも無理がある。そんなことを続ければ、ギリシャの財政危機以上の、日本の経済破綻が待っているだろう。もはや日本は経済大国ではない。日本は変わらなければならない。

7.民主党内の不安要素
また、民主党内にも不安はある。小沢グループの動向だ。ただ、先にも触れたが二大政党を崩すことはないだろう。ただ、党内での権力争いは新人の育成にもなるだろう。そうなれば、かつての自民党のような層の厚みが民主党にも出てくることだろう。老兵もそう簡単に新人に席を譲ってやることもあるまい。

8.社民党の暗い将来
ところで、社民党は普天間を強調していた。だが、選挙対策だろうが、野党では意味がない。普天間が踏み絵になっては社民党の将来は暗い。社民党は沖縄県民とよく話し合って連立に参加する道を開くべきだと思う。共産党のような道を歩んでも、票は共産党に流れるし、党員も離れてゆくだろう。

9.野党の反応
それにしても、管新総理を批判する野党の舌鋒がぬるい。彼らは自分たちの主張がないのだろうか?それとも、最初ということで批判を控えているのだろうか?古い政治家は習慣的に批判がましく言っている者も中にはいたが、批判の内容が貧弱だった。そう考えれば、鳩山退陣のタイミングは良かったのかもしれない。「なぜ、この時期に辞任するのか?」と鳩山辞任の理由がいまひとつ分からなかったが、結果論だが、これで良かったのかもしれないとも思える。だが、やはり、総理大臣がこの程度の批判に耐えられず、辞任するのは政治の脆弱さとして問題だと思う。確かに普天間問題は大きな問題で決して無視できない問題ではあるが、だからといって、県外移設できなかった責任を辞任するまで責める意識は国民には無かったと思う。「移設先をどうするか、米軍基地をどうするか?」は国民にとっても、どう対処すれば良いか名案は無かったのだから。だから、やはり、鳩山辞任は鳩山個人の資質によるところが大きく、この時期の辞任は責任感の薄さや粘りの弱さであって、政治家の資質として脆弱に過ぎると思う。

10.沖縄の今後
きっこのブログを読んだ。沖縄への思いと社民党への期待が書かれていた。気持ちは分からなくはないが、罷免されても政権離脱までする必要はなかったのではないか?社民党の課題は沖縄だけではないだろう。閣僚として罷免されても政権に関わる道を取るのが、ひいては沖縄のためにもなったのではないか?米軍基地の問題は米国を相手に戦わなければならない。そのためには日米安保を見直さねばならない。それは簡単には行かない。米国との長期の交渉が必要だ。米国にとって沖縄はアジアへの戦略拠点であって、日本の安全保障などではない。当たり前だが、日本は自分で自分を守る専守防衛を当然とすべきだ。管が記者会見で沖縄の米軍基地について、「ある意味で腰を据えて取り組まねばならない」というのは、日米安保の見直し、もしくは、破棄へ向けての長期的な取り組みを考えているのではないかと思う。日本の財政難で費用負担をできないので基地を日本に返せと言えばいい(笑)。嫌なら費用負担しろと。日本を囲む軍事的情勢は決して良いものではない。中国は世界第二位の軍事費を持っているし、ロシアはかつての超大国で軍事大国だ。また、北朝鮮という乱暴で何をするか分からない国がすぐ近くにある。拉致など普通なら考えられないことで、狂気の沙汰だ。が、だからといって米国に頼るもの違うだろう。自分の国は自分で守ると考えるべきではないだろうか。誰かに頼るなどというのは何か違うのではないかと思う。それに、そもそも日本は島国で海上での小競り合いはあっても、陸続きでの陸上での国境争いはないのだから、他国と比べれば安全な方だろう。同じ島国のアイスランドも軍隊を持っていない。沖縄に対して時間はかかるけれども、いつかは米軍基地を無くすという道筋を見せるべきだと思う。永久に沖縄に基地を置き続けるというのではあまりにも沖縄の負担が大き過ぎる。そのためにも交渉のテーブルに米国をつけるべきだと思う。

11.まとめ
いずれにしろ、管新政権の課題は日本経済だと思う。財政再建と経済回復だ。だが、これは険しい道であり、日本自身が産業構造の転換など大きく変わらなければならないと思う。

12.言論と表現の自由
イルカ漁を批判した映画「ザ・コーヴ」の上映を抗議のために中止したらしい。この対応は間違っている。表現の自由や言論の自由を守るために戦うべきだと思う。批判はしても上映そのものを禁止にするのはおかしい。上映を中止しろという団体もそうだし、迷惑がかかるからと自主的に中止する映画館も間違っている。以前、日教組の集会所のホテルを右翼団体が街宣車によって抗議活動することによってホテル側から集会を中止したことがある。このホテルの対応も間違っている。言論の自由は守られるべきだ。それを妨害する者に対しては断固として戦うべきだと思う。暴力によって言論の自由が脅かされてはならない。戦うという選択肢があることを忘れてはならない。そして、自分たちの自由が脅かされるときは戦わなければならない。戦いを回避するために自由を奪われても良いというのは間違っている。言論の自由を脅かされまいとする戦いは正義が自分たちにあるのだから、戦うのが恐くとも戦うべきだ。それを見ている社会は社会正義の側に当然味方するものだ。暴力に屈して正義を曲げて悪をはびこらせてはならない。

現代思想の今後について

1.構造主義から分析哲学まで
現代思想の今後について少し考えてみようと思います。現代思想といっても、既に現代ではなく、過去のものです。フランスで展開した構造主義も、また、その後に展開を期待されたポスト構造主義も今はもう過去のものになってしまった感があります。これら一連の構造主義を大陸哲学とすると、英米系の分析哲学がその後を引き継いだと考えるのかもしれません。ですが、確かにそれら分析哲学は停滞した現代思想の中で目立った活躍ではありますが、かつての構造主義に比べれば、それほど大きな展開になっていないと私には感じられます。大きな展開になっていないからといって、それらを軽視してよいわけでもありませんし、実際、考える材料を提供してくれているとは思います。ですが、極端なことを言えば、全体を俯瞰する構造主義と比べれば、分析哲学は個別の行動原理を模索するもので、構造主義とは違った思考形態であり、構造主義が哲学であるのに対して、分析哲学は実践(行動やプラグマティズム)ではないかと思います。(これはレヴィ=ストロースの構造主義とサルトルの実存主義の対立と、ある意味、似ているのではないかと思えます。)
 
2.近代哲学の敗北
ここで、もっと遡って哲学についても振り返ってみます。極端に言えば、中世の西洋では哲学でなく神学だったと思います。それが近代になって「神が死んだ」(ニーチェ)ことによって神が出てこない近代哲学になりますが、「神は死んだ。だが、困った」(サルトル)と言われたように神抜きの哲学をうまくは構築できませんでした。なぜなら、乱暴に言えば、ハイデガーの『存在と時間』が存在論を批判したものの、それに代わる存在論をハイデガーは構築できませんでしたから。まあ、サルトルがユニークな実存主義を掲げたのですが、哲学的にはレヴィ=ストロースの構造主義にあっけなく退けられてしまいました。(ただし、だからといって実存主義に価値や意味がないというわけではありません。)結局、デリダが「哲学はすでに死んでいる」と言ったように哲学は存在(つまり、あらゆるもの全て)の哲学的な構築に失敗しています。(これは無矛盾の形式化に失敗した数学に似ています。)そういうわけで、実は私たちは自分でもうまく説明できないよく分からない世界に存在しているのです。この謎については宇宙や生命の物理的な解明を待つしかないと思いますが、それでもすべてを完全に解明するのはちょっと難しいのではないでしょうか。(SF作家のイーガンはそのことを強く意識していると思います。)

3.現代思想の可能性
さて、そういうわけで存在の哲学的な探求は困難だと考えられます。大きな枠組としては哲学は既に終わっている感があります。もちろん、様々な存在の可能性を考えるのは楽しく、それらは今後も続けられると思いますが、しかし、それはあくまで可能性にとどまるでしょう。あるいは、哲学の敗北を覆す天才が現れる可能性もあるかもしれませんが、さて、どうでしょう。ともかく、繰り返しますが、哲学は大枠としては終わっています。では、現代思想という小さな枠組みの中ではその可能性はどうでしょうか?現代思想を哲学的な分析のツールと見立てたとき、その展開の可能性はすべて出尽くしているでしょうか?私の個人的な見方ですが、構造を俯瞰透視する構造主義と記号の生成消滅のダイナミズムを捉えようとする記号論(特に記号の生成過程を分析しようと努めたクリステヴァの記号論)が大きな分析ツールとしてはあったと思います。人によってはクリステヴァはソーカル事件で否定されてしまった感がありますが、まあ、安易に数学を導入したクリステヴァにも問題はあったかもしれませんが、彼女の業績をすべて否定してしまうのは間違っていると思います。乱暴に言えば、構造主義をマクロな視点とすれば、彼女の記号論はミクロな視点の導入であり、2つは相補的な関係にあったと思います。(彼女は後に根拠を求めてラカンの精神分析に向かっていきます。)というわけで、現代思想は構造主義と記号論という2つの大きな分析ツールがあると見立てることができると思います。

4.可能性への個人的な見解
それでは現代思想の分析ツールとしては、この2つがすべてでしょうか?いえ、実は私はもう1つ可能性があるのではないかと思っています。それは何かと言うと、連載コラム『ヴィトカツィの時代』で示唆した形態学です。私の考える形態学は、構造主義と記号論でいえば、どちらかというとスケール的にはミクロの世界を扱う記号論に近いものです。ただし、クリステヴァが精神分析学へ向かったのとは反対の方向に向かうものだと考えています。言い換えると、形態学はフロイトに向かうのではなくユングに向かうものだと考えています。形態学がどのようなものかは連載コラムの中で詳述しようと思います。ただ少しだけ触れると、形態学はパターンを生む可能性があります。ここでいうパターンとはコンピュータのプログラミングでいうところのデザインパターンを意味しています。デザインパターンとは乱暴に言えば動的組織のプログラミングによる構造化です。昨今ではアーキテクチャと言えるかもしれません。ともかく、まあ、そういった様々あるパターンのカタログを作成する方向に向かうかもしれません。ただ、それはすでにデザインパターンとして具現化されているし、哲学的には構造分析と大した違いはないと言えるかもしれません。形態学では、そういったパターンを抽出するのではなく、精神の抽象レベルへのサイコダイビングみたいな探求になるのではないかと思っています。

5.哲学の個別化
さて、私の個人的な見解の正否はともかく、言語化可能な哲学の展開としては一般的に理解できるレベルでは出尽くしていると思います。一般的に理解できるレベルを超えるとなると、それは個別的な理解に進まざるを得ないと思います。つまり、それは師から弟子への言葉を超えた以心伝心で伝わるレベルということです。哲学の一般的な理解は、まあ期待されたものかどうかは別として、ある程度達成されたのですが、それを一歩踏み越えて深く理解しようとなると、それはもう言葉を超えたレベルでの伝承的な理解になると思います。まあ、ずいぶん、乱暴な話ではあるのですが、実は歴史的にはそういうのは過去にもありました。中世哲学の頃、イスラーム世界では学者とされる師から弟子へとその哲学が継承されたというのがあります。現代哲学も、ただし中世哲学とは違って神を除いた哲学的展開になるとは思いますが、同じような師資相承の形態を取るのではないかと思います。

6.個別の思想展開とネットワーク形成による環境整備
さて、以上を整理すると、哲学や現代思想のアカデミックな展開は終わっており、現代思想から新たに大きな潮流が出てくることはないと思います。今後はそれぞれの哲学者が自分たちの哲学を個別に個人的に展開してゆくしかないと思います。付け加えると、大学は狭い意味で社会に役立つ有用な技術を養成する機関になるので、哲学の居場所は大学では限りなく少なくなるでしょう。哲学は大学に代わって哲学を求める人たちのために市井(市場)に活躍の場を移すと思います。市場での哲学の展開は様々な方法が模索されると思います。東浩紀のやり方もその1つでしょう。(哲学とはちょっと毛色が違うが小谷野敦も同様だと思います。)ネオアカはネオアカで独自の展開をしようと思いますが、ネオアカで一括りにする必要はなくて、個人が各自で自分の好きなように自分に合ったやり方で展開すればいいと思います。以上で述べたように、全体としては個人個人が知の拠点となっていけばよく、互いが反目しあうのではなく、互いにネットワークを形成することによって、知を探求したいと考えている人たちに知を探求しやすい環境を提供することだと思います。個人が個別の思想展開をするとどうしても自己の正当性を主張するあまり、閉鎖的になったり独善的になったりするかもしれませんが、知を探求したい人たちに学びやすい環境を提供するためには、知の拠点が内側に閉鎖的に閉じこもってしまうのではなく、各自の知の拠点を開放的にして、知を学ぶ人たちが知を求めて様々な知の拠点を移動できるようにネットワーク化した方が良いと思います。(もちろん、ネットワーク化して知の拠点同士が互いに友好関係を結ぶと同時に、その逆に矛盾するようですが、知の活性化を図るために互いに批判的であるべきだとは思います。)

国家体制の多様性

1.何が一番良い国家体制だろうか?
国家体制についてちょっと触れておこうと思います。以前、ネオアカとしては、政治的立場として民主主義だという話をしました。また、全体主義には、当たり前ですが、反対の立場だとも言いました。ところで、国家体制としてはどのような体制が良いでしょうか?実はどのような国家体制が一番良いかはよく分かりません。資本主義や社会主義、あるいはイスラーム共和国などというのもあります。果たしてどの体制が良いでしょうか?

2.国民に主権があり、国民が民主的に選んだ体制
実はどの体制が良いかは、なかなか明確には言えないのではないかと思っています。ただ、根本的には、主権は人民にあり、民主的にその国家体制が選択されたものであるべきだと思います。つまり、資本主義であっても社会主義であってもイスラーム体制であっても国民に主権があり、国民が民主的に選んだ体制であれば、それが国家体制になって然るべきだと思います。ただし、問題もあります。ナチスドイツです。ナチスドイツは実は民主的に選ばれた国家体制でした。ですので、この考え方にもまったく問題がないわけではありません。ですが、おおむね、国家体制は主権者たる国民が選んだものであるべきだと思います。まあ、なかなか理想と現実の違いがあって、そう簡単に杓子定規には行きませんが。現在の日本では資本主義社会が絶対的なまでに是とされていますが、開発経済学では発展途上にある段階の国では資本主義は上手く機能しなかったという報告もあり、一概にすべてのケースでこれが正しいという体制はないのかもしれません。その時、その場所にあった体制に可塑的に変形するものだと考えた方がいいのかもしれません。とはいえ、やはり、現時点では民主主義の資本主義社会が今は良いように思います。まあ、経済が暗転すれば、また見方も変わるかもしれませんが。とはいえ、もし、社会主義やイスラーム体制の国に生まれたら、さぞや嫌だったかもしれないとも思います。

3.移民という出口
当然、どのような体制であっても、不満を持つ人たちはいると思います。ですが、極端に言うと、たとえ民主的に決めても、多数決で少数派の意見は受け入れてもらえないかもしれません。では、どうすれば良いでしょうか?コストなど問題は多々ありますが、最終手段としては、その国を去って別の国に移住するという移民という方法があると思います。もちろん、そうならないように、よく話し合って全員がある程度満足できるように全員が多少の妥協することによって、国を捨てることなく誰もが住みよい社会にするのが民主主義社会だとは思います。しかし、それでも、どんなに最善を尽くしても、やはり、移民する者が出てくると思います。その意味では、最低限、移民という扉は開けておくべきだと思います。

ただし、一方で、移民は高いリスクもあります。その人が高い技術力や豊かな資産を持っていれば別ですが、移民先での苦しい生活環境があります。まあ、移民先の社会に今まで税金を収めていないという社会的義務を果たしていないために、一般の国民とは違って生活を保障される権利もないという見方もあるかもしれません。移民労働者の劣悪な労働環境はしばしば問題になったりしますし、逆に移民に仕事を奪われた自国民の反発もあります。最近の米国では、アリゾナ州では不法移民は収監されて囚人として働かさせられてしまいます。ですから、移民にも問題は多々あってリスクが高いと思います。

4.移民の自由とリスク
ですが、基本的には、人間には移動の自由を与えられるべきだと思います。移民の自由を引き換えにリスクはありますが、それでも嫌な国家体制の中に閉じ込められるよりはマシかもしれません。福島亮大が『神話が考える』の中で民主主義の資本主義社会が唯一の国家体制のように書いてありましたが、必ずしも絶対的にそうだというわけではないと思います。国家もまた生物と同じように多様な体制が可能であり、一概にどの体制が良いとは言い切れないのではないかと思います。むしろ、国民が自国の主権者で民主的に体制を選択できる権利がある一方で、人々が自由に国家間を移動できる、つまり、移民の自由を与えられるべきだと思います。

2010年5月30日日曜日

社民党の政権離脱について

1.もし、朝鮮半島で有事が起これば・・・
社民党は政権離脱したのか・・・。う~ん、福島党首の道理は分からなくはないが・・・。だが、もし、いったん朝鮮半島で紛争が起これば、実際に現実的な米軍の抑止力の有る無しは別にして、米軍基地を高く評価する論調が占めるだろう。そうなれば、本土の日本国民は沖縄の米軍基地を是と考えることになるかもしれない。

2.社民党には沖縄という踏み絵が出来てしまった・・・
また、社民党は今回の件で沖縄の踏み絵が出来てしまったために、今後、連立政権に組み入れられる可能性が極めて低くなる。自民党はもとより民主党とも連立政権を組めなくなる。つまり、今後、半永久的に政権に関わることがなくなるかもしれない。社民党は再び消滅の危機に見舞われることになるのではないだろうか?

3.沖縄県民の思い
また、沖縄県民は社民党の政権離脱をどう考えるだろうか?もはや民主党には頼れないし、自民党は論外だ。琉球王国の頃のように独立でもするしかないが、基地があるのに独立できるはずもない。社民党に頼っても政権を担当できないのなら意味はない。そうなると沖縄に希望はなくなる・・・。沖縄県民は社民党の政権離脱を望んだのだろうか?

4.名と実
確かに社民党にとって政権離脱はリスクが高いとはいえ、党是の政策で沖縄を守れないのであれば、「何のための政党か?!」ということになり、「政権離脱も止むなし!」という考えとも言える。だが、連立政権内から沖縄の政策に口出しするのと、野党の立場から口出しするのでは重みが違う。閣僚を辞任して連立政権にとどまって政策に社民党の意見を反映するという、名より実もあったのではないか?

5.今後の社民党
沖縄の件で社民党がどんなに人気を得たとしても、今後、社民党が全国的に激増することはありえないだろう。むしろ、政権離脱は万年野党の無力さに逆戻りするものであり、支持者からの失望を買うのではないだろうか?もし、社民党が政権担当能力のない、単なる不平分子の吸収剤という役割なら、それも良いだろうが・・・。もともと社民党は政権に大した期待はなかったのかもしれない。元々、少数野党であり、数は僅かだが堅実な支持者によって支えられていた。再び、万年野党として、実に非力だが、その役割を果たすことで少数の支持者の満足を得るのかもしれない。そのことによって少数だが存続できるのかもしれない。だが、政権を取れる可能性のない政党に投票する国民は少ない。

2010年5月29日土曜日

日本の財政危機

1.日本の財政危機
朝からあまり良い話ではないが、そう遠くない未来に日本は未曾有の経済危機に見舞われる可能性が出てきたと思う。ギリシャの財政危機は他人事ではない。いや、ギリシャ以上の危機に日本は陥る可能性があると思う。そうなれば、日本は否応なしに大きく変わることになる・・・。何がトリガーになるかは分からない。日本が自らそのトリガーを引くことはないだろう。いつものように黒船来航よろしく、米国か中国による外圧がトリガーとなると思う。日本が経済危機を向かえたときに取りうる政策は、大規模な増税とハイパーインフレが考えられる。

2.増税とインフレ、そして、国家予算の縮小
例えば、消費税は現在の5%から15%~20%になるだろう。物価も2倍くらいになるのではないか。例えば、7万円のノートパソコンは14万円になるだろう。インフレになれば給与も上がるだろうが、物価に見合った上昇になるかは分からない。いずれにしろ、日本人の消費マインドは完全に変わる。金融資産が目減りする。土地などは逆にインフレで利益を生むだろう。資産は海外に分散しておくのが良いかもしれない。ただ、アルゼンチンで銀行が凍結されたように、海外に資産を退避させても安全というわけにはならないが・・・。国家予算も大きく縮小されるだろう。現在の歳出80兆円が歳入に見合った数値になるだろう。おそらく、半分以下(30兆円台)に縮小されるだろう。

3.危機対策
さて、このような危機に対して、どういった対策が可能だろうか?資金があれば、インフレに対処する方法で土地などの固定資産に変えておくの良いかもしれない。ただし、当然、リスクはある。資金がない場合は、どうするか?なかなか難しい・・・。

4.日本が様変わりする
日本人の生活やマインドは大きく様変わりするだろう。貧富の差が拡大するどころか、多くの貧困層が生まれるだろうし、現在の貧困層はますます生存が困難になるだろう。消費マインドは完全に冷え込むだろうし、多くは生活費で手一杯になるだろう。政治や税金に関心や不満が高まるかもしれない。ネットの世界も様変わりするかもしれない。ライブドアが韓国企業に買収されたように、現在、無料で提供されているブログなどの日本のIT企業がそのまま存続できるかは分からない。日本のIT企業は倒れ、外資系だけが残るかもしれないし、日本は魅力のない市場となって日本から撤退するかもしれない。そうなれば、音楽や映画や文学などのエンターテイメントなどの娯楽産業は縮小すると思う。アートも同様だろう。また、ネットを活用してできるだけお金をかけずにコンテンツを入手する人が増えるだろう。若者などはそうするだろう。ともかく、貧しい国で娯楽産業が大きくならないのと同じ状況だと思う。これまでの日本は経済大国という自負があったが、今度は逆に20年も経済低迷を放置し続けた無能な日本として、負け組的な惨めさを日本のイメージとして持つことになるかもしれない。かつて90年代にロシアが経済危機に陥って大変なモラルハザードを起こしたが、日本もそうなる可能性を否定できない。

2010年5月25日火曜日

哨戒艦沈没事件について

1.本当に北朝鮮の仕業だろうか?
例の韓国哨戒艦沈没事件だが、私は必ずしも北朝鮮によるものだとは思っていない。なぜなら、合理的な理由がないからだ。確かに突発的なもので北朝鮮の仕業によるものなのかもしれない。だが、どうも自分でも納得できない。なぜかというと周囲の対応が何か変だ。

2.米国の世界戦略
米国の世界戦略の優先順位でいえば、先のイラク戦争に続いて標的となるのはイランだ。イスラエルを支援する強い影響力を持つユダヤ人が米国に多いからだ。イスラエルがイランから核攻撃を受ける脅威を取り除くために、米国は次の標的としてイランを視野に入れていると思う。だが、もう一方で北朝鮮も標的として考えている。いわゆるブッシュの言った悪の枢軸だ。だが、米国の本当の狙いは北朝鮮ではなく中国だと思う。北朝鮮はその前段階だと思う。また、中国を標的とする大義名分は中国の民主化だ。中国をいくつかに分割するのが狙いではないだろうか。北朝鮮と韓国の間で戦争を起こすことになるのではないか。そのとき同盟軍として米国と日本が参戦するのではないだろうか。中国は最後まで戦争に反対するだろう。朝鮮戦争が起これば、日本も北朝鮮からのミサイル攻撃の対象になるだろう。米国から兵器のオファーがあるかもしれない。TMDなどだ。グーグルマップから北朝鮮の地図が消えて久しい。また、中国も地図情報を政府が取り締まり始めた。地理情報は戦争で極めて重要だ。ちなみに日本は毛利さんが米国に強力したおかげでミサイルでピンポイント攻撃できるだろう。

3.北朝鮮の背景
北朝鮮は武器の輸出の多い国だ。実際は中国の武器を売っている。中国が直接販売するわけに行かなかったので、汚れ役の北朝鮮が売っていたのだ。だが、昨今は中国の武器輸出が目覚ましい。世界の工場になって武器の製造にも拍車がかかったのかもしれない。

4.オバマ政権の後が・・・
オバマ大統領は有権者の期待に応えてイラクから米軍を撤退させる公約だった。だが、その一方でアフガンは増派している。軍需企業には場所は変われど売上は変わらずというわけだ。オバマが米国に新たな医療制度を導入した点は高く評価できるが、軍事には妥協も多い。確かにオバマは核兵器削減に尽力してはいる。だが、それはイランへの核拡散を防ぐ意味合い、イランへの牽制という意味合いもある。それは米国の利害に一致しているから核兵器削減に動いているとも見れる。ノーベル平和賞を受賞したオバマが確固たる理由も無しに戦争を起こすことはまずないと思う。だが、オバマの次の政権は分からない。おそらく、共和党が政権を取るだろうから、どこかで戦争を起こす可能性が高い。そのとき、その標的となるのが、イランか北朝鮮のどちらかになるのではないか。ただし、イランに十分な核兵器があると分かれば、米国もそう簡単に戦争できないのではないだろうか。イスラエルが核攻撃の標的となることを恐れるからだ。いくら迎撃の精度が上がったとしても、やはり、完璧というわけにはいかないだろう。それに核攻撃の手段はいろいろあるだろう。そうなると北朝鮮を先に標的にする可能性もある。先のイラク戦争ではラムズフェルドの高速な進撃によって極めて早くバグダットを陥落させた。その代償にイラク軍も温存されて各地での戦闘が残ることになった。今度、北朝鮮で戦争が起こったとき、米軍が試したいと思っているのは戦術核だろう。

5.東アジアの位置
東アジアは極東地域という世界の最果てにある。世界の中心を米国や欧州とすれば、日本は辺境だ。核のゴミ捨て場にするには最適の位置にある。六ケ所村がその例だ。広島・長崎に核攻撃したのもそういった立地条件もあったと思う。そして、北朝鮮に対して実戦で戦術核の威力を試したいはずだと思う。ただし、戦後のこともあるから戦術核は使わないかもしれない。おそらく、朝鮮半島は統一するのが国際世論が一致するところになるだろう。だが、それに対して中国は介入したがるだろう。中国に介入させないためにも、米国は韓国に北朝鮮を落とさせたいはず。当然、中国軍の介入を許さないだろう。北朝鮮を落とすことで中国を包囲することになる。まあ、国際分業の時代だから、あまり意味はないのだが、軍人の戦略的観点では地理的優位を重視するだろう。ところで、かつての朝鮮戦争で日本は朝鮮特需となったが、今度の朝鮮戦争ではむしろ逆で戦費が国家財政を圧迫する可能性が高い。少し書いたがミサイル防衛のために、役にも立たない戦域ミサイル防衛や迎撃ミサイルを物量作戦で日本海側に並べるかもしれない。いずれにしろ、莫大なコストがかかっても利益は生まないだろう。下手をすれば、財政破綻の引き金になるかもしれないのではないだろうか?それに対テロのために厳戒態勢を強いられることになるかもしれない。原発など各要衝を厳重にテロから守る警備が必要になるかもしれない。また、様々なサイバー攻撃もありえる。

6.中国はグーグルに勝てるか?
話は違うが、グーグルのデータセンターは地球で最も巨大なコンピュータになっているのではないだろうか。これを凌ぐコンピュータシステムを持っている国はないのではないだろうか。もはや一企業ではグーグルに太刀打ちできないのではないだろうか?もしも、将来的にグーグルに対抗できる存在があるとしたら、中国ではないだろうか?中国が国家プロジェクトとして総力を上げて、グーグルを凌ぐデータセンターを作ることでしかグーグルを凌ぐシステムを作る所はないのではないだろうか?そしてグーグルと中国の間でサイバー戦争が起こるかもしれない。例えば、先のキム・ヨナの件で、2ちゃんが韓国からサイバー攻撃を受けて、あえなくダウンした。だが、中国が経済成長して、先の韓国のように日本のサイトを中国が狙えば、その規模の巨大さからいって簡単に日本のサーバはダウンするのではないだろうか。極端な話、中国のサイバー攻撃によって、日本の各主要コンピュタがダウンして、都市機能までもがダウンするかもしれない。もっとも、日本企業が中国の傘下に置かれて、国内から攻撃を受ける内部撹乱によってダウンさせられるかもしれない。(金融システムにおいてシステムのロバスト性は信用問題だ。)

7.日本経済の衰退
話は違うが、日本という市場は旨みがなくなりつつあるのかもしれない。楽天が社内公用語を英語にしたり、ユニクロの社員が外国人が多いのは、結局、グローバルな時代において世界の中で競争して勝てる企業ということなのかもしれない。結局、日本は製造業にも知識産業にも参入できず、停滞したままだ。消費税も15%以上という話が出始めている。そうなれば、世間の雰囲気は大きく変わるだろう。税金の無駄遣いや政治に国民はもっと真剣になるかもしれない。また、もっと窮屈になるだろう。なぜなら、無駄をしなくなるからだ。今でさえ起業が少ないのがもっと萎縮するだろう。それが日本の国民性だ。日本ではシリコンバレーは生まれなかった。日本からはグーグルやアップルは生まれない。日本が知識産業に乗れなかったのも、そういう日本の土壌に原因がある。日本では無理なのだろう。いや、むしろ、世界でも希で米国だけが可能なのだろう。米国を悪く言っても、その米国に勝てないのだ。

8.文明社会の歪み
だが、米国とて良いことばかりではない。産業構造が製造業からサービス業にシフトしたために歪みが生じている。不法移民に対する強い取締など変なことが起こっている。囚人を作り出して、それに群がるサービス業だ。華やかなIT等の高度サービス産業の陰で下位のサービス業では変な事が起こっている。

9.北朝鮮での戦争の可能性
とにかく、数年後に対北朝鮮で戦争が起こることを想定して、いろいろと準備しておいた方がいいかもしれない。私は年齢的には戦争に行くことはまずないが、戦争民間会社とやらで戦地に必ずしも行かないとは限らないだろう。だが、戦術核は無くても劣化ウラン弾でガンや異常児が増えるだろうな・・・

10.民主的な議会のない中国
日本政府と比べると中国政府は米国と互角に渡り合っていると思います。中国は民主的な議会がなく、独裁体制ですから、意思決定力は頑強です。民主主義国は、大統領制であっても、どうしても良くも悪くも議会に左右されますからね。

2010年5月23日日曜日

普天間問題その3

憎むべきは米国ではないでしょうか?世論は5月末決着ではなく先送りに傾いていたけど、鳩山首相は5月末決着にこだわった。おそらく、米国と約束していたのではないか。なぜなら、日米合意のテンポが早い。問題はなぜ米国に主導権を握られるのか。弱みでもあるのか?

問題点を日本政府に押しつけるのでは、今までと同じ。問題点をオープンにすべきでは?すなわち、「なぜ、日本はこうも米国の言いなりにならないといけないのか?」庶民感覚で言えば(笑)、「米国の責任者、出てこい!」と言いたくなる。まあ、米国としては日本国内のことは政府と国民でやるのが筋だが。

まあ、結局、日米安保に行き着くのだろうけど・・・。ただ、どうも、日本がこうも簡単に米国の言いなりになるのは何か強力な弱味を握られているのだろうかと思いたくなる。ただし、陰謀論的な不明確な憶測で済ませるのではなく、明確な理由としてはっきりとオープンにすべきではないかと思う。

米国は良い面もあれば悪い面もある。学ぶべき面もあるし、逆に軽蔑すべき面もある。一概にどちらか一方だとは言えない。だが、基地の件については、米国はあまりに傲慢に過ぎる。米国にとって、日本の米軍基地はアジアの戦略拠点という位置づけであって、真の意味で日本を守るというものではない。

最近の東アジア情勢はどうもキナ臭い。米国がオバマ政権の間は東アジアでの紛争はないだろうが、その後の米政権(おそらく共和党政権になると思うが)では、東アジアで紛争が起こるかもしれない。今はその下準備中という感じがしないでもない。米ソ冷戦のように、今度は米中冷戦の代理戦争があるかも。

米国のやり方も強引だが、それでも建前があったと思う。だが、今の中国のやり方は前近代的な大国が小国を圧迫するようなやり方ではないだろうか。中国はあちこちで小国を圧迫している。そこには建前はなく、力のゴリ押しだ。そして、中国はますます強くなっている。いつかは超大国同士が衝突するだろう

「米国と中国のどちらかを選べ」という究極の選択かもしれない(笑)。もっとも中国の巨大資本に日本は内側から支配されるかもしれないが。いずれにしろ、日本経済の復活はありえないだろう。日本は縮退して小国化すると思うが、そのとき、荒廃した国土しか残ってなければ、目も当てられない。

沖縄の基地移転もどこも喜んで受け入れるところはないだろう。米国も日本国内以外のテニアンは受け入れないだろう。もし、移転するなら、政府は候補地を3つほど上げて、国民の同意をうかがうという方法もあった。政府がどれか1つを決めれば角が立つが、候補地3つから国民に選ばせば良かった。

3つの候補地はうちに来ては困るというアピールを国民にすることになっただろう。候補地を選んだ責任は国民自身ということになる。自らは責任を負おうとしない国民や先送りにする政府はどちらもどちらではないのか?そうなれば、じゃあ、何が一番問題なのかとなれば、米国だということに気づく。

また、米国内でテニアンを奨めるロビイストはオバマ政権の足を引っ張りたい共和党支持者だろう。オバマの支配力が問われており、日本も米国に反抗したとなれば、オバマ政権はますます支持率が下がるからだ。まあ、日本がそれを利用するのは自由だが。

いずれにしろ、沖縄の米軍基地は矛先を日本政府に向けるのではなく、米国に向けるべきだろう。ただ、中国の脅威もあるが、所詮、例のガス田での敗北が象徴しているように日本は勝てない。だったら、基地はあっても無意味ゆえ、基地は要らない。なぜ、米国の世界戦略のために基地を置く必要があろうか。

先のツイート、「沖縄の米軍基地は矛先を」→「沖縄の米軍基地問題の矛先」っていう意味。

ただし、日本は本土はともかく国境付近や航行において不利を強いられることになるだろう。まあ、侵略されるってことはないけど、資源や交通が脅かされる可能性は高い。でも、それよりも中国資本によって日本企業が買い占めされて、内側から支配されることの方が問題なのではないだろうか。

ただし、それは別に中国のルール違反ではなく、自由競争の結果であって、強者が弱者を駆逐する資本主義の自然な成り行きで、何も中国を非難するには当たらないだろう。おごれる者は久しからず、というものだろう。

中国がもっと民主化すればいいのだが、中国の中央政府のやり方はそうじゃない。徐々に民度が上がればいいが、国家の中枢が「検閲を是」とするようなナショナリズムでは、いずれその歪みは国民へと伝播して、弱者へとしわ寄せが押し付けられると思う。中国が超大国になるとき、弱者になるのは日本だ。

中国との市民レベルの交流では民主化されているように感じても、いざ、国権が発動されるとき、果たしてどのくらい民主化されているかは疑問だ。果たして、自由を守るために戦えるだろうか?その辺りは欧米の市民は自由を守るための意思は強い。アジアは自ら勝ち取るという感覚が少ないのではないか?

2010年5月18日火曜日

ネオアカの経緯

ちょっと、ここで『雑誌ネオアカ』の経緯というか背景について、若干、説明させていただきます。

雑誌ネオアカはネット上での出会いがきっかけで発行されました。出会った場所は2ちゃんねるの哲学板でした。ネオアカの理念や使命についてはhttp://www.neoaca.com/abouthttp://www.neoaca.com/mission1を参照して下さい。

それで、出会った場所が哲学板であったので、自然とネオアカ初号の対象読者層は、最初から特に強く意識したわけではなく、ちょっと無意識的なんですけど、哲学板を想定したものになってしまいました。ただ、サイトを公開して3週間くらい経過しましたが、哲学板でのネオアカに対する反応はほぼ皆無に近い状態です(笑)。この点は大いに反省しなければなりませんね。何が悪かったのか?(←「全部!」という声が聞こえてきそうですが(笑))公開する前は、あまり長文は避けようと考えていました。というのも、普段でも長文のレスは嫌われるので、できるだけ短くしないと哲学板の読者は読んでくれないと考えたからです。ですので、文章をできるだけ短くしようと努力することにしました。でも、なかなかうまくできませんでした。ただ、ネオアカが読まれなかった原因はもう1つあると考えていて、それは哲学板のユーザがツイッターに移行してしまって減少したからではないかと考えています。実際、ネオアカの登場に関係なく、哲学板のレス数は極端に減少したと思います。

ところで、話は変わりますが、広い意味で、ネオアカには「知の探求」や「世界を良くしよう」という目的があります。これは、別に、ネオアカに限らず、知を研究されていている方々は、みなさん、同じだと思います。中国武術の世界に「武林是一家」という言葉があるのですが、この意味は少林拳や蟷螂拳など武術を学ぶ流派はそれぞれ違っても、「切磋琢磨して強くなろう」という目的は、皆、同じなので、たとえ流派が違っても武術家同士は、皆、家族のように仲良しだ、仲良くしようという考えです。私は知の世界も、この武林是一家と同じで、目的は「知の探求」や「世界を良くしよう」という目的は同じなのだから、知林是一家ではないですが、皆、仲良くして、互いに切磋琢磨したり、助け合ったりできるものだと考えています。とはいえ、武術の世界でも他流派との諍いは多いのも事実です。何かと言うと互いの武勇を競って「どちらが強いのか?」などと喧嘩のような試合をしたりします。そういう喧嘩は良くないと私は思います。ですが、切磋琢磨する意味で試合というのも無益ではないと思います。そういう意味での試合なら向上のために良いと思います。知の世界においても、批判というのは互いの向上に役立つものだと思います。とはいえ、批判されて学ぶことも多い一方で、人間は感情を持っていますから、不愉快なことも多いと思います。武術では、「礼に始まり、礼に終わる」ようにして、試合に遺恨を残さないようにします。試合中は一生懸命戦うけれど、試合が終わったらオフサイドの精神で互いに向上に努める学友同士といったところです。ですから、批判において手抜きするのは試合で手抜きするようなもので相手に失礼かもしれません。しかし、いったん、試合が終わったら、試合のことは、全部、水に流して、互いの健闘を称えるものだと思っています。ここで、最初の2ちゃんねる哲学板の話に戻りますが、本来なら、ネオアカの記事で批評さえていただいた方々に礼を言うのが礼儀だと考えていたのです。

ですが、2ちゃんのユーザを対象読者層に想定してしまったために、感謝の言葉を早々に言ってしまうと、プロレス的というか、祭的というか、そういう盛り上がりに欠けてしまうのではないかと愚考してしまいました。そういう理由もあって、実は最初に、批評させていただいた方への感謝の言葉を挿入する予定だったものを編集の段階でいったん削ることにしました。そこで、ここで改めて、お礼を申し上げさせていただきます。東浩紀さん、斉藤環さん、宮台真司さん、酒井泰斗さん、本当にありがとうございました!!!

それから、私の書いたレビューで引用させていただいたiwatamさんは、私が勝手に引用させていただいただけですので、特に私どもと関係あるわけではありません。iwatamさんのサイトで公開されてい文書がフリーでしたので引用させていただいた経緯もあります。一応、iwatamさんには引用させていただく件に関してはご本人に連絡させていただきました。iwatamさんからはフリーなので自由に使っていい旨のお話をいただいています。ただ、私の解釈が間違っているかもしれませんので、iwatamさんのサイトを合わせて読まれることをお奨めします。

iwatamさんのサイト『ネット世代の心の闇を探る』
http://iwatam-server.sakura.ne.jp/kokoro/index.html

iwatamさんを引用した記事レビュー『神話が考える』
http://www.neoaca.com/review

以上、とりあえず、思いつくままに書いてみました。ちょっと長くなってしまって申し訳ありませんでした。