2023年1月3日火曜日

22年の振り返りと23年に向けて


1.2022年の振り返り

2022年を振り返るとウクライナ侵攻と安倍元首相暗殺が大きなトピックだった。

ウクライナ侵攻に関してはロシアが早々とウクライナの東半分を占領するかと思ったがそうはならなかった。仮に占領できてもウクライナ国民の抵抗で統治が難しく泥沼化してしまうとは思っていた。ところが欧米の支援で占領すらままならなかった。それどころか現時点ではウクライナがロシアを押し返しつつある。したがって、どこに落ち着くかまったく予測できない。ウクライナは欧米の支援が無ければ戦いを継続することは難しいだろうし、ロシアもいつまでも消耗戦を続けることは不可能だろう。どこかで調停しなければならない。しかし、クリミアやロシア系とウクライナ系の住民が混在している地域ではどちらに転んでも、戦後に混乱や悲劇が生じるだろう。結局、国家に振り回されるのは人々だ。

安倍元首相暗殺に関しては、岸田政権の影の実力者であった安倍元首相がいなくなったことで権力の空白ができた。清和会は後継者を決められなかったし、統一教会問題でそれどころではなかった。宏池会の岸田首相としては、中心に空白のできた最大派閥の清和会とのバランスを取りながらの政権運営になる。安倍元首相が存命中のときの岸田首相は安倍の操り人形だったが、いなくなった今となっては、清和会の合意を取りつけながら自身の政策を織り交ぜつつの政権運営になっていく。清和会としても統一教会問題で疵がついてしまったのでおいそれと選挙で決着をつけるというわけにもいかないし、当面は選挙は無いので時間をかけて失地回復をはかればいいという腹積もりもあるだろう。したがって、岸田も清和会もお互いの顔色をうかがいつつ、お互いの顔を睨みつつ、腹をさぐるような政治になっていくだろう。ただし、岸田や清和会の政治家だけに限らず、今の政治家全般に言えることだが、国の舵取りや国家戦略を本気で考えている者はいない。彼らは権力の座にしがみつき、そこから自身にとっての旨味を引き出すことだけを考えている。防衛費倍増が良い例だ。予算が倍増すれば、それだけ政治家の旨味が増えると考えている。本気で国防のことも考えていなければ、負担する国民のことも考えていない。

さて次に、日本経済に関しては、日本の産業で半導体と家電が没落して自動車しか残っていなかったのが、電気自動車の出現によってついに自動車までダメになってしまうというのが見えてきた年だった。資源の無い国・日本は一体どうなってしまうのだろう。こままでは、とても貧しい国になってしまう。

日本の政治については、私はリベラル派であるので、リベラルの立場で言えば、日本政治がリベラルになることは無さそうだ。私は2021年10月末日の衆院選でリベラルが敗北したことですでに諦めた。与党の数多く失策がありながら、それでもリベラルは勝てなかった。本来なら保守の失策でリベラルは何もしなくても勝って良い選挙だ。ところが、有権者はそうではない選択をした。結局、日本ではリベラルは受け入れられないのだ。そして、2022年は立憲民主党は実質的には保守化していったし、維新が伸びたり、参政党なる保守政党がでてきたりした。自民党がダメだと思った有権者は別の保守政党を望んでいるのだ。結局、日本はほとんどの有権者が保守なのだ。2年前の記事でも書いたが、日本はリベラル派が少数派なのだ。

ところで、半導体が少し変わった動きを見せ始めている。米中対立がもとで、欧米が半導体製造を西側諸国で行おうという動きがある。これは日本にとっては運が良いことかもしれない。ただし、米国としてはかつてのCPUがそうだったようにハイテク部門は外には出さないだろうとは思う。

個人的に記憶に残っているのは、日本の障害者施策に対して国連障害者権利委員会の審査に基づいて国連から出された改善勧告だ。大きなポイントは3つで、障がい者を分離する支援学校を止めてインクルーシブな教育にせよということと、精神障害者の入院が多過ぎるということ、それと障害者権利条約の日本語訳がおかしいということだった。日本語訳がおかしいというのは、極端に言えば、日本の障害者福祉に対する考え方がおかしい、間違っているのではないかということだとも言えると思う。私はこのニュースからダイバーシティとインクルージョンの2つが日本には改めて必要だと感じた。そして、それこそが日本社会が変われるキッカケがあると思えた。


2.2023年に向けて

(1)日本の問題点

日本の構造的な問題については、以前の記事で書いた通りで今も変わっていないが、再度、記しておくと、日本の家族が子供中心の家族形態になっていること、日本の経済制度が既得権益層が有利になるように作られていること(そのため古い産業が延命して新しい産業が育たず産業構造の転換ができない)、中央集権で地方分権になっておらずまた地方分権を補完するネットワークも未発達でムダが多いこと、公文書など記録を残さないことの4つだ。これら日本の問題は今も変わっていない。

さて、どうすればこれらの日本の問題は解決・改善されるのだろう?

(2)家族支援、労動者支援、性教育、市民教育

私が昨年読んだ本で感銘を受けたものにネウボラに関する本があった。ネウボラとは子育てを支援するシステムでワンストップ窓口がありながらバックには様々な専門家が控えていて利用者の問題によってそれぞれ支援するというものだ。支援対象は基本は子育てに関するものだが家族の人間関係など家族生活全般に広げられると思う。ヒトを家族人という立場で捉えて、その家族に問題があればそれをネウボラが様々な専門家を混じえて解決していくというものだ。日本では家族のことはその家族に任せるという習慣があると思う。他人が口出しすべきではないというようなものだ。それは閉じたコミュニティになってしまい、必ずしも幸福なコミュニティになるとは限らない。そこで不満や悩みがある家族人に外部組織であるネウボラが専門知識を活かして支援するのだ。それによって家族生活の満足度を向上させることができると思う。

同じようなことを労働者に対してもできないだろうか?これまで日本は社員の教育・育成を社内で行ってきたし、不安や悩みなど総務部や労組などが担ってきたと思う。日本は社員を労組も含めた会社が丸抱えする仕組みだった。日本は社会主義ならぬ会社主義だった。しかし、今や時代は変わった。正規と非正規で労働者は分断されている。労働者を人的資源と捉えた場合、これまでのように人材の管理を会社に丸投げしていたのでは十分に労働者の潜在能力を引き出せないと思う。さらに制度が複雑だし立場によって制度もいろいろと違ってくる。そして何より閉じたコミュニティである会社は不条理を労働者に強いている場合がある。しかも悪いことにその不条理に所属する労働者がその不条理に過剰適応したりするのだ。日本人の特徴である所属する組織に対する忠誠だ。いや、忠誠というより損得勘定からくる偏狭な利己主義に過ぎない。そういった悪しき習慣を変えるためにも外部とのパイプを持つべきだと思う。ヒトを労働人と捉えて労働人をサポートするネウボラのようなワンストップ窓口を作るのだ。定期的にカウンセリングして、スキルアップやキャリアアップしたいのであればそれを紹介し、労働条件に不満があれば外部の労組や行政に紹介したりするなど、労働人の育成や悩みなど対処できるワンストップ窓口を作るのだ。そうすれば労働者の質も満足度も向上していくと思う。それはひいては日本の産業力の向上につながる。

以上、述べたことは、家族支援、労動者支援という言葉に集約できると思う。ヒトを家族人あるいは労働人と捉えて、外部組織がそれをサポートするのだ。子育て期間だけでなく、生涯そういうサポートを受けてもいいとさえ思う。

さて、その他にも、性教育やシチズンシップ教育を用意すべきだと思う。性教育に関しては家族支援の子どもができる前の支援として位置づけてもいいかもしれない。シチズンシップ教育についてはその地域社会に詳しい人たちに委ねるべきかもしれないが、学校で先生が行ってもいいかもしれない。日本にジャーナリズムを教える専門学部があれば、そこの先生に教えてもらうのが現状の課題なども聞けていいかもしれない。

ところで、日本の学校教育ももっと多様化していいと思う。以前、聞いた話では、デンマークでは、クラス制もあれば、もっと少ない少人数制(10人未満だろうか?)もあり、さらに個人の場合もあるという。そして、そこに障がい者も加えて普段から社会には多様な人たちがいることを知るべきだと思う。そして、組織は閉じるべきではなくて、外部から人を招いて外部からの教育も取り入れていくべきだと思う。日本人は兎角閉じた中で完成度を高めてゆく。しかし、実際は完成度を高めたのではなくて過剰適応しただけに過ぎない。現実は純粋培養が可能な閉じたシャーレではなく、多様で複雑で様々な生き物が往来するジャングルのようなものだ。現実に対応できる人材に育てるためにも学校は開かれた組織であるべきだと思う。

ここまでをまとめると、家族支援、労動者支援、性教育、市民教育がこれからの日本には必要だと思う。

(3)日本と世界について

日本の政治に関しては、リベラル派としては多数派になる可能性が低いと思っている。それでも日本の政治にリベラルが影響を及ぼすためにはどうすればいいかだが、これまた外部の通路を開けておくということになると思う。世界ではリベラルはネットワークを広げつつあると思う。その水流を日本に導き入れることだと思う。言ってしまえば、出羽守になればいいと思う。「欧米では〇〇だ」という風に。日本人は黒船に弱い。同じことを日本人と外国人が言った場合、日本人は日本人の言うことを意固地なまで撥ねつけるだろう。ところが、外国人が言ったなら黙って聞いたりする。そして、大勢が変わったら、ガラッと180度転換したりする。日本人は物事を本質で論理的に捉えるのではなく、空気で捉えて意思決定する。リベラル派の日本人が保守派の日本人に何を言ってもムダである場合が多い。だから、馬鹿にされようと出羽守で囁いてやればいいと思う。まあ、それでもムダである場合が多いだろう。

イメージだが、世界はツリーのような階層的なヒエラルキーとそれを横断するネットワークで構成されるようになる。横断するネットワークはリベラルなものもあれば、そうでないものもある。リベラルなネットワークが今より張り巡らされることによって包括的になって世界は多様性を享受できるようになるように思う。逆に全体主義を補完するようなネットワークが張り巡らされれば世界は多様性を失い、息苦しいものになっていくと思う。そして、その結果、収奪的になって社会は活力を失っていくだろう。米国や中国、EUやその他の世界各国がそういった分岐点にさしかかっている。かつては連合国と枢軸国の戦いだったり、その次は資本主義と社会主義の戦いだったりした。今度はツリーとネットワークのバランスの戦いになる。ツリーとネットワークのどちらかが勝つということではなくて、ツリーとネットワークの組み合わせやバランスが人々にどれだけ活力を与えられるかという戦いになる。