2013年4月11日木曜日

雑感 アベノミクスから人文の衰退まで

世間はアベノミクスで騒いでいるけど、あまり感心しない。なぜなら、実体経済が伴っていないからだ。円安になったからといって景気が回復すると本気で考えているのだろうか?安い人件費の新興国の製品と高い人件費の日本の製品が円安くらいで逆転できるだろうか?しかし、株価など期待で上がっている。一方で原材料費のコストも上がっている・・・。

日本経済についての私の見方はNEOACA創刊号で述べたときと変わっていない。むしろ、その後の展開がどうなるかがそろそろ見えてきたのではないかと思う。まず、これまでの流れだが、中国などの新興国に日本の製造業が奪われて経済大国日本が低迷するというのが私の見立てだ。その後はITや金融などの知識産業に移行することで多少の生き残りを図るというのが今後の流れだと思う。ここで「多少の生き残り」と言ったのは、知識産業では勝ち組は少数で負け組は多数になるからだ。つまり、多くの人たちは負け組に入ってしまうだろう。だから、知識産業に移行することは「みんながハッピーになれる最良の選択肢」ではなくて、少なくとも「少人数だけは先進国の高い富を手中に入れられる精鋭になれる」という最低限の選択肢でしかないからだ。

さて、そういった移行は徐々に始まっていると思う。その変化はあまり気付かれないかもしれない。なぜなら、少数の勝ち組しかポツポツと生まれ出ないから目に見えてはっきりと移行したとは感じられないからだ。しかし、ほんの少しずつそういった変化は生じていると思う。その一方で負け組も増え続けていると思う。企業の業績不振から正社員など高賃金労働者は減少するだろうし、財政難から増税か物価高で実質賃金の低下が生じると思う。そういう流れが既に始まっているのではないか。

ここで、今後の人文について考えてみる。

日本の人文は近代が支えてきたところがある。どういうことか?近代以前、つまり、近世までは人文は無きに等しかった。あるにはあったが、体系化されたもの、アカデミズムとして階層化されたものは無かったのではないか。それが近代に入って脱亜入欧、西洋に学べということで西洋の知識がどんどんと取り入れられるようになった。ある意味、輸入だった。今もなおその傾向は続いている。しかし、そういった世界のアカデミズムに日本の人文が知的貢献をしたかというと甚だ疑問である。輸入する一方で新たな知の一角を世界のアカデミズムに築くということは無かったように感じる。

今、日本経済が下降に向かっている中で人文の輸入というのがどうなるかと考えた場合、おそらく、経済の低迷に比例して輸入も低迷してゆくと思う。ただ、世界の人文知自体の生産性が低迷しているので、輸入の減少はそれほど目立たないかもしれない。ところで、日本は昔から実用にはカネを払っても、非実用的な学問にはカネを払わなかった。日本で非実用的な学問が発達しなかった歴史がそれを物語っている。経済が低迷すれば、脱亜入欧のために近代から続いていた惰性的な投資も減らざるを得なくなると思う。つまり、人文アカデミズムの衰退が今後ますます進行すると思う。

さて、話を戻そう。日本経済は衰退する。それが徐々にか急にかは分からない。そのスピード感は人それぞれの立場によって変わると思う。影響を受けやすい人は急に感じるし、影響を受けにくい人は徐々に変わると感じるだろうからだ。しかし、着実に日本経済はかつて貿易立国だった頃と比べて衰退し続けるだろう。経済格差について自由について多くの日本人に苦い思いを突きつけるかもしれない。とはいえ、その不満を政府に向かわせることをしないと思う。今のところ、多くの日本人は不公平感を持っていないように思うからだ。ただ、世代が進めば、生まれながらの経済格差に対して不公平感を抱くようになる可能性はある。だが、現時点では、まだそれはないと思う。

確かに資本主義は完璧ではない。修正すべき箇所はこれからも多々あるだろう。しかし、現時点で資本主義そのものをダメなものとして否定するのは無理があるのではないか?グローバル経済を真っ向から否定する人もいる。しかし、その代替案は果たして合理的に機能する仕組みだろうか?むしろ、否定ではなく、修正が大事ではないだろうか?

ところで、社会システムの補強も要は選択肢を増やすということになるのではないか?確かにただ選択肢を増やせば複雑になる。しかし、それによって個人の自由が保証される。「自分は自分、人は人」だ。もしくは、他人も自分と同じでなければならないというなら同じコミュニティを形成するかだ。

失われた10年、いや、失われた20年ということになるのだろうか?そのように言われてきたけれど、それらの響きには「強さを取り戻す日本経済」、「復活する日本経済」が暗にほのめかされている。しかし、実際はそうではないだろう。もはや復活することはあるまい。歴史を振り返れば、世界の工場は、はじめ英国だった。その次は米国だった。そして、日本に移り、今は中国が世界の工場となった。東西冷戦下では日本が世界の工場になり得たが、東西冷戦が終わって市場が世界規模になったとき、つまり、グローバリゼーションが始まったとき、世界の工場は日本から中国へ移った。大きな流れで言えば、そのような経済潮流になるのではないだろうか。バブル経済とかインターネットの普及という他の要素もあるが、大きな流れとしてはやはりグローバリゼーションだと思う。

とりとめのない話を長々と書いてきたが、これは前振りで(笑)、言いたいことはこの先にある。私が若者だった頃に求めていたモノと今の若者たちが求めるであろうモノは違う。今の若者たちが求めるのは生き残りのための知恵だろう。端的に言えば、それはライフハックだろう。あるいは経営者養成セミナー的な自己啓発だろう。象徴的に言えば、イケダハヤトや勝間和代だろう。別にそれは悪いことではない。そういう目的を持つのは自由だし、そういう生き方もいい。

一方、人文知の生き残りは社会学として社会にコミットしているけれど、それが今の若者の求めている知恵と結びつくかどうかは微妙だと思う。私などは知的好奇心から知への探求があったけど、今の若者が求めているのは生き残る知恵であって、それ以外の知識は不要な余分でしかない。元に知への探究心がない限り、それら不要な余分が実を結ぶことはないと思う。探究心がない限り、消えてゆく雑学として霧散霧消してゆくと思う。結局、若者は効率良く知識を得るために余計が含まれる人文とかに目もくれることなく、最初からライフハックに飛びつくようになると思う。

人文アカデミズムの衰退と若者の人文知への無関心。そうなると人文知はごく少数の趣味人のものになるのではないか。そして、知が更新されることもなくなり、また参入する人数も少ないならば、興味は自ずと過去の蓄積の参照、掘り起こしに向うのではないか。すなわち、歴史である。

もちろん、そうではなくて、現代とコミットして社会と関わってゆく手もある。ただ、それは社会システムの改善や修正であって、革命ではないと思う。それをあたかも革命のように言うのは詐欺ではないかと思う。ほんの少しの修正であっても、その有意義さを説明する方が良いのではないか。

とりとめもなく長々と書いてきたが、私が興味があるのは修正ではなく、歴史の方だ。

ニューアカの頃のような現代思想のムーブメントはもはや起こらないだろう。また、東西冷戦も終わり、社会システムに対する懸念も一応ケリがついたと思う。日本における人文知は趣味として歴史の中にその楽しみを見出すのではないかと、やや寂しい結論ではあるが冷静になって考えれば、そう思う。

・・・病み上がりの午後に想う